2023年3月 7日 (火)

六波羅蜜寺、等持院

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京都旅の初日、妙満寺~岩倉具視幽棲旧宅とめぐった後、ホテルへのチェックインには少し早かったので、まだ拝観時間に間に合いそうだった六波羅蜜寺に寄ってみました。

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醍醐天皇の第2皇子だった空也上人が開創、源平の時代には平家の邸宅や鎌倉幕府の六波羅探題も置かれました。

念仏を唱える口から6体の阿弥陀が現れたという姿の空也上人立像や、経巻を手にした平清盛坐像、運慶や湛慶の坐像なども拝観させていただきました。

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また2日目には、大徳寺から妙心寺への移動途中に等持院にも立ち寄りました。

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室町幕府将軍、足利氏の菩提寺でもある等持院。
霊光殿では尊氏の念持仏だった利運地蔵尊歴代足利将軍の木像、そして明治の廃仏毀釈後に石清水八幡宮から移された徳川家康の木像も拝観いたしました。
等持院の足利将軍木像といえばやはり、幕末に起きた足利三代木像梟首事件が有名ですね。

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等持院の庭園。
写真右手前方向には、尊氏の墓と伝わる宝篋印塔もあってお参りしたのですが・・・どういう訳か撮影し忘れたようです。

今回の1泊2日の京都旅は、余った時間も臨機応変にきっちりと追加拝観などへまわして使い切ることができ、とても充実した濃い内容なりました。

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2023年3月 6日 (月)

大徳寺、妙心寺の特別拝観(第57回 京の冬の旅)

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「京の冬の旅」で初公開されている三玄院参拝の為、大徳寺へやってきました。
案内板にある他の2院にもお参りします。

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まずは三玄院から。

石田三成や浅野幸長、森忠政らが創建した大徳寺塔頭の一つ。
枯山水の昨雲庭を愛でつつ、八方にらみの虎や、一間毎に春夏秋冬を描きわけた襖絵の数々、三成や近衛信尹らの御位牌、古田織部による八窓の茶室・篁庵(外観のみ)などを拝観させていただきました。

今を逃すと次はいつ機会を得られるかわからない、貴重な時間を過ごさせていただきました。

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続けて芳春院へ。

慶長13年(1608)、前田利家夫人の芳春院(まつ)が開創した大徳寺塔頭の一つ。
本堂に安置された芳春院の木像や、金閣・銀閣・飛雲閣と共に「京の四閣」と称される呑湖閣などを拝観しました。
呑湖閣は想像以上に存在感のある建物で、とても印象に残りました。

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そして、10年ぶりの再訪となる総見院

まずは本堂で、案内板に写真が載っている織田信長坐像、そして総見院では初公開となる信長の肖像画を拝観しました。
※総見院所蔵の肖像画は、2017年に大徳寺本坊で狩野永徳の筆による信長の肖像画を拝観した際、一緒に並べられていました。
当時の記事

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3つある茶室も見学。

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信長の木像を運んできた輿。

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加藤清正が船底石として船に積み込み、朝鮮から持ち帰ったと云う大石を囲いに用いた掘り抜き井戸。
井戸自体はもっと古くからあったようで、天正13年(1585)の大徳寺大茶会では、秀吉自らこの井戸の水で茶を点てたとも伝えられているようです。

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いまだ現役の井戸で、石組みも綺麗に積まれています。

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大石を運ぶ時にあけられたものか、鉤状の穴も確認できます。

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可憐な姿で境内を飾っていたボケの花。
ボケを漢字で書くと「木瓜」・・・なるほどね♪

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最後に織田家墓所へご挨拶して、総見院、及び大徳寺を辞します。

所変わって・・・

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こちらは妙心寺の壽聖院
石田三成が父・正継の菩提寺として創建しました。

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庭は狩野永徳の設計とも伝わります。
瓢箪池は秀吉の馬標をモチーフとしているそうですが、植木に隠れて形はよく見えませんでした。

本堂では;
石田正継肖像画(複製)
石田三成や正継、その妻女らの御位牌
朝鮮出兵先からの石田三成書状
などを拝観しましたが、中でも印象に残ったのは、細川忠興が藪内匠頭正照の子息を召し抱える際に発給した目録で、日付の下にtada/uoqui
と彫られた小さな丸い朱印が捺されていました。
妻ガラシャが敬虔なキリスト教徒だった影響では、との説明でしたが、確かにラテン系っぽいスペルではありますね。

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石田三成と一族の墓所。

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その隣には、関ヶ原合戦後も壽聖院を支援した藪内匠頭正照のお墓も。

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妙心寺では7年ぶり玉鳳院にも再訪、狩野安信による襖絵花園法皇玉座の間に据えられた徳川家康(東照大権現)の御位牌織田信長・信忠、武田信玄・勝頼・信勝・信豊らの供養塔などを拝観しました。

この日はここまで、大徳寺と妙心寺で合わせて5つの塔頭を拝観しました。
拝観料だけでも4,000円・・・さすがにお財布も厳しくなってきましたので、これにて打ち止めです(;^_^A

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2023年3月 5日 (日)

岩倉具視幽棲旧宅

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前記事で訪れた妙満寺から更に北へ、20分ほど歩いた先にある岩倉具視幽棲旧宅

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皇女和宮の降嫁、いわゆる公武一和を推進して反幕派の弾劾を受け、文久2年(1862)に朝廷を追われた岩倉具視が、元治元年(1864)に大工の居宅を購入し、復権を果たす慶応3年(1867)までの3年間を過ごした地です。

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手前の式台玄関が岩倉の住まいであった主屋のもので、奥の土間への入口は使用人の住まいとして使用された附属屋のものです。

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主屋内部。
ここで大久保利通らと、歴史を動かすことになる密談を重ねていたのですね。

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庭に見えるのは、岩倉の手植えと伝わる松。
大正ガラスの淡い歪みが、いい雰囲気を醸し出しています。

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部屋の四隅には、蚊帳を吊るしていた金具も。

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主屋から附属屋方向。
附属屋の方が元の大工居宅で、主屋は岩倉が購入した後に増築されました。

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岩倉具視遺髪碑(岩倉村瘞髪碑)

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岩倉の遺品や資料を展示、収集する目的で昭和3年に建てられた対岳文庫もサクッと見学。

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2023年3月 4日 (土)

年跨ぎ(家庭菜園2022 ⑪)

■1月8日

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最近は夜の冷え込みが一層厳しく、朝になると土の表面が凍っていたりすることもあるので、もみ殻を敷き詰めてみました。
果たして、効果のほどは如何に?


■1月14日

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スティック・セニョール。
これ以外はもう小さな側花蕾しか残っていないので、果たして収穫できるくらいまで伸びてくれるかは・・・?


■1月15日

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収穫し、乾燥させてあった黄色唐辛子を一味唐辛子に仕立てるため、種を取り除いてミルにかけます。

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黄金色の一味唐辛子。
・・・じっくりと乾燥させてあったにもかかわらず、赤い鷹の爪に比べて皮が柔らかくてしっとりしていたことが影響したのか、若干湿っているような感じで細かく仕切れませんでした。


■1月21日

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迫りくる寒波に備えて対策を施していたら、嬉しい発見が・・・
昨年夏の暑さにやられて枯れてしまった行者ニンニクに、新たな芽が伸びて葉も開き始めていました。
まだまだ先は長いですが、ここから再チャレンジです。


■1月22日

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スティック・セニョール。
今回か、あともう1回で終了となりそうです。


■2月11日

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前日に降り積もった雪に埋もれた絹さや・・・

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早速、ざっと雪を払い除けて救出。

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行者ニンニクも・・・

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この通り。


■2月19日

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まだ冷え込む夜が続くので、防寒対策に稲藁を敷き詰めました。

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行者ニンニクにも。


■3月4日

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早いもので、2023年も弥生を迎えました。
絹さやもじわじわと成長しています。

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復活した行者ニンニクは、ここ1~2週間でぐっと成功速度が早まってきています。

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昨年からの浅葱・パセリも、引き続き元気にしています。

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さて、また春からの夏野菜栽培に向けて土作りが始まりましたので、2022年度の家庭菜園の記録もここまでとしようかと思います。
また春にお会いしましょう。

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妙満寺(安珍・清姫の鐘、雪の庭)

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京都中心街の北の外れ、岩倉の地に建つ妙満寺。
こちらが所蔵する安珍・清姫の鐘を拝観するため、お邪魔しました。

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妙満寺境内案内図
左下に写真で掲載されているのが安珍・清姫の鐘です。

延長6年(928)、熊野詣への途次、一夜の宿を求めてきた僧・安珍への恋に落ちた清姫。
しかし、その想いが実ることはなく、やがて安珍に裏切られたことを知った清姫は蛇になって安珍を追い、遂には紀州道成寺の鐘の中に逃げた安珍を鐘ごと焼き殺してしまいました。
(この安珍・清姫の物語は「道成寺物」として、能楽や人形浄瑠璃、歌舞伎などの古典芸能でも扱われているようです)

正平14年(1359)、長く鐘が失われたままになっていた道成寺に新たな鐘が寄進されましたが、その直後から災厄が続くようになり、祟りを恐れた人々によってその鐘も山林深くに捨てられてしまったのだとか。

更に時代は下って天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めに従軍していた仙石権兵衛秀久がこの話を聞きつけ、打ち捨てられていた鐘を探し出し、京都へ持ち運ばせました。
鐘は中京区寺町二条にあった妙満寺に納められ、無事に供養されたと云います。

鐘は本堂に展示されています。
想像よりも小振りで、高さは・・・120㎝程もあったでしょうか。
とても綺麗に、大切に保管されていました。

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妙満寺といえば、この雪の庭でも知られています。
雪の庭は寺町二条に所在した妙満寺塔頭の一つ、成就院に造営されました。
昭和43年に妙満寺が現在地へと移転した際、石組をそのままに移設し、本坊の庭園として復元されました。

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清水寺成就院の「月の庭」、北野天満宮成就坊の「花の庭」(明治期の廃寺で消失~令和4年再興)と並び、「雪月花の三庭苑」と称されました。

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手前に写る蹲踞は、秀吉によって架けられた五条大橋の橋脚の一部を利用して作られています。

妙満寺、春になれば桜や躑躅が境内を飾るそうです。

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2022年12月31日 (土)

冬の家庭菜園(家庭菜園2022 ⑩)

■11月19日

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黄色唐辛子がだいぶ色づいてきたので・・・

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完全に黄色くなった実をまとめて収穫しました。
京みどり、万願寺トウガラシ、そして鉢植えの鷹の爪はシーズン終了なので、残った実を全て収穫し、、、

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撤去しました。
右に写っているのが、鷹の爪に使っていた鉢です。
茄子も迷ったのですが・・・

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先日の無駄な枝の剪定が功を奏したのか、また新たな実が育ちつつあるので、もう少し様子を見ることにしました。

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茎ブロッコリーも遂に・・・

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蕾をつけて膨らませはじめました。

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そして、今年は冬越しの豆(絹さや)栽培にも初挑戦します。
春にたくさん収穫できることを祈りつつ。


■11月23日

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茎ブロッコリー3株のうち、2つの頂花蕾が適度の大きさまで育ったので収穫しました。

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今後はチョロチョロと伸びてきている側花蕾を“スティック・セニョール”として育てていきます。
この先の成長が楽しみです。

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ところで、紫茎ブロッコリーの方はヒョロヒョロと背ばかり伸びて、未だに蕾をつけません。
陽当たりの悪さが影響しているのかなぁ・・・。


■11月26日

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本日は自家製の鷹の爪を使って、食べる辣油を作ってみます。

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材料(具材)は鷹の爪の他、玉ねぎ・ピーマン・ショウガ・にんにく(生&チップス)など。
これらを細かく刻み、更に煎り胡麻・砕いたピーナッツ・塩昆布を加えて胡麻油で炒め、鶏がらスープの素・塩・花椒パウダーで味を調えたら、、、

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最後に胡麻油を追加し、弱火でじっくりと・・・。

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食べる辣油の完成です。
ちょっと辛くなり過ぎたかもしれませんが、思っていた以上に鷹の爪の赤い色も出ていい感じです。


■12月8日

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旅行に出かけたりして週末不在にすることも多かったので、久しぶりの収穫です。
スティック・セニョールの収穫が始まりました。
粘り強く待っていた茄子は、これ以上大きくなりそうもなかったので最後の収穫。111~113号。
黄色唐辛子はまだ少し実が残っています。

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茄子も去り、畑Aも寂しくなってきました。


■12月17日

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スティック・セニョールの収穫、第2弾。

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畑Aの種から育ててきたチビ鷹の爪、実が赤くなるのを辛抱強く待っていましたが、さすがに寒さに耐えきれずに枯れてきたので・・・

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青唐辛子のまま実を全て収穫して撤去しました。

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収穫した青唐辛子は、いつもの唐辛子味噌に挽肉を加えた肉味噌唐辛子に。
ちょっと味見したところ、しっかり辛みが効いていました。


■12月24日

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スティック・セニョール第3弾。
黄色唐辛子は葉が全て枯れ果てていましたので、黄色く熟した実を全て収穫して撤去しました。
これらの実の乾燥が完了したら、黄色唐辛子の実のみで“黄金の一味唐辛子”を作ってみたいと思います。


■12月31日

早いもので、2022年も大晦日を迎えました。

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今年最後の収穫もスティック・セニョール(第4弾)です。

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右に並ぶスティック・セニョールはあらかた収穫を終えた(まだ少し残っていますが)のですが、左の背が高い紫スティック・セニョールは・・・

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未だ、蕾が出てくる気配すらありません。。。

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畑Bの絹さやは冬期で成長は遅いものの、元気にはしています。
春まで順調に成長してくれますように。

それでは、よいお年を。

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2022年12月21日 (水)

間宮林蔵の生家

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前記事でご紹介した守谷城の近くに間宮林蔵の生家跡があることを知り、折角なので寄ってみることにしました。

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2度に渡る樺太探検で間宮海峡を発見し、樺太が島であることを証明した間宮林蔵の生家。
15~6歳頃まで暮らしていたそうですが移築復元のため、位置は若干移動しているようです。

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併設する間宮林蔵記念館では、彼の生涯や功績を紹介しています。

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記念館から300mほど離れた専称寺。

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専称寺境内に建つ、間宮林蔵の顕彰記念碑。
その裏に・・・

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間宮林蔵(左)と、彼の両親のお墓が並びます。
すぐ裏を流れるのは、林蔵が世に出るきっかけともなった堰止め工事を行っていた小貝川です。

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専称寺のお墓は、林蔵が北方探検に出る前に自ら建立した生前墓です。
「間宮林蔵墓」と楷書で彫られた墓石の文字は、林蔵自らの手によるとも云われています。
まだ名を挙げる前だけに小さくて簡素な墓石ですが、相当な覚悟をもって北方へ赴いたことが偲ばれます。

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2022年12月20日 (火)

守谷城

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築城時期など詳細は不明ですが、鎌倉幕府草創期に活躍した御家人・千葉常胤の二男にあたる師常を始祖とする、(下総)相馬氏による築城と考えられています。
(これから見ていく各曲輪の名称は、上の想定図に拠っていきます)

今回、私が守谷城を訪れるきっかけになったのは、その遺構の評判も然ることながら、戊辰戦争に関するある史料を読み込んでいる際に次の一節が目に留まったからなのです。

(慶応4年=1868年4月)十三日快晴小金宿出立行程五里同国布施宿旅泊此近傍ニ昔シ平親王相馬将門ノ築シ古城ノ跡有リ里人内裏カ原ト唱ス草芒々トシテ外堀ハ深シ
塩谷敏郎「戊辰ノ変夢之桟奥羽日記」

筆者の塩谷敏郎は旧幕府脱走陸軍の兵士で、慶応4年4月13日は小金宿を発って布施宿まで進んだと記していますので、秋月登之助土方歳三らが率いた旧幕府軍の前軍に所属していたことがわかります。
参照記事

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守谷城大手門跡付近に建つ、平将門城址碑。
布施宿の近傍にある平将門ゆかりの古城とは即ち、この守谷城とみて間違いないかと思います。
守谷城自体は将門が築いた城という訳ではないでしょうし、内裏カ原という地名についても不明なのですが、おそらくは相馬氏の祖とされ、「新皇」を称した将門が拠点を置き、坂東独立国王城の地としたとの伝承に因んだ城址碑であり、「内裏」を冠した地名だったのでしょう。

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守谷将門詩歌碑
守谷の地で詠まれた、将門に関する詩や歌が刻まれています。

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今は駐車場やトイレが置かれている馬出曲輪の辺りから、主郭部(右)と清光曲輪の間の内海。
塩谷が記した外堀が具体的にどこを指すのかは不明ですが、どことなく彷彿とさせるものを感じませんか?

布施宿から食料などの物資調達のために守谷まで足を延ばしたのか…150年余り前の人と同じ城跡見物を共有できることに嬉しさを感じます。

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御馬家台(左)と二の曲輪間の堀切。
いきなりのこのスケール感に圧倒されました。

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御馬家台

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御馬家台の枡形虎口。
写真左から来て左に折れ、その先で右に折って馬出曲輪へと続く様子がよくわかります。

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御馬家台から、堀切越しに二の曲輪。
二の曲輪の方が一段高くなっています。

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広大な二の曲輪。
周囲には高い土塁が廻らされています。

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二の曲輪から御馬家台へと続く枡形虎口。

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虎口の先は堀切で遮断されていますので、想定図の通り、ここには橋が架けられていたのでしょう。
対岸が御馬家台です。

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二の曲輪から一の曲輪方向に伸びる土橋。

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土橋の先には一の曲輪も見えています・・・が、

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土橋を渡り切ってみて驚かされました。
土橋の先は一の曲輪との間に築かれた細長い曲輪(楯形曲輪)になっており、一の曲輪との間を更に堀切で遮断していますので、あたかも二重堀切のようになっていました。
土橋を渡る前は2本目の堀切が見えていなかったので、すっかり騙され(?)ました(笑)

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楯形曲輪(右)と一の曲輪間の堀切。
ここからは障子堀の痕跡が検出しているようです。

守谷城は永禄年間後期には後北条氏の勢力下にあり、こうした障子堀や楯形曲輪のような構造に、その手による改修のニオイを感じます。

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不自然なまでに真っ平な一の曲輪。
想定図ではここを本丸としていましたが、土塁も虎口も見当たりません。

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おまけに、一の曲輪から楯形曲輪を見ると御覧の通り。
明らかに、本丸とされる一の曲輪の方が低くなっています。

ところがこれ、よくよく案内板を読んでみると理由がわかりました。
この一の曲輪は後世の土取りの影響で、従来より地表面が6mも下がってしまっているようなのです。
土塁など、城としての造作が全く見受けられないことも、それならば納得です。

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こちらは、一の曲輪の先(横?)にある妙見曲輪。
平将門や、将門を祖とする千葉氏や相馬氏が信仰した妙見菩薩に由来があるようです。

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妙見曲輪からの眺め。

前出の塩谷の日記には、引用した箇所の「~外堀ハ深シ」に続いて;
池沼多シ故ニ鯉鮒ノ類ヒ多猟ス
とあります。
かつて城の周囲に広がっていたであろう、池や沼地を彷彿とさせるような光景でした。

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最後に南西に位置する外郭部へ移動して、大手門跡付近(守谷小学校の西端部辺り)に残る土塁らしき痕跡。
右に写っているのが、冒頭でご紹介した平将門城址碑です。

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こうした段差も、城塁の痕跡ではないかと思います。

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道路を挟んだ反対側には、茨城百景守谷城址の碑。
その脇にも・・・

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土塁跡のような痕跡が見受けられました。

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これらは上の図面で、印をつけた箇所に該当するかと思います。

冷たい風が吹き荒び、寒くて大変でしたが、想像していた以上の見事な遺構の連続で、とてもエキサイティングな城攻めになりました。

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2022年12月10日 (土)

馬伏塚城

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馬伏塚城は高天神城主・遠江小笠原氏の属城でした。
今川氏の没落後、小笠原氏は徳川氏に属します。

天正2年(1574)6月に高天神城が武田家の手に落ちると、家康は馬伏塚城を高天神城奪回の拠点として改修を加えます。
天正9年に高天神城を奪り戻し、翌10年の武田氏滅亡を経て徳川氏による遠江経営が安定すると、馬伏塚城は廃城となりました。

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馬伏塚城本丸へと向かう道すがら。
袋井市郷土資料館の方に教えていただいたのですが、こちらの農道は図面にも描かれている、馬伏塚城本丸へと続く古道(中泉道)の名残なのだそうです。

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本丸(A)に建つ城址碑。

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本丸
樹木が生い茂ってわかりづらいですが、階段の付いている高まりは土塁です。

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土塁の上に建つお社。

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土塁の奥はかなり高低差があり、堀跡のようにも見えましたが、如何せん藪がきつくて・・・(;・∀・)

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土塁上から本丸。

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馬伏塚城本丸(ほぼ)全景。
続いて、県道を挟んだ北側の曲輪跡へ向かってみます。

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B曲輪の東面。
今は宅地と化していますが、一段高くなっていて城の痕跡は充分に見て取れます。
袋井市浅名の岡山という集落の、ほぼ全域が城跡だったようです。

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B曲輪北面の土塁。

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Cのコーナー部分。
上に建つのは了教寺。

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了教寺境内から、B曲輪の土塁を見る。
間の窪んだ地形は堀跡ということになります。

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了教寺に建つ小笠原氏清と家臣・竹田重右エ門の供養塔(墓)。

小笠原氏清
氏興の名で知られ、天正2年に武田氏に降った高天神城主・小笠原氏助(信興)の父にあたります。
駿河今川氏の没落に伴って徳川氏に内応し、永禄12年(1569)、今川氏真の籠る掛川城攻めにも参陣しましたが、その年のうちに馬伏塚城で病死したと伝えられています。

みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への帰路にある織田信長は4月16日、三ヶ野坂上(磐田市三ヶ野)に用意された御屋形で休憩していますが、そこからは馬伏塚城や高天神城、小山城までもが手に取るように見えたと云います。
私も実際に三ヶ野坂を訪れたことがありますが、さすがに高天神や小山は無理にしても、馬伏塚城ならば或いは、高い建物のない当時ならば見えたかもしれない距離感ではあります。

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2022年12月 9日 (金)

久野城

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袋井市の久野城

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明応年間(1492~1501)、今川家臣・久野氏による築城と伝わります。
今川氏の没落後、久野氏は徳川氏に従いました。

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駐車場から上がると、最初に出くわす北下段。

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北面の大土塁と横堀。

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北面の横堀から見上げる、本丸東側の1の堀切。

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続いて三の丸へ。
一段高い部分が三の丸です。

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三の丸下段方向。

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二の丸。うっすらと土塁も残っています。

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二の丸の先に続く高見方向。

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高見から見上げる主郭部。

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二の丸から本丸への虎口。
脇には井戸も。

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本丸

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大手口に残る隅櫓跡・・・小さ過ぎないですか?
立哨台くらいしか乗らなそうな・・・(;・∀・)

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久野城大手口。

元亀3年(1572)10月、遠江へ侵攻した武田軍は久野城にも攻め寄せました。
城主・久野宗能は頑強に抵抗し、徳川家康も久野城を始め、遠江に残る徳川方諸城(掛川城など)への後詰のため、3,000余りの兵を率いて浜松城を出陣します。
見付(磐田)に着陣した家康が派遣した物見隊と、武田軍との間で勃発したのが木原畷・三箇野・一言坂などでの各合戦です。

戦いは数に勝る武田軍の優勢で進められ、徳川本隊も否応なしに浜松方面へ追い立てられていきます。
後詰もなく敵中に孤立しながらも、武田本軍が徳川軍を追跡して見付方面へ向かったこともあり、久野城はなんとか持ち堪えました。

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