2017年3月22日 (水)

小宮曲輪(群)の北枡形虎口、他

滝山城全体図(現地案内板より)
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今回は部分、小宮曲輪の北側周辺を中心に見ていきます。

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こちらは小宮曲輪の南虎口

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遊歩道を、小宮曲輪の東側面に沿って北へ進みます。
下草が刈られ、曲輪の土塁が割と良好に視認できました。

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遊歩道の東側、私有地で立ち入れない部分にも削平の跡を確認できます。
(上図1

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小宮曲輪の外周(南~西)を取り巻く横堀は遊歩道に当たって一旦途切れますが、道を挟んだ反対側へ続いています。(2
この堀のすぐ脇(写真右)には・・・

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遊歩道から分岐する細い道が付けられ、その先には・・・

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見事な枡形虎口(仮に小宮曲輪の「北枡形虎口」とする)が待ち受けています。
この虎口を抜けると・・・

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広い曲輪跡(3)がありました。一部、土塁らしき痕跡も残っています。
※この土塁、写真奥方向へ竪土塁のように下って続き、下段には腰曲輪状の削平地もあります。更に下ると弁天池へと続く沢に出ました。

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3曲輪から通ってきた北枡形虎口を振り返る。

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現地案内板では、先ほどの遊歩道から分岐した細い道を本来の城道とし、そのルートはこの枡形を経由して3曲輪に入り、上段の切岸を回り込んで南側へと抜けていた、としています。
※先の全体図とは南北が逆転しています。
赤線は現在の遊歩道のルート

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北枡形虎口の上段から見た3曲輪。
現地案内板の説に従えば、正規のルートは写真左手前の枡形を抜けて切岸沿いに一段下を右へ進み、更に手前方向へと折れて南へ続いていたということになります。
・・・が、実際にはこの右手に、それらしき道・通路の痕跡は見受けられませんでした

他に、北桝形虎口から堀を挟んだ対岸の土塁まで、真っすぐに木橋が架けられていたのでは?と推定している説もあり、実際のところ如何なるルートが設定されてていたのかは、まだまだ謎と言わざるを得ません。

小宮曲輪北枡形虎口や3曲輪周辺はこれまで、結構ススキが生い茂っていて地表面が分かりづらかったように記憶しているのですが、整備のお陰でしっかり確認することができました。

さて、折角来たのでもう少し散策・・・

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二の丸、南側虎口の枡形。

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その南側虎口の先、正面に見える小馬出を挟んで三方向に伸びる土橋。

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二の丸南面の横堀(と帯曲輪)
二の丸の周辺には、主郭部(中の丸~本丸)へと続く複数のルートが集約されており、滝山城でも最も重要な、主郭部防衛の要だったと考えています。

※ちなみに滝山城に於ける「大手」は、小宮曲輪と三の丸の間を抜けて千畳敷の前を通るルートとされていますが、この道は中の丸に国民宿舎を建設する際に付けられたもの。
構造からして本来は、小宮曲輪と三の丸の横堀は屈折しながら1本に繋がっていたものと思われますので、少なくともこの部分は道の敷設による改変です。
本来の大手は、城下の少林寺から鎌倉道の古道で加住丘陵の尾根に上がり、そのまま尾根伝いに東からカゾノ・刑部・信濃屋敷と呼ばれる曲輪群を抜けてくるルートであったと、私は考えます。

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三の丸東曲輪4の切岸。
屈折させて横矢を掛けています。

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こちらは中の丸と二の丸間の横堀に見られる、中の丸切岸の横矢。

滝山城は広大な城域を誇り、一つ一つの遺構のスケールも見事ですが、こうした細部まで本当によく作り込まれています。

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2017年3月13日 (月)

解明されゆく小牧山城

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旅のラストは小牧山城へ。
前の晩のトークイベントで、小牧山城に関する貴重なお話を伺った直後とあっては、訪れない訳にはいかないでしょう(笑)

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城下大手口(南麓)に建てられている市役所庁舎内。
床を1本の線が走っています。

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そのまま庁舎を抜け、小牧山の麓まで続いて大手道に繋がっています。
これは庁舎建設前の発掘調査で明らかとなった、城下町大手筋の道のラインを示しているのです。

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復元された大手口の土塁と横堀

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主郭部手前までは一直線に伸びる大手道

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現在の遊歩道は突き当たりで左へ折れますが、本来の大手道は右(東)へ
ここが山上の主郭部との境界で、この先はクネクネと九十九折れに本丸へと続いていきます。

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この境界線に沿って、徳川家康が小牧長久手合戦時に築かせた横堀が走っています。

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本丸へと続く大手道
大手道はこの先も折れを繰り返してスロープ状に本丸へと至るのですが、2016年度の発掘調査でそのルート上から、自然の岩盤を切り開いて削平した石の壁」(その上には石垣も積まれていた)が発見されています。

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発掘された大手道の石の壁(写真提供:にのさん)
※訪問時には既に埋め戻し作業中につき立入禁止

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イメージ図(写真提供:にのさん)
こうした「折れ」は、枡型の原型とも言えそうです。また、切り落とした岩は当然、石垣の石材として用いたのでしょう。

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本丸を見上げる。
一部残存している石垣も覗いています。
小牧山に於ける石垣は、直線の大手道が九十九折れに変わる主郭部より上からしか発見されていません。山麓から山腹までは土造りのお城、山腹から山頂が石垣造りのお城だったことになります。

ここで小牧山城のエキスパートの方と合流して、コアな小牧山城をご案内いただけることになりました♪

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本丸周辺に転がる石垣の転落石。

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こうして石垣が崩れていても発掘の成果で裏込石が出ているので、その位置から石垣面の位置も確定できるのだそうです。
ただ、石垣推定面積に対して残存+転落石材の数が少な過ぎることから、おそらくは名古屋城築城の際に持ち出されたものと考えられています。が、名古屋城に小牧山のチャート材を多用した石垣が見当たらず、具体的にどの部分に用いられたのかは謎なのだそうです。

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裏込石の崩落石材は、まるで石垣のように積まれています。
最初の頃は適当に積んでいたものの、年々作業員の方々にもこだわりができてきたようで、最近では算木積みなんかも・・・(笑)

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本丸北西面の石垣

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小牧山の石垣石材は先にも書きましたが、殆どがチャート石矢穴は見つかっていないそうです。
手前の丸く飛び出た石は数少ない花崗岩。小牧山周辺で花崗岩が採れるのは岩崎山のみで、同山は小牧長久手合戦時は秀吉方の勢力下にありました。従って家康が用いることは叶わず、必然的にこの石垣がそれ以前の時代、信長による築城時に築かれたことの証明にもなっています。

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同じく北西側に残る、もう一つの石垣面。

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隙間から裏込石も見えています。

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奥に飛び出た石(花崗岩)が見えている部分が、先にご紹介した石垣面。
本来はここに道(階段)は存在せず、表出している石垣面の前後(写真では左右)のズレは、本丸の地表面が突出した部分(櫓台か)に当たります。
つまり、横矢が掛けられていた、とも言える構造になっていました。

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その突出部分
現在は昭和天皇がこの地に立たれたことを記念する御野立聖蹟の碑が建っているため、調査は叶いません。
※本来は復興天守の真裏にあったそうですが、建物の裏は失礼にあたるとのことで現在地に移されたとか。
※なお天守閣風の資料館は、どうやら盛り土をした上に建てられたらしいことが分かってきて、僅かながらも遺構がまだ地中に眠っている可能性も出てきているそうです。

小牧山城は「信長公記」にも書かれている通り、敵対するようになった犬山城、そしてその先の東美濃に対して築かれた城(このことが犬山城の攻略、東美濃の動揺~加治田城の寝返り~堂洞合戦へと繋がっていきます)ですが、この突出部は稲葉山城(後の岐阜城)の方角に向けて築かれています。

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小牧山城本丸から眺める、稲葉山城の方角。
写真中央、紅白の鉄塔左奥にうっすらと金華山が見えていました。

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本丸南虎口に建つ銅像の足元に横たわる岩(花崗岩)は、矢穴の位置が一致することから、本来は銅像横(奥)に見えている岩と一つのものだったことが分かっています。
矢穴の形状により、割られたのは慶長期と推定されることから、名古屋城築城の際、その石垣用の石材として割ったものの、何らかの理由で持ち出しを断念したものと考えられています。
また、岩に残るの刻印は、加賀前田家お抱えの石工集団のものだそうです。

また、この位置から本丸に向かって階段を登った正面に、鏡岩のように大きな石が据えられていますが、調査の結果これは当時からの石垣遺構ではなく、階段整備の際に積み直されていることが判明しているそうです。

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西側曲輪地区の尾根が二股に分かれる分岐点に位置する曲輪。
奥向きの御殿跡かも…とのことでしたが、ある時いきなり桜を無秩序に植樹されてしまい、現状では発掘調査の目処は立っていないようでした。

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石切り場のチャート材岩盤。
地層面に沿って岩が剥ぎ取られている様子がよく分かります。

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また、岩を切り取ることで岩盤は切岸状になり、足元は腰曲輪のようになっていました。石を調達できて、切岸を作れて、腰曲輪を作れて・・・一石三鳥?(笑)
※現在、我々が目にすることのできる近世城郭の石垣は、その殆どが花崗岩で積まれています。小牧山の矢穴のない石垣石材を見ても分かる通り、切り出しも楽なチャート材が姿を消した理由・・・この辺りには徐々に大型化した上物、つまり石垣に乗せる建築物の重量も関係しているように思いました。

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最初に見た横堀の上に位置する曲輪跡。
手前に見える窪みから、以前は井戸跡と紹介されていたこともあるようですが、これは井戸ではなく、横堀をドン突きで直角に折った痕跡とのことでした。
折れた部分が殆ど埋まり、天辺だけが窪みとして残ったために井戸のように見えているのだそうです。

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この土塁は横堀を掘った土で盛られたもの。
調査の結果、中からちょっとした石積みが出てきたそうです。信長時代の築地塀の基台跡ではないかと推測されています。

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土塁上から見下ろす横堀。かなりの高低差です。

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横堀
信長時代に階段状に築かれた曲輪(堀の左右で若干の高低差がある)の一部を潰し、家康が掘ったものと考えられています。

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調査で掘ったみたところ、この付近の体積土は皮一枚で遺構面がすぐに出てきたそうです。即ち、ほぼ家康が掘らせた当時のままの形状ということになります。

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見事な堀底。
左右の曲輪間での高低差も確認できます。

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横堀のドン突き。
今でこそ土塁が削れて通路のようになっていますが、当時は土塁で塞がれ、堀は向かって左に折れて終わっていました
そう、先ほど上から見た井戸のような形状をした部分です。

いやぁ~現地で貴重なことをたくさん教えていただけたし、本当に再訪してよかった!小牧山城!!

何から何まで充実して、大満足な2泊3日の旅。これも偏に誘っていただき、連れて行ってくださる仲間の存在の賜物ですね、感謝です。

次は・・・小牧山築城から続く歴史の舞台へ。
今回はひとまず、これにて筆を置きます。ありがとうございました。

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2017年3月12日 (日)

浮野古戦場と岩倉城

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浮野の合戦は永禄元年(1558)7月、織田信長と犬山城の織田信清の連合軍が、岩倉城の織田伊勢守信賢の軍勢と争った戦い。
信長の居城・清須から岩倉城へは三十町に過ぎませんでしたが、此の表は節所たるに依つて、信長は岩倉城の背後(北西)、足場の良い浮野へ回り込んで布陣し、辰巳(南東)の方角へ向かって攻め掛かりました。
これには北方の犬山勢と合流するという意図もあったように思います。
※定説による浮野合戦の年次比定(永禄元年説)は「甫庵信長記」に拠っていますが、他に弘治3年(1557)とする史料もあり、信長が永禄2年に上洛していることから、合戦の翌年に岩倉城を包囲していることと考え合わせ、永禄元年説だと岩倉城包囲中に上洛したことになってしまうことから、弘治3年説を採用する見解があることも書き添えておきます。
まぁ確かに、岩倉城を制圧して尾張を(ほぼ)掌握した後に上洛して、足利義輝から尾張領有のお墨付きを貰った、とする方が流れとしては自然かもしれませんね。

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信長軍が討ち取った首級を埋葬したと伝わる、浮野の鶯塚

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鶯塚に建つ石碑
この碑では定説通り、永禄元年説を採っていました。

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鶯塚から岩倉城の方向・・・織田信長の軍勢が攻め掛かった方角。

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鶯塚すぐ近く、「浮野」交差点。

ところで、「信長公記」にはこの時、浅野村で信長の鉄砲の師でもあった橋本一巴が、敵方の弓の名手・林弥七郎と戦うシーンも描写されています。
相討ちとなったところへ佐脇藤八(信長の小姓、前田利家弟)が駆け寄り、左手を負傷しながら林の頸を獲るのですが、この浅野という地名、今も浮野の南西方向に存在しています。
戦線がかなり横に広がっていたことが窺われます。

折角だから浅野にも行ってみよう、ということで何処かいい場所はないかと地図で確認していたら、何やら気になる形をした公園が目に付いたので、早速向かってみると・・・

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なんと浅野長政の宅址とあるではないですか!?
なるほど、その「浅野」でしたか!

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浅野長政顕彰碑

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祢々(おね)の水

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公園の周囲には、何やら思わせぶりな水路が・・・
そう、明らかにお堀っぽくなっているのが地図でも見て取れたので、来てみたのです。

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何もない場所にわざわざ生活用水でもない水路を引くこともないでしょうから、或いはうっすらとでも堀の痕跡が残っていたのかな?

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公園前には「寛永八年辛未九月廿一日」の日付も刻まれた、キリシタン殉教の碑も建っていました。

浮野の合戦は信長方の勝利に終わり、岩倉勢は城に逼塞することになります。

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浮野と岩倉の間を流れる青木川。
勿論当時とは流路も多少違うでのしょうが、この川が開戦時の境界線、防衛ラインになったのかもしれません。

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岩倉城跡

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右端の織田伊勢守城址碑は、安政7年(1860)に建てられたものです。

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岩倉城跡図
浮野合戦に敗れた伊勢守織田家の岩倉城は信長によって包囲され、合戦の翌年3月、遂に落城します。

現在、城跡の周辺は完全に宅地化されていますが、上の図を元に道路などの区画に僅かながらに残った往時の名残を辿ることができます。

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a地点から南の方角を見た旧五条川の名残

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同じ地点から北側の旧五条川跡。
よく見ると道は暗渠になっており、今でもかすかに水の流れが残っているようです。

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こちらの道路は、aから西側を見た横堀跡。

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そのまま旧五条川の跡を北へ辿って、神明生田神社へ。

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神明生田神社境内に建つ、山内一豊生誕地の碑。
※一豊の生誕地については諸説あります。

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神社前を通る岩倉街道の旧道。

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b地点の横堀の痕跡と思われる段差。

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cの「おしろ道」

今回、同行者が旧五条川の名残などに気づいてくれたお陰で、思わぬ収穫がありました。
立派な土塁や堀などの遺構もいいですが、こういったお城散策もまた楽しいですね。

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蒲生氏郷の故郷・・・日野

岐阜で迎えた旅の2日目。
前夜の打ち合わせにより、この日は近江湖東、蒲生氏郷の故郷である日野へ向かいました。

日野城跡図
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まずは蒲生氏の居城、日野(中野)城から。
※日野城には2015年にも訪れていますので、その時の記事も合わせてご参照ください。

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映画「るろうに剣心」のロケ現場にもなった堀底道。

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何気なく、さり気なく、、、立派な堀です(笑)
奥に見えている小さな社は凉橋神社。江戸時代、日野城跡に藩庁を置いた西大路(仁正寺)藩主・市橋氏の氏神です。
なお、詳細は不明ですがこの市橋氏、織田信長に従って佐和山城包囲戦などで活躍した「市橋九郎右衛門」(信長公記)に連なる一族と思われます。

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aの土橋

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更にもう1本、同じ横堀続きに土橋がありましたが・・・江戸時代に描かれた城跡図には全く存在していませんので、或いは利便性のため、後世になって築かれたものかもしれません。(bの位置)

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西大路藩庁跡

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藩庁跡は公園のような広場になっており、堀のような痕跡も一部に残っていました。

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蒲生氏郷産湯の井戸

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住宅街の合間にしっかりと痕跡を留めるcの堀跡。

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こちらは市橋氏の菩提寺となった清源寺
元は蒲生定秀(氏郷祖父)の別邸(桂林亭)だったと伝わります。定秀の没後に蒲生賢秀(同父)が桂林庵と改称して定秀の菩提を弔い、西大路藩が置かれると初代藩主・市橋長政が菩提寺としました。

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清源寺、西大路藩歴代藩主3人の墓所。

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続いて興敬寺
石山本願寺合戦に関する書状など(興敬寺文書)が残ります。

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興敬寺境内には、日野城外郭の東端部と思われる土塁や・・・

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堀跡が見事に残っていました。

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堀跡の近くには「落葉の清水」
日野三名水の泉、とのことですが・・・確かに「落葉」の泉だわ(笑)

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法雲寺
蒲生氏郷の父・賢秀の菩提寺です。

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宝篋印塔の笠石を用いた手水鉢。
笠石だけでこの大きさ・・・押して測るべし。

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蒲生賢秀墓所
右は西大路藩世嗣だった市橋利政のお墓。病弱を理由に廃嫡されたそうですが、59歳まで生きられたようです。

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法雲寺本堂の破風は、西大路藩庁の部材を転用したものと伝わります。

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信楽院
蒲生家の菩提寺

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信楽院本堂
元文4年(1739)の建立。

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信楽院墓地に建つ、蒲生氏郷の遺髪塔
同寺には他に、氏郷の納骨地蔵尊も祀られているそうです。

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雲雀野公園に建つ蒲生氏郷像。

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お次は日野のお隣、東近江市の井元城へ。
愛知川の河岸段丘上に位置し、麓に建つ春日神社(写真)が目印です。

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段丘上に上がると早速、素敵な横堀がお出迎え。

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横堀越しに主郭を見る。

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主郭東側に残る二続きの馬出状の小曲輪。

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主郭から向かって右側の馬出に・・・

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左側の馬出。

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2つの馬出を縦方向に重ねて見る。

この井元城、文献上に該当しそうな城が見受けられず、謎の城とされています。
鯰江城(同じ段丘上、西側に位置する)に対する付城、との説もあるそうですが、それにしては2つの馬出の方角(主郭東側)がおかしい
主郭の東側には実は、2つの馬出をもスッポリと包み込む堀で囲われた不思議な、大きな長方形の区画があり、こちらを主郭とすると最前の主郭が馬出のようにもなり、そうなると向きも反対になって鯰江城に向いていると言えなくもないのですが・・・。

しかしこの大きな区画は、個人的な印象としては神社の旧境内地の境界線。それに、この空間を主郭とした場合、ならばスッポリ取り込まれてしまった2つの馬出状の曲輪の意味は何?となってきます。
神社を築く際にわざわざ邪魔な馬出を取り込む必要はないので・・・神社が先にあって砦を築く際、神社をどかしたか?

あれこれ考えていくと深みにハマって益々分からなくなってきますが、今の段階では鯰江城に対する付城などではなく、千草・八風峠を越えてくる東からの敵を警戒する鯰江城の出城、としておくのが無難なのかもしれません。
※構造上の年代比定から、例えば関ヶ原(或いは大坂の役か?)時に築かれた西軍の砦かも、とする見解もあるようですが、それにしては現存する遺構の規模が小さ過ぎる印象です。

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最後に鯰江城の跡地にも。

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城の遺構は何も残っていませんが、愛知川の段丘上に築かれた城であったことは、周辺の地形からも一目瞭然です。
※鯰江城落城の顛末については、コチラの記事も参照ください。

さて、この後は一気に名古屋まで移動し、前日の賤ヶ岳でもご一緒したクリス・グレンさん主催のトークイベント&懇親会
「信長の城・小牧山城のヒミツ」
に参加させていただきました。

本来であれば、このイベントだけで1本の記事にすべきところですが、顔出しオンパレードで使えそうな写真もないので・・・あしからず(笑)
貴重なお話を聴けて多くの方ともお会いすることができ、とても有意義な機会になりました。

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2017年3月11日 (土)

堂木山砦・神明山砦・茂山砦 (賤ヶ岳合戦城砦群)

図1
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2017年3月4日、賤ヶ岳の戦いに於いて、湖北の山々に築かれた砦群をめぐるオフに参加させていただきました。

図2
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今回はまず、余呉湖の北方を遮るように北東へ延びる尾根上に、北国街道西側の押さえとして築かれた羽柴秀吉方の最前線防衛ラインの一翼、堂木山砦神明山砦を目指します。

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総勢16名で登山開始。
中井均先生をはじめ、加藤理文先生、城メグリストこと萩原さちこさん、名古屋でラジオDJとしても活躍されているクリス・グレンさん他、錚々たるメンバーに囲まれてちょっと緊張のスタートになりました(笑)
それにしても、この時期の近江湖北地方の山々はまだ残雪厳しく、予想外の雪中行軍・・・(^_^;)

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尾根に辿り着くと堀切のような切通があり、ここが堂木山と神明山の分岐点。
まずは右、尾根先端付近に位置する堂木山砦へ。

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しばらく尾根上を進み、ご覧のような土橋状の細尾根が出てくると、いよいよ堂木山砦になります。

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堂木山砦縄張図
この図でいうと、左側からアプローチしていることになります。

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a部分
雪が残っている箇所が削平されていて、周囲には土塁が残り、左側は切岸状に落とされています。

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3曲輪の土塁

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3曲輪から1曲輪(主郭)の土塁を見る。
土塁手前には横堀も通っています。

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その横堀

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1曲輪の周囲を固める土塁

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1曲輪の土塁には1ヶ所、東側に虎口もありました。(b

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1曲輪から見る2曲輪

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cの竪堀と竪土塁

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2曲輪への進路は土塁を喰い違いに盛り、右→左と見事に屈折させてありました。

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2曲輪
遺構の残存状態も良好で、その構造を明瞭に把握できます。

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堂木山砦、北東端の堀切。
この先、尾根は徐々に下りになり、北国街道の通る麓へと出ることになります。

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我々は元来たルートを引き返し、今度は神明山砦を目指します。

2017030418
樹間の開けた場所から北方を眺めると、羽柴軍が当初、最前線と想定して築いた天神山砦・茶臼山砦のある稜線が見えていました。
(柴田軍が至近の別所山に砦を築いたため、羽柴軍は堂木山・神明山のラインまで前線を後退させている。図1参照)

2017030419
反対の南には・・・余呉湖を挟んで高山右近の岩崎山砦、中川清秀の大岩山砦が置かれた稜線も。
写真右方向へ更に進むと、賤ヶ岳砦も見えていました。

柴田軍の佐久間盛政隊は行市山砦を出て南下し、そのまま尾根上を堂木山・神明山の西側を素通りして余呉湖畔に出て、湖畔を反時計回りに迂回、賤ヶ岳砦の足元を通過して大岩山砦、続いて岩崎山砦へ攻めかかったことになります。(位置関係は図2参照)
佐久間玄蕃・・・恐るべし。

ダイナミックな景観を堪能し、スケールの大きな山岳戦に思いを馳せつつ尾根をゆっくりと登っていくと、程なく神明山砦に到達します。

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神明山砦縄張図
右側からのアプローチになります。

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aの土塁

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土塁の先には、階段状の曲輪がいくつか続いていました。

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3曲輪越しに曲輪(主郭)を見る。
主郭の脇には通路?が、まるで横堀のように通されていました。

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主郭
一段と残雪が激しい・・・(^_^;)

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先ほどとは反対側にも、武者走りのような通路。

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2曲輪
突き当たりには立派な土塁も。

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その土塁の先には堀切(b
少し先にもう1本見えています。(c

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b堀切から続く南側の竪堀。
少し角度をつけて、堀切を渡る通路が設けられていました。
静岡・丸子城の長大竪堀にも見受けられる構造です。

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cの竪堀

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cの堀切を越えて尾根を進むと、少し先にdの出曲輪(物見台?)があります。

さて、本当ならこの後は一旦下山し、北国街道を挟んだ東側の東野山砦へ行きたかったのですが、思わぬ雪中行軍に時間を取られ、且つ東野山の残雪状況も心配だったので予定を変更し、このまま尾根上を南西方向に登り、茂山砦を目指すことになりました。

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神明山砦から茂山砦へは、かなりハードな登り勾配を経由します。

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ここでもまた景色を楽しむ・・・賤ヶ岳砦。
(中央ピーク部分)

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岩崎山砦・大岩山砦方向

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茂山砦へのルート上にも、かなり厳しい残雪が・・・

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この坂を登り、合流した尾根を左に折れた先が・・・

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茂山砦になります。oO(雪で全く分からんww)

合戦当初、北方の別所山砦に布陣した前田利家は、佐久間盛政の進軍に合わせて南下し、この茂山砦を押さえたと伝わります。
神明山砦や堂木山砦からは尾根続きで、しかもここまでの道のりを見ても分かる通り、両砦よりもかなり高所に位置します。このことからしても前田隊の進軍~茂山砦布陣は、羽柴軍の前線を押さえ込み、且つ佐久間隊の背後を確保する意図が明確ですね。ところが・・・

秀吉が大垣から大返しで戦場に姿を現し、佐久間隊が退却に移ると、あろうことか前田隊も茂山砦を放棄して戦場を離脱してしまいました。
これにより、前田隊の援護を受けられなかった佐久間隊は羽柴軍の激しい追撃を受け、総崩れとなって合戦の趨勢をも決してしまいます。
利家の戦場離脱については、予め秀吉との間に密約があったとか諸説ありますが・・・本当のところはよく分からないので詳しくは触れません。
戦況を見極め、ドライに自家存続を図ったということではなかったかと。

さて、この日の行程はこれにて終了。
あとは下山するだけ、の筈でしたが・・・

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その下山が最も難敵でした・・・(^_^;)
進むにつれ、雪はどんどん深くなり・・・
(この付近で鹿も出現したそうです…私の背後を通ったため、私は気づきませんでしたが)

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一旦林道に出ても、ご覧の有様・・・。

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再び林道を離れ、最後は権現坂を下ります。
行市山砦を出て南下してきた佐久間盛政隊が、余呉湖畔に出る際に下ったと思われる坂でもあります。

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とても雰囲気のある古道で、雪さえなければもっと楽しめたのですが・・・何度足を取られたことか。
写真は、仰のけにズッコケる直前のクリスさん(笑)

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ようやく下山・・・

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余呉湖の畔から見渡す、賤ヶ岳古戦場。
右奥に賤ヶ岳砦。そこから左へ目を転じていくと・・・

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大岩山砦に岩崎山砦・・・

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そして北へと延びる北国街道。
写真左端(手前)に写っているのが、堂木山砦や神明山砦のある尾根の先端です。
羽柴軍はそこから、北国街道を跨いで反対側の東野山砦にかけて、街道を封鎖する二重の堀切惣構の堀)を築いて街道を封鎖していました。
以前もその痕跡を探しに行って玉砕しました(→記事)が、中井先生から少なくとも昭和の終わり頃までは、その一部が残っていたというポイントを教えていただいたので、今度また探しに行ってみよう♪

はい、これにて今回の賤ヶ岳古戦場歩きは怪我もなく、無事に終了です。
解散後は北陸方面へ帰る参加者を敦賀駅まで送り、そのまま大返しで岐阜へ。
(なんだか地理感覚がおかしくなる大移動w)

時間は少し遅くなりましたが、ギフナイト☆で楽しく盛り上がりました♪

※私の旅は、まだまだ続きます。

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2017年2月27日 (月)

馬蹄段最下段部の発掘現場

2017年2月26日、ぶらりと八王子城跡へ。
今年度(平成28年度)は金子曲輪下馬蹄段、その最下段部発掘調査が行われているとの事だったので、ちょっと様子見に訪れてみました。

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いつもはボランティアガイドさんたちが常駐している管理棟も老朽化のため、現在は改修工事中。

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昨年実施された調査で顕在化した、ニの鳥居脇の石垣。
これまでも一部が表出していましたが、私はてっきり、後世に積まれた八王子神社参道の土止めの石積みと思っていました・・・。
しかし参道の途中で隅石状になっていて道とは形状が合わないし、或いは柵門台の東下(脇)から連なる石垣遺構の一部だったのかもしれません。

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そして、今月(2017年2月)に発掘調査が行われた、ニの鳥居を潜ってすぐの場所。
ブルーシートが掛けられていますが、三段ほどの段差が認められます。
間に八王子神社の参道(破壊道)を挟んで左側にも段差があり、左右それぞれの段差のラインは綺麗に繋がります。往時はそれぞれが一つの小さな曲輪のようになっていたのでしょうね。
果たして何か新しい発見はあったのか・・・報告が待たれます。

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金子曲輪下の馬蹄段

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柵門台東脇の石垣
枯葉が積もったせいでそう見えるだけなのか、調査直後(2~3年前)に比べて少々心許ない感じが・・・。

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2017年2月20日 (月)

最近の…癖?

コタツの出ている冬、私がコタツに入るとすぐに膝の上に乗って居眠りを始めるボン
ところが最近、ちょっと可笑しなポーズをとるようになりました。

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こうして片方の手を、ポンとテーブルに掛けるようにして・・・
目が開いているようにも見えますが、このままの姿勢で熟睡してます(笑)

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テーブルの上には肉球だけが、こんにちは(^o^)
面白いからつい写真を撮ってしまいましたw

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2017年2月 2日 (木)

2月2日といえば・・・

本日、2月2日は我が家の愛犬・ボンお誕生日♪
今年(2017年)で満14歳になりました。

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当然、毎年恒例のリンゴとさつま芋で作った特製ケーキ?(→昨年の記事参照)でお祝いしたのですが・・・
なんと、肝心な時にカメラが不調をきたし、撮影に失敗してしまいました・・・(>_<)

しかしもう、14年も経つのですねぇ・・・
思えば、皺の関係で喉が極端に狭く、粒の小さなドライフードですらまともに通らずに、最初の頃は知らなくて何度か窒息させかけもした・・・
若い頃に前立腺の大病も患った・・・克服した時の安堵感は今でも忘れられない。
4年前からは後脚の前十字靱帯を傷めたまま、騙し騙し過ごしているし、他にも皮膚が弱かったりと、、、まぁ何かと手のかかる子。

それでも14歳になる今もなお、食べたい!という欲求は衰えることを知らず、日に2回の食事の時間など、「早く寄越せ!」と急かすこと急かすこと・・・(^_^;)
その元気な姿に家族も勇気づけられ、たくさんの幸せを貰っています。

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これからも一日、一週間、一ヶ月、そして一年と、一緒の時間をより大切に暮らしていきたいと思います。
・・・そう言う割には、一人でホイホイ旅に出てるけど(笑)

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知念城、斎場御嶽、浦添ようどれ&浦添城 (沖縄グスクめぐり⑥)

楽しい時は過ぎるのも早いもの・・・沖縄の旅もいよいよ最終日です。
眠い目をこすりながら集合時間の7時にロビーへ下りてみると・・・どうやら別ホテルに宿泊している一人が姿を現さない模様。ま、前の晩に遅くまで遊んだからね(^_^;)
部屋に電話をかけてもらい、無事にお目覚めいただいてから出発(笑)


知念城(南城市知念知念)

最終日のスタートは、前日後半にも訪れていた南城市にある知念城。

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知念城前にあったノロ屋敷跡の石垣
ノロは琉球信仰に於ける女性神官のこと。祭祀を司り、御嶽を管理していました。
按司から屋敷地を与えられ、大切に保護されていたのでしょうか。

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知念城の城壁
知念城は主に、ミーグスク(新城)クーグスク(古城)と呼ばれる2つの郭から成ります。
写真はミーグスクの城壁(クーグスクは写真左にある斜面の上)

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正門を通ると、正面には石垣で築かれた蔀状の壁がありました。

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こうして見ると正門(右)だけでなく、裏門(左)にも蔀状の壁が設けられ、まるで枡型のようになっていますね。
こうした蔀、少なくともこの旅でめぐった城では他に例を見ませんでした。そういった意味では、かなり新しい時期に造られたのかもしれません・・・新城だけに。

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すぐ眼前の久高島(写真には写っていない)への遥拝所があった辺り。

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そして近くの山の中腹に、知念按司の墓があるというので向かったみたものの・・・

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かなり鬱蒼とした山道を登って行かねばならず、ビビリな私はハブを敬遠してパス・・・(^_^;)
ちなみに麓はウファカルといって、琉球の稲作発祥の地と伝えられているそうです。

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今では畑になっていて、水田を思わせるものは・・・これくらい?(^_^;)


斎場御嶽(せーふぁうたき)

次は、知念城のすぐ近くにある斎場御嶽へ。

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斎場御嶽へは、こちらの物産館で券を購入してから参拝します。

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物産館から斎場御嶽への道順。

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斎場御嶽は琉球王国最高の聖地
はじめに簡単なVTRで参拝の注意事項を確認してから、参道へ向かいます。

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大庫理(ウフグーイ)
「大広間」「一番座」という意味を持つ、御門口から登っていった先の最初の拝所。

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参道脇には、沖縄戦で撃ち込まれた砲弾による爪痕も残っていました。

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参道にも厳粛な空気が漂います。
心配していましたが、さすがに大陸からの観光客グループも、ここではあまり騒いではいませんでした。

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寄満(ユインチ)
意味としては「台所」。豊穣の満ちた所、と解されています。

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「聖なる水」を滴らせる2本の鍾乳石と、それを受けるシキヨダユル・アマダユルの壺。

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巨大な岩でできた三角形の通り道の先が三庫理(サングーイ)

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いざ、三庫理へ・・・

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三庫理

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三庫理からは、琉球創成の神アマミキヨが天から降臨し、国創りを始めたという神の島久高島を正面に見据えることができます。
各地に点在する全ての御嶽が拝する久高島・・・その先にあると云うニライカナイ。それが今、眼前に・・・。
この地が何故、琉球最高の聖地と成り得たのか・・・それを明瞭に物語ってくれるような光景でした。

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去り際、見送りに来てくれた小鳥。


浦添ようどれ浦添城(浦添市当山)

3泊4日の沖縄旅、ラストは浦添へ。

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浦添城図

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まずは13世紀の中山王・英祖、そして第二尚氏七代・寧の陵墓である浦添ようどれへ。

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浦添ようどれの石垣
「ようどれ」とは「夕凪」の意味。それだけだと、なぜ陵墓にそう名付けられたのか分りづらいのですが、他に「極楽」という意味もあるそうです。それなら・・・なんとなく分かるような気もしますね。
背後にある浦添城共々、ようどれは沖縄戦に於いてアメリカ軍の激しい攻撃に晒され、破壊されています
近年、発掘調査に基づき修復されて戦前の姿を取り戻しました。

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現地には戦前の古写真も展示されていましたが、岩肌の形まで随分と変わっていました
砲撃の激しさを物語っているかのようです。

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このアーチ門を抜けた先に・・・

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英祖王(手前)、尚寧王(奥)の眠る墓室があります。

続いて浦添城へ。
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復元された浦添城の石垣

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あちらの石垣も復元のようです。
沖縄戦での破壊により、遺構らしきものは殆ど残っていません。

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城跡内にあるディークガマ御嶽
沖縄戦により、市内各地で亡くなった5,000人もの人々を祀る「浦和の塔」もありました。

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かすかに痕跡を留めている浦添城の石垣

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浦添城の前の碑
1597年、浦添城と首里城とを結ぶ道路を建設した際の、竣工記念碑。尚寧王の命で国民が力を合わせ、道を築いた様子が具に記されています。
こちらも沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元されました。

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確かに浦添城から、首里城の正殿の屋根も見えていました。
(写真中央、小高い丸い丘の左上)

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石碑前の岩は「馬ヌイ石」、馬に乗るための踏み台と考えられています。
とすると、その首里城とを結ぶ道はこの辺りから延びていたのでしょうか。

さて、これにて3泊4日に及ぶ沖縄グスクの旅も終了です。
この後は空港へ向かい、昼食がてらに簡単な打ち上げの後、各自のフライト時間に合わせて追々解散となりました。

初めて訪れた沖縄の地。
今回はグスクめぐりに主眼を置いた旅で、実際に訪れたグスクはどれも刺激的で素晴らしかった。
それと同時に、各地をめぐっているうちに自然と目にし、肌で感じることになる72年前の沖縄戦のこと、沖縄の人々の信仰のこと。。。
沖縄に限ったことではないが、旅をする時はその土地の歴史や風習、風土に敬意を払って臨まなくてはならない・・・改めてそう感じた4日間。
特に沖縄では「信仰」というものに、強烈な印象を刻まれました。

楽しく、有意義な旅を共有できた旅仲間にも感謝です。ありがとうございました(^_^)/
・・・次の機会には、7時に起こして桃色の○○○履かせ、緑の財布を持って波に弄ばれましょ~(^m^)

※全6回に渡って記事を上げてまいりましたが、何分、沖縄の歴史には疎いので、随分と薄っぺらい内容になってしまいました・・・。
より詳しく知りたい方は、旅の同行者がブログにまとめてくれているので、そちらも是非☆
山城Love☆ (カテゴリ「九州・沖縄地方」)

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糸数城、玉城城、垣花城、島添大里城、他 (沖縄グスクめぐり⑤)

糸数城(南城市玉城糸数)

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3日目後半は、南山地方のグスクが点在する南城市へ移動、まずは糸数城に到着です。
いきなり心奪われる光景がお出迎えしてくれました。

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城門
糸数城は、玉城(この後訪れます)の按司が自らの三男を糸数按司に任じて築かせたと伝わる城。

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見事な曲線を描きだす堅牢な城壁がとても美しく、感動すら覚えます。

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城門を抜け、城壁を城外側から。
櫓台のようにせり出した箇所もありました。
ちなみに、隅をとんがらせる隅頭石は見当たりません・・・地域差・築城年代などが関係するのでしょうか?

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城門を抜けた先は広い平坦地になっています。
石積みで区画された空間がいくつか散見され、城外ではありますが何らかの居住空間・施設があったものと思われます。

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では、城壁に上がってみます。

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城壁には武者走り状の通路が設けられていました。

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糸数城の城壁・・・素晴らしい

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台地の突端のような場所に築かれた糸数城。
従来はこの城壁が下に見える城壁と繋がっており、林道の辺りにも搦手の門があったのかもしれません。


玉城城(南城市玉城玉城)

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玉城城・・・別名アマツヅ城とも。
沖縄の国土を創成したと云う沖縄神話の神・アマミキヨが築いた城との伝説もあります。
但し、アマミキヨは女神とのことですが。

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玉城城からの眺め
既に夕方近い時刻でしたが、海の青がよく映えていました。

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自然の断崖を利用した一の郭の城壁。上部は石垣で整えられています。
玉城城には段階的に二の郭、三の郭もあったようですが、それらの城壁の石材は基地建設の用材として、米軍が運び去ってしまったようです。

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自然の岩盤をくりぬいたかのような城門

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城門を郭内から
内側には石垣が積まれていました。

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一の郭

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一の郭に祀られる「天つぎあまつぎ」の御嶽

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伝承通りなら沖縄最古ともいえる城。
凄い歴史が残っているものです。。。


垣花城(南城市玉城垣花)

垣花城に関しては特に記録・伝承もなく、詳細は不明です。
城内に残る石垣の垂直に近い野面積みの技法から、グスク時代初期の築城と推測されています。

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確かに垂直の野面積み・・・

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しかし城域全体に鬱蒼と樹木が生い茂り、ハブも怖いので早々に退散しました・・・(^_^;)

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垣花城からご覧のような切通の石畳小路を抜けると・・・

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全国名水百選にも選ばれている垣花桶川(ヒージャー)があります。

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垣花の町角で見かけた古い石敢當(いしがんどう/いしがんとう)
魔除けの風習で、沖縄ではマジムンという魔物が直進する性質を持ち、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうとされていることから、その丁字路や三叉路などの突き当たりに多く見られます。
塀に表札のようなプレートを埋め込んだものも多く見かけました。


島添大里城(南城市大里大里)

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3日目ラストは島添大里城
南山王・島添大里按司によって築城されたと伝わります。
後に三山統一に乗り出した尚巴志が、真っ先に攻略した城としても知られています。

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現在、城跡は公園になっていましたが、かつては小学校が建てられていたこともあったようで、遺構の残存状況はよろしくないようでした。
南山王の城だけあって、往時はかなり大きなグスクだったようです。

さて、3日目のグスクめぐりもこれにて終了。
結局、1日で11ものグスクをめぐることができました。前日に回れなかった分を補って余りある成果ですね。

夜は勿論、那覇市内で乾杯☆
沖縄での最後の夜は、2次会にカラオケへ。近づく旅の終わりを惜しむかのように、遅くまで盛り上がりましたとさ♪

履かせて~履かせて~♪ 桃色~○○○~♪♪

※4日目へつづく

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