2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

2020032201
東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

| | コメント (0)

2020年3月29日 (日)

季節外れの積雪

令和2年3月29日(日)、関東地方では各地で季節外れの大雪となってしまいました。
我が地元・東京都八王子市も例外ではなく、夜通し降り続いた雨が午前7時前には雪に変わり、みるみる間に降り積もっていきました。

2020032901
午前11時の時点で、我が愛車もご覧のあり様。。。

2020032902
公園の雑木林もすっかり雪化粧。
思いがけず、雪と桜のコラボも。

2020032903
桜雪

どうやら、多摩地方には大雪警報も発令されている模様。
新型コロナウィルス感染拡大の懸念も広がり、外出自粛要請が出された週末。
この季節外れの大雪は案外、天からの援軍なのかもしれませんね。

| | コメント (0)

大胡城

白井城の後は前橋市へ移動し、大胡城へ。

20200321b01
大胡城は中世、上野の名族・大胡氏の居城と考えられています。
天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康の関東入封に伴って大胡城には牧野氏が入り、その牧野氏の越後転封後は前橋藩領に組み込まれましたが、寛延2年(1749)に廃城とされました。

20200321b02
二の丸に残る枡形。

20200321b03
水の手門は藪で形状を確認できず・・・。

20200321b04
二の丸から本丸への虎口。

20200321b05
横堀もなかなか見事です。

20200321b06
本丸の北西隅部分。

20200321b07
本丸
立派な土塁が残ります。

20200321b08
本丸北側の堀跡には用水路が流れ・・・

20200321b09
東の根小屋地区の先には、荒砥川が流れています。
荒砥川はおそらく、城の外堀としての役目も担っていたことでしょう。

保存状態もよく、手軽に楽しめる城跡でした。

| | コメント (0)

2020年3月28日 (土)

白井城と白井宿

最近は自身の体調不良やら仕事上のトラブル、そして新型コロナ・ウィルス問題など、様々なことが重なって休日に出かけることができていませんでした。blogの更新も、気がつけば2月上旬以来滞ったまま。
その間、愛車にもあまり運動をさせてあげられていなかったので、3月後半のよく晴れた週末、思い切って群馬県渋川市までドライブしてきました。

20200321a01
目的地は旧子持村の白井宿、及び白井城です。

20200321a02
まずは白井宿の散策から。

20200321a03
白井宿は白井城の城下町として整備され、利根川と吾妻川の合流点で沼田⇔前橋を結ぶ街道(沼田街道西通り)や、三国街道と連絡する脇往還なども通る交通の要衝として発展しました。

20200321a04
嘉永2年(1849)に建てられた道標。
説明板には「北へ進むと沼田、南へは日光江戸道へ通じる」とありました。
ここから南へ、前橋の先にも日光街道に通じる街道が通じていたということでしょうか。

20200321a05
宿場の街道沿いには、多くの井戸も見受けられました。

20200321a06
白井宿歴史資料館は、どうやらお休みの模様。
これも新型コロナの影響でしょうか・・・?

20200321a07
それでは、白井城へ向かいます。

20200321a08
白井城は、利根川と吾妻川に挟まれた舌状台地が、両河川の合流点に突き出す先端に築かれたお城です。
15世紀中頃、関東管領・山内上杉氏の家宰で、上野・武蔵両国の守護代をも務めた白井長尾氏の長尾景仲による築城と伝えられています。
山内上杉氏が後北条氏によって越後に追われた後も、白井長尾氏は甲斐・武田や後北条の傘下に入るなどして命脈を保ちましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、前田利家・上杉景勝らの北方軍に北曲輪まで落とされて開城し、白井長尾氏による当地の支配は終わりを告げました。
それ以後、徳川家康の関東入封に伴って白井には本多広孝・康重父子が配され、康重が初代白井藩主となります。
康重の岡崎転封後は松平・井伊(直孝)・西尾・本多(紀貞/康重の子)と城主を変え、元和9年(1623)、紀貞が嗣子なくして死去したために廃藩となり、白井城も破却されました。

20200321a09
まずは舌状台地東側の中腹を、北から南の方向へ進みます。
写真は二の丸東側の横堀。

20200321a10
奥へ延びるのは、二の丸と本丸間の空堀。

20200321a11
二の丸と本丸間の堀底から。

20200321a12
さらに南へ、本丸東側に続く横堀。

20200321a13
横堀は台地の先端付近まで続いていました。

20200321a14
白井宿方面を望む。
すぐ直下には、南曲輪や新曲輪などが配置されていたようです。

20200321a15
それでは台地に上がって、主郭部を見ていきます。
写真は北曲輪跡付近に残る櫓台。現在は城山不動尊が建ちます。

20200321a16
北曲輪越しに三の丸方向。
前田・上杉軍は、ここまで攻め寄せたのですね。

20200321a17
三の丸
杉の木が横並びに茂っている辺りが二の丸との境で、空堀が通っています。

20200321a18
三の丸と二の丸間の空堀、その西側と・・・

20200321a19
東側。

20200321a20
二の丸
この先が本丸になります。

20200321a21
空堀手前から、本丸虎口を望む。
虎口の枡形には石垣の痕跡も見られますが、これは本多氏以降の手によるものだそうです。

20200321a22
二の丸と本丸間の空堀も見事です。
こちらは西側で・・・

20200321a23
東側は先ほど、堀底も歩きました。
現地には「三日月堀」との案内標識も。確かに湾曲はしているけど・・・。

20200321a24
本丸側から、虎口・空堀越しに二の丸。

20200321a25
本丸
土塁も綺麗に残されています。

20200321a26
本丸に建てられていた歌碑。
相国寺の僧・万里集九が東国巡歴の途次、長享2年(1488)9月28日に白井城に立ち寄り、“城主”上杉顕定の知遇を受けて城中を歴観した時のことを綴った旅日記に収められた漢詩とのことです。
長尾景仲の孫・景春が、総社長尾氏との主導権争いから山内上杉氏に反旗を翻した(長尾景春の乱)際、白井城は一時的に山内上杉氏のものになっていたこともあるようですが、万里集九の来訪はその間のことだったのでしょうか。

20200321a27
本丸の先、台地先端に築かれた笹曲輪。

20200321a28
白井城・・・なかなか見応えのある遺構でした。

20200321a29
こちらは城下の源空寺。
本多広孝が自らの菩提寺として開いたお寺です。

20200321a30
源空寺に眠る広孝(中央)・広孝夫人(右)・紀貞(左の宝篋印塔)の墓所。

白井城に白井宿、いい散策になりました。

| | コメント (0)

2020年2月11日 (火)

七ツ塚古墳群

今回は地元の、超マイナーな史跡を簡単にご紹介。

2020021101
日野台地の北西部に位置する七ツ塚古墳群(日野市指定史跡)です。
現在は五基の墳丘が残り、発掘調査の結果、横穴式石室や直刀・鉄鏃などの副葬品の他、周辺からも女性埴輪・円筒埴輪・管玉・勾玉などが出土しているそうです。
上の写真は、七ツ塚公園(日野市新町5丁目)に残る一基。

2020021102
付近の畑に残る墳丘。
手前の墳丘の奥、直線上にもう一基小さく見えています。

これらの古墳は、6~7世紀頃の造営と考えられています。
果たして、どのような人々がこの地に勢力を張り、どのような生活を営んでいたのでしょうか。

それにしてもこの日は、富士山が奇麗でした。

| | コメント (0)

2020年2月 5日 (水)

滝山城の畝状遺構

20200202b01
最近下草が刈られ、上図A曲輪東側の畝状の遺構(水色の〇で囲んだ部分)が綺麗に見えるようになったと聞き、様子を見に行って来ました。

20200202b02
A曲輪
ここもかなり伐採したようで、曲輪中央を仕切るような土塁も綺麗に見えていました。

20200202b03
A曲輪から見下ろす東側の畝状遺構
パッと見の印象としては、畝の規模とか雰囲気は、同じ八王子市内の浄福寺城のものに似ているような気もします。

20200202b04
畝が残る地点は緩やかな傾斜になっており、横堀という感じでもなさそうです。
(写真のすぐ右手は、A曲輪の切岸)

20200202b05
畝が並ぶ北側には、大きな竪土塁が行く手を遮ります。

20200202b06
縦土塁(写真手前)にぶつかって右(写真左)へ折れた先は・・・

20200202b07
急斜面となって、大池方面に落ち込んでいます。
(奥に大池の堤が見えています)

こうして見ていくとA曲輪下の畝状遺構は、曲輪下に残る緩斜面を横移動や足掛かりとして、寄せ手に利用させないための処置だったのかもしれないと思えてきました。

| | コメント (0)

2020年2月 4日 (火)

足利基氏の塁跡と岩殿観音正法寺

今回は埼玉県東松山市大字岩殿地区へのドライブ。

20200202a01
まずは、足利基氏の塁跡から。

足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱
直義方について失脚し、信濃に逐われた上杉憲顕に変わって、上野・越後両国の守護には尊氏方の宇都宮氏綱が補任されました。
ところが、初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は尊氏の死後、上杉憲顕を関東管領に据えようと画策し、越後守護職も憲顕に与えます。
これに反発し、憲顕の鎌倉入りを阻止しようと兵800を繰り出した宇都宮氏の重臣・芳賀氏(越後守護代)に対し、基氏も3,000の兵を率いて出陣し、両軍は岩殿山・苦林野で激突しました。
その際に基氏が布陣した地こそ、この足利基氏の塁跡と考えられています。

20200202a02
西面の堀跡と土塁。

20200202a03
東面の堀跡。

20200202a04
標柱や案内板も立つ東面から北側の藪へ入ると、北面の土塁や堀も残っていました。
足利基氏の塁跡は東西180m×南北80m程の範囲に、丘陵を背(北)にして東西北の三方にこうした堀や土塁が廻らされています。

20200202a05
北面の堀跡。
ここから北側はゴルフ場の敷地になっているようで、堀底に境界となるロープも張られていました。

20200202a06
対岸(北)の方が地面が高く、あちら側から覗き込めばより一層、空堀の規模を体感できそうでしたが、立ち入るわけにもいきませんので諦めます。

20200202a07
空堀に沿った土塁の手前(南)には、曲輪跡らしき小さな削平地も。
それにしても藪り具合が凄く、戻る際に入ってきたルートを見失ってしまいました。

基氏は岩殿山・苦林野合戦に勝利した後、すぐに宇都宮・芳賀らの本拠地である下野国へ向けて進軍し、岩殿には短い期間しか在陣していなかったため、こうした遺構は基氏が築いたものではなく、元々存在していた豪族(比企能員か)の館跡を利用したのではないか、とも考えられています。
なお、合戦のあった年について、『桜雲記』という史料には「貞治8年(正しくは応安3年)/建徳元年(1370)の8月」とあるらしいのですが、基氏は貞治6年/正平22年(1367)に死去しているようなので、やはり定説通り貞治2年/正平18年(1363)だったのではないでしょうか。
※苦林古墳の供養塔(文化10年/1813建立)では「貞治4年」

続いて、足利基氏の塁跡前の道を西へ進み、正法寺へ向かいます。

20200202a08
その昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めた場所に出現したとの伝承も残る弁天沼。

20200202a09
阿弥陀堂の板石塔婆
応安元年(1368)のもので、当時、付近には阿弥陀堂が建っていたようです。
(現在の岩殿会館辺り)

20200202a10
正法寺の参道・門前町の入口となる惣門橋。

20200202a11
一直線に伸びる参道と門前町。
今でこそ静かな集落といった風情ですが、昭和の初期までは多くの旅館や商店が軒を並べ、かなりの賑わいを見せていたそうです。

20200202a12
参道沿いのお宅には一軒一軒、屋号や僧房跡などを示す木札が掲げられていました。

20200202a13
中には、こんなお宅も・・・現役の畳屋さん?

20200202a14
参道の突き当り、正法寺仁王門。
元々は運慶作の仁王像が安置されていましたが、残念ながら江戸期に焼失しています。
現在のものは文化年間の作だそうです。

20200202a15
山号は無論、「岩(巌)殿山」。

20200202a16
鐘楼
元禄15年(1702年)の建立。

20200202a17
銅鐘
元享2年(1322)の鋳造。
縦に筋のように入った疵は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたために付いたもの、とされています。

20200202a18
鐘楼前から、参道と門前町。
足利基氏の塁跡は、この参道を真っ直ぐ惣門橋まで進み、その先で少し右(東)へカーブした先になります。

20200202a19
観音堂

岩殿観音正法寺は坂東三十三箇所の第十番札所で、養老2年(718)の開山と伝わります。
鎌倉期に源頼朝の命により、この地域を治めた比企能員が再興しました。本尊の千手観音菩薩座像(秘仏)は北条政子の守り本尊として、その信仰も厚かったと云います。
天正19年(1591)には、徳川家康からも朱印地を与えられています。
(武蔵松山城に入っていた上田朝直の制札も残っているそうです)

20200202a20
正法寺の六面幢
天正10年(1582)の建立で、県の文化財にも指定されています。
残念ながら、表面が剥離してしまっている面も・・・。

20200202a21
最後に、物見山からの・・・眺望?
物見山は比企丘陵の最高峰で、その山名は坂上田村麻呂が東征の折、山頂に登って四囲を眺め渡したことに由来するのだそうです。

| | コメント (0)

2020年1月28日 (火)

蒲原城

20200125b01
蒲原城鳥観図

蒲原城は元々、駿河守護・今川家の属城でしたが、永禄11年(1568)に武田信玄が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川家救援に動く北条家の兵が入り、対武田の拠点としました。
しかし、翌永禄12年12月には武田家によって落城し、以降は天正10年(1582)の同家滅亡まで、その支配下に置かれました。
参考記事

20200125b02
鳥観図Aにある空堀。
藪で見えづらいのですが、人工的な遺構というよりは自然地形のようにも思えました。

20200125b03
Bの腰曲輪
2段構えのようになっていて、写真はその上段で・・・

20200125b04
こちらが下段部分を見下ろした様子。
妙にエッジが効いているのが、かえって気になる・・・。

20200125b05
Bの腰曲輪から、善福寺曲輪(D下を西へ回り込む通路状の遺構。
横堀、或いは塹壕のようにも見えたりして・・・(;^_^A

20200125b06
これに沿って西側へ回り込むと、善福寺曲輪と主郭(E)間の堀切から落ちる竪堀があります。

20200125b07
下まで続いています。

20200125b08
善福寺曲輪と主郭を隔てる堀切C

20200125b09
善福寺曲輪
土塁も残り、櫓台や・・・

20200125b10
逆茂木のディスプレイ?まで設置されていましたw

20200125b11
善福寺曲輪から堀切越しに主郭。
こうして見ると結構、高低差があります。

20200125b12
主郭

20200125b13
主郭からの眺め。
さった山まで綺麗に見通せます。

武田軍が駿河に侵攻した際、今川家の救援に動く北条家はさった山に大軍を布陣させますが、何故この蒲原城をその後方拠点としたのかが、よく見て取れるような光景です。

20200125b14
主郭から善福寺曲輪。

20200125b15
東海道歩きに想定よりも時間を要し、あまり蒲原城攻めには時間を割けませんでしたが、駐車場もあって見学のしやすい城跡でした。

| | コメント (0)

2020年1月27日 (月)

旧東海道 蒲原宿~西倉沢(間の宿)

今回も大磯に続く旧東海道歩き。
静岡県の蒲原宿から西へ、由比宿を抜けてさった峠の麓、西倉沢まで歩いてみます。

20200125a01
蒲原といえばこちら、歌川広重の東海道五十三次(保永堂版)「蒲原夜之雪」が有名ですね。
温暖な蒲原の地で雪がこれほど積もることは考えづらく、なぜ蒲原に雪を描いたのか、ミステリアスな謎も残る広重の傑作中の傑作とも称されています。
以前から、この絵に描かれた場所がどこなのか気になっていたのですが、よく見ると右上の方から坂を下ってきた東海道が、絵の中央付近で右へ折れているようにも見えます。
それに該当しそうな場所を地図で探し、予め見当をつけておいたのが・・・

20200125a02
蒲原宿の東の外れ、北の方角から南へ下ってきた旧東海道が・・・

20200125a03
右へ折れ、西へと進路をとるポイントです。
背景の山もどことなく、絵の構図とマッチしそうにも思えるのですが・・・いかがでしょうか?

20200125a04
すぐ近くには、蒲原宿の一里塚跡。
旧街道歩きでスタート地点に一里塚(跡)があると、歩いた距離もわかりやすくて助かります。

20200125a05
北条新三郎の供養碑
駿河に侵攻した武田家との抗争の中で北条家は、蒲原城に北条新三郎綱重(氏信/幻庵の子)を派遣して対武田の拠点としましたが、永禄12年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃を受けて落城し、新三郎も討死を遂げました。

20200125a06
東木戸(見附)の枡形
蒲原宿の江戸方の出入口になります。

20200125a07
蒲原宿案内図
こうして見ると旧東海道は、蒲原宿が置かれた位置だけ北へズレていますが、これは元禄12年(1699)に襲った津波によって大きな被害を受け、宿場ごと北へ移転したためだそうです。

20200125a08
なまこ壁と塗り家造りの家屋。
塗り家造りとは塗り壁の町屋を指し、防火性にも優れて「贅沢普請」とも言われたそうです。

20200125a09
冒頭でご紹介した、広重の「蒲原夜之雪」記念碑。

20200125a10
西本陣跡
蒲原宿には江戸中期まで、東西2つの本陣がありました。
その後、東本陣の家が途絶えたため、西本陣だけが幕末まで続きました。

20200125a11
御殿道跡
蒲原にはかつて、徳川将軍の休憩所として設けられた蒲原御殿がありました。
御殿の正確な位置は判っていないようですが、すぐ背後の山を「御殿山」、そしてこの道を「御殿道」と呼んでいたことから、この付近に存在したらしいことは確かなようです。
案内板によると蒲原御殿は、甲州征伐(天正10/1582年)から安土へと戻る織田信長のため、徳川家康が築いた「御茶屋」が元になっているともありました。

20200125a12
旧五十嵐歯科医院
大正初期の改装で、外観洋風・内観和風の偽洋風建築。
国の有形文化財にも登録されています。

20200125a13
旧東海道と蒲原宿の町並み。
写真左手前の建物は志田家住宅。こちらも国登録有形文化財です。

20200125a14
案内板で「美しい格子戸の家」として紹介されていたお宅。

20200125a15
宿場の西端でグイッと左(南)へ折れた先が・・・

20200125a16
西木戸(見附)跡。
蒲原宿の上方出入口です。

20200125a17
蒲原宿を出た後は、しばらく県道396号線に沿って進みます。

20200125a18
「神沢」の分岐は左へ。

20200125a19
見事なS字クランク。

20200125a20
由比新町の一里塚跡。
多少寄り道もしていますが、スタートから一里歩いたことになります。

20200125a21
由比宿、東木戸(見附)の枡形跡。

20200125a22
由比宿本陣跡。
現在は公園になっていて、由比宿交流館や広重の美術館などもあります。

20200125a23
本陣跡の向かいには、脇本陣跡も。

20200125a24
国の有形文化財に登録されている、清水銀行由比本町支店。

20200125a25
由比川の渡し跡。
歌川広重の東海道五十三次(佐野喜版)にも描かれている場所です。
対岸の松の先に、旧東海道の名残が残っています。

20200125a26
由比駅前を通過。
由比といえばやはり、桜えびですね。私も土産に購入いたしました。

20200125a27
また旧街道の風情が残る町並みに入りました。

20200125a28
寺尾村(由比寺尾)名主、小池邸。
(明治期/国登録有形文化財)

20200125a29
由比宿東海道あかりの博物館

20200125a30
寺尾の集落を抜け、しばらくは何もない道を進みます。
海側の眼下には、東名高速由比PA(下り)が見えていました。

20200125a31
由比⇔興津間の間の宿・西倉沢に入りました。
右側の、人が前に立っている建物は川島家。
西倉沢村の名主で、大名も休憩に利用していたので、村では本陣と呼ばれていました。

20200125a32
明治天皇ご東幸の際の休憩所にも充てられた柏屋。

20200125a33
この、さった峠への登り口が西倉沢の一里塚跡でもあります。
本日のスタートからちょうど二里。
さった峠は以前にも歩いていますし、この後は蒲原城にも行く予定を入れていましたので、旧東海道歩きはここまでとします。

20200125a34
最後に、そのさった峠への登り口に佇む望嶽亭藤屋
藤屋は茶店を営み、磯料理やアワビ、サザエのつぼ焼きなどを名物としていました。
離れ座敷からの富士の眺めが素晴らしかったことから「望嶽亭」とも呼ばれ、さった峠を往来する旅人の目と舌を楽しませてきました。
その様子は、広重も東海道五十三次の丸清(隷書)版で描いています。

そして望嶽亭には慶応4年(1868)3月、西郷隆盛との江戸無血開城に向けた下交渉に臨むため、西郷のいる駿府へ向かっていた山岡鉄舟(鉄太郎)が、さった峠で新政府軍兵士に誰何・襲撃されて逃げ込んできた、との伝承も伝わっています。
この日は幸運にも、内部を一般に公開していました。

20200125a35
鉄舟を匿った藤屋は、彼に漁師の格好をさせて、こちらの階段から海岸へ逃がしたと云います。
その際、鉄舟は最新式のフランス製10連発短銃を置いていったと伝わり、実際にその短銃も展示されていました。
※展示品は撮影不可となっていましたが、建物については許可を得ています。

20200125a36
望嶽亭の窓からの眺め。
今でこそ、国道1号線と東名高速が眼前を横切りますが、当時はさぞや雄大な太平洋が広がっていたことでしょう。

20200125a37
望嶽亭から海岸へ出て、蒲原方面を眺めた様子。
写真中央正面辺りが蒲原になります。たかだか二里程度とはいえ、こうして見ると結構歩いてきました。

この後は由比駅まで引き返し、電車で車を置いた新蒲原駅前へ戻って蒲原城へ向かいました。

| | コメント (0)

2020年1月18日 (土)

岐阜城の石垣発掘現場

岐阜城の天守台北西隅や二ノ門下から出土した石垣が、2020年1月14~18日の間だけ一般に公開されると聞き、矢も楯もたまらずに東京から日帰りで駆け付けてしまいました。

2020011501
在来線や路線バスへの乗り継ぎも順調に進み、予定よりも早く到着したので、まずは山麓居館区域を散策。
上の写真は、金箔瓦なども出土したC地区の池跡越しに、巨石が並べられた居館虎口方向。

2020011502
居館部の中枢、宮殿のような建物が建っていたのではと考えられているC地区。

2020011503
C地区の奥、谷の方へ入り込んだB地区。
こちらからも建物や水路、庭園跡が出土しているようです。

2020011504
C地区とB地区の間に並べられた巨石列。

2020011505
続いてA地区へ。
A地区では現在、調査結果に基づいて庭園の滝を再現する実験が実施されています。

2020011506
滝の再現。
向かって右の滝は、水量も結構ありました。

2020011507
令和2年12月末まで、9~17時の毎正時に15分ほど水が流されます。

2020011508
発掘の結果、実際にこうした滝の水受けと思われる川原石の集石が見つかっているそうです。

専門家の中には岩盤の上に水源がないとの理由から、滝の存在に懐疑的な意見もあるようです。

2020011509
しかし山麓居館には今もこうして、槻谷から豊富な水が流れ込んでいますし・・・

2020011510
多くの池や水路跡(写真)も見つかっているように、豊富な水源の下に水をふんだんに利用していたことが窺えます。
山の高い位置で槻谷の水源から樋を回すなどすれば、A地区に滝を演出することも可能だったのではないかと、私のお城仲間の方もtwitter上で提示されていましたが、私も同意です。
川原石の集石など、滝を連想させる遺構が見つかっている以上、水源問題はその存在を完全に否定し去るほどの要件は満たせていないのではないでしょうか。

2020011511
さて、それでは山上へ向かいます。
ロープウェイ乗り場では、モックン道三がお出迎えw

2020011512
岐阜城 山上部の図

2020011513
一ノ門

2020011514
一ノ門に残る石垣

2020011515
堀切(切通)を横目に通り過ぎ・・・

2020011516
二ノ門下の発掘現場へ。
裏込め石もたくさん出ており、野面に積まれた様子から織田信長入城以降の石垣と推定されています。

2020011517
二ノ門下から出土した石垣は、江戸時代の絵図にも描かれています。

2020011518
ピンクのテープが石垣の推定ラインで、出土した石垣自体はごく一部です。
高さも50㎝ほどしか残っていなかったようですが、江戸期の絵図には「石垣高一丈(約3m)」と書かれています。
瓦もたくさん出土したようで、瓦葺の門があったのではないかと考えられています。

2020011519
下台所曲輪への虎口となるニノ門には、他にも大きな石材で積まれた石垣があり、重要な門だったことを窺わせます。

2020011520
下台所曲輪

2020011521
下台所から上台所へと至る途中に積まれていた石垣。
平たい石をほぼ垂直に、あまり勾配をつけずに積み上げている特徴から、こちらの石垣は道三ら斎藤期のものではないかと思いますが、いかがでしょうか。

2020011522
いよいよ天守が近づいてきました。

2020011523
天守台北西隅の発掘現場へは、あちらの足場を上って向かいます。

2020011524
天守台北西隅から出土した石垣。

2020011525
裏込め石や間詰石も確認できます。
こちらも斎藤期の(とされている)石垣にはない野面積みの特徴で、信長の入城(1567)~1600年の廃城までの間に築かれた石垣と考えられます。
江戸期の絵図とも一致するようなので「天守台の石垣」という位置づけで問題はないのでしょうが、それが即ち「信長在城時=安土築城以前の天守台」ということにはならないかと思います。

2020011526
こうして見ると本来の石垣の北面は、明治43年に復興天守建造のために築かれた天守台(奥)よりも、50㎝ほど南へ引っ込んでいたようにも見えます。
あの黒い壁の向こう側にも回り込んでみましたが・・・

2020011527
やはり改変が著しく、実際の石垣がどのように続いていたかは判然としませんでした。

なお、発掘調査は岐阜城資料館の南斜面でも行われていますが、そちらは非公開でした。
やはり、石垣と裏込め石を確認しているとのことです。

2020011528
リニューアルされた天守内部の展示も観てから・・・

2020011529
裏門跡へ。

2020011530
裏門跡
右手前に、上の復元イメージ図Aの巨石列が倒れた状態で見えています。

2020011531
現在の登山道を挟んだ反対側にも巨石列。イメージ図のB部分と思われます。
右寄りの尖った石は、石垣の角とのこと。

門の周囲に集中して巨石を連ねる趣向は、山麓居館とも通じるものがありますね。

2020011532
イメージ図Cの石垣。
こちらは斎藤期のものと推定されています。

2020011533
最後に天守の南下、井戸上の石垣。

2020011534
下山後は岐阜市歴史博物館に開設された「麒麟がくる」の大河ドラマ館にも立ち寄り。

2020011535
諸事情で放映開始は遅れましたが、キャストの皆さんには頑張っていただきたいと思います。

| | コメント (0)

«大磯で歴史散策