2019年12月 3日 (火)

小田城、平沢官衙遺跡

今回はドライブがてら、ずっと未訪のままになっていた小田城跡(茨城県つくば市)へ。

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小田城
築城時期は定かではありませんが、鎌倉期以降、常陸国で勢力を張ってきた小田氏が代々居城としてきました。南北朝期には小田治久(7代)に迎えられた南朝方の重臣・北畠親房が、同城で「神皇正統記」を執筆しています。
小田氏15代・氏治は、上杉謙信や佐竹氏との争いの中で幾度となく居城を追われますが、その都度、しぶとく旧領を回復しました。
しかし永禄12年(1569/但し元亀4年=1573説が有力)に佐竹氏に敗れて土浦へ逃れると、それ以降、氏治が小田城に返り咲くことは叶いませんでした。
小田城には佐竹氏の家臣・梶原政景が城代として入城しています。この政景によって小田城には大改修が加えられたと考えられていますが、慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田転封に伴って廃城となりました。

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本丸北隅から、西面の堀と土塁。
北隅の土塁に開けられた通路?より、本丸内へ入ってみます。

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土塁を貫通する通路。
土塁の断面についての説明書きも。

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小田城本丸から振り仰ぐ筑波山(左奥)

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本丸内
様々な遺構が復元展示されていました。

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南西虎口

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南西虎口の先、南西馬出。
堀からは橋脚が出土しており、本丸との連絡は木橋で繋がれていました。

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南東隅の櫓台

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本丸から見る東曲輪

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東曲輪へと続く東虎口。
東曲輪とは、土橋と木橋を組み合わせて築いた橋で繋がっていたようです。

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東曲輪
東曲輪からは建物跡が殆ど検出されておらず、こちらもやはり馬出だったのではないか、とも考えられています。

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東曲輪に建つ城址碑と、奥に本丸北東隅の櫓台。

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本丸北東隅櫓台から、右に本丸、左に東曲輪。

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本丸全域

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本丸北面の堀と土塁。

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北虎口
北虎口を出た先にも、馬出が築かれていたようです。

小田城は綺麗に復元整備されており、とても「わかりやすい」城跡でした。
いずれは前出の図面を元に、本丸に限らず全域の痕跡探しなどもしてみたいですね。

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平沢官衙遺跡
奈良~平安期にかけての常陸国筑波郡の官衙(役所)跡です。
小田城跡から近かったので寄ってみました。

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発掘調査の結果、大型の高床式倉庫らしき建物が建ち並び、その周囲を溝で囲っていたことが判明しているそうです。
その建物の一部が復元されています。

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復元建物以外にも、建物跡の位置などが地面に示されていましたが、礎石に関しては、その全てが元の位置から動かされていたため、元の位置を推定して再配置されたとのことです。

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天気にも恵まれ、いいドライブになりました。

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2019年11月30日 (土)

大嘗宮を拝観

令和元年12月8日まで行われている大嘗宮の一般参観に足を運んできました。

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一般参観の入場口となる坂下門。
この日は天候にも恵まれ、多くの人で賑わっていました。

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なんと、桜と紅葉のコラボレーション。奥には富士見多聞櫓も。
桜は「十月桜」という品種で、4月上旬と10月頃の年2回開花するのだそうです。

なお11月30日からは、この先の乾通りも12月8日まで一般公開されます。

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富士見櫓の足元を抜け、本丸跡へ。

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大嘗宮は江戸城本丸、大奥跡地付近(天守台のすぐ近く)に建てられていました。

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天皇陛下の皇位継承に伴って執り行われる行事の一つ、大嘗祭。
大嘗宮は、その中核儀式となる「大嘗宮の儀」が行われる場所で、即位した新天皇が新穀を神々に供え、自らも召し上がって国家・国民の安寧と五穀豊穣を祈念されます。

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今回は「悠紀殿供饌の儀」が令和元年11月14日の夜、「主基殿供饌の儀」が同11月15日未明に行われました。

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お供えする神饌が調理された膳屋の壁面。

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宗教儀式としての性格があるため、国事行為となる「即位の礼」の各儀式とは異なり、「大嘗宮の儀」は皇室行事とされています。
それでも政教分離の原則から、公費を支出するべきではないとの意見もあり、経費節減のため、屋根が萱葺きから板葺きに変更されたり、一部の建物を組み立て式にしたりといった工法の変更もあったそうです。

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後方から。
向かって右の大きな建物が「主基殿」で、左奥が「悠紀殿」。

大嘗宮は一般参観が終了すると取り壊されるそうです。
ほんの少しの間、人混みから垣間見る程度でしたが、貴重な体験をさせていただきました。

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2019年11月29日 (金)

出石皿そば巡り、御着城、他

有子山城から下山した後は、しばし昼食を兼ねた自由行動。
出石の城下町をぶらり旅。

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出石のシンボル、辰鼓楼。
明治4年(1871)に、出石城三の丸大手門の石垣を利用して築かれた、時を告げる太鼓櫓。
明治14年からは時計台となり、札幌の時計台と並んで日本最古の時計台として現在に至っています。

出石へ来たからには、折角なのでやはりお蕎麦をいただかなくては♪

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ということで、いずし観光センターで「出石皿そば巡り」の巾着セットを購入。
販売価格は税別1,800円で、出石ちりめん製の巾着の中に永楽銭のコインが3枚入っており、コイン1枚につき皿そば3皿、企画に参加している36店舗で利用できます。
つまり、「異なる3店舗で少しずつ食べ比べができる」というもの。
(価格/店舗数はいずれも2019年11月現在)

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まず1軒目。
どうやら通常のそばつゆの他に、とろろや生卵も好みに応じて加えていくのが基本スタンス?のようです。
お店オリジナルの藻塩でいただくお蕎麦も美味でした。

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2軒目。
蕎麦の色や太さも、1軒目のものとは全然違いました。
これは確かに、食べ歩きをしながら好みのお蕎麦を探すのも楽しそうですね。

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入店して永楽銭コインを利用すると、巾着にお店のハンコが捺されます。
今回は時間もなく、2店舗のみでの利用となりましたが、仮に3店舗でコインを使い切っても9皿。特に男性には物足りないところですが、無論、追加注文も可能です。我々も2軒目で、たくさん追加させていただきました(笑)
また、巾着セットを購入すると、各資料館や土産物の購入にも割引が適用されるようです。

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桂小五郎居住跡(荒物屋跡)
元治元年(1864)の禁門の変で京を追われた桂小五郎は、9ヶ月間ほど出石に潜伏しています。

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家老屋敷

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さて、それでは出石をあとにします。
山頂に有子山城本丸の石垣も見えていますね♪

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解散場所である姫路駅へ向かう道すがら、竹田駅にも立ち寄って竹田城を遠望。

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姫路市御国野町、御着城跡

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御着城は播磨国の守護・赤松氏の家臣で、黒田官兵衛の主家でもあった小寺氏の居城でした。

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御着城本丸跡
現在は公民館が建っています。

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本丸跡に建つ黒田官兵衛顕彰碑。

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黒田家廟所
勘兵衛の祖父・重隆と生母を祀ります。

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文政11年(1828)、西国街道に架けられた天川橋。
昭和47年に橋脚が崩れて橋桁が落下したため撤去され、昭和53年に現在地(御国野公民館)に移設保存されました。
橋下の窪みは、御着城の堀跡とのことです。

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二の丸跡は現在、グラウンドになっています。
黒田家ともゆかりの深い、目薬の木が植えられていました。
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二の丸北側の堀と土塁跡。

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本丸とニの丸の間を通る道路にも、堀跡と思われる痕跡が残っていました。
先程の、二の丸北側土塁の延長線上です。

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最後は姫路駅にて解散。

今回は城友会らしからぬ攻城数の少なさでしたが、疲労感は一番かも・・・(^-^;
その分、素晴らしいお城に出会えたので満足です。
参加者のみなさん、お疲れさまでした☆

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2019年11月28日 (木)

有子山城

城友会2019 in 但馬、2日目は有子山城を攻めます。

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朝8時前、霧が立ち込める山麓の出石城。
出石城には7年ぶりの再訪となりました。

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出石城本丸に建つ感応殿。
宝永3年(1706)以降、出石藩主となった仙石氏の祖・仙石権兵衛秀久を祀ります。
我々も登山の無事を祈って参拝。

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出石城稲荷曲輪(有子山稲荷神社)脇の登山口。
7年前は少し登った先で、日没を考慮して断念しました。

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但馬国の守護だった山名氏は、室町時代の最盛期には一族で日本66ヶ国のうち11ヶ国もの守護を兼ね、「六分の一殿(衆)」と称されるほどの勢力を誇りましたが、戦国期にはその勢いも衰退していきます。
そして永禄12年(1569)、織田信長の命を受けた木下秀吉の侵攻(出雲の奪還を目指す尼子氏の残党が挙兵して祐豊がそれを支援したため、毛利氏と友好関係にあった信長が元就の要請に応じて兵を差し向けた)を受け、祐豊は居城の此隅山城(有子山の北方4~5㎞)を追われました。

堺に亡命した祐豊はその後、信長に取り入って但馬国出石への復帰を許されます。天正2年(1574)、彼が新たな居城としたのが有子山城でした。此隅=「子盗み」を連想させる名を嫌って「有子」と命名されたとも伝わります。
その後、織田×毛利の関係が友好から対立へと変化してゆく中で山名氏の方針も揺れ動き、最終的には天正8年(1580)、再び織田軍の侵攻を受けて有子山城は落城しました。
江戸時代に入り、山麓に出石城が築かれたことで廃城になっています。

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有子山城へは、ご覧のような急勾配の尾根をひたすらに直登します・・・とにかくキツい。
岩肌が露出した箇所も多く、地面が濡れている時などは特に下りに注意を要します。

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尾根を寸断する堀切Aに架かる土橋。

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堀は斜面を綺麗に落とされていました。

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ひたすら急斜面を登り詰めた先に広がる曲輪B
本丸(主郭)まではまだ距離にして500mほどもありますが、ここまで来ればもう急勾配の登りは終わりです。
ここまでの道中、樹間からチラチラと見えていた雲海がまだ残っていて間に合いそうだったので、兎にも角にもまずは本丸へ急ぐことにしました。

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井戸曲輪の下、砂防目的で築かれたと思われる石垣。

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ようやく主郭部の石垣たちも見えてきました。
目指す本丸もすぐそこ!

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第六~第三曲輪に残る石垣を振り返りつつ・・・

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いよいよ本丸へ。
写真は第二曲輪から見た本丸の石垣(西面)。

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石垣と雲海・・・やっぱり、いいですよねぇ~。

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本丸石垣(北面)

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本丸内。そして・・・

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本丸から眺め渡す見事な雲海!

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視界に入る限りの一面びっしりと、隙間なく広がっていました。
ただただ感動・・・。

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疲れも語彙力も全て吹き飛び「すごい・・・」と呟くことしかできず、しばらくは呆然と見惚れていました。
(写真提供:流星☆さん)

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さて、ひとしきり雲海を堪能したところで、ようやく城攻めを再開します(笑)
写真は、本丸から千畳敷を見た様子。間の大堀切がまた、とんでもなく規模が大きい!

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第四曲輪
ここから南へ回り込み、先ほどの本丸⇔千畳敷間の堀切へ向かいます。

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第三曲輪南面の石垣。

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同じ石垣を反対側から。

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本丸⇔千畳敷間の大堀切。

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千畳敷から見る、大堀切越しの本丸。

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千畳敷
その名の通り、かなり広い曲輪でした。

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千畳敷を東へ少し下った先、Cの堀切。

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更に堀切D

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堀切Dの北側。見事な竪堀になっていました。

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再び第六曲輪辺りまで戻り、今度は石取り場を目指します。
写真は、第五曲輪南西面の石垣。

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堀切E

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堀切Eもいい感じに切れていますねぇ~。

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石取り場

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石取り場に取り残された矢穴石。

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Fの竪堀へ向かう途中にあった、窯?のような痕跡。

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竪堀F

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最後は北西に伸びる尾根に築かれた曲輪群(写真)を下り、堀切GHへ向かいます。

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数段下った先の曲輪。不思議な石列も。

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堀切G

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とても規模の大きな堀切です。

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堀底から。

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堀切Gを対岸(下方)から。
攻城側からしてみれば、絶望的な高低差。

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堀切H
こちらには土橋が架けられていたようです。

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下山する頃には雲海も晴れてきて、城下町が見えるようになっていました。

有子山城・・・石垣に堀切、雲海、登山のキツさ、、、なにもかもが想像を超える凄さでした。
登り始めから下山完了まで3時間強、たっぷりと堪能させていただきました。

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2019年11月27日 (水)

但馬八木城

11月の下旬といえば、毎年恒例の城友会
時の移ろいは早いもので・・・今年でなんと、8年連続での参加となりました。
今回攻める地は、来年の大河ドラマの主人公・明智光秀が平定したことでも知られる丹波!・・・だったはずが、気がつけば行先リストはどれも但馬のお城?宿泊地も但馬豊岡??
・・・という訳で、城友会2019 in 但馬のスタートです(笑)

新神戸駅で集合し、まず向かった先は・・・

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但馬八木城

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但馬八木城の築城時期は不明ですが、中世には但馬国の守護でもあった山名氏の家臣で、山名四天王にも数えられる八木氏が居城としていました。

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城山には、南東側に伸びる尾根を直登します。
それほどの急勾配には見えなかったのですが、どうした訳か息が上がり、私だけペースが遅れてしまいました・・・。

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どうにか辿り着いた曲輪。

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曲輪の南西端にて。

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奥に曲輪の切岸を見る。

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本丸の石垣

天正8年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に伴って八木氏は秀吉の軍門に下り、因幡の若桜鬼ヶ城へ移されました。
この石垣は、天正13年に八木城主となった別所重棟(三木城主・別所長治の伯父)、及び子の吉治(一説には長治の子とも)による改修と考えられています。

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本丸南西面の石垣

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高い山の上に忽然と姿を現す石垣に心を奪われます。

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緩やかに描かれる曲線がまた、なんとも言えず格好いい・・・。

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こちらは、本丸を北側に回り込んだ先。

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そして、本丸虎口付近。

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本丸
奥には櫓台らしき土盛りも。

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A地点にある堀切。

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上の図面には載っていませんが、主郭部から更に北西方向へ伸びる尾根を進んだ先には、八木土城があります。
ご覧のような細尾根を進み・・・

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200mほどで八木土城に到着。

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土城は尾根上一列に並べられた曲輪が、階段状に連なる構造になっています。
そして何故か、城下町に面した南西側にだけ土塁が盛られていました。

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曲輪をいくつか登っていくと、しっかりとした外枡形も。
こうした遺構の特徴から、土城にも別所氏時代の改修が入っているのではないかと考えられています。

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外枡形の先の曲輪。
奥に見える切岸の上が、ピークに位置する土城の主郭です。

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八木城の麓には旧山陰街道が走り、16世紀後半までの城主居館跡とされる殿屋敷遺跡と、それ以降の居館跡と考えられている御里遺跡も残っているようです。

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但馬八木城、とても見応えのある城跡でした。

移動距離(時間)が長かったこともあり、この日の城攻めは但馬八木城のみで終了。
この後は宿泊地の豊岡まで移動し、豊岡城の移築門などを車で少しめぐりました。

夜は居酒屋での飲み会でしたが、疲労もあって1次会で終了・・・城友会史上初めて、2次会のカラオケ無しでお開きとなりました。年々、あまり無理がきかないお年頃になってきたということか・・・(;^_^A
誰かさんは、この日のために用意してきた替え歌の新曲を披露する機会を失って、部屋で一人悶々としていたみたいだけど(笑)

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2019年11月21日 (木)

二俣城、清瀧寺(信康切腹事件について)

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二俣城(浜松市天竜区二俣町)は、天竜川が足元を洗う段丘上に築かれていました。
元亀~天正年間には武田×徳川間の攻防の舞台にもなり、元亀3年(1572)には西上作戦の途にある武田信玄が徳川方にあった二俣城を攻略し、天正3年(1575)になると、今度は長篠で武田軍に勝利した徳川家康が奪還しています。

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北曲輪と本丸間に落とされた竪堀。
すぐ眼下には天竜川の流れも見えていました。

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同じく、北曲輪と本丸間の堀切。

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北曲輪(右)と、左に竪堀。
北曲輪には現在、旭ヶ丘神社が祀られています。

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本丸北側の喰違い虎口。
奥に天守台も見えています。

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本丸

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本丸南側の枡形虎口。

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ニノ曲輪へ通じる大手(追手)虎口。

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天守台

二俣城は天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた徳川家康の嫡男・信康が最期を遂げた地としても知られています。
麓には信康の菩提を弔うため、家康が建立した清瀧寺があります。

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その清瀧寺に復元された、二俣城の水の手櫓。
元亀3年に二俣城を包囲した武田軍は、城兵が天竜川に架けた汲み上げ用の櫓を破壊し、水の手を断つことで攻略に成功したと云います。

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信康堂

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信康堂に安置されている信康の木像。

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清瀧寺本堂
手前には、家康お手植えの蜜柑…の分木も。

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二俣尋常高等小学校に通う幼き日の本田宗一郎が、正午を知らせる寺の鐘を30分早く衝き、まんまと早弁にありつけたとの逸話も残る梵鐘。
(清瀧寺のお隣には、本田宗一郎ものづくり伝承館があります)

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岡崎三郎信康の廟所

信康の死については一般的に「織田信長の命によって切腹に追い込まれた」(三河物語)とされ、長らく定説化してきました。現地(二俣城跡や清瀧寺)に設置された案内板もことごとく、この説を採用しています。
しかし、武田家がまだ健在であるこの時期に、対武田の戦略上、重要な存在である徳川家との同盟関係を破綻させかねない要求を、確たる理由もなく信長が家康に強いるとは少々考えづらいものがあります。

他の文献を見ると信長は、信康問題で安土に赴いた酒井忠次に対し、
「如何様にも存分次第」(松平記)
「家康存分次第ノ由返答有」(当代記)
つまり、「家康の考え次第だ」「家康の判断に任せる」と答えています。

この事件は信康拘束後の家康の動きを見る限り、信康を担ぐ岡崎衆の浜松への反発と、そうした動きに対して家康が警戒心・危機感を募らせた結果と、個人的には考えています。その背景には、4年前の天正3年に発覚した大賀(大岡)弥四郎事件(岡崎衆の中から武田家への内通を画策する動きが発覚して粛清された事件)の記憶も影響したかもしれません。
いずれにしても、(家臣団を含む)徳川家内部の事情に起因しているのではないでしょうか。
安土に酒井忠次が派遣されたのは、信康の岳父で偏諱も受けている信長を憚り、信康の処分について事前に相談し、伺いを立てておくためだったものと思います。

家康は信長側近の堀秀政へ宛てた八月八日付の(信長への)披露状で、
「三郎不覚悟付而去四日岡崎を追出申候」
(徳川家康堀久太郎宛/信光明寺文書)
と報告しています。
「不覚悟付而」…信康の処断を決めたのがあくまでも家康自身だったことを、この一言が伺わせている気がしてなりません。

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2019年11月20日 (水)

かんざんじロープウェイ

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浜名湖パルパルの脇から、浜名湖上を大草山の展望台へと渡るかんざんじロープウェイ。
2台のロープウェイが交互に、10分間隔で運行されています。

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舘山寺(右下)や、浜名湖パルパルに姿を変えた堀江城跡を俯瞰。
堀江城は、岡崎城を追われた松平信康(家康嫡男)が一時、身柄を移された城でもあります。

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今や、すっかり有名になった井伊谷方面。

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左に浜名湖パルパル、右が大草山。
大草山の展望台はオルゴールミュージアム(有料)にもなっています。

日本で唯一、湖上を渡るかんざんじロープウェイ。
専用駐車場の料金に少々驚かされましたが(笑)、展望台からの眺めはまさしく絶景。
湖面を見下ろしながらの空中散歩も、結構楽しめます。

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2019年11月19日 (火)

広徳寺

ようやく秋の気配も漂い始めた11月のとある日曜日。
本当ならば筑波方面へ遠征しようと思っていたのですが、寝過ごしてしまい断念。
代わりに手近なところで、あきる野市の広徳寺へお邪魔してみました。

道中、先の台風による土砂崩れなどの影響で通行止め箇所がいくつかあり、幾度となく迂回を余儀なくされました。
広徳寺の周辺は道幅も狭く、車での走行には注意が必要です。

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広徳寺総門(市指定文化財)
掲げられた額の「穐留禅窟」は松江藩主・松平不眛の筆によりますが、実際に額が製作されたのは不昧が没した1年後の文政2年(1819)。
松江の不眛と広徳寺に、どのような繋がりがあったのでしょうか。

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山門
こちらも市指定文化財。

広徳寺は応安6年(1373)の開基。
天文年間に北条氏康によって堂舎が再建され、江戸時代には幕府から40石の朱印地も与えられていました。
現在、その境域は東京都の史跡に指定されています。

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山門を抜けた先、大きな銀杏の木の間から本堂が覗いています。

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とても素敵な茅葺屋根の本堂(左)と庫裡(右)。

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広徳寺には、発給名義は真月斎道俊(大石定久)ですが、北条氏の「禄寿応穏」の虎朱印が捺されている寺領書立文書が残されています。
大石定久は北条氏康の子・氏照を養子に迎えて家督を譲り、五日市の戸倉城に隠居して道俊と号しました。
但し、その没年は天文18年と伝えられており、天文20年9月6日付の本文書と整合性が取れないことになってしまいますが、この辺りはどういうことになるのでしょうか。。。

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東京都の天然記念物に指定されているタラヨウ(モチノキ科)

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同じく都指定天然記念物、カヤ(イチイ科)

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まだまだ豊かな自然が残るあきる野。
周辺の情景をゆったりと愉しみながら、ウォーキングのついでにでも立ち寄ってみるのもいいのではないでしょうか。

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2019年11月18日 (月)

高遠城・一夜の城・法華寺 …信長の甲州征伐 信濃路④

三月十八日、信長公、高遠の城に御陣を懸けられ、
三月十九日、上の諏訪法花寺に御居陣。諸手の御陣取り段々に仰せ付けられ侯なり。
(信長公記 巻十五「人数備への事」)

天正10年(1582)3月18日、飯島を出立した織田信長高遠城に宿陣し、次いで翌19日、信濃での最後の陣所となる上諏訪の法華寺に到着しました。

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高遠城
個人的には6年ぶりの再訪となりました。

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高遠城に設置されていた、織田信忠による高遠城攻めの案内板。

三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、松尾の城主小笠原掃部大輔を案内者として、河尻与兵衛、毛利河内守、団平八、森勝蔵、足軽に御先へ遣はさる。中将信忠卿は御ほろの衆十人ぱかり召し列れ、仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。
(信長公記 巻十五「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」)

3月1日、飯島から高遠へ向かった織田信忠は、貝沼原に陣を置き、母衣衆10人ばかりを召し連れ、川手前の高遠城を見下ろす高山へ自ら物見に出ています。
この時、信忠が貝沼原に布いた陣がいずれの地にあったのか、具体的には定かではありませんが・・・

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その候補地の一つとされるのが、伊那市富県貝沼一夜の城
こちらも6年ぶりの再訪です。

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一夜の城については、6年前の記事をご参照ください。

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右に高遠城、川(アーチ橋が見える)を挟んだ左が、信忠が物見に出た川よりこなた高山
高遠城に籠る仁科盛信は降伏を拒み、3月2日、信忠軍の猛攻撃の前に城と共に華々しく散りました。

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高遠城を出た信長の軍勢が、どのルートで諏訪へ向かったかはわかりませんが、我々は杖突峠を越えて・・・

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法華寺へ。
吉良義周の墓所にもお参りさせていただきました。

上諏訪に到着した信長は4月2日まで当地に滞在し、諸々の戦後処理を施した後、雄大な富士山や新府城の焼け跡を眺めつつ、翌3日に甲斐の甲府へ入りました。
甲府を出て安土への凱旋の途に就くのは7日後、4月10日のことです。
※なおこの間には、天正2年の明知城落城の要因となった飯羽間右衛門尉が捕らえられ、処刑されていることも添えておきます。

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旅の最後に、諏訪大社上社にもお参り。

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上諏訪駅で解散し、帰路はスーパーあずさにて。

私の希望を叶え、旅に同行して車を出してくれた友人には感謝しかありません。
いずれまた、今度はちょっと視点を変えて中馬街道を旅しましょう。

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2019年11月17日 (日)

大島城・飯島城 …信長の甲州征伐 信濃路③

三月十七日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、飯島に至りて御陣取り。
(信長公記 巻十五「武田典厩生害、下曽禰忠節の事」)

天正10年(1582)3月17日、飯田を出立した織田信長大島を通過し、飯島まで陣を進めました。

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大島城縄張図

元亀2年(1571)3月、武田信玄は大島城に大修築を加え、伊那における一大拠点としたと云います。
今日に残る遺構も、その大部分はこの時の縄張によるものだそうです。

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の馬出
三の丸とは木橋で繋がっていたと考えられています。

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三の丸

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丸馬出への枡形は・・・。

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三の丸東端部

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二の丸から三の丸へせり出す馬出(左)
の堀がまた見事なこと。

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の馬出を別角度から。

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二の丸に残る土塁。奥にの櫓台。

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二の丸と本丸間の堀。
手前の二の丸側の切岸には、小さな腰曲輪も。
堀底を写真左方向へ下っていくと井戸曲輪へと繋がっており、井戸への出入りを見張る役割があったと考えられています。

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本丸

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本丸虎口の木戸跡。

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本丸の櫓台。

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本丸東側の腰曲輪。
稲荷神社が祀られていた痕跡も。

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城跡のすぐ脇を流れる天竜川。

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井戸曲輪へ。

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井戸

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付近の堀。

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南側の外堀。

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大島城の代名詞ともいえる三日月堀

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天正10年2月、大島城は信玄弟の信廉(逍遙軒信綱)らが守備していましたが、織田信忠率いる軍勢が攻め入って来ると夜陰に紛れて逃亡し、大島城は呆気なく落城しました。

続いて飯島城へ。

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飯島城の北西に位置する西岸寺。
鎌倉末創建の古刹で、城主・飯島氏ともゆかりが深いと云います。

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飯島町の名勝にも指定されている西岸寺の参道。

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飯島城縄張図

飯島城は武田家に従う信濃源氏・飯島氏の居城。
本城・登城からなる中世後期の城域と、その東方に広がる前期のものとに分かれています。

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登城北側の堀跡。

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本城の堀と土塁。
手前は虎口に架かる土橋のようにも見えますが、後世に車両の通行のために架けられたものかもしれません。

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本城北西側の堀跡。

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本城北側の堀跡。

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思いがけず鮮明な遺構と出会い、興奮を覚えました。

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本城郭内
天正10年2月、飯島城は織田信忠軍の侵攻によって落城しました。
飯島城を落とした信忠は、この地から仁科盛信の籠る高遠城攻略へと向かっています。
織田信長、そして信忠もこの郭に滞在したのでしょうか。

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