2020年2月11日 (火)

七ツ塚古墳群

今回は地元の、超マイナーな史跡を簡単にご紹介。

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日野台地の北西部に位置する七ツ塚古墳群(日野市指定史跡)です。
現在は五基の墳丘が残り、発掘調査の結果、横穴式石室や直刀・鉄鏃などの副葬品の他、周辺からも女性埴輪・円筒埴輪・管玉・勾玉などが出土しているそうです。
上の写真は、七ツ塚公園(日野市新町5丁目)に残る一基。

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付近の畑に残る墳丘。
手前の墳丘の奥、直線上にもう一基小さく見えています。

これらの古墳は、6~7世紀頃の造営と考えられています。
果たして、どのような人々がこの地に勢力を張り、どのような生活を営んでいたのでしょうか。

それにしてもこの日は、富士山が奇麗でした。

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2020年2月 5日 (水)

滝山城の畝状遺構

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最近下草が刈られ、上図A曲輪東側の畝状の遺構(水色の〇で囲んだ部分)が綺麗に見えるようになったと聞き、様子を見に行って来ました。

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A曲輪
ここもかなり伐採したようで、曲輪中央を仕切るような土塁も綺麗に見えていました。

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A曲輪から見下ろす東側の畝状遺構
パッと見の印象としては、畝の規模とか雰囲気は、同じ八王子市内の浄福寺城のものに似ているような気もします。

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畝が残る地点は緩やかな傾斜になっており、横堀という感じでもなさそうです。
(写真のすぐ右手は、A曲輪の切岸)

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畝が並ぶ北側には、大きな竪土塁が行く手を遮ります。

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縦土塁(写真手前)にぶつかって右(写真左)へ折れた先は・・・

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急斜面となって、大池方面に落ち込んでいます。
(奥に大池の堤が見えています)

こうして見ていくとA曲輪下の畝状遺構は、曲輪下に残る緩斜面を横移動や足掛かりとして、寄せ手に利用させないための処置だったのかもしれないと思えてきました。

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2020年2月 4日 (火)

足利基氏の塁跡と岩殿観音正法寺

今回は埼玉県東松山市大字岩殿地区へのドライブ。

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まずは、足利基氏の塁跡から。

足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱
直義方について失脚し、信濃に逐われた上杉憲顕に変わって、上野・越後両国の守護には尊氏方の宇都宮氏綱が補任されました。
ところが、初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は尊氏の死後、上杉憲顕を関東管領に据えようと画策し、越後守護職も憲顕に与えます。
これに反発し、憲顕の鎌倉入りを阻止しようと兵800を繰り出した宇都宮氏の重臣・芳賀氏(越後守護代)に対し、基氏も3,000の兵を率いて出陣し、両軍は岩殿山・苦林野で激突しました。
その際に基氏が布陣した地こそ、この足利基氏の塁跡と考えられています。

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西面の堀跡と土塁。

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東面の堀跡。

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標柱や案内板も立つ東面から北側の藪へ入ると、北面の土塁や堀も残っていました。
足利基氏の塁跡は東西180m×南北80m程の範囲に、丘陵を背(北)にして東西北の三方にこうした堀や土塁が廻らされています。

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北面の堀跡。
ここから北側はゴルフ場の敷地になっているようで、堀底に境界となるロープも張られていました。

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対岸(北)の方が地面が高く、あちら側から覗き込めばより一層、空堀の規模を体感できそうでしたが、立ち入るわけにもいきませんので諦めます。

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空堀に沿った土塁の手前(南)には、曲輪跡らしき小さな削平地も。
それにしても藪り具合が凄く、戻る際に入ってきたルートを見失ってしまいました。

基氏は岩殿山・苦林野合戦に勝利した後、すぐに宇都宮・芳賀らの本拠地である下野国へ向けて進軍し、岩殿には短い期間しか在陣していなかったため、こうした遺構は基氏が築いたものではなく、元々存在していた豪族(比企能員か)の館跡を利用したのではないか、とも考えられています。
なお、合戦のあった年について、『桜雲記』という史料には「貞治8年(正しくは応安3年)/建徳元年(1370)の8月」とあるらしいのですが、基氏は貞治6年/正平22年(1367)に死去しているようなので、やはり定説通り貞治2年/正平18年(1363)だったのではないでしょうか。
※苦林古墳の供養塔(文化10年/1813建立)では「貞治4年」

続いて、足利基氏の塁跡前の道を西へ進み、正法寺へ向かいます。

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その昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めた場所に出現したとの伝承も残る弁天沼。

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阿弥陀堂の板石塔婆
応安元年(1368)のもので、当時、付近には阿弥陀堂が建っていたようです。
(現在の岩殿会館辺り)

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正法寺の参道・門前町の入口となる惣門橋。

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一直線に伸びる参道と門前町。
今でこそ静かな集落といった風情ですが、昭和の初期までは多くの旅館や商店が軒を並べ、かなりの賑わいを見せていたそうです。

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参道沿いのお宅には一軒一軒、屋号や僧房跡などを示す木札が掲げられていました。

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中には、こんなお宅も・・・現役の畳屋さん?

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参道の突き当り、正法寺仁王門。
元々は運慶作の仁王像が安置されていましたが、残念ながら江戸期に焼失しています。
現在のものは文化年間の作だそうです。

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山号は無論、「岩(巌)殿山」。

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鐘楼
元禄15年(1702年)の建立。

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銅鐘
元享2年(1322)の鋳造。
縦に筋のように入った疵は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたために付いたもの、とされています。

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鐘楼前から、参道と門前町。
足利基氏の塁跡は、この参道を真っ直ぐ惣門橋まで進み、その先で少し右(東)へカーブした先になります。

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観音堂

岩殿観音正法寺は坂東三十三箇所の第十番札所で、養老2年(718)の開山と伝わります。
鎌倉期に源頼朝の命により、この地域を治めた比企能員が再興しました。本尊の千手観音菩薩座像(秘仏)は北条政子の守り本尊として、その信仰も厚かったと云います。
天正19年(1591)には、徳川家康からも朱印地を与えられています。
(武蔵松山城に入っていた上田朝直の制札も残っているそうです)

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正法寺の六面幢
天正10年(1582)の建立で、県の文化財にも指定されています。
残念ながら、表面が剥離してしまっている面も・・・。

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最後に、物見山からの・・・眺望?
物見山は比企丘陵の最高峰で、その山名は坂上田村麻呂が東征の折、山頂に登って四囲を眺め渡したことに由来するのだそうです。

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2020年1月28日 (火)

蒲原城

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蒲原城鳥観図

蒲原城は元々、駿河守護・今川家の属城でしたが、永禄11年(1568)に武田信玄が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川家救援に動く北条家の兵が入り、対武田の拠点としました。
しかし、翌永禄12年12月には武田家によって落城し、以降は天正10年(1582)の同家滅亡まで、その支配下に置かれました。
参考記事

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鳥観図Aにある空堀。
藪で見えづらいのですが、人工的な遺構というよりは自然地形のようにも思えました。

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Bの腰曲輪
2段構えのようになっていて、写真はその上段で・・・

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こちらが下段部分を見下ろした様子。
妙にエッジが効いているのが、かえって気になる・・・。

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Bの腰曲輪から、善福寺曲輪(D下を西へ回り込む通路状の遺構。
横堀、或いは塹壕のようにも見えたりして・・・(;^_^A

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これに沿って西側へ回り込むと、善福寺曲輪と主郭(E)間の堀切から落ちる竪堀があります。

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下まで続いています。

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善福寺曲輪と主郭を隔てる堀切C

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善福寺曲輪
土塁も残り、櫓台や・・・

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逆茂木のディスプレイ?まで設置されていましたw

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善福寺曲輪から堀切越しに主郭。
こうして見ると結構、高低差があります。

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主郭

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主郭からの眺め。
さった山まで綺麗に見通せます。

武田軍が駿河に侵攻した際、今川家の救援に動く北条家はさった山に大軍を布陣させますが、何故この蒲原城をその後方拠点としたのかが、よく見て取れるような光景です。

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主郭から善福寺曲輪。

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東海道歩きに想定よりも時間を要し、あまり蒲原城攻めには時間を割けませんでしたが、駐車場もあって見学のしやすい城跡でした。

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2020年1月27日 (月)

旧東海道 蒲原宿~西倉沢(間の宿)

今回も大磯に続く旧東海道歩き。
静岡県の蒲原宿から西へ、由比宿を抜けてさった峠の麓、西倉沢まで歩いてみます。

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蒲原といえばこちら、歌川広重の東海道五十三次(保永堂版)「蒲原夜之雪」が有名ですね。
温暖な蒲原の地で雪がこれほど積もることは考えづらく、なぜ蒲原に雪を描いたのか、ミステリアスな謎も残る広重の傑作中の傑作とも称されています。
以前から、この絵に描かれた場所がどこなのか気になっていたのですが、よく見ると右上の方から坂を下ってきた東海道が、絵の中央付近で右へ折れているようにも見えます。
それに該当しそうな場所を地図で探し、予め見当をつけておいたのが・・・

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蒲原宿の東の外れ、北の方角から南へ下ってきた旧東海道が・・・

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右へ折れ、西へと進路をとるポイントです。
背景の山もどことなく、絵の構図とマッチしそうにも思えるのですが・・・いかがでしょうか?

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すぐ近くには、蒲原宿の一里塚跡。
旧街道歩きでスタート地点に一里塚(跡)があると、歩いた距離もわかりやすくて助かります。

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北条新三郎の供養碑
駿河に侵攻した武田家との抗争の中で北条家は、蒲原城に北条新三郎綱重(氏信/幻庵の子)を派遣して対武田の拠点としましたが、永禄12年(1569)12月6日、蒲原城は武田軍の攻撃を受けて落城し、新三郎も討死を遂げました。

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東木戸(見附)の枡形
蒲原宿の江戸方の出入口になります。

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蒲原宿案内図
こうして見ると旧東海道は、蒲原宿が置かれた位置だけ北へズレていますが、これは元禄12年(1699)に襲った津波によって大きな被害を受け、宿場ごと北へ移転したためだそうです。

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なまこ壁と塗り家造りの家屋。
塗り家造りとは塗り壁の町屋を指し、防火性にも優れて「贅沢普請」とも言われたそうです。

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冒頭でご紹介した、広重の「蒲原夜之雪」記念碑。

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西本陣跡
蒲原宿には江戸中期まで、東西2つの本陣がありました。
その後、東本陣の家が途絶えたため、西本陣だけが幕末まで続きました。

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御殿道跡
蒲原にはかつて、徳川将軍の休憩所として設けられた蒲原御殿がありました。
御殿の正確な位置は判っていないようですが、すぐ背後の山を「御殿山」、そしてこの道を「御殿道」と呼んでいたことから、この付近に存在したらしいことは確かなようです。
案内板によると蒲原御殿は、甲州征伐(天正10/1582年)から安土へと戻る織田信長のため、徳川家康が築いた「御茶屋」が元になっているともありました。

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旧五十嵐歯科医院
大正初期の改装で、外観洋風・内観和風の偽洋風建築。
国の有形文化財にも登録されています。

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旧東海道と蒲原宿の町並み。
写真左手前の建物は志田家住宅。こちらも国登録有形文化財です。

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案内板で「美しい格子戸の家」として紹介されていたお宅。

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宿場の西端でグイッと左(南)へ折れた先が・・・

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西木戸(見附)跡。
蒲原宿の上方出入口です。

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蒲原宿を出た後は、しばらく県道396号線に沿って進みます。

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「神沢」の分岐は左へ。

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見事なS字クランク。

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由比新町の一里塚跡。
多少寄り道もしていますが、スタートから一里歩いたことになります。

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由比宿、東木戸(見附)の枡形跡。

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由比宿本陣跡。
現在は公園になっていて、由比宿交流館や広重の美術館などもあります。

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本陣跡の向かいには、脇本陣跡も。

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国の有形文化財に登録されている、清水銀行由比本町支店。

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由比川の渡し跡。
歌川広重の東海道五十三次(佐野喜版)にも描かれている場所です。
対岸の松の先に、旧東海道の名残が残っています。

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由比駅前を通過。
由比といえばやはり、桜えびですね。私も土産に購入いたしました。

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また旧街道の風情が残る町並みに入りました。

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寺尾村(由比寺尾)名主、小池邸。
(明治期/国登録有形文化財)

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由比宿東海道あかりの博物館

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寺尾の集落を抜け、しばらくは何もない道を進みます。
海側の眼下には、東名高速由比PA(下り)が見えていました。

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由比⇔興津間の間の宿・西倉沢に入りました。
右側の、人が前に立っている建物は川島家。
西倉沢村の名主で、大名も休憩に利用していたので、村では本陣と呼ばれていました。

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明治天皇ご東幸の際の休憩所にも充てられた柏屋。

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この、さった峠への登り口が西倉沢の一里塚跡でもあります。
本日のスタートからちょうど二里。
さった峠は以前にも歩いていますし、この後は蒲原城にも行く予定を入れていましたので、旧東海道歩きはここまでとします。

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最後に、そのさった峠への登り口に佇む望嶽亭藤屋
藤屋は茶店を営み、磯料理やアワビ、サザエのつぼ焼きなどを名物としていました。
離れ座敷からの富士の眺めが素晴らしかったことから「望嶽亭」とも呼ばれ、さった峠を往来する旅人の目と舌を楽しませてきました。
その様子は、広重も東海道五十三次の丸清(隷書)版で描いています。

そして望嶽亭には慶応4年(1868)3月、西郷隆盛との江戸無血開城に向けた下交渉に臨むため、西郷のいる駿府へ向かっていた山岡鉄舟(鉄太郎)が、さった峠で新政府軍兵士に誰何・襲撃されて逃げ込んできた、との伝承も伝わっています。
この日は幸運にも、内部を一般に公開していました。

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鉄舟を匿った藤屋は、彼に漁師の格好をさせて、こちらの階段から海岸へ逃がしたと云います。
その際、鉄舟は最新式のフランス製10連発短銃を置いていったと伝わり、実際にその短銃も展示されていました。
※展示品は撮影不可となっていましたが、建物については許可を得ています。

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望嶽亭の窓からの眺め。
今でこそ、国道1号線と東名高速が眼前を横切りますが、当時はさぞや雄大な太平洋が広がっていたことでしょう。

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望嶽亭から海岸へ出て、蒲原方面を眺めた様子。
写真中央正面辺りが蒲原になります。たかだか二里程度とはいえ、こうして見ると結構歩いてきました。

この後は由比駅まで引き返し、電車で車を置いた新蒲原駅前へ戻って蒲原城へ向かいました。

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2020年1月18日 (土)

岐阜城の石垣発掘現場

岐阜城の天守台北西隅や二ノ門下から出土した石垣が、2020年1月14~18日の間だけ一般に公開されると聞き、矢も楯もたまらずに東京から日帰りで駆け付けてしまいました。

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在来線や路線バスへの乗り継ぎも順調に進み、予定よりも早く到着したので、まずは山麓居館区域を散策。
上の写真は、金箔瓦なども出土したC地区の池跡越しに、巨石が並べられた居館虎口方向。

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居館部の中枢、宮殿のような建物が建っていたのではと考えられているC地区。

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C地区の奥、谷の方へ入り込んだB地区。
こちらからも建物や水路、庭園跡が出土しているようです。

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C地区とB地区の間に並べられた巨石列。

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続いてA地区へ。
A地区では現在、調査結果に基づいて庭園の滝を再現する実験が実施されています。

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滝の再現。
向かって右の滝は、水量も結構ありました。

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令和2年12月末まで、9~17時の毎正時に15分ほど水が流されます。

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発掘の結果、実際にこうした滝の水受けと思われる川原石の集石が見つかっているそうです。

専門家の中には岩盤の上に水源がないとの理由から、滝の存在に懐疑的な意見もあるようです。

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しかし山麓居館には今もこうして、槻谷から豊富な水が流れ込んでいますし・・・

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多くの池や水路跡(写真)も見つかっているように、豊富な水源の下に水をふんだんに利用していたことが窺えます。
山の高い位置で槻谷の水源から樋を回すなどすれば、A地区に滝を演出することも可能だったのではないかと、私のお城仲間の方もtwitter上で提示されていましたが、私も同意です。
川原石の集石など、滝を連想させる遺構が見つかっている以上、水源問題はその存在を完全に否定し去るほどの要件は満たせていないのではないでしょうか。

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さて、それでは山上へ向かいます。
ロープウェイ乗り場では、モックン道三がお出迎えw

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岐阜城 山上部の図

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一ノ門

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一ノ門に残る石垣

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堀切(切通)を横目に通り過ぎ・・・

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二ノ門下の発掘現場へ。
裏込め石もたくさん出ており、野面に積まれた様子から織田信長入城以降の石垣と推定されています。

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二ノ門下から出土した石垣は、江戸時代の絵図にも描かれています。

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ピンクのテープが石垣の推定ラインで、出土した石垣自体はごく一部です。
高さも50㎝ほどしか残っていなかったようですが、江戸期の絵図には「石垣高一丈(約3m)」と書かれています。
瓦もたくさん出土したようで、瓦葺の門があったのではないかと考えられています。

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下台所曲輪への虎口となるニノ門には、他にも大きな石材で積まれた石垣があり、重要な門だったことを窺わせます。

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下台所曲輪

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下台所から上台所へと至る途中に積まれていた石垣。
平たい石をほぼ垂直に、あまり勾配をつけずに積み上げている特徴から、こちらの石垣は道三ら斎藤期のものではないかと思いますが、いかがでしょうか。

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いよいよ天守が近づいてきました。

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天守台北西隅の発掘現場へは、あちらの足場を上って向かいます。

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天守台北西隅から出土した石垣。

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裏込め石や間詰石も確認できます。
こちらも斎藤期の(とされている)石垣にはない野面積みの特徴で、信長の入城(1567)~1600年の廃城までの間に築かれた石垣と考えられます。
江戸期の絵図とも一致するようなので「天守台の石垣」という位置づけで問題はないのでしょうが、それが即ち「信長在城時=安土築城以前の天守台」ということにはならないかと思います。

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こうして見ると本来の石垣の北面は、明治43年に復興天守建造のために築かれた天守台(奥)よりも、50㎝ほど南へ引っ込んでいたようにも見えます。
あの黒い壁の向こう側にも回り込んでみましたが・・・

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やはり改変が著しく、実際の石垣がどのように続いていたかは判然としませんでした。

なお、発掘調査は岐阜城資料館の南斜面でも行われていますが、そちらは非公開でした。
やはり、石垣と裏込め石を確認しているとのことです。

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リニューアルされた天守内部の展示も観てから・・・

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裏門跡へ。

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裏門跡
右手前に、上の復元イメージ図Aの巨石列が倒れた状態で見えています。

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現在の登山道を挟んだ反対側にも巨石列。イメージ図のB部分と思われます。
右寄りの尖った石は、石垣の角とのこと。

門の周囲に集中して巨石を連ねる趣向は、山麓居館とも通じるものがありますね。

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イメージ図Cの石垣。
こちらは斎藤期のものと推定されています。

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最後に天守の南下、井戸上の石垣。

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下山後は岐阜市歴史博物館に開設された「麒麟がくる」の大河ドラマ館にも立ち寄り。

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諸事情で放映開始は遅れましたが、キャストの皆さんには頑張っていただきたいと思います。

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2020年1月14日 (火)

大磯で歴史散策

今回は、ドライブがてら大磯へ。
大磯港の駐車場に愛車を置き、旧東海道を辿りながら周辺の史跡を散策することにしました。

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照ヶ崎海岸
元幕府の御典医で、明治以降は帝国陸軍の初代軍医総監も務めた松本順(良順)は、医療としての海水浴を推奨し、その適地として照ヶ崎海岸に日本初の海水浴場を開きました。
松本は伊藤博文に掛け合って、横浜‐国府津間までの延長が決まっていた東海道線に大磯停車場(駅)を実現させ、旅館と病院を兼ねた祷龍館を建設するなどの功績を大磯に残しました。
大磯停車場の開設で海水浴客は増え続け、伊藤博文をはじめ、温暖な気候を気に入った政財界の重鎮らも居を移したり、別荘を構えるなどして大磯は発展していきました。

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照ヶ崎海岸から続くこゆるぎ(こよろぎ)の浜。
照ヶ崎海岸はアオバトの飛来地としても有名なのだそうです。

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松本の功績を讃えるため、昭和4年に建立された謝恩碑。
揮毫は時の総理大臣、犬養毅の筆によります。

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旧東海道が一瞬だけ、国道1号から逸れる地点。
この分岐点付近が・・・

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新島襄終焉の地です。
同志社の創立者としても知られる新島襄は明治23年(1890)1月23日、療養していた大磯の百足屋旅館で亡くなりました。

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「湘南発祥の地 大磯」の碑。

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鴫立庵
その昔、大磯付近の海岸を訪れた西行法師が残した、
こころなき身にもあはれは知られけり
鴫立沢の秋の夕暮
という歌に惹かれた小田原の崇雪という人物が寛文4年(1664)頃、西行を偲んで寺を建立する目的で庵を結んだのが始まりとされます。
崇雪は同時に「鴫立沢」と刻んだ標石も建てましたが、その裏には;
著盡湘南 清絶地
と彫られていました。中国湖南省にある洞庭湖の畔を流れる湘江の南側を湘南といい、大磯が彼の地に似ていることに因んでいるようです。
このことから、大磯は湘南発祥の地ともされているようです。

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その後、元禄8年(1695)に俳人の大淀三千風が入庵して鴫立庵と名付け、現在では日本三大俳諧道場の一つにも数えられているそうです。

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法虎堂、虎御前の木像。
江戸吉原の遊女たちが寄進したもので、木造もお堂も元禄期からの現存です。

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円位堂の西行法師像(等身大)。
こちらも元禄期からの現存とのこと。

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敷地内には、松本順の墓標もありました。
彼の墓所は、同じ大磯町内の妙大寺にあります。

※松本順の墓所、及び虎御前については、こちらの記事後半も参照ください。

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そして、こちらが鴫立沢の標石
但し塩害から守るため、本物の標石は大磯町郷土資料館に移設されており、鴫立庵のものはレプリカになります。

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「ブラタモリ」でタモリさんも覗いていた標石の裏面。
大きく「崇雪」と彫られた下段に、縦書きで2行;
著盡湘南
清絶地
と見えます。

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大磯宿の上方見附を過ぎると・・・

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東海道の松並木。
この少し先(西)にある・・・

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旧大隈重信邸や・・・

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滄浪閣(旧伊藤博文邸)跡は、残念ながら改修工事中でした。

この後もしばらくは、国道1号線に沿って歩いていきます。

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城山公園前交差点
国道1号線は左へ続きますが、旧東海道はこの信号を右へ折れていました。

ここで一旦東海道歩きから離れ、城山公園内を散策することにします。

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まずは旧吉田茂邸へ。

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楓の間
昭和54年には、大平首相とカーター大統領による日米首脳会談も行われたそうです。

なお、旧吉田茂邸は2009年の火災で母屋が全焼し、再建されて2017年から公開されるようになったばかりなので、まだ新築のような真新しさでした。

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食堂(ローズルーム)

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金の間(賓客を迎えるための応接室)からの眺め。
吉田茂はここから見える富士山の眺めを大層気に入っていたそうですが、この日はあいにく・・・。

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あちらに見えるのはサンルーム。
唯一焼失を免れた建物ですが、外壁上部には火災の痕跡も生々しく残っています。
吉田茂の生前には、熱帯植物が植えられていました。

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七賢堂
明治36年、伊藤博文の滄浪閣に建てられたもので、はじめは岩倉具視・三条実美・大久保利通・木戸孝允の4人を祀る「四賢堂」でした。
その後、伊藤博文も祀られ、昭和35年に吉田茂が自邸内に移して西園寺公望を合祀し、更には吉田茂自身も死後に祀られて「七賢堂」となりました。
扁額は佐藤栄作の揮毫。

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吉田茂像
講和条約締結の地、サンフランシスコの方角を向いています。

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続いて国道を挟んだ北側のエリアへ。

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ここは小磯城という城跡でもあり、すぐに堀切らしき痕跡も見受けられました。

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このエリアに三井財閥の別邸があった時代には、橋が架けられていたようです。

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城山公園展望台からの眺め。

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横穴古墳群

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横穴の中は綺麗に成形されているように見えました。

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大磯町郷土資料館に移設された、鴫立沢の標石(本物)。

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裏面は黒ずみ、殆ど読み取れませんでした。

さて、当初はこの先も二宮駅辺りまで東海道を歩くつもりでしたが、急遽予定を変更して大磯港方面へ引き返し、旧吉田茂邸の係りの方にもお薦めされたので、見逃していた島崎藤村の旧居へ向かってみることにしました。

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島崎藤村が晩年の2年半を過ごした住居「静の草屋」

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建物内には入れませんので、お庭からの見学になります。

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八畳の居間と広縁。
昭和18年8月21日、頭痛を訴えて倒れた藤村は、最後に「涼しい風だね」と一言残して昏睡状態に陥り、翌22日、この居間で帰らぬ人となりました。

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この日のラストは、大磯駅近くの地福寺へ。

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島崎藤村、静子夫人(左)の墓所にお参りさせていただきました。

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藤村は息を引き取った4日後の昭和18年8月26日、多くの参列者に見送られてこの地に埋葬されました。
埋葬時には、執筆中だった「東方の門」が掲載された雑誌も投げ入れられたそうです。

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2020年1月11日 (土)

日野駅南にあった旧甲州街道踏切

2020年1月現在、開業130周年を迎えたJR日野駅では、日野宿発見隊さんの主催で「まちかど写真館 in ひの」が開催されています。
その展示されている古い写真の中に、かつて日野駅ホーム南端の先で線路を横切っていた旧甲州街道の踏切を写したものがありましたので、令和を迎えた現在の光景と比較してみることにしました。

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こちらが昭和46年(1971)に撮影された、旧甲州街道踏切の姿。
中央の屋根がとんがっている建物は坂下地蔵堂

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その現在。赤い屋根が坂下地蔵堂です。
旧甲州街道は写真右奥から坂を上ってきて、左側の線路を越えて続いていました。

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坂下地蔵堂と旧甲州街道の踏切跡。
ここにあった踏切を越えた先は「大坂上」。
日野宿佐藤家の御子孫が著した「聞きがき新選組」の中で、京から日野に戻っていた土方歳三が佐藤彦五郎の長男・源之助俊宜を伴い、大坂上から馬を攻めて甲州街道を日野宿まで駆け下った、というエピソードが紹介されていますが、まさにここが、2人が馬で駆け下ったという場所でもあります。

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昭和56年(1981)11月、封鎖される直前に撮影された旧甲州街道の踏切。

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その現在。
ちょっと視界が開けるポイントがありませんでした。

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そして同年12月、封鎖された直後の踏切。

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同じアングルから。
正面に見えているクネクネとした道路や、建物のいくつかは今も変わっていませんね。
旧甲州街道は線路を越えた先で左へ折れ、坂を下って日野宿へ入っていきました。

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最後に日野駅の姿も。
こちらは昭和12年(1937)に撮影されたものとのことです。

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レトロな駅舎は今も殆どその姿を変えることなく、人々の日々の生活を見守り続けています。
私も学生時代から通学・通勤で毎日利用している身。
この風情ある佇まいがこの先、幾世代も長く守り伝えられていくことを願ってやみません。

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2020年1月 4日 (土)

八王子城→富士見台→熊笹山→太鼓曲輪

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2020年の城初めは、地元の八王子城
主な目的は、昨年10月の台風による城跡への影響を確認をしつつ八王子神社に参拝し、富士見台まで足を伸ばして富士山を拝もうというもの。
以前から、熊笹山辺りにも何か遺構はないのか気になっていたので、富士見台からは熊笹山を経由して太鼓曲輪尾根を下るルートを選択しました。

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さて、いざ登山開始という段階で早速、台風の爪痕が・・・。
向かって右側から迂回できるルートが付けられていましたが、のっけから先が思いやられます。

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金子曲輪脇の石垣はどうやら無事な様子・・・。

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柵門台下の石垣も。
この2つの石垣は特に危惧していたので、一安心。

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高丸を過ぎた先からの絶景。
遠くにスカイツリーもはっきりと見えていました。

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無事、八王子神社にお参り。

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本丸に建つお社にも。

八王子神社参拝の後は富士見台を目指し、詰城方面へ向かいます。

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駒冷やしの堀切を通過し・・・

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詰城へ。
詰城では、いつのものかはわかりませんが大きな倒木があり、曲輪の法面が一部損壊していました。
また、落雷によるものなのか、黒く焦げた倒木も。

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詰城背後の大堀切。
この大堀切を越えた先は、しばらく緩やかな尾根道が続きます。

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しばらくは尾根上を進み、最後にこの急斜面を直登すると・・・

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富士見台に到着。

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到着したのが正午前後で陽も高くなり、少し霞んでしまいましたが、無事に富士の姿を拝むことができました。

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富士見台から熊笹山へ向かう途中の尾根。

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熊笹山
その名の通りに熊笹が生い茂り、斜面などの形状は視認できませんでしたが、ちょっとした見張台くらいにはなっていたかもしれません。

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駒木野方面へ向かうルートと、木下沢方面へ下るルートの分岐点手前で目に付いた、連続竪堀のような痕跡。
2本あり、1つはY字になっていました。
ただの崩落かもしれませんが、道中何ヶ所かで見かけた同様のものよりは明瞭でした。

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こちらが駒木野と木下沢方面との分岐点。
ここは駒木野方向へ向かいます。

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まるで切岸を思わせるような急斜面。
慎重に下りましたが、乾いた砂地に足を取られそうになります。

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何の標識もないので見落としそうになりますが、こちらが駒木野と太鼓曲輪尾根との分岐点。
GPSで位置を確認しながら歩いていたので、何とか見落とさずに済みました。

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分岐点の先も急な下り坂。
これが結構、膝に来ます・・・(;^_^A

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こんな獣道を掻き分け・・・

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ようやく、太鼓曲輪の第五堀切に到着。
この後、第四~第二堀切を経由して、大手門横の竪堀から下山しました。

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下山後は御主殿の滝へ。
曳橋の下も結構土が流されたようです。
あちらの石積み、前から露出していましたっけ?

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御主殿の滝近くの石垣。
台風の影響でこの石垣近くの近くの土が流され・・・

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石垣から直角に折れる石垣列が、新たに検出されました。手前の2つの石です。
これにより、この石垣が隅部分だったこともわかります。
何も知らずに足を掛けちゃう人もいるので、注意喚起するなり、更なる調査をする予定もないのなら埋め戻すなりして欲しいところですが・・・。

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御主殿の滝すぐ脇の石垣も無事だったようです。

御主殿背後の四段石垣でも、土砂が流れ込む被害が出ているようですが、立ち入りが制限されているので確認できておりません。
今回辿ったルートは後半の下りがきつく、膝が悲鳴を上げておりますが、楽しい山歩きになりました。

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そうそう、八王子市(北条氏照の八王子城)と神奈川県の小田原市(北条氏の本拠)、埼玉県寄居町(北条氏邦の鉢形城)は姉妹都市を結んでおり、それぞれのデザインマンホールを交換して互いに設置しています。
先日訪れた小田原では「かまぼこ通り」に設置されていましたが、八王子では八王子城跡の駐車場から管理棟前にかけて揃っていました。
訪れた際は是非、こちらもコンプリートしてみてくださいw

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2020年1月 3日 (金)

小田原の史跡めぐり…2日目

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小田原史跡めぐりの旅、2日目はホテルのすぐ隣に眠る北条氏政・氏照兄弟をお参りして・・・

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駅前の早雲(伊勢宗瑞)像にも挨拶してからスタート。

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初日に引き続き、小田原城包囲陣跡めぐりにはこちらの図を用います。

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まずは羽柴(豊臣)秀次陣跡(推定地)付近から、小田原城方向。
やや右寄りに水之尾口で、左側のベージュの建物が並ぶ辺りには、攻城のための前線陣地「荻窪仕寄」が築かれました。
秀次の陣跡と推定した周辺には、それを思わせる造成の痕跡らしきものも確認できましたが、私有地と思われるので詳細は伏せます。

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続いて羽柴(豊臣)秀勝の陣跡推定地から。
正面の丘陵全体が荻窪口~水之尾口にかけての小田原城総構のラインで、手前の大きな建物がある辺りが荻窪仕寄になります。

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尾根を振り返り、道路の先に見えている少し高い場所が秀次陣跡の推定地です。

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玉宝寺
小田原城の北を東西に細長く伸びる舌状台地の先端に位置し、五百羅漢像を安置することで知られています。

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寺の背後の裏山から続く尾根筋には中世の多古城もあり、この台地の先端付近とされる織田信雄の陣もこの辺りだったのではないかと推測しました。

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今井陣場跡
豊臣軍の先陣を務める徳川家康が布陣しました。
すぐ背後に酒匂川を控える低地で、周囲は湿地帯が広がる難所だったと云います。当地には元々、柳川和泉守という人物が住んでいて、その宅地を本陣に定めたとか。
柳川家には今も、家康から拝領した鑓などが残っているそうです。

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現在は東照宮が祀られ、小さな家康像が安置されていました。

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周辺には田畑が広がり、湿地帯だったという当時の面影も少し感じさせてくれます。

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蓮上院土塁
家康が布陣した今井に面する、小田原城総構の北東面の土塁になります。
土塁脇の道路はやはり暗渠になっていて、堀跡だったことを伺わせます。

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蓮上院土塁に残る、第2次世界大戦終戦間近の1945年8月13日に小田原を襲った空襲の、爆弾が着弾した痕跡。

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小田原市内めぐりのラストは、やはり小田原城へ。
写真は個人的にツボった、御茶壺曲輪の門跡。

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この図面で、「現在地」のすぐ右上の部分です。

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銅門

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久しぶりに天守にも上りました。

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小田原城天守からの、早川口~石垣山城方面。

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さて、旅のラストは小田原市内を離れて、箱根湯本の早雲寺へ向かいます。
写真はその道中、渋滞中に車を降りて撮影した山崎の古戦場案内碑。

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早雲寺山門

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早雲寺には、箱根山崎の戦いで命を落とした遊撃隊(旧幕府方)戦没者を供養する碑が建てられています。
※箱根山崎の戦い、遊撃隊についてはコチラ

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建碑者は遊撃隊を率いた人見勝太郎です。
戦没者の名を刻んだ右側の碑の最後に、静岡縣士族 人見寧の文字も見えます。
(寧は勝太郎が明治以降に名乗った名です)

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無論、北条五代の墓所にもお参り。

早雲寺には他にも、医家・曲直瀬家の三代目で秀忠の侍医も務めた今大路(曲直瀬)道三玄鑑や、連歌師宗祇らの墓所もあります。

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小田原北条家の祖・伊勢宗瑞の末子で、五代・氏直の代まで長老として重きをなした幻庵の作庭とも伝わる枯山水石庭「香炉峯峰」
しかし、その様式から1600年代中盤の作ではないかともされ、江戸時代に入ってから整備し直している可能性も指摘されているようです。

さて、これにて2019年の歴旅もおしまい。
この後は箱根湯本駅から帰路に就きました。

2019年もなんだかんだで、感慨深い旅を多く経験できました。
この記事がUPされている頃には年も明けていますが、2020年も時を超えたいい出会いが待っていますように♪

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