2020年1月18日 (土)

岐阜城の石垣発掘現場

岐阜城の天守台北西隅や二ノ門下から出土した石垣が、2020年1月14~18日の間だけ一般に公開されると聞き、矢も楯もたまらずに東京から日帰りで駆け付けてしまいました。

2020011501
在来線や路線バスへの乗り継ぎも順調に進み、予定よりも早く到着したので、まずは山麓居館区域を散策。
上の写真は、金箔瓦なども出土したC地区の池跡越しに、巨石が並べられた居館虎口方向。

2020011502
居館部の中枢、宮殿のような建物が建っていたのではと考えられているC地区。

2020011503
C地区の奥、谷の方へ入り込んだB地区。
こちらからも建物や水路、庭園跡が出土しているようです。

2020011504
C地区とB地区の間に並べられた巨石列。

2020011505
続いてA地区へ。
A地区では現在、調査結果に基づいて庭園の滝を再現する実験が実施されています。

2020011506
滝の再現。
向かって右の滝は、水量も結構ありました。

2020011507
令和2年12月末まで、9~17時の毎正時に15分ほど水が流されます。

2020011508
発掘の結果、実際にこうした滝の水受けと思われる川原石の集石が見つかっているそうです。

専門家の中には岩盤の上に水源がないとの理由から、滝の存在に懐疑的な意見もあるようです。

2020011509
しかし山麓居館には今もこうして、槻谷から豊富な水が流れ込んでいますし・・・

2020011510
多くの池や水路跡(写真)も見つかっているように、豊富な水源の下に水をふんだんに利用していたことが窺えます。
山の高い位置で槻谷の水源から樋を回すなどすれば、A地区に滝を演出することも可能だったのではないかと、私のお城仲間の方もtwitter上で提示されていましたが、私も同意です。
川原石の集石など、滝を連想させる遺構が見つかっている以上、水源問題はその存在を完全に否定し去るほどの要件は満たせていないのではないでしょうか。

2020011511
さて、それでは山上へ向かいます。
ロープウェイ乗り場では、モックン道三がお出迎えw

2020011512
岐阜城 山上部の図

2020011513
一ノ門

2020011514
一ノ門に残る石垣

2020011515
堀切(切通)を横目に通り過ぎ・・・

2020011516
二ノ門下の発掘現場へ。
裏込め石もたくさん出ており、野面に積まれた様子から織田信長入城以降の石垣と推定されています。

2020011517
二ノ門下から出土した石垣は、江戸時代の絵図にも描かれています。

2020011518
ピンクのテープが石垣の推定ラインで、出土した石垣自体はごく一部です。
高さも50㎝ほどしか残っていなかったようですが、江戸期の絵図には「石垣高一丈(約3m)」と書かれています。
瓦もたくさん出土したようで、瓦葺の門があったのではないかと考えられています。

2020011519
下台所曲輪への虎口となるニノ門には、他にも大きな石材で積まれた石垣があり、重要な門だったことを窺わせます。

2020011520
下台所曲輪

2020011521
下台所から上台所へと至る途中に積まれていた石垣。
平たい石をほぼ垂直に、あまり勾配をつけずに積み上げている特徴から、こちらの石垣は道三ら斎藤期のものではないかと思いますが、いかがでしょうか。

2020011522
いよいよ天守が近づいてきました。

2020011523
天守台北西隅の発掘現場へは、あちらの足場を上って向かいます。

2020011524
天守台北西隅から出土した石垣。

2020011525
裏込め石や間詰石も確認できます。
こちらも斎藤期の(とされている)石垣にはない野面積みの特徴で、信長の入城(1567)~1600年の廃城までの間に築かれた石垣と考えられます。
江戸期の絵図とも一致するようなので「天守台の石垣」という位置づけで問題はないのでしょうが、それが即ち「信長在城時=安土築城以前の天守台」ということにはならないかと思います。

2020011526
こうして見ると本来の石垣の北面は、明治43年に復興天守建造のために築かれた天守台(奥)よりも、50㎝ほど南へ引っ込んでいたようにも見えます。
あの黒い壁の向こう側にも回り込んでみましたが・・・

2020011527
やはり改変が著しく、実際の石垣がどのように続いていたかは判然としませんでした。

なお、発掘調査は岐阜城資料館の南斜面でも行われていますが、そちらは非公開でした。
やはり、石垣と裏込め石を確認しているとのことです。

2020011528
リニューアルされた天守内部の展示も観てから・・・

2020011529
裏門跡へ。

2020011530
裏門跡
右手前に、上の復元イメージ図Aの巨石列が倒れた状態で見えています。

2020011531
現在の登山道を挟んだ反対側にも巨石列。イメージ図のB部分と思われます。
右寄りの尖った石は、石垣の角とのこと。

門の周囲に集中して巨石を連ねる趣向は、山麓居館とも通じるものがありますね。

2020011532
イメージ図Cの石垣。
こちらは斎藤期のものと推定されています。

2020011533
最後に天守の南下、井戸上の石垣。

2020011534
下山後は岐阜市歴史博物館に開設された「麒麟がくる」の大河ドラマ館にも立ち寄り。

2020011535
諸事情で放映開始は遅れましたが、キャストの皆さんには頑張っていただきたいと思います。

| | コメント (0)

2020年1月14日 (火)

大磯で歴史散策

今回は、ドライブがてら大磯へ。
大磯港の駐車場に愛車を置き、旧東海道を辿りながら周辺の史跡を散策することにしました。

2020011201
照ヶ崎海岸
元幕府の御典医で、明治以降は帝国陸軍の初代軍医総監も務めた松本順(良順)は、医療としての海水浴を推奨し、その適地として照ヶ崎海岸に日本初の海水浴場を開きました。
松本は伊藤博文に掛け合って、横浜‐国府津間までの延長が決まっていた東海道線に大磯停車場(駅)を実現させ、旅館と病院を兼ねた祷龍館を建設するなどの功績を大磯に残しました。
大磯停車場の開設で海水浴客は増え続け、伊藤博文をはじめ、温暖な気候を気に入った政財界の重鎮らも居を移したり、別荘を構えるなどして大磯は発展していきました。

2020011202
照ヶ崎海岸から続くこゆるぎ(こよろぎ)の浜。
照ヶ崎海岸はアオバトの飛来地としても有名なのだそうです。

2020011203
松本の功績を讃えるため、昭和4年に建立された謝恩碑。
揮毫は時の総理大臣、犬養毅の筆によります。

2020011204
旧東海道が一瞬だけ、国道1号から逸れる地点。
この分岐点付近が・・・

2020011205
新島襄終焉の地です。
同支社の創立者としても知られる新島襄は明治23年(1890)1月23日、療養していた大磯の百足屋旅館で亡くなりました。

2020011206
「湘南発祥の地 大磯」の碑。

2020011207
鴫立庵
その昔、大磯付近の海岸を訪れた西行法師が残した、
こころなき身にもあはれは知られけり
鴫立沢の秋の夕暮
という歌に惹かれた小田原の崇雪という人物が寛文4年(1664)頃、西行を偲んで寺を建立する目的で庵を結んだのが始まりとされます。
崇雪は同時に「鴫立沢」と刻んだ標石も建てましたが、その裏には;
著盡湘南 清絶地
と彫られていました。中国湖南省にある洞庭湖の畔を流れる湘江の南側を湘南といい、大磯が彼の地に似ていることに因んでいるようです。
このことから、大磯は湘南発祥の地ともされているようです。

2020011208
その後、元禄8年(1695)に俳人の大淀三千風が入庵して鴫立庵と名付け、現在では日本三大俳諧道場の一つにも数えられているそうです。

2020011209
法虎堂、虎御前の木像。
江戸吉原の遊女たちが寄進したもので、木造もお堂も元禄期からの現存です。

2020011210
円位堂の西行法師像(等身大)。
こちらも元禄期からの現存とのこと。

2020011211
敷地内には、松本順の墓標もありました。
彼の墓所は、同じ大磯町内の妙大寺にあります。

※松本順の墓所、及び虎御前については、こちらの記事後半も参照ください。

2020011212
そして、こちらが鴫立沢の標石
但し塩害から守るため、本物の標石は大磯町郷土資料館に移設されており、鴫立庵のものはレプリカになります。

2020011213
「ブラタモリ」でタモリさんも覗いていた標石の裏面。
大きく「崇雪」と彫られた下段に、縦書きで2行;
著盡湘南
清絶地
と見えます。

2020011214
大磯宿の上方見附を過ぎると・・・

2020011215
東海道の松並木。
この少し先(西)にある・・・

2020011216
旧大隈重信邸や・・・

2020011217
滄浪閣(旧伊藤博文邸)跡は、残念ながら改修工事中でした。

この後もしばらくは、国道1号線に沿って歩いていきます。

2020011218
城山公園前交差点
国道1号線は左へ続きますが、旧東海道はこの信号を右へ折れていました。

ここで一旦東海道歩きから離れ、城山公園内を散策することにします。

2020011219
まずは旧吉田茂邸へ。

2020011220
楓の間
昭和54年には、大平首相とカーター大統領による日米首脳会談も行われたそうです。

なお、旧吉田茂邸は2009年の火災で母屋が全焼し、再建されて2017年から公開されるようになったばかりなので、まだ新築のような真新しさでした。

2020011221
食堂(ローズルーム)

2020011222
金の間(賓客を迎えるための応接室)からの眺め。
吉田茂はここから見える富士山の眺めを大層気に入っていたそうですが、この日はあいにく・・・。

2020011223
あちらに見えるのはサンルーム。
唯一焼失を免れた建物ですが、外壁上部には火災の痕跡も生々しく残っています。
吉田茂の生前には、熱帯植物が植えられていました。

2020011224
七賢堂
明治36年、伊藤博文の滄浪閣に建てられたもので、はじめは岩倉具視・三条実美・大久保利通・木戸孝允の4人を祀る「四賢堂」でした。
その後、伊藤博文も祀られ、昭和35年に吉田茂が自邸内に移して西園寺公望を合祀し、更には吉田茂自身も死後に祀られて「七賢堂」となりました。
扁額は佐藤栄作の揮毫。

2020011225
吉田茂像
講和条約締結の地、サンフランシスコの方角を向いています。

2020011226
続いて国道を挟んだ北側のエリアへ。

2020011227
ここは小磯城という城跡でもあり、すぐに堀切らしき痕跡も見受けられました。

2020011228
このエリアに三井財閥の別邸があった時代には、橋が架けられていたようです。

2020011229
城山公園展望台からの眺め。

2020011230
横穴古墳群

2020011231
横穴の中は綺麗に成形されているように見えました。

2020011232
大磯町郷土資料館に移設された、鴫立沢の標石(本物)。

2020011233
裏面は黒ずみ、殆ど読み取れませんでした。

さて、当初はこの先も二宮駅辺りまで東海道を歩くつもりでしたが、急遽予定を変更して大磯港方面へ引き返し、旧吉田茂邸の係りの方にもお薦めされたので、見逃していた島崎藤村の旧居へ向かってみることにしました。

2020011234
島崎藤村が晩年の2年半を過ごした住居「静の草屋」

2020011235
建物内には入れませんので、お庭からの見学になります。

2020011236
八畳の居間と広縁。
昭和18年8月21日、頭痛を訴えて倒れた藤村は、最後に「涼しい風だね」と一言残して昏睡状態に陥り、翌22日、この居間で帰らぬ人となりました。

2020011237
この日のラストは、大磯駅近くの地福寺へ。

2020011238
島崎藤村、静子夫人(左)の墓所にお参りさせていただきました。

2020011239
藤村は息を引き取った4日後の昭和18年8月26日、多くの参列者に見送られてこの地に埋葬されました。
埋葬時には、執筆中だった「東方の門」が掲載された雑誌も投げ入れられたそうです。

| | コメント (0)

2020年1月11日 (土)

日野駅南にあった旧甲州街道踏切

2020年1月現在、開業130周年を迎えたJR日野駅では、日野宿発見隊さんの主催で「まちかど写真館 in ひの」が開催されています。
その展示されている古い写真の中に、かつて日野駅ホーム南端の先で線路を横切っていた旧甲州街道の踏切を写したものがありましたので、令和を迎えた現在の光景と比較してみることにしました。

2020011101
こちらが昭和46年(1971)に撮影された、旧甲州街道踏切の姿。
中央の屋根がとんがっている建物は坂下地蔵堂

2020011102
その現在。赤い屋根が坂下地蔵堂です。
旧甲州街道は写真右奥から坂を上ってきて、左側の線路を越えて続いていました。

2020011103
坂下地蔵堂と旧甲州街道の踏切跡。
ここにあった踏切を越えた先は「大坂上」。
日野宿佐藤家の御子孫が著した「聞きがき新選組」の中で、京から日野に戻っていた土方歳三が佐藤彦五郎の長男・源之助俊宜を伴い、大坂上から馬を攻めて甲州街道を日野宿まで駆け下った、というエピソードが紹介されていますが、まさにここが、2人が馬で駆け下ったという場所でもあります。

2020011104
昭和56年(1981)11月、封鎖される直前に撮影された旧甲州街道の踏切。

2020011105
その現在。
ちょっと視界が開けるポイントがありませんでした。

2020011106
そして同年12月、封鎖された直後の踏切。

2020011107
同じアングルから。
正面に見えているクネクネとした道路や、建物のいくつかは今も変わっていませんね。
旧甲州街道は線路を越えた先で左へ折れ、坂を下って日野宿へ入っていきました。

2020011108
最後に日野駅の姿も。
こちらは昭和12年(1937)に撮影されたものとのことです。

2020011109
レトロな駅舎は今も殆どその姿を変えることなく、人々の日々の生活を見守り続けています。
私も学生時代から通学・通勤で毎日利用している身。
この風情ある佇まいがこの先、幾世代も長く守り伝えられていくことを願ってやみません。

| | コメント (0)

2020年1月 4日 (土)

八王子城→富士見台→熊笹山→太鼓曲輪

2020010301
2020年の城初めは、地元の八王子城
主な目的は、昨年10月の台風による城跡への影響を確認をしつつ八王子神社に参拝し、富士見台まで足を伸ばして富士山を拝もうというもの。
以前から、熊笹山辺りにも何か遺構はないのか気になっていたので、富士見台からは熊笹山を経由して太鼓曲輪尾根を下るルートを選択しました。

2020010302
さて、いざ登山開始という段階で早速、台風の爪痕が・・・。
向かって右側から迂回できるルートが付けられていましたが、のっけから先が思いやられます。

2020010303
金子曲輪脇の石垣はどうやら無事な様子・・・。

2020010304
柵門台下の石垣も。
この2つの石垣は特に危惧していたので、一安心。

2020010305
高丸を過ぎた先からの絶景。
遠くにスカイツリーもはっきりと見えていました。

2020010306
無事、八王子神社にお参り。

2020010307
本丸に建つお社にも。

八王子神社参拝の後は富士見台を目指し、詰城方面へ向かいます。

2020010308
駒冷やしの堀切を通過し・・・

2020010309
詰城へ。
詰城では、いつのものかはわかりませんが大きな倒木があり、曲輪の法面が一部損壊していました。
また、落雷によるものなのか、黒く焦げた倒木も。

2020010310
詰城背後の大堀切。
この大堀切を越えた先は、しばらく緩やかな尾根道が続きます。

2020010311
しばらくは尾根上を進み、最後にこの急斜面を直登すると・・・

2020010312
富士見台に到着。

2020010313
到着したのが正午前後で陽も高くなり、少し霞んでしまいましたが、無事に富士の姿を拝むことができました。

2020010314
富士見台から熊笹山へ向かう途中の尾根。

2020010315
熊笹山
その名の通りに熊笹が生い茂り、斜面などの形状は視認できませんでしたが、ちょっとした見張台くらいにはなっていたかもしれません。

2020010316
駒木野方面へ向かうルートと、木下沢方面へ下るルートの分岐点手前で目に付いた、連続竪堀のような痕跡。
2本あり、1つはY字になっていました。
ただの崩落かもしれませんが、道中何ヶ所かで見かけた同様のものよりは明瞭でした。

2020010317
こちらが駒木野と木下沢方面との分岐点。
ここは駒木野方向へ向かいます。

2020010318
まるで切岸を思わせるような急斜面。
慎重に下りましたが、乾いた砂地に足を取られそうになります。

2020010319
何の標識もないので見落としそうになりますが、こちらが駒木野と太鼓曲輪尾根との分岐点。
GPSで位置を確認しながら歩いていたので、何とか見落とさずに済みました。

2020010320
分岐点の先も急な下り坂。
これが結構、膝に来ます・・・(;^_^A

2020010321
こんな獣道を掻き分け・・・

2020010322
ようやく、太鼓曲輪の第五堀切に到着。
この後、第四~第二堀切を経由して、大手門横の竪堀から下山しました。

2020010323
下山後は御主殿の滝へ。
曳橋の下も結構土が流されたようです。
あちらの石積み、前から露出していましたっけ?

2020010324
御主殿の滝近くの石垣。
台風の影響でこの石垣近くの近くの土が流され・・・

2020010325
石垣から直角に折れる石垣列が、新たに検出されました。手前の2つの石です。
これにより、この石垣が隅部分だったこともわかります。
何も知らずに足を掛けちゃう人もいるので、注意喚起するなり、更なる調査をする予定もないのなら埋め戻すなりして欲しいところですが・・・。

2020010326
御主殿の滝すぐ脇の石垣も無事だったようです。

御主殿背後の四段石垣でも、土砂が流れ込む被害が出ているようですが、立ち入りが制限されているので確認できておりません。
今回辿ったルートは後半の下りがきつく、膝が悲鳴を上げておりますが、楽しい山歩きになりました。

2020010327
そうそう、八王子市(北条氏照の八王子城)と神奈川県の小田原市(北条氏の本拠)、埼玉県寄居町(北条氏邦の鉢形城)は姉妹都市を結んでおり、それぞれのデザインマンホールを交換して互いに設置しています。
先日訪れた小田原では「かまぼこ通り」に設置されていましたが、八王子では八王子城跡の駐車場から管理棟前にかけて揃っていました。
訪れた際は是非、こちらもコンプリートしてみてくださいw

| | コメント (0)

2020年1月 3日 (金)

小田原の史跡めぐり…2日目

2019123001
小田原史跡めぐりの旅、2日目はホテルのすぐ隣に眠る北条氏政・氏照兄弟をお参りして・・・

2019123002
駅前の早雲(伊勢宗瑞)像にも挨拶してからスタート。

2019123003
初日に引き続き、小田原城包囲陣跡めぐりにはこちらの図を用います。

2019123004
まずは羽柴(豊臣)秀次陣跡(推定地)付近から、小田原城方向。
やや右寄りに水之尾口で、左側のベージュの建物が並ぶ辺りには、攻城のための前線陣地「荻窪仕寄」が築かれました。
秀次の陣跡と推定した周辺には、それを思わせる造成の痕跡らしきものも確認できましたが、私有地と思われるので詳細は伏せます。

2019123005
続いて羽柴(豊臣)秀勝の陣跡推定地から。
正面の丘陵全体が荻窪口~水之尾口にかけての小田原城総構のラインで、手前の大きな建物がある辺りが荻窪仕寄になります。

2019123006
尾根を振り返り、道路の先に見えている少し高い場所が秀次陣跡の推定地です。

2019123007
玉宝寺
小田原城の北を東西に細長く伸びる舌状台地の先端に位置し、五百羅漢像を安置することで知られています。

2019123008
寺の背後の裏山から続く尾根筋には中世の多古城もあり、この台地の先端付近とされる織田信雄の陣もこの辺りだったのではないかと推測しました。

2019123009
今井陣場跡
豊臣軍の先陣を務める徳川家康が布陣しました。
すぐ背後に酒匂川を控える低地で、周囲は湿地帯が広がる難所だったと云います。当地には元々、柳川和泉守という人物が住んでいて、その宅地を本陣に定めたとか。
柳川家には今も、家康から拝領した鑓などが残っているそうです。

2019123010
現在は東照宮が祀られ、小さな家康像が安置されていました。

2019123011
周辺には田畑が広がり、湿地帯だったという当時の面影も少し感じさせてくれます。

2019123012
蓮上院土塁
家康が布陣した今井に面する、小田原城総構の北東面の土塁になります。
土塁脇の道路はやはり暗渠になっていて、堀跡だったことを伺わせます。

2019123013
蓮上院土塁に残る、第2次世界大戦終戦間近の1945年8月13日に小田原を襲った空襲の、爆弾が着弾した痕跡。

2019123014
小田原市内めぐりのラストは、やはり小田原城へ。
写真は個人的にツボった、御茶壺曲輪の門跡。

2019123015
この図面で、「現在地」のすぐ右上の部分です。

2019123016
銅門

2019123017
久しぶりに天守にも上りました。

2019123018
小田原城天守からの、早川口~石垣山城方面。

2019123019
さて、旅のラストは小田原市内を離れて、箱根湯本の早雲寺へ向かいます。
写真はその道中、渋滞中に車を降りて撮影した山崎の古戦場案内碑。

2019123020
早雲寺山門

2019123021
早雲寺には、箱根山崎の戦いで命を落とした遊撃隊(旧幕府方)戦没者を供養する碑が建てられています。
※箱根山崎の戦い、遊撃隊についてはコチラ

2019123022
建碑者は遊撃隊を率いた人見勝太郎です。
戦没者の名を刻んだ右側の碑の最後に、静岡縣士族 人見寧の文字も見えます。
(寧は勝太郎が明治以降に名乗った名です)

2019123023
無論、北条五代の墓所にもお参り。

早雲寺には他にも、医家・曲直瀬家の三代目で秀忠の侍医も務めた今大路(曲直瀬)道三玄鑑や、連歌師宗祇らの墓所もあります。

2019123024
小田原北条家の祖・伊勢宗瑞の末子で、五代・氏直の代まで長老として重きをなした幻庵の作庭とも伝わる枯山水石庭「香炉峯峰」
しかし、その様式から1600年代中盤の作ではないかともされ、江戸時代に入ってから整備し直している可能性も指摘されているようです。

さて、これにて2019年の歴旅もおしまい。
この後は箱根湯本駅から帰路に就きました。

2019年もなんだかんだで、感慨深い旅を多く経験できました。
この記事がUPされている頃には年も明けていますが、2020年も時を超えたいい出会いが待っていますように♪

| | コメント (0)

2020年1月 2日 (木)

小田原の史跡めぐり…初日

令和元年最後の旅は小田原へ。

2019122901
小田原在住のフォロワーさんにご案内いただき、天正18年(1590)の小田原征伐における豊臣軍の小田原城包囲陣跡(上図参照)を中心に、小田原市の史跡をめぐります。

まずは初日。
12月29日の朝9時に早川駅で集合し、最初に向かった先は・・・

2019122902
海蔵寺
嘉吉元年(1441)、当時の小田原城主であった大森氏による創建と伝わります。
天正18年、豊臣軍による小田原城包囲が始まると、この付近には堀左衛門督(久太郎)秀政が布陣しました。

2019122903
海蔵寺の墓地、小田原城や相模湾を望める見晴らしのよい一画には、その秀政の墓所があります。
織田信長の側近として頭角を現し、やがて「名人久太郎」と謳われて豊臣秀吉にも高く評価された秀政は、小田原城包囲の陣中に病に倒れ、38歳の若さでこの世を去りました。
彼に殉じたものと考えられる家臣らの墓も連なります。

2019122904
海蔵寺付近から小田原城~早川口方面の眺め。
左寄りの木々の上に天守も見えています。

2019122905
同じく、細川忠興が布陣した富士山陣場(左手前の小山)と、右奥に小田原城総構の稜線。

2019122906
続いては、石垣山城南西の早川石丁場群関白沢支群へ。
まずは箕ヶ窪橋下に保存されている石丁場から。

2019122907
箕ヶ窪橋下の石丁場は道路建設に伴う発掘調査により、規模が大きく保存状態も良好な遺構であることが判明し、道路に橋を架ける設計に変更して保存されました。

2019122908
箕ヶ窪橋から、林道で山中を西へ進みます。
こちらの石には「此左□」という刻印があることから、石垣山城の石垣から発見された「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた石と同様の、標識石ではないかとも考えられています。
やはり道路建設時の調査で判明し、保存のためにこの場所へ移設されたそうです。

2019122909
石曳道
早川石丁場群は17世紀前半の、江戸城の石垣用石材を切り出すための作業場跡。
この石曳道は、山中で切り出された石を曳いて山麓まで下ろし、江戸へと運ぶために築かれたものです。

2019122910
更に西へ進み、こちらの苔生した矢穴石が現れた辺りから斜面に取り付きます。
すると・・・

2019122911
山の斜面には、大きな石がそこかしこにゴロゴロと転がっていました。
ほぼ全ての石に矢穴の跡が残っています。

2019122912
一つ一つ挙げていってもキリがないので、ごく一部だけ・・・。

2019122913
そこはかとなく漂うラスボス感(笑)

2019122914
とても見応えのある遺構でした。

この後は石垣山城を散策しましたが、過去の記事とも重複するので詳細は省略します。

2019122915
石垣山城本丸から、小田原の市街と駿河湾を見渡す。
往時は、ここから小田原城包囲戦の様子がよく見えたことでしょうね。

2019122916
こちらが件の「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻印されている標識石。
・・・私には殆ど読み取れませんでしたけど(;^_^A

2019122917
井戸曲輪周囲の木が伐採され、石垣越しの景色の抜けが最高でした。

2019122918
お昼は小田原市街で鰺醤油ラーメン。
お店のある場所は江戸時代には桶屋さんだったそうで、ラーメンの器も桶。

2019122919
細川忠興が布陣したと云う富士山陣場へ向かう途中、旧東海道沿いの板橋地蔵堂境内にあった供養碑。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の折、小田原藩士に殺害された新政府軍の軍監・中井範五郎(鳥取藩)や、箱根山崎の戦いで犠牲となった新政府軍士卒など計13名を供養したものです。

2019122920
閑静な住宅街の急坂を登っていくと、ご覧の案内標識もあったのですが・・・

2019122921
いざ頂上付近まで来てみると、無情にも立入禁止とか・・・陣場の遺構まで辿り着くことができませんでした。

2019122922
仕方なく、頂上付近からの早川口方面(写真)等の眺めを確認してから撤収しました。

2019122923
早川口遺構
二重外張と呼ばれる堀と土塁を二重にした小田原城総構の遺構で、北条氏の時代には虎口(早川口)であったと考えられています。
東海道が整備された江戸時代には、虎口も街道に沿った上方(板橋)口に移りました。

2019122924
土塁外側の通りは用水路の暗渠となっており、かつてはそこに堀があったことを匂わせます。

2019122925
続いてはこちらの古地図にある、小田原宿の上方(板橋)見附跡・大久寺・居神神社を散策します。

2019122926
旧東海道小田原宿、上方(板橋)見附の枡形跡。
旧東海道はこの先、板橋村(小田原市板橋)へ続いていたことから、板橋見附とも呼ばれました。

2019122927
大久寺大久保家墓所
大久寺は小田原藩初代藩主・大久保忠世が開基となって創建された、大久保家の菩提寺です。
向かって右から三代・加賀守忠常、二代・相模守忠隣、中央正面が初代・七郎右衛門忠世の墓石。

2019122928
居神神社
永正17年(1520)、北条氏綱によって創建されました。
父・伊勢宗瑞が滅ぼした三浦道寸の嫡子で、やはり宗瑞に攻められた際に新井城で自刃した三浦義意を祭神としています。
・・・供養の意味もあったのでしょうか。

初日のラストは、小峯御鐘ノ台大堀切へ。
こちらも総構をめぐった過去の記事と重複しますので、詳細は省きます。
※なお、総構についてはコチラの記事もご参照ください。

2019122929
しかし、前に訪れた際は立ち入れずに未訪だった西堀が、見学できるようになっていました。

2019122930
小峯御鐘ノ台の西堀は、天正18年の豊臣秀吉の侵攻に備えて築かれた総構の一部です。
こんな素晴らしい遺構が現代まで、奇麗に残されていたことに感謝。

2019122931
小峯御鐘ノ台から、この日に訪れた富士山陣場、そして石垣山城。
北条側からの、対陣する豊臣方との距離感です。

2019122932
夜は小田原駅前で懇親会。
なんだかんだで、3次会まで飲み明かしましたとさ。

| | コメント (0)

2019年12月18日 (水)

佐藤俊宜の「今昔備忘記」拝観

2019121501
佐藤彦五郎新選組資料館
2019年12月15日、土方歳三没後150年最後の開館日に、市村鉄之助が箱館から土方の肖像写真などを届けた際の経緯を記録した「今昔備忘記」の原本が、1日限定で公開されると聞いてお邪魔してまいりました。

「今昔備忘記」は大正10年(1921)頃、佐藤彦五郎の長男・俊宜が残した書。
その記すところによると明治2年(1869)のある日、佐藤家(現日野宿本陣)の軒先に見知らぬ乞食のような小僧が立ち、しきりに家の様子を伺っていました。
なんだか胡散臭いので追い払おうとすると、あろうことか台所にまで入ってきて、家の人にお会いしたいと懇願する始末。仕方ないので中庭の方へ回して問い質すと、「私は土方大将の小姓を務めておりました市村鉄之助と申す者です」と名乗り、土方の写真と一片の切紙を差し出しました。その紙片には、

使の者の身上頼上候
義豊

とあり、紛れもなく歳三の真筆だったので詳しく聞くと、土方から日野までの使いを命じられた際の詳しい経緯や、出航を待つ外国船で耳にした土方戦死の様子(戦死地については「海岸一本木」とも)などを語り出しました。
話を聞くうちに当主・彦五郎も、その妻で土方の実姉ノブも涙せぬ者はなったと云います。

2019121502
日野宿本陣、佐藤家の台所跡。

2019121503
同じく中庭。
左が台所のあった建物です。

同時代史料となる父・彦五郎の日記には、明治2年7月18日の項に「箱館ニおゐて降伏兵卒、亀太郎と申もの来ル。」とあるのみで鉄之助に関する記述がなく、「今昔備忘記」の存在を知らなった専門家の中には、鉄之助と佐藤家との関連を疑問視する向きもあったのだとか。
俊宜は明治2年当時、既に数えで20歳の青年です。鉄之助はその後、2年間ほど佐藤家で匿われたと云いますし、彼に関する記憶は50年以上を経ても褪せることはなかったのではないでしょうか。

このエピソードも今となっては広く知られるところではありますが、改めてその史料原本を拝観させていただき、真に迫るものを感じました。

2019121504
鉄之助が2年間匿われ、養われていた一間。

2019121505
「今昔備忘記」の表表紙には「佐藤家の記事 十四代 俊宜執筆」の記載と共に、「不許他見(他見を許さず)」とあることから滅多に表に出すこともなく、今回も約10年ぶりの公開となりました。
新選組に関する記述も多く、戊辰戦争終結から50年以上を経てもなお、「不許他見」とした俊宜、そして日記に鉄之助のことを一切記さなかった彦五郎(俊正)の思いも推して知るべし、といったところでしょうか。

土方歳三没後150年の節目の年の最後に、感慨深い現史料を拝観させていただきました。

| | コメント (0)

2019年12月17日 (火)

徳永寺

20191208c01
飯道山から下山し、帰りの名古屋駅まで送っていただく途中に、三重県伊賀市柘植町の徳永寺にも立ち寄りました。

天正10年(1582)6月、本能寺の変勃発を受け、滞在先の堺から三河へと逃避した徳川家康伊賀越え
徳永寺はその途中、休憩に立ち寄ったと云われるお寺です。

20191208c02
家康は後年、この時のもてなしを謝し、寺の周囲の土地を寄進したと云います。
藤堂高虎をはじめ、伊賀を治める津藩主・藤堂家の歴代が発した寄進・安堵状も残っているようです。
徳川家からは、葵紋の使用も許可されていました。

20191208c03
本堂
徳永寺は、柘植の土豪・福地氏(参考記事)の菩提寺でもあったようです。

20191208c04
山門越しに、家康が寄進したと伝えられる周辺の景観を眺める。

今回も充実した、いい旅となりました。

| | コメント (0)

2019年12月16日 (月)

飯道寺

20191208b01
行場巡りを無事にクリアした後は、飯道寺跡へ。

20191208b02
飯道神社(図左上)の眼前にはかつて、神仏習合の飯道寺として栄えた時代の名残として数多くの僧院跡が残っています。

20191208b03
1枚目の写真の石段を上がった先は東照宮跡。

20191208b04
明治の神仏分離・廃仏毀釈で寺院(仏教)関連は廃され、今はこうした痕跡を留めるのみとなっています。

20191208b05
思いのほか立派な石垣も。

十月九日、伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊り
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」)

天正9年(1581)、次男・信雄を総大将とした軍勢を派遣して伊賀国を制圧(第二次天正伊賀の乱)した織田信長は、嫡男の信忠、甥の信澄を同道して伊賀の視察へ向かいます。
その道中、伊賀入り前日の10月9日にはここ、飯道寺に泊まりました。

20191208b06
参道を挟んで左に梅本院跡、右奥に智積院跡。
信長らが泊まった僧院は果たして、いずれにあったのか・・・想像を膨らませながらめぐります。

20191208b07
智積院跡

20191208b08
高野山を再興したことでも知られる木食応其上人は、晩年を飯道寺で過ごしました。
智積院跡の向かいには、彼の入定窟も残ります。

20191208b09
岩本院跡に残る石積み。

20191208b10
岩本院跡
この岩本院と先ほどの梅本院は、醍醐寺三宝院を本寺とする真言宗本山派に属す寺院で、山内でも特に有力な存在だったようです。

20191208b11
不思議な切石状の石積みも。

20191208b12
岩本院跡から見る、智績院跡の石垣。
左の下段は行満院跡。

20191208b13
鳥居坊跡

20191208b14
飯道寺跡(飯道神社)からは、紫香楽宮跡などを見渡すことができます。
まさに、飯道寺に上がった織田信長が御覧じ国中の躰の光景。
数年来の念願叶い、飯道寺跡を訪れることができて感無量です。

※現在、甲賀市水口町に所在する飯道寺は、天台宗の本覚院が明治25年に廃寺となっていた飯道寺の寺号を継承したものです。
御本尊は飯道山から移されたものとか。

20191208b15
折角なので山頂まで足を延ばします。
山頂からは杖の権現を経由して飯道寺跡まで戻り、その後に下山します。

20191208b16
飯道山山頂
飯道寺跡から山頂までは7~800m。緩やかな登りの尾根道が続きました。

20191208b17
山頂からの眺め。
辛うじて近江富士の姿も確認できました。

20191208b18
杖の権現
山頂から杖の権現までは、急勾配な直線の尾根を一気に下ります。

20191208b19
飯道寺跡まで戻りました。

行場巡りに、念願の飯道寺跡・・・とても楽しい山歩きになりました。

| | コメント (0)

2019年12月15日 (日)

飯道神社と行場巡り

山城踏査会&忘年会が明けた翌日は、甲賀市の飯道山へ。

20191208a01
飯道山、紫香楽側の登山口。
ここから、よく整備された登山道(飯道神社参道)を20分(700m)ほど登ると・・・

20191208a02
いい雰囲気の石垣が見えてきました。

20191208a03
いよいよ飯道神社の境内に入ります。

20191208a04
弁天堂

20191208a05
まずは飯道神社にお参りします。

20191208a06
行者堂
飯道山は古来より山岳信仰の栄えた霊山で、近江国屈指の修験霊場でもありました。

20191208a07
飯道神社の創建は和銅7年(714)、熊野神社の分霊を勧請したのが始まりとされています。
以来、神仏習合の飯道寺として栄えました。
現在の本殿は、慶安2年(1649)の再建になります。

20191208a08
せっかく飯道山に登ったので・・・行場巡り(修験道)にも挑戦します。

20191208a09
行場巡りのスタート地点。

20191208a10
不動の押し分け岩
同行者が先に挑戦していますが、極めて狭い岩の隙間をすり抜けるようにして通り抜けます。

20191208a11
あまりにも狭いので、ここはリュックなどの荷物を一旦置いて、身一つで挑戦しなければなりません。
(通り抜けた後、岩の脇を回り込んで元の場所へ戻れます)

20191208a12
平等岩

20191208a13
蟻の塔渡り
「蟻しか渡れないような、細くて高い塔のような岩を渡る」の意味でしょうか。

20191208a14
まさに、蟻の塔のような難所。
崖側には安全のためのロープが張られてはいますが、ちょっと心許ない・・・。

20191208a15
胎内くぐり

20191208a16
狭い岩穴を、鎖を頼りに下っていきます。

20191208a17
最後の難関は岩上。
同行者が指さす方角へ、ロープを頼りにこの絶壁を登ります。

20191208a18
なかなか凄さが伝わりにくい写真ですが、足場なんてこれっぽっちしかありません。
左側は無論、断崖絶壁です。

20191208a19
ゴールすると本殿の裏側に出ました。
これで私も、一端の甲賀忍者の仲間入り!?

飯道山歩き、後半は飯道寺跡をめぐります。

| | コメント (0)

«弥高寺