2021年6月14日 (月)

玉川上水の始点…羽村取水堰

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羽村取水堰が描かれた、羽村市のデザイン・マンホール。

江戸の水不足を解消するため、幕府の肝煎りで承応3年(1654)に完成した玉川上水
現在でもその一部は現役で東京都水道局の施設として稼働していますが、その取水地点こそ、この羽村取水堰なのです。

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前回の記事でご紹介した旧鎌倉街道歩きの後、取水堰への道すがらに見かけた「羽村橋の欅」
樹齢は400年とも600年とも推定される、見事な巨木です。

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玉川上水の開削工事を請け負い、その功績によって「玉川」姓を許された玉川兄弟の像。
あれ…兄弟の足元に何かいる?と、後ろへ回り込んでみたら・・・

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あら、こんにちは(笑)

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展示されていた牛枠(川倉水制)
水の流れを弱め、堤防が壊れたりするのを防ぐ目的で用いられてきた治水技術の一つです。

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現在の取水堰や水門の位置関係図。
取水堰で多摩川の水を堰き止め、その脇の第一水門から水を引き入れて玉川上水へ流す、という仕組みになっています。

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取水堰
支柱の間に桁を渡し、投渡木(なぎ)という横に架ける板材を縦の木材で支えて水を堰き止める仕組みで、その構造は「投渡堰」と呼ばれています。
大水の時は縦の木材を取り払い、投渡木ごと川に流してしまうのだそうです。

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玉川上水側から見た第一水門(右奥の白っぽい壁面部分)
ここから取り込まれた水が、遠く江戸の町まで流れて行くのです。
第一水門手前の小さなアーチが並ぶ部分は、上水の水量を調節するための放流口です。
江戸時代には、この水門も木材で築かれていました。羽村市郷土博物館に実寸大で復元された展示があります。

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玉川上水の総延長は、羽村から江戸の入り口となる四谷大木戸まで約43㎞。
その間の高低差は92m強なので、上水は100mにつき僅か21㎝の傾斜をつけて開削されていきました。
上水の開削に要した期間は8ヶ月ほど(堰や水門の構築は別)とのことなのですが、重機もない時代にこれだけ繊細で、且つ大掛かりな工事をたったの8ヶ月で完成させるとは・・・ちょっと想像もつきません。

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羽村取水堰と第一水門
多摩川の流れが、上の写真で堰の奥に見える小山にぶつかって左(写真向かって右)へ折れ、少し緩やかになる地点だったからこそ、この地が取水ポイントに選ばれたのだそうです。

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上流側から。
堰(右)で多摩川の水を堰き止め、水門から取り込んで左奥へ続く玉川上水へ流す・・・その仕組みがよくわかる配置でした。

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玉川水神社
玉川上水が承応3年(1654)に完成した際、水神宮としてこの地に創建されました。
明治26年に玉川水神社と名を改められています。
石燈籠には天保年間の刻印がありましたが、本殿も天保年間の創建なのだそうです。

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多摩川水神社境内に保存されている、玉川上水羽村陣屋門。
元は堰のすぐ脇を通っていた奥多摩街道の旧道に面して建っていたそうです。

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最後は郷土博物館にも立ち寄り。
先ほども書きましたが、江戸期の木造の水門や、明治以降の水門の実寸大展示が見応えあります。

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郷土博物館の敷地内に移築展示されている、旧下田家住宅。
弘化4年(1847)の建築で、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

以前から折に触れ、玉川上水をピンポイントでめぐったりしていましたので、羽村取水堰もずっと気にはなっていました。
どうしても織田信長、戊辰戦争関連やお城、地方の史跡めぐりを優先して後回しになっていましたが、コロナ禍は遠方への外出を著しく制限し、それが期せずして地元周辺の史跡に目を向け直すきっかけにはなりました。

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羽村駅前に残る旧鎌倉街道

今回は東京都羽村市までおでかけ。
目的は玉川上水の始点となる羽村取水堰でしたが、事前にあれこれ調べているうち、羽村駅前に旧鎌倉街道と推定される道が残っていることを知り、取水堰へ向かう道すがら、そのルートを辿ってみることにしました。
と、その前に・・・

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羽村駅東口近くにある「まいまいず井戸」
いつの時代に作られたのかは諸説あるようですが、井戸の形態などから鎌倉時代のものと推定されています。
作井技術が未熟な時代に、筒状に深く掘り下げることが難しい砂礫層に井戸を設ける必要から、ある程度の深さまではすり鉢状に掘り下げ、螺旋状に通路を設けて井戸まで下りて使用していたようです。
この形状がカタツムリに似ていることから、まいまいず(=カタツムリ)井戸と呼ばれています。

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私も螺旋状の通路を下りて近づいてみましたが、井戸の底は見えませんでした。

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駅の西口側へ移動し、旧青梅街道(左)と旧鎌倉街道(右)が交錯する地点。

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旧鎌倉街道の案内標識も建っていました。

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今でこそ住宅街の細い路地といった風情ですが、どことなく古道の雰囲気は感じさせます。

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都道29号線を跨ぐ旧鎌倉街道(立体歩道橋の右脇)
あちらの歩道橋の上から旧街道を見てみることにします。

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この地点まで歩いてきた北西の方角に・・・

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この後に向かう南東方向。

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しばらく進むと旧鎌倉街道は、正面に見える羽村東小学校に遮断されて消滅します。
実際には小学校の校庭を横切って遠江坂を下り、多摩川を渡って滝山(八王子市)の方まで南下し、更には鎌倉街道上道へと続いていた模様です。
※滝山近辺の旧鎌倉街道についてはコチラ、上道に関してはコチラの記事も合わせてご参照ください。

なお遠江坂は、永禄6年(1563)に滝山城主の北条氏照が三田氏を滅ぼした後、その家臣である大石遠江守がこの地に入り、坂の上(羽村東小学校付近)に館を置いたことから、その名で呼ばれるようになったのだとか。

さて、私も小学校を迂回して遠江坂(写真撮り忘れ…)を下り、羽村取水堰へ向かいます。
(次の記事へ)

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2021年6月 8日 (火)

払沢の滝

2021年6月8日、平日に休暇をもらって、東京都檜原村にある払沢の滝までドライブしてきました。

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駐車場に車を停めて遊歩道を進みます。
途中、こんな不思議な建物も。

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遊歩道はとてもよく整備されており、この季節は軽装でも充分に森林浴を楽しめます。

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遊歩道の脇には、払沢の滝へと続く沢が流れていました。

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この日は今年初の30度超えとなって暑くなりましたが、沢の流れが涼やかでとても癒されました。

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歩き始めてから10分ほど・・・いよいよ見えてきました。

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東京都内では唯一、日本の滝百選に選ばれている払沢の滝

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滝壺に陽射しが当たり、それがまた何とも言えず綺麗でした。
この滝壺には大蛇が棲むとの伝説も語り継がれてきたそうです。

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滝の水の流れ落ちる様子が、僧侶が使用する払子が垂れたように見えることから、かつては「払子の滝」とも呼ばれていました。

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アングルを変えて・・・。

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うん、とてもいい気分転換になりました。

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往路では気づかなかったのですが、遊歩道の入口付近に「山男のガチャ」なるものが設置されていました。
檜原村で伐採された木材を使った小さな雑貨や玩具が入っているようです。

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「500円は高いかなぁ~」なんて思いながらも・・・買ってしまいました(笑)
ゲットしたのはサイコロ型のバードコール。木材がまだ真新しく、木の香りがとても爽やかに香っていました。

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2021年6月 2日 (水)

スナックエンドウ・キュウリ・京みどりの初収穫(家庭菜園2021③)

早いものでもう6月。エンドウたちを植えてから3ヶ月、他の苗も植えてから2か月近くが経過しました。


■5月12日
早くも様々な野菜に花が咲き始めました。

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茄子

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キュウリ

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ミニトマト


■5月16日

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キュウリの葉に恐れていた症状が・・・うどんこ病です。

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下の方の症状が強い葉は摘除し、それ以外は専用の薬で対処しました。
お陰様できっちりと抑えられたようです。

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暖かくなるに連れ、成長が早まってきたゴーヤにネットを設置しました。
上手いことカーテンができるといいな。


■5月22日

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スナックエンドウも初めての収穫を迎えました。
莢エンドウは日々、順当な収穫が続いています。

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ところが・・・背丈が2mを超えたところでネットの補助もなくなり、スナックエンドウが互いに絡み合って重みに耐えかね、茎がポッキリと折れてしまっていました。

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まだ花もたくさんついていたのに・・・残念、油断しました。

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無事だった株も摘芯し、ロープで補助を強化しました。

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この日は、京みどりの実が育ち始めていることも確認。楽しみが増えました。


■5月24日

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ゴーヤも綺麗な花を咲かせています。


■5月26日

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この日もスナック・莢エンドウ共に、たくさん収穫できました。
これらは晩のおひたしに。


■5月27日

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枝豆にも莢がつき始めました。


■5月29日

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今度はスナックエンドウが、うどんこ病の餌食に・・・。
薬で対応していますが、なかなか改善の兆しはありません。

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早生タイプだった莢エンドウはめっきり収穫が減り、スナックエンドウも、この先はあまり数を見込めそうにありません。
やはり茎が折れてしまったのも痛かったなぁ・・・。

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茄子の実がひょっこり顔を出しているのを確認。

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昨年からのミント。
今年はどことなく、葉の色が悪いような気もします。

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こちらは茗荷エリア。
順調に背丈を伸ばしています。


■5月30日

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早くもキュウリの初収穫を迎えました。

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昨年は100本を超えましたが、今年はどのくらいなってくれるでしょうか。


■6月1日

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キュウリの第2号収穫。
エンドウたちはいよいよ、収穫が減ってきました。


■6月2日
それでは今月のまとめを。

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畑A
ミニトマトもですが、キュウリがグングンと背を伸ばしました。

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キュウリは既に2本収穫していますが、後続も順調そうです。

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ミニトマトのイエローアイコ。
実がついてから結構経ちますが、いまだ色づいてはくれません。

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こちらはSUNTORYから出ている純あまという品種。

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そうそう、京みどりも第1号を収穫しました。

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京みどりは、後続の実も順調に増えてきました。

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最初に顔を出していた茄子の実は、なぜか実割れして傷んでしまっていました。
シシトウ系もよく、実になる部分が枯れて地面に落ちていることがあります。

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しかし、茄子は他にも実ができ始めています。

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茄子に関しては昨年に比べ、少し成長が悪いような気もしていますが・・・これからの挽回に期待したいところです。

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万願寺トウガラシの小さな実。

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鷹の爪も花を咲かせ始めています。

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成長著しいゴーヤ。

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どういう訳か、一方の株には雌花ばかりが咲き・・・

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もう一方には雄花しか咲かないという謎の現象が起きています。
まだ成長過程なので、この先どうなっていくのかはわかりませんが・・・。

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畑B
エンドウたちはもうすぐ終了の見込みです。

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早生タイプの枝豆の莢。

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通常タイプの枝豆にも。

しかし、やはり植える時期が早過ぎたのか、どちらも株が充分なサイズまで成長しておらず、莢の数も少ないです。
昨年も春に植えた枝豆は同じような状態で、その後、暑くなってから始めただだちゃ豆はまずまず順当だったからなぁ・・・。

さて、ひと月後にはどんな成長を見せてくれているでしょうか。

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2021年5月 9日 (日)

莢エンドウの初収穫と5月の経過報告(家庭菜園2021②)

3度目の緊急事態宣言も発出されて外出も憚られる最近の週末は、専ら庭木の手入れなどに精を出しております…(;^_^A

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そんなある休日の午後、プランターからミントの葉を少し摘んできて・・・


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ミントティーにしていただきました。
爽やかながらもパンチのある香りが、疲れた体を癒してくれます。
(4月25日)


■4月28日

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この日、遂に莢エンドウの莢がなっているのを発見しました。
初収穫も間近です。


■4月29日

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キュウリも花を咲かせましたが、株の成長を促すため、まだしばらくはこうした花や脇芽は摘んでしまいます。
ミニトマトや京みどり、茄子なども然り。


■5月2日

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遂に莢エンドウの初収穫を迎えました。
この後も2日ほど収穫が続き、ある程度数がまとまったところで・・・

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お味噌汁の具として美味しくいただきました。
(5月5日)

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莢エンドウは日々、順調な収穫が続いています。
(5月7日)

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ところで、GW期間中も庭の手入れに精を出していると、母が10年ほども前に植えたミョウガの地下茎が復活し、生け垣の足元からニョキニョキとたくさん伸びてきているのに気がつきました。
今後は、こちらの経過も畑と共に見守っていきたいと思います。


■5月8日

それでは今回のまとめを。

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畑A
キュウリもだいぶ背を伸ばしてくれましたが、ミニトマトの成長の早さが著しいです。

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よく観察すると、イエローアイコや・・・

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「純あま」にも小さな実がついていました。

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京みどりには蕾が・・・

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茄子にも。
それぞれ順調な生育を見せてくれています。

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ゴーヤは相変わらずひょろひょろですが…(;^_^A
しかし、背は伸ばして新しい葉も増えてきています。

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畑B
エンドウも枝豆も元気に育っています。
(隣の紫陽花には、蕾がたくさんついてきました)

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莢エンドウは、まだまだたくさん収穫を楽しませてくれそうです。

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早生ではないタイプのスナックエンドウにも花が咲き始めました。
今後が楽しみです。

季節も初夏へと移ろい、今後は虫との戦いも始まります。
ここまで順調に来ているので、油断なく・・・。
それでは、また来月。

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2021年4月18日 (日)

土づくり~苗植え(家庭菜園2021①)

新型コロナウィルス感染症の収束への道筋がなかなか見えない中、今年も遠出はなるべく控え、家庭菜園に携わることになりそうです…(;^_^A


■2月21日

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まずは畑の土づくりから。
消石灰を撒き、よく混ぜ込んで土壌を弱酸性に中和させます。

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畑Aに比べて生育の良くない畑Bは、例年以上に深く掘り起こしました。


■3月7日

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消石灰を混ぜ込んでから2週間。
今度は黒土と腐葉土を大量に混ぜ込んで土の栄養を補充。このまましばらく寝かせます。


■3月14日

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本格的に苗を植えるのは4月に入ってからを予定していますが、畑Bに莢エンドウ(早生)×3とスナックエンドウ×3を先行して植えました。

青いネットは鳥除けのためです。
前回、ここに植えていたブロッコリーの葉が鳥たちの餌食になってしまったので、念のため…(;^_^A


■4月10日

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いよいよ、夏野菜の苗植えです。

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まずは畑Aの畝づくり。
今年は畑を少し広げたので、昨年よりも1本多く5本つくれました。


■4月18日

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苗を植えてから1週間が経過した畑A。右奥の畝から順に;
キュウリ×2
イエローアイコ×1、ミニトマト×2
京みどり×3
ナス×3(うち1つは小さいタイプ)
万願寺甘唐辛子×2、伏見甘長唐辛子×1、鷹の爪×1

昨年はすぐに枯れてしまった苗が1~2あったので、ひとまず順調そうで一安心です。

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畑B
右の畝には枝豆(早生タイプ×3、通常タイプ×2)を植えました。
一ヶ月先行していたエンドウは、だいぶ大きくなりました。

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早生タイプの莢エンドウには、早くも白い花が点々と咲き始めています。
こちらが、今年の最初の収穫になるのかな。

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ゴーヤはプランターにて。
もう少し成長したらネットを設置して、ゴーヤ・カーテンを目指します。

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昨年からのミントも地下茎から目をグングン伸ばし、早くも無法地帯?…(;^_^A

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2021年4月13日 (火)

織田信長が初めて目にした富士山(台ケ原宿、他)

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山梨県北斗市白州町白須に建つ自元寺。
付近一帯を治めていた武田家の重臣・馬場美濃守信房(信春)の開基で、菩提寺にもなっています。
写真の総門は、馬場美濃守の屋敷(梨子の木屋敷)からの移築と伝えられているようです。

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馬場美濃守信房墓所

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自元寺門前を通る旧甲州街道
今回は、この旧甲州街道を少し歩いていきます。
写真の奥、突き当りを左(東)へ折れると・・・

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台ケ原宿に入ります。

四月二日、雨降り時雨侯。兼日より仰せ出ださるゝにつきて、諏訪より大ヶ原に至りて御陣を移さる。御座所の御普請、御間叶以下、滝川左近将監に申し付け、上下数百人の御小屋懸け置き、御馳走斜ならず。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

天正10年(1582)4月2日、武田家を滅ぼした織田信長は甲府へ向けて諏訪(上諏訪)を発ち、この日はここ台ケ原に宿陣しました。

※美濃岩村城を出陣し、上諏訪へ至るルートはこちらを参照。
→信長の甲州征伐 信濃路

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一里塚跡の碑。

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信玄餅で有名な金精軒前を通過。
その斜め向かいには・・・

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北原家住宅
銘酒「七賢」で有名な酒蔵です。
寛延3年(1750)、信濃国高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地に分家し、酒造りを始めたと伝わります。
台ケ原宿の脇本陣をも務め、明治13年(1880)には明治天皇御巡幸の際の御在所にもなりました。
奥座敷と中の間境の欄干に彫られた竹林の七賢人が「七賢」の由来になっているようです。

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日本の道100選の碑

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台ケ原宿本陣跡と秋葉大権現常夜石燈籠。
古くから代々、台ケ原の名主を務めてきたのであれば、信長が泊ったのも或いはこちらだったのでしょうか・・・。
台ケ原では小田原の北条氏政から、武蔵野で捕らえた500羽余りもの雉が届けられました。

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宿場の出口付近で見かけた石碑。

四月三日、大ケ原御立ちなされ、五町ばかり御出で侯へば、山あひより名山、是れぞと見えし富士の山、かうゝゝと雪つもり、誠に殊勝、面白き有様、各見物、耳目を驚かし申すなり。
(信長公記 巻十五「御国わりの事」)

翌4月3日、台ケ原を出発した織田信長一行は5町ほど進んだところで、美しい富士山の姿を仰ぎ見て感嘆の声を上げています。
この前日に通行した諏訪から台ケ原までの道中にも富士山を見られるポイントはあったかと思いますが、信長公記によると前日の天候は雨。どんよりとした雲に覆われ、富士山が姿を現すことはなかったのでしょう。

実は今回、台ケ原を訪れた一番の目的こそがこれ。信長らがおそらく初めて目にしたであろう、美しい富士山の姿を同じポイントから眺めてみたかったのです。

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台ケ原宿を出たら国道20号線を渡り、反対側に見えている細い道へ進みます。

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その細い道の入口に建つ古道入口の石碑。
どうやら、江戸時代に旧甲州街道が整備される以前から存在していた道の名残のようです。

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道端に並べられた庚申塔や馬頭観音。

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釜無川の支流、尾白川に沿って進みます。

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こうした道を散策できるよう、ちゃんと整備してくれているのがありがたいです。

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歩いてきた道を少し振り返る。
この写真の右手にある高台に、無銘の巨塔なる石碑が建っているらしいので、ちょっと寄ってみました。

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無銘の巨塔
明治14年(1881)、日蓮上人の600年遠忌に五穀豊穣と国家安泰を祈念し、見法寺(長坂町日野)に碑を建てて「南無妙法蓮華経」と刻む予定でしたが、どうしてもこの巨石を牽いて釜無川を越えることができなかったそうです。
巨石は長年放置されたままでしたが、最近になって無銘のままこの地に建てられたとのこと。

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無銘の巨塔が建つ高台から、古道を見下ろす。
右側の稜線が邪魔をし、まだアングル的に富士山は見えなさそうです
・・・それよりも、遠くの空がかなり霞み、見通しが良くありません・・・嫌な予感。

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古道に戻り、横山の道標。
説明によると、この先で花水坂を登って七里岩に上がり、日野や穴山を経由して甲府へ至る道は、後に「はらぢみち」とも呼ばれた甲州街道整備以前の主要道路だったそうです。
横山の道標は、江戸時代になって甲州街道が整備されたことにより、この地がはらぢみちと甲州街道との分岐点になったことで建てられ、馬頭観音の側面に「右かうふみち」「左りはらぢ通」と記されています。

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古道が終了し、国道20号に出た地点に建てられていた石碑。

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こちらが現在の、甲州街道(右/かうふみち)とはらぢみち(左)の分岐点。
天正10年時点では、七里岩の麓を並行して通る甲州街道はまだ整備前。はらぢみちは花水坂から日野~穴山を経由し、信長らの目指す甲府まで続いていたと云いますし、信長らは道中、新府城の焼け跡も見物しているので、はらぢみちを進み、花水坂で七里岩に上がったものと思われます。

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という訳で、私も正面に七里岩を見据え、花水坂橋で釜無川を越えます。

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花水坂橋の欄干にあった句碑。
立ちおほふ霞にあまる富士の嶺におもひをかはす山桜かな
細川幽斎から古今伝授を受けた烏丸光廣が詠みました。

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坂を少し登り、七里岩の中腹に建つ花水坂の碑。
(実際のはらぢみちは、石碑の建つ現在の台ケ原富岡線とは少しルートがズレているようなのですが、詳細はまだ調べきれておりません)

日本武尊が東征の折、富士や清流(釜無川か)の絶景にしばし足を止めて休息し、ここを「花水坂」と命名したと伝えられています。休息した場所を「休み平(やすまんていら)」といい、今でもこの一帯に地名が残っているようです。
花水坂は「山水の富士」として、甲斐国の富士見三景の一つにも数えられています。

台ケ原宿を出てからここまで、アングル的に富士山を仰ぎ見ることが出来そうなポイントはありませんでしたし、太田牛一も信長公記に「台ケ原を出発して五町ほど進んだら、美しい富士山が見えた」と書き残しています。
台ケ原宿から花水坂までの距離は1㎞強。5町は約550m弱ほどなので距離感は一致しませんが、甲斐の富士見三景にも数えられる花水坂付近こそ信長らが富士山を目にし、その姿に感嘆の声を漏らした地点だったのだろうと判断しました。

その、花水坂からの富士山の眺めこそが・・・

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こちら・・・って、やっぱり見えねーっっ!!
事前に天気予報も確認した上で訪問したのですが・・・ガッカリ。
今年(2021年)は特に暖かくなるのが早い気がしますので、その辺りも影響したのかもしれません。

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写真をアップにし、少し彩度を調整しても辛うじて山容を認識できる程度・・・。
旧暦の天正10年4月3日は、現在のグレゴリオ暦に換算すると5月5日になります。温暖化の進む令和の今、5月にかうゝゝと雪つもった富士山をこの距離で拝むことは至難の業ですよね・・・。
信長たちと時期を合わせて富士山を拝みたかったのですが・・・次は季節を選んで再度チャレンジしてみたいと思います。

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この後は、台ケ原の金精軒本店が定休日だったので韮崎店まで足を運び・・・

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更には甲府の山梨県立博物館で、特別展「生誕500年 武田信玄の生涯」を拝観してから帰路に就きました。

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2021年1月 4日 (月)

首洗池と浅間の森

2021年最初の史跡めぐりは、神奈川県相模原市緑区寸沢嵐へ。

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まずは、国道412号線沿いにひっそりと佇む首洗池へ。

永禄12年(1569)10月、関東に侵攻した武田軍と、迎え撃つ北条軍との間で勃発した三増合戦
合戦後、信玄率いる武田軍は甲斐国へ引き上げる道中、「反畑」と呼ばれたこの地で討ち取った北条兵の首実検を行ったと伝えられています。
※今回の記事は三増合戦に関連した内容となりますので、下にご紹介する記事も併せてお読みいただけると幸いです。
三増合戦 (もののふ戦国バスツアー)

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この際、実検に供される北条兵の首を洗ったとされるのが、この首洗池です。

現地案内板には「実検後、首は浅間の森に塚を築いて埋葬された」とありましたので、その浅間の森にも行ってみます。

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首洗池のすぐ西の路地を南(やや南西)の方角へ。
結構な勾配の坂をひたすら登っていきます。

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国道412号線から400mほども進むと、帝京平成大学の薬用植物園のフェンス際に「浅間神社」の白い看板が立っています。
ここを左へ入り、フェンスに沿ってすぐに右へ曲がります。その先に・・・

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浅間の森があります・・・が、あまりの藪り具合に心が折れそうになりました(笑)
折角ここまで来たのだからと藪を掻き分け、フェンス際を30mほど進むと少しだけ藪が途切れ、左の浅間の森へ分け入れるポイントがありました。

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浅間の森の中には笹薮もなく、すぐに首塚の案内板が目につきました。

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首実検の後、武田軍によって築かれたと云う首塚

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首塚の上には浅間神社の石碑が建っています。
武田軍は塚を築いて首を葬った後、塚の上に祠を立てて供養したと伝えられ、これが、この地にいつの頃までか浅間神社が祀られていた始まりとなったそうです。

ところで、首洗池の説明板には「武田軍は反畑(首洗池周辺?)で首実検をした後に、浅間の森に埋葬した」と書かれていましたが、それだと武田軍は首実検をした後、埋葬のためだけ?に甲斐への帰路とは反対の方向へ引き返し、しかもわざわざ高台に登って首塚を築いたことになります。

同説明板によると、三増から引き上げてきた武田軍は「沼本の渡し」からと、「三ヶ木新宿」方面からとに分かれて道志川を渡ったのだそうです。
冒頭で紹介した三増合戦の記事で私は、道志川を渡った武田軍は上の山城を経由して「信玄森」で首実検を行った、といった趣旨のことを書きました。
この「信玄森」は地元の訛りなのか「せんげん森」と読む、とも書いていますが、信玄(武田軍)が築いた塚の上の祠が浅間神社になり、やがて「信玄」と「浅間」がない交ぜとなって伝えられた伝承だったのかもしれません。

そして地理や地形的な条件を考えると、南寄りの三ヶ木新宿から渡河した一隊が上の山城を経由して浅間の森に至り、北寄りの沼本からの一隊は首洗池で討ち取った首を清めた後に浅間の森の高台に登り、別動隊と合流して見晴らしの利く浅間の森(の高台)で首実検を行った、という流れ・状況だったのではないかと想像してみました。

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最後に・・・浅間の森付近から、武田軍が進んでいったであろう甲斐への方角。
(正面方向には甲州街道の与瀬宿があります)

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2020年12月31日 (木)

2020年の畑納め ~家庭菜園⑩~

■10月24日(182日目)

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畑Aで唯一残してあったピーマンもさすがに実の発育が悪く、もう育たなくなったので撤去することにしました。

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これで畑Aは今季終了です。
鉢植えの鷹の爪は、まだ小さな実がポツポツとついているので残していますが・・・もう収穫は難しいかもしれません。

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畑Bの平莢インゲン。
期待ほど育たなく、葉の状態も良くありません。

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まだいくつか莢はついていますが、花も咲かないので新たな莢は期待できないかも・・・。

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こちらは元気モリモリなブロッコリー。

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今か今かと待ち侘びておりますが、まだ蕾はつかないようです。
気長に待ちます。


■10月28日(186日目)

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まだ少し早いかな~とも思いましたが、平莢インゲンが地面に届いてしまっていたので収穫しました。

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鷹の爪・・・僅かではありますが、まだ実が少しずつ成長しているようです。


■10月31日(189日目)

この日は、全く実が育たなくなっていたオクラとお別れしました。
2mを遥かに超え、茎も太くなっていたので処理が大変でした…(;^_^A

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オクラが去った畑B。
ライムホルンも京みどりも実が育たなくなってきたし、平莢インゲンも成長が止まってしまいました。

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今後はブロッコリーに蕾がつくのを待ち侘びる日々になりそうです。


■11月14日(203日目)

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今季最後の収穫となる京みどり、平莢インゲン、そしてライムホルンを素揚げにしていただきました。


■11月15日(204日目)

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モリモリと葉をたくさん伸ばし、順調な成長を続けているブロッコリー。

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ついにこの日、蕾らしきものが出てきているのを確認しました!
いよいよですねぇ~♪


■11月22日(211日目)

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この日は最後に残った実を全て収穫し・・・

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ここまで大きく育っていたライムホルン、そして鷹の爪、平莢インゲンともお別れしました。
京みどりも、もう実はつけないのですが・・・最初の苦難があるので抜くに忍びなく…(;^_^A

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先週、頂花蕾を始めて確認したブロッコリー。
1週間でここまで大きく膨らみました。来週のうちには収穫できそうです。


■11月28日(217日目)

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さぁ、いよいよブロッコリーの収穫を迎えました。

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頂花蕾の直径は12㎝ほど。
まだ少し早いかな~とも思いましたが来週末では遅過ぎるだろうし、タイミングを逃したくはなかったので、この日になりました。

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今夜、みんなでいただくのが楽しみです♪

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既に多くの側花蕾も顔を出しています。
今後はこれらを順々に収穫していきつつ、葉も結構美味しいらしいので炒め物などに使って、少しずつ楽しんでいきたいと思います。

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さて、収穫したブロッコリー(頂花蕾)はシンプルに茹でて・・・

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鰹節をまぶして美味しくいただきました♪


■12月9日(228日目)

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頂花蕾を収穫して、早10日余りのブロッコリー。
予想に反して側花蕾の成長スピードが上がりません・・・。

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予想外と言えば、抜いてしまうに忍びなくて残してあった京みどり。
なんと、新たな花を咲かせていました・・・!?
もはや真冬とさえいえる12月・・・まさか実を収穫できるとは露ほども思っていませんが、それでもほっこり嬉しい驚きでした。


■12月12日(231日目)

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我が家のブロッコリー、実は先日頂花蕾を収穫したメインの茎の他にもう1本、写真右斜めにも茎が伸びてきているのですが、今度はそちらにも・・・

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頂花蕾がついているのを確認しました。
主茎に比べたらだいぶ細いですし、うまく育つのかは未知数ですが・・・。


■12月17日(236日目)

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前夜の極度な冷え込みで、朝起きてみるとブロッコリーがグターッとしな垂れていました。
日中の気温上昇で、持ち直してくれるといいのですが・・・。

なお、奥にチラッと見えている京みどりは、この後完全に枯れてしまいましたので撤去しました。


■12月19日(238日目)

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先日の冷え込みでグッタリとしていたブロッコリーですが、日中に気温が上がると持ち直してくれたので一安心。
冷え込み対策として、夜間はビニールを被せておくことにしました。

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お陰でなんとか今日も、元気に過ごしてくれています。


■12月31日(250日目)

さて、2020年もとうとう年の瀬を迎えました。
気がつけば春に家庭菜園を始めてから、ちょうど250日目にもあたります。

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我が家の家庭菜園で唯一残っているブロッコリー。
(プランターにはミントもいますが)

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側花蕾も・・・

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2本目の茎の頂花蕾もなかなか大きくならず、年内の収穫には間に合いませんでした。
この先、無事に育ってくれれば収穫して美味しくいただきますが、年を跨ぐことにもなりますので、今年の家庭菜園ブログはここで締めたいと思います。

2020年…本当に世界規模で大変な1年になってしまいました。
未だ感染は拡大の一途を辿っており、まだまだ先の見通せない日が続きますが、少しでも早く、希望の持てる日が来ることを祈っています。

春の緊急事態宣言による外出自粛から、何の気なしに携わるようになった家庭菜園。
1年前には、自分がこれほどまで畑仕事に携わるようになるとは、露ほども想像していませんでした。
しかし、育てた作物の日々のちょっとした成長や、天候・害虫などによる苦難、それを乗り越えた先に待つ収穫・・・そういった苦労や喜びを知れたことは、私にとっても少しはいい学びになったような気はします。
来年は、どこまで携わるかは未知数(ライフワークはあくまでも「歴旅」なので)ですが、機会があれば新たな作物にも挑戦してみたいと思います。


収穫履歴

10月19日
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平莢インゲンは、ちょっと期待外れだったなぁ・・・。

10月21日
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ライムホルンは本当によく頑張ってくれています。

10月24日
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ピーマンはこれが最後の収穫。
色も悪く、サイズも小ぶりなまま大きくなりませんでした。
京みどりも小さかったのですが、あまり発育が良くないので早めに収穫。

10月28日
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さすがのライムホルンも、実が少なくなってきました。

10月31日
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京みどりはこれが最後の収穫になるかも。
ライムホルン共々、もうサイズは大きくなりません。

11月3日
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残り僅かとなってきたライムホルン。
小ぶりでも、これ以上には育たなくなったので収穫。

11月7日
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京みどり・平莢インゲンは、これが最後の収穫。
ライムホルンもあと1~2回で終了かなぁ?

11月14日
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ライムホルンも、この後もう1回で終了となりました。

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2020年12月21日 (月)

出雲伊波比神社(毛呂大明神)

2020年12月20日、2年前に訪れた際には藪に覆われ、まともに見ることができなかった鎌倉街道の掘割遺構のリベンジのため、埼玉県毛呂山町を再訪しました。
参考記事(後半部分)

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その際、車を置かせていただいた毛呂山町歴史民俗資料館で令和2年度の後期企画展「戦乱の世の文化財」が開催されていたので、こちらもちょっと覗いてきました。

その中で、小田原の北条氏が「茂呂(毛呂)大明神」(出雲伊波比神社)に宛てた印判状(毛呂山町指定文化財「小田原北条氏の鐘證文」)の存在を知り、とても興味を惹かれたので実際に出雲伊波比神社を訪れてみることにしました。

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「毛呂大明神」出雲伊波比神社

北条氏の印判状は天正十六年(1588)正月五日付で、上方の豊臣政権の脅威が迫る中、来る戦に備えて梵鐘の供出を命じたものです。
世上が静謐になったら再び鋳造して寄進する旨を約した証文の体裁になっていますが、ご存知の通り北条家は2年後の天正18年(1590)の戦乱に敗れたため、梵鐘が寄進されることもありませんでした。

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出雲伊波比神社の本殿(国指定重要文化財)は、発見された棟札から大永8年(1528)に時の領主・毛呂顕繁によって再建されたことが判明しています。
毛呂顕繁は、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が争った永正元年(1504)の立河原合戦(現東京都立川市)にも、山内上杉方として参戦した人物でもあります。
この時、扇谷上杉方には北条早雲(伊勢盛時)や今川氏親の軍勢も援軍として参陣していました。

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毎年11月に行われる鏑流馬神事の馬場。
出雲伊波比神社の鏑流馬は、奥州平定に向かう源頼義・義家父子が当社で戦勝祈願を行い、その凱旋時の康平6年(1063)に再び参拝し、流鏑馬を奉納したのが始まりとされているそうです。

・・・偶然立ち寄った場所に、なんとも凄い歴史が眠っていたものです。

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