2020年6月29日 (月)

枝豆の収穫と新しい仲間たち ~家庭菜園②~

5月末には緊急事態宣言が解除され、6月中旬には都道府県境を跨いだ移動も自粛解除となりましたが、連日の梅雨空と蒸し暑さに出かける気も失せ、休日は相変わらず家庭菜園に精を出しております…(;^_^A


■6月20日(56日目)

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この日は枝豆を収穫しました。

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まだまだ苗は小さいままだったのですが、かなり早い段階で鞘が現れ始め、鞘の中の実も大きくなっていたので・・・。

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そのため、収穫量はごく僅か…(;・∀・)
もっと多くの収穫を得るにはどうするべきだったのか・・・来年へ向けての課題です。

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枝豆と言えば、やっぱりビール♪
辛うじてコップ1杯分のおつまみにはなりました(笑)
数は少ないですが味も風味も濃厚で、とにかく美味(・ω・)b


■6月21日(57日目)

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さて、枝豆の収穫で空いたスペースには、新たにオクラとだだちゃ豆をお迎えし・・・

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これまでに苗が枯れたりして空いていたスペースには、モヒートミント(写真左手前と奥、右端の3株)を。

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もう植える場所もないのに、どうしても欲しくて購入した鷹の爪は鉢植えに。

収穫できる日が楽しみです。


■6月27日(63日目)

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ミントは繁殖力が強く、一緒に植えると他の作物に良くないらしいことを知り、急遽プランターを購入して植え替え。
野菜栽培のド素人、知らないことが本当に多い・・・(・_・;)

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さて、ミントの植え替えで空いたスペースには、これまで大きく育ったライムホルンと茄子、更には紫陽花にも囲まれて陽当たりが悪く、一時は害虫に葉を食い荒らされたり、誤って母に引っこ抜かれてしまうなどのアクシデントにも見舞われてきた「京みどり」(ピーマン)を移してみました。
様々な困難に見舞われてきただけに育ちは極端に遅れていますが、葉の様子を見る限り、まだまだ頑張っています。
この先どう成長してくれるのか、注意深く見守っていきたいと思います。

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ちなみに、こちらが移植前の京みどり(中央)の様子。(6月12日撮影)
左がライムホルンで、右が茄子。植えた時は同じくらいの背丈だったのですが・・・。

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1週間が経ち、鷹の爪も少し背が伸びたようです。

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6月27日の収穫。
キュウリ・ししとうは、日々順調に収穫できています。


■6月28日(64日目)

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朝起きてみると、未明からの大雨で紫陽花の枝が大きく垂れ下がり、だだちゃ豆の苗を押し倒していましたので急遽、支柱を立ててロープで紫陽花を吊り上げ、苗を起こし直しました。
なんとか事なきを得たとは思いますが・・・これからの台風シーズンも心配です。

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6月28日の収穫。
この日はライムホルンも初収穫。どんなお味なのか、食べるのが楽しみです。
キュウリやししとうに加え、トマト(アイコ)や茄子もだんだんとペースを上げてきました。

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2020年6月13日 (土)

家庭菜園、はじめました。 ~家庭菜園①~

新型コロナ・ウィルス感染症の拡大に伴い、4月上旬には全国に緊急事態宣言が発出され、外出もままならない日々が続いています。
当然のことながら私も、4月以降は一切の史跡・お城めぐりを控え、当blogの更新も滞っておりました。

そんな状況下、“Stay Home”しながらでも何かやれることはないかと考え、例年は家族任せでノータッチだった庭先での家庭菜園に挑戦してみることにしました。
折角なので、その記録をblogにも残しておくことにします。


■4月25日(0日目)

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まずは土を起こして畝作りから。
畑は庭の隅、両サイドに2ヶ所作ります。

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今年の苗たち。
茄子やらミニトマト、ピーマン、etc...今年は初の試みとして、枝豆にもチャレンジ。

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苗植えを終えた畑A。
向かって右の列からピーマン、茄子、ミニトマト、キュウリ。

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同じく畑B。
向かって左の列はインゲン豆で、右列は手前から枝豆、とげなし茄子、ピーマン(畑Aとは別品種)、ライムホルン。

元気に育って美味しくいただける日を楽しみに♪


■5月22日(27日目)

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苗を植えてから一ヶ月ほどが経った畑A。

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ピーマンは早くも小さな実をつけました。

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ミニトマトも。

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畑B

この日は一ヶ月で増えてしまった雑草を除去したのですが、この1~2日後、畑Bのインゲン豆やピーマンの葉を、夜間のうちにごっそり食べられる被害が発生しました。
雑草取りをしている際もダンゴ虫の多さが気になりましたし、日中は姿を見せずに夜のうちに食べられていることからヨトウムシの可能性も・・・。
雑草類を綺麗に除去したから、害虫が苗に集中してしまったのでしょうか・・・?

土に撒く誘殺剤や、葉に散布する天然素材の殺虫剤を購入して対処したところ、以降は現在まで食害もピタリと収まりましたが・・・油断大敵。


■5月30日(35日目)

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畑A
この日は一番右にもう一列作って、食後の豆苗(エンドウ豆)の根を植えてみました。
チョロチョロと土から顔を出しているのがそれです。

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一週間でピーマンがだいぶ大きくなっていました。

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ミニトマトもたわわに。

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キュウリも小さな実をつけていました。

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畑B

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枝豆の苗に、早くも小さな鞘が!?


■6月6日(42日目)

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一週間前に植えた豆苗が、しっかりと芽を伸ばしてくれました。

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さて、この日はいよいよ初の収穫です。
まずは、こちらのピーマンと・・・

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ピーマンだと思って植えたのに、何故か一株だけ混じっていたシシトウに・・・

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更には茄子と・・・

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そして、畑Bのとげなし茄子も収穫しました。

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枝豆は鞘の中に実も入りだしました。

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ライムホルン
残念ながらこの実は収穫のタイミングを逃し、この後傷んでしまいました。

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ミニトマトは数こそたくさんなれど、なかなか色づきません。

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キュウリももう一息、といったところだったのでこの日は収穫しませんでしたが、とても実の成長が早いので、この2日後には食べ頃を迎えました。

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今年初の収穫。
炒め物にして美味しくいただきました。

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2日後の6月8日に収穫したキュウリ。
こちらは生のままスティックにして。


■6月12日(48日目)

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畑A
豆苗用にネットを張ってみました。
4月25日の写真と比べると、キュウリとミニトマトの成長の早さに驚きます。

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畑B
まだ収穫できそうな作物は、しばらくなさそうです。

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畑横の紫陽花も、綺麗に花を咲かせました。

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翌6月13日に収穫したキュウリ、ピーマン、シシトウ、そしてインゲン豆。
キュウリは今年も、ハイペースで実をつけてくれます。
紫陽花は、3年前に亡くなった愛犬ボンに供えました。

今後も引き続き、家庭菜園の様子はtwitterやblogでも更新していきます。
でも・・・早く歴旅にも出かけたいなぁ~

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2020年3月30日 (月)

泰巖歴史美術館

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東京都町田市に開館した泰巖歴史美術館。
そのオープン初日となる3月22日、早速お邪魔してきました。

文書類や甲冑、刀剣、茶器などの展示の他、安土城天主5~6階部分や熱田神宮の信長塀、利休の茶室として有名な待庵のレプリカ展示(原寸大)などもあります。

個人的には一番の目当てだった新史料、武田信玄書状織田信長宛(越・甲が戦になる時はお味方くださるとのこと頼もしく存じます。これからも入懇に・・・云々)を拝観できたのでよかったです。

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2020年3月29日 (日)

季節外れの積雪

令和2年3月29日(日)、関東地方では各地で季節外れの大雪となってしまいました。
我が地元・東京都八王子市も例外ではなく、夜通し降り続いた雨が午前7時前には雪に変わり、みるみる間に降り積もっていきました。

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午前11時の時点で、我が愛車もご覧のあり様。。。

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公園の雑木林もすっかり雪化粧。
思いがけず、雪と桜のコラボも。

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桜雪

どうやら、多摩地方には大雪警報も発令されている模様。
新型コロナウィルス感染拡大の懸念も広がり、外出自粛要請が出された週末。
この季節外れの大雪は案外、天からの援軍なのかもしれませんね。

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大胡城

白井城の後は前橋市へ移動し、大胡城へ。

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大胡城は中世、上野の名族・大胡氏の居城と考えられています。
天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康の関東入封に伴って大胡城には牧野氏が入り、その牧野氏の越後転封後は前橋藩領に組み込まれましたが、寛延2年(1749)に廃城とされました。

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二の丸に残る枡形。

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水の手門は藪で形状を確認できず・・・。

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二の丸から本丸への虎口。

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横堀もなかなか見事です。

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本丸の北西隅部分。

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本丸
立派な土塁が残ります。

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本丸北側の堀跡には用水路が流れ・・・

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東の根小屋地区の先には、荒砥川が流れています。
荒砥川はおそらく、城の外堀としての役目も担っていたことでしょう。

保存状態もよく、手軽に楽しめる城跡でした。

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2020年3月28日 (土)

白井城と白井宿

最近は自身の体調不良やら仕事上のトラブル、そして新型コロナ・ウィルス問題など、様々なことが重なって休日に出かけることができていませんでした。blogの更新も、気がつけば2月上旬以来滞ったまま。
その間、愛車にもあまり運動をさせてあげられていなかったので、3月後半のよく晴れた週末、思い切って群馬県渋川市までドライブしてきました。

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目的地は旧子持村の白井宿、及び白井城です。

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まずは白井宿の散策から。

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白井宿は白井城の城下町として整備され、利根川と吾妻川の合流点で沼田⇔前橋を結ぶ街道(沼田街道西通り)や、三国街道と連絡する脇往還なども通る交通の要衝として発展しました。

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嘉永2年(1849)に建てられた道標。
説明板には「北へ進むと沼田、南へは日光江戸道へ通じる」とありました。
ここから南へ、前橋の先にも日光街道に通じる街道が通じていたということでしょうか。

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宿場の街道沿いには、多くの井戸も見受けられました。

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白井宿歴史資料館は、どうやらお休みの模様。
これも新型コロナの影響でしょうか・・・?

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それでは、白井城へ向かいます。

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白井城は、利根川と吾妻川に挟まれた舌状台地が、両河川の合流点に突き出す先端に築かれたお城です。
15世紀中頃、関東管領・山内上杉氏の家宰で、上野・武蔵両国の守護代をも務めた白井長尾氏の長尾景仲による築城と伝えられています。
山内上杉氏が後北条氏によって越後に追われた後も、白井長尾氏は甲斐・武田や後北条の傘下に入るなどして命脈を保ちましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、前田利家・上杉景勝らの北方軍に北曲輪まで落とされて開城し、白井長尾氏による当地の支配は終わりを告げました。
それ以後、徳川家康の関東入封に伴って白井には本多広孝・康重父子が配され、康重が初代白井藩主となります。
康重の岡崎転封後は松平・井伊(直孝)・西尾・本多(紀貞/康重の子)と城主を変え、元和9年(1623)、紀貞が嗣子なくして死去したために廃藩となり、白井城も破却されました。

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まずは舌状台地東側の中腹を、北から南の方向へ進みます。
写真は二の丸東側の横堀。

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奥へ延びるのは、二の丸と本丸間の空堀。

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二の丸と本丸間の堀底から。

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さらに南へ、本丸東側に続く横堀。

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横堀は台地の先端付近まで続いていました。

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白井宿方面を望む。
すぐ直下には、南曲輪や新曲輪などが配置されていたようです。

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それでは台地に上がって、主郭部を見ていきます。
写真は北曲輪跡付近に残る櫓台。現在は城山不動尊が建ちます。

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北曲輪越しに三の丸方向。
前田・上杉軍は、ここまで攻め寄せたのですね。

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三の丸
杉の木が横並びに茂っている辺りが二の丸との境で、空堀が通っています。

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三の丸と二の丸間の空堀、その西側と・・・

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東側。

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二の丸
この先が本丸になります。

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空堀手前から、本丸虎口を望む。
虎口の枡形には石垣の痕跡も見られますが、これは本多氏以降の手によるものだそうです。

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二の丸と本丸間の空堀も見事です。
こちらは西側で・・・

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東側は先ほど、堀底も歩きました。
現地には「三日月堀」との案内標識も。確かに湾曲はしているけど・・・。

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本丸側から、虎口・空堀越しに二の丸。

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本丸
土塁も綺麗に残されています。

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本丸に建てられていた歌碑。
相国寺の僧・万里集九が東国巡歴の途次、長享2年(1488)9月28日に白井城に立ち寄り、“城主”上杉顕定の知遇を受けて城中を歴観した時のことを綴った旅日記に収められた漢詩とのことです。
長尾景仲の孫・景春が、総社長尾氏との主導権争いから山内上杉氏に反旗を翻した(長尾景春の乱)際、白井城は一時的に山内上杉氏のものになっていたこともあるようですが、万里集九の来訪はその間のことだったのでしょうか。

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本丸の先、台地先端に築かれた笹曲輪。

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白井城・・・なかなか見応えのある遺構でした。

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こちらは城下の源空寺。
本多広孝が自らの菩提寺として開いたお寺です。

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源空寺に眠る広孝(中央)・広孝夫人(右)・紀貞(左の宝篋印塔)の墓所。

白井城に白井宿、いい散策になりました。

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2020年2月11日 (火)

七ツ塚古墳群

今回は地元の、超マイナーな史跡を簡単にご紹介。

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日野台地の北西部に位置する七ツ塚古墳群(日野市指定史跡)です。
現在は五基の墳丘が残り、発掘調査の結果、横穴式石室や直刀・鉄鏃などの副葬品の他、周辺からも女性埴輪・円筒埴輪・管玉・勾玉などが出土しているそうです。
上の写真は、七ツ塚公園(日野市新町5丁目)に残る一基。

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付近の畑に残る墳丘。
手前の墳丘の奥、直線上にもう一基小さく見えています。

これらの古墳は、6~7世紀頃の造営と考えられています。
果たして、どのような人々がこの地に勢力を張り、どのような生活を営んでいたのでしょうか。

それにしてもこの日は、富士山が奇麗でした。

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2020年2月 5日 (水)

滝山城の畝状遺構

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最近下草が刈られ、上図A曲輪東側の畝状の遺構(水色の〇で囲んだ部分)が綺麗に見えるようになったと聞き、様子を見に行って来ました。

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A曲輪
ここもかなり伐採したようで、曲輪中央を仕切るような土塁も綺麗に見えていました。

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A曲輪から見下ろす東側の畝状遺構
パッと見の印象としては、畝の規模とか雰囲気は、同じ八王子市内の浄福寺城のものに似ているような気もします。

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畝が残る地点は緩やかな傾斜になっており、横堀という感じでもなさそうです。
(写真のすぐ右手は、A曲輪の切岸)

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畝が並ぶ北側には、大きな竪土塁が行く手を遮ります。

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縦土塁(写真手前)にぶつかって右(写真左)へ折れた先は・・・

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急斜面となって、大池方面に落ち込んでいます。
(奥に大池の堤が見えています)

こうして見ていくとA曲輪下の畝状遺構は、曲輪下に残る緩斜面を横移動や足掛かりとして、寄せ手に利用させないための処置だったのかもしれないと思えてきました。

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2020年2月 4日 (火)

足利基氏の塁跡と岩殿観音正法寺

今回は埼玉県東松山市大字岩殿地区へのドライブ。

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まずは、足利基氏の塁跡から。

足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱
直義方について失脚し、信濃に逐われた上杉憲顕に変わって、上野・越後両国の守護には尊氏方の宇都宮氏綱が補任されました。
ところが、初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の子)は尊氏の死後、上杉憲顕を関東管領に据えようと画策し、越後守護職も憲顕に与えます。
これに反発し、憲顕の鎌倉入りを阻止しようと兵800を繰り出した宇都宮氏の重臣・芳賀氏(越後守護代)に対し、基氏も3,000の兵を率いて出陣し、両軍は岩殿山・苦林野で激突しました。
その際に基氏が布陣した地こそ、この足利基氏の塁跡と考えられています。

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西面の堀跡と土塁。

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東面の堀跡。

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標柱や案内板も立つ東面から北側の藪へ入ると、北面の土塁や堀も残っていました。
足利基氏の塁跡は東西180m×南北80m程の範囲に、丘陵を背(北)にして東西北の三方にこうした堀や土塁が廻らされています。

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北面の堀跡。
ここから北側はゴルフ場の敷地になっているようで、堀底に境界となるロープも張られていました。

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対岸(北)の方が地面が高く、あちら側から覗き込めばより一層、空堀の規模を体感できそうでしたが、立ち入るわけにもいきませんので諦めます。

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空堀に沿った土塁の手前(南)には、曲輪跡らしき小さな削平地も。
それにしても藪り具合が凄く、戻る際に入ってきたルートを見失ってしまいました。

基氏は岩殿山・苦林野合戦に勝利した後、すぐに宇都宮・芳賀らの本拠地である下野国へ向けて進軍し、岩殿には短い期間しか在陣していなかったため、こうした遺構は基氏が築いたものではなく、元々存在していた豪族(比企能員か)の館跡を利用したのではないか、とも考えられています。
なお、合戦のあった年について、『桜雲記』という史料には「貞治8年(正しくは応安3年)/建徳元年(1370)の8月」とあるらしいのですが、基氏は貞治6年/正平22年(1367)に死去しているようなので、やはり定説通り貞治2年/正平18年(1363)だったのではないでしょうか。
※苦林古墳の供養塔(文化10年/1813建立)では「貞治4年」

続いて、足利基氏の塁跡前の道を西へ進み、正法寺へ向かいます。

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その昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めた場所に出現したとの伝承も残る弁天沼。

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阿弥陀堂の板石塔婆
応安元年(1368)のもので、当時、付近には阿弥陀堂が建っていたようです。
(現在の岩殿会館辺り)

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正法寺の参道・門前町の入口となる惣門橋。

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一直線に伸びる参道と門前町。
今でこそ静かな集落といった風情ですが、昭和の初期までは多くの旅館や商店が軒を並べ、かなりの賑わいを見せていたそうです。

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参道沿いのお宅には一軒一軒、屋号や僧房跡などを示す木札が掲げられていました。

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中には、こんなお宅も・・・現役の畳屋さん?

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参道の突き当り、正法寺仁王門。
元々は運慶作の仁王像が安置されていましたが、残念ながら江戸期に焼失しています。
現在のものは文化年間の作だそうです。

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山号は無論、「岩(巌)殿山」。

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鐘楼
元禄15年(1702年)の建立。

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銅鐘
元享2年(1322)の鋳造。
縦に筋のように入った疵は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたために付いたもの、とされています。

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鐘楼前から、参道と門前町。
足利基氏の塁跡は、この参道を真っ直ぐ惣門橋まで進み、その先で少し右(東)へカーブした先になります。

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観音堂

岩殿観音正法寺は坂東三十三箇所の第十番札所で、養老2年(718)の開山と伝わります。
鎌倉期に源頼朝の命により、この地域を治めた比企能員が再興しました。本尊の千手観音菩薩座像(秘仏)は北条政子の守り本尊として、その信仰も厚かったと云います。
天正19年(1591)には、徳川家康からも朱印地を与えられています。
(武蔵松山城に入っていた上田朝直の制札も残っているそうです)

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正法寺の六面幢
天正10年(1582)の建立で、県の文化財にも指定されています。
残念ながら、表面が剥離してしまっている面も・・・。

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最後に、物見山からの・・・眺望?
物見山は比企丘陵の最高峰で、その山名は坂上田村麻呂が東征の折、山頂に登って四囲を眺め渡したことに由来するのだそうです。

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2020年1月28日 (火)

蒲原城

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蒲原城鳥観図

蒲原城は元々、駿河守護・今川家の属城でしたが、永禄11年(1568)に武田信玄が同盟を破棄して駿河に侵攻すると、今川家救援に動く北条家の兵が入り、対武田の拠点としました。
しかし、翌永禄12年12月には武田家によって落城し、以降は天正10年(1582)の同家滅亡まで、その支配下に置かれました。
参考記事

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鳥観図Aにある空堀。
藪で見えづらいのですが、人工的な遺構というよりは自然地形のようにも思えました。

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Bの腰曲輪
2段構えのようになっていて、写真はその上段で・・・

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こちらが下段部分を見下ろした様子。
妙にエッジが効いているのが、かえって気になる・・・。

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Bの腰曲輪から、善福寺曲輪(D下を西へ回り込む通路状の遺構。
横堀、或いは塹壕のようにも見えたりして・・・(;^_^A

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これに沿って西側へ回り込むと、善福寺曲輪と主郭(E)間の堀切から落ちる竪堀があります。

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下まで続いています。

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善福寺曲輪と主郭を隔てる堀切C

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善福寺曲輪
土塁も残り、櫓台や・・・

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逆茂木のディスプレイ?まで設置されていましたw

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善福寺曲輪から堀切越しに主郭。
こうして見ると結構、高低差があります。

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主郭

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主郭からの眺め。
さった山まで綺麗に見通せます。

武田軍が駿河に侵攻した際、今川家の救援に動く北条家はさった山に大軍を布陣させますが、何故この蒲原城をその後方拠点としたのかが、よく見て取れるような光景です。

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主郭から善福寺曲輪。

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東海道歩きに想定よりも時間を要し、あまり蒲原城攻めには時間を割けませんでしたが、駐車場もあって見学のしやすい城跡でした。

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