2017年2月20日 (月)

最近の…癖?

コタツの出ている冬、私がコタツに入るとすぐに膝の上に乗って居眠りを始めるボン
ところが最近、ちょっと可笑しなポーズをとるようになりました。

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こうして片方の手を、ポンとテーブルに掛けるようにして・・・
目が開いているようにも見えますが、このままの姿勢で熟睡してます(笑)

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テーブルの上には肉球だけが、こんにちは(^o^)
面白いからつい写真を撮ってしまいましたw

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2017年2月 2日 (木)

2月2日といえば・・・

本日、2月2日は我が家の愛犬・ボンお誕生日♪
今年(2017年)で満14歳になりました。

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当然、毎年恒例のリンゴとさつま芋で作った特製ケーキ?(→昨年の記事参照)でお祝いしたのですが・・・
なんと、肝心な時にカメラが不調をきたし、撮影に失敗してしまいました・・・(>_<)

しかしもう、14年も経つのですねぇ・・・
思えば、皺の関係で喉が極端に狭く、粒の小さなドライフードですらまともに通らずに、最初の頃は知らなくて何度か窒息させかけもした・・・
若い頃に前立腺の大病も患った・・・克服した時の安堵感は今でも忘れられない。
4年前からは後脚の前十字靱帯を傷めたまま、騙し騙し過ごしているし、他にも皮膚が弱かったりと、、、まぁ何かと手のかかる子。

それでも14歳になる今もなお、食べたい!という欲求は衰えることを知らず、日に2回の食事の時間など、「早く寄越せ!」と急かすこと急かすこと・・・(^_^;)
その元気な姿に家族も勇気づけられ、たくさんの幸せを貰っています。

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これからも一日、一週間、一ヶ月、そして一年と、一緒の時間をより大切に暮らしていきたいと思います。
・・・そう言う割には、一人でホイホイ旅に出てるけど(笑)

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知念城、斎場御嶽、浦添ようどれ&浦添城 (沖縄グスクめぐり⑥)

楽しい時は過ぎるのも早いもの・・・沖縄の旅もいよいよ最終日です。
眠い目をこすりながら集合時間の7時にロビーへ下りてみると・・・どうやら別ホテルに宿泊している一人が姿を現さない模様。ま、前の晩に遅くまで遊んだからね(^_^;)
部屋に電話をかけてもらい、無事にお目覚めいただいてから出発(笑)


知念城(南城市知念知念)

最終日のスタートは、前日後半にも訪れていた南城市にある知念城。

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知念城前にあったノロ屋敷跡の石垣
ノロは琉球信仰に於ける女性神官のこと。祭祀を司り、御嶽を管理していました。
按司から屋敷地を与えられ、大切に保護されていたのでしょうか。

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知念城の城壁
知念城は主に、ミーグスク(新城)クーグスク(古城)と呼ばれる2つの郭から成ります。
写真はミーグスクの城壁(クーグスクは写真左にある斜面の上)

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正門を通ると、正面には石垣で築かれた蔀状の壁がありました。

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こうして見ると正門(右)だけでなく、裏門(左)にも蔀状の壁が設けられ、まるで枡型のようになっていますね。
こうした蔀、少なくともこの旅でめぐった城では他に例を見ませんでした。そういった意味では、かなり新しい時期に造られたのかもしれません・・・新城だけに。

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すぐ眼前の久高島(写真には写っていない)への遥拝所があった辺り。

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そして近くの山の中腹に、知念按司の墓があるというので向かったみたものの・・・

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かなり鬱蒼とした山道を登って行かねばならず、ビビリな私はハブを敬遠してパス・・・(^_^;)
ちなみに麓はウファカルといって、琉球の稲作発祥の地と伝えられているそうです。

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今では畑になっていて、水田を思わせるものは・・・これくらい?(^_^;)


斎場御嶽(せーふぁうたき)

次は、知念城のすぐ近くにある斎場御嶽へ。

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斎場御嶽へは、こちらの物産館で券を購入してから参拝します。

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物産館から斎場御嶽への道順。

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斎場御嶽は琉球王国最高の聖地
はじめに簡単なVTRで参拝の注意事項を確認してから、参道へ向かいます。

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大庫理(ウフグーイ)
「大広間」「一番座」という意味を持つ、御門口から登っていった先の最初の拝所。

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参道脇には、沖縄戦で撃ち込まれた砲弾による爪痕も残っていました。

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参道にも厳粛な空気が漂います。
心配していましたが、さすがに大陸からの観光客グループも、ここではあまり騒いではいませんでした。

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寄満(ユインチ)
意味としては「台所」。豊穣の満ちた所、と解されています。

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「聖なる水」を滴らせる2本の鍾乳石と、それを受けるシキヨダユル・アマダユルの壺。

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巨大な岩でできた三角形の通り道の先が三庫理(サングーイ)

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いざ、三庫理へ・・・

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三庫理

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三庫理からは、琉球創成の神アマミキヨが天から降臨し、国創りを始めたという神の島久高島を正面に見据えることができます。
各地に点在する全ての御嶽が拝する久高島・・・その先にあると云うニライカナイ。それが今、眼前に・・・。
この地が何故、琉球最高の聖地と成り得たのか・・・それを明瞭に物語ってくれるような光景でした。

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去り際、見送りに来てくれた小鳥。


浦添ようどれ浦添城(浦添市当山)

3泊4日の沖縄旅、ラストは浦添へ。

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浦添城図

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まずは13世紀の中山王・英祖、そして第二尚氏七代・寧の陵墓である浦添ようどれへ。

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浦添ようどれの石垣
「ようどれ」とは「夕凪」の意味。それだけだと、なぜ陵墓にそう名付けられたのか分りづらいのですが、他に「極楽」という意味もあるそうです。それなら・・・なんとなく分かるような気もしますね。
背後にある浦添城共々、ようどれは沖縄戦に於いてアメリカ軍の激しい攻撃に晒され、破壊されています
近年、発掘調査に基づき修復されて戦前の姿を取り戻しました。

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現地には戦前の古写真も展示されていましたが、岩肌の形まで随分と変わっていました
砲撃の激しさを物語っているかのようです。

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このアーチ門を抜けた先に・・・

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英祖王(手前)、尚寧王(奥)の眠る墓室があります。

続いて浦添城へ。
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復元された浦添城の石垣

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あちらの石垣も復元のようです。
沖縄戦での破壊により、遺構らしきものは殆ど残っていません。

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城跡内にあるディークガマ御嶽
沖縄戦により、市内各地で亡くなった5,000人もの人々を祀る「浦和の塔」もありました。

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かすかに痕跡を留めている浦添城の石垣

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浦添城の前の碑
1597年、浦添城と首里城とを結ぶ道路を建設した際の、竣工記念碑。尚寧王の命で国民が力を合わせ、道を築いた様子が具に記されています。
こちらも沖縄戦で破壊されたため、1999年に復元されました。

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確かに浦添城から、首里城の正殿の屋根も見えていました。
(写真中央、小高い丸い丘の左上)

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石碑前の岩は「馬ヌイ石」、馬に乗るための踏み台と考えられています。
とすると、その首里城とを結ぶ道はこの辺りから延びていたのでしょうか。

さて、これにて3泊4日に及ぶ沖縄グスクの旅も終了です。
この後は空港へ向かい、昼食がてらに簡単な打ち上げの後、各自のフライト時間に合わせて追々解散となりました。

初めて訪れた沖縄の地。
今回はグスクめぐりに主眼を置いた旅で、実際に訪れたグスクはどれも刺激的で素晴らしかった。
それと同時に、各地をめぐっているうちに自然と目にし、肌で感じることになる72年前の沖縄戦のこと、沖縄の人々の信仰のこと。。。
沖縄に限ったことではないが、旅をする時はその土地の歴史や風習、風土に敬意を払って臨まなくてはならない・・・改めてそう感じた4日間。
特に沖縄では「信仰」というものに、強烈な印象を刻まれました。

楽しく、有意義な旅を共有できた旅仲間にも感謝です。ありがとうございました(^_^)/
・・・次の機会には、7時に起こして桃色の○○○履かせ、緑の財布を持って波に弄ばれましょ~(^m^)

※全6回に渡って記事を上げてまいりましたが、何分、沖縄の歴史には疎いので、随分と薄っぺらい内容になってしまいました・・・。
より詳しく知りたい方は、旅の同行者がブログにまとめてくれているので、そちらも是非☆
山城Love☆ (カテゴリ「九州・沖縄地方」)

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糸数城、玉城城、垣花城、島添大里城、他 (沖縄グスクめぐり⑤)

糸数城(南城市玉城糸数)

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3日目後半は、南山地方のグスクが点在する南城市へ移動、まずは糸数城に到着です。
いきなり心奪われる光景がお出迎えしてくれました。

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城門
糸数城は、玉城(この後訪れます)の按司が自らの三男を糸数按司に任じて築かせたと伝わる城。

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見事な曲線を描きだす堅牢な城壁がとても美しく、感動すら覚えます。

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城門を抜け、城壁を城外側から。
櫓台のようにせり出した箇所もありました。
ちなみに、隅をとんがらせる隅頭石は見当たりません・・・地域差・築城年代などが関係するのでしょうか?

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城門を抜けた先は広い平坦地になっています。
石積みで区画された空間がいくつか散見され、城外ではありますが何らかの居住空間・施設があったものと思われます。

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では、城壁に上がってみます。

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城壁には武者走り状の通路が設けられていました。

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糸数城の城壁・・・素晴らしい

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台地の突端のような場所に築かれた糸数城。
従来はこの城壁が下に見える城壁と繋がっており、林道の辺りにも搦手の門があったのかもしれません。


玉城城(南城市玉城玉城)

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玉城城・・・別名アマツヅ城とも。
沖縄の国土を創成したと云う沖縄神話の神・アマミキヨが築いた城との伝説もあります。
但し、アマミキヨは女神とのことですが。

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玉城城からの眺め
既に夕方近い時刻でしたが、海の青がよく映えていました。

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自然の断崖を利用した一の郭の城壁。上部は石垣で整えられています。
玉城城には段階的に二の郭、三の郭もあったようですが、それらの城壁の石材は基地建設の用材として、米軍が運び去ってしまったようです。

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自然の岩盤をくりぬいたかのような城門

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城門を郭内から
内側には石垣が積まれていました。

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一の郭

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一の郭に祀られる「天つぎあまつぎ」の御嶽

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伝承通りなら沖縄最古ともいえる城。
凄い歴史が残っているものです。。。


垣花城(南城市玉城垣花)

垣花城に関しては特に記録・伝承もなく、詳細は不明です。
城内に残る石垣の垂直に近い野面積みの技法から、グスク時代初期の築城と推測されています。

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確かに垂直の野面積み・・・

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しかし城域全体に鬱蒼と樹木が生い茂り、ハブも怖いので早々に退散しました・・・(^_^;)

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垣花城からご覧のような切通の石畳小路を抜けると・・・

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全国名水百選にも選ばれている垣花桶川(ヒージャー)があります。

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垣花の町角で見かけた古い石敢當(いしがんどう/いしがんとう)
魔除けの風習で、沖縄ではマジムンという魔物が直進する性質を持ち、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうとされていることから、その丁字路や三叉路などの突き当たりに多く見られます。
塀に表札のようなプレートを埋め込んだものも多く見かけました。


島添大里城(南城市大里大里)

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3日目ラストは島添大里城
南山王・島添大里按司によって築城されたと伝わります。
後に三山統一に乗り出した尚巴志が、真っ先に攻略した城としても知られています。

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現在、城跡は公園になっていましたが、かつては小学校が建てられていたこともあったようで、遺構の残存状況はよろしくないようでした。
南山王の城だけあって、往時はかなり大きなグスクだったようです。

さて、3日目のグスクめぐりもこれにて終了。
結局、1日で11ものグスクをめぐることができました。前日に回れなかった分を補って余りある成果ですね。

夜は勿論、那覇市内で乾杯☆
沖縄での最後の夜は、2次会にカラオケへ。近づく旅の終わりを惜しむかのように、遅くまで盛り上がりましたとさ♪

履かせて~履かせて~♪ 桃色~○○○~♪♪

※4日目へつづく

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2017年2月 1日 (水)

中城城、具志川城、米須城、南山城、他 (沖縄グスクめぐり④)

中城城(中城村泊)

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阿麻和利の勝連城を訪れたら、護佐丸の中城城にも行かない訳にはまいりません。

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中城城図
順路に沿って図面左の、裏門から回ります。

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中城城は先中城按司が数代に渡って築き上げてきた城で、座喜味から移った護佐丸により、北の郭・三の郭が増築されて現在に残る形になりました。
勝連城の記事でも書きましたが、護佐丸は謀反の疑いを掛けられ、勝連の阿麻和利の軍勢が王旗を掲げて攻めてくると抵抗することもなく、中城城で自害して果てます。

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模型と並べてみるw

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裏門
1853年に来島したペリー艦隊一行は、この石造りのアーチ門を「エジプト式」と評しています。

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護佐丸が拡張した北の郭より。
左隅には、グスクでは珍しい狭間も。

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自然の断崖上に築かれた城壁がとにかく美しいです。
北の郭には大井戸(ウフガー/写真下、樹木の陰になっている箇所)もあります。

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西の郭への石門

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二の郭

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二の郭から三の郭を見下ろす。

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同じく、二の郭から一の郭の城壁。

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一の郭へのアーチ門
奥に南の郭へ抜けるアーチ門も見えています。

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二の郭内にある拝所

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一の郭

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南の郭にあった久高遥拝所
南の郭は城内の神域だったようです。
久高島は神の島とされる沖縄信仰の聖地。各地で見られる御嶽・拝所は皆、久高島の方角に向いているのだそうです。

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正門
こちらはどうやら、櫓門になっていたようです。

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南の郭の更に先へ抜けると・・・“例の”廃墟が(^_^;)

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南の郭の城壁を見上げる。狭間が2つ並んでいます。
足元の岩が窪んだ場所はカンジャーガマ。鍛冶を行っていたところで、阿麻和利に備える護佐丸が武具を用意させていたとも伝わります。

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中城城跡の近くには、その護佐丸の墓所もあります。
藪を警戒していましたが、参道は綺麗に整備されていました。

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護佐丸の墓所
最古の亀甲式墓と推定されています。

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ここに眠りながら抱く思いは無念か、それとも・・・


具志川城(糸満市喜屋武)

さてお次は沖縄本島最南端の城、具志川城です。
到着後、まずはロープを頼りに急坂を海岸へ下りてみます。

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海岸から見上げる具志川城
断崖絶壁の上部に石垣が見えています。
写真右手、絶壁には不思議な洞穴もありました。

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その洞穴
中へ入ってみると・・・

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頭上の郭と繋がっていました。
周囲は船着き場のようにもなっていたので、荷物の上げ下ろし有事の際の脱出口だったのかもしれません。

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久米島での覇権争いに敗れた久米島具志川城の真金声按司がこの地に逃れて城を築き、郷里と同じ名前を付けたと伝わります。

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自然の断崖が海岸にせり出した部分。側面をやはり石垣で固めています。

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具志川城跡から望む喜屋武岬
言わずと知れた沖縄戦の激戦地で、米軍に追い詰められた住民や日本兵が身を投げて自決を図った地です。
グスクとは時代こそ違え、決して忘れてはならない沖縄の歴史。

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断崖上に屹立する石垣の城壁

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郭内
柵の中に、海岸の洞穴と直結する穴(ヒーフチミー)があります。

周囲の景観といい、見栄えのする城でした。


米須城(糸満市米須)

米須城には、とある仇討ちの伝説が残っています。
米須按司の美しい妻に横恋慕した家来が密かに按司を殺害し、その妻に自らの妻となるよう迫ります。
それで夫を殺した犯人を悟った妻がその家来を討ち、仇をとったというもの。

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これまで訪れた城と違い、殆ど整備はされていません。
郭へ向かう通路の脇にも石積みが見えます。

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これが郭の虎口かな?

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郭を囲む石垣

結構藪っており、正直ちょっと分りづらい城でした…(^_^;)


南山城(糸満市大里)

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南山城の跡地とされる地に建つ南山神社

南山城は、尚巴志によって琉球の三山が統一される過程で、最後に攻略されたと伝わる城です。
現在は神社や小学校の敷地になっています。

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神社の石垣に残る、或いは現存?と思われる石垣。
この面だけ明らかに古く、石の成形なども周囲とは異なっていました。

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緑のネットが張られている辺りが、城の本来の門跡と思われます。
土塁っぽく見えているのは・・・城壁の名残かな?

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こちらもおそらく御嶽でしょう。

さ、次は・・・楽しみにしていた糸数城へ向かいます。

※つづく

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座喜味城、安慶名城、勝連城、他 (沖縄グスクめぐり③)

沖縄旅3日目。
前日にあまり回れなかった分、この日は朝からガッツリ城を攻めます。
まずは那覇市内、初日にゆいレールの車窓からも見かけて気になっていた場所へ・・・

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崇元寺跡の三連アーチ型石門です。

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崇元寺は臨済宗寺院で第二尚氏の廟所でしたが、残念ながら第二次大戦の沖縄戦で焼失してしまいました。


座喜味城(読谷村座喜味)

さて、この日の1城目は座喜味城です。

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座喜味城碑

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座喜味城は、尚巴志の北山攻略にも参戦した護佐丸の築城と伝わります。

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アーチ門
このアーチ門、最頂部に楔が打たれているのが特徴で、他に類例がないことから、沖縄で現存する最古のアーチ門とも推定されています。

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二の郭

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二の郭と一の郭の城壁に挟まれた通路状の空間。
ここを進むと・・・

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不思議と行き止まりに・・・どんな意図で設計されたのでしょうか?

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城壁からの景色
城のすぐ横は谷のように落ち込む地形・・・前日の今帰仁城で見た光景とよく似ています。
琉球で城を築く際の、一つの特徴的な選地条件なのかもしれません。

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城壁
曲線を伴う屈折がなんとも美しいです。

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第二次大戦時に、日本軍が砲台を置いたと思われる場所。
明らかに城の縄張に含まれそうな位置・地表面形状ですが、石垣のようなものは一切見受けられません。
城壁などは砲台構築の際、もしくは敗戦後に破壊されたものでしょうか。

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城壁上から見る二の郭
2つのアーチ門を同時に視界に捉えます。

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こちらは一の郭

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アーチ門越しの・・・アーチ門(笑)

朝一番からいい城を観れました。
次は安慶名城へ向かいます。


安慶名城(うるま市安慶名)

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安慶名城登城口
周囲はゲートボール場などがある広い公園ですが、ここからは鬱蒼とした樹木の中の山道となります。
念の為、ハブに警戒しながら慎重に進みます。

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しばらく登ると側面の岩肌に、石が積まれた壁のような場所が現れます。
こちらは、安慶名按司の墓と考えられているそうです。

按司」とは主に、地方豪族の首長の称号として用いられていました。
その後、尚氏の時代になると王や王子に次ぐ王族の称号へと変化していきます。

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自然の岩を利用した城門
片面のみ、石垣を用いています。この城門を抜けた先に・・・

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素晴らしい光景が待っていました。
切り立った断崖に積まれた石垣、そして周囲を横堀(帯曲輪?)のように取り囲む城壁・・・古めかしさがまた武骨で、とても格好いいです。

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ちょっとアングルを変えて・・・思わず溜息が漏れそうです。

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眼下には闘牛場が。
沖縄では闘牛を「ウシオーラセー」といい、古くから親しまれてきたそうです。
近年、近くに新しい闘牛場ができたようですが、こちらでもまだ、今でも年に1~2回開催されているとのこと。

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背後(西側)の城壁

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郭内にあったこちらは・・・やはり御嶽か?

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一段低い位置で、主郭周囲を取り囲む城壁

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その城壁伝いに闘牛場の方へ下ります。

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安慶名城、期待に違わぬ素晴らしいグスクでした。


勝連城(うるま市勝連)

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次は勝連城にやってきました。

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勝連城イラスト図
勝連城は阿麻和利の城として知られます。

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阿麻和利は、元の勝連按司を倒して城主の座に収まった人物。
勝連を拠点に勢力を増す阿麻和利を警戒した首里の尚泰久(第一尚氏六代)は、娘を嫁がせてその懐柔を図ります。

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正史によると、密かに王統簒奪を目論む阿麻和利は、やはり勢力と名声に富み、目触りとなる護佐丸(中城城/王の室の父)の排除を図り、泰久王に護佐丸謀反の嫌疑を讒言、討伐の軍勢を差し向けました。
王旗を掲げて攻め寄せてくる阿麻和利の軍勢に対し、護佐丸に抵抗の意思はなく自刃して果てたと云います。
後に阿麻和利の真意を知った王により、阿麻和利自身もここ勝連で討伐されるのですが・・・
この辺りの歴史は、護佐丸・阿麻和利のどちらが善悪ということではなく、結局のところは配下の勢力拡大を恐れた泰久王が、両者の排除を図ったというのが真実に近いのではないかと、個人的には思えてきます。

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鍛冶屋の仲間家が使用した泉(井戸)との伝承から、「仲間ヌウガー」「カンジャー(鍛冶屋)ガー」と呼ばれる井戸跡。
(ガーとは井戸や泉を指す言葉)

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三の郭へ向かいます。

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三の郭の城門跡
ここには四脚門が建っていました。

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三の郭から、二の郭・一の郭を見上げる。

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二の郭

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二の郭、火の神を祀るウミチムン

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同じく二の郭、「身を隠して凌ぐ洞穴」との意味である「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴。
すぐ頭上の一の郭の洞穴と繋がっており、このことから阿麻和利はここから脱して、読谷村まで逃げ延びたとの伝説もあるとか。

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一の郭への階段
上に行くに従い、幅が細くなっていきます。

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一の郭

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勝連を守護する霊石を御神体とする「玉ノミウヂ御嶽」と、ウシヌジガマに繋がる洞穴。

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一の郭から見下ろす二の郭、及び三の郭
やはりここでも、築城地形の共通性が見受けられます。対岸は東の郭。

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最後に四の郭の城壁へ

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城壁が道路に寸断されている付近にはかつて、西原御門がありました。

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模型で言うと、写真中央部分になります(手前)。

勝連城・・・整備も行き届いて全体構造を把握しやすく、グスクのスケール感を肌で感じることができました。

※3日目はまだまだつづきます・・・

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2017年1月31日 (火)

今帰仁城、古宇利大橋、美ら海水族館、玉陵、他 (沖縄グスクめぐり②)

沖縄旅2日目。
朝一番でレンタカーを確保して高速道路を一気に北上、まずは今帰仁城(今帰仁村)を目指します。

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今帰仁城図
今帰仁城は北山王の居城だったと伝わる城です。
15世紀前半、北山は中山の尚巴志(後に南山も滅ぼして琉球を統一した第一尚氏の二代)に攻め滅ぼされ、それ以降は旧北山地方統治の拠点として、今帰仁城には監守が派遣されるようになります。
1609年、薩摩の島津氏が琉球に侵攻してくると、今帰仁城はその第一攻略目標とされ、あえなく落城の憂き目に遭いました。

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今帰仁城模型

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外郭の城壁
琉球の城は、この独特の曲線を伴う城壁が特に格好いいですね。

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平郎門から中心部内へ。

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平郎門の脇、城内で一番高いという大隅の城壁。
うねりのような曲線が見事です。

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平郎門

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カーザフ
カーは「川」や「泉」、ザフは「谷間」を意味します。名前からして、昔は水を湛えてていたのでしょうか。

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平郎門を抜け、大庭へと続く城の旧道。

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大庭から、一段上の主郭方面。

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大庭にあるソイツギ(城内下之御嶽)

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御内原から、大隅の城壁越しの眺め。
これぞグスク!って感じの偉容ですね。

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こちらは志慶真門郭を眼下に収める眺め。
城壁奥の地形がまた凄い・・・。

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御内原のテンチジアマチジ(城内上之御嶽)・・・今帰仁城の守護神。
御内原は男子禁制だった聖域で、国家繁栄や五穀豊穣、子孫繁栄などを祈りました。

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主郭

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今帰仁里主所火の神の祠。
第二尚氏時代の北山監守一族の火の神を祀っています。

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主郭から志慶真門郭へ抜ける石門

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志慶真門郭
出土品などから、城内で仕える人々の生活空間と推定されています。
写真左上が主郭の石垣。

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志慶真門郭の外郭城壁

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城跡前にあったお店。こちらで・・・

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試しにサトウキビ・ジュースを買ってみました。
・・・脳天に突き抜けるような甘さです(笑)

今帰仁城・・・素人目線の感想ですが、これぞグスク!といえる特徴の詰まった、とても象徴的な城に感じました。

さて、折角沖縄まで来たことだし、予報に反して空には晴れ間も覗いている・・・という訳で、今帰仁城から程近い古宇利島にも立ち寄ってみることになりました。
・・・何故か出発後、すぐにまた今帰仁城跡へUターンせざるをえなくなるハプニングもありつつ(笑)

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古宇利大橋で古宇利島へ渡るの図
古宇利島の海岸でしばし波と戯れ(波に弄ばれている人もいましたがww)、昼休憩のために再度橋を渡り・・・

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美らテラスへ。
こちらで海を眺めつつ、お昼をいただきます。

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私は海ぶどうのスペシャル丼を選択しました。
なんともカラフル♪
(この旅で食した海ぶどうの中では、ここのものが一番粒も大きくて美味しかったです)

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美らテラスから古宇利島を眺める。

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古宇利大橋
海の青さが、信じられないくらいに美しかった。。。

更に更に、これも折角沖縄まで来たんだから・・・

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という訳で、美ら海水族館にもお立ち寄り(笑)
ジンベエザメ・・・でかっ!

凄まじい入館者の数、そして某大陸国からの観光客の自撮り棒乱立に多少辟易しつつ、駆け足気味に見学して回りました。

美ら海水族館を出たら、今度は一気に那覇市内へ戻ります。
一日遅れで那覇入りした最後の参加者とも合流し、2日目のラストは首里城近くの・・・

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第二尚氏の陵墓玉陵(タマウドゥン)へ。
美ら海水族館からの移動距離、そして那覇市内の名物渋滞にハマって拝観時間ギリギリでしたが、なんとか間に合いました・・・。

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参道を進むと見事な石垣が現れます。

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玉陵・・・正面より。

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玉陵は1945年の沖縄戦で甚大な被害を受け、1974年より3年の歳月を掛けて修復されました。

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歴代の王族らが眠る石室

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向かって左から、王と王妃の東室・洗骨前の遺骸を安置する中室・限られた家族の西室

さて、2日目の行程はこれにて終了。
今帰仁城が那覇から遠くて移動に時間を要したこともあり、グスクは結局1城だけになりました。
それでも沖縄らしい観光もできたし、これはこれでよかったかな。

この日も夜は、国際通り近くのお店で2次会まで。
1軒目のお店は料理も美味しく、店員さんの感じも良くてGoodでした。

この日回れなかった分、3日目はガッツリ城をめぐります。

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2017年1月30日 (月)

首里城 (沖縄グスクめぐり①)

2017年1月20~23日の3泊4日で、初めて沖縄を旅しました。
冬の沖縄・・・目的が海ではないのでいいんです。沖縄といえば、グスク(城)でしょう!
※当blog内では文意によって「城」「グスク」を使い分けることもありますが、基本的に城名を記す時は「城」と表記します。

初日はお昼過ぎに無事、那覇空港に到着。
全参加者6名の内、私を含む3名が同じような時間帯に到着する予定でしたので、一番乗りだった私はそのまま空港で残りの2人を出待ち(笑)
無事に合流後、ゆいレールで移動して一旦ホテルにチェックインした後、再びゆいレールで首里城へ向かいます。

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沖縄都市モノレール「ゆいレール」
1日乗車券700円を購入すると購入時間から24h乗り放題で、しかも首里城の入城券も団体割引が適用されます。

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首里城図
まずは図の左側から赤いラインに沿って、外周の城壁から観ていきます。

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琉球石灰岩で積まれた、沖縄独特の曲線を帯びた石垣。
隅のピョコっと飛び出たとんがりも特徴的ですね。あれは「隅頭石」というのだそうですが、どのような意図があるのかは、実はよく分かっていないのだそうです。
単にデザイン的なものなのか、或いは宗教的な意味合いでもあったのか・・・。

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・・・このスケール!

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久慶門

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第二次大戦時に築かれた日本軍第32軍司令部の壕跡

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園比屋武御嶽石門
この門の奥にある御嶽(ウタキ)は、国王が外出の際などに拝礼した場所で、国家の聖地でもあります。

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歓会門から東の方角
奥に正殿などの屋根も見えています。
が、この時点(午後4時頃?)までお昼を食べておらず、お腹が空いたので正殿は後回しにして・・・

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先に腹拵え(笑)
折角なので、ソーキそばをいただきました。

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お腹も落ち着いたところで、首里城の中心部へ向かいます。

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左:広福門/右:漏刻門

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広福門前からの眺め・・・城壁が格好いいですねぇ~

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奉神門前にある首里森御嶽
琉球神話に於ける神がつくった聖地で、城内で最も格式の高い拝所の一つ。
首里城には「十嶽」といって、城内に10ヶ所もの御嶽があったと云われています。
この後の旅で訪れる各城にも、必ず御嶽(拝所)がありました。そしてそれらは単なる城の遺構の一つなどではな、今も祈りを捧げに来る人がいることを知りました。
今も昔も、そして身分の上下も関係なく、信仰が人々の生活に深く根付いていることに大変驚かされました。

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正殿前の御庭へ通じる奉神門

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正殿と御庭

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正殿二階の御差床
国王の玉座で、主に儀式や祝宴の際に出座しました。
正月儀式などでは国王はこの御轎椅に座り、御庭に居並ぶ諸官の拝礼を受けます。

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一階の御差床
こちらは政治や儀式を執り行う場所であったとか。

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一階には床がガラス張りになっている箇所があり、地下に眠る石垣が見えるようになっていました。

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現存と復元石垣の境界
こうして見比べると結構違いますね・・・現在、首里城で目にすることのできる石垣は、その大半が復元のようです。

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瑞泉門

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歓会門
日も暮れて、ぼちぼちライトアップが始まりました。

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御存じ守礼門

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ライトアップされた諸建築物を目当てに、再び広福門前へ。

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奉神門もライトアップ
しかし、残念ながらタイムアップで正殿前の御庭には入れませんでした。

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ちょいと城外に出て・・・真珠道
16世紀に築かれた、首里城と那覇港を結ぶ軍用道です。

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城壁のライトアップ・・・歓会門脇から。

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首里駅へ戻りがてら、城壁に沿って東へ進みます。

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ライトの当たっている部分の雑草が特に生育がいいように思えるのは・・・きっと気のせいではないでしょうね(笑)

グスクめぐりオフの前乗りで訪れた首里城。
特別、大きな期待を持って訪れた訳でもありませんでした(←失礼)が、さすがは琉球王朝の王城。
広大な規模と、石垣造りの独特な城壁には痺れました☆

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首里城をあとにした我々は、ゆいレールの牧志駅から県庁前方面へ、国際通りをブラブラと歩いて前夜祭?のお店を探すことにしました。

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夜の国際通り

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で、選んだお店がこちら。
沖縄料理や泡盛は勿論、店員さんたちによる沖縄民謡の披露などもあって楽しいお店でした。
2次会からは、遅れて那覇に到着した2名も合流して盛り上がりました。

翌日からいよいよ、本島各地のグスクめぐりをスタートさせます。

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2017年1月29日 (日)

旧東海道…袋井宿~天竜川

静岡旅2日め。この日は単独行動になります。
とはいえ、朝起きた時点で未だノープラン・・・さて、どうしよ?

いろいろ考えた末、そもそも今回は古道めぐりで訪れた静岡・・・前日に歩いた宇津ノ谷峠からの繋がりで、旧東海道を歩くことにしました。
ゴールを以前から訪れてみたかった天竜川に設定し、そこまでの距離を考えて・・・

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袋井宿をスタート地点に選択。
駅前から少し北上して、旧東海道を目指します。

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袋井宿場公園。
看板に「どまん中」とありますが、袋井宿は東海道五十三次のちょうど中間、27番目の宿場にあたります。

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袋井宿東本陣、田代家跡。

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袋井の丸凧は、歌川広重の「東海道五十三次袋井」にも描かれいます。

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本町宿場公園
高札場があった場所のようで、常夜灯も移設されています。

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朝一番の、まだ人気のない冬の旧東海道。

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寺澤家長屋門
明治元年(1868)の建立。

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しばらくすると旧東海道は、県道413号線に合流します。
写真は413号から、合流ポイントを振り返った様子(右が旧東海道)。

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そのまま413号をひたすら真っすぐ歩くこと500m、木原で再び分岐します。

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木原松橋の案内板

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旧東海道と県道413号線の分岐点手前にある、現在の松橋。

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「東海道分間延絵図」に描かれた木原村。右端に松橋も。

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木原村の旧東海道
この辺りにはかつて、一里塚がありました。

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跡地近く(60m西)に復元された木原一里塚

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許禰神社境内に建つ木原畷古戦場碑と、徳川家康の腰掛石
木原畷の戦いとは元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦の直前、物見に出た徳川勢が武田軍と接触して起きた戦い。
また、腰掛石は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の折、西へ向かう家康が戦勝祈願に当社を訪れた際に腰を掛けたとの伝承があるようです。

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許禰神社を過ぎると、旧東海道は再び県道413号に戻ります。

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再合流後、1kmほどで太田川を越えます。
太田川から西の方角を見ると、南北に広く伸びる台地が広がります。

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太田川を渡る三ヶ野橋。
川を渡った先で旧東海道は、県道のすぐ左脇に別れます。

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旧東海道に残る松並木。
先ほどの台地、三ヶ野坂も近づいてきました。

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三ヶ野坂のすぐ足元で右に分岐するのは、大正期に開設された東海道。
大正期の東海道はここから右斜めへ進み、すぐに現在の県道413号と合流したようです。

私は勿論左、江戸期までの東海道を進みます。

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大正期の道との分岐後すぐ、旧東海道はここを左に折れて三ヶ野坂の台地に登ります。

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三ケ野坂上に建つ大日堂
元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦直前、物見に出た徳川軍は武田軍と遭遇し、追撃を受けます。
ここはその時、木原畷・三ケ野・一言坂と続く浜松への撤退戦の起きた場所の一つ。境内には本田平八郎物見の松もあったそうです。

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三ヶ野坂から、歩いてきた旧東海道方面の眺め。
武田軍に追われる徳川勢が、木原から退いてきたルートでもあります。
※実は大日堂に着くと、前日の歓昌院坂や宇津ノ谷峠でご一緒した方が待っていてくれて、三方ヶ原合戦時の徳川・武田両軍の動きや、周辺の地理について教えてくださいました。

みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より(以下、引用同)

天正10年(1582)4月、甲州征伐を終えて安土への凱旋途上にある織田信長は、この三ヶ野坂に用意された御屋形で休息し、馬伏塚・高天神・小山などの各城を眺め渡したと云います。
すぐ南の同じ台地上には鎌田の地名も残りますが、みつけの国府の上という表現には疑問が・・・。
この書き方だと遠江の国府が三ヶ野坂の下にあったように受け取れますが、みつけ=見付はここから更に西へ行った先。国府もそちらにあったと考えられています。

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三ヶ野坂から、信長も目にした高天神城方面の眺め。
でも・・・小山はおろか、距離からして高天神ですら手に取るように見えたとは思えないのですが・・・(^_^;)

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大日堂から西へ延びる旧東海道

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付近には今も旧東海道(江戸期)の他、鎌倉古道や明治・大正期に開かれた街道も残ります。

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鎌倉古道

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こちらは明治期に敷設された東海道
大日堂を経由せず、その西側で江戸期の東海道に合流していました。

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大日堂から先も地形が複雑に入り組んでおり、結構アップダウンがありました。

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松並木
こちらはどうやら、大正期に植えられたもののようです。

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行人坂を越えると・・・

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またまた県道413号線に合流。
右が県道に合流してきた旧東海道です。

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県道に合流後すぐにまた、今度は右へ分岐します。

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分岐後の旧東海道。常夜灯の姿も。

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この坂を下った先が見付宿になります。

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愛宕山から見渡す東海道五十三次見付宿。

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見付宿の町並み

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「東海道分間延絵図」に描かれた見付宿

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見付宿脇本陣大三河屋門(藥医門)
移築復元になります。

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見付宿で気になった路地。
この路地沿いには店が1軒もなく、住人以外には必要のない通りだったことから「不用小路」・・・いや、住人には大切な路地でしょ(笑)

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先ほどの「東海道分間延絵図」にもちゃんと描かれている通り、旧東海道はここで左(南/県道43号線)へ折れます。
これは江戸期の宿場に合わせて築かれた東海道の道筋で、一言坂の古戦場はこのまま真っすぐ進んだ先の方角にあります。

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分岐と合流を繰り返す旧東海道。

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遠江国分寺跡

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発掘調査成果から推定される国分寺の姿。
昭和26年の発掘調査で金堂・講堂・塔・中門・回廊・南大門・築地塀跡などが判明しています。

さて、先ほど三ヶ野坂の時に「信長公記」の一節、みつけの国府の上を引用して疑問を呈しましたが、国府もこの国分寺の近くにあったものと考えられています。

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現に国分寺跡の地名は「国府台」
その名の通り、見付宿から坂を登った台地上にあります。尚更、みつけの“国府の上”という表現とも矛盾を覚えます・・・「信長公記」編纂時には年数も経っていて、記憶が混同しちゃったのかな?(^_^;)
(こういった矛盾は時折散見されます)

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国分寺跡から更に南へ進むと、磐田駅前に出ます。
磐田といえば・・・ねぇ?(笑)

旧東海道は磐田駅前で西へ進路を変えますが、ここで一旦昼休憩。
駅前とはいえ、食事のできそうなお店が殆ど見当たらない・・・どうにか1軒だけみつけた蕎麦・うどんのお店でひと心地・・・寒さに加え、前日からの疲労も重なって結構腰にもきていました。
この先はまた電車の沿線から離れてしまうこともあり、ここで切り上げるか否か迷っていたのですが・・・暖を取り、お腹も満たされて復活(笑)

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という訳で、旧東海道歩きを続けます。

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磐田駅前からしばらく西へ進むと下り坂に差し掛かり、その先で県道261号線に合流します。
この坂は少し北方の、一言坂に連なる台地の縁にあたります。

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県道261号に合流した旧東海道。松並木も残っていました。
右端に台地の縁も、ほんの僅かに写っています…(^_^;)

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一言橋

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県道沿いに点々と残る松並木

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森下の分岐点・・・ここは左へ。

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まだまだ延々と続きます。

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長森の辺りで右へ折れ、今度は県道262号線を北へ進みます。
目指す天竜川も目前で、川に沿って歩く形になります。

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国道1号線を越えて、こちらの分岐は左へ。

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池田の町中で見かけた常夜灯。

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そして・・・天竜川を越える池田の渡し碑

池田の宿より天龍川へ着かせられ、爰に舟橋懸け置かれ、(中略)此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒しく、渺ゝとして、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。

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池田の渡し跡
家康は信長一行の通行のため、この天竜川に舟橋を架け渡したと云います。
天竜川は東海道屈指の大河で難所としても知られ、太田牛一も上古よりの初めなりと驚いているように、そこに舟橋を架けるなど、当時の人々の常識からは考えられないことでした。
家康の粉骨砕身ぶりが窺い知れるエピソードですね。

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私も天竜川を渡ります。
強風吹きっ晒しで寒かったこと!ww

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池田の渡し方向・・・見づらい(^_^;)

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大天竜の雄姿

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天竜川を越えると、そこはもう浜松市・・・よく歩いたなぁ~

ゴールに定めた天竜川も越えたので目的は達しましたが、電車に乗って帰らないといけませんので、引き続きこの先の天竜川駅まで歩きます。
(ここからの道のりが思いの外長かった・・・)

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天竜川を越えた先の旧東海道

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横町通りの標柱
この奥には舟橋之記の碑や、明治天皇玉座跡の碑が建っていました。

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この辺りは中野町といって、中ノ町道路元標も残ります。
大正9年の旧道路法施行により全国の市町村に設置されたものの一つです。全国に現存するものは1600基ほどで、静岡県内では唯一とも。

十返舎一九が;
「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」
と書いているように、江戸⇔京都間のちょうど中間の距離に位置していることから「中野(の)町」となったようです。

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中野町を通過する旧東海道。
右に見えるのは金原明善生家跡。

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安間一里塚跡と、姫街道の起点だった付近。

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最後にもう一度、旧東海道の松並木。

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ようやく天竜川駅に到着です。
距離にして14~5kmほどかな?…たいした距離でもないけど、終始寒風に晒されてきつかったなぁ~

この先にもまだまだ訪れてみたいポイントはありますので、いずれまた、旧東海道歩きを続けたいと思います。

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2017年1月28日 (土)

宇津ノ谷峠~岡部宿

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古くから交通の要衝としても知られる宇津ノ谷峠
現在はトンネルが開通して国道1号線が貫いていますが、その山中には歴史ある古道が今も残っています。

まずは静岡口から蔦の細道と呼ばれる、一般的に古代~中世までの主要道と認識されている道を歩いて峠を越えてみることにします。

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蔦の細道の登り口は、こちらの道の駅の裏手。
スタート前にちょっと昼休憩をとることにしました。すると・・・
その間、日本列島を襲った寒波の影響でみるみる天候が悪化し、静岡だというのに風花のような雪が猛烈な勢いで風吹きだしました・・・。

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果たして峠越えできるのか・・・心配でしたが、自然相手のことでは仕方がありません。
道の駅で購入したしぞ~かおでんで暖を取りつつ待機・・・おでん、美味しかったなぁ~♪

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20分ほども休んでいると日頃の行いが良かったお陰か(?)、つい先ほどまでの風吹もピタッと収まりましたので、いよいよ峠越えをスタートします。

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この辺りから本格的な峠越えの山道に入ります。

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道を挟むように、両サイドには沢が流れていました。
或いは獣除けの意味合いもあったのかな?などと考えました。

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雰囲気のある石積みも・・・

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蔦の細道
一般的に宇津の山を越える中世までの官道と云われ、事実その成立は古く、平安初期に成立した「伊勢物語」にも;
『宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心捕捉、
駿河なるうつの山辺のうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり』
とあります。

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しかし、江戸期に東海道が成立すると、蔦の細道は次第に廃れていきました。
現在、我々が歩くことのできるこの道は、昭和に入って地元の研究者が埋もれていた古道をみつけ、復元したものです。

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蔦の細道に沿って流れる沢

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15分ほども登ると峠が見えてきます。

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宇津ノ谷峠(蔦の細道)

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この日は残念ながら雲に隠れていましたが、峠からは富士山を望むこともできます。

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富士山とは反対側、岡部宿方面の眺め。

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峠を越え、今度は岡部口へ向けて蔦の細道を下ります。

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岡部口側の道は比較的、全体的に開けていました。

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猫石
古代信仰の象徴的な石なのだそうです。

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猫石のある場所から先は、とても雰囲気のある石畳になっています。

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石畳の先、崩れた岩がゴロゴロと転がって歩きづらかったポイント・・・

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沢を渡る石橋がまた、雰囲気あっていい感じ。

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あちらの石垣、いつの時代に積まれたものかは分かりませんが、茶屋でも建っていたような雰囲気がありますね。

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最後の下り。ここも岩がゴロゴロと転がっていて歩きづらいです。
上からだと、どこが道なのか分かりづらいのですが・・・

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下から振り返ると、沢沿いにちゃんと石段が組まれていました。

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蔦の細道での宇津ノ谷峠越え、所要30分程といったところでしょうか。
とてもいい散策になりました。

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蔦の細道で岡部口へ下ると、そこは木和田川の畔になります。
木和田川には明治・大正期に築かれた堰堤(砂防ダム)が、全部で8基存在しています。
写真は2号堰堤。平成15年7月の豪雨で流失し、翌16年に復旧されました。

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こちらは1号堰堤。
木和田川の堰堤は、その形状から「兜堰堤」とも呼ばれているのだそうです。

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さて、今度はこちらの旧東海道で、反対に岡部口から静岡口へと宇津ノ谷峠を越えます。

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宇津ノ谷峠の旧東海道は天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出した際に、軍勢の移動のために切り開かせたのが始まりとされています。
その後、江戸期に徳川家康が東海道として整備し、西国諸藩の参勤交代や人々の往来を支えてきました。

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なかなか見事な切通を抜けいきます。

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さすがは江戸期のメイン・ストリート、道幅も山中の街道としては立派なものです。

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旧東海道は一旦舗装路に出ますので、ここは右へ。
(左へ進むと明治時代に開かれた街道へ繋がります)

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この管理道路によって旧道は一部消失していますが、写真左の細い遊歩道を上がり、手摺伝いに右の方へ回り込んだ先から続いています。

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この切通のピークが峠。

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宇津ノ谷峠(旧東海道)
ここからは静岡口へ向けて下っていきます。

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延命地蔵堂跡

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地蔵堂跡の石垣

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地蔵は現在、宇津ノ谷集落の慶龍寺に安置されているそうです。

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この地蔵堂、江戸期の絵図にもしっかり描かれています。
よ~く見ると石垣も。

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松尾芭蕉と同門の俳人・山口雁山の墓。
雁山は1731年、旅に出たまま消息を絶ちました。このお墓は、彼が旅先で亡くなったと思い込んだ友人らによって建てられたものです。
ところが雁山は、駿河で黒露と名を変えて俳諧の師匠として活動し、36年後の1767年まで生存していました。

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さぁ、宇津ノ谷の集落が眼下に見えてきました。
宇津ノ谷は丸子⇔岡部間の間宿で、集落の中央を貫くのは無論、旧東海道です。

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宇津ノ谷へと下る旧東海道のヘアピン・カーブ。

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麓まで下りてきました。

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宇津ノ谷の集落と旧東海道。

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最初に立ち寄った道の駅に展示されていた宇津ノ谷のジオラマ。

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御羽織屋
天正18年、豊臣秀吉が小田原征伐の折に立ち寄って馬の草鞋を求めたところ、こちらの亭主は3つしか渡さなかったと云います。
訝しんだ秀吉が理由を尋ねると亭主は、縁起の悪い4を避けて戦勝を祈願したのだと答えたとか。
戦勝後、帰路にも再び立ち寄った秀吉から褒美に羽織を与えられました。これが「御羽織屋」の屋号の由来。
後年、家康からも茶碗を貰っているようです。

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全国を巡幸した明治天皇も、こちらに立ち寄られていたのですね。

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宇津ノ谷峠のジオラマ。
奥:宇津ノ谷の集落(静岡口)/手前:岡部口
向かって右のラインが蔦の細道で、左の峠を越えるのが旧東海道になります。

これまでも何度か触れましたが、一般的には蔦の細道古代~中世までの街道で、旧東海道は(根拠・出典は不勉強により不明ですが)秀吉が小田原征伐の際に切り開かせたのが始まり、とされています。
蔦の細道が古くからの主要道であったことには、特に異論もありません。しかし、旧東海道が天正18年までは全く存在していなかったのか、ということになると疑問を感ぜずにはいられません。
ジオラマでも地形を確認しましたが、旧東海道のルートに道を通す方が自然に思えます。

実際に歩いてみた感想として蔦の細道は、軍勢の移動にはあまりに心許ない隘路
例えば道中でも話題に上りましたが、今川義元が尾張へ向けて出陣した桶狭間合戦(1560)。この時、義元は25,000もの軍勢を率いていたと伝わります(実際にはもっと少なかったとの説もありますが、それに関してはここでは詳しく触れません)。
それだけの軍勢が蔦の細道1本だけで宇津の山を越えたとも思えず、おそらくは蔦の細道とは別に、後に秀吉が軍用道として整備させる道の元となるものが、既に存在していた可能性は考えられないでしょうか。

名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、織田信長は甲府から駿河を経由して安土へと凱旋する際、宇津ノ谷峠も越えています。
この時、信長一行が峠越えに利用した道も、通説(秀吉の小田原征伐=旧東海道ルートの敷設は8年後)通りだとすると蔦の細道ということになります
となると、徳川家康が用意していたと云う宇津の山辺の坂口御屋形は、冒頭に立ち寄った道の駅辺りとなりそうですが・・・

家康は信長一行の通行のため、本栖の峠道など山中の道に至るまでをも切り開いて整備したと云います。
その徹底ぶりには「信長公記」の著者・太田牛一も最大級の感嘆と称賛を贈っているくらいですので、宇津ノ谷峠越えの時だけ、蔦の細道のような隘路を辿らせたということにも違和感を覚えます。
名にしおふが、古くから文学の世界で語られてきた、と解するなら素直に蔦の細道となるのかもしれませんが…)

遅くとも戦国期には既に存在していた道を、秀吉の小田原征伐より以前、家康が信長一行のためにある程度の整備をしていた・・・
それが後に小田原征伐時の軍用道となり、江戸期の東海道へと変遷していく・・・

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仮にこの説が成立するとすれば、宇津の山辺の坂口御屋形は宇津ノ谷の集落付近に建てられていた、ということになりそうですね。

さて、既に宇津ノ谷峠を往復しましたが、この日の旧道散策で設定されたゴールは岡部宿・・・
という訳でもう一度、宇津ノ谷峠を越えます(笑)

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3度めの峠越えは、明治の東海道(隧道)で。
写真は明治9年に開通されたトンネル。このトンネルの開通により、旧東海道(江戸期)はその役目を終えました。

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トンネル工事の際、両サイドから掘り進めて少しずれが生じたため、微妙に屈曲しているのだそうです・・・歩いていても殆ど分かりませんでしたが。

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レンガ造りが醸すレトロ感がまた、いい感じです。

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開通したトンネルの様子を伝える明治期の絵図。

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岡部口へ抜けた先の国道1号線。峠を越えると藤枝市に入ります。

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藤枝市側の麓、坂下地蔵堂に安置されている蘿徑記碑
文政13年(1830)からの9年間、駿河代官を務めた羽倉簡道が蔦の細道の荒廃を憂い、その静岡口付近に建てたものです。
私は当初、江戸期にも蔦の細道は生きていて、参勤交代時などには庶民のバイパス・迂回路になっていたのでは?とも考えましたが、少なくとも江戸時代も後半になるとすっかり廃れていたようです。

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峠を越えて2㎞ほどで、岡部宿入口に到達します。

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こうして現在の航空写真と見比べると、江戸期の絵図がいかに地形まで含めて正確に描かれていたかが分かりますね。

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岡部橋で見かけたレリーフ

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そして・・・この日のゴール、大旅籠柏屋
いやぁ~午前中の歓昌院坂から本当によく歩いた。

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・・・弥次喜多と一緒になって旅装を解いてるよ(笑)

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江戸時代の旅籠の雰囲気がよく再現されています。

この後はバスで静岡駅前まで戻り、参加者で打ち上げ&新年会の乾杯☆
1日充実した古道・旧道歩きができて、いい1年のスタートが切れました。

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