2022年12月31日 (土)

冬の家庭菜園(家庭菜園2022 ⑩)

■11月19日

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黄色唐辛子がだいぶ色づいてきたので・・・

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完全に黄色くなった実をまとめて収穫しました。
京みどり、万願寺トウガラシ、そして鉢植えの鷹の爪はシーズン終了なので、残った実を全て収穫し、、、

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撤去しました。
右に写っているのが、鷹の爪に使っていた鉢です。
茄子も迷ったのですが・・・

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先日の無駄な枝の剪定が功を奏したのか、また新たな実が育ちつつあるので、もう少し様子を見ることにしました。

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茎ブロッコリーも遂に・・・

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蕾をつけて膨らませはじめました。

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そして、今年は冬越しの豆(絹さや)栽培にも初挑戦します。
春にたくさん収穫できることを祈りつつ。


■11月23日

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茎ブロッコリー3株のうち、2つの頂花蕾が適度の大きさまで育ったので収穫しました。

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今後はチョロチョロと伸びてきている側花蕾を“スティック・セニョール”として育てていきます。
この先の成長が楽しみです。

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ところで、紫茎ブロッコリーの方はヒョロヒョロと背ばかり伸びて、未だに蕾をつけません。
陽当たりの悪さが影響しているのかなぁ・・・。


■11月26日

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本日は自家製の鷹の爪を使って、食べる辣油を作ってみます。

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材料(具材)は鷹の爪の他、玉ねぎ・ピーマン・ショウガ・にんにく(生&チップス)など。
これらを細かく刻み、更に煎り胡麻・砕いたピーナッツ・塩昆布を加えて胡麻油で炒め、鶏がらスープの素・塩・花椒パウダーで味を調えたら、、、

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最後に胡麻油を追加し、弱火でじっくりと・・・。

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食べる辣油の完成です。
ちょっと辛くなり過ぎたかもしれませんが、思っていた以上に鷹の爪の赤い色も出ていい感じです。


■12月8日

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旅行に出かけたりして週末不在にすることも多かったので、久しぶりの収穫です。
スティック・セニョールの収穫が始まりました。
粘り強く待っていた茄子は、これ以上大きくなりそうもなかったので最後の収穫。111~113号。
黄色唐辛子はまだ少し実が残っています。

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茄子も去り、畑Aも寂しくなってきました。


■12月17日

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スティック・セニョールの収穫、第2弾。

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畑Aの種から育ててきたチビ鷹の爪、実が赤くなるのを辛抱強く待っていましたが、さすがに寒さに耐えきれずに枯れてきたので・・・

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青唐辛子のまま実を全て収穫して撤去しました。

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収穫した青唐辛子は、いつもの唐辛子味噌に挽肉を加えた肉味噌唐辛子に。
ちょっと味見したところ、しっかり辛みが効いていました。


■12月24日

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スティック・セニョール第3弾。
黄色唐辛子は葉が全て枯れ果てていましたので、黄色く熟した実を全て収穫して撤去しました。
これらの実の乾燥が完了したら、黄色唐辛子の実のみで“黄金の一味唐辛子”を作ってみたいと思います。


■12月31日

早いもので、2022年も大晦日を迎えました。

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今年最後の収穫もスティック・セニョール(第4弾)です。

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右に並ぶスティック・セニョールはあらかた収穫を終えた(まだ少し残っていますが)のですが、左の背が高い紫スティック・セニョールは・・・

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未だ、蕾が出てくる気配すらありません。。。

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畑Bの絹さやは冬期で成長は遅いものの、元気にはしています。
春まで順調に成長してくれますように。

それでは、よいお年を。

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2022年12月21日 (水)

間宮林蔵の生家

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前記事でご紹介した守谷城の近くに間宮林蔵の生家跡があることを知り、折角なので寄ってみることにしました。

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2度に渡る樺太探検で間宮海峡を発見し、樺太が島であることを証明した間宮林蔵の生家。
15~6歳頃まで暮らしていたそうですが移築復元のため、位置は若干移動しているようです。

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併設する間宮林蔵記念館では、彼の生涯や功績を紹介しています。

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記念館から300mほど離れた専称寺。

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専称寺境内に建つ、間宮林蔵の顕彰記念碑。
その裏に・・・

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間宮林蔵(左)と、彼の両親のお墓が並びます。
すぐ裏を流れるのは、林蔵が世に出るきっかけともなった堰止め工事を行っていた小貝川です。

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専称寺のお墓は、林蔵が北方探検に出る前に自ら建立した生前墓です。
「間宮林蔵墓」と楷書で彫られた墓石の文字は、林蔵自らの手によるとも云われています。
まだ名を挙げる前だけに小さくて簡素な墓石ですが、相当な覚悟をもって北方へ赴いたことが偲ばれます。

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2022年12月20日 (火)

守谷城

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築城時期など詳細は不明ですが、鎌倉幕府草創期に活躍した御家人・千葉常胤の二男にあたる師常を始祖とする、(下総)相馬氏による築城と考えられています。
(これから見ていく各曲輪の名称は、上の想定図に拠っていきます)

今回、私が守谷城を訪れるきっかけになったのは、その遺構の評判も然ることながら、戊辰戦争に関するある史料を読み込んでいる際に次の一節が目に留まったからなのです。

(慶応4年=1868年4月)十三日快晴小金宿出立行程五里同国布施宿旅泊此近傍ニ昔シ平親王相馬将門ノ築シ古城ノ跡有リ里人内裏カ原ト唱ス草芒々トシテ外堀ハ深シ
塩谷敏郎「戊辰ノ変夢之桟奥羽日記」

筆者の塩谷敏郎は旧幕府脱走陸軍の兵士で、慶応4年4月13日は小金宿を発って布施宿まで進んだと記していますので、秋月登之助土方歳三らが率いた旧幕府軍の前軍に所属していたことがわかります。
参照記事

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守谷城大手門跡付近に建つ、平将門城址碑。
布施宿の近傍にある平将門ゆかりの古城とは即ち、この守谷城とみて間違いないかと思います。
守谷城自体は将門が築いた城という訳ではないでしょうし、内裏カ原という地名についても不明なのですが、おそらくは相馬氏の祖とされ、「新皇」を称した将門が拠点を置き、坂東独立国王城の地としたとの伝承に因んだ城址碑であり、「内裏」を冠した地名だったのでしょう。

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守谷将門詩歌碑
守谷の地で詠まれた、将門に関する詩や歌が刻まれています。

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今は駐車場やトイレが置かれている馬出曲輪の辺りから、主郭部(右)と清光曲輪の間の内海。
塩谷が記した外堀が具体的にどこを指すのかは不明ですが、どことなく彷彿とさせるものを感じませんか?

布施宿から食料などの物資調達のために守谷まで足を延ばしたのか…150年余り前の人と同じ城跡見物を共有できることに嬉しさを感じます。

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御馬家台(左)と二の曲輪間の堀切。
いきなりのこのスケール感に圧倒されました。

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御馬家台

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御馬家台の枡形虎口。
写真左から来て左に折れ、その先で右に折って馬出曲輪へと続く様子がよくわかります。

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御馬家台から、堀切越しに二の曲輪。
二の曲輪の方が一段高くなっています。

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広大な二の曲輪。
周囲には高い土塁が廻らされています。

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二の曲輪から御馬家台へと続く枡形虎口。

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虎口の先は堀切で遮断されていますので、想定図の通り、ここには橋が架けられていたのでしょう。
対岸が御馬家台です。

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二の曲輪から一の曲輪方向に伸びる土橋。

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土橋の先には一の曲輪も見えています・・・が、

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土橋を渡り切ってみて驚かされました。
土橋の先は一の曲輪との間に築かれた細長い曲輪(楯形曲輪)になっており、一の曲輪との間を更に堀切で遮断していますので、あたかも二重堀切のようになっていました。
土橋を渡る前は2本目の堀切が見えていなかったので、すっかり騙され(?)ました(笑)

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楯形曲輪(右)と一の曲輪間の堀切。
ここからは障子堀の痕跡が検出しているようです。

守谷城は永禄年間後期には後北条氏の勢力下にあり、こうした障子堀や楯形曲輪のような構造に、その手による改修のニオイを感じます。

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不自然なまでに真っ平な一の曲輪。
想定図ではここを本丸としていましたが、土塁も虎口も見当たりません。

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おまけに、一の曲輪から楯形曲輪を見ると御覧の通り。
明らかに、本丸とされる一の曲輪の方が低くなっています。

ところがこれ、よくよく案内板を読んでみると理由がわかりました。
この一の曲輪は後世の土取りの影響で、従来より地表面が6mも下がってしまっているようなのです。
土塁など、城としての造作が全く見受けられないことも、それならば納得です。

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こちらは、一の曲輪の先(横?)にある妙見曲輪。
平将門や、将門を祖とする千葉氏や相馬氏が信仰した妙見菩薩に由来があるようです。

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妙見曲輪からの眺め。

前出の塩谷の日記には、引用した箇所の「~外堀ハ深シ」に続いて;
池沼多シ故ニ鯉鮒ノ類ヒ多猟ス
とあります。
かつて城の周囲に広がっていたであろう、池や沼地を彷彿とさせるような光景でした。

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最後に南西に位置する外郭部へ移動して、大手門跡付近(守谷小学校の西端部辺り)に残る土塁らしき痕跡。
右に写っているのが、冒頭でご紹介した平将門城址碑です。

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こうした段差も、城塁の痕跡ではないかと思います。

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道路を挟んだ反対側には、茨城百景守谷城址の碑。
その脇にも・・・

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土塁跡のような痕跡が見受けられました。

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これらは上の図面で、印をつけた箇所に該当するかと思います。

冷たい風が吹き荒び、寒くて大変でしたが、想像していた以上の見事な遺構の連続で、とてもエキサイティングな城攻めになりました。

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2022年12月10日 (土)

馬伏塚城

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馬伏塚城は高天神城主・遠江小笠原氏の属城でした。
今川氏の没落後、小笠原氏は徳川氏に属します。

天正2年(1574)6月に高天神城が武田家の手に落ちると、家康は馬伏塚城を高天神城奪回の拠点として改修を加えます。
天正9年に高天神城を奪り戻し、翌10年の武田氏滅亡を経て徳川氏による遠江経営が安定すると、馬伏塚城は廃城となりました。

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馬伏塚城本丸へと向かう道すがら。
袋井市郷土資料館の方に教えていただいたのですが、こちらの農道は図面にも描かれている、馬伏塚城本丸へと続く古道(中泉道)の名残なのだそうです。

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本丸(A)に建つ城址碑。

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本丸
樹木が生い茂ってわかりづらいですが、階段の付いている高まりは土塁です。

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土塁の上に建つお社。

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土塁の奥はかなり高低差があり、堀跡のようにも見えましたが、如何せん藪がきつくて・・・(;・∀・)

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土塁上から本丸。

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馬伏塚城本丸(ほぼ)全景。
続いて、県道を挟んだ北側の曲輪跡へ向かってみます。

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B曲輪の東面。
今は宅地と化していますが、一段高くなっていて城の痕跡は充分に見て取れます。
袋井市浅名の岡山という集落の、ほぼ全域が城跡だったようです。

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B曲輪北面の土塁。

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Cのコーナー部分。
上に建つのは了教寺。

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了教寺境内から、B曲輪の土塁を見る。
間の窪んだ地形は堀跡ということになります。

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了教寺に建つ小笠原氏清と家臣・竹田重右エ門の供養塔(墓)。

小笠原氏清
氏興の名で知られ、天正2年に武田氏に降った高天神城主・小笠原氏助(信興)の父にあたります。
駿河今川氏の没落に伴って徳川氏に内応し、永禄12年(1569)、今川氏真の籠る掛川城攻めにも参陣しましたが、その年のうちに馬伏塚城で病死したと伝えられています。

みかの坂に、御屋形立て置き、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、
信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より

天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への帰路にある織田信長は4月16日、三ヶ野坂上(磐田市三ヶ野)に用意された御屋形で休憩していますが、そこからは馬伏塚城や高天神城、小山城までもが手に取るように見えたと云います。
私も実際に三ヶ野坂を訪れたことがありますが、さすがに高天神や小山は無理にしても、馬伏塚城ならば或いは、高い建物のない当時ならば見えたかもしれない距離感ではあります。

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2022年12月 9日 (金)

久野城

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袋井市の久野城

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明応年間(1492~1501)、今川家臣・久野氏による築城と伝わります。
今川氏の没落後、久野氏は徳川氏に従いました。

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駐車場から上がると、最初に出くわす北下段。

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北面の大土塁と横堀。

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北面の横堀から見上げる、本丸東側の1の堀切。

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続いて三の丸へ。
一段高い部分が三の丸です。

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三の丸下段方向。

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二の丸。うっすらと土塁も残っています。

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二の丸の先に続く高見方向。

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高見から見上げる主郭部。

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二の丸から本丸への虎口。
脇には井戸も。

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本丸

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大手口に残る隅櫓跡・・・小さ過ぎないですか?
立哨台くらいしか乗らなそうな・・・(;・∀・)

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久野城大手口。

元亀3年(1572)10月、遠江へ侵攻した武田軍は久野城にも攻め寄せました。
城主・久野宗能は頑強に抵抗し、徳川家康も久野城を始め、遠江に残る徳川方諸城(掛川城など)への後詰のため、3,000余りの兵を率いて浜松城を出陣します。
見付(磐田)に着陣した家康が派遣した物見隊と、武田軍との間で勃発したのが木原畷・三箇野・一言坂などでの各合戦です。

戦いは数に勝る武田軍の優勢で進められ、徳川本隊も否応なしに浜松方面へ追い立てられていきます。
後詰もなく敵中に孤立しながらも、武田本軍が徳川軍を追跡して見付方面へ向かったこともあり、久野城はなんとか持ち堪えました。

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2022年12月 8日 (木)

勝間田城

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静岡県牧之原市の勝間田城
鎌倉時代からの名族・勝間田氏による築城と伝わります。
twitterなどに度々アップされる写真を目にし、ずっと訪れてみたかったお城の一つです。

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北麓の駐車場に愛車を置き、茶畑の合間を縫うように細い道を5~6分ほど登っていきます。

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最初に出くわす出曲輪は茶畑に。

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出曲輪の辺りから見える、三の曲輪東の連続堀切a

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広大な三の曲輪。

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三の曲輪から出曲輪(奥の茶畑)方向。
足元には土塁が廻らされ、横堀のようになっています。

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先ほど見たaの連続堀切。

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三の曲輪から二の曲輪方向。

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二の曲輪。

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bの大堀切。

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大堀切はそのまま、自然地形の深い谷に落ちています。
右は東尾根曲輪の切岸。

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東尾根曲輪。

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東尾根曲輪から見渡す二の曲輪~三の曲輪方向。
右奥には薄っすらと富士山も見えています。

勝間田城は、文明8年(1476)に今川義忠に攻められて落城し、廃城になったと云います。
しかし、特に広大な造りとなっている二・三の曲輪などは、後代の増築・改修の手が入っているものとも考えられています。

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東尾根曲輪先の連続堀切c
曲輪上からは2~3本くらいしか目に入りませんが、少し先へ進むと・・・

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この通り。

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続いては、あちらの本曲輪へ向かいます。

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北尾根曲輪。

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本曲輪。
一部ですが、高い土塁も残ります。

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本曲輪と南曲輪の間部分。
図面ではそう描かれていませんが、こちらも堀切でしょう。

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南曲輪。

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南曲輪の先の堀切d

整備も行き届き、駐車場やお手洗いも完備されて、見学者にとても親切なお城でした。

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2022年12月 7日 (水)

別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)

2022年12月3~4日は、静岡県への旅。
運動不足に陥りがちな愛車のためのドライブが主な目的で、いくつかのお城をのんびりとめぐります。
が、その前に・・・

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まずは藤枝市郷土博物館・文学館へ。
先日発表された新発見文書、織田信長黒印状羽柴秀吉宛(天正6年)三月十三日付が、天下人と東海の戦国大名展で公開されるという情報を得、タイミング良く静岡への旅を予定していたので立ち寄りました。

文書は;
別所長治と問題があったよう(別所小三郎与申事有之由候)だが、別所はずっと忠節を尽くしている者である(別所之儀、連々忠節之者候)から、穏便に対処して報告するように。

と秀吉に伝える内容で天正6年(1578)に比定され、秀吉による別所長治の三木城攻め(三木の干殺し)が始まる直前にあたります。

思えば信長は、浅井長政の寝返りが明るみになった際も「浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべし」(信長公記)と、なかなか離反を信じようとしなかったですし、武田信玄が織田・徳川同盟との対決を期して遠江へ侵攻した元亀3年(1572)10月の時も、信玄本人が甲府を出陣(10/3)した後に至ってもなお、武田×上杉間の甲越和与の実現に向けて奔走(10/5付書状)しており、当初は先に動いていた武田別動隊(山県)の軍事行動の切っ先が、己の側を向いているとは露ほども疑っていませんでした。
また、荒木村重離反の際も「不実におぼしめされ、何篇の不足候や、存分を申し上げ候はば、仰せ付けらるべき」(同)とあります。

今回の新発見文書も信長のそんな、同盟者や配下を疑わない、疑いたがらない性分の一端が垣間見えるような史料で、とても興味深く感じました。

その信長が最後の最後、明智光秀の謀反を知った瞬間だけは;
是非に及ばず
の一言を発しただけだったと云うのは・・・推して知るべし、といったところでしょうか。

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2022年11月17日 (木)

仙波東照宮の特別公開

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埼玉県川越市、仙波東照宮の随身門。

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仙波東照宮では令和4年11月1~23日までの間、川越市の市制施行100周年を記念した特別公開が行われています。

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まずは拝殿、及び幣殿で後水尾天皇の勅額、左大臣・右大臣の随身形、金箔が施された木彫りの狛犬(以上3点はいずれも本来、随身門にあったもの)、及び三十六歌仙額、鷹絵額などを拝観し・・・

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本殿へ。
撮影禁止のため写真はありませんが、唐門から端垣の内へ入り、初公開となるご神体・東照大権現像を拝観させていただきました。

厨子に納められたご神体は甲冑を纏った騎馬姿で、高さは5~60㎝ほど。
本来は手に剣を持っていたはずなのですが、そちらは明治期以降に行方知れずなのだとか。
幣殿で拝観した木造の狛犬と共に「康音」という仏師の作で、この人は日光山輪王寺の木造天海坐像にも銘があります。

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大変貴重な機会を設けていただいたことに感謝。

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折角なので、すぐお隣にある喜多院にもお邪魔し、10年ぶりに徳川家光誕生の間春日局化粧の間なども拝観してきました。

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午後からは家の用事もあったので川越には2時間ほどの滞在でしたが、目的も果たし、いいドライブになりました。

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2022年11月15日 (火)

旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿

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旧東海道、藤川宿の西棒鼻。
8月に旧東海道を御油宿から藤川宿まで歩いてきましたので、今回はその続きとなります。

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出発するとすぐに藤川の松並木が出迎えてくれます。

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松並木を抜けると一旦国道1号線に出ますが、1㎞ほどでまた左へ逸れていきます。

正田の町より大比良川こさせられ、岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、矢はぎの宿を打ち過ぎて、池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月18日、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長はこの日、三河の吉田城下を出発して御油や本宿を経由(参照記事)した後、岡崎や矢作を通過して知立(池鯉鮒)まで進みました。

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国道から外れて300mほど進んだ地点。
この辺りの旧街道から左(南西)の方向には名鉄の美合駅がありますが、その北~北西一帯に「美合町生田」という地名があります。

正田の町より大比良川こさせられ、
太田牛一が書き残した正田の町、その名残の地名が美合町生田ではないでしょうか。

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その北西側には美合町生田屋敷という地名もあり、詳細は不明ながら生田城址碑も建っています。

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正田城址碑前から、美合町生田方向。
少し高台になっている辺りが正田の町

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長閑な旧街道をしばらく進み・・・

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藪に遮られえた突き当りが、乙川の渡河地点。

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旧街道は川で途切れていますので、すぐ近くを通る国道1号の橋へ迂回します。

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乙川の流れと旧東海道の渡し場付近。
藤川宿側から川を渡った対岸(北)は「大平」という地名になり、乙川には「大平川」という別名もあります。
そう、牛一が記した「太比良川」です。

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乙川の北岸。
旧街道の名残らしき畦道が見えていますが、その傍らには・・・

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大平川水神社が祀られていました。

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太平の集落を進みます。

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旧街道から少し外れ、西大平藩陣屋跡。
西大平藩は旗本だった大岡越前守忠相が寛延元年(1748)、三河国宝飯・額田・渥美で4,080石の加増を受け、都合1万石の大名となったことでて立藩されました。

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太平一里塚
江戸日本橋から80里になります。

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岡崎IC出入口の下を潜る旧東海道。

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岡崎の城下町(岡崎宿)が近づいてきたところで、少し寄り道して朝日町の若宮八幡宮へ。

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徳川家康の嫡男・信康の首塚にお参りしました。

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さて、旧東海道に復帰して岡崎宿へ。

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岡崎宿内を通る旧東海道は二十七曲りとも呼ばれ、20ヶ所以上もの折れを伴います。

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要所要所にこうした案内表示を建ててくれていますので、これを頼りに丁寧にトレースして行きます。

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岡崎三郎信康も初陣の折に祈願したと云う、聖観世音菩薩を本尊とする根石寺。

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籠田惣門跡
ここから先が、近世岡崎城の惣構の内になります。

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籠田公園の中を通り抜ける旧東海道。
この日はラリー・ジャパンに関連したイベント(お祭り)が開催されていて、凄い賑わいでした。

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いや、そこまで小刻みに案内してくれなくてもわかるって(笑)

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もうすぐ城下を抜けてしまう、という地点まで来てようやく岡崎城天守が見えました。

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旧東海道が国道248号と交錯する辺りが、松葉惣門跡。

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江戸時代、現在の国道248号の西側を沿うような位置に、松葉川という川が南北に流れていました。
岡崎城の西側の惣堀も担っており、旧東海道が松葉川と交錯するこの地点には松葉惣門が構えられ、橋も架けられていたと云います。
「東海道中膝栗毛」でも、弥次・喜多が(宿のはずれの)松葉川を渡って矢作橋へ向かった様子が描かれています。

岡崎城の腰むつ田川矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、

事前にいくら調べても、信長公記に見える「むつ田川」を特定することができませんでした。
しかし、岡崎城の腰の「腰」が何を意味しているのかは判断に悩むところですが、むつ田川・矢はぎ川と連続する既述の並びと、実際の矢作川との位置関係などから、この松葉川をむつ田川に比定しておきたいと思います。

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松葉惣門跡を出てしばらく進むと、八丁味噌で有名な八帖町に入ります。

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岡崎を舞台にした連続テレビ小説「純情きらり」に出演されていた、宮崎あおいさんの手形。

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矢作橋からの矢作川(矢はぎ川)。
江戸時代の矢作橋はもう少し南側(写真の方向)に架かっていたそうですが、天正10年に信長一行のために架けられたと云う橋は、果たして何処にあったのでしょうか。

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矢作橋、西側のすぐ袂に建つ出合乃像。
史実云々は別にして、「絵本太閤記」に描かれた日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六の出会いのシーンを再現しています。

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矢作川を越えると、矢作宿の町並みが続いています。
江戸時代に整備された旧東海道の宿駅制度からは外れましたが、矢作川を渡る旅人らの宿場町として栄えたそうです。

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岡崎信康唯一の肖像画を所蔵する勝蓮寺。

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矢はぎの宿を打ち過ぎて、

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矢作宿を抜けると国道1号線に合流し、3㎞ほども退屈な区間が続きますが、安城市に入ったところでようやく国道から右へ逸れてくれました。

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やっぱり松並木はいいですよねぇ~。

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低く横に大きく枝を広げる、永安寺の雲竜の松。

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推定樹齢は約350年・・・さすがに信長一行が通過した天正10年にはまだ生えていませんね。

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猿渡川を越えると、旧東海道はいよいよ知立市に入ります。

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来迎寺一里塚
旧東海道を西向きに歩いてくると、一方(北側)の塚が建物の裏に隠れてわかりづらいのですが・・・

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実は一対で残っています。

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泉蔵寺、吉田忠左衛門夫妻の墓所。

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元禄赤穂事件で有名な吉田忠左衛門。その妻であるりんは、忠左衛門切腹後に身を寄せた娘婿の主家の転封により、宝永七年(1710)に刈谷へ移り住みました。
しかし刈谷入りの僅か半年ほど後に亡くなり、形見として持っていた忠左衛門の歯と共に、この地へ埋葬されました。

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知立の松並木

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松並木の途中に建つ馬市の句碑。
江戸時代、この辺りでは毎年4月25日~5月5日の間、馬市が開かれ、4~500頭もの馬が並べられたと云います。

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歌川広重も、東海道五十三次で馬市の様子を描いています。
「池鯉鮒 首夏馬市」

知立は「池鯉鮒」とも書きましたが、それは当地にあった御手洗池、或いは知立神社の神池に鯉や鮒がたくさんいたため、との由来も伝えられています。
旧東海道の宿場名を示す際は、「池鯉鮒宿」とするのが一般的なようです。

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松並木を抜けた先が池鯉鮒宿。
今回の旧東海道歩き旅のゴールです。

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風情ある細い道を進み・・・

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この突き当りを右へ折れた先が・・・

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知立古城址

池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走候なり。

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元々は知立神社の神官・永見氏の居館があった場所で、刈谷城主・水野忠重(宗兵衛)が、その跡地を利用して信長饗応のための御殿御屋形)を整備したと伝わります。
※家康の側室で、結城秀康を生んだ於万の方は永見氏の出

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御殿址の石碑
江戸時代に入ると更に拡張され、徳川将軍が上洛する際の休息用の御殿にもなりました。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、知立一帯は刈谷城を押さえた緒川城主・水野信元の領有となりました。忠重はこの信元の異母弟にあたります。
信元は織田家に従っていましたが、信長に武田方への内通を疑われて死に追いやられ(天正3年/1575)、刈谷を含む彼の旧領は佐久間信盛の手に渡りました。
その佐久間父子の追放(天正8年)後、刈谷は忠重に与えられて水野家に復します。
忠重はこの後、高天神城を包囲する徳川軍の陣中にあり、年が明けた翌天正9年1月には、高天神城の処置についての信長の意向を伝える書状を受け取っています。

慶長5年(1600)、家康から隠居料として与えられた越前へ向かう堀尾吉晴を知立でもてなした際、同席していた加賀井重望によって殺害されました。
堀尾吉晴をもてなし、そして自らの最期をも迎えることになってしまった歓待の席も、或いはこの地にあった御殿が用いられたのかもと想像しています。

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知立付近一帯を描いた屏風絵。
東海道が御殿のところで突き当りになっている様子もよく描かれています。
右下隅の方に描かれているのは、岡崎城とその城下町。こちらも二十七曲りの様子がよく見て取れます。

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旧東海道は更に西へと続きますが、私はここを右(北)へ曲がって・・・

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知立神社にお参り。
写真は永正6年(1509)の再建と伝わる多宝塔。知立神社の別当寺だった神宮寺の遺構とのことです。

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神池には、やはり多くの鯉が。

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七五三シーズンにあたっていたため、この日は多くのお子さん連れで賑わっていました。

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旅の最後は電車で少し移動し、刈谷市の楞厳寺へ。
水野家の菩提寺で、水野忠重画像も所蔵しています。

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水野信元や忠重らが眠る水野家廟所。

本当は刈谷城まで足を延ばしておきたかったのですが、空模様が急激に怪しくなり、疲労もありましたので雨に降られる前に切り上げました。
いずれまた機会があれば・・・。

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2022年11月 5日 (土)

フィナーレ近づく夏野菜(家庭菜園2022 ⑨)

■10月3日

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茄子93~96号、京みどり。


■10月6日

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茄子97号、オクラ9号。


■10月10日

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茄子98~101号、京みどり、万願寺トウガラシ。
茄子もついに100の大台を突破です。一つ、葉に隠れていて巨大化していました(左)。

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種から育ててきた鷹の爪。
成長が遅れに遅れてこんなに小さいのに、一丁前に実をつけはじめています。

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庭の片隅のミョウガが、花をたくさん咲かせていました。
もう少し注意深く見ていれば、こちらからももっとミョウガを収穫できたのですね。


■10月15日

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茄子102~103号、万願寺トウガラシ。


■10月16日

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オクラ10号、京みどり。
だんだんと収穫も少なくなってきました。


■10月22日

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茄子104~107号、オクラ11号、京みどり、万願寺トウガラシ。
茄子ももう、あまり大きくならなくなってきました。


■10月28日

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茄子108~110号、京みどり、万願寺トウガラシ。
今年大活躍だった茄子も、これで打ち止めとなりそうです。
ゴーヤと甲乙つけ難いところですが、、、茄子が今年のMVPかな。


■10月29日

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この日、寒さのせいかオクラが急激に萎れてしまいましたので撤去しました。
畑もだんだんと寂しくなっていきますね。


■11月3日

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6日ぶりの収穫も茄子が実をつけなくなったので、採れるのは万願寺トウガラシのみ。

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という訳で茄子は、若い枝を残して少し剪定してみました。

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まだ花は咲かせているので、これらがどうなるか・・・?

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種から育ててきた鷹の爪は、小さいながらも健気に、結構立派な実をつけています。

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畑Bの黄色唐辛子もようやく、本格的に色づいてきました。

来月辺りは唐辛子たちの収穫も終えて、茎ブロッコリーのみになっているかもしれませんね。

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