2024年1月19日 (金)

海軍操練所跡の防波堤石積み

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1月14日、神戸海軍操練所跡の発掘現場説明会に参加してきました。
発掘現場は、こちらの碑から南へ30mほどの場所になります。

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昨年末に発掘成果のニュースに触れ、且つ説明会の開催を知るに及び、矢も楯も堪らずに予約を入れていました(笑)

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実際に遺構を目にした瞬間、想像以上の物量に驚きました。
主には神戸港開港時に築かれ、以降も修築・拡張されてきた明治期の第一波止場の防波堤や信号所の遺構になるのですが、その下層からも、やや角度を異にする別の防波堤跡が検出されました。
その石の積み方や石の表面に残る調整痕の特徴などから、開港以前の幕末期に遡る可能性が高まり、そのため元治元年(1864)に設置され、僅か1年で閉所された海軍操練所に伴う遺構ではないかと推定されています。

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V字に見える石積み列の内、左側のものが海軍操練所時代(以下「第1期」)の防波堤石積みと推定されています。
まさに勝海舟や坂本龍馬らが活動した時期に築かれた遺構が、地中から姿を現したのです。

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第1期防波堤のラインは、左奥に設置されたカラーコーンの方向に向かって伸びており、実際にライン上の他の箇所からも出土しています。
写真は南西側から北東方向(カラーコーン)を見た様子です。

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明治期の防波堤石積み(北側面)や、信号所の敷石など。
信号灯の基礎も見えています。

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明治時代中期の第一波止場を撮影した古写真(配布リーフレットに掲載)に信号所の様子が写っているのですが、石積みのラインや、信号灯と(信号所を囲う)木柵跡の位置関係など、どれもがピタリと一致しているように見えました。
なお、左隅の方で鏡に映されているのは第1期防波堤の石積みで、最初に見た南西側のものから直線上に位置しています。

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更にこちらは、発掘現場北東隅の第1期防波堤石積み。
やはり当然ながら、これまで見たものと直線で繋がります。

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本来なら正面から拝みたいところですが、見学者用のスペース確保が困難なため、こうして鏡を設置して見せてくれているのです。

貴重な機会を設けていただいたことに感謝です。

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2024年1月18日 (木)

有岡城

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1月中旬の週末、神戸を訪れる予定があり、そのついでに未訪のままになっていた有岡城にも足を延ばしてきました。
JR伊丹駅の周辺一帯が有岡城の主郭部だったようで、駅の横には史跡公園も整備されています。

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有岡城惣構図
図で見ると、不自然に感じるほど主郭部が惣構の東端に寄っていますが、この惣構の東側のラインは伊丹台地の縁で崖になっていたようです。

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有岡城主郭北端に残る石垣や土塁。
建物礎石跡や井戸跡なども復元展示されていました。

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主郭西側の堀跡。

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その南側の土塁、堀跡。

ところで、有岡城といえば荒木村重が織田信長に叛旗を翻して籠城した折、説得の使者として訪れた黒田官兵衛が城内の牢に幽閉されたことでも知られます。
その牢の位置は判明しませんが、黒田家が編纂した「黒田家譜」によると、牢の後ろには溜池があり、官兵衛の家臣・栗山善助は夜陰に紛れて池を泳ぎ渡り、官兵衛と連絡を取っていたそうです。

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江戸時代初期、寛文九年(1669) に成立した「伊丹郷町絵図」には、有岡城主郭の東側に池のようなものが描かれています。

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JR伊丹駅東側の地形。
現在も細い川が流れていますが、堀や池だった名残に見えなくもないですかね。

牢の外に咲く藤の花が幽閉される官兵衛の慰めになった、というエピソードも伝わっていますが、JR伊丹駅北東側の地名は「藤ノ木」・・・なんだか想像を逞しくしてしまいませんか。

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続いて旧石橋家住宅、旧岡田家住宅の前を抜けて・・・

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猪名野神社へ。
有岡城惣構の北端、岸の砦跡になります。

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境内に残る岸の砦土塁。

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その外側。
この小径は堀跡、ということでいいのかな?

この日は冷え込みが厳しく、急な雨もありましたので早々に退散しました。

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2023年12月16日 (土)

田原坂

田原坂の戦い
明治10年(1877)に勃発した西南戦争。
2月22日より熊本鎮台の置かれた熊本城攻撃を始めた薩摩軍は、熊本鎮台救援のために小倉・博多方面から南下してくる政府軍に備え、迎撃部隊を派遣します。
田原坂北方の木葉・高瀬などでの戦闘を経て、薩摩軍は要害ともいえる地形を活かして田原坂に布陣し、3月4日から20日までの17日間に及ぶ激戦が繰り広げられました。

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田原坂公園に建つ崇烈碑。
明治13年(1880)、国の主導で建てられた西南戦争の顕彰碑です。
篆額と撰文は、征討軍総督の有栖川宮熾仁親王によります。

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弾痕の家
田原坂の頂上付近にあった土蔵で、戦いの直後に上野彦馬(旅の初めに長崎でお墓参りしました)が撮影したものと、明治13年頃に撮影された別の写真を元に復元されました。
数多くの銃弾の痕も再現されています。

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田原坂西南戦争資料館前から、政府軍が陣取った二俣台地を望む。
谷部を挟んだ対岸の右手、少し開けている辺りは二俣瓜生田官軍砲台跡。この距離間で砲撃戦や、抜刀隊による白兵攻撃も繰り広げられました。
そこから尾根伝いに左へ視線を移し、少し高くなった場所が、その帰趨をめぐって激戦が展開され、田原坂の戦いの行方をも決定づけることになる横平山です。

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それでは早速、田原坂を下っていきます。
写真は三の坂に差し掛かる辺り。

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二の坂。
道幅は当時も4mほどで、熊本へと続くルート上で唯一、大砲を引き上げることのできる道だったとも云われています。

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一の坂。
道が深く掘り込まれ、屈曲によって先が見通しづらくなっている様子がよくわかります。
薩摩軍はこうした利点を活かし、道の両側の高所から、突破を試みる政府軍を迎え撃ったことでしょう。

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一の坂下まで下ってきました。
今度は突破を試みる政府軍の目線で、少しだけ登り直してみます。

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道の脇の竹藪は坂に合わせて段々の平坦地になっており、道に面して土塁のような高まりが連なっていました。
但し古写真を見る限り、戦争当時、周辺一帯は耕作地だったようなので、その名残かと思います。
いずれにしても、この両脇に銃を構えた薩摩兵が待ち構えているかと思うと、この坂を攻め上るなど恐怖以外の何物でもありません。

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田原坂の麓に架かる豊岡眼鏡橋。
享和2年(1802)の築造です。多くの兵士たちもここを行き交ったことでしょう。

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豊岡眼鏡橋からの田原坂遠景。

小倉・博多方面から熊本を結ぶルートは主に山鹿口・田原坂・吉次峠の3つで、そのいずれでも激戦が展開されています。
政府軍はその中でも坂が少なくて距離も短く、道幅も広い三池往還ルートに主力を投入しました。その最大の難所が、豊岡台地へと続く田原坂でした。

豊岡眼鏡橋からの高低差約80m、頂上までの距離1.5㎞ほどが、「こすにこされぬ・・・」と詠われた激戦の舞台となりました。

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こちらは田原坂資料館にもほど近い田原熊野座神社。
ここでも3月8日と15日に戦闘が繰り広げられ、社殿も兵火に見舞われました。

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薬莢が境内の南北端から集中して出土していることから、両軍は写真のこの距離間で銃を撃ち合ったと考えられています。その間、僅かに60m。

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両軍に挟まれた境内中央の参道に建つ石灯籠には、数多くの弾痕も残っています。

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田原熊野座神社近くに建つ、田原の五輪塔。

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「建治3年」(1277)「田原寺」の銘があり、こちらにも多数の弾痕が残されています。

続いて、今度は主に政府軍側が陣取った二俣台地上をめぐります。

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二俣瓜生田官軍砲台跡。
正面に田原坂西南戦争資料館、そこから左へと続くのが田原坂。
摩擦火管の他、砲座や大砲の轍跡も確認されています。
史跡としての整備が大々的に進められているようで(広い駐車場も設置されていました)、両軍の距離感を肌身に感じることができます。

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官軍本営出張所址。
こちらにも整備に着手したような形跡が窺えました。

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二俣古閑官軍砲台跡。
やはり摩擦火管がみつかっているようです。
民家に隠れて田原坂は望めませんが、資料館は微かに見えています。
そして、こちらも整備が進められていました。凄い力の入れようです。

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二俣古閑官軍砲台跡から南へ視線を移すと・・・
薩摩軍の重要拠点の一つ、横平山がもう至近の距離に!?

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薩軍兵站の地と湧水池
横平山の麓に位置します。
周辺では唯一の水源で、水を求めてやってきた負傷兵の血で真っ赤に染まったと云います。

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二俣台地の後背に位置する横平山の戦略的重要性を認めた政府軍は、3月9日よりその攻略に着手します。
それでは早速、登ってみましょう。

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横平山に残る塹壕跡。
政府軍が陣取る瓜生田や古閑の方向へ向けられています。

3月9日から始まった横平山の争奪戦は特に苛烈を極め、戦局は一進一退、抜きつ抜かれつを繰り返しました。
その帰趨は同15日に決着を見ます。

15日早朝、薩摩軍の急襲により、政府軍は横平山からの撤退を余儀なくされます。
そこで政府軍は戦局打開のため、14日より七本柿木台場など豊岡台地に点在する薩摩軍陣地攻略に投入した選りすぐりの警視抜刀隊約100名余りを再編成してここでも投入し、彼らの奮迅の活躍もあって横平山は再び陥落、政府軍の掌中に帰しました。
しかしその被害も甚大で、戦死33名、負傷50名、軽傷負わざる者無しという壮絶なもので、警視抜刀隊は精鋭を殆ど失い、横平山での政府軍戦死者は224名にも上りました。

警視抜刀隊
士族出身の薩摩兵に対し、徴兵による政府陸軍の兵卒は特に接近戦に於いて歯が立たず、対抗措置として、やはり士族出身者の多かった警視隊巡査の中から選ばれた精鋭。
この時の奮戦ぶりを讃え、後に軍歌「抜刀隊」も作曲されました。

※警視隊には会津の出身者も多く、佐川官兵衛や元新選組・斎藤一こと藤田五郎も豊後口警視隊として参戦(佐川は阿蘇にて戦死)し、警視隊ではないものの山川浩(戊辰戦争でも会津軍の指揮官として活躍した山川大蔵。率いる部隊の先頭に彼岸獅子を舞わせ、城を包囲する新政府軍を欺いて鶴ヶ城入城を果たすという離れ業を演じました)は陸軍参謀として西南戦争に従軍して熊本城救援に駆けつけ、ここでも見事、戦火の中を潜り抜けて入城を果たしています。

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横平山からの田原坂遠望。
横平山を落とし、二俣台地に連なる地を掌握した政府軍は田原坂方面(豊岡台地)への砲撃・攻勢を強め、そして3月20日に最後の総攻撃をかけることになります。

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七本柿木台場(薩摩軍)
豊岡台地上、田原坂の背後を守るような占地で、3月20日の政府軍総攻撃で陥落します。
これにより薩摩軍の防衛ラインは崩れ、政府軍の攻撃を支えきれなくなった田原坂の戦線もついに崩壊しました。

戦後、近隣住民が散在する薩摩兵329名の遺体をまとめて改葬し、現在は薩摩軍墓地となっています。

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雨は降る降る
じんばはぬれる
こすにこされぬ
田原坂

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こちらは七本官軍墓地。
300名余りの政府軍戦死者が眠ります。
一人一人に墓石も建てられ、「賊」とされた薩摩兵の墓地との違いは明白です。

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熊本県民のソウルフードという「おべんとうのヒライ」で腹拵えした後は、田原坂の前哨戦ともいえる木葉の戦いのあった方面へ向かいます。

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稲佐熊野座神社

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境内にひっそりと建つ薩軍砲陣跡碑。
田原坂に戦線が移る前の木葉の戦い(2月23日)か、高瀬の戦い(同25日~)の時に布陣したものと思われますが、いずれかは判断がつきませんでした。

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境内の大梛には弾痕も残っていたそうですが、残念ながら何らかの理由で既に伐採されていました。

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高月官軍墓地
980名余りもの政府軍戦死者が眠ります。

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有栖川宮督戦の地
政府軍は戦線が田原坂へ移った後に本営を木葉に置きましたが、征討総督有栖川宮熾仁親王はその木葉の本営から度々近くの高台へ登り、この地から戦闘の様子を観戦したと云います。

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確かに田原坂や二俣台地も・・・

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そして、吉次峠もよく見えました。

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宇蘇浦官軍墓地に眠る、谷村圭介伍長の墓。
谷村圭介伍長は2月21日、熊本城の電信が断線したため、玉名に駐留する第一旅団へ戦況と作戦計画を伝えるための密使として派遣され、途中2度も薩摩軍に捕らわれるものの切り抜け、見事に任を果たします。
しかし3月4日、田原坂の戦いの緒戦に志願して参戦し、敵塁に突撃して戦死しました。
戦後「軍人の鑑」と評され、あやかろうとする者が墓の欠片を持ち帰ろうとするため、鉄枠で保護されました。

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こちらは吉松秀枝少佐の墓。
熊本鎮台小倉第14連隊(連隊長心得乃木希典)の第3大隊長で、2月23日の木葉の戦いで戦死しました。

なお、宇蘇浦官軍墓地には警視抜刀隊64名を含む398名が祀られています。

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徳成寺
官軍病院址の石碑が目に入って立ち寄りました。

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日赤発祥之地ともされており、屋根にも赤十字のマークが。

17日間に及んだ田原坂の戦い。その戦死者は両軍合わせて2800名余りにも上ります。
特に攻める側の政府軍にとって厳しく、1700名というその戦死者は、7ヶ月間に及んだ西南戦争全体での戦死者の1/4にも相当しました。
西南戦争はその後、9月24日の西郷隆盛自刃を以って終結します。

さて、これにて4泊5日に及ぶ私の長崎~熊本の旅もフィナーレを迎えました。
天候にも恵まれ、何一つ不足のない、全てやり切った感のする充実の旅となりました。
これもひとえに旅を共にし、何から何までお世話してくださった同行者たちのお陰。改めて感謝いたします。
・・・と同時に、次回もよろしくお願いいたします!(笑)

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2023年12月15日 (金)

復興進む熊本城

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熊本市で迎える旅の最後の朝は、個人的に16年ぶりとなる熊本城散策から。
2016年4月の震災で倒壊した長塀は、見事に復旧していました。

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清正公さんにもご挨拶。

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二ノ丸跡に建つ、神風連 加屋霽堅 齋藤求三郎等 戦死之跡碑。

神風連の乱
明治初期に頻発した不平士族の反乱の一つ。
明治9年(1876)10月24日、明治政府に強い不満を抱く熊本の士族(旧肥後藩士)・加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名で構成された敬神党は深夜、熊本鎮台司令長官・種田政明、熊本県令・安岡良亮らを殺害し、熊本鎮台をも襲撃して一時、砲兵営を制圧しました。
しかし翌朝には政府軍の反撃を受け、加屋・斎藤らは戦死、その他も多くが戦死や自刃に追い込まれ、敬神党は壊滅します。
「神風連」とは、この敬神党に対する蔑称だったようです。

この後、熊本鎮台司令長官には大山巌の“繋ぎ”を経て、翌年に西南戦争を戦うことになる谷干城が就くことになります。
新風連の乱は、西南戦争にも少なからぬ影響を残したことでしょう。

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震災で受けた甚大な被害の痕跡が今もなお、随所に色濃く残る熊本城。

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宇土櫓は10年にも及ぶ解体修理工事に入りました。

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痛々しい限りです。

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しかし、大天守・小天守は早くも見事に蘇っていました。

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本丸御殿の床下を潜り、空中回廊(特別見学路)へ向かいます。
写真は、震災後は立ち入ることができなくなっている闇り通路。ライトアップで飾っていました。

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大雨で地面が陥没したことにより判明したという、東竹の丸の井戸跡。

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二様の石垣越しに大天守。

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戦う熊本城の“本気”を窺わせるかのような、連続する枡形。

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数寄屋丸の石垣も崩れていますね。

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しかし、飯田丸五階櫓の石垣は修復が終わったそうですし、冒頭の長塀や天守など、復興に向けた力強い歩みも感じられました。
震災後はじめて訪れましたが、部外者ながら訪問前よりもポジティブな感情が大きくなったような気がします。

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最後に市役所の展望室から熊本城を俯瞰。

熊本城には明治時代、熊本鎮台が置かれ、西南戦争の舞台になったことでも知られています。
特に写真の左奥方向(西)にあった段山(だにやま)は、薩摩軍にとって至近距離から城内を砲撃できる好立地であり、それだけに鎮台(政府)側にしてみれば弱点となる訳で、戦いの最前線で激戦地になったと云います。

さて、それではいよいよその西南戦争の激戦地の一つとなった田原坂へ向かいます。

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2023年12月14日 (木)

日野江城(おまけで島原城)

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原城に引き続き、今度は有馬氏の本城・日野江城を攻めます。
本丸の東側に連なる二ノ丸曲輪群を上がっていきます。

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階段状の遺構が発見された箇所。
イエズス会の報告書にも、有馬晴信が石垣や階段を築いていたことが記されています。

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ところどころ、いい石垣を目にすることもできましたが・・・

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全体としてはこんな感じ。。。

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階段遺構は、更に上の段まで続いています。
(石垣の間の坂)

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本丸直下の曲輪に残る石垣。

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日野江城から原城を望む。。。

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削平が甘く、斜めになっているけど・・・これも段曲輪か?

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本丸
背後の土塁が立派です。

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その土塁の背後は、自然地形の切り立った崖になっていました。
この先に三ノ丸曲輪群が続いているそうですが、時間切れのため切り上げます。

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その後は、島原城天守のライトアップをカメラに収めてから島原港へ。

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雲仙普賢岳、そして長崎県に別れを告げ、フェリーで熊本へ渡りました。

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熊本で迎える旅の最後の夜は、名物の馬刺しで乾杯。

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2023年12月13日 (水)

原城

軍艦島クルーズを大満足のうちに終えた後は、名残を惜しむ間もなく長崎市街を離れ、一気に島原半島へ移動。
昼食休憩を挟んで最初に訪れたのは・・・

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南島原市にある有馬キリシタン遺産記念館。
島原の乱や潜伏キリシタンの歴史などを簡単に学んでから・・・

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島原の乱の舞台となった原城へ。
写真は原城の大手口。

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原城は慶長期、有馬晴信によって築かれました。
元和2年(1616)、島原に入封した松倉重政が島原城を築いて居城としたため、原城は有馬氏の本城・日野江城と共に廃城となります。
寛永14~15年(1637~1638)に起きた島原の乱(島原・天草一揆)に於いて、一揆の拠点となりました。

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巨大な空堀を思わせる、三ノ丸~二ノ丸間の谷部。

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二ノ丸越しに有明海。

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二ノ丸北西出丸。
対面には幕府から派遣された諸隊が布陣した丘陵地帯も眼前に見えており、まさに戦いの最前線となりました。

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二ノ丸から本丸方向。

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遥か彼方に湯島を望む。
一揆の首謀者たちが集まって談合し、天草四郎を総大将として決起することを決めた地でもあることから「談合島」とも呼ばれます。

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本丸の北東面に転々と残る石垣。

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本丸正門跡。
発掘で多数の人骨が出土しています。

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立派な石垣が積まれています。

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本丸正門から続く枡形虎口。

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本丸櫓台の破城跡。
島原の乱終結後、原城は幕府の命で徹底的に破壊されたと云います。
また、この櫓台脇の石垣下からは、一揆勢の仮設小屋跡と思しき遺構も検出されています。

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本丸門の枡形。礎石も見えています。
一揆の際、天草四郎が居を構えていたとも伝わる場所です。

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本丸。

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振り返ると、雲仙普賢岳の壮大な眺め。

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本丸内、礼拝堂が建てられていたと伝わる辺り。
メダイや十字架などが出土しているそうです。

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天草四郎の碑。
近くの民家の石垣に使われていたもので;
□保□年
天草四郎時□□
□二月廿八□母
と彫られているようです。

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視線の先には湯島(談合島)。。。

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池尻口門。

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池尻口門から本丸正門方向へと続く石垣。

とても見応えのあるお城でした。

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2023年12月12日 (火)

軍艦島に上陸!

11月25日、旅の4日目は軍艦島上陸&周遊クルーズ~島原半島~熊本入りと大忙しなスケジュール。

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朝8時過ぎに長崎港ターミナルに集合し、軍艦島クルーズに備えます。

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そして午前9時、いよいよ出港です。

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ジャイアントカンチレバークレーンや・・・

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海上自衛隊の護衛艦「すずつき」「によど」の見送りを受けます。

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前日に訪れた四郎ヶ島台場を外海側から。
辛うじて我々の立っていた石垣も目視できました。

そうこうして港を出港して30分ほども波に揺られていたでしょうか・・・

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・・・ついに!?

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ついに、その威容を視界に捉えました!軍艦島(端島)!!

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我々のクルーズはまず先に上陸するコースだったようで、あっという間に島へ近づいていきました。
興奮がおさまりません。

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絶好のコンディションの中、念願の上陸開始です。

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私のグループはまず、第2見学広場での見学から。
右に第二竪坑坑口桟橋跡。一般的なエレベーターの8倍もの速度で地下600mまで一気に下ったそうです。
炭鉱夫たちは、そこから更に1000m以上の地下まで下りていきました。
左奥は総合事務所跡。
そして風呂は3つあり、真っ黒になった炭鉱夫たちはまず、海水の風呂で2度、炭を入念に落としてから、3つ目の真水の風呂で潮や汚れを落としていたのだそうです。

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最高所に建っている長方形の建造物は貯水タンク。
水は本島より海底パイプで引いていました。そのパイプも微かに見えています。
隣の灯台は、閉山後に設置されました。稼働していた時代は島全体が明るかったため、灯台は不要だったのだとか。

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続いて第3見学広場へ移動します。

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第3見学広場から、30号(右)31号棟アパート。
30号棟は大正5年(1916)に建てられた、日本最古の7階建て鉄筋コンクリートアパートと言われています。
もはや、いつ崩壊しても不思議ではないとも言われており、つくづく間に合ってよかったと思います。

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最後に第1見学広場へ。

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左上は幹部職員用の社宅。
台風の時は、あの高さまで波を被ったのだそうです。
正面奥は端島小中学校跡。

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滞在時間はほんの30分ほど。
しかし、とても濃密な時間となりました。

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帰港前に軍艦島の周囲を周遊します。
こうして見るとまさに、軍艦そのもの!

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島の反対側へ回り込みます。

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反対側からの景観も凄いですねぇ~。

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上陸時に見学した31号棟(写真右)のすぐ左は泉福寺跡。木造のため、完全に倒壊しています。
更に左上へ目を移すと、頂部に神社の祠が見えています。
いずれも島では唯一のお寺であり、神社でした。

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大満足の軍艦島クルーズを終えて帰港すると、ダイヤモンドプリンセスの巨大な船体がお出迎えしてくれました。
右上にはグラバー邸の屋根もチラホラ。

素晴らしい体験をさせていただきました。
穏やかに晴れてくれたお天道様にも感謝。

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2023年12月11日 (月)

四郎ヶ島台場

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長崎市神ノ島町、神の島運動公園の駐車場に車を停めて、鬱蒼と茂る獣道のような場所を進みます。

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両サイドには石垣が見え隠れしています。

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50mほども進むと視界が開けました。
堤防のような道の続く先が四郎ヶ島台場跡です。

四郎ヶ島台場は長崎港外の西の突端(神ノ島地区の南西)から約200mの海上に位置する、東西約220m×南北約120mほどの小島です。
幕府の命で長崎警備の任を負っていた佐賀藩が嘉永3(1850)年、ここに台場の築造を開始しました。

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コンクリートで舗装された堤防道の外側に、石垣列が確認できます。
大砲や人員を島へ運ぶための道は、実際には今よりも幅が広かったのでしょう。

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反対側も。
そして島の外縁部にも立派な石垣が見えます。

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島に渡り、今歩いてきた堤防道を見る。

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訪れた時はタイミング悪く満ち潮時で、残念ながら島の外周を見て回ることは叶いませんでした。
しかし、藪が生い茂る島の中に細い道があり、そこを進んでいくと島の反対側(南西/外海側)へ出ることができました。

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四郎ヶ島、南西(外海)側の石垣。

本当はピット痕とか、もっと見たい箇所はあったのですが、こればかりは致し方ありません。

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本島側へ戻り、北東側から四郎ヶ島を眺め渡した様子。
堤防道の縁から続く石垣が、そのまま手前の陸地側まで延びてきています。

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その石垣。

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一部、不思議な形状の空間も。
最初は虎口かとも思いましたが、半円形に窪ませているだけで中へは通じていませんでした。

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こちらは四郎ヶ島の北西サイド。
よ~く目を凝らすと、島の右端にも立派な石垣が。

とても興味深い史跡を見学できました。

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この後は長崎市街へ戻って夕食です。
今夜のメニューは、老舗「吉宗(よっそう)」にて・・・

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名物の茶碗蒸しと蒸寿しのセット。
茶碗蒸しはおだしの香りが濃厚で、とても美味にございました♪

夕食後は稲佐山公園駐車場からスロープカーに乗って・・・

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稲佐山からの夜景で一日の〆
この日もよく遊びました。

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2023年12月10日 (日)

長崎市内観光&歴史旅…②

さて、長崎市内観光の2日目は合流した旅の仲間の希望で、私にとっては2日連続となる出島からスタートしました。
重複しますので、当記事では省略します。

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出島の後は新地中華街を冷やかしてから・・・

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オランダ坂を歩き・・・

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ランチに長崎名物の「トルコライス」を堪能してから・・・

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大浦天主堂を拝観。
正式名称を「日本二十六聖殉教者聖堂」といい、1864年(元治元年)に創建された日本最古の教会建築(国宝)です。

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続いてグラバー園へ。

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園内では様々な建物を見学しましたが、それらは省略させていただき、最後に訪れたグラバー邸だけ。

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トーマス・グラバーの居室と推定されている部屋。

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隠し部屋とも伝わる天井裏の空間。

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園内にある諸建築の中でも、とりわけ上品で素敵な邸宅だと感じました。

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グラバーの胸像。

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グラバー園といえば・・・ハート石(;^ω^)

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グラバー邸からの眺め。
対岸は、夜景スポットとしても有名な稲佐山。後ほど訪れます。

さて、ここで一旦長崎市街を離れ、この後は車でで少し移動して神ノ島地区にある四郎ヶ島台場跡へ向かいます。

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2023年12月 9日 (土)

長崎市内観光&歴史旅…①

11月下旬、前乗りも含めると4泊5日で長崎~熊本への旅に出かけてきました。
11月22日は職場から空路長崎市入りし、ホテルへ直行。実質的な旅は23日からのスタートとなります。
今回はその23日、長崎市内を単独でめぐった様子をご紹介します。

ホテルを出発し、まず最初に向かったのは・・・

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長崎駅からもほど近い、日本二十六聖人殉教地(西坂公園)。
慶長元年12月19日(1597年2月5日)、豊臣秀吉の命で6名の外国人と20名の日本人キリシタンが処刑された地です。
この26名の殉教者たちは文久2年(1862)、時のローマ教皇によって聖人に列せられました。

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西坂公園に建つルイス・フロイスの記念碑。
「日本史」をはじめ、数多くの著述を残したフロイスは晩年、この長崎の地からローマへ向けて、26聖人殉教の記録を書き送りました。
彼が世を去るのは、この殉教事件から僅か5ヶ月後のことです。

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路面電車で少し移動し、この龍馬通りをひたすら上った先に・・・

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亀山社中記念館。
坂本龍馬や陸奥宗光、沢村惣之丞らが活躍した亀山社中の跡地に建ちます。
復元されたという建物も見学させていただきました。

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亀山社中記念館の建つ丘の頂上、風頭公園展望台からの眺め。

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風頭公園に建つ坂本龍馬像。

この後は丘を下りつつ、幾人かの歴史人物のお墓をお参りしていきます。

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上野彦馬墓。
日本最初期の写真家で、高杉晋作や桂小五郎らも撮影しました。
また、今回の旅で私が最後に訪れる予定の田原坂の戦跡も撮影しています。

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こんな鬱蒼とした山道を下り・・・

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幕末期の砲術家、高島秋帆とその家族の墓所。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」にも、その初期段階で登場しました(演:玉木宏)。

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近藤長次郎墓。
勝海舟に師事して神戸海軍操練所にも入所しました。
亀山社中結成にも参加して手腕を発揮しますが、慶応2年(1866)、英国への単独渡航計画が露見して社中の盟約違反を咎められ、小曾根邸にて切腹して果てました。
墓標は切腹した小曾根邸の梅花書屋にちなみ「梅花書屋氏墓」とあります(坂本龍馬の筆によるとも)。長崎を不在にしていた龍馬はその死を惜しみ、「俺がいたら殺しはしなかったのに」と妻・お龍に洩らしたと云います。
なお、高島秋帆から砲術も学んでいて、墓も当初はその秋帆の墓(前掲)の裏手に葬られていましたが、後に小曾根家墓地内に移されました。

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丘を下った後は、「長崎といえば」ということで眼鏡橋も冷やかしつつ・・・

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フロイス通りを南西方向へ。

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小曾根邸跡。
近藤長次郎自刃の地でもあります。

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旧長崎県庁跡地。
ここは、16世紀後半にはイエズス会により岬の教会(サン・パウロ教会)が建てられ、江戸時代には長崎奉行所西役所となり、幕末には海軍伝習所なども設けられた地です。
今でこそ埋め立てによって景観は失われていますが、その昔はまさに岬の突端のような立地でした。

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海軍伝習所の様子を描いた江戸期の絵の通り・・・

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すぐ目の前には出島の跡地があり・・・

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絵の中で、兵隊の列が大砲を引き上げている石段もこの通り、坂道として地形を留めています。

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この日のラストは出島へ。

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明治期の洋風建築が並ぶエリア。

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ミニ出島。

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石造りのアーチ門には、オランダ東インド会社の「VOC」。

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幕末、オランダ人によってジャカルタ地方から持ち込まれたデジマノキ。

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復元エリア。

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こちらの2階が商館長、カピタンのお部屋。

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壁紙がちょっと刺激的でした(笑)

さて、翌日は旅の仲間と合流し、もう少し市内観光を続けます。

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