2021年1月 4日 (月)

首洗池と浅間の森

2021年最初の史跡めぐりは、神奈川県相模原市緑区寸沢嵐へ。

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まずは、国道412号線沿いにひっそりと佇む首洗池へ。

永禄12年(1569)10月、関東に侵攻した武田軍と、迎え撃つ北条軍との間で勃発した三増合戦
合戦後、信玄率いる武田軍は甲斐国へ引き上げる道中、「反畑」と呼ばれたこの地で討ち取った北条兵の首実検を行ったと伝えられています。
※今回の記事は三増合戦に関連した内容となりますので、下にご紹介する記事も併せてお読みいただけると幸いです。
三増合戦 (もののふ戦国バスツアー)

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この際、実検に供される北条兵の首を洗ったとされるのが、この首洗池です。

現地案内板には「実検後、首は浅間の森に塚を築いて埋葬された」とありましたので、その浅間の森にも行ってみます。

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首洗池のすぐ西の路地を南(やや南西)の方角へ。
結構な勾配の坂をひたすら登っていきます。

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国道412号線から400mほども進むと、帝京平成大学の薬用植物園のフェンス際に「浅間神社」の白い看板が立っています。
ここを左へ入り、フェンスに沿ってすぐに右へ曲がります。その先に・・・

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浅間の森があります・・・が、あまりの藪り具合に心が折れそうになりました(笑)
折角ここまで来たのだからと藪を掻き分け、フェンス際を30mほど進むと少しだけ藪が途切れ、左の浅間の森へ分け入れるポイントがありました。

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浅間の森の中には笹薮もなく、すぐに首塚の案内板が目につきました。

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首実検の後、武田軍によって築かれたと云う首塚

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首塚の上には浅間神社の石碑が建っています。
武田軍は塚を築いて首を葬った後、塚の上に祠を立てて供養したと伝えられ、これが、この地にいつの頃までか浅間神社が祀られていた始まりとなったそうです。

ところで、首洗池の説明板には「武田軍は反畑(首洗池周辺?)で首実検をした後に、浅間の森に埋葬した」と書かれていましたが、それだと武田軍は首実検をした後、埋葬のためだけ?に甲斐への帰路とは反対の方向へ引き返し、しかもわざわざ高台に登って首塚を築いたことになります。

同説明板によると、三増から引き上げてきた武田軍は「沼本の渡し」からと、「三ヶ木新宿」方面からとに分かれて道志川を渡ったのだそうです。
冒頭で紹介した三増合戦の記事で私は、道志川を渡った武田軍は上の山城を経由して「信玄森」で首実検を行った、といった趣旨のことを書きました。
この「信玄森」は地元の訛りなのか「せんげん森」と読む、とも書いていますが、信玄(武田軍)が築いた塚の上の祠が浅間神社になり、やがて「信玄」と「浅間」がない交ぜとなって伝えられた伝承だったのかもしれません。

そして地理や地形的な条件を考えると、南寄りの三ヶ木新宿から渡河した一隊が上の山城を経由して浅間の森に至り、北寄りの沼本からの一隊は首洗池で討ち取った首を清めた後に浅間の森の高台に登り、別動隊と合流して見晴らしの利く浅間の森(の高台)で首実検を行った、という流れ・状況だったのではないかと想像してみました。

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最後に・・・浅間の森付近から、武田軍が進んでいったであろう甲斐への方角。
(正面方向には甲州街道の与瀬宿があります)

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2020年12月31日 (木)

2020年の畑納め ~家庭菜園⑩~

■10月24日(182日目)

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畑Aで唯一残してあったピーマンもさすがに実の発育が悪く、もう育たなくなったので撤去することにしました。

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これで畑Aは今季終了です。
鉢植えの鷹の爪は、まだ小さな実がポツポツとついているので残していますが・・・もう収穫は難しいかもしれません。

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畑Bの平莢インゲン。
期待ほど育たなく、葉の状態も良くありません。

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まだいくつか莢はついていますが、花も咲かないので新たな莢は期待できないかも・・・。

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こちらは元気モリモリなブロッコリー。

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今か今かと待ち侘びておりますが、まだ蕾はつかないようです。
気長に待ちます。


■10月28日(186日目)

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まだ少し早いかな~とも思いましたが、平莢インゲンが地面に届いてしまっていたので収穫しました。

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鷹の爪・・・僅かではありますが、まだ実が少しずつ成長しているようです。


■10月31日(189日目)

この日は、全く実が育たなくなっていたオクラとお別れしました。
2mを遥かに超え、茎も太くなっていたので処理が大変でした…(;^_^A

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オクラが去った畑B。
ライムホルンも京みどりも実が育たなくなってきたし、平莢インゲンも成長が止まってしまいました。

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今後はブロッコリーに蕾がつくのを待ち侘びる日々になりそうです。


■11月14日(203日目)

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今季最後の収穫となる京みどり、平莢インゲン、そしてライムホルンを素揚げにしていただきました。


■11月15日(204日目)

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モリモリと葉をたくさん伸ばし、順調な成長を続けているブロッコリー。

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ついにこの日、蕾らしきものが出てきているのを確認しました!
いよいよですねぇ~♪


■11月22日(211日目)

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この日は最後に残った実を全て収穫し・・・

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ここまで大きく育っていたライムホルン、そして鷹の爪、平莢インゲンともお別れしました。
京みどりも、もう実はつけないのですが・・・最初の苦難があるので抜くに忍びなく…(;^_^A

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先週、頂花蕾を始めて確認したブロッコリー。
1週間でここまで大きく膨らみました。来週のうちには収穫できそうです。


■11月28日(217日目)

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さぁ、いよいよブロッコリーの収穫を迎えました。

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頂花蕾の直径は12㎝ほど。
まだ少し早いかな~とも思いましたが来週末では遅過ぎるだろうし、タイミングを逃したくはなかったので、この日になりました。

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今夜、みんなでいただくのが楽しみです♪

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既に多くの側花蕾も顔を出しています。
今後はこれらを順々に収穫していきつつ、葉も結構美味しいらしいので炒め物などに使って、少しずつ楽しんでいきたいと思います。

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さて、収穫したブロッコリー(頂花蕾)はシンプルに茹でて・・・

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鰹節をまぶして美味しくいただきました♪


■12月9日(228日目)

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頂花蕾を収穫して、早10日余りのブロッコリー。
予想に反して側花蕾の成長スピードが上がりません・・・。

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予想外と言えば、抜いてしまうに忍びなくて残してあった京みどり。
なんと、新たな花を咲かせていました・・・!?
もはや真冬とさえいえる12月・・・まさか実を収穫できるとは露ほども思っていませんが、それでもほっこり嬉しい驚きでした。


■12月12日(231日目)

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我が家のブロッコリー、実は先日頂花蕾を収穫したメインの茎の他にもう1本、写真右斜めにも茎が伸びてきているのですが、今度はそちらにも・・・

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頂花蕾がついているのを確認しました。
主茎に比べたらだいぶ細いですし、うまく育つのかは未知数ですが・・・。


■12月17日(236日目)

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前夜の極度な冷え込みで、朝起きてみるとブロッコリーがグターッとしな垂れていました。
日中の気温上昇で、持ち直してくれるといいのですが・・・。

なお、奥にチラッと見えている京みどりは、この後完全に枯れてしまいましたので撤去しました。


■12月19日(238日目)

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先日の冷え込みでグッタリとしていたブロッコリーですが、日中に気温が上がると持ち直してくれたので一安心。
冷え込み対策として、夜間はビニールを被せておくことにしました。

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お陰でなんとか今日も、元気に過ごしてくれています。


■12月31日(250日目)

さて、2020年もとうとう年の瀬を迎えました。
気がつけば春に家庭菜園を始めてから、ちょうど250日目にもあたります。

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我が家の家庭菜園で唯一残っているブロッコリー。
(プランターにはミントもいますが)

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側花蕾も・・・

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2本目の茎の頂花蕾もなかなか大きくならず、年内の収穫には間に合いませんでした。
この先、無事に育ってくれれば収穫して美味しくいただきますが、年を跨ぐことにもなりますので、今年の家庭菜園ブログはここで締めたいと思います。

2020年…本当に世界規模で大変な1年になってしまいました。
未だ感染は拡大の一途を辿っており、まだまだ先の見通せない日が続きますが、少しでも早く、希望の持てる日が来ることを祈っています。

春の緊急事態宣言による外出自粛から、何の気なしに携わるようになった家庭菜園。
1年前には、自分がこれほどまで畑仕事に携わるようになるとは、露ほども想像していませんでした。
しかし、育てた作物の日々のちょっとした成長や、天候・害虫などによる苦難、それを乗り越えた先に待つ収穫・・・そういった苦労や喜びを知れたことは、私にとっても少しはいい学びになったような気はします。
来年は、どこまで携わるかは未知数(ライフワークはあくまでも「歴旅」なので)ですが、機会があれば新たな作物にも挑戦してみたいと思います。


収穫履歴

10月19日
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平莢インゲンは、ちょっと期待外れだったなぁ・・・。

10月21日
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ライムホルンは本当によく頑張ってくれています。

10月24日
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ピーマンはこれが最後の収穫。
色も悪く、サイズも小ぶりなまま大きくなりませんでした。
京みどりも小さかったのですが、あまり発育が良くないので早めに収穫。

10月28日
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さすがのライムホルンも、実が少なくなってきました。

10月31日
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京みどりはこれが最後の収穫になるかも。
ライムホルン共々、もうサイズは大きくなりません。

11月3日
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残り僅かとなってきたライムホルン。
小ぶりでも、これ以上には育たなくなったので収穫。

11月7日
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京みどり・平莢インゲンは、これが最後の収穫。
ライムホルンもあと1~2回で終了かなぁ?

11月14日
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ライムホルンも、この後もう1回で終了となりました。

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2020年12月21日 (月)

出雲伊波比神社(毛呂大明神)

2020年12月20日、2年前に訪れた際には藪に覆われ、まともに見ることができなかった鎌倉街道の掘割遺構のリベンジのため、埼玉県毛呂山町を再訪しました。
参考記事(後半部分)

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その際、車を置かせていただいた毛呂山町歴史民俗資料館で令和2年度の後期企画展「戦乱の世の文化財」が開催されていたので、こちらもちょっと覗いてきました。

その中で、小田原の北条氏が「茂呂(毛呂)大明神」(出雲伊波比神社)に宛てた印判状(毛呂山町指定文化財「小田原北条氏の鐘證文」)の存在を知り、とても興味を惹かれたので実際に出雲伊波比神社を訪れてみることにしました。

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「毛呂大明神」出雲伊波比神社

北条氏の印判状は天正十六年(1588)正月五日付で、上方の豊臣政権の脅威が迫る中、来る戦に備えて梵鐘の供出を命じたものです。
世上が静謐になったら再び鋳造して寄進する旨を約した証文の体裁になっていますが、ご存知の通り北条家は2年後の天正18年(1590)の戦乱に敗れたため、梵鐘が寄進されることもありませんでした。

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出雲伊波比神社の本殿(国指定重要文化財)は、発見された棟札から大永8年(1528)に時の領主・毛呂顕繁によって再建されたことが判明しています。
毛呂顕繁は、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が争った永正元年(1504)の立河原合戦(現東京都立川市)にも、山内上杉方として参戦した人物でもあります。
この時、扇谷上杉方には北条早雲(伊勢盛時)や今川氏親の軍勢も援軍として参陣していました。

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毎年11月に行われる鏑流馬神事の馬場。
出雲伊波比神社の鏑流馬は、奥州平定に向かう源頼義・義家父子が当社で戦勝祈願を行い、その凱旋時の康平6年(1063)に再び参拝し、流鏑馬を奉納したのが始まりとされているそうです。

・・・偶然立ち寄った場所に、なんとも凄い歴史が眠っていたものです。

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2020年12月11日 (金)

旧東海道 袋井宿~掛川宿

遠江旅の2日目は袋井駅まで移動し、東海道53次中、27番目の「どまんなか」に当たる袋井宿へ。

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袋井宿から西、浜松までの行程は以前にも歩いているので、今回はここから東へ掛川まで歩いてみることにします。
写真左に見えているのは、袋井宿東本陣跡。

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袋井宿東の出入口に建つ東海道どまん中茶屋。
スタートしたばかりでしたが、美味しいお茶をいただいたので一服。
木から吊るされているヤカンは・・・

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歌川広重の「袋井」の絵を模しています。

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どまん中茶屋の先で旧東海道は少し消失(黒点線部分)していますが、迂回して先へ進むと・・・

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いい雰囲気で真っ直ぐに伸びていました。

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木造屋形造りの、新屋の秋葉山常夜灯。

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極端に道幅が狭まる旧東海道。

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この辺りでもやはり、一部区間で旧街道が消失しています。
案内では一旦、県道413号線の交差点に出て迂回するルートを紹介していましたが・・・

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先ほどの細い道から、車道を挟んで反対側にも歩道が続いていたので、そちらへ行ってみると・・・

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県道413号線沿いの店舗の裏側から、うまいこと迂回することができました。
写真右側の道路が旧東海道になります。

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旧東海道、久努の松並木。

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松並木はすぐに一旦途切れますが、この後もしばらくは断続的に続きます。

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油山寺道標
ここから北へ向かうと油山寺があります。

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久津部一里塚跡
江戸から60里目に当たります。

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さ、また松並木に入ります。

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富士浅間宮赤鳥居
富士浅間宮は、この鳥居が建つ旧東海道から北へ6~700mほどの場所にあります。
現在では建ち並ぶ工場や国道、東名高速に遮られて全く見えませんが、江戸時代には赤鳥居から社殿を見通すことができたそうです。

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街道の部分だけ一段高くなっています。
その昔は一帯に田畑が広がり、旧東海道は畦道(畷道)のようになっていたのかもしれません。

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松並木を抜けると、名栗の花茣蓙について書かれた大きな駕籠が置かれていました。
(どうやらゴミの収集庫らしいです)

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国道1号線と交差する地点にある、花茣蓙公園。
この先は一旦トンネルを潜り、国道に上がって同心橋を渡って原野谷川を越えます。

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同心橋を渡ると掛川市に入りました。

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同心橋を渡ったらすぐに国道を離れ、北東方向へ伸びていく旧東海道へ。

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間の宿原川を過ぎた辺りから、また松並木(原川~岡津間)が続きます。

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やはり松並木は、旧東海道歩きの醍醐味ですね。

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松並木を過ぎ、垂木川沿いを進む旧東海道。

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県道253号線を進み、国道1号線のガード下を潜った先の沢田IC南交差点は、左斜め前方へ。

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趣のある道が続きます。
高くそびえるのは、お酒の醸造所のもののようです。

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逆川の堤防近く。
所々に松の木が点在していました。

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大池一里塚跡の碑。
江戸から59里目になります。

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遠州浜名湖鉄道線の西掛川駅横のガード(写真)を潜り・・・

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県道415号線と交差する地点に架かる大池橋。

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歌川広重の「掛川」にも描かれた光景です。
秋葉山本宮秋葉神社へ通じる秋葉街道との追分でもあったので、橋の傍らには昭和の初め頃まで、大きな鳥居が建っていたそうです。

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大池橋を渡り、県道415号線を東へ。
写真の二瀬川交差点を右折。この辺りからいよいよ掛川宿に入ります。

※ここで嬉しいサプライズが。私は道中、折々にtweetを上げていたのですが、それを見た静岡県在住のフォロワーさんがお土産を持って待っていてくださいました。
その節はありがとうございました。

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こちらの二股は左へ。

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県道37号線を左へ。

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圓満寺に移築されている、掛川城の蕗の門。
三の丸辺りに建っていたようです。

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そして掛川城。
掛川宿から先、金谷宿までの区間は以前にも歩いているので、今回はここまでとします。

2日間合わせても30㎞も歩いていないはずですが、新型コロナの影響で長距離を歩くのも久しぶりだったので、とても疲れました。
感染拡大の第三波も来ているので、今後は少なくとも冬の間は遠出は自粛です。
春になったら今度こそ、今年の春に諦めた場所へどうしても行きたいので、少しは収まっていることを願って止みません。。。

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2020年12月10日 (木)

池田近道(姫街道)

今回は古道・旧街道歩きで静岡県西部、遠江への旅です。
まずはJR磐田駅で下車し、旧東海道をしばらく北上し・・・

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西光寺へ。
西光寺の表門は、徳川家康によって築かれた中泉御殿(天正~寛文期)の表門を移築したものと伝えられています。

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東福山西光寺
文永2年(1265)に真言宗の寺院として創建され、建治・弘安年間に一遍上人がこの地を訪れたことで時宗に改宗した歴史を持つ古刹です。
近年は縁結び・恋愛成就のパワースポットとしても人気なのだとか・・・(;^_^A

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本堂に祀られている日限地蔵尊(厨子の中)は、後水尾天皇の后・東福門院和子(徳川秀忠息女)の念持仏。
元和6年(1620)、入内のため江戸から京へと向かう途次、西光寺で休息した際に寄進されました。
山号の「東福山」も和子后に由来します。

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旧東海道、見付宿の西木戸付近。
江戸時代に整備された旧東海道はここで左に折れ、前出の中泉御殿のあった南の方へと向かい、天竜川の渡し場である池田までは大きく迂回する行程となりますが、旧東海道の整備以前は直進方向、池田へ直接向かう道がメインルートだったようです。

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旧東海道との分岐点に「これより姫街道」の案内(道標)が建っていますが、地元では「池田近道」とも呼ばれてきたようです。
南へ迂回する東海道に対して、直接池田へ向かう近道・・・確かに(笑)

天正10年(1582)4月、甲州征伐から安土への凱旋の途についた織田信長
そのルートは「信長公記」の記述を追う限り、現在の静岡県富士市辺りから先はほぼ旧東海道に沿って進んでいます。
そして4月16日、掛川を発った信長一行は見付を経由し、池田から天竜川を渡河しました。
この時はまだ、見付から南へ大きく迂回する旧東海道は整備されていませんので、信長一行が池田までの行程に利用したのも「池田近道」だったのではないかと思い、実際に歩いてみることにしました。

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池田近道の概略図
現在では大部分が消失(水色線)しているようなので、消失箇所は何となく方角を調整しながら通れる道を歩いてみます。

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池田近道に入ってすぐ、常夜灯の建つ二股。
ここは右へ進んで坂を上ります。

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坂を上った先から見付宿を見下ろす。
結構、急勾配な坂でした。

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右にかぶと塚公園を見ながら。
この先は行き止まりになりますので、一旦、県道413号線に出ます。

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磐田市一言の立体歩道橋のすぐ先で右斜め方向へ。

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ここは左の坂を下ります。
この坂こそ・・・

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有名な一言坂
元亀3年(1572)の三方原の戦いの前哨戦ともいえる、一言坂の戦いのあった場所です。
写真の碑は県道413号線沿いに建てられていますが、徳川×武田の両軍も通ったであろう池田近道は、奥に見える雑木林の方を通っています。

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本多平八郎忠勝が徳川軍の殿を務めて見事な武勇を発揮し、敵方の武田軍から;
家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八
と讃えられたのも、一言坂での戦いのことでした。

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池田近道沿いにも「一言坂戦跡」の案内板が建っています。

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坂を下ると、道路脇に池田近道の案内板がありました。
下ってきた車道を折り返すようにして、この未舗装の道に入っていくようです。

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一言坂の段丘の縁を添うようにして進みます。

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その段丘を見上げる。

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古道はこの先で消失しているようなので、ここは左へ折れ、豊田野球場の南側を西へ進みます。

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一つ目の交差点は斜め北西方向へ。

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更に、寺谷用水を跨ぐ交差点も斜め北西方向へ。

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智恩斎
山門は、すぐ南にあった皆川陣屋からの移築と伝わります。
そして、山門脇の小屋の中に・・・

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一言観音が祀られています。
一生に一度、一言だけ願いを叶えてくれるという観音様。
一言坂から敗走する徳川家康も、一言だけ願っていったと云います・・・「無事に逃げ切らせて!」とでも願ったのでしょうか?(;^_^A

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智恩斎から先も、池田近道は消失しています。
実際の古道は写真の右斜め前方へ伸びていたようなので、方向を調整しながら農道を歩きました。

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人っ子ひとりいない長閑な道をのんびりと・・・。

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森岡ICの下を潜って一つ目の交差点を左折すると、すぐにまた池田近道の案内があります。

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高い生垣は遠州のからっ風除けでしょうか。

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豊田上新屋ポケットパーク(左)の先で、池田近道はまた消失しています。
ここもやはり方角を調整しながら、写真の右斜め方向へ向かいます。

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豊田西保育園に行き当たった所で右折し、ずっと北上していくと・・・

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門前市通りに出ます。
ここを左折すると、いよいよ池田の渡しになるのですが、その前に・・・

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行興寺に立ち寄り。
平宗盛の寵愛を受けた熊野(ゆや)御前が母の菩提を弔うため、この地に庵を結んだのが始まりとされています。
池田に生まれた熊野御前は、遠江の国司だった平宗盛に見初められて上京しましたが、故郷の母の病を知ると、
いかにせん 都の春も 惜しけれど なれしあずまの 花やちるらん
と詠み、母を想う心に打たれた宗盛の許しを得て池田に戻りました。

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境内には熊野御前が生前に愛したと云う藤棚(熊野の長藤)が、本堂を取り囲むようにして広がっていました。

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こちらは国の天然記念物にも指定されている1本で、推定樹齢は850年とのこと。

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本堂横には熊野と母を供養する墓所もありました。

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さて、それでは池田の渡しへ向かいます。

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行興寺門前から門前市通りを西へ向かった突き当りが、池田の渡し跡になります。
水量などによって使い分けていた上・中・下3ヶ所の渡し場のうち、こちらは上の渡し跡。
(中の渡しは天白神社付近、下の渡しは「天龍川渡船場跡」の碑が建っている辺りにありました)

写真左手は池田の渡し歴史風景館。
渡し場の様子を伝える簡単な展示がありました。

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「池田橋の跡」碑。
明治に入ってから、ここには橋が架けられていたそうです。

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池田の渡し(上の渡し)から眺める天竜川。
織田信長も徳川家康が架けさせた舟橋で、ここを渡っていったのですね。

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私は新天竜川橋で渡河。
遠くに見える赤い橋の少し手前辺りが、先ほどまでいた上の渡しになります。

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天竜川を越えた後は、信長一行と同じように旧東海道を浜松宿まで歩きました。
※このルートは以前にも歩きましたので、詳細は省きます。

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松林禅寺の薬師堂。
徳川家光が命じて建立させたと伝わります。
2度の火災にも焼失を免れたのだそうです。

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本坂通(姫街道)安間起点。
東海道と姫街道の追分です。付近には江戸から64里目の安間一里塚もありました。

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遠くにアクトシティー浜松が見えてきました。
終盤は国道152号線沿いを歩くことになり、退屈な区間が疲労に追い打ちをかけました・・・(;^_^A

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そしてようやくのゴール地点、馬込橋手前、浜松宿東木戸門跡に到着。
午前11時に磐田駅を出発してから、およそ4時間の行程でした。

なお、早朝に掛川を出発した織田信長一行も天竜川を越え、その日は浜松に宿泊しています。
私も浜松に宿を取り、翌日は袋井から東へ旧東海道を歩くことにします。

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2020年11月11日 (水)

当目の虚空蔵菩薩

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焼津市浜当目の虚空蔵山。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

花沢城の記事織田信長が田中城近くから花沢城を眺めていたことをご紹介しましたが、「信長公記」にはとう目(当目)の虚空蔵についても言及されています。

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虚空蔵菩薩は聖徳太子作とも伝わる日本三大虚空蔵菩薩尊の一つ。
現在は麓の功徳院に安置されているようですが、元々は虚空蔵山々頂の香集寺(現在は無住)に祀られていました。

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虚空蔵山の登り口ともなる、香集寺参道。

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参道から眺める当目砦方向。
武田軍が築き、徳川家康によって攻略されたと伝えられます。

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想像以上に急勾配な参道が20分ほども続き、さすがに息が上がります。

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ようやく最後の階段前まで到着。
この辺りには市の文化財にも指定されていた仁王門が建っていたようですが、老朽化が著しく、倒壊の恐れもあることから2017年頃に撤去されたようです。
今では礎石が、その痕跡を残すのみとなっています。

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ようやく香集寺に到着。
ご本尊はいなくとも、しっかりとお参りさせていただきました。

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市指定文化財の石燈籠。
「寛永二年五月十三日」の刻銘を有する、焼津市内最古の燈籠だそうです。

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香集寺跡の碑。
こちらにも、お寺に関する建物が存在していたのでしょう。

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虚空蔵山からの眺め。
本来であれば富士山も見えるらしいのですが、生い茂る樹木に遮られて叶いませんでした。

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織田信長の甲州征伐凱旋旅を追いかけ始めた時から、ずっと気になっていたとう目の虚空蔵
期せずして訪問の機会を得られて良かったと思います。

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2020年11月10日 (火)

花沢城、花沢の里

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花沢の里観光駐車場からの花沢城(静岡県焼津市)遠景。

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花沢城は駿府の西の守りとして、今川氏によって築城されたものと考えられています。

永禄11年(1568)の暮れから駿河侵攻を開始した武田信玄は、永禄13年(1570)の正月、抵抗を続けていた花沢城へ攻め寄せます。
花沢城を守備する今川家臣・大原肥前守資良(小原鎮実)以下の城兵は懸命に戦いますが、14日間に及ぶ籠城の末に降伏開城しました。
永禄13年の時点で既に主君の今川氏真は駿府を追われ、逃げ込んだ先の掛川城も徳川軍によって包囲されて開城し、小田原の北条氏の元に身を寄せています。
大原らは主君が去った後も城を離れず、駿河を占拠した武田家に抗い続けていたのですね。

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花沢城縄張図
花沢の里観光駐車場から車道伝いに進み、A地点を目指します。
※五の曲輪を示す線に違和感を覚えるので、実際に歩いてみた感触として赤線を加えてみました。

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A地点の遊歩道入口。
ここから一の曲輪(本丸)まで、10分ほどの登山になります。

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途中で見かけた気になる岩。
しかし、城の遺構ではなさそうです。

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城域に近づいてきました。
ここまでの道のりの鬱蒼とした雰囲気とは変わり、下草が刈られてとても見易くなっていました。

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一の曲輪(本丸)

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一の曲輪に建つ城址碑

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一の曲輪からの眺め(南西方向)
辺りには田中城があります。

かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」)

天正10年(1582)4月、甲州征伐からの凱旋の途にある織田信長は同月14日、江尻城を発って田中城へと至る道中、田中城近くからこの花沢城を眺めています。(関連記事
従ってこの眺めは、天正10年4月14日の信長視点の正反対からの光景、ということになりますね。

なお、「信長公記」著者の太田牛一は武田信玄が花沢城攻めに随分と手こずり、然も負けたかのような書き方をしていますが、或いはこれは案内役の徳川家の人間が、武田家に対する信長の感情に忖度してこのような説明をしたため、と考えますがいかがでしょうか。

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三の曲輪

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一の曲輪(手前)とニの曲輪(奥)を隔てる堀切。
花沢城跡で一番の見所でしょう。

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白い土嚢を積んだ箇所は、2~3年前に行われた発掘調査の痕跡のようです。

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ニの曲輪サイドから見下ろす堀切。

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二の曲輪

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五の曲輪

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五の曲輪は緩やかにカーブしつつ、結構先まで細長く続いているようでした。
そのまま曲輪の先を下っていくと・・・

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六の曲輪に出ます。
このままB地点まで下って、花沢城攻めは終了とします。

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折角なので、花沢の里も散策させていただきます。

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花沢の里は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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日本坂峠へと続く古代の官道(古代東海道)と考えられる旧街道が、集落を通り抜けていきます。

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沢の水もとても綺麗でした。

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集落の最北端に位置する法華寺。
武田軍による花沢城攻めの際には法華寺も兵火に遭い、伽藍を焼失しているそうです。
折角なので是非とも参拝したいところでしたが・・・新型コロナウィルス感染症の影響で、残念ながら現在は拝観停止になっていました。

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花沢の里で企画展「寺社からたどる戦国の焼津」のチラシを見かけ、武田軍による花沢城攻めの様子を描いた陣形図も展示されていることを知ったので、歴史民俗資料館にもお邪魔させていただきました。
今川氏や武田氏関連の文書類などの他、小川城の発掘調査記録や出土遺物展示が目を引きました。
珍しそうなところでは、文明の内訌の際に本中根(焼津市)に陣を張った太田道灌の愛馬の轡と伝わる品(個人蔵)なども展示されています。
また、学芸員の方には焼津市内の遺跡分布状況と、諸河川の流域や地形の変遷との関係性、古代の街道などについても教えていただきました。

この後は浜当目の虚空蔵山へ向かいます。

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2020年11月 2日 (月)

神奈川県で「毛利」めぐり

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神奈川県厚木市下古沢に祀られる三島神社。
その境内の一隅に・・・

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毛利氏発祥の地
毛利季光屋敷跡
の石碑が建てられています。

毛利季光は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人で初代政所別当を務めた大江広元の四男。
父から相模国毛利庄を相続し、「毛利」姓を名乗りました。
承久の乱(承久3/1221年)では父と共に幕府方として活躍し、その功によって後に毛利氏の本拠となる安芸国吉田荘を与えられています。
しかし宝治元年(1247)、執権北条氏と三浦氏の対立(宝治合戦)が起きると、娘を執権・時頼に嫁がせていた季光は北条方に参じようとしますが、三浦氏の出であった妻の「三浦氏を見捨て、勢いのある北条氏の味方をすることは武士の義に反する」との一言で三浦方に転じ、敗れて息子らと共に自害して果てたと伝えられています。

季光の四男・経光は所領の一つ、越後国佐橋荘に赴いていたために乱には巻き込まれず、その子・時親が後に安芸国吉田荘に移り住みました。
これが、戦国期に西国の雄として名を馳せることになる毛利元就へと続く、安芸毛利氏の始まりとなったのです。

碑文によると土地の伝承や古地図・古い地名などから、三島神社を中心とした一画に季光の屋敷があったと考えられているため、ここに碑が建てられたようです。
実際、下古沢の南方には「毛利台」「南毛利」といった地名が今も残されています。

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お次は少し北へ移動し、峠を一つ越えた飯山に建つ光福寺へ。

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光福寺開基の隆寛律師は浄土宗の開祖・法然に師事した僧侶で、嘉禄3年(1227)の嘉禄の法難により、京から陸奥国(会津)へと流されることになります。その護送を務めたのが毛利季光でした。
隆寛に帰依した季光は隆寛の身を慮り、自らの所領である相模国飯山で匿うことにします。会津へは代わりに、隆寛の弟子の実成房が赴きました。
師と仰ぐ隆寛を迎え、その隆寛が開基した光福寺が飯山にあることから、季光の屋敷も飯山の、この光福寺近くにあったのではないかとする説もあるようです。
この付近一帯は当時から、飯山観音として名高い長谷寺の門前町としても栄えていたようです。

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光福寺に眠る隆寛律師の墓所。

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「毛利元就の祖ゆかりの寺」を謳った看板。
折角なので門前を抜けるこの道を西へ向かい、飯山観音にもお参りしていくことにします。

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飯山観音、飯上山長谷寺に到着。

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長谷寺は神亀2年(725)の行基による開創とも、弘仁年間(810~824)の空海による開創とも伝えられる、大変に歴史ある真言宗寺院です。

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嘉吉二年(1442)の年紀を有する銅鐘。県の重要文化財に指定されています。
刻銘には「毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春に火災により焼失したため、堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い願いを受け、麓の金剛寺の住僧だった誾勝が寄付を募って同年四月五日に完成した」といった内容が記されているそうです。
・・・やはり、飯山も間違いなく「毛利庄」だったのですね。

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飯山観音から毛利庄を眺め渡す。

この地に起こった一族がやがて安芸国へと移り、300年の後に西国の雄として名を馳せ、織田信長とも対峙していく・・・。
改めて歴史の繋がりの不思議さ、奥深さを感じた一日でした。

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2020年10月30日 (金)

麻場城

前記事でご紹介した甘楽町小幡について事前に調べていた際、同じ甘楽町の白倉に遺構の良さ気な城跡を見つけたので、出かけたついでにちょっと立ち寄ってみました。

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城跡東側の駐車場から。
私の愛車と比較して、土塁の高さがよく伝わるかと思います。

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麻場城図
お城の歴史についても、こちらの案内板をご参照ください。この城も小田原征伐時に攻められていたのですね。

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城域北面。
なかなかの高低差です。

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笹曲輪から、本丸(東側)方向。
見事な横堀ですが、土塁の傾斜が途中で不自然に変わっているのが気になります。

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本丸との間には木橋が架けられていました。

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本丸北西端方向。

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本丸側に渡り、笹曲輪を振り返った様子。

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本丸。
奥に二の丸が見えています。

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二の丸との間に架かる土橋。

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土橋から二の丸方向。
行く手を土塁が遮り、二の丸への虎口は少し右へずらしてあるようです。

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虎口側から土橋を見るとこんな感じ。
桝形の原型というか、同じ意図を持った構造とは思いますが、何故二の丸側だけにあるのでしょうか?…むしろ、本丸側にこそあってよさそうな気もします・・・。
それとも、土塁と土橋との間にある通路状のスペースが、実は馬出のような役割を担っていた・・・??
いずれにせよ、不思議な構造でした。

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二の丸から虎口部分。

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二の丸から本丸の西面。
やはり、斜面の途中から急に落ち込んでいますね。
本来の残存遺構はもっとなだらかで浅くなっていたものを、調査に基づいて往時の深さまで掘り下げたということでしょうか。

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麻場城想像図
城址公園としてよく整備されていて遺構の状態も良く、見応えのある城跡でした。

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2020年10月29日 (木)

群馬県で「織田」めぐり

今回は群馬県甘楽町までドライブ。
織田信長の次男・信雄にもゆかりのある、上野国甘楽郡小幡の地をめぐります。

大坂の陣が終結した元和元年(1615)、信雄は徳川家康より大和国宇陀郡に3万石、上野国甘楽郡に2万石を与えられます。
元和3年に上野国甘楽郡の方を四男の信良に分知し、小幡藩を立藩させました。
以来、明和4年(1767)に出羽国高畠藩(後、陣屋の移転に伴い天童藩)へ移封となるまでの約150年間、小幡は織田氏による統治が続きます。

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小幡八幡宮
小幡陣屋の鬼門封じとして、正保2年(1645)に勧請されました。

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拝殿には龍の天井画が描かれているそうです。
参道には、「織田家の守護神」との幟も見受けられました。

まだ楽山園の開園時間まで少しあったので、八幡宮周辺を散策します。

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養蚕農家群の町並み(明治中期頃)と雄川堰。
近くの富岡市には明治5年に富岡製糸場が建設されたように、小幡でも養蚕が盛んに行われていたようです。
雄川堰は一級河川の雄川から取水している用水路で、最初に開削された年代は不明ながら、小幡に陣屋を築く際に城下の地割と共に用水割も計画され、現在見られる姿に改修されたものと考えられています。

では陣屋の方へ。

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小幡陣屋見取図
小幡陣屋は寛永6年(1629年)、織田信昌によって築かれました。

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陣屋の大手門から藩邸までを繋いでいた中小路。
陣屋の中心的な路との意味から「中小路」と呼ばれましたが、道幅などは「小路」という規模ではありません。
写真の左手前は武家屋敷「高橋家」、勘定奉行の役宅だったそうです。
小幡陣屋は藩主屋敷(藩邸)にとどまらず、こうした家臣屋敷なども取り込み、広大な面積(34ヘクタール)を誇りました。

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松平家大奥
織田氏の後に小幡へ入った松平(奥平)氏の藩主夫人や、仕える女中らが住んでいたと伝わります。
幕末、ペリー来航の折には江戸城大奥の女中ら15~16人ほどを、親藩である小幡藩のこの大奥に避難させたとも云われています。

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松平家大奥の庭園。
江戸後期の作だそうです。

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喰い違い郭(山田家)の石垣…中小路の曲がり角に位置します。
「喰い違い郭」と名づけられた家臣屋敷か何かの虎口、という理解でよかったでしょうか?

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小幡藩邸の中門

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中門前の道路が緩やかにカーブし、それに合わせて石垣もカーブしていましたが、前出の陣屋見取図にも中門前の通りがカーブして描かれていますので、往時もこのような形状をしていたのかもしれません。

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小幡藩邸図

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中門を潜ると石垣で小さな桝形が築かれており、その先にも行く手を遮るように土塁が立ち塞がります。

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土塁の手前には空堀も。

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土塁を抜けて内郭に入り、中門方向を振り返った様子。

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藩主の屋敷などが建ち並んでいた内郭。
地面には屋敷などの配置が展示されていました。

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藩邸の庭園「楽山園」、国の名勝にも指定されています。
昆明池越しに、左から腰掛茶屋・梅の茶屋。

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熊井戸
小幡藩邸(楽山園を含む)は、小幡氏の重臣だった熊井戸氏の屋敷跡地を利用して築かれたと「上野国誌」に書かれているらしいのですが・・・その熊井戸氏と、この「熊井戸」は何か関係しているのでしょうか?

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泉水

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楽山園の面積は、藩邸全体の半分以上にも及ぶ広大なものです。
二万石クラスの大名屋敷としては、確かに少々贅が過ぎるような気もします…(;・∀・)
これも「織田」の自負がなせる業、なのかなぁ・・・?

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腰掛茶屋前から、藩邸全体を俯瞰。

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外廓の拾九間長屋前から内郭の土塁。
手前の石垣と土塁の間は空堀になっています。

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拾九間長屋
藩邸のジオラマや、信雄の書状(小牧長久手戦に関連)などが展示されていました。

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藩邸を辞し、次の目的地へと向かう途中で見かけた分水路。

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小幡藩(松平家)の中老を務めた松浦氏屋敷。
こちらも綺麗に整備されています。

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主屋から、熊倉山を借景にした眺め。

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庭園の池には、かつては滝も流れていたそうです。

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お次は車で少し移動して、崇福寺の織田氏七代の墓所にお参り。
右手前から信雄・信良・信昌・信久・信就・信右・信富の墓石が並びます。

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さすがに信雄のお墓だけ、一回り墓石が大きいようでした。

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崇福寺本堂
奥は織田氏位牌堂。2度の火災を免れた、織田氏歴代藩主の位牌が安置されています。

元々、小幡織田氏の菩提寺は宝積寺に定められていましたが、4代・信久が廃寺となっていた崇福寺を再興して菩提寺とし、先の3代の墓石も宝積寺から移したのだそうです。

本当に久しぶりの遠出でしたが、天候にも恵まれて良き散策となりました。

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