2019年10月23日 (水)

志苔館 ― 箱館戦争めぐり⑨ ―

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旅の2日目は、函館朝市での贅沢な朝食に始まり・・・

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函館空港すぐ南の志苔館へ。
道南十二館の一つで、続日本百名城にも選定されています。

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コシャマインの戦いで亡くなった志苔館主和人御霊、及び阿伊努(アイヌ)御霊を祀る慰霊碑。

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志苔館図

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西側の二重堀越しに虎口。

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それにしても見事な二重堀です。

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二重堀の海側を見ると、直下に小さな港も。
周辺の海域にはごく浅い岩礁帯が広がっており、この港の辺りだけが船をつける水深を確保できているようでした。
この地に館が築かれた一因になっているのかもしれません。

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郭内から二重堀。
発掘調査の結果、二重堀の外側にも柵と門が築かれていたことが判明しています。

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広い郭内からは、複数の時代に跨る建物跡が見つかっています。
そのうち、初期のものと推定される建物遺構が展示されていました。
また、郭の周囲をグルッと土塁が廻っていますが、虎口のすぐ脇など、いくつか不自然な切れ目もあります。

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箱館戦争時、志苔館は旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の台場としても利用されたと考えられています。

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こうした土塁の切れ目は、旧幕府軍の手により砲座として改変された痕跡ではないでしょうか。

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最後にもう一度、綺麗な二重堀を目に焼き付けて志苔館に別れを告げます。

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この後は近くにあったトラピスチヌ修道院にも立ち寄り、次の行程へと移ります。

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2019年10月22日 (火)

丁サ、叶同館、他 ― 箱館戦争めぐり⑧ ―

史上最大級とも言われ、日本各地に甚大な被害をもたらした2019年の台風19号。
亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げますと共に、被害に遭われた方々へは1日も早い復旧を願いつつ、お見舞い申し上げます。

さて、その台風19号が迫りつつある10月11日からの3泊4日、北海道は函館へ5年越しの箱館戦争めぐりの旅へ出かけてきました。
2019年は、箱館戦争終結からちょうど150年の節目の年。「何がなんでも今年のうちに」との思いから、旅の実現に漕ぎ着けました。
※5年前の記事はコチラ(①~⑦まであります)。私の中で今回の旅は「5年前の続き」という位置づけでもあったので、記事のタイトルも⑧からスタートすることにしました)

初日は単独での自由行動。
のんびりと昼過ぎのフライトで函館へ向かい、まずは空港バスでホテル近くまで移動してチェックイン。週初めからかつて経験ないほどの腰痛に悩まされており、荷物を置いて身軽になってから市電で再出発。

まずは、明治元年(1868)12月に行われた入札によって旧幕府脱走軍(以下 旧幕府軍)の陸軍奉行並、裁判局頭取、及び箱館市中取締に就いた土方歳三が、箱館での宿所にしていたと云う丁サ跡地へ。
丁サとは箱館大町の商家、佐野専左衛門方(万屋)のことで、その紋が「丁」の字の中に「サ」としていたため「丁サ」と呼ばれました。

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丁サ跡の具体的な位置については諸説あるようですが、明治初期に作成された古地図によれば、市電も走る現在の道が大幅に付け替えられたものでない限り、この高田屋本店跡碑から通りを挟んだ向かい辺りではないかと思われます。

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土方が最後の日々を過ごしたであろう、丁サ跡。
新選組が屯所としていた称名寺(当時は弥生小学校付近)も近くにありました。

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お次は人気の観光スポット、八幡坂を少し上がって・・・

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会所町(現末広町)にあった写真師・田本研造の写真館跡。
田本は榎本武揚やJ.ブリュネ(元フランス軍事顧問団副団長。幕府瓦解後、箱館で旧幕府軍に加わる)ら旧幕府軍幹部の写真を撮影したことでも知られますが、彼がこの地に写真館を開業したのは箱館戦争が終結する明治2年(1869)のこと。
榎本らの雄姿を捉えた有名な写真が撮影されたのはここではなく・・・

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叶同館跡に建つ東本願寺函館別院。
写真向かって左の石碑に「史蹟 叶同館之阯」とあります。
旧幕府軍幹部らの依頼を受けた田本研造は、この地にあった叶同館の近くに露天の写場を開き、彼らを撮影したと云われています。

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東本願寺函館別院がこの地に移ってきたのは明治12年(1879)のことで、明治40年(1907)の大火で一度焼失し、大正4年(1915)に日本初の鉄筋コンクリート寺院として本堂を再建、現在に至ります。

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現在は境内になっている一画のどこか片隅で、こうして撮影していたのかもしれませんね。

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この後は、同行メンバーとの集合場所である函館山ロープウェイ山麓駅に向かいつつ・・・南部藩陣屋跡。
幕府の命で蝦夷地防衛の任にあたった南部藩が築いた陣屋跡です。
すぐ横の坂道は、南部藩の陣屋があったことから「南部坂」。

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合流後は函館観光のド定番、函館山からの夜景を堪能し・・・

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夜は、翌日からの旅の成功を祈念して乾杯☆
やっぱり函館に来たら、活イカは外せないですよね♪

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2019年10月 4日 (金)

恵解山古墳

旅のラストは大阪をあとにし、京都方面へ。

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京都府大山崎町、境野一号墳に建つ明智光秀本陣跡の碑。

天正10年(1582)6月13日の山崎合戦で、中国からの大返しで迫る羽柴秀吉の軍勢を迎え撃つ明智光秀は、「御坊塚」に本陣を置いたと「太閤記」などの諸史料に記されています。
鉄砲の玉が出土していることもあり、この境野一号墳が明智光秀の本陣である「御坊塚」に比定されてきましたが・・・

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近年では境野一号墳の北東、より勝竜寺城に近い場所に位置する恵解山古墳の方を光秀本陣跡とする説が有力になっているようです。
恵解山古墳からも鉄砲玉が出土していることに加え、兵の駐屯のために墳丘上を平らにならしたような痕跡が認められ、堀の形状も陣城用の改変と思われることなどが理由として挙げられています。
秀吉のいた中国地方と京を結ぶ西国街道も、山崎から恵解山のすぐ足元(南西側から北へ抜ける)を通っていました。

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恵解山古墳から、山崎古戦場方向。
右に山崎、左奥には石清水八幡宮の男山も見えています。その間には淀川も流れ、まさに京への玄関口ともいうべき狭隘な地。
天正10年6月13日、この地に立っていた(かもしれない)光秀の眼前には、果たしてどのような光景が広がっていたのでしょうか。

これにて今回の、大坂の陣を中心とした弾丸史跡めぐりの旅も終了。
次は何処の地、いずれの時代(の史跡)から、お届けすることになりますでしょうか。

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2019年10月 3日 (木)

妙法寺の松

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谷町9丁目の妙法寺
今は失われていますが、妙法寺には「妙法寺の松」と呼ばれる名高い松の木があり、江戸時代後期には庶民から「松の寺」とも呼ばれて親しまれていたそうです。

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有名な「妙法寺の松」ではないけれど、境内に植えられていた松をパシャリ。

警護のため、将軍家茂に随行して上方に滞在していた伊庭八郎は元治元年(1864)5月26日、早朝に妙法寺を訪れて「大松」を見物した、と日記に書き残しています(征西日記)。

朝涼や人より先へ渡りふね
その時に彼が詠んだ一句なのですが、どんな意味が込められているのでしょうか。
まだ涼しい早朝に出かけたおかげで人より先にいいものを見ることができた・・・案外こんな単純な感慨を句に詠んだのかもしれませんね。

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また、真田丸跡をめぐって訪れた心眼寺は、桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎らの埋葬地。
彼ら3名は京都見廻組に属した幕臣で、同じく見廻組に属していた今井信郎の供述の中で、坂本龍馬、中岡慎太郎を襲撃・暗殺した近江屋事件の実行部隊に名を連ねています。
特に桂は小太刀の名手で、実際に龍馬を切ったとも伝えられる小太刀が霊山歴史館に展示されています。
いずれも慶応4年(1868)1月4~5日にかけて、薩長を中心とする新政府軍との戦闘(いわゆる鳥羽伏見の戦い)で戦死し、当寺に葬られました。
残念ながらいつの頃か、高橋の墓石は失われて残っていないそうです。

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2019年10月 2日 (水)

鴫野・今福の戦い関連地、他(大坂冬の陣)

ひとしきり茨木~高槻をめぐった後は、大阪市の中心街へ。

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まずは本町橋。
慶長19年(1614)12月、大坂城を包囲する徳川方の蜂須賀至鎮隊へ夜襲をかけて、
「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也」
と記した木札をばら撒き、夜討ちの大将として名を馳せた塙団右衛門・・・大坂冬の陣に於ける逸話の一つ、「本町橋の夜討ち」の舞台です。

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大阪歴史博物館から、難波宮跡を俯瞰する。

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そして大阪城も。
天気が良くて明るかった分、窓ガラスへの写り込みがきつくて大変でした・・・(;^_^A

この後は、私の要望で谷町9丁目の妙法寺を訪れたのですが、それは別の記事に回して・・・

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真田丸跡へ。

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真田丸については、もはや説明不要ですね。
大坂冬の陣で、真田信繁の名を天下に知らしめた舞台です。

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A地点から→方向を見た堀跡。

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B地点には古絵図同様、今もお寺が建ち並びます。

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その一つ、心眼寺。

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信繁の400回忌に建立された墓碑。

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続いて、鴫野の八剱神社。
鴫野は慶長19年(1614)11月26日に起きた、大阪冬の陣に於ける鴫野・今福の戦いの舞台にもなっています。

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鴫野には、徳川方の上杉景勝隊5,000が布陣しました。
写真は、八剱神社の境内に建てられた上杉景勝 本陣之地碑。

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豊臣家滅亡後、大坂城は徳川家の手によって造り変えられます。
その際、大和川や平野川などの川が交錯する鴫野は、石垣用石材の集積場になったそうです。
八剱神社の石垣は、この時に残された石材を転用して築かれたとも考えられています。

鴫野に進出した上杉隊に対し、大坂城側は大野治長らを当たらせますが、景勝の軍勢はこれを撃破しました。
上杉隊の奮闘ぶりに家康は「朝早くから戦って兵も疲れているだろうから、鴫野の守備は他の隊に任せて一旦退け」と命じました。
ところが景勝は「自ら勝ち取った地を他人に任せられるものか」と言って使者を追い返したと云います。

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一方、鴫野から旧大和川を挟んで北に位置する今福に向かったのは、佐竹義宣隊。
当時、今福・蒲生一帯は水田や湿地で占められており(付近からは古代の丸木舟も出土している)、戦闘は堤や街道沿いで行われたと考えられています。
この碑が建つ地も、旧鯰江川の北岸にあった今福堤の上に位置しているようです。

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今福堤の痕跡と思われる高低差。
先程の碑の場所から今福堤跡(推定)を4~500mほど西へ向かった地点です。
眼前を横切る道路が堤跡で、手前と奥の地形が下がっているのがわかります。
この堤跡(の道)を、写真左へ進むと・・・

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佐竹義宣の本陣跡と伝わる若宮八幡大神宮に行き当ります。
つまり、佐竹義宣の本陣も堤の上に布かれていたということになります。

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今福に布陣した佐竹隊はおよそ1,500。
大坂城から進出してきた木村重成、後藤又兵衛らとの戦いとなり、佐竹隊は重臣の渋江政光を喪うなど苦戦を強いられました。
戦況不利に陥った義宣は、鴫野の景勝に対して援軍を要請し、駆けつけた上杉隊のお陰で何とか窮地を脱することができたと云います。

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2019年10月 1日 (火)

茨木~高槻の史跡めぐり

大阪史跡めぐりの旅、2日目は朝7時に宿を出発して・・・

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茨木城の本丸跡近くに建つ、茨木小学校に復元された櫓門から。
奈良県大和郡山市小泉の慈光院に移設された茨木城の城門を参考に、原寸大で復元されました。

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こちらは、茨木神社に移築された茨木城の搦手門

九月廿八日、御帰洛。其の日、初めて茨木へ御立寄り。
(信長公記 巻十二「北畠中将殿御折檻状の事」より)

天正6年(1578)に叛旗を翻した有岡城の荒木村重を攻める織田信長は、自身も何度か有岡城攻めの拠点となる池田城まで出向いていますが、天正7年9月28日には池田から京への帰路、茨木城にも立ち寄ったようです。

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続いては、高槻市富田町の普門寺
明徳元年(1390)に創建され、永禄9年(1566)には三好氏に擁立された足利義栄が、当寺で室町幕府第14代将軍の宣下を受けています。
境内を囲むようにして土塁も残っているようで、普門寺城とも呼ばれました。
今回は訪れた時間が早過ぎたので拝観は諦めました…いずれまた。

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高槻市郡家新町の今城塚古墳

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史跡公園として綺麗に整備されているので、この時期でも前方後円墳の形状がよく確認できます。

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後円部頂上より。
今城塚古墳は、永禄11年(1568)に上洛した織田信長が、畿内平定戦の過程で陣城として利用したこともあると云われているようですが、不勉強なため詳細はわかりません。

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茨木市との市境を越えて、総持寺へ。
西国三十三所の第二十二番札所でもあります。

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開山堂は、大阪府下では数少ないという懸け造。
阪神淡路大震災で被災し、平成18年に再建されました。

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山門越しに本堂。

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本堂

十一月十五日、信長公、あまより郡山へ御参陣なり。
十一月十八日、信長公、惣持寺へ御出で。
寅十一月廿三日、惣持寺へ重ねて御成り。
寅十一月廿七日、郡山より古池田に至りて御陣を移さる。
(信長公記 巻十一「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」より抜粋)

荒木村重の謀反に連座する形で敵方となった高山父子の高槻城、及び中川清秀の茨木城の攻略を目指す織田信長は天正6年(1578)11月、まずはあま(安満山)に陣を据え、高山右近が恭順して高槻城を開城すると、今度は茨木城の中川清秀に圧力をかけるかの如く、15日に郡山城へ移りました。
郡山在陣中の18、23日と度々、この総持寺にも足を運んでいます。

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総持寺は、攻囲する茨木城から至近の距離。
信長公記には、信長が数々の戦場で度々、「懸けまはし御覧じ」ている姿が記録されています。この時の総持寺行きも自らの目で敵情を確認し、攻囲戦の陣頭指揮を執るためのものだったのでしょう。

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境内では室町期と推定される瓦窯跡(写真)や、江戸期の台所竈跡も保存展示されていました。

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梵鐘
永享6年(1434)の鋳造で、豊臣秀頼の命で総持寺再建の奉行となった片桐且元が、自らの陣中鐘として用いていたものを寄進したと伝わります。

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信長が茨木城攻めの本陣とした郡山城跡
彼が郡山に着陣した翌16日には、高槻城を明け渡した高山右近も御礼のため、郡山の信長の元へ伺候しています。

11月下旬には茨木城の中川清秀も帰順したため、信長は郡山を出て池田まで陣を移し、村重の有岡城へと迫りました。

有岡攻めの関連地はいずれまた、日を改めてじっくりとめぐりたいと思います。ここ数年来の宿願でもあるので・・・。
この後は少し、西国街道を走りました。

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郡山城下を通る西国街道
写真は郡山本陣前より。

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西国街道(写真横方向)と亀岡街道(同縦方向)が交差する地点。古い道標も建っています。

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この辺りは中河原という地で、中川清秀生誕の地とも考えられています。

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白井河原合戦跡の碑

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摂津三守護の一人だった和田惟政は元亀2年(1571)8月、西国街道が茨木川を越える白井河原一帯(写真)で、荒木村重・中川清秀らとの合戦に臨み、敗れて討死を遂げています。
これ以降、摂津では三守護に代わって荒木や中川、そして惟政の死後まもなくして、その子・惟長から高槻城を奪った高山氏(友照・右近父子)らが台頭していくことになりました。

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2019年9月30日 (月)

道明寺・誉田の戦い関連地

慶長20年(1615)5月、大和口から迫る徳川勢(本多・水野・松平・伊達、etc...)に対し、豊臣方は後藤又兵衛を先陣に真田信繁毛利勝永らの軍勢を派遣します。
5月6日、道明寺村に着陣した後藤又兵衛は、敵の軍勢が既に国分村まで迫っていることを知り、遅れていた後続部隊を待たずに石川を渡って国分村眼前の小松山に布陣しました。

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こちらの階段で小松山を直登?します。。。

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小松山の山頂には前方後円墳も。(玉手山一号墳)

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小松山古戦場跡の碑

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南都奉行奥田三郎右衛門忠次戦死之墓地
奥田忠次は水野勝成隊(徳川方)の一手として道明寺の合戦に参戦し、戦死しました。

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小松山から東、徳川方の諸隊が展開していた国分村方面を望む。このすぐ麓が国分村(柏原市国分本町)になります。
丘陵の合間を大和川が流れる狭隘な地で、迎え撃つ豊臣方の戦略意図は充分に読み取れる地勢でした。

後藤隊は奮戦し、小松山を包囲する徳川方の大軍を何度も押し戻しましたが衆寡敵せず、又兵衛も壮絶な最期を迎えました。
又兵衛が戦死して後藤隊が敗走した後、戦いの舞台は石川西岸の道明寺村・誉田村へと移ります。両村には、遅れていた真田や毛利らの諸隊が布陣しました。

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道明寺
菅原道真の先祖・土師氏の氏寺(土師寺)として建立され、後に道真の号にちなんで道明寺と改められました。

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道明寺天満宮
こちらもやはり、元は土師神社と称していました。

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誉田林古戦場址(誉田八幡宮境内)
誉田八幡宮の付近は、南北朝期より数々の戦いの舞台ともなりました。
大坂夏の陣では、豊臣方の薄田兼相も誉田八幡宮に陣を張り、道明寺で戦死を遂げています。

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誉田八幡宮拝殿
豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任じて再建させましたが、完成前に大坂の陣が勃発したため、未完のまましばらく放置されました。
その後、徳川家光の代になって工事が再開され、寛永初期に竣工しています。

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誉田八幡宮本殿と応神天皇陵(写真奥)の間を流れる放生川に架かる放生橋。
物凄い反りで、殆ど壁のようです。

道明寺・誉田でも豊臣方は善戦したようですが、八尾・若江口の敗報(参考記事)に接し、撤退を決めました。
この時のことですね、真田信繁のあの有名な台詞が吐かれたと云うのは。
関東勢百万と候へ、男は一人もなく候。

さて、この日はこれで打ち止めとし、この後は宿を取る茨木駅前へ移動。
夜は大阪の城仲間も合流し、城と歴史を肴に楽しく飲みました。

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2019年9月29日 (日)

八尾・若江の戦い関連地

今回の旅の行程は、同行者任せの完全ミステリーツアー。
新大阪駅で合流し、まず最初に連行…もとい連れて行かれた(同じかw)先は・・・

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若江城跡でした。
5年前、織田信長の天王寺合戦めぐりで訪れて以来の再訪となりました。
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どうやら今回は、大坂の陣の関連地を中心にめぐるようです。

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若江城跡碑から南へ100mほど、蓮城寺に建つ木村重成の霊牌所
大坂夏の陣、八尾・若江の戦い(慶長20年5月6日)で若江口に出撃し、徳川方の藤堂や井伊らの軍勢と戦って討死を遂げた木村重成を祀っています。
霊牌所の中には重成の肖像画や位牌、日蓮宗を庇護した加藤清正の小さな木像が安置されていました。

この付近には「若江木村通」という交差点もあります。

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少し場所を移して、八尾市幸町の木村重成墓所
宝暦14年(1764)、重成の首を挙げた井伊隊・安藤長三郎の子孫で彦根藩士(井伊家)だった安藤次輝が、重成の150回忌にあたって建立しました。
すぐ北を流れる第二寝屋川の開削工事により、昭和になって50mほど移動しているようです。

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墓所は公園の中に位置しているのですが、その公園には;
此附近木村重成奮戦地
の碑も建てられています。

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続いて八尾口の古戦場方面にも足を運びました。
写真は、八尾神社境内に建つ矢尾城址碑。

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八尾神社の西にある常光寺の門柱?に刻まれた、大坂夏の陣古戦場の文字。

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常光寺には多田満仲の子孫で、楠木正成の家臣として活躍した八尾城主・八尾別当顕幸のお墓もありました。

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長宗我部物見の松跡
八尾口へ出撃した豊臣方の長宗我部盛親は久宝寺一帯に布陣し、この地に生えていた松の木に兵を上げて藤堂隊の動静を探ったのだそうです。

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久宝寺城跡
天正5年(1577)、久宝寺城は本願寺の攻撃を受けて陥落しているそうです。
時の城主・安井定重が織田信長に与していたためとか。

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久宝寺城のものと思われる土塁を写した古い写真。

八尾・若江での戦いは、徳川方の先鋒・藤堂隊の武将を多く討ち取るなど、豊臣方も特に八尾口では善戦したようですが、繰り出される新手(井伊隊など)に若江口が徐々に押し込まれ、木村重成の戦死によって木村隊も壊滅し、若江口は破られました。
若江口の崩壊を受けて八尾口の長宗我部盛親も孤立を恐れ、大坂城へと撤退します。

この後は道明寺方面へ向かいます。

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2019年9月20日 (金)

「松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~」展

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駒澤大学の耕雲館(昭和3年築)

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耕雲館に入っている禅文化歴史博物館で、令和元年11月13日まで開催されている企画展松平家忠とその時代 ~『家忠日記』と本光寺~に足を運んでみました。

松平家忠は深溝松平家の4代目。
天文24年(1555)に生を受け、徳川家康の家臣として活躍しています。慶長5年(1600)、関ケ原合戦の前哨戦となる伏見城籠城戦で討死を遂げました。(享年46)
彼が残した「家忠日記」(駒澤大学図書館蔵)は同時代の歴史・情報を得られるだけでなく、戦国武将の日常を知る上でも貴重な史料となっています。

また、本光寺(愛知県幸田町/長崎県島原市)は深溝松平家の菩提寺。松平家の島原移封に伴い、同地にも創建されました。
所蔵する数多くの貴重な文書類が、今回の企画展にも出品されています。

展示内容は「家忠日記」をはじめ、今川義元・同氏真・織田信長・上杉謙信・北条氏政・石田三成らの書状や感状、安堵状といった文書類が中心の構成で、中には「伝・鎮西八郎為朝鏃の鑓」(愛知県本光寺)や、「権現様御手拭」(長崎県本光寺)といったものまでありました。
展示資料数は40点弱と決して多い訳ではありませんが、その一つ一つの全てが、とても興味深いものばかりといった印象です。

何よりもやはり、三河(深溝~岡崎)にいる家忠の元へ刻々と寄せられる本能寺の変にまつわる風説や家康一行の動向を、リアルタイムに記した「家忠日記」天正10年(1582)6月3~4日の項を直に拝観できたのが嬉しかったです。

入館無料な上に、図録も無料とのこと。
私が訪問した9月19日現在、図録はまだ未完成でしたが、申し込めば後日郵送(送料無料/一人一冊)していただけます。
チャンスのある方は是非、開館日(平日の10:00~16:30/但し平日にも休館日有)に注意して訪れてみてください。

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2019年9月15日 (日)

江戸歴史散歩コーナー

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仕事で市ヶ谷に行く用事があったので、地下鉄市ヶ谷駅構内(南北線側)にある江戸歴史散歩コーナーに立ち寄ってみました。
普段、市ヶ谷から南北線を利用する機会が殆どないので、実は初めて…σ(^_^;

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雉子橋(千代田区九段南)で出土した石材を利用した石垣の再現(写真)や、市ヶ谷~四谷周辺の外濠調査の成果などをまとめた簡単なパネル展示が中心です。

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石垣に残る刻印の紹介も。

お城や歴史に興味をお持ちの方は、近くを通られた際、ちょっと足を止めてご覧になってみてはいかがでしょうか。

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