2019年2月10日 (日)

近藤勇書簡三浦休太郎宛

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東京都日野市の佐藤彦五郎新選組資料館
平成31年2月10日より、大久野(東京都日の出町)の羽生家の蔵から昭和63年頃に発見された;
近藤勇書簡三浦休太郎宛
が特別展示されると聞き、早速訪れてみました。

坂本龍馬の暗殺(近江屋事件)を受け、いろは丸沈没事故の経緯から身の危険を感じた三浦休太郎(紀州藩)は京都守護職の松平容保を通じ、新選組に身辺警護を依頼します。
新選組は三浦の要請に応え、御陵衛士を脱したばかりの斎藤一(山口二郎)らを派遣しますが、この書簡はその二郎を少々必要とする件(少々相用候事件)が出来して、断りなく引き上げたことを詫びる内容となっています。
その日付は(慶応三年)霜月十八日。龍馬暗殺の3日後で、伊東甲子太郎ら御陵衛士の粛清を謀った油小路の変まさに当日です。
※派遣メンバーに斎藤一を加えたのは、御陵衛士から脱した彼を匿ってもらう意図をも含んでいたことが、やはり本書簡から読み取れます(二郎事潜伏之義如之御配慮奉多謝候)。

書簡は虫食いも殆どなく、とてもきれいな状態で保存されていました。
実際には三浦の元へ届くことはなく、どういう訳か新選組とは接点のない羽生家に伝来した書状・・・おそらくは近藤勇から佐藤彦五郎の手に渡り、彦五郎が羽生家に匿われた際(この経緯については、コチラの記事を参照)に当家に置いていったものと考えられています。
(三浦の元へ届けられていないことから、本史料を下書きとする説もあるようですが、下書きにしては校正による直しもなく、文字も丁寧に整然と書き上げられていました。本人は文末で多忙乱筆草々などと述べていますが)

私が訪れた時には他に来館者もなく、しばらくは佐藤福子館長と書簡について;

・近藤から彦五郎の手に渡ったタイミングはいつだったのか
・何故、油小路の変当日の日付になっているのか
来月上旬迄ニ者確報も可有之と述べている確報の内容とは、具体的に何を指していたのか

etc...いろいろと意見交換方々、じっくりとお話しさせていただけました。

この書簡が認められた日から一月も経たない12月7日には、龍馬暗殺を疑った海援隊士らによる三浦休太郎襲撃事件が発生し、三浦の警護に戻っていた斎藤一は手傷を負いながらも、なんとかその撃退に成功しています(天満屋事件)。

本書簡の特別展示に合わせ、通常は毎月第1・3日曜日のみの開館のところを、3月いっぱいまでは毎日曜日(但し3月10日を除く)開館するそうです。
ご興味をお持ちの方は是非、訪れてみてください。

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2019年2月 3日 (日)

さようなら、とうかん森。

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古くから付近に住む土方一族10家余りにによって祀られ、守り継がれてきた稲荷祠ととうかん森

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土方歳三の土方家(屋号「大尽」)はこの10家余りに含まれていませんが、歳三が生まれ、洪水被害によって現在の土方歳三資料館の地に移り住むまでを過ごした家が近くにあったらしいので、きっと幼い歳三少年も遊んだことがあったのではないでしょうか。

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周辺の住宅に危険が及ぶ恐れもあるとして、2011年には大規模な間伐も行われました。
しかしこの度、これ以上の維持は困難との氏子の皆様のご判断により、お稲荷様は2019年2月9日に返納されることに決したそうです。

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とうかん森の最後の姿をそっと、静かに目に焼き付ける。。。
お稲荷様の返納後、僅かに残された稲荷の森の大木も伐採されることでしょう。ゆくゆくは公園化する計画なのだそうです。

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この日は思いの外気温も上がり、ちょっと霞んでしまいましたが、とうかん森の奥には富士山も見えていました。
公園にした暁にはこの大木の木材でベンチでも作って、将来的にもこの地に残してくれないかなぁ・・・というのが、今の密かな願いです。

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大馬出先端の横堀 (滝山城)

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最近、「大馬出先端の横堀が伐採で綺麗に見えるようになった」との情報を受け、久しぶりに滝山城へ行ってきました。
図のでマーキングした部分です。

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二の丸南に位置する大馬出。

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南面の土塁上から見下ろす横堀。

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この横堀はずっと藪が生い茂っていて、一度も踏み込んだことはありませんでした。

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“折れ”もしっかりと確認できます。
今まで見れなかったものが見えるようになるのは嬉しいものですね。

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ついでにもう一つ、千畳敷に向けて突き出す角馬出も。

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こちらも整備により、以前よりも綺麗に見えるようになっています。

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先程の大馬出が本当に馬出かどうかは置いておくとして、こちらは歴とした馬出。
こじんまりとコンパクトな分、構造をよく見て取ることができます。

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ところで、千畳敷といえばとても残念な個所が・・・。
近年、北側の弁天池へ向けた斜面が、大雨によって崩落してしまったのです。

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弁天池から見上げる千畳敷方向(2013年撮影)
斜面に道や小曲輪のような痕跡が残されていたのですが、これらの遺構が一時に失われたのかと思うと無念でなりません。

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また、カゾノ屋敷か刑部屋敷だったかの土塁にも、通行禁止の立て札が。
こちらは、人が歩いて削れてしまった土塁を保護するための措置のようです。

土塁を保護するのなら、他にも・・・

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本丸東虎口のこの部分とか・・・

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二の丸枡形虎口のこの部分とかも、是非お願いしたいところ。

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今回新たに気付いたのが、小宮曲輪の虎口付近。
立派な枡形虎口があるにも関わらず、その先に立ち入り禁止の柵が立ち塞がっているためか、案内板の右横に踏み跡による傷みがクッキリと・・・。
僅か2年前の2017年3月に撮影した写真では確認できなかったので、ごく最近になってつけられてしまったものです。
大切な遺構なので、無闇に土塁に登ってはいけませんね。「城好き」こそ、気を付けないといけないこと・・・私も肝に銘じます。

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最近は、安全の確保や遺構の保護といった観点から以外にも、「園路ではないから」という理由での通行禁止の立て札が増えました。
写真は三の丸の横堀。

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こちらは、本丸南虎口を出た先の西側。

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図の通り、この先にもいい遺構がたくさんあるのですが・・・。

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小宮曲輪の横堀まで通行禁止になっていたのには驚きました。
物凄く見応えのある遺構なのに・・・。

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場所によっては、こうして見学させていただける箇所も。
(以前、コチラの記事でご紹介した小宮曲輪北にある枡形虎口一帯)

地権者のご都合とか、公園利用としての交渉とか、いろいろと致し方のない大人の事情があるのでしょう。
しかし、こうも制約が増えて見れる箇所が限られてくると、地元の人間としては;
滝山城の凄さはこんなもんじゃない!!
という思いが強くなるだけに、逆に胸を張って誇れる城跡ではなくなっていく感覚もジワジワと湧いてきてしまいます。

大好きな城跡なだけに、なんだか寂しい。。。

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2019年2月 2日 (土)

旧東海道歩き…六合~藤枝

旅のラストは六合駅から旧東海道を東へ、藤枝までの一駅間を歩いてみました。

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六合駅から県道381号を東へ進むと、すぐに島田市から藤枝市へ入ります。
この先の「一里山」交差点で、旧街道は右へ逸れていきます。

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目印は、道路脇に残る旧東海道の松並木。

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こうして松並木が残っていてくれると、旧街道を歩いている実感が湧いていいですね。

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逆光で酷い写真になっちゃったけど・・・上青島一里塚跡。

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この先は道幅が狭くなり、車の通りも多いので注意が必要です。

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染飯茶屋址の碑

瀬戸川こさせられ、せ戸の染飯とて、皆道に人の知る所あり。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

この前日に歩いた金谷から掛川までの旧東海道の記事でも触れましたが、織田信長は甲府からの帰路、天正10年(1582)4月15日、未明に藤枝市の田中を出発してこの付近も通過しているのです。

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瀬戸の染飯はこの上青島村瀬戸町(現藤枝市上青島付近)にあった茶屋で、戦国期から売られてきた東海道の名物の一つです。
包装紙の版木は、茶屋の御当主の一子相伝なのだそうです。

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また、この地には千貫堤と呼ばれる大きな堤防が築かれていました。
千貫堤は寛永12年(1635)、大井川の洪水から田中藩領を守るため、千貫もの大金を投じて築かれました。高さ3.6m、幅29m、総延長は約360mもありましたが、現在はそのごく一部を残すのみとなっています。

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近くの千貫堤・瀬戸染飯伝承館では、染飯の染料となるクチナシの実を乾燥させていました。
染飯の版木のレプリカなども展示されています。

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伝承館の北側に、僅かに残る千貫堤の痕跡。
染飯茶屋の御子孫は、現在もこの地にお住まいなのだそうです。

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再び旧東海道へ戻ります。

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東海道追分の碑
中世の頃までこの付近には湿地が多く、東から西へ進む古道は藤枝の先から大きく南へ迂回して、この石碑の建つ辺りへ繋がっていました。
近世東海道が通った後も古道は残り、いつしか2つの道の交錯点を追分と呼ぶようになったそうです。

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また、更に西へ進む中世までの古東海道は「瀬戸の山越え」と呼ばれ、瀬戸山(昭和30年代、東京オリンピックに向けた高速道路建設等の開発のために消滅)の上を通っていました。
道の歴史も辿っていくと、いろいろと奥が深いですね。

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今回はほぼ舗装路の上を歩くだけの旅となりましたが、様々な歴史に触れることができて楽しめました。
こうして少しずつ東海道をめぐり、いずれは京都までを1本に繋げてみたい、などと野望を抱いたりして・・・!?

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2019年2月 1日 (金)

掛川古城

掛川で迎える旅の2日目。
まずはホテルを出てぶらぶらと散策し、近世掛川城の脇を抜けて掛川古城へ向かいました。

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掛川古城の主郭には龍華院大猷院霊屋が建っています。
明暦2年(1656)、掛川藩主・北条氏重が幕府に願い出て、徳川家光を祀るために建立しました。
一説には、嗣子のない氏重による無嗣断絶を回避するための打開策だったともされますが、万治元年(1657)に氏重が没すると領地は没収され、断絶となってしまいます。

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主郭東面に残る土塁。
掛川古城は西暦1500年前後、今川氏親の命を受けた朝比奈泰熈により、遠江支配の拠点として築かれました。
1513年には早くも、現在の掛川城跡の位置に新たに築城して移っていますが、1568年に武田軍に駿府を追われた今川氏真がその掛川城へ逃げ込むと、今度は徳川家康が掛川城を包囲します。
その際、家康はこの掛川古城跡に本陣を置いたとも云われています。

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土塁の先に見えている堀切。

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掛川古城の大堀切。

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掛川古城と、近世掛川城との距離感。

さて、この後は電車で少々移動します。

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2019年1月31日 (木)

天正10年4月15日の織田信長

四月十五日、田中を未明に出でさせられ、…(中略)…真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下り、きく川を御通りありて、のぼれば、さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。是れより、につ坂こさせられ、懸川に御泊り。
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より)

天正10年(1582)4月15日、甲州征伐からの帰路にある織田信長は、未明に田中(藤枝市)を出発し、この日は掛川まで進んでいます。
その旅路を追うため、私も金谷駅から旧東海道を掛川まで歩いてみることにしました。

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まずは金谷坂の石畳で牧之原台地へ上がり、諏訪原城跡の方へ向かいます。
※金谷~諏訪原城跡までのルートは、3年前のコチラの記事で詳しく触れていますので今回は割愛します。

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諏訪原城跡の案内標識が見えてきました。
旧東海道は諏訪原城のすぐ真横を通っています。

真木のゝ城右に見て、
真木のゝ城=牧野城=諏訪原城

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諏訪原城を過ぎ、今度は菊川坂の石畳で台地を下っていきます。

諏訪の原を下り、

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石畳に沿って下っていくと、やがて金谷と日坂の間の宿・菊川の里へ至ります。

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きく川を御通りありて、

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菊川の里の外れで旧東海道は左へ鉤型に折れ、いよいよ小夜(佐夜)の中山峠への急坂に差し掛かります。

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のぼれば、

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半分ほど登って振り返った様子。
結構な急勾配をほぼ直登していきます。

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辺り一面の茶畑・・・とっても静岡な光景。
やや右寄り、遠くに鉄塔のようなものが見えている辺りがピークになります。

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ようやく登りきったところに建つ久延寺
山号は佐夜中山です。ちょっと寄らせていただきました。

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久延寺夜泣石
三位良政と月小夜姫の娘・小石姫の供養塔とのこと。
詳しいことはわかりませんが、小石姫は妊娠していたものの、どういった事情からか、小夜の中山の松の根元で自害したと伝えられているそうです。

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小石姫の父母、三位良政と月小夜姫の供養墓も。

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慶長5年(1600)には会津の上杉征伐へ向かう徳川家康を、時の掛川城主・山内一豊が久延寺に茶亭を設けてもてなしています。
写真の碑には「松平土佐守」とありましたので、天明9年(1789)の正月に山内一豊の子孫にあたる土佐藩主が、この時のことを記念して建碑したものでしょう。
※山内家の藩主は代々「松平」を称していました。

境内には他に、家康のお手植えと伝わる五葉松や、茶亭跡の碑などもあります。

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また、久延寺から50mほど離れた場所には、家康に供する茶に使用した御上井戸も。

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小夜の中山公園
最高点の標高は252m。小夜の中山は古くから箱根や鈴鹿峠と列び、東海道の三大難所として知られてきました。

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さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。

なお、右に見えている円筒状のものは西行の歌碑です。

年たけてまた越ゆべしとおもひきや
命なりけりさやの中山


平安末期の歌人・西行法師の、新古今和歌集にも収録されている一首。
晩年になって、生涯2度目の小夜の中山峠越えをすることになった感慨を謡ったものです。

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さて、ピークに登り切った先はなだらかな尾根道が続きますので、しばらくは景色を楽しみながらのんびりと西へ進みます。

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佐夜鹿一里塚
一つ前(江戸寄り)は、この日のスタート地点である金谷一里塚になりますので、ようやく一里(約4㎞)歩いたことになります。

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佐夜鹿神明社

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尾根上を真っ直ぐに伸びる旧東海道。

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白山神社の前を通過・・・長閑です。

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東海道屈指の難所であった小夜の中山。
東海道を旅した多くの人々が当時の情景を歌や句に残しており、路傍には歌碑や句碑が点在していました。

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涼み松広場

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昔、ここには大きな松が生えていて、松尾芭蕉がその下で、

命なりわずかの笠の下涼み

と詠んだことから、「涼み松」と呼ばれるようになりました。

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小石姫の墓
涼み松広場の向かいにひっそりと佇んでいました。
すると小石姫は、涼み松の根元で亡くなったということになるのでしょうか。

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路傍に建つ夜泣石跡の碑
こちらにあった夜泣石は、久延寺の夜泣石とは別のものになりますが、やはり同じような伝説が残されています。

その昔、とある身重の女性が小夜の中山で山賊に襲われて亡くなります。
この時、女性の傷口から子供が生まれました。すると、女性の霊がそばにあった丸石に乗り移って泣いたため、泣き声に気付いた久延寺の僧が駆けつけて赤ん坊を発見し、保護しました。
赤ん坊は乳の代わりに水飴で育てられて成長し、やがて母の敵を討ったとも云われています。
(赤ん坊を育てた水飴は、現在では「子育飴」として小夜の中山の名物にもなっているようです)

共に妊娠していたとされる点で、小石姫のお話との関連も気になるところですね。

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安藤(歌川)広重の絵碑
絵に描かれている通り、夜泣石は旧東海道の真ん中にありました。
明治天皇行幸の折りに道の脇(つまり現在の碑の位置か)に寄せられ、その後、博覧会に出品された後に現在置かれている小夜の中山北麓の県道沿いへ移されたようです。

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まさしくここが、広重が描いた「東海道五拾三次 日坂 佐夜ノ中山」の絵の場所ということになります。

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沓掛の集落まで来ました。
「沓掛」とは、旅人が峠の急坂に差し掛かった時、草鞋や馬の沓を捧げて安全を祈ったことに由来する地名なのだそうです。

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確かに集落を抜けると、旧東海道は急激な下り坂に差し掛かりました。
このクネクネと曲がりながら下っていく坂は「二の曲り」と呼ばれていました。

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坂の途中に建つ日之坂神社。
「日之坂」という名に、この先の日坂宿との所縁を感じます。

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東海道、江戸から数えて25番目の宿場町・日坂宿が見えてきました。

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こちらのマップでいうと、下の小夜の中山から沓掛や日之坂神社を抜け、国道や県道を越えて日坂宿に入ります。

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日坂宿本陣跡

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是れより、につ坂こさせられ、

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日坂宿高札場

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日坂宿を抜けると、旧東海道は県道415号に合流します。
(写真左が、日坂宿から続く旧東海道)

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県道に合流する地点に建つ事任八幡宮。
遠江國の一之宮だそうです。

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延々と続く県道歩き・・・時折こうして旧道へ逸れることもありますが、すぐにまた合流します。
日坂を過ぎてからの後半は、結構退屈な道のりとなりました。

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伊達方一里塚
この日スタートしてから2里の地点。

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再び県道から少し離れます。

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こういう道なら多少は歩いていて楽しいのですが、やはりここもすぐに県道へ戻されました。
そして驚いたことに大きな道路沿いにもかかわらず、飲食店はおろかコンビニにすらなかなか行き当らず、昼食の確保にも苦労しました。

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葛川一里塚
スタートしてから3里。葛川一里塚を過ぎると、いよいよ掛川の城下町が近づいてきます。

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七曲りに差し掛かりました。
江戸時代、掛川の城下へ入った旧東海道は、防衛上の理由からか幾重にも鉤型に折られていました。

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こちらのマップを参考に、七曲りを辿っていきます。
(見づらいですが、赤いラインが旧東海道)

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道を間違えないように慎重に進みます。

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趣のあるクランクですね。

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そして・・・ついに掛川城に到着!

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懸川に御泊り。

金谷からはおよそ15㎞、寄り道などをしながらのんびりと5時間弱の行程でした。
小夜の中山越えもなかなかのハードさでしたけど、何より日坂から先の長くて退屈な県道歩きが堪えました・・・。
太田牛一も「信長公記」で、田中を出発してから大井川や小夜の中山を越え、日坂に至るまでの道中は詳しく述べているのに、その先の掛川までの道中については一言も触れていません。
或いは当時も、さして取り上げるほどのものがなかったのでしょうか・・・?
それはさておき、400年以上の時を経てもなお牛一を介し、信長と同じ光景を共有していることを実感できる光景の連続に、大満足な歩き旅となりました。

この日は私も、懸川(掛川)に御泊り。(笑)

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2019年1月 4日 (金)

番場浦石丁場

新年、あけましておめでとうございます。
本年も当blog歴旅.こむをどうぞ、よろしくお願いいたします。

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さて、平成最後の年の幕開けは、真鶴半島の番場浦石丁場からです。
写真奥の磯に、古くからの採石跡が数多く残されています。

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ここから切り出された石は、小田原城江戸城の石垣としても用いられています。

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これなどは随分と整った長方形に切り出されたようですが、割と近年のものでしょうか。
ちなみに真鶴の石は、幕末に築かれた品川台場にも用いられていました。
(「番場浦」の名称も幕末、2度目の黒船来航に備えて番所が置かれていたことに由来するそうです)

更に進むと・・・

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石の切り出しにより、海側の岩壁が垂直にそそり立っているポイントもありました。

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釣りをしている人たちの邪魔にならないよう、こっそり・じっくりと見学・・・。

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内陸側にも切り出しの痕跡。

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打ち寄せる波を避けるために海側の岩を一部残し、防波堤代わりとした上で採石作業を進めていたのかな、とも想像しました。

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番場浦石丁場と、真鶴岬の先に浮かぶ三ツ石。

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幸いに風もなくて穏やかな陽気だったので、真鶴岬まで歩いてみることにしました。

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真鶴岬(半島の先端)から望む三ツ石・・・アングル的に“二ツ石”になっちゃった(笑)

番場浦石丁場・・・なかなか見応えのある史跡でしたし、正月早々綺麗な海を眺めることもできて満足です。
いいドライブになりました。

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2018年12月14日 (金)

壺笠山城、他

城友山城踏査会・忘年会明けの2日目(12月9日)は壺笠山城へ。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より)

宇佐山城の記事でも触れましたが、壺笠山城は元亀元年(1570)の志賀の陣に於いて、朝倉・浅井勢が立て籠もった地の一つです。
なお、あほ山は青山で壺笠山のすぐ北峰、はちヶ峰は日吉大社の奥宮が建つ八王子山付近と比定する説もありますが、壺笠山の辺りを通る古くからの白鳥越え(京の一条寺と穴太を結んでいた)のルート上には他にもいくつかの城郭遺構が残り、確かなことはわかりません。

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穴太野添古墳群近くの駐車スペースに車を停め、緩やかな傾斜の続く荒れた林道を西へ約1.5㎞、ダラダラと30分ほど登っていきます。
落石が多いようで、道中の至る所に岩が散乱していました。少々注意を要します。

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趣のある古い橋を渡り・・・

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こちらの分岐点を左手前方向へ進むと・・・

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壺笠山(右)と青山(左)間の林道切通に出ます。
ここを少し進んで壺笠山の北東側へ回り・・・

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目印となるテープが巻かれている箇所から斜面に取り付き、僅かな踏み跡のような山道?を頼りに山頂部を目指します。

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山道分岐点。
何の気なしに歩いていると左へ向かいそうになりますが、左ルートは最終的に斜面直登になってしまうようなので、ここは右に見えている土塁のような高まりを越えた先へ進みます。

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5分ほどで尾根に出ました。
この尾根は白鳥越えのルートとも推定されており、尾根に出て右(西)へ向かった先にも城郭遺構があるらしいのですが、この日は強風注意報も出ていたほどで、山の上では爆風が吹き荒れ、細尾根を渡るのは危険と判断して諦めました。

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反対に、尾根を左(東)へ進むと壺笠山城に至ります。

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いよいよ城域が近付いてきました。
斜面を遮断する竪土塁のようなものが見えます。

壺笠山の山頂には元々前方後円墳が築かれていて、写真手前側が前方部、奥の主郭側が後円部になっていたようです。
竪土塁の先、前方部にはいくつかの削平地が連なっていました。

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主郭を取り巻く腰曲輪の、更に南西下段の斜面にあった石垣。

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僅かではありますが、このような石垣がいくつか散見されました。

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主郭を囲む腰曲輪。

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主郭・・・壺笠山の山頂です。
残念ながら宇佐山城方向はおろか、四方の眺望は全く利きませんでした。

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主郭北東側の虎口。

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北東虎口には、かつては石段だったのでは?と思わせる痕跡も。

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北東虎口を下りた先の腰曲輪。

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その足元の切岸を覗くと、やはり石垣がありましたが・・・どことなく城の遺構には思えないような違和感を覚えました。

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引き続き、腰曲輪下の斜面を反時計回りに西へ回り込み、石垣を捜し歩きました。

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主郭北西虎口下付近にあった石垣。

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主郭北西虎口
こちらは完全に石段の跡ですね。

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壺笠山から青山を見る。
青山にも削平された空間があるようですが、いずれにしても朝倉・浅井合わせて3万とも云う大軍が数ヶ月に渡って駐屯するには、壺笠山も青山もあまりに手狭な感じがします。
太田牛一が信長公記に列挙した三山だけでなく、実際にはもう少し広範に渡って滞陣していたのではないでしょうか。

壺笠山城
・・・確かに朝倉・浅井勢が籠った際に陣城として改修してはいるのでしょうが、各所に残る石垣や虎口の石段までもが陣城に由来するものだったのかとなると、正直なところ釈然とはしません。
そもそも特定の合戦のためだけに築く陣城に、それも元亀元年の段階で石垣を積むものなのか・・・やはり疑問を禁じえません。

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下山後、穴太野添古墳群から望む琵琶湖。

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壺笠山城の後は日吉大社へ。(写真は東本宮)
私にとっては4年ぶりの再訪となりました。

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東本宮に建つ摂社、樹下神社の本殿は文禄4年(1595)の建立。
その床下には全国的にも珍しく・・・

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なんと、霊泉湧き出づる井戸が掘られていました。

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日吉三橋の一つ、走井橋。
他の二橋と同様、豊臣秀吉が天正年間に寄進したものと伝わりますが、元来のものは木橋で、寛文9年(1669)に現在の石橋に架け換えられています。

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志賀の陣の折、朝倉・浅井勢が籠った山の一つとして挙げられているはちヶ峰に比定される八王子山を振り仰ぐ。
奥宮の社殿が小さく見えています。

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お昼に近江ちゃんぽんで冷えた体を温め、今度は近江国一之宮・建部神社に参拝。

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建部神社に安置されていた菊花石・・・どこから見ても本物の菊の花にしか見えませんね。

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頼朝の出世水
源頼朝も伊豆へ流される道中、建部神社にお参りしていたようです。

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瀬田の唐橋

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唐橋近くに建つ龍王宮秀郷社。
竜宮の乙姫と、百足退治の伝説で知られる藤原秀郷(俵藤太)を祀ります。
※百足退治の伝説の真相は、敵の軍勢の列(=たくさんの足が連なる)を百足に擬え、それを瀬田川の要害性を利して撃退した、といったところのようです。

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瀬田城跡碑

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旅の最後は近江国庁跡へ。
付近の住宅街を、旧東海道(写真)が通り抜けています。

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近江国庁(国衙)跡碑

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かなり広範に渡って史跡として整備されているようですが、周辺は道幅も狭い住宅街で、駐車スペースに辿り着けなくて難儀しました。

さて、これにて2018年の遠征も終了です。
今年も多くの仲間に大変お世話になりました。
来年はどのくらい遠征に出られるか・・・いろいろと事情があって現段階では不透明ですが、これからもどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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2018年12月13日 (木)

宇佐山城、聖衆来迎寺、坂本城

12月8日(土)は、年末恒例の城友山城踏査会。2018年の舞台は大津市の宇佐山城跡です。
集合時間直前に発生した人身事故の影響で電車に遅延が生じたものの、午前11時過ぎには大津駅に集合して車3台に分乗、近江神宮から歩き始めました。

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山麓から見上げる宇佐山城跡
白いアンテナ(TV局の中継所)が見えている辺りが主郭になります。

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まずは、宇佐山中腹に建つ宇佐八幡宮の参道を登っていきます。

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宇佐八幡宮の社殿手前辺りから、登城路は本格的な山道に入ります。
これが結構な急勾配で、ハードな登山になりました。

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城山の東側に落とされた大きな竪堀。

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主郭と、その北側に位置する曲輪(以下「北曲輪」)間の鞍部・・・堀切でいいのかな?
まずは写真左手の主郭へ上がってみます。

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宇佐山城主郭
TV局の施設が、曲輪を埋め尽くすように並んでいます。一番奥の建物の先には・・・

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枡形虎口があります。
写真の左手前方向に先ほどの建物があるのですが、その縁の下(?)には・・・

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枡形で折られた導入路の延長線上と思われる位置に、石列が綺麗に並んでいました。

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主郭からの西の眺望。
眼下に山中越えのルートをしっかりと収めています。

宇佐山城は元亀元年(1570)、織田信長の命を受けた森可成によって築かれました。
敵対する朝倉・浅井勢に備え、山中越えや逢坂越えといった京へのルートを押さえるための措置だったと思われます。

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主郭から、一段下がった南の曲輪(以下「南曲輪」)を見下ろす。
主郭の南端に位置する枡形の土塁に沿って、不思議な“溝”がありました。

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反対に南曲輪より主郭方向。
写真で溝の右側が、先ほどの枡形へと続くルートと思われますので、溝は主郭への導入路を限定するための堀、と考えてもいいのかもしれませんが、それならば左側は掘り切ってしまえば良さそうな気がするのですが、現状は縁を残して溜池のようになっています。

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南曲輪東下の腰曲輪に残る石垣。

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こちらは主郭の東下に残る石垣。

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続いて主郭の北東側、三角に張り出した小曲輪に残る石垣。

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同じ石垣を反対側から。

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隅の部分は欠損していました。

宇佐山城は元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、志賀郡を与えられた明智光秀が坂本城を築いた後に廃城になったとされていますが、これほどの石垣が残っていることから、織田方の軍事施設として引き続き機能していたのではないか、とする見解もあるようです。

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主郭北側の横堀・・・というよりは塹壕?

辛末九月十六日、越前の朝倉・浅井備前、三万ぱかり坂本ロヘ相働くなり。森三左衛門、宇佐山の坂を下々り懸け向かひ、坂本の町はづれにて取り合ひ、纔千の内にて足軽合戦に少々頸を取り、勝利を得。翌日、
九月十九日、浅井・朝倉両手に備へ、又取り懸け侯。町を破らせ侯ては無念と存知られ、相拘へられ侯のところ、大軍両手よりどう(口へんに童)とかゝり来たり、手前に於いて粉骨を尽さると雖も、御敵猛勢にて、相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死。森三左衛門、織田九郎、青地駿河守、尾藤源内、尾藤叉八。
(信長公記 巻三「志賀御陣の事」より。以下引用同)

元亀元年9月、信長が摂津の野田・福島城攻めに出ている隙を衝き、朝倉・浅井勢が坂本まで南進してきました。いわゆる志賀の陣の始まりです。
宇佐山城将・森可成は坂を駆け下って出撃し、一度は勝利を収めるものの衆寡敵せず、9月19日に再び大軍で押し寄せた朝倉・浅井勢との戦闘で森以下、織田信治ら主だった将兵は枕を並べて討死しました。

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森可成らが坂を駆け下り、朝倉・浅井勢と戦いを繰り広げた坂本の町を眼下に収める北曲輪からの眺め。
この日は晴天に恵まれ、琵琶湖の湖面が青く輝いてとても綺麗でした。

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ご覧のような急斜面を、まるで敵の迎撃に向かう森可成の如くに駆け下り、北曲輪から尾根伝いに更に北へと移動します。

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5分ほど進み、とてもスリッピーな急斜面を登った先に・・・

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北出丸があります。
※北曲輪と北出丸間の鞍部付近の西の斜面に、2本の連続竪堀らしきものもありましたが、逆光で写真が全く使えなかったので割愛します・・・。

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北出丸には石垣は一切見当たらず、複数の削平地が山の斜面に合わせて折り重なるように連なっていました。

宇佐山の城、端城まで攻め上り、放火候と雖も、武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門両人これありて、堅固に相拘へ候。

城将・森可成を失った宇佐山城でしたが、城に籠った家臣らが奮闘し、朝倉・浅井勢の猛攻をなんとか凌いで落城は免れました。
この時、朝倉・浅井勢が攻め上って放火したと云う端城こそ、この北出丸ではなかったでしょうか
北から進攻してきた朝倉・浅井勢が攻城戦に臨み、尾根の傾斜が比較的緩やかな北側から攻め上ったと考えるのは、至って自然な流れとも思えます。

九月廿四日、信長公、城都本能寺を御立ちたされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り侯。

宇佐山城の攻略には至らなかった朝倉・浅井勢でしたが、9月20日には逢坂を越え、醍醐・山科の辺りまで侵攻しました。
9月22日、摂津で急報に接した信長は急ぎ軍勢を返し、24日には逢坂を越えて坂本へと駆けつけます。信長の転進を知った朝倉・浅井勢は、はちケ峰あほ山つぼ笠山に登って立て籠もりました。

廿五日、叡山の麓を取りまかせ、(略)信長公志賀の城宇佐山に御居陣なり。

対する信長は諸将に比叡山を包囲させ、自らは宇佐山城へ入っています。

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北出丸から壺笠山(右の頂部)、そして比叡山方面の眺め。
多少の小競り合いを挟みつつ、和議が成立する12月まで続く志賀の陣で、両軍が対峙した距離感です。

また、この志賀の陣に於ける延暦寺の対応が、翌元亀2年の焼き討ちへと繋がっていくのですが、それについてはコチラの記事を参照ください。

志賀の陣の舞台となった宇佐山城
石垣などの遺構にも興味深いものがありましたが、何より織田信長も一時在城したこの城跡に立って、周辺の景観を眺めることができて感無量でした。

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下山後は森可成の墓所がある聖衆来迎寺へ。
聖衆来迎寺の山門は、明智光秀が築いた坂本城の移築門と云われています。

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この山門、平成22年に保存修理工事が施されたそうです。

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国の重要文化財に指定されている客殿。
寛永16年(1639)頃の創建と伝えられています。

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朝倉・浅井勢との戦闘で散った森可成の墓所
彼は聖衆来迎寺が建つ比叡辻の辺りで戦死したと伝えられています。

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織田信忠の室で、秀信の母となった寿々のお墓もありました。

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続いて坂本城跡へ。
坂本城址公園には、見慣れた明智光秀の像も建ちますが・・・

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こちらの図面が示す通り、公園は実際の城域からは外れています。

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城址公園の100mほど北、現在は廃墟となっているこちらの建物が建つ辺りが本丸跡。

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本丸跡の裏手、琵琶湖岸に残る坂本城の石垣石列。
運よく水位が下がっていたので、間近で観ることができました。

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よ~く目を凝らすと、水中で横方向に連なる石列も見えていたのですが・・・写真ではわかりづらいですかね。

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琵琶湖の対岸には、「近江富士」三上山も綺麗に見えていました。

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これにて、この日も踏査会も無事に終了となりました。
この後は大津駅周辺で各々チェックイン等を済ませ、こちらのお店で忘年会。

私は2次会まで参加し、午前0時頃まで楽しく盛り上がりました。
・・・お蔭で翌朝は、少々しんどい思いをする羽目に陥るのですが(笑)

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2018年12月 7日 (金)

高麗山城と周辺の歴史散策

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今回は神奈川県大磯町高麗の高麗山城へアタック。
ルートはいくつかあるようですが、私は麓の高来神社(江戸時代までは神仏習合の高麗寺)社殿裏手からの山道(昔の参道)を登りました。

高麗寺は徳川家康から寺領を賜り、東照権現を併せ祀っていたことから、参勤交代で東海道を往来する諸大名は、高麗寺の前では駕籠を降りて通行するのが慣例となっていたそうです。
明治の神仏分離令で高麗神社となり、更に社名を高来(たかく)神社と改められて現在に至ります。

また、「高麗」の地名は若光をはじめとする高句麗からの渡来人たちが大磯に上陸し、しばらく化粧坂辺りに住んでいたことに由来するとされています。
その後、彼ら高句麗からの渡来人は、武蔵国高麗郡に集められることになりました(参照記事)。

永正7年(1510)に伊勢宗瑞(北条早雲)が扇谷上杉氏との対立の中で高麗山に城を築き、永禄4年(1561)には上杉謙信も、小田原城攻めにあたって高麗山に本陣を据えたと伝えられています。

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高来神社からの山道(男坂を選択しました)を必死に登り詰めた八合目付近にあった平場。背後(山頂側)は切岸になっており、なんとなく曲輪跡に思えました。
ここまでの道中は急勾配の連続で、崖のような岩場あり、すれ違いもできないような急斜面沿いの細道もあり、で結構ハードな登山でした。。。

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こちらの古い石段を上がった先が・・・

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高麗山の山頂で、高麗山城の主郭(標高167m強)。
「大堂」と呼ばれる場所で、かつては高麗権現を祀るお堂が建っていたようです。

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主郭から北東寄りの鞍部へ下り、その先のピーク(写真)を登ると・・・

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やはり曲輪跡を思わせる平場が広がり、土橋を残して両サイドを切り落とした堀切のようなものが、中央部を横切っていました。

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こちらは主郭の西下にあった堀切。
この堀切の先は細尾根になっており、それに沿って進むと・・・

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すぐに堀切と土橋を連想させる地形がありました。
そのまま更に西へ進みます。

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またまた堀切が出てきました。
こちらは規模といい形状の明瞭さといい、歴とした堀切です。

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堀底から。

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堀切の先の平場(八俵山)。
この先は自然の地形が落ち込んでいます。この辺りが城の西端だったのでしょうか。

高麗山城探索はこれで終了ですが、麓の大磯町生涯学習館で貰った散策マップで、南西麓の妙大寺に松本良順(明治以降「順」に改名)の墓所があることを知ったので、このまま尾根伝いに湘南平方面へ向かいます。

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高麗山の西方、浅間山の山頂。

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湘南平
遠くに江の島も見えています。

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小田原方面の眺望。
上杉謙信もこうして、大軍で包囲する小田原を眺めたのでしょうか。

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下山ルートは妙大寺を目指して坂田山コースを選択。
JR大磯駅の少し西側へ下るイメージです。

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多少のアップダウンはあるものの、なかなか快適な山歩きになりました。

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住宅が建ち並ぶ地点まで下ってきました。
天気が良ければ、湘南の海もさぞ綺麗だったでしょうね。

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松本良順が眠る妙大寺。

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幕末、幕府御典医として活躍した松本良順。
明治に入ってからも陸軍軍医総監に就きましたが、公職を辞した後は大磯に移り、照ヶ崎海岸に日本初となる海水浴場を誕生させています。
個人的には、新選組との繋がりで強く印象に残っている人物。期せずしてお参りすることができて良かったです。

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旧東海道、化粧坂の松並木。
登山口よりだいぶ南西寄りに下山しましたので、最後は山麓を旧東海道で北東方向へ引き返しました。

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広重の「東海道五十三次」に描かれた大磯。
右に見える山は高麗山。海が左手になっているので向きこそ違え、先ほどの写真とほぼ同じ場所を描いたものになります。

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化粧坂の一里塚(跡)

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虎女(虎御前)化粧井戸
虎御前は大磯の遊女で、「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我兄弟の兄・曾我祐成の妾だったとされる人物。
彼女がこの井戸の水で朝な夕な化粧をしていたとの伝承から、この名で呼ばれているようです。

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車を置かせていただいた大磯町生涯学習館に到着。
こちらには高麗山の簡単な散策マップも置かれています。山中にも案内板は設置されていますが、予め一部持っておくと心強いです。

予定よりも長い行程となって時間を要しましたが、それだけに充実した散策になりました。

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