2017年8月29日 (火)

凌雲寺、稲葉地城跡

旅のラストは名古屋へ移動、地下鉄「中村公園」駅から歩くこと20分ほどで・・・

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凌雲寺に到着。

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名古屋市教育委員会設置の案内板によると、凌雲寺は永正年間(1504~1521)に、稲葉地城主で織田信長の伯父でもある(津田)信光によって創建された、とありましたが・・・
信光の生年は永正13年(1516)と伝えられています。仮に凌雲寺の創建が永正年間の最終年にあたる永正18年だったとしても、信光は満年齢で5歳・・・ちょっと無理がないでしょうか?

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凌雲寺境内
凌雲寺には織田信長も幼少の頃、手習いに通ったと伝えられています。

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本堂の前には、信長が手習いの墨で真っ黒になった草紙を枝に掛けたと云う草紙掛けの松があります。
(一番背の高い木がそれかと・・・)

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その松の根元にあった石碑。
織田信長公掛草紙松…etc.

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また、墓地には凌雲寺開基「信光」の墓と伝わる宝篋印塔も。

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當寺開基津田豊後守法名
凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士


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その裏には・・・
天文五年十一月廿八日没
津田玄蕃建之

・・・通説による信光の死没年は、信長と共に清須城を落とし、下四郡守護代・織田大和守家を滅ぼした直後の弘治元年11月26日(10月に天文24年より改元)。
天文5年はその19年も前に当たり、この宝篋印塔が本当に凌雲寺開基のお墓で、創建時期が伝承通り永正年間なのであれば、織田信長の伯父である信光と凌雲寺の開基を同一人物とするには、やはり無理があるように思えます。
年代からしても信光より少なくとも一世代は前の、誰か別の「津田」姓を名乗っていた人物、という可能性はないのでしょうか。
・・・お墓に関しては、単に建碑時点(江戸時代?)での歴史認識・年次比定の誤り、という可能性も拭えませんが。
(ちなみに「凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公大居士」を信光の戒名としているのは、江戸時代編纂の「尾張國誌」が元になっているようです)

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さて、凌雲寺の近くには神明社があり、織田信光の築城と伝えられる稲葉地城址の石碑が建っています。

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神明社境内

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本殿の脇にひっそりと建っていた石碑。
漢文調の碑文に「織田」や「津田」の文字も見えたのですが・・・後で解読しようと撮影した写真が見事に手ブレ・・・(´;ω;`)ウッ

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神明社のすぐ裏には、庄内川の堤防が眼前に迫っていました。
信長は幼い頃より、庄内川(当時は於多井川)で遊んでいたと云います。凌雲寺に手習いで通っていたのであれば、この付近でも遊んでいたかもしれないと思い、試しに登ってみましたが・・・堤防の上には大きな道路が走っており、庄内川の川面は見えませんでした。

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稲葉地城・・・お城としての痕跡はもはや皆無といったところですが、「城屋敷」という地名に僅かにその名残を留めている、と言えるでしょうか。

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2017年8月28日 (月)

「天下人の城」展

岐阜市歴史博物館を辞した後は岐阜タンメンを食しつつ南下し、名古屋市の徳川美術館へ。

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話題の天下人の城展を拝観してきました。
既に訪問された方も多く、応援ブログ等でもたくさん取り上げられているので詳細は省きますが、こちらで私が個人的に魅かれたのは;

脇差 銘吉光・亀王丸 号 蜘蛛切丸(熱田神宮)
刀 名物 義元左文字(建勲神社)
織田信長永禄3年に熱田社へ奉納した(「張州雑志」)と伝わり、桶狭間合戦の戦勝祈願に奉納したとも云われる蜘蛛切丸。それが、その桶狭間の勝利で手にした義元左文字と並べて展示されている姿には、やはり特別な感慨が湧いてきました。
※ちなみに義元左文字は3度目の拝観になるのですが、今回も茎の金象嵌は「義元討取刻・・・」の側を向けて展示されており、「織田尾張守信長」を観ることは叶いませんでした。

唐物茶壺 銘松花
唐物茶壺 銘金花
信長・秀吉・家康の歴代天下人が所持した大名物。
「信長公記」にも;

せうくわの壷・きんくわの壺とて、隠れなき名物参り、御機嫌斜ならず。
(信長公記 巻九「安土の御普請首尾仕るの事」)

とその名が登場します。
過去にもそれぞれを個別に拝観したことはありましたが、今回はその2つが同時に並べて展示されており、とても感動的でした。

脇差 無銘あざ丸
千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれたり。此の刀、陰山掃部助求めさし候て、
~中略~
陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす。其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ此の刀所持の人は必ず日を煩ふの由風聞侯。熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。これにより、熱田大明神へ進納侯てより、即時に日もよく罷り成り侯なり
(信長公記 首巻「景清あざ丸刀の事」)

これまた、「信長公記」に登場する脇差。熱田神宮に奉納された経緯もはっきりしており、曰くありげなエピソードが更に特別な魅力を加えているかのようです。

織田信長書状 おね宛
こちらも3度目くらいの拝観になりますが、最も好きな信長文書の一つでもあります。
参照記事

真田信繁自筆書状 小山田壱岐守(茂誠)宛 (慶長20年)二月八日
「歯も抜け、髭にも黒いところはなく、白い髭ばかりになった」と、老いへの嘆き?を綴った有名な書状ですね。
平成28年に再発見されたばかりの自筆文書です。


■以下、自らの拝観記録のために列挙。

・小豆坂合戦ノ図
・斎藤道三書状 織田玄蕃允宛 天文22年頃
・今川義元木像 正徳4年 長福寺(名古屋市)
・松井宗信木像 嘉永2年 長福寺(名古屋市)
・今川義元旧位牌 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦戦死者位牌 二基 長福寺(名古屋市)
・桶狭間合戦討死者書上 長福寺(名古屋市)
※信長勢の戦死者の中に「近江国佐々木方」が含まれており、近江六角氏からの援兵があったことを匂わせる史料。
公開されるのは初めてかもしれませんが、その存在については既に数年前には指摘されており、私も桶狭間を訪問した折などに耳にしておりました。

・尾州知多郡大高内鷲津丸根古城図
・織田信長書状 沢源三郎宛 天正弐十一月廿四日
※平成29年新発見の鷹匠宛。
・脇差 銘吉光 名物 鯰尾藤四郎
・純金天目 伝豊臣秀吉所用
※単純な全面純金製ではなく、金の釉を垂らして景色を作っているところに興味を惹かれました。
・真珠付純金団扇 伝豊臣秀吉所用
・金箔押木瓜紋飾り瓦 清州城下町遺跡出土金箔瓦の内

さすがに話題になっているだけあって、充実の展示構成・内容でした。

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2017年8月27日 (日)

「Gifu信長」展(後期)

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7月にも訪れた岐阜市歴史博物館のGifu信長展

再訪の一番の目的は、8月11~20日の期間限定で公開された、
織田信長像(狩野元秀筆/天正11年) 長興寺蔵
を拝観すること。歴史の教科書などにも必ず掲載されている、信長といえば誰もが真っ先にイメージする有名な肖像画ですね。
割と最近になって修復されたようで、色彩はとても鮮やかでした。
日曜日とはいえさほどの混雑もなく、お蔭で白い小袖の薄っすらとした文様や刀に差し込まれた金の笄まで、具にゆっくりと観察することができました。

それ以外で興味を惹かれたものといえば、何といっても;
織田信長制札 楽市場宛 永禄10年10月日 円徳寺
織田信長制札 加納宛 永禄11年9月日 円徳寺
の二つの制札(木札)ですね。
永禄10年の楽市場宛のものは全体的に日焼けによる傷みが目立ち、裏には立て札として掲げられていた際の木の棒の痕がクッキリと残り、それに沿って縦に釘穴も2ヶ所ありました。
それに対して永禄11年の加納宛の方は、文字がクッキリと見て取れるほどに保存状態も良く、裏にも棒の痕はなく、真ん中の上寄りに横並びで2つ、小さな穴が開いていました。
永禄11年版は町の往来ではなく、どこか屋内に紐で吊るしていたのかもしれないな、などと考えました。

信長が美濃を制圧したばかりの永禄10年段階では、戦火によって荒廃した市場(町)の復興を企図して楽市楽座を打ち出し、往来に掲げて人々を呼び寄せ、1年を経た永禄11年にはある程度の復興も成って町が形成され、制札をあえて往来に掲げておく必要性も薄れてきたために屋内で保管したのではないか、との説もあるようです。
この辺りに、制札の宛名が「楽市場」→「加納」に変化した理由も潜んでいそうですね。


■以下は私自身の拝観記録のための羅列です。
冗長になってしまうので、詳細は省きます。

・織田信長像 總見寺(名古屋市)
・足利義昭御内書 上杉輝虎宛 (永禄11年)7月12日
・武田信玄(晴信)像 高野山持明院
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)2月10日
・織田信長書状 直江景綱宛 (永禄12年)4月7日
※以上2点、駿河へ侵攻したものの北条家との対立に至って窮した武田信玄が、足利義昭・織田信長へ斡旋を依頼した「甲越和与」へ向けた、信長と上杉方の交渉経過。
・織田信長書状 上杉謙信宛 (元亀2年)9月25日
・太刀 銘長光 名物 津田遠江長光

全体的に、7月に訪問した前期よりも後期の方がより楽しめました。

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2017年8月26日 (土)

旧中山道 加納~関ケ原(加納城、赤坂御茶屋屋敷、他)

8月19~21日にかけ、またまた岐阜にお邪魔してきました。まだ8月だというのに、今年に入って早くも5度目(笑)
今回の一番の目的は、岐阜市歴史博物館で期間限定(8/11~20)で公開された織田信長の肖像画(長興寺蔵)を拝観すること。
19日は仕事の都合で岐阜入りが遅れたので実質移動日として、20日の朝、いつもお世話になっているゆっきーと合流し、岐阜市歴史博物館の前にまずは関ケ原にある不破関資料館へ行ってみることになりました。
その道すがら、まだ未訪だったので加納城跡にも立ち寄ってもらいました。

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加納城は慶長6年(1601)、その前年に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城が落城した後、この地に封じられた奥平信昌によって築かれました。
現在では本丸、及び二の丸のごく一部が僅かにその痕跡を留めています。

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加納城本丸、その南側の石垣。

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同じく本丸南側の堀跡。

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本丸の曲輪内はかなり広い空間になっていました。
写真中央、北西角には天守台があったようです。

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本丸北側の石垣。
時期が時期だけに、雑草で見えづらいけど…(^_^;)

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本丸東面には、出枡状に突き出た枡形虎口も。
従来はこの突当りで左へ折れ、二の丸へのルートが続いていました。

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枡形の先、本丸と二の丸間の堀跡(空地部分)
発掘調査の結果、この堀は障子堀になっていたことが判明しているそうです。
テニスコートの辺りからが二の丸跡と思われます・・・若干高くなって高低差も残っていますね。

さて、それでは関ヶ原へ向けて再出発します。
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加納城跡のすぐ北側には旧中山道が通っています。
中山道は当然関ヶ原へ続いていますので、我々もそれを車でなぞるように進むことにしました。

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河渡の渡しで長良川を越えて・・・

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美江寺宿

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美江寺宿跡付近には、旧中山道の宿場名を刻んだ石柱が立ち並ぶ広場がありました。
加納、美江寺、垂井に、、、

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遊歩道を挟んだ対面には河渡、赤坂、関ヶ原、、、
左右の石柱を交互に読んでいくと、旧中山道の宿場町の並びになるようです。

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舩場ヲ径テ太田町と刻まれた道標。
平成27年、とある民家の敷地から発見されたそうです。
その家主によると、家主の父親が50年ほど前、可茂地域の道路工事現場から運んできた土砂に紛れ込んでいたようですが、その工事現場の位置については、残念ながら今となっては不明なのだそうです。

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引き続き旧中山道を進みます。
先日訪れた呂久の渡し(参照記事)で揖斐川を越え、写真の場所では道路を農道側へ渡ってすぐに右折します。すると・・・

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こんな路地に入りますが、これも旧中山道。

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しばらく進んで杭瀬川を越えると・・・

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赤坂宿へ至ります。
ここでもう一ヶ所、立ち寄りポイントへ。

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赤坂御茶屋屋敷跡
江戸~京往還のために設置された徳川将軍専用の宿泊・休憩施設で、慶長10年(1605)の完成。徳川家康や秀忠らが利用しました。

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一歩足を踏み入れると・・・いきなり趣のある土塁が出迎えてくれました。
奥には井戸跡も。

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この土塁を越えた先には・・・

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横堀がハッキリと残っていました。
こちらもいい感じです。

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なお、御茶屋屋敷跡の敷地は現在、「赤坂ボタン園」として開放されています・・・時期じゃないけど。
駐車場も完備。

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赤坂宿御使者場跡
右奥は、関ヶ原の戦い前日に起きた杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母を葬ったと云う兜塚

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兜塚の碑
野一色頼母(助義)は東軍・中村一氏の家老でした。

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赤坂宿を過ぎると、程なくして関ヶ原に至ります。
写真は関ヶ原の戦いで、徳川家康が最初に陣を布いたと伝わる桃配山の麓を通る旧中山道の松並木

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ゴールの不破関資料館。
不破関や壬申の乱について簡単に勉強させていただきましたが、いずれちゃんと調べた上で、関跡や壬申の乱関係地も歩いてみたいと思います。

それでは岐阜市までUターンして、歴史博物館を目指します。

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2017年8月16日 (水)

高麗神社と高麗家住宅

冴えない天候が続いた2017年の盆休み。
(私にとっての)最終日となる8月15日もあいにくの雨模様でしたが、退屈しのぎにぶら~っとドライブしてきました・・・道中、豪雨に見舞われて大層難儀しましたけど(・・;)

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向かった先は埼玉県日高市にある高麗神社
数年前、すぐ近くの聖天院を訪れた際に高麗郡の歴史にも少し興味を持ち、機会があればお参りしてみようと思いつつ、今に至りました。
祭神は高麗王若光。明治中期まで現在の日高市や鶴ヶ島市などに跨って存在していた高麗郡の、初代郡長となった人物でもあります。

唐からの圧力を受けて情勢が逼迫する中、高句麗は666年、大和朝廷へ5月と10月の2度に渡って使節を派遣しています。その折の使節として、日本側の記録である「日本書紀」に「若光」の名が見えます
高句麗は結局、唐・新羅連合軍に攻められて667年に滅亡したため、使節として日本を訪れていた若光の帰国は叶わず、二度と再び故国の地を踏むことはありませんでした。
高句麗滅亡と前後し、多くの高句麗人も渡来しています。

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そんな高句麗からの渡来人ゆかりの神社とあって、境内には朝鮮半島に多く見られるという将軍標(道祖神/村落の境界標)も建っています。

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御神門を通って御本殿参拝へ。

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御本殿(御社殿)

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高麗郡建郡千三百年高麗王若光の記念碑

乙未 従五位下高麗
若光賜王姓

「続日本記」大宝三年(703)四月の条

訳)乙未、従五位下高麗若光に王の姓を賜ふ。
※「王」(こにきし)の賜姓は、若光が高句麗の王族一員だったためと考えられています。

辛卯 以駿河 甲斐
相模 上総 下総
常陸 下野七國高麗
人千七百九十九人
遷于武蔵國 始置
高麗郡焉

「続日本記」霊亀二年(716)五月の条

訳)辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く

ここにある通り、大和朝廷は若光に「王」姓を与え、716年には東国各地に散住していた高句麗からの渡来人1,799人を武蔵国に集めて高麗郡を設置しました。
昨年(2016)がちょうど建郡1300年の節目にあたり、こちらはその記念に設置された石碑のようです。

若光の没後、高麗郡の人々は若光を日本の神式でも祀ることにし、これが高麗神社の始まりとされています。
以来、若光の子孫とされる高麗氏が代々宮司を務め、1300年近くを経た現在は第60代を数えます。

また、すぐ近くの聖天院(旧勝楽寺/若光の菩提寺)にも、若光を祀る高麗王廟があります。
(⇒参照記事

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御本殿裏に保存されている高麗氏の旧宅。
慶長年間(1596~1615)の築と伝わります。
※内部見学には事前申請が必要。

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祖国を追われた人々が、遠く離れた日本の東国で紡いできた1300年もの長き歴史。
聖天院と合わせて訪れることで、そのほんの一端には触れられたような気がしてきます。

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2017年7月30日 (日)

早川城

雨のパラつく日曜日、新車の慣らし運転がてら、神奈川県綾瀬市までドライブしてきました。

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向かった先は早川城跡
夏場の城攻めは何かと苦労が付き物ですが、ここは城山公園として整備されており、且つ駐車場も完備で、ちょっとしたドライブついでには最適♪

早川城は南北に伸びる舌状台地の先端部(南)に築かれた城跡で、その築城は鎌倉期の御家人・渋谷氏によるものと考えられています。
また、この台地上からは縄文期の土器や竪穴式住居跡も発掘されているようです。

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公園北側の駐車場に車を停め、南へ向かって進むとすぐに台地を分断する堀切と、それに架かる土橋が現れます。

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土橋上から西側の堀切。

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そして東側の堀切。
想像以上に規模の大きな堀切でした。
写真右手側が主郭になりますが、その土塁もなかなか立派なものです。

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主郭は公園として綺麗に整備されていますが、かなりの広さがあります。

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主郭、物見塚の上に建っていた東郷氏祖先発跡地碑
旧海軍元帥・東郷平八郎は、渋谷氏の末裔でもあったようです。

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舌状台地の先端方向。
左手には主郭東面の土塁がうっすらと残ります。

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主郭西面下、腰郭を覗く。

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舌状台地先端の下にも、腰郭らしき平坦地が。

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その舌状台地を南東側から。
早川城山公園は住宅地にあり、駐車場から歩いてくると分かりづらいのですが、こうして見るとかなりの要害の地に築かれていたことが分かります。

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同じく北東側から。

早川城跡。見応えのある遺構としては、最初にご紹介した堀切くらい・・・かな。
この日はあいにくの空模様でもありましたが、しかし地形も合わせて見ていくと、ちょっとした散策ついでとしては楽しめました。

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2017年7月26日 (水)

「戦国!井伊直虎から直政へ」展

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江戸東京博物館で開催中の特別展戦国!井伊直虎から直政へに行ってきました。
無論、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」に合わせた開催で、多くの来館者で賑わっていました。
ドラマで描写された歴史やエピソードを、実際の史料等でより深く知るにも、いい展示構成だったと思います。

いつもの如く、個人的に印象に残ったものを独断と偏見?でピックアップすると・・・

寿桂尼朱印状
(とつぐ)の朱印がしっかりと捺されていました。

・雪斎の袈裟
臨済寺で拝観した時は畳まれていましたが、今回は広げて展示されています。

刀 無銘 伝左
通称「織田左文字
「享保名物帳」に「信長公御物御二男信雄卿へ進せらる如何なる伝なるか掃部頭殿に有り、」とあり、織田信長から信雄を経て井伊直政へと渡ったことが知れます。
関東大震災で焼けてしまいましたが、改めて鍛え直されて現在の姿に復元されています。
※信長が桶狭間で今川義元を討って手にした「義元左文字」とは別。

井伊家伝記
有名な「次郎法師ハ女にこそあれ井伊家の惣領に生候間~(云々)」の頁を開いて展示されていました。

井伊直虎・関口氏経連署状
いわずと知れた、「直虎」の署名が現存する唯一の史料。

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青葉の笛
小野政直の死を受け、逃亡先の信濃から井伊谷へ戻ることになった井伊直親が、寺野八幡(寺野六所神社)へ奉納した笛です。

今川氏真判物(永禄3年8月5日・龍潭寺)
桶狭間合戦の直後に出されたもので、井伊直盛の討死を受け、「直盛寄進の通りに」と龍潭寺の権利を保証した禁制のような内容。
合戦で当主を喪った国衆や関係先への、大名のフォローが垣間見えるようで興味深かったです。

井伊谷徳政に関連して・・・
匂坂直興書状(蜂前神社)
(永禄10年6月30日/同12月28日/永禄11年1月25日/同8月3日)
関口氏経書状(永禄11年8月4日)
徳政の実現に向けて駿府で交渉を続ける匂坂直興が、祝田の禰宜に向けて刻々と交渉経過を報告している内容。
関口氏経の書状は直虎(次郎)や井伊家家中(写)に対し、徳政の実行を迫る内容になっており、件の「井伊直虎・関口氏経連署状」と合わせ、井伊谷徳政に関連した人々の“裏の動き”が垣間見えて非常に興味深い内容になっています。

本多忠勝像
9度も描き直させてようやく得心したという肖像画だけに、かなり忠勝本人を忠実に再現しているかも?

黒糸威胴丸具足(鹿角脇立兜)
上の肖像画でも着用している、「本多忠勝といえばこの兜(甲冑)」ともいうべき一領。

他にも今川氏や井伊氏の歴代当主木像や、栄華を偲ばす茶器・武具、徳川家に関する展示史料なども豊富でした。

東京での開催は8月6日までですが、静岡や彦根でも開催を予定しているようなので、戦国好きや大河ドラマをご覧になっている方には是非、足を運んでみることをお薦めいたします。

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2017年7月20日 (木)

島津の退き口 (関ヶ原~多良)

夏の岐阜旅2017、2日め(7月17日)は島津の退き口です。

慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦い
合戦に敗れた西軍に属す島津義弘の軍勢は、東軍総大将・徳川家康本陣の鼻先を掠めるようにして敵中を突破、追撃する東軍諸隊と壮絶な退却戦を繰り広げつつ、伊勢街道を南下して戦場を離脱します。これがいわゆる島津の退き口

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という訳で、この日のスタートは関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡から。

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島津義弘陣跡から見る開戦地、小西行長陣跡、そして松尾山(小早川秀秋陣跡)。
まさに西軍の最前線ライン上ともいえる位置取りなのですが・・・島津隊は二番備えだったとも云われており、案内板によると実際にはもう少し後方に布陣していたようです。

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島津隊の戦場離脱ルート。
家康本陣の脇を掠めるようにして伊勢街道へ向かっています。

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なんとか家康本陣近くを通り抜け、伊勢街道へ出た先・・・烏頭坂

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烏頭坂に建つ島津豊久顕彰碑
義弘の甥(弟・家久息)である豊久は、大将の義弘を逃がすためにこの地に踏みとどまり、殿(しんがり)を務めて奮戦します。
これまで一般的に豊久は、烏頭坂での殿戦で義弘の身代わりとなって討死を遂げたとも伝えられてきましたが、一説には重傷を負いつつも家臣に守られ、多良(大垣市上石津町)の辺りまで逃れたという伝承も残っているようです。
今回は我々も、この伝承を追って更に南へ進んでみることにします。

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移動中に見かけて立ち寄った木曽神社。
源頼朝の追討軍に敗れて戦死した源(木曽)義仲。
旧臣に守られ、この地に隠棲した息女・糸姫は義仲寺(後に宝聚院。義仲墓所あり)を建立して父の菩提を弔ったと云います。

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近くには地蔵群の脇に、義仲を詠んだ松尾芭蕉の歌碑も建っていました。

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大垣市上石津町牧田の琳光寺

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琳光寺境内に建つ阿多長寿院盛淳の墓所。
島津家の家老だった阿多長寿院盛淳は、本領蒲生の兵70を引き連れて義弘の元へ馳せ参じ、関ヶ原に参陣していました。
西軍の敗色が濃厚となって島津隊が戦場に孤立すると、主君・義弘は切腹しようとしますが、盛淳は豊久と共にこれを諫め、退却戦に移りました。
豊久の烏頭坂に続き、盛淳はここ牧田に踏みとどまって殿を務め、義弘の退却を見届けると拝領した陣羽織をまとって追いすがる東軍の中へ斬り込み、壮絶な討死を遂げました。

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琳光寺近くには、盛淳の顕彰碑も建っていました。

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ちょっとまた寄り道をして・・・西高木家陣屋の長屋門。

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西高木家陣屋図

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結構な規模を誇る石垣と、上屋敷跡へと続く坂(石段?)

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埋門

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井戸跡

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私有地で立ち入れない箇所にも、石垣が覗いていました。

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西高木家は2300石を領する旗本。
その家格に見合う規模なのかどうかは分かりませんが、それにしても立派な石垣に少々驚かされました。

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西高木家陣屋跡には現在、上石津郷土資料館が建っています。

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ちょうど島津豊久を主人公に描いたマンガの原画展が開催されていましたが、個人的には;
・織田信長の朱印状
・羽柴秀吉の書状(賤ヶ岳合戦直後、戦陣からのもの)
・徳川家康の書状
などの方に興味を惹かれました。

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上石津町上多良瑠璃光寺

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瑠璃光寺は、重傷を負って多良まで逃れてきたと云う豊久の菩提寺になっています。
許可を得て、本堂にて豊久の御位牌にもお参りさせていただきました。
慶長五年庚子
嶋光院殿忠道源津大居士神儀
九月十五日

文字もかすれ、煤けたような黒漆地がまた、400年以上もの時の移ろいを醸しだしているようで感動いたしました。

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瑠璃光寺近くの島津塚・・・豊久の墓所と伝わります。
烏頭坂での殿戦で重傷を負いながらも勝地峠を越え、多良まで辿り着いた豊久でしたが、受けた疵重く、これ以上は付き従う家臣らの足手まといになると考え、遂には近くの白拍子谷にて自害したと云います。

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島津の退き口めぐり、ラストはその白拍子谷へ。

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白拍子谷・・・島津豊久最期の地。

島津豊久や阿多盛淳らの奮戦もあり、無事に薩摩へと帰り着くことのできた島津義弘。
島津家では義弘帰還後も、豊久戦死の確報を掴めていなかったらしく、義弘はその後、3年もの長きに渡って家臣に豊久の消息を探らせたのだそうです。
※但し、そうなると豊久に付き従っていた家臣は誰一人、本国へ帰還できなかった(報告できなかった)ということにもなる訳で、であればそもそも豊久が烏頭坂から重傷を負いながらも、多良(白拍子谷)まで辿り着いたという伝承の信憑性は…?と疑問も湧いてきますが、この辺りはよくわからないので、あまり深く追及しないことにします。


この後は、解散前に海津市にある高須松平家の菩提寺・行基寺にも立ち寄りましたが、そちらは再訪の為、過去記事のリンクを貼っておきます。
美濃高須

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2017年7月19日 (水)

450周年の「岐阜」

今年に入って早4度めとなる岐阜への旅。
2017年は織田信長が稲葉山城を攻略して美濃を制圧し、「岐阜」と改めてから450年の節目の年。
それにちなんで岐阜市では、岐阜市信長公450プロジェクトと銘打って様々な試みが実施されています。今回は同プロジェクトに関連するいくつかのイベントに足を運んでみることにしました。

7月16日(日)、岐阜駅前で集合して最初に向かったのは・・・

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ぎふメディアコスモスにて開催されている信長公ギャラリー

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お目当ては「おもてなし劇場」で上映される岐阜城山麓居館のCG
信長の小姓に扮したMCの先導で見学してまわるという設定で、15分ほどの内容でした。
奥御殿や茶室の周辺が中心で、CG自体は素晴らしいのですが、もう少し全体をくまなく紹介して欲しかったなぁ…というのが正直な感想です。

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他にも、自らCGを操作して山麓居館をバーチャル散策できるコーナーなどがありました。

入館無料ですし、私のような遠来者のみならず、地元の方々にも多く足を運んでいただき、改めて信長のいた時代の岐阜城の姿に思いを馳せ、郷土の誇りを感じてもらうきっかけになればいいな、と思える企画でした。

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さて、お次は長良川沿いのとあるホテルへ移動し、川沿いの一室へ通されて・・・

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予め予約を入れておいていただいた、信長の饗応膳にて昼食です。
料理は勿論のこと、天下布武の朱印に織田木瓜紋・・・その全てに目も心も奪われます。

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献立
鯉に鮑、宇治丸(鰻)、巻きするめ・・・更にようひ餅が入っているあたり、やはり信長が天正10年5月15日に、安土城で徳川家康をもてなした際の献立(「続群書類従」)を参考に再現しているようです。

天正十年安土御献立
於安土上様。三河守殿。御申献立。拾伍日をちつき。

本膳
たこ/たいのやき物/な汁/のなます/かうの物
(香の物)/ふなのすし/御めし
二膳
うるか
(鮎のわたの塩辛)うちまる(宇治丸:ぶつ切り鰻の蒲焼)/ほやひや汁/ふとに/かいあわひ(鮑)/はむ(鱧)/こいの汁
三膳
やきとり/やまのいも・つる(鶴)しる/かさめ(がざみ:渡り蟹)/にし(タニシ)/すゝき(鱸)
四膳
まきするめ/しきつほ(鴫の壺焼き)/ふな汁/しゐたけ
五膳
まなかつうを さしみ(真魚鰹の刺身)/しやうかす(生姜酢)/かわらけ入こほう(牛蒡)/かも汁/けつりこふ(削り昆布)
御くハし(御菓子) ふちたか足をつけて(容器の説明)
やうひもち(求肥餅)/まめあめ/ミのかき(美濃柿)/はなにこふ(花昆布)/から花(造花)

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用いられる器の一つ一つにも全て、木瓜紋が入っています。

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鯉の洗は人生初体験でした。

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岐阜城下、長良川の畔で信長の饗応膳を堪能する・・・織田信長を追い求める者にとってはまたとない、贅沢なひと時でした。

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饗応膳を堪能した後は岐阜公園へ移動。
岐阜市歴史博物館で開催中のGifu信長展で;

ルイス・フロイス書簡写(原本/1569)
・フランシスコ・ザビエル書簡(自筆/1549)
※何故か署名部分が切り取られている。
・太田牛一自筆の信長記(岡山大学附属図書館)
・唐物肩衝茶入 銘:勢高
・唐物文琳茶入 銘:本能寺
・織田信長制札 北加納宛(永禄10年9月日)
・数々の織田信長書状類

などを見学してきました。
※後期展示にも必ず足を運びます。

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午前中にCGで見学した山麓居館跡を抜けて・・・

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ロープウェイで金華山の山頂へ。

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岐阜城資料館の特別展信長公の隠れ家

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その中のテーマ展示マンガに描かれた信長公

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7月1日~9月28日までの期間は、宮下英樹氏「センゴク」の複製原画が展示されています。

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織田信長肖像画(長野剛氏)と南蛮胴具足。

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混雑するロープウェイを諦め、猛暑(35度超え!)の中、岐阜城の大手とされる七曲り道で下山。

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暑くて大変でしたが、実は岐阜城の登城路を歩くのは初めてだったので、密かに嬉しかったりする(笑)

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途中、ちょっと気になる痕跡も・・・道?

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岩盤がセットバックに切り開かれている箇所も。
・・・本当はこの、平に整地された岩盤部分が道だったのかな?

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岐阜市街へ戻り、夜は恒例のギフナイト☆
貴重で美味しい日本酒も味わい、2次会まで楽しく過ごしました。

岐阜市信長公450プロジェクト
勿論、私自身も楽しませていただきましたが、これがより多くの岐阜市民の方が歴史に関心を持つきっかけになるといいな、と思いました。地元の関心が高まってこそ、文化財の保護などへの認識も高まるでしょうし。
そういった点でCGやマンガをテーマに用いた展示は、門戸を広げる意味に於いて面白い試みなのかもしれません。応援したいと思います。

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2017年6月21日 (水)

白河の関

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みちのくの玄関口・・・白河関跡

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古関蹟
の碑
白河の関は古代から陸奥への関門として知られてきましたが、江戸時代も後期になるまで、その位置を特定できていなかったようです。
それを調査・考証し、この地(福島県白河市旗宿関ノ森)を白河の関の跡地であると断定したのは、白河藩主で老中にもなる松平定信でした。
これは寛政12年(1800)に建てられた、考証の経緯を記した石碑です。

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説明板にある通り、源義経ゆかりの矢立の松碑。

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白河神社
源頼義、義家、頼朝、義経ら錚々たる面々の奉献を受け、元和元年(1615)には伊達政宗も社殿を奉納したとか・・・もう少し社殿もしっかり拝観しておくべきだったか…(^_^;)

実際に訪れるまでは白河の関跡といっても、こちらの白河神社が建っているだけだろうと思っていましたが、この本殿横(南)に凄い遺構が残っていました・・・。

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横堀に土橋、土橋の先には関所施設の跡地か・・・曲輪も。

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曲輪はかなりの広さで、北・東・南面には土塁もしっかり残っていました。

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曲輪北面の横堀

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北東隅のコーナー部分

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東面の横堀
この横堀を南へ進むと・・・

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南東隅は横矢が掛かり、出枡のようになっていました。

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出枡側から北向きに横堀を見る・・・美しい曲線。

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南側の虎口?
こちら側は土塁も切れ、形状が少し不明瞭でした。

しかし予想外に素晴らしい遺構を堪能させていただきました。
これはもう、中世の単郭城館跡・・・お城と呼んでも差し支えないでしょう。
発掘調査で周囲からは竪穴式住居跡も出土しており、縄文時代から古代、中世に至るまで幅広い年代に渡って利用されてきた痕跡の残る遺跡なのだとか・・・これからも大切に伝えていきたいですね。

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最後に、松尾芭蕉と曽良の像。
「奥の細道」といえば、白河の関・・・ですね。

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