2018年10月23日 (火)

中道往還と右左口

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真っすぐに伸びる中道往還と、右左口宿の町並み。

四月十日、信長公、東国の儀仰せ付けられ、甲府を御立ちなさる。爰に、笛吹川とて善光寺より流れ出づる川あり。橋を懸げおき、かち人渡し申し、御馬共乗りこさせられ、うば口に至りて御陣取り。家康公御念を入れられ、路次通り鉄炮長竹木を皆道ひろゞと作り、左右にひしと透間なく警固を置かれ、石を退かせ、水をそゝぎ、御陣屋丈夫に御普請申し付け、
(信長公記 巻十五「信長公甲州より御帰陣の事」より抜粋。以下引用同)

甲州征伐を終え、安土への凱旋の途についた織田信長は天正10年(1582)4月10日、甲府を発ってこの右左口(うばぐち)に入りました。(参考記事「織田信長の凱旋旅」
上に引用した「信長公記」の記述を見ても、信長一行の往来のために徳川家康が心を砕き、陣屋や道、つまりこの中道往還の整備に励んだ様子が伺えます。

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右左口宿に建つ敬泉寺。
慶長10年(1605)の創建と伝わりますが、天正10年(1582)に家康が甲斐へ入国した際、寺中に家康や諸士の滞在のための仮屋を建てたとの記録もあり、実際の創建時期は更に遡るとの説もあるとのことです。
現在の堂宇は1700年代前期に再建されたもので、創建当初から現存する観音堂には、平安時代の作と考えられる十一面観音立像が安置されています。

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敬泉寺前に建つ宝蔵倉。
徳川家康との結びつきを示すように、この蔵には家康の朱印状も保管されていました。
(現在は県立博物館に寄託)

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左上の赤い屋根が観音堂で、右手前は東照神君御殿場跡。

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東照神君御殿場
天正10年、本能寺の変で信長が斃れると甲斐国では一揆が勃発し、甲斐を預けられていた河尻秀隆も殺害されました。
この混乱を収め、甲斐の掌握に乗り出した家康は同年7月に甲府へ入りますが、その道中には中道往還を通って右左口にも数日間滞在しています。
東照神君御殿場跡は、その時の家康滞在の仮屋跡とされている場所です。
※なお、甲府へ向かう家康を本栖の辺りで案内したのは、やはり渡辺因獄祐だったようです。(前記事参照)

織田信長が甲府からの帰路で右左口に宿泊したのは、その僅かに3ヶ月ほど前。そして、その時の信長のための御陣屋を準備させたのも家康・・・そう考えると、この東照神君御殿場跡が即ち、織田信長宿泊の地でもあったのではないかと考えたくなります。

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観音堂
秘仏の十一面観音の御開帳は、なんと33年に1度なのだそうです。
高台にあることから、家康の滞在時には見張りの兵が置かれていたとの伝承もあるようです。

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敬泉寺から中道往還を少し南へ進むと、小さな分岐点がありました。
中道往還は右へ進むのですが、その足元には・・・

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古い道標があります。
左 山道
右 駿河

信長もここを右へ進み、駿河(富士宮)へ向かいました。

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中道往還、迦葉坂の登り口。
迦葉は「かしょう」と読み、昔より柏尾坂とも呼ばれてきました。

四月十一日、払暁に、うぱ口より女坂高山御上りなされ、谷合ひに、御茶屋、御厩結構に構へて、一献進上申さるゝ。かしは坂、是れ又、高山にて茂りたる事、大形ならず。左右の大木を伏せられ、道を作り、石を退かさせ、山ゝ嶺ゝ、透間なく御警固を置かる。かしは坂の峠に御茶屋美々しく立て置き、一献進上侯なり。其の日は、もとすに至りて、御陣を移され、

4月11日の明け方、右左口を出立した信長一行は女坂かしは坂を越えて本栖へ向かったとあります。
「信長公記」にあるかしは坂は、この迦葉坂を指しているのではないかと思います。

なお女坂の方は、本栖までの道中にもう一つ越えなければならない阿難坂を指しているものと思われます。実際、阿難坂は昔から女坂とも呼ばれてきたそうです・・・が、一つ大きな疑問も。
「公記」を読む限り、あたかも女坂かしは坂の順で通行したように書かれていますが、上の写真の通り、右左口から本栖へ向かう際に最初に迎える坂は迦葉坂であり、阿難坂は迦葉坂で右左口峠を越え、一旦甲府市小関町周辺の集落へ下りた後に迎える2つ目の坂(峠)です。阿難坂を越えると精進湖に出て、その先は本栖に至るまで特に目立った坂(峠)もありません。

かしは坂=迦葉坂とすると、どうしても「公記」の記述に矛盾が生じてしまうのですが、これは太田牛一の記憶違いか、記録ミスによる誤記ではないかと考えています。
むしろそれよりも、現地に立って迦葉坂の細い坂道を目にした時、これほど細かな地名まで書き漏らすことなく綴っている牛一に、改めて凄みのようなものを感じました。

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迦葉坂の登り口から、凱旋旅の出発地・甲府の街並みを眺め渡す。
信長も右左口を出立する朝、こうして甲府の町並みを振り仰いだのでしょうか。


さて、初日の行程はこれにて終了です。
ワイナリーに立ち寄ったり、喫茶店で休憩した後は甲府駅前の宿にチェックインし、夜は楽しく飲みました。
2日めは勝沼の大善寺からスタートします。

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2018年10月22日 (月)

青木ヶ原樹海の中道往還と本栖城

10月13~14日は山梨への歴旅。
同行のメンバーと本栖湖で集合し、まずは青木ヶ原樹海に残る中道往還の旧道を歩きつつ、本栖城跡へ向かいます。

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本栖湖近くに建つ江岸寺
天正10年(1582)、甲州征伐を終えて安土への凱旋の途につく織田信長は、4月10日に甲府を発ち、右左口を経て11日には本栖に入っています。(参考記事「織田信長の凱旋旅」
典拠が定かではないのですが、この時の本栖での信長の滞在先が、この江岸寺だったとの説もあるようです。(但し、家康は本栖でも一夜のためにわざわざ御座所を作らせているので、江岸寺に泊まったのが事実としても、“寺域内に建てた御座所に泊った”となるのでしょうが)
伝承では戦国期、甲斐武田氏も甲駿国境防備のため、江岸寺に武器を備えて将兵の詰所にしていたとも云われていますが、幕末の慶応4年(1868)に書かれた寺記では、開山を慶長7年(1602)としているそうです。
そうなると武田氏の軍事拠点説は無論のこと、信長の宿泊もなかったことになるのですが・・・「甲斐国志」では開基を本栖の土豪で、1591年には没している渡辺因獄祐としていて、定かなことはわかりません。
また、創建当初は更に湖の畔に近い場所(まさに江の岸)に建てられていましたが、安永年間(1772~78)になって現在地に移されています。

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さて、それでは某廃校前から青木ヶ原樹海に入り、中道往還の旧道を歩いて本栖城方面へと向かいます。

中道往還の起源は古代にまで遡るとも云われ、甲斐と駿河を最短距離で結んでいました。甲駿両国を結ぶ3本の主要な街道の中央に位置することから、「中道」の名で呼ばれました。
「信長公記」の記述を追う限り、織田信長も甲府から富士宮へと抜ける際に間違いなく中道往還を通っています

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樹海の中を進む中道往還。
「信長公記」には徳川家康が信長一行の往来のため、大木を切り伏せたり、石をどかすなどして右左口から本栖へと至る峠の山道を整備した様子が記されています。
ここはその峠の山道ではありませんが、富士山の噴火でできた溶岩石が道の左右に寄せられており、なんとなく家康らの苦心の跡が偲ばれる気もしてきませんか?

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中道往還を歩いていると、明らかに人工的に積まれた石積みの痕跡がチラホラと目につくようになります。

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これなどはまるで、枡形虎口のよう・・・。

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そして、綺麗に積まれた石塁に囲われた空間も。

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なんのために築かれた石塁かは不明ですが、溶岩の石材が苔生して、これがまたいい雰囲気を醸し出していました。

本栖城の麓まで達したところで登城口へ向かう前に一旦、城山の尾根南麓沿いに西へ進んでみます。
すると・・・

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今度は城山の斜面から遊歩道を跨ぐようにして伸び、遊歩道を跨いだ先で奥(西)へ向かって直角に折れている石塁が出てきました。
写真は直角に折れた石塁の内側(城山側)部分。積み方がまるで雁木のようです。
石塁は遊歩道上で一旦切れており、まるで山麓居館区域への虎口といった風情でした。

もう少し西へ進むと・・・

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またまた長く伸びる石塁と遭遇。
この石塁、写真の奥の方で斜面を少し登った後、緩やかに左へカーブして更に先まで続いていたようです。

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斜面を登る石積み。
その全てを辿ることはできませんが、或いは一つ前に見た、雁木状の石積みを伴う直角に折れる石塁の辺りまで続いていたのかもしれません。
両石塁の間にも、更に区画を細かく仕切るかのような石塁の痕跡らしきもの(樹海には溶岩でできた岩がそこかしこにゴロゴロと転がっており、遺構か否かを見分けるのも難しいのですが)が見受けられたので、やはり屋敷地のような、本栖城に付随した関連施設の跡なのではないかと思いました。

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それではいよいよ、本栖城を攻めます。

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尾根に上がって西へ進むと、最初に4本の連続堀切が出迎えてくれます。
同行者が立っている辺りに2本目、そのすぐ先にも3本目が見えているのですが・・・写真ではさすがに分かりませんよね(^_^;)

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確かに、そのまま竪堀として落とされてもいたようですが・・・表示するなら、まずは「堀切」でしょう(笑)

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堀切を越えた先から振り返る・・・。

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主郭への登り口の脇についていた石積み。
ここでもやはり、富士の溶岩が用いられていたようです。

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本栖城主郭

本栖城は、烏帽子岳からの尾根が青木ヶ原樹海にせり出した先端付近に築かれていました。
この城山の麓を、尾根を取り巻くようにして中道往還の旧道が通っているので、街道を押さえて甲駿国境防備のために築かれた城であったろうと考えられています。
甲州征伐~天正壬午の乱が勃発する天正10年(1582)の頃には、「甲斐国志」で江岸寺の開基とされている渡辺因獄祐が在城していたようです。

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主郭南面の石積み。

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主郭西側の、一段下った曲輪から見る主郭方向。
ここでも石積みの石列が確認できました。

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主郭西下の曲輪にあった櫓台のような遺構。案内板には「のろし台」とありました。
この先には・・・

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ザックリと尾根を断ち切る、深い堀切が口を開けていました。
この先にも堀切が何本か連続しているらしいのですが、かなり足元が危うかったので、我々は撤退しました。

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下山後は一旦国道139号に出て尾根の北側へ回り、再び樹海の中へと伸びていく中道往還の旧道を歩きます。
旧街道の遺構としては、尾根北側の方がより綺麗に、しっかりと残っていたように思います。
この道をしばらく歩いていくと・・・

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これまでで一番規模の大きな石塁が視界に入ってきました。
中道往還とは直角に接する方向へ伸びています。写真には写っていませんが、手前側には枡形のような、ほぼ正方形に石塁で囲まれた空間も付随していました。

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石塁の反対側へ回り込むと、かなりハッキリとした階段状に積まれていました。

中道往還の旧道が利用されていた昭和の初期頃まで、ここには「信玄築石」と墨書された木製の標柱が立っていたそうです。
本当にこれが信玄の築いた(築かせた)石塁か否かはともかくとして、やはり何らかの形で本栖城に関連していた遺構と考えておくのが無難、といったところでしょうか。

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信玄築石の先へと続く中道往還。
ここから4~5分も歩くと、中道往還は再び国道139号に出ました。

この後は昼食休憩を挟み、本栖湖の周囲を一周して景観も楽しんでから、信長が凱旋旅の初日に泊った右左口へ向かいます。

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現在の千円札の裏側と同じアングルからの本栖湖・・・富士山が消えちゃってるけど(^_^;)

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2018年10月13日 (土)

良善寺

福島旅の最終日、宿を出発していわき駅近くに建つ良善寺へ。

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良善寺山門

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山門に残る戊辰戦争時の弾痕
こちらは向かって右側の扉のもので・・・

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左側の扉にも。

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本堂

良善寺の東方500mほどの場所には、磐城平城がありました。
戊辰戦争の真っ只中にあった慶応4年(1868)当時、磐城平城には前平藩主で老中も務めた安藤信正(坂下門外の変で幕政からは失脚)がいました。
信正が佐幕派でもあったことから同城は、平潟に上陸して浜街道を仙台目指して進攻してゆく新政府軍の攻撃を受け、同年6月末~7月中旬にかけて都合3度の戦闘が繰り広げられています。

良善寺もこの間の戦闘に巻き込まれたようですが、銃弾が撃ち込まれた具体的な日時や経緯についてはハッキリしていないようです。

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良善寺に眠る安藤信正の墓所。
その背後には・・・

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戊辰戦争戦没者たちのお墓がズラリと並んでいました。

今回、いわきに泊ることが決まった段階で磐城平城跡については一応チェックしていたものの、良善寺はノーマークでした。
情報をくれたフォロワーさんに感謝です。

この後は海産物店でお土産を物色したりしつつ、下道で日立市まで南下してから常磐道→圏央道経由で帰宅しました。
※日立までの道中は海沿いの国道を走ったのですが、随所に新しい防潮堤が築かれていて、車窓から海の眺めを楽しめるポイントが少なかったように思います。
これもきっと、あの地震の影響なのでしょうね。

3日間の総走行距離は約780㎞。
渋滞知らずでいいドライブとなりました。

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2018年10月12日 (金)

「戊辰戦争150年」展、他

白河からは国道289号を西北へ進み、「道の駅しもごう」での昼食休憩を挟みつつ、下郷からは国道121号を北上して芦ノ牧温泉駅へ向かいました。

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「ねこが働く駅」として有名な芦ノ牧温泉駅。

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残念ながららぶ駅長は出張中で会えませんでしたが、ぴーち施設長には会えました♪

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更に北上して会津若松市街に入り、福島県立博物館へ。
当館にて10月14日まで開催されている平成30年度秋の企画展戊辰戦争150を見学してきました。

入館できたのが16時頃だったこともあり、じっくり時間をかけてという訳にもいきませんでしたが、とにかく展示内容が充実していました。

・松平容保に賜った孝明天皇の御製や宸翰(共に複製)
・孝明天皇宸翰徳川家茂宛
・孝明天皇勅書
→元治元年6月、長州軍が京の都に迫る緊迫した情勢(後に元治甲子戦争へと発展)の中、「(前年の)八月十八日の政変は決して松平容保の私情によるものではなく、自らの叡慮に沿ったものである」といったことが記されている。

なども大変興味深かったのですが、何といっても私が一番魅かれた展示品は;

・土方歳三書状 内藤介右衛門・小原宇右衛門宛

に尽きます。

母成峠で旧幕府勢力が新政府軍に敗れた慶応4年(1868)8月21日の夜、土方歳三が会津藩重臣の内藤・小原両名へ宛てて、

明日の朝までには必ず新政府軍が(母成峠後方の)猪苗代まで攻め寄せてくるから、各方面に散っている部隊を残らず猪苗代へ集めて欲しい。
そうしないと明日中には、(猪苗代はおろか)会津若松城下までをも攻め込まれてしまうでしょう。

と書き送り、もはや一刻の猶予もならない緊急事態であることを急報した手紙です。
急なこととて実際に猪苗代へ兵が増員されることはなく、果たして歴史は、土方が訴えた通りの事態を迎えてしまうのでした。。。
(実際に新政府軍が会津城下に達するのは、翌々日の23日)

無論この史料の存在は知っていましたが、初めて実物を拝観することが叶い、感無量です。
さて、初日の宿は東山温泉に取りました。
私自身にとっては8月に続く再訪なので、今回は周辺の散策は省いて宿でのんびりしました。

翌2日目は喜多方へ移動して祖母に会い、昼過ぎまで買い物へ連れ出したり、昼食を共にしたりして過ごしました。

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お昼をいただいた「志ぐれ亭」

祖母を送り届けた後は磐越道で一気に移動し、いわき市の宿へ。

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宿の窓から、遠くに塩屋崎灯台を望む太平洋の夕景。
周囲には空地が多く、閑散としていました。きっと、あの日の津波によるものと思われます。

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宿での夕食。
これら以外にも多くの料理が供され、久しぶりに本気で食べ切れないほどの贅沢な食事に・・・(;^_^A

温泉もどういう訳か大浴場を独占することができ、大満足な滞在となりました。

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2018年10月11日 (木)

革籠原防塁跡

10月6~8日の3日間、家族と共に福島(会津~いわき)への旅に出かけてきました。

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初日、まずは白河ICで高速を下り、情報収集のため福島県立文化財センター白河館“まほろん”に立ち寄ってから・・・
(学芸員の方には親切に、いろいろと教えていただきました。ありがとうございました)

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まほろんのすぐ南側にある、革籠原防塁跡へ。

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遺構西側の、南北に伸びる土塁と堀。
写真は南側から北方向を見た様子で、この土塁と堀は奥の杉並木に沿って写真右方向(東)へ折れています。

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その東へ折れるポイント。
数年前にかなり大規模な伐採が行われたらしく、予め写真などで目にしていた姿からはすっかり様変わりしていました。
変に日当たりが良くなったために、かえって雑草が増えてしまったような・・・。

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東へと伸びる土塁と堀。
外側(左)にも堀らしき痕跡が浅く残っており、辛うじて二重に築かれていた名残を留めています。

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堀底から。

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東側から西の方角を振り返る。
この写真の方が、二重になっていた様子がわかり易いですね。伐採は残念ですが、なかなか見応えのある遺構であることは確かです。

二重に築かれた土塁の形状や堀幅が、向羽黒山城など上杉家が築いた他の城塁と合致する点が多いことから、これを慶長5年(1600)の徳川家康率いる会津征伐軍に備えた上杉家の防塁=革籠原防塁の跡としているようです。

しかし、江戸期の地誌類には「鍛冶屋敷」とも記されています。
そして私自身、残された遺構が少ないというのもありますが、周辺の地形を見渡して立地を考えた時に、なんだかスッキリしないものを感じました。

そして、これはまほろんで教えていただいたのですが・・・

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革籠原防塁跡から西(やや北西寄り)の方角には、石阿弥陀の一里塚があります。
周辺の発掘調査の結果、塚の間を中世~慶長期の奥州街道(奥州街道は江戸時代に入り、白河へ入封した丹羽氏によって付け替えられたと考えられるそうです)と推定される道が通っていたことが判明しています。
この道路遺構は、革籠原防塁跡とされている土塁や堀とほぼ平行するようにして通っていました。
一里塚付近からは中世の宿場町(芳野宿)の痕跡も出土していることから、この道路遺構が主要な幹線道路の一つであったことは確かです。
敵の進軍を止めるための防塁であるならば、むしろ街道と交錯していて然るべきではないでしょうか。

そもそも、上杉家が徳川家康率いる上方の軍勢を迎え撃つにあたり、白河を決戦の地と定め、「革籠原」に大防衛線を布いたとする説の根拠も、「東国太平記」や「白河口戦闘配備之図」といった江戸期に成立した軍記や、それを元に作成されたと考えられる図面に拠っているようで、実際には景勝や、兼続すらも白河には赴いていません。
無論、白河は上杉領への玄関口でもあり、重要な防衛拠点であったことに疑問の余地はありません。それなりに防衛拠点を構築してはいたでしょうが、長さ数kmにも及んだという防塁が本当に存在して、それもこの場所に築かれていたのかとなると、その根拠にはまだ疑問符がつくような気がします。

現時点でこの遺構を上杉家の築いた防塁跡と見るには、少々難があるのではないかと考えます。


さて、この後は下郷を経由して国道121号を北上しつつ、会津を目指すこととします。

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2018年9月17日 (月)

高坂館跡

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埼玉県東松山市高坂の高済寺。
この地にはかつて、高坂館と呼ばれる城館が存在しました。

高坂館の築城は14世紀頃、「太平記」にもその名が見える高坂刑部によるものと考えられているようです。高坂刑部は後に河越氏らの平一揆の乱(1368)に加担して敗れ、高坂の地を追われています。
後北条氏の時代を経て徳川家康が関東に入封すると、高坂は加賀爪氏に与えられて陣屋が構えられますが、加賀爪氏は後に成瀬氏と境界争いを起こし、天和元年(1861)に改易処分となりました。

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高済寺西側の土塁

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土塁外側に残る堀跡
(平成30年9月現在)発掘調査が行われていますが、調査後の土地活用について最近、未確認ながら様々な情報が錯綜していましたので、兎にも角にも一度は見ておこうということで急遽訪れました。

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城山稲荷

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西側土塁の北端部に並ぶ、加賀爪氏累代の墓所。
この辺りの土塁は、元々存在した古墳を取り込んで造成されていたようです。

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城域西北端の堀を見下ろす。

これらの土塁や堀の規模から、現在に残る遺構は中世高坂氏時代のものではなく、少なくとも戦国期以降に整備・拡張されたものと考えられています。
実際、明応3年(1494)に伊勢宗瑞(北条早雲)が、永禄4年(1561)には松山城を攻める北条氏政も高坂に在陣していることが史料(北条氏政書状写)で確認されているようです。

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土塁上から南の方角。
この土塁や堀は本来、更に先まで続いていました。

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城域最南端と推定されている付近に見られた古墳らしき茂み。
高坂館の南面にも、いくつかの古墳を取り込んだ土塁や堀が築かれていたようなのですが・・・今となっては偲ぶよすがもありませんでした。

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続いて城域東側へ。
高坂館は都幾川の段丘上に築かれており、その北と東は段丘崖に接しています。
写真は東側の段丘の縁。これに沿って北上していきます。

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「高坂上二丁の石橋」
旧八王子道の側溝の水を、崖下の耕地に流していた溝に架けられていたもの、とか。
裏面の銘文から、弘化2年(1845)に架けられたことが判明しているらしいのですが・・・その銘文は確認のしようもありません(笑)

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段丘上に降った雨水が湧き出る「高坂の七清水」の一つ、「高済寺下の清水」

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段丘下を縁に沿って北へ回り込むと、最初に見た加賀爪氏累代墓所下の堀跡に上がれそうな場所がありました。
早速ちょっと登ってみると・・・

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パッと見では堀跡というより、小さな腰曲輪が2段連なっているようにも見えました。
こちらは1段目で・・・

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少し上がった2段目。この先は高済寺西側の堀に続いています。
外縁部(写真右)には土塁らしきものも。

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その土塁状の高まり。
現状では腰曲輪のようにも見えるけど、堀が埋まって(埋められて?)削平地のような形状になったのかもしれません。

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高坂館、なかなかの見応えでした。
南側の遺構がある程度残っていれば更に良かったのでしょうが、周辺は宅地化が急速に進んでいる印象でしたので、それも無理な相談なのかもしれませんね…(;^_^A

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2018年8月29日 (水)

東山温泉 (天寧寺の湯)

8月26~27日は会津、東山温泉へのドライブ旅。
8世紀頃、行基によって開湯されたとも伝えられる東山温泉。周辺一帯が天寧寺の寺領だったことから、江戸時代の頃までは「天寧寺の湯」と呼ばれていました。

慶応4年(1868)4月の宇都宮での戦闘で足を負傷し、会津城下七日町の清水屋に滞在していた土方歳三も、東山温泉に通って怪我の療養に努めていたと云われています。
そんな東山温泉に一度は泊ってみたいとの思いを此度、ようやく実現させてきました。

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道中、白河小峯城にも立ち寄って・・・

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集古苑で開催されている特別企画展「戊辰戦争と白河」を見学したりしつつ・・・
白河口の戦いについては、コチラの記事を参照ください。

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午後3時過ぎには早々に東山温泉の宿、庄助の宿 瀧の湯に到着。

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チェックイン前にロビーで、抹茶と水羊羹のおもてなし。
右端の杯は何に使うのかと言うと・・・

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お酒が大好きだったと云う庄助さんにちなみ、なんとウェルカム利き酒のサービスまでありました。

会津の民謡「会津磐梯山」にも登場し;

朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした

と謡われる小原庄助
その出自や人となりには諸説あり、謎の多い人物とされています。
宿名に冠した「庄助の宿」は、そんな小原庄助が瀧の湯を訪れていたとの言い伝えに由来しているそうです。

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館内の売店で「庄助の酒」も販売されていますが、朝酒が好きだったという庄助にちなみ、朝だけ格安なお値段で購入できるサービスまでやっていました。
無論、私もお酒だけは翌朝になってから購入しました(笑)

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リーズナブルな宿泊プランの割には、お部屋も案外いい感じ。

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宿のすぐ脇に伏見ヶ滝
瀧の湯の大浴場や露天風呂は、この伏見ヶ滝のロケーションを売りの一つにしています。

心配していた雨もなんとか持ち堪えてくれたので、少し温泉街の散策に出かけました。

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「きつね湯」と称し、元は会津藩の保養所だった向瀧
土方が実際に利用していた湯が東山温泉のいずれだったのかは判っておらず、主な候補として三湯挙げられています。この向瀧がその一つ。
歴史を感じさせる建物に趣もあり、なんとも素敵な佇まいでした。

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こちらも候補の一つ、東山温泉最古の源泉とも云われる「猿の湯」を有する不動滝(新滝別館)の岩風呂(跡)。
「土方歳三 戦傷湯治の岩風呂」との案内板も掲げられていました。
※ちなみに本館の新滝は、元は会津藩主の別荘があった場所とされています。

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「猿の湯」の岩風呂は、あの土方歳三の絵の足元付近にあります。

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明治19年まで、東山温泉に至る本道(つまりは温泉街の入口)だった残念坂
湯浴みを楽しんで家路につく客が、後ろ髪を引かれる思いで「もう帰らないといけないのか、残念・・・」と呟いたとか呟かないとか。。。

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残念坂から続くみかえり坂
この先は会津の城下町へと続いていました。

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みかえり坂の沿道に建つ、羽黒山湯上神社の大きな鳥居。
もしかすると土方も、天寧寺で近藤勇のお墓に参った後、この鳥居の前を通ってみかえり坂をゆるゆると下り・・・

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あの角で右へ折れて・・・

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残念坂を下って東山温泉に通っていたのかもしれませんね。

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たまたま見かけた射的屋。
とってもノスタルジックな昭和の香りが漂っていました。
もし幕末の頃にも営業していたら、土方も「おのれ、薩長の奴らめ!」なんて言いながら、ムキになって遊んでいたのかも・・・なんて考えてみたり(笑)

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東山温泉には多くの文人墨客も訪れています。
竹久夢二もその一人。彼がよく逗留していた新滝の前には歌碑も建てられていました。

さて、ここらで散策を終え、宿に戻って夕食前にひとっ風呂浴びることにします。

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大浴場前に展示されていた小原庄助愛用の石風呂

ところで先程、土方歳三療養の湯には候補が三つあるということを書きましたが、その最後の一つこそ、私が今回お世話になった瀧の湯です。
瀧の湯にはその昔、会津藩の共同湯がありました。
(向瀧の「保養所」に瀧の湯の「共同湯」・・・違いがイマイチよく分かりませんが、前者は上級藩士用、後者はそれ以外の一般藩士にも開放されていたもの、と解したらよろしいのでしょうかね)

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そんな訳で大浴場には「瀧の湯こそ土方歳三療養の湯と考えられる」との見解が綴られた案内書きもありました…(^_^;)
※根拠の一つとして「土方が滞在していた清水屋や、お参りしていたであろう近藤勇のお墓がある天寧寺から一番近く、足を怪我していた土方が一番近い湯につかりに来ていたと考えるのは自然なこと」といった趣旨のことが書かれていましたが、確かに直線距離としては市中から一番近い場所に位置しているものの、先ほど見てきたみかえり坂~残念坂のルートが東山温泉への本道とすると、経路的には必ずしも一番近いとは言えないような気もします・・・他にもルートがあったのであれば別ですが。
(それ以前に、そもそもが小さな温泉街なので、遠い近いと言ったところでたいした差でもありません)

結局のところ、確かな史料で確認できない以上、確定することも難しいでしょう。
しかしそれでも、その可能性のある湯に150年の時を経て実際に浸かることができる喜びは、ファンにとってはやはり格別なものがあります。

実際に体感した瀧の湯は、透明でサラッとしたお湯。
水温は、ぬる湯にのんびりとつかりたい派には少々高めですが、とても気持ちのいい時間を過ごせました。
※温泉には全く見識がないので、この程度の感想でご容赦ください(笑)

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夕食の献立
くどいようですが、料金の割にはしっかりと食べさせてくれました。

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夜、ロビーではプロジェクションマッピングの上映も。
川を挟んだ対岸に設置された能舞台に投影されています。

こうして東山温泉の夜は、ゆったりした心地の中で更けてゆくのでした。。。

翌朝は4:30の利用開始時間と同時に大浴場へ。
昨晩とは男女入れ替えとなっており、先客僅か1名の広々とした中、また新たな気分で温泉を楽しめました。

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更には、通常は予約制の貸し切りとなっている露天風呂のうち、川っぺりの岩風呂「幻の湯」が朝は男湯として開放されていましたので、そちらも楽しませていただきました。
目の前には昨晩、プロジェクションマッピングを投影していた能舞台も。

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岩風呂のすぐ横を流れる川。
東山温泉で湯治していた土方歳三は、風呂場から川に飛び込んだというエピソードを残しています・・・本当であれば、足を怪我しているのに何してんだか ┐(´-`)┌ といったところですが(笑)
しかしなんだかとっても、その時の光景をイメージしやすいロケーションだなぁ~とは感じました。

この後、会津若松市は大雨となりましたので、もう少し入浴時間が遅くなっていたら川の増水で「幻の湯」には入れなかったかもしれません・・・まさに、早起きは三文の徳!?

さて、朝食バイキングを済ませ、部屋でチェックアウトの準備をしていると、先述の通り空からは滝のような大雨が。。。
本来であれば天寧寺にも寄って、久しぶりに近藤勇のお墓にお参りして行きたかったところですが、本堂から山道をそこそこ登るので、大雨ではアウト。

あまりの本降りに自宅への直帰も考えましたが、いざチェックアウトを済ませて表へ出てみると少し弱まっていましたので、まずは飯盛山へ向かってみることにしました。

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自刃した白虎隊士中二番隊十九士の墓所や、ただ一人蘇生して生き残った飯沼貞吉(貞雄)のお墓にもお参りして、自刃の地へ。
鶴ヶ城の天守が遠く雨に煙っていました。

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縁あって会津には何度も来ているのですが、飯盛山参拝は実に30年ぶりとなりました。

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ご存じ、さざえ堂。

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戸ノ口堰洞穴

白虎隊伝承史学館にも立ち寄り、山川大蔵が斎藤一に贈った書(初公開)も拝観してきました。
つとむてふ君がその名にそむかずばたかくいさほのたださだめやは
※つとむ(勉)=斎藤一の子息

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続いて鶴ヶ城へ。
天守から望む小田山、そして先ほどまで滞在していた東山温泉方面。
天守登閣も30年ぶりとなりました。

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帰路は会津西街道(下野街道)のルートを辿りつつ、今市(日光市)辺りまでは下道を走りたかったのですが、天守から確認した南方の山々に厚い雨雲がかかっていましたので、それも諦めて磐越道→東北道のルートを採りました。

会津にはまた近いうちに足を運びますので、今回諦めた行程はその時にでもトライしてみます。
今回はとにかく、東山温泉を満喫できたので良しとしたいと思います。

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2018年8月23日 (木)

市村鉄之助の墓参

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旅のラストは大垣へ移動し、全昌寺へ。

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市村辰之助・鉄之助兄弟の眠るお墓にお参りさせていただきました。

市村鉄之助
慶応3年(1867)に兄・辰之助と共に14歳で新選組に入隊し、土方歳三付の小姓となります。
翌年の鳥羽伏見や甲州勝沼での敗走後、辰之助は新選組を脱走しますが鉄之助は残り、土方に従って箱館まで旧幕府軍の戦いの中に身を置きました。
土方をして「頗る勝気、性亦怜悧」と評されています。
明治2年(1869)5月、土方の命を受けた鉄之助は箱館を脱し、決死の思いで日野宿の佐藤彦五郎宅へ土方の肖像写真をはじめとする遺品を届けました。
2年ほど佐藤家の世話になった後に大垣へ帰郷、明治6年(1873)に病死したとも、同10年の西南戦争に参戦して戦死したとも伝えられています。

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(参考)日野宿本陣(旧佐藤邸)、鉄之助が2年間住んでいた一間。

一般に鉄之助の戒名は、養浩院廓然良機居士と伝えられていますが、墓石に該当するものが見当たりませんでした。
・・・隣光院寂然良久居士が近いかな?

なお、有隣院一官宗徳居士が兄・辰之助のものです。

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全昌寺には大垣藩の重臣、小原鉄心のお墓もあります。

鉄心は慶応4年1月、新政府で参与に任じられています。
しかし大垣藩は、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍に属しており、鉄心の養子・兵部も出陣していました。これを受けて鉄心は大垣へ急行し、藩主戸田氏共を説得して藩論を新政府恭順にまとめ上げることに成功しました。
これ以降大垣藩は、新政府軍の一翼を担って戊辰戦争を戦っていきます。

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全昌寺のすぐ裏手、奥の細道むすびの地記念館に移築されている小原鉄心の別荘、無可有荘 大醒榭(※「木」へんに「射」)

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ついでにもう少し散策を続けます。
天保11年(1840)に建てられた住吉燈台船町港跡

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そして大垣城・・・実に14年ぶりの再訪です。
しかも前回は豪雨の中で、結局天守まで近づけなかったのでした。

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関ヶ原合戦直前、石田三成ら西軍の本営が置かれた大垣城から、東軍の赤坂岡山(勝山/写真右方向)、そして南宮山越しに関ヶ原方面を見渡す。

今回の2泊3日、天候にも恵まれたお陰でとにかく暑かった・・・。
3日間で体内の水分が全て入れ替わったのではないかと思えるくらい、よく汗をかきました。
それでも多くの場所を訪れ、たくさんの学びを得られたのは偏に仲間のお陰。感謝に堪えません。

さて・・・次の遠征は果たしてどこになるやら。
その時期は・・・案外近いかも?

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2018年8月22日 (水)

揖斐 旗本岡田家、横倉喜三次ゆかりの地

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揖斐陣屋跡の碑
慶長5年(1600)の関ケ原合戦の後、揖斐は西尾光教の領地となります。
光教は山上の旧揖斐城の麓に新たな城を築き、揖斐藩3万石の拠点としますが、1623年に2代嘉教が亡くなると揖斐藩は無嗣断絶となり、揖斐は天領となりました。
寛永8年(1631)、美濃郡代を務める旗本岡田氏が代官として着任し、揖斐城を改修して陣屋としました。

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三輪神社
中嶋流砲術の額が奉納されているのですが、そこには岡田家の武術指南役を務めた横倉喜三次も一番に名を連ねています。
岡田家は慶応4年(1868)、戊辰戦争に於いて新政府に恭順して東山道軍に兵を派遣しますが、喜三次はその岡田隊の副隊長として従軍しています。その過程で下諏訪では赤報隊の相楽総三の、板橋では新選組近藤勇の太刀取りを務めました。

ダメ元で拝観をお願いしてみようと思っていましたが、この日は何故か社務所も不在で叶いませんでした。

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三輪神社横に建つ三霊神社
岡田家の初代善同、2代善政、8代善明の3人を祀ります。

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三輪神社拝殿

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三輪神社の向かい、横倉喜三次が開いた道場忠信館跡。

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三輪神社の隣り、松林寺
長禄2年(1458)の創建と伝わります。
慶長年間には揖斐藩主西尾家の菩提寺として再興され、岡田家2代善政も自らの菩提寺としています。
横倉喜三次もこの寺で、近藤勇らの供養をしていたとか。

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先の小倉山城の記事でも書きましたが、善政は無嗣断絶となった上有知藩の後処理にあたった際、小倉山城にあった金森長近の名が入った梵鐘を松林寺に持ち帰っています。

奉鋳鐘
濃州武芸郡小倉庄館置之
慶長十乙巳季九月十三日金森兵部卿法印素玄

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松林寺には岡田家歴代の供養塔(写真)や、その横には9代善功(雪台/松林寺住職も務める)の墓碑もあり、

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更には、初代揖斐藩主・西尾光教夫妻らの墓所もありました。

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松林寺の近くには「弁慶の腕だめし石」なるものがあり、大きな手形もついていましたが、これは9代善功が松江藩主・松平不昧の養子を経て岡田家に養子入りしていることから、松江藩のお抱え力士であった雷電為右衛門の手形ではないか、とも云われているそうです。

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ひょんなことから立ち寄った長源寺。

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長源寺の本堂には、古く朽ち果てた駕籠が吊るされていました。

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大興寺

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大興寺境内

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大興寺にて、横倉喜三次の墓所にもお参りさせていただきました。

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大興寺には本郷城の項でご紹介した土岐頼忠の兄で、同じく美濃守護頼康の弟、土岐頼雄のお墓もありました。
頼雄は揖斐頼雄とも称しています。

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2018年8月21日 (火)

道三塚や稲葉一鉄ゆかりの地など

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旅の3日目、最終日は道三塚からスタートです。

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弘治2年(1556)の長良川の戦いで息子の義龍に敗れ、あえなく戦死を遂げた斎藤道三
彼の遺骸は崇福寺の南西、長良川の河畔に埋葬されましたが、度重なる洪水で塚は幾度となく流されてしまいました。

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現在のもの(崇福寺の北西)は天保8年(1837)、斎藤家の菩提寺・常在寺住職の手によって建碑され、供養されてきたものです。

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続いて本巣郡北方町の北方城跡へ。
西美濃三人衆の一人、安藤(安東/伊賀氏)守就の居城として知られます。
守就は土岐・斎藤・織田と仕えますが、天正8年(1580)、織田信長から追放処分を受けて北方城も召し上げられました。
しかし、その信長が本能寺の変(天正10年)で斃れると旧領奪還を目論んで挙兵し北方城に拠りますが、最後は斉藤氏に攻められて討死しました。
北方城跡の近くには、守就戦死の地もあります。

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碑の建つ一角は、本丸のごく一部と考えられています。
周囲には堀の痕跡と思われる用水路なども残っているようですが、今回は先を急ぐのでこの辺で。

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揖斐郡池田町本郷の本郷城跡

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築城時期や築城者はハッキリしていませんが、後に美濃国守護となる土岐頼忠や、その子の頼益が在城していた時期もあるようです。

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それ以降は国枝氏の居城となりますが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで岐阜城主・織田秀信に従って西軍に属したため、城は東軍によって焼き払われて廃城となりました。

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今でも主郭北西隅の土塁と櫓台が僅かに残ります。

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櫓台に残る石垣の隅石。

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なお、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄(良通)もこの本郷城で生を受けています。

本当はこの後、揖斐川町の旗本岡田氏や横倉喜三次関連の史跡をめぐったのですが、記事の構成上、そのレポは次に回して先へ進めます。

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揖斐郡揖斐川町清水の清水城跡
稲葉一鉄が天正年間に築城したと伝わります。

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一鉄の菩提寺、月桂院

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月桂院本堂では、稲葉一鉄の御位牌や肖像画、書状類などを拝観させていただきました。
※その中に、飯沼勘平に宛てた織田信長のものらしき感状や書状もありました。
感状は元亀二年付。飯沼勘平は「信長公記」にも度々その名が登場します(1600年の米野・岐阜城外での戦いで討死した飯沼父子は、その子と孫)が、信長の花押や署名の筆跡など、少々腑に落ちない点もあるので詳細は省きます。

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稲葉一鉄の陣鐘
清水城内で陣鐘として用いられていた梵鐘。領民が揖斐川から拾い上げ、一鉄に献上したものと伝わります。
元応二年(1320)の銘があり、岐阜県下では2番目に古い梵鐘になるそうです。

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稲葉神社

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稲葉一鉄の墓所
右に貞通(一鉄嫡子)室、一鉄室、貞通後室(織田信長妹、或いは姉とも)のお墓も並んでいました。

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