2018年1月20日 (土)

圧切長谷部と対面

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久しぶりの空の旅で、5年ぶりに福岡へお邪魔します。
空から見下ろす富士山がまた綺麗でした。

日本海側を覆う寒波の影響で雪の降りしきる福岡へ到着後、まず最初に向かったのは福岡市博物館です。

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母里太兵衛が福島正則から呑み獲ったとの逸話でも有名な名鎗・日本号
元々は朝廷の御物で、正親町天皇から足利義昭、織田信長、豊臣秀吉の手を経て正則へと渡りました。

その日本号の横に、今回の福岡旅を決めた最大の目的のものが・・・

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国宝・圧切長谷部
膳棚の下に逃げ込んだ茶坊主を、織田信長が棚ごとへし切ったとの逸話からその名で呼ばれています。
黒田官兵衛が天正3年(1575)に岐阜で信長に謁見した際に拝領したとも、信長から秀吉の手を経て伝わったとも云われますが、以降は黒田家の家宝として伝来しました。

大太刀を磨り上げて短くしています(刃長64.8cm/茎長16.7cm)。
考えてみれば信長は、宗三左文字(義元左文字)も義元から接収後に磨り上げ、大太刀を刃長67cmの打刀に改めています。
一概には言えないのかもしれませんが、大太刀よりも振り易くて実戦的な打刀を好んだのかもしれません。

圧切長谷部は「黒田家名宝展示」の中で、平成30年1月5日~2月4日まで展示されています。

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新春特別企画「黒田家の刀剣と甲冑展」(同1月7日~2月12日)では、圧切長谷部の拵(国宝)も展示されています。

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長谷部の拵の隣りには、やはり官兵衛の愛刀だった安宅切の拵(右/重要文化財)も並べて展示されていました。
共に金霰鮫青漆打刀拵という様式ですが、反りの違いが一目瞭然です。

ようやく念願叶って対面した圧切長谷部・・・寒さも忘れる至福のひと時。
平日とあって想定外に人も少なく、ゆっくりと拝観することができました。

※金印もちゃんと拝観してきました。

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2018年1月 7日 (日)

大庭城

本日(1/7)は、神奈川県藤沢市の大庭城址公園までドライブしてきました。

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大庭城は南北に伸びる舌状台地に築かれた城跡で、その起こりは定かではありませんが、源頼朝に仕えた大庭氏の拠点だったとも考えられています。
その後、室町時代中期に太田道灌の手により本格的な築城が成され、北条早雲(伊勢新九郎)に攻略されて後は北条氏の支配下に置かれたとも伝えられています。

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大庭城縄張図
図面上が北になります。

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Ⅳ郭東側の空堀aは・・・ド藪(^_^;)

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Ⅲ郭とⅡ郭間の空堀b
こちらは規模も大きく、割と形状をハッキリと確認できました。

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cのコーナー部分

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Ⅱ郭とⅠ郭間の土橋から見る堀切、その東側。
城址公園として整備されているのは平坦な曲輪面のみで、堀跡などは基本的に藪に覆われていました。

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同じく西側。この先は・・・

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竪堀として落とされています(d)。

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Ⅰ郭から、その堀切越しにⅡ郭を見る。

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台地の先端、Ⅰ郭。
昭和43年の発掘調査で明らかになった、建物の掘立柱址を示す石柱が建てられています。

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Ⅰ郭で見かけた・・・井戸跡?

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城跡西側の横堀

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Ⅱ郭とⅢ郭間の堀切跡(の窪み)。
堀切は、写真右手前の笹藪の先まで続き・・・

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そのまま竪堀として落とされていました(e)。

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fの竪堀

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城下、西側から眺める大庭城遠景。

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大庭城の南麓には、お地蔵さんが舟に乗った舟地蔵が祀られていました。

大庭城を攻める北条早雲は、城の周囲を取り囲む沼地に手を焼いていました。そこで近くに住む老婆に尋ねると、引地川の堤を切れば沼はたちまちに干上がると言います。
これによって早雲方は大庭城を攻略することができましたが、機密の漏洩を恐れ、その老婆を殺害してしまったとの伝承が伝えられています。
この舟地蔵は、その老婆を供養するためのものと云われているようです。

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2018年1月 4日 (木)

三枚橋城(沼津城)、興国寺城

2018年1月3日、家族からの要望で沼津までドライブへ出たついで?に、いつもはスルーしていた三枚橋城(沼津城)にも立ち寄りました。
といっても、遺構は完全に消滅してしまっていますが・・・これが今年の城初め。

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近世沼津城図

天正7年(1579)、御館の乱をめぐる外交のもつれから関東の北条氏と断交した武田勝頼は、駿豆国境にあたる沼津の地に三枚橋城を築いて対北条氏の前線拠点としました。
関ヶ原合戦(1600)の後には大久保忠佐が入城しますが、忠佐の死後、世子不在により大久保家が断絶となると、三枚橋城も廃城されました。
後に水野氏が沼津を拝領し、三枚橋城の跡地に沼津城を築きますが、その規模は三枚橋城の北半分程度だったとか・・・勝頼の築いた三枚橋城は、上の図の倍近い規模を誇っていたのですね。
※以降も勝頼~忠佐時代のものを「三枚橋城」、水野氏による近世のものを「沼津城」と表記を分けて記します。

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中央公園に建つ沼津城本丸址
先の図面(以下「図」とのみ記す)で現在地とある地点です。
足元の石は近くの静岡中央銀行新築工事の際に出土したもので、現地案内板では「三枚橋城当時の石垣に使われていたもの」と断定していました。
静岡中央銀行の位置を図で確認してみると、確かに近世の沼津城の範囲から微妙に外れているようですが、そのためでしょうか?

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aの復元石垣
位置からして、大手虎口付近の石垣となります。

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b地点の復元石垣
こちらも沼津城の範囲からは外れていますので、もしこの地点から発掘されたものであれば勝頼~大久保忠佐時代の三枚橋城のもの、ということになりますでしょうか。

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沼津城のすぐ南には、旧東海道が通っています。

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「東海道分間延絵図」に描かれた沼津城。
沼津城を築くにあたり、東海道を曲げて迂回させた様子が見て取れますが、三枚橋城の城域は更に南へ延びていたと云うことですから、或いは街道を城内に取り込むようにして築かれていたのかもしれません。

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旧東海道から、本丸との地形の高低差を確認する。

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三枚橋城から狩野川越しに東方を眺める。
写真中央奥には、北条方の最前線拠点・戸倉城があります。そのすぐ北から流れ込んでいる黄瀬川が当時の駿豆国境となっていたため、戸倉城のある地は伊豆国とされていました。
まさに武田と北条が対峙していた距離感です。


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さて、折角沼津へ来たので興国寺城まで足を延ばします。

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興国寺城本丸跡
実は私、興国寺城にはこれが初めての訪問だったのですが、いきなりの物凄い土塁の規模に心底驚かされました。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は今川氏親の家督相続に尽力し、その功によって興国寺城を与えられました。
まさに北条五代百年発祥の地と言えます。

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その北条早雲と、興国寺城最後の城主となる天野康景の慰霊碑。
康景は徳川家康に仕え、岡崎三奉行にも任ぜられて「どちへんなし(彼是偏無し)の三郎兵衛」と称された公平な人物として伝えられます。
関ヶ原合戦後に興国寺城を与えられましたが慶長12年(1607)、城の修築用の竹木を盗もうとした者を康景の家来が殺害するという事件が起こります。
一見すれば康景の家来に正当性がありますが、この盗人が天領の民であったことから問題が大きくなり、康景は家康側近の本多正純から、盗人を斬った家来を差し出すよう迫られます。
ところが、この家来を庇おうとしたのか康景は正純の指示には従わず、あろうことから城を捨てて出奔してしまいました。
これにより天野家は改易され、興国寺城も廃城となりました。

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本丸の背後(北)を固める土塁に残る伝天守台の石垣。

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伝天守台
礎石らしき石が並んでいました。

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伝天守台から城下を眺める。
真正面からの逆光で苦しい写真となってしまいましたが、彼方には駿河湾もハッキリと視認できました。

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伝天守台から見下ろす、本丸北側の空堀。
とにかく深くて規模が大きいです。

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コントラストがきついですが、この規模が伝わりますでしょうか・・・。

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西櫓台

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最後は堀底へ。
伝天守台の土塁が、しっかりと横矢を掛けています。

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堀底を西へ進むと不思議な穴がありましたが・・・中を覗いても真っ暗でよくわかりませんでした。

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こちらの切通しを抜けると・・・

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城の西側へ出ます。奥の地形が上がって谷戸になっていました。
この辺りは当時、沼地になっていたようです。

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土塁と空堀の規模は本当に素晴らしかった・・・興国寺城。
今回は家族連れでの訪問だったため本丸の周囲しか観ていませんが、何れ再訪の機会があれば範囲を広げてめぐりたいと思います。

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2017年12月24日 (日)

峯城と古城(フルシロ)

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峯城遠景

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峯城想像復元図
1枚目の遠景は、この図に「青館」とある付近から撮影しています。間を流れているのは八島川。
※郭のローマ数字は便宜上、現地で使用した測量図に合わせたものです。

天正11年(1583)、賤ヶ岳で対峙する羽柴秀吉と柴田勝家。その勝家と連携する滝川一益は、関盛信・一政父子が秀吉の元に赴いた隙を衝いて亀山城を占拠し、更に峯城を岡本良勝(宗憲)から奪って家臣・滝川益重を入れます。
これを受けて秀吉は直ちに峯城を包囲し、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、益重は城を開いて退去しました。
峯城は織田信雄の管理下となって彼の家臣が入城しますが、翌天正12年、秀吉と信雄が対立(小牧長久手の戦い)すると、秀吉は蒲生氏郷・関一政らに峯城を攻めさせ、峯城はまたしても落城の憂き目を見ることになりました。

天正18年、秀吉政権下で峯城に返り咲いていた岡本良勝が亀山城へ移るにあたり、峯城はその役目を終えて廃城になったと伝えられます。

今回は城の北側からアプローチしました。

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まず出迎えてくれたのは「かんざし井戸」
落城の折、城主の奥方が宝物の銀のかんざしをさし、この井戸に身を投げたとの伝承からそう呼ばれています。

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aの枡形虎口

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上から見ると、ちゃんと枡形になっている様子が分かります。

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郭の土塁

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b部分
想像図では郭として描かれていませんが、2段に綺麗に削平されています。

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郭は鬼藪・・・

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郭は鉄塔(と藪)

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郭西側の土塁

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郭の西虎口

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西虎口から帯郭に出て、郭と本丸(郭)間の堀切方向を見た様子。
写真←方向に堀切がありますが、あまりの藪のため写真は撮りませんでした(^_^;)

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本丸北西の切岸を見上げる。
この頭上には櫓台があったものと思われます。

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本丸切岸の高さを、人尺付きで体感してください。
(写真提供:流星☆さん)

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本丸の切岸下をグルッと回り込み、南虎口から本丸へ。
但しこの南虎口、その先に続く通路のような掘り込みが単なる水抜き用の側溝のようにも見え、明らかに後世の改変を受けた雰囲気を感じましたので、果たして本当に虎口だったのかは少々疑問です。
※東面にも虎口があるようなのですが、残念ながら激藪のため探索を諦めました。

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本丸の土塁
この土塁上を進んで天守台へ向かいます。

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天守台
天守台には方形に窪んだ箇所があり、今流行り?の穴蔵構造か!?とも思いました。

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天守台の斜面には、石垣の跡が僅かに残っています。

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石垣の隙間からは裏込め石(栗石)も見えています。

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他では見受けられませんでしたので、天守台など重要な箇所にのみ、石垣を用いていたのでしょう。

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城域の南端、尾根を断ち切る大きな堀切(c部分)

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更に先にもう1本ありました。

峯城・・・なかなか見応えのある城跡でした。
さて、ラストは峯城から八島川を挟んだ対岸にある古城(フルシロ)へ向かいます。

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古城縄張図

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車道沿いのaの虎口から侵入を試みますが・・・
虎口の先はあまりのド藪具合に、さすがの猛者たちもちょっと躊躇したほど(^_^;)
曲輪内はまず、まともに歩くことも叶いませんので、土塁上を進んでいくことにします。

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bの空堀

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cの土橋

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cの土橋を渡った先は、土塁を畝状に連ねたような不思議な形状をしていました。

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dの喰違虎口

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峯城と対峙する西側には、立派な横堀が廻らされていました。

古城はその名から、1300年代に峰城を築く以前までの峯氏の居城とも考えられていますが、その遺構からは織豊期の付城・陣城の雰囲気を感じます。
天正11年~12年にかけての秀吉軍による峯城包囲戦の際に改修され、峯城攻めの拠点として利用されたものと思います。

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最後に古城から、包囲する峯城を遠望する。。。

この日訪れたお城はどれも遺構・歴史両面で大変興味深く、とても充実した城攻めとなりました。
お誘いいただいた方や現地でご案内いただいた方、同行者皆さんに感謝ですね。楽しかったです。

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釆女城

旅の2日目は三重県へ移動し、四日市~亀山の城をめぐります。

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移動途中、桑名で旧東海道七里の渡し碑を眺めつつ・・・

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浄土寺へ立ち寄り。
徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の墓所にお参りします。

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浄土寺の近代的な山門。
鹿角脇立兜に蜻蛉切・・・洒落てますね。

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本多忠勝墓所
彼を追って殉死した家臣らの墓碑も建っていました。

四日市駅前で他の参加者とも合流し、総勢9名で向かった先は・・・

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四日市市の釆女城

永禄11年(1568)、足利義昭を奉じての上洛戦の前に織田信長は伊勢に進攻、伊坂城や市場城などに続き、釆女城を攻略して北伊勢を制圧していきます。
この北伊勢攻めをきっかけに神戸具盛や長野具藤が織田方に降伏し、信長は息子の信孝を神戸家へ、弟の信包を長野家へ養子として送り込み、伊勢攻略の地歩を固めていきました。

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五の郭への枡形虎口

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その枡形虎口を上から・・・綺麗な四角(枡形)をしています。

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五の郭と一の郭間の空堀

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一の郭の井戸跡

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一の郭北面の土塁
郭のコーナー部分(写真奥)は土塁が厚くなっており、櫓が建っていたのではないかと思われます。

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一の郭から空堀越しに、二の郭を見る。

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一の郭と二の郭間の空堀・・・かなりの規模です。
尾根を分断する「堀切」でいいのでしょうが、不思議と両サイドの縁を削り残して土橋のようにしていたので、あえて「空堀」としました。

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二の郭にも土塁が明瞭に残り・・・

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やはりコーナー部分には櫓台がありました。
写真は櫓台の上から、三の郭方向を見ています。案内板の奥に空堀が見えています。

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二の郭と三の郭間の空堀

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三の郭から東の斜面を下り、斜面下に残る遺構を見ていきます。
上写真正面は、先の縄張図aの土塁(横から)。

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一の郭~二の郭間の空堀下には、静岡の丸子城にもあるような半円状の橋頭保bが築かれていました。
横堀と土橋の先に続く半円状の削平地が、写真でおわかりいただけますでしょうか・・・?

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こちらは四の郭への虎口
ちょっとわかりづらいですが、やはり左へ折っています。
この虎口の先にはもう一つ、北側の斜面からのルートに繋がる虎口があり、そちらは内枡形のように土塁で受けていました。差し詰め「二重枡形虎口」と言ったところでしょうか。

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四の郭西面の土塁
あちらの土塁の先は・・・

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深い堀切になっています。

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その堀切から北側の斜面には、竪堀も落とされています。
写真は竪堀を横から撮影したもので、水色の服の同行者が立っている辺りが竪堀の底。

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四の郭からしばらく何もない尾根をダラダラと下った先、cの削平地に転がっていた五輪塔などの石材。
専門の方によると、宝篋印塔の形状から16世紀頃のものではないか、とのことでした。

九の郭を含めた山麓付近の削平地には寺院、或いは畑の跡のような雰囲気も感じ、四の郭との間に何もなかったことも踏まえ、果たして城の遺構としていいのかは参加者一同、少々懐疑的でした。
dの辺りには、池・滝・弁天島などを備えた庭園跡とも受け取れる痕跡がありました。

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六の郭の幅広な土塁上から、五の郭との間の堀切を見る。

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最後に八の郭へ。
写真は一の郭(左)と八の郭間の堀切。
ここには土橋がなく、一の郭の切岸との高低差から橋を架けることもできそうにないので、八の郭は完全に独立した郭だったことになります。

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八の郭南端の虎口の先には土橋が架かり、土橋の左は切岸、右は空堀になっていました。
この土橋を進み、空堀に沿って右へカーブした先は・・・

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土塁を広げたような削平地が設けられていました。
右が八の郭との間の空堀。

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その空堀から、正面に八の郭からの土橋を見る。

さて、これにて釆女城攻めは終了です。
一通り観てまわった印象としては、とにかく規模がデカい!とても一土豪・国人クラスのお城とは思えませんでした。
やはり織田軍が占拠した後、自らの軍事拠点として改修の手を加えたのではないでしょうか。

この後は亀山市の峯城へ向かいます。

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2017年12月23日 (土)

竹ヶ鼻城水攻めの舞台

白鬚神社~八神城跡とまわった後は、羽柴秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの舞台をめぐります。

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羽島市歴史民俗資料館前に建つ竹ヶ鼻城本丸之址碑。
竹ヶ鼻城の遺構はほぼ全て失われていますが、資料館付近が本丸跡と推定されているようです。

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資料館向かい、竹鼻別院の門前に建つお城地蔵大菩薩
慶長5年(1600)、織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は関ヶ原合戦の直前、福島正則ら東軍に攻められて落城しています。
この時の戦没者を供養しようと、昭和になって建立されました。

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羽島郵便局前に建つ一夜堤の跡
※後出地図(以下略)a

慶長5年から遡ること16年の天正12年(1584)4月、長久手での戦闘で徳川家康の軍勢に敗れた羽柴秀吉は、その矛先を家康と連携する織田信雄へ向けます。
同年5月、まずは信雄方の加賀野井城を落とし、更に竹ヶ鼻城へと迫りました。
竹ヶ鼻城の東には足近川から分岐した逆川の堤防があったため、北から西、南にかけて堤を築き、足近川から水を引き入れて城を水攻めにしました。
aの石碑の東、逆川と交錯する付近には「下土手」という交差点もあります。

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aの石碑から西へ進み、県道151号と交わる「竹鼻町蒲池」交差点に建つ石碑b

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bから県道151号を北東方向へ進んだ「竹鼻町今町」交差点付近に建つ石碑c
碑の建つ場所がまさに堤跡であることを示すかのように、写真奥の地形が下っていますし、堤跡のライン上と思われる通りの延長上には・・・

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とても興味深い土盛りが残っていました。
上には小さな祠が建っています。だからこそ、奇跡的に消失を免れた堤の一部ではなかろうかと密かに考えています。

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石碑abのライン上に、北西方向へ進んだ先。
この通りも堤の跡だろうとおもっていたら・・・

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やはり通り沿いの斎場の敷地に石碑dが建っていました。

以上の4基で、一夜堤石碑めぐりはコンプリートです。

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ラストは竹ヶ鼻城の北西1㎞、間島太閤山跡の碑。
その昔、旧間島村には40m四方ほどの丘陵があり、竹ヶ鼻城を水攻めにする秀吉が本陣を布いた場所と伝えられています。

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その丘陵も宅地等の造成でかなり失われたようですが、八幡神社の建つ部分だけが今でも残されています。

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太閤山の八幡神社。
実際に上まで登ってみましたが、樹木に遮られ、残念ながら竹ヶ鼻城方向の視界はききませんでした。

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間島太閤山碑の裏に並べられていた五輪石。
丘陵削土の際に出土したもので、水攻めによる戦没者を祀ったものではないかと考えられています。

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太閤山の付近で足近川・逆川が、長良川より分水していました。
逆川はこの先、竹ヶ鼻城の東側を通ることになります。

今回めぐった地を現在の地図に落とし込むと下のようになります。

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こうして見ていくと、秀吉による竹ヶ鼻城水攻めの全容、その規模が見えてくるような気がしませんか?

水攻めにより孤立した竹ヶ鼻城は同年6月、秀吉方の降伏勧告を受け入れて開城します。
そしてその16年後、再び歴史の表舞台に登場し、最期の花を咲かせることになるのでした。

さて、旅の初日の行程はこれにて終了です。
2日目は三重県へ移動しての城攻めとなります。

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2017年12月22日 (金)

八神城と金宝寺

白鬚神社参拝後は昼食を挟み、羽島市桑原町の八神城跡へ向かいます。

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木曽川の畔に建つ八神渡船の跡碑を眺めつつ・・・

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まずは金宝寺へ。
八神城主・毛利氏の菩提寺です。

八神毛利氏は土岐・斎藤・織田氏などに仕えた一族で、江戸時代に入ると尾張徳川家で2000石(当初は3000石)を宛がわれました。

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特別に本堂へ上げていただき、江戸時代の古絵図を元に製作された八神城の模型や・・・
(模型の一番奥が金宝寺。この位置関係を参考に、後ほど城跡を歩きます)

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毛利氏が徳川家から拝領した駕籠を拝観させていただきました。

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駕籠は江戸中期の作と推定されています。
装飾の美麗さは、相当な格式を思わせました。

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毛利氏歴代(初代~13代)の墓所

金宝寺を辞した後は、八神城の主郭があったと思われる方向へ向かって歩きます。

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左奥の大きな銀杏の木を目印に進みます。
写真右に見えている土塁のような土盛りも気になるところ・・・。

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市の天然記念物に指定されている銀杏の足元には、八神城の土塁が僅かに残っていました。
ちなみにこの銀杏、推定樹齢は300年以上で、毛利氏が移植したものと云われています。
なお、現在も八神氏のご子孫がお住まいで、先に訪れた金宝寺のご住職も縁戚なのだそうです。

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周辺には堀跡を思わせる箇所もありましたが、正確な位置関係は把握しきれませんでした。
また、周辺には八神城の移築門が2基現存しているそうですが、事前に下調べをしていなかったので見逃しました。

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2017年12月21日 (木)

白鬚神社 (道三・信長別れの地)

またまた岐阜への旅です。
2017年は本当によく岐阜県にお邪魔しました。数えたところ、今年だけで8回目とか・・・(笑)

いつもお世話になっている流星☆さんと岐阜羽島で待ち合わせ、まず最初に連れて行ってもらったのは・・・

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笠松町田代の白鬚神社

又、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。
(信長公記 首巻「山城道三と信長御参会の事」より抜粋)

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天文22年(1553)4月20日、富田の正徳寺斎藤道三と会見した織田信長は、会見終了後、道三を廿町許り見送って、この地で別れの儀式を執り行ったと伝えられています。

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白鬚神社の北方2㎞を流れる境川
美濃・尾張の国境となる木曽川の、この当時の本流はこちらの境川でした(まさに“国境の川”)。つまり、笠松は今でこそ岐阜県ですが、当時は尾張の一部だったということになります。
信長は美濃へ帰る道三を、国境ギリギリまで見送りに来た、ということになるのでしょう。
※天正13年の洪水でほぼ現在の流路に変わる。但し天正10年の段階で、美濃を領する織田信孝と尾張の信雄が、国境を木曽川(現境川)にするか「大川(現木曽川)」にするかで揉めているので、この段階で既に現在の木曽川も遜色ない規模を誇っていたものと考えられる。

但し、1点疑問もあります。
太田牛一は「信長公記」の中で、(正徳寺から)廿町許り御見送りした、と記しています。廿町とはおよそ2.2㎞
ところが、正徳寺(聖徳寺)跡から白鬚神社までは7~8㎞ほどもあり、いくらなんでも距離が一致しません

ちなみに正徳寺から2㎞前後の距離には後年(1556)、道三が嫡子の義龍と対立した際、その救援のために出撃した信長が、義龍軍との戦闘(大良の戦い参照記事)に備えて着陣した大浦の寺砦があります。大浦の寺砦に入った信長軍はその北方、現在の笠松町北及の辺りで義龍軍との戦闘に及んだと云われています。
その北及は白鬚神社のすぐ南。正式な(当時の)国境は越えていますが、この近辺まで斎藤家の勢力が既に及んでいたのだとすれば、案外、会見後に信長が道三を見送ったのも大良(大浦)の辺りまでだった可能性もあるのでは?・・・などと、勝手に想像を膨らませています。

あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。
(同)

信長と別れて美濃に入った道三は、あかなべ(岐阜市茜部)まで来たところで、
「信長はやはり“たわけ”でしたな」
と言う猪子に対し、
「ならば無念なことだ。私の子供は将来、その“たわけ”の門前に馬を繋ぐことになる(家来になる)であろう」
と呟いたとか。
その後の歴史は・・・周知の通りです。

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ところで、白鬚神社の境内には蓮台寺遺蹟の石碑が建っていました。
付近の笠松町長池東流地区で昭和32年、土地改良工事によって古代寺院(蓮台寺、或いは東流廃寺とも)のものと思われる塔の礎石が出土しています。

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白鬚神社の境内に安置されている塔の出土礎石(半分)
この礎石の大きさから、塔の高さは30mほどもあったのではないかと考えられています。
何故か半分に割られ、もう一方は東別院(西宮町)に保管されているようです。

そういえば白鬚神社の所在地である「田代」は「でんだい」と読むそうです。
「蓮台(寺)」⇒「でんだい」と、地名の由来になっていたのかもしれませんね。

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2017年12月14日 (木)

近江丸山城 (丹羽砦)

直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取出仰せつけられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通路をとめ、
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より抜粋)

元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田信長は7月1日、佐和山城 へ軍勢を寄せ、北の山に砦(物生山城…参照記事)を築かせて市橋九郎右衛門に守らせ、南の山※1に水野信元、西彦根山※2には河尻秀隆を配し、百々屋敷にも砦を築かせて丹羽長秀を置き、東西南北の四方から佐和山城を包囲させています。
※1 里根山。現在はほぼ全域がゴルフ場。
※2 実際に砦が築かれたのは、彦根山のすぐ東にあった尾末山とされている。彦根城築城の際、周辺の湿地帯埋め立てのために切り崩されて消滅。現在の尾末町


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ちなみにこちらが、尾末町越しに彦根城から見る佐和山城(河尻秀隆目線)

「百々屋敷」の跡地とされるのは佐和山城跡の東約1km、国道8号線沿いの彦根トラックステーション一帯
しかしこの場所は、佐和山城からあまりに至近な上に全くの平坦地で、とても包囲網を維持するのに適した占地とは言えそうにありません。
そのため、その更に南東500mほどにある近江丸山城(以下「丸山城」)を、「信長公記」の著者・太田牛一が百々屋敷と記した場所と比定する見解があります。(他に、百々氏が東山道摺針峠の関を守っていたことから、同所付近とする説も)
※但し、牛一が東にだけ「」の一字を用いていないことが若干引っ掛かりますが・・・。

という訳で今回、その丸山城にアタックさせていただくことにしました。
(お付き合いいただいた方々には本当に感謝!)

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鳥居本の旧中山道から県道239号を東へ折れ、名神高速のガード下を潜ってすぐの場所からアタック開始です。
こちらは、丸山城のある尾根の1本北隣りの尾根になりますが、城跡は鳥居本町と小野町の境界線上に築かれており、南の小野町側は入山を禁じているようなので、こちらから登って隣りの尾根へと移動し、町の境界線ギリギリに沿って歩いていきます。

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登り始めるとすぐ、小さな神社の境内に出ます。
ここから更に、右手の山道を登っていきます。
※この神社の脇、尾根下には百々家先祖代々之墓が建っていました。詳細は分かりませんが、「百々屋敷」の百々氏に関係しているのではないでしょうか。

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しばらくすると鉄塔の足元に出ます。
その付近から丸山城の方向を見た様子・・・城跡は樹間に覗く尾根上にあります(本当は鉄塔付近の視界はもっと開けていたのですが、写真を撮り忘れました…)。
あちらの尾根へ向かい、まずは鉄塔の先で獣道を少し下り、鉄塔管理用のものと思われる山道を登り直し、2つの尾根の間にある谷戸を迂回するようにして移動していきます。

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尾根を移ると、別の鉄塔の足元に出ました。
奥には佐和山のピーク(本丸)が見えています。

丸山城はこの鉄塔から、西へ少し下った先になります。
鉄塔からしばらくは、きつい藪を掻き分けての行程となりました。

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ようやく尋ね当てた、城域の東端と思われる切岸?土塁?による段差。
なお、左手のフェンスが鳥居本町と小野町の境界線になります。

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北側には腰曲輪状の平坦地も。

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主郭と思われる最上段の曲輪の切岸。
一段低い平坦部(写真左)と、鏡石を思わせる大石が虎口を連想させました。
(※個人的感想です)

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境界フェンスの向こう、小野町側には土塁らしきものが主郭から西へ、2段ほどの曲輪跡を取り巻いていました。
※写真はフェンスから手を伸ばして撮影しています。

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城域西端付近にあった・・・竪堀?

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城域西端の土塁を外側から。
段差は割とハッキリと残っています。

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城域内は視界が利かなかったので、少し下った先から見る佐和山城の遠景
丹羽長秀の手勢は、この距離間で佐和山城と対峙していたのでしょうか。

佐和山の右の尾根続きには、市橋九郎右衛門の北の山(物生山城)が見えていますし・・・

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少し左へ目を転じると、水野信元の南の山まで見渡すことができます。
まさに元亀元年7月~翌2年2月までの佐和山城包囲戦の舞台を、一望の元に収める光景です。

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下山後、佐和山城との間を通る旧中山道(東山道)から遠望する丸山城。

北の物生山城に比べ、丸山城の遺構自体は見るべくもない※3ですが、こうして実際に現地に立てる喜びは、やはり何物にも代えがたい喜びがあります。
※3 確認できた遺構範囲も狭く、100人も入れば満員になってしまうような規模でしたので、もし丸山城が佐和山城包囲の東の付城であるならば、尾根全体にもっと広く兵を展開させていたものと思います。

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2017年12月13日 (水)

彦根城 (登り石垣めぐり)

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山城踏査会&忘年会の明けた旅の2日目、まずは久しぶりの彦根城へ。
腰巻・鉢巻石垣を眺めつつ、表門へまわります。

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彦根にはここ数年の間にも何度か訪れていますが、彦根城を攻めるのは実に12年ぶり。
今回は絵図にある5本の登り石垣を中心に、じっくりと観てまわります。

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表門の脇を固める1の登り石垣。

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天秤櫓下の大堀切にて。
廊下橋の橋脚の奥(写真中央)、平に均された石垣の窪みが本来の橋脚跡なのだそうです。

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天秤櫓

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鐘の丸から大手門へと続く2の登り石垣。
ここでも城の導入路を、登り石垣で遮断している様子がよく見てとれます。

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2の登り石垣を、大手門側から見上げた様子。

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本丸到着後、天守よりも先に「ひこにゃん」を撮る人を撮る人を撮る(笑)
※いいオヂサンたちですw

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本丸から佐和山城跡の眺め。

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本丸から、表御殿の裏門へと続く3の登り石垣。

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天守の背後に飛行機雲がかかり、あたかも狼煙が上がったかのような・・・!?
この日は「ブラタモリ」彦根編の放映翌日でしたが、朝早い時間帯だったため、天守内部も待ち時間なしで見学できました。

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西の丸から天守を見上げる。
台風の影響による漆喰の剥がれが痛々しい・・・。
(修復のための募金に少しばかり、協力させていただきました)

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西の丸三重櫓も見学。

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三重櫓から山崎曲輪方向の眺め。

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西の丸と出曲輪間の大堀切。

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この堀切の両サイドにも、竪堀や登り石垣が落とされています(←可笑しな日本語…)
写真は4の登り石垣を上から見た様子。

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同じく、登り石垣4を下から。

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旧藩主の下屋敷、楽々園。
松原内湖や伊吹山、佐和山を借景にした眺めが自慢だったとか。

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玄宮園より天守を望む。
池の逆さ天守にまで、漆喰の剥がれが・・・。

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玄宮園の茶室にて、しばし一服。
茶室の柱と縁側の柱、2本の柱が1本に重なるこの位置が、お殿様のためのポジション。

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続いて山崎曲輪へ・・・奥に山崎門。

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往時は山崎門からあちらの対岸へ、橋が架けられていました。

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米蔵(今は梅林)へと続く門跡。
この左側の石垣から・・・

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それは見事な登り石垣5が続いていました。

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彦根城・・・改めて「近世城郭もいいな」と思わせてくれる素晴らしい城郭でした。

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最後に若き井伊直弼が過ごした埋木舎を見て・・・

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開国記念館でこちらの企画展を見学してから、彦根城とはお別れ。

この後は今回の旅、最後の目的地へ。

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