2017年8月16日 (水)

高麗神社と高麗家住宅

冴えない天候が続いた2017年の盆休み。
(私にとっての)最終日となる8月15日もあいにくの雨模様でしたが、退屈しのぎにぶら~っとドライブしてきました・・・道中、豪雨に見舞われて大層難儀しましたけど(・・;)

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向かった先は埼玉県日高市にある高麗神社
数年前、すぐ近くの聖天院を訪れた際に高麗郡の歴史にも少し興味を持ち、機会があればお参りしてみようと思いつつ、今に至りました。
祭神は高麗王若光。明治中期まで現在の日高市や鶴ヶ島市などに跨って存在していた高麗郡の、初代郡長となった人物でもあります。

唐からの圧力を受けて情勢が逼迫する中、高句麗は666年、大和朝廷へ5月と10月の2度に渡って使節を派遣しています。その折の使節として、日本側の記録である「日本書紀」に「若光」の名が見えます
高句麗は結局、唐・新羅連合軍に攻められて667年に滅亡したため、使節として日本を訪れていた若光の帰国は叶わず、二度と再び故国の地を踏むことはありませんでした。
高句麗滅亡と前後し、多くの高句麗人も渡来しています。

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そんな高句麗からの渡来人ゆかりの神社とあって、境内には朝鮮半島に多く見られるという将軍標(道祖神/村落の境界標)も建っています。

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御神門を通って御本殿参拝へ。

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御本殿(御社殿)

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高麗郡建郡千三百年高麗王若光の記念碑

乙未 従五位下高麗
若光賜王姓

「続日本記」大宝三年(703)四月の条

訳)乙未、従五位下高麗若光に王の姓を賜ふ。
※「王」(こにきし)の賜姓は、若光が高句麗の王族一員だったためと考えられています。

辛卯 以駿河 甲斐
相模 上総 下総
常陸 下野七國高麗
人千七百九十九人
遷于武蔵國 始置
高麗郡焉

「続日本記」霊亀二年(716)五月の条

訳)辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く

ここにある通り、大和朝廷は若光に「王」姓を与え、716年には東国各地に散住していた高句麗からの渡来人1,799人を武蔵国に集めて高麗郡を設置しました。
昨年(2016)がちょうど建郡1300年の節目にあたり、こちらはその記念に設置された石碑のようです。

若光の没後、高麗郡の人々は若光を日本の神式でも祀ることにし、これが高麗神社の始まりとされています。
以来、若光の子孫とされる高麗氏が代々宮司を務め、1300年近くを経た現在は第60代を数えます。

また、すぐ近くの聖天院(旧勝楽寺/若光の菩提寺)にも、若光を祀る高麗王廟があります。
(⇒参照記事

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御本殿裏に保存されている高麗氏の旧宅。
慶長年間(1596~1615)の築と伝わります。
※内部見学には事前申請が必要。

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祖国を追われた人々が、遠く離れた日本の東国で紡いできた1300年もの長き歴史。
聖天院と合わせて訪れることで、そのほんの一端には触れられたような気がしてきます。

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2017年7月30日 (日)

早川城

雨のパラつく日曜日、新車の慣らし運転がてら、神奈川県綾瀬市までドライブしてきました。

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向かった先は早川城跡
夏場の城攻めは何かと苦労が付き物ですが、ここは城山公園として整備されており、且つ駐車場も完備で、ちょっとしたドライブついでには最適♪

早川城は南北に伸びる舌状台地の先端部(南)に築かれた城跡で、その築城は鎌倉期の御家人・渋谷氏によるものと考えられています。
また、この台地上からは縄文期の土器や竪穴式住居跡も発掘されているようです。

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公園北側の駐車場に車を停め、南へ向かって進むとすぐに台地を分断する堀切と、それに架かる土橋が現れます。

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土橋上から西側の堀切。

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そして東側の堀切。
想像以上に規模の大きな堀切でした。
写真右手側が主郭になりますが、その土塁もなかなか立派なものです。

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主郭は公園として綺麗に整備されていますが、かなりの広さがあります。

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主郭、物見塚の上に建っていた東郷氏祖先発跡地碑
旧海軍元帥・東郷平八郎は、渋谷氏の末裔でもあったようです。

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舌状台地の先端方向。
左手には主郭東面の土塁がうっすらと残ります。

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主郭西面下、腰郭を覗く。

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舌状台地先端の下にも、腰郭らしき平坦地が。

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その舌状台地を南東側から。
早川城山公園は住宅地にあり、駐車場から歩いてくると分かりづらいのですが、こうして見るとかなりの要害の地に築かれていたことが分かります。

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同じく北東側から。

早川城跡。見応えのある遺構としては、最初にご紹介した堀切くらい・・・かな。
この日はあいにくの空模様でもありましたが、しかし地形も合わせて見ていくと、ちょっとした散策ついでとしては楽しめました。

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2017年7月26日 (水)

「戦国!井伊直虎から直政へ」展

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江戸東京博物館で開催中の特別展戦国!井伊直虎から直政へに行ってきました。
無論、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」に合わせた開催で、多くの来館者で賑わっていました。
ドラマで描写された歴史やエピソードを、実際の史料等でより深く知るにも、いい展示構成だったと思います。

いつもの如く、個人的に印象に残ったものを独断と偏見?でピックアップすると・・・

寿桂尼朱印状
(とつぐ)の朱印がしっかりと捺されていました。

・雪斎の袈裟
臨済寺で拝観した時は畳まれていましたが、今回は広げて展示されています。

刀 無銘 伝左
通称「織田左文字
「享保名物帳」に「信長公御物御二男信雄卿へ進せらる如何なる伝なるか掃部頭殿に有り、」とあり、織田信長から信雄を経て井伊直政へと渡ったことが知れます。
関東大震災で焼けてしまいましたが、改めて鍛え直されて現在の姿に復元されています。
※信長が桶狭間で今川義元を討って手にした「義元左文字」とは別。

井伊家伝記
有名な「次郎法師ハ女にこそあれ井伊家の惣領に生候間~(云々)」の頁を開いて展示されていました。

井伊直虎・関口氏経連署状
いわずと知れた、「直虎」の署名が現存する唯一の史料。

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青葉の笛
小野政直の死を受け、逃亡先の信濃から井伊谷へ戻ることになった井伊直親が、寺野八幡(寺野六所神社)へ奉納した笛です。

今川氏真判物(永禄3年8月5日・龍潭寺)
桶狭間合戦の直後に出されたもので、井伊直盛の討死を受け、「直盛寄進の通りに」と龍潭寺の権利を保証した禁制のような内容。
合戦で当主を喪った国衆や関係先への、大名のフォローが垣間見えるようで興味深かったです。

井伊谷徳政に関連して・・・
匂坂直興書状(蜂前神社)
(永禄10年6月30日/同12月28日/永禄11年1月25日/同8月3日)
関口氏経書状(永禄11年8月4日)
徳政の実現に向けて駿府で交渉を続ける匂坂直興が、祝田の禰宜に向けて刻々と交渉経過を報告している内容。
関口氏経の書状は直虎(次郎)や井伊家家中(写)に対し、徳政の実行を迫る内容になっており、件の「井伊直虎・関口氏経連署状」と合わせ、井伊谷徳政に関連した人々の“裏の動き”が垣間見えて非常に興味深い内容になっています。

本多忠勝像
9度も描き直させてようやく得心したという肖像画だけに、かなり忠勝本人を忠実に再現しているかも?

黒糸威胴丸具足(鹿角脇立兜)
上の肖像画でも着用している、「本多忠勝といえばこの兜(甲冑)」ともいうべき一領。

他にも今川氏や井伊氏の歴代当主木像や、栄華を偲ばす茶器・武具、徳川家に関する展示史料なども豊富でした。

東京での開催は8月6日までですが、静岡や彦根でも開催を予定しているようなので、戦国好きや大河ドラマをご覧になっている方には是非、足を運んでみることをお薦めいたします。

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2017年7月20日 (木)

島津の退き口 (関ヶ原~多良)

夏の岐阜旅2017、2日め(7月17日)は島津の退き口です。

慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦い
合戦に敗れた西軍に属す島津義弘の軍勢は、東軍総大将・徳川家康本陣の鼻先を掠めるようにして敵中を突破、追撃する東軍諸隊と壮絶な退却戦を繰り広げつつ、伊勢街道を南下して戦場を離脱します。これがいわゆる島津の退き口

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という訳で、この日のスタートは関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡から。

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島津義弘陣跡から見る開戦地、小西行長陣跡、そして松尾山(小早川秀秋陣跡)。
まさに西軍の最前線ライン上ともいえる位置取りなのですが・・・島津隊は二番備えだったとも云われており、案内板によると実際にはもう少し後方に布陣していたようです。

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島津隊の戦場離脱ルート。
家康本陣の脇を掠めるようにして伊勢街道へ向かっています。

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なんとか家康本陣近くを通り抜け、伊勢街道へ出た先・・・烏頭坂

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烏頭坂に建つ島津豊久顕彰碑
義弘の甥(弟・家久息)である豊久は、大将の義弘を逃がすためにこの地に踏みとどまり、殿(しんがり)を務めて奮戦します。
これまで一般的に豊久は、烏頭坂での殿戦で義弘の身代わりとなって討死を遂げたとも伝えられてきましたが、一説には重傷を負いつつも家臣に守られ、多良(大垣市上石津町)の辺りまで逃れたという伝承も残っているようです。
今回は我々も、この伝承を追って更に南へ進んでみることにします。

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移動中に見かけて立ち寄った木曽神社。
源頼朝の追討軍に敗れて戦死した源(木曽)義仲。
旧臣に守られ、この地に隠棲した息女・糸姫は義仲寺(後に宝聚院。義仲墓所あり)を建立して父の菩提を弔ったと云います。

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近くには地蔵群の脇に、義仲を詠んだ松尾芭蕉の歌碑も建っていました。

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大垣市上石津町牧田の琳光寺

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琳光寺境内に建つ阿多長寿院盛淳の墓所。
島津家の家老だった阿多長寿院盛淳は、本領蒲生の兵70を引き連れて義弘の元へ馳せ参じ、関ヶ原に参陣していました。
西軍の敗色が濃厚となって島津隊が戦場に孤立すると、主君・義弘は切腹しようとしますが、盛淳は豊久と共にこれを諫め、退却戦に移りました。
豊久の烏頭坂に続き、盛淳はここ牧田に踏みとどまって殿を務め、義弘の退却を見届けると拝領した陣羽織をまとって追いすがる東軍の中へ斬り込み、壮絶な討死を遂げました。

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琳光寺近くには、盛淳の顕彰碑も建っていました。

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ちょっとまた寄り道をして・・・西高木家陣屋の長屋門。

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西高木家陣屋図

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結構な規模を誇る石垣と、上屋敷跡へと続く坂(石段?)

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埋門

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井戸跡

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私有地で立ち入れない箇所にも、石垣が覗いていました。

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西高木家は2300石を領する旗本。
その家格に見合う規模なのかどうかは分かりませんが、それにしても立派な石垣に少々驚かされました。

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西高木家陣屋跡には現在、上石津郷土資料館が建っています。

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ちょうど島津豊久を主人公に描いたマンガの原画展が開催されていましたが、個人的には;
・織田信長の朱印状
・羽柴秀吉の書状(賤ヶ岳合戦直後、戦陣からのもの)
・徳川家康の書状
などの方に興味を惹かれました。

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上石津町上多良瑠璃光寺

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瑠璃光寺は、重傷を負って多良まで逃れてきたと云う豊久の菩提寺になっています。
許可を得て、本堂にて豊久の御位牌にもお参りさせていただきました。
慶長五年庚子
嶋光院殿忠道源津大居士神儀
九月十五日

文字もかすれ、煤けたような黒漆地がまた、400年以上もの時の移ろいを醸しだしているようで感動いたしました。

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瑠璃光寺近くの島津塚・・・豊久の墓所と伝わります。
烏頭坂での殿戦で重傷を負いながらも勝地峠を越え、多良まで辿り着いた豊久でしたが、受けた疵重く、これ以上は付き従う家臣らの足手まといになると考え、遂には近くの白拍子谷にて自害したと云います。

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島津の退き口めぐり、ラストはその白拍子谷へ。

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白拍子谷・・・島津豊久最期の地。

島津豊久や阿多盛淳らの奮戦もあり、無事に薩摩へと帰り着くことのできた島津義弘。
島津家では義弘帰還後も、豊久戦死の確報を掴めていなかったらしく、義弘はその後、3年もの長きに渡って家臣に豊久の消息を探らせたのだそうです。
※但し、そうなると豊久に付き従っていた家臣は誰一人、本国へ帰還できなかった(報告できなかった)ということにもなる訳で、であればそもそも豊久が烏頭坂から重傷を負いながらも、多良(白拍子谷)まで辿り着いたという伝承の信憑性は…?と疑問も湧いてきますが、この辺りはよくわからないので、あまり深く追及しないことにします。


この後は、解散前に海津市にある高須松平家の菩提寺・行基寺にも立ち寄りましたが、そちらは再訪の為、過去記事のリンクを貼っておきます。
美濃高須

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2017年7月19日 (水)

450周年の「岐阜」

今年に入って早4度めとなる岐阜への旅。
2017年は織田信長が稲葉山城を攻略して美濃を制圧し、「岐阜」と改めてから450年の節目の年。
それにちなんで岐阜市では、岐阜市信長公450プロジェクトと銘打って様々な試みが実施されています。今回は同プロジェクトに関連するいくつかのイベントに足を運んでみることにしました。

7月16日(日)、岐阜駅前で集合して最初に向かったのは・・・

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ぎふメディアコスモスにて開催されている信長公ギャラリー

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お目当ては「おもてなし劇場」で上映される岐阜城山麓居館のCG
信長の小姓に扮したMCの先導で見学してまわるという設定で、15分ほどの内容でした。
奥御殿や茶室の周辺が中心で、CG自体は素晴らしいのですが、もう少し全体をくまなく紹介して欲しかったなぁ…というのが正直な感想です。

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他にも、自らCGを操作して山麓居館をバーチャル散策できるコーナーなどがありました。

入館無料ですし、私のような遠来者のみならず、地元の方々にも多く足を運んでいただき、改めて信長のいた時代の岐阜城の姿に思いを馳せ、郷土の誇りを感じてもらうきっかけになればいいな、と思える企画でした。

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さて、お次は長良川沿いのとあるホテルへ移動し、川沿いの一室へ通されて・・・

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予め予約を入れておいていただいた、信長の饗応膳にて昼食です。
料理は勿論のこと、天下布武の朱印に織田木瓜紋・・・その全てに目も心も奪われます。

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献立
鯉に鮑、宇治丸(鰻)、巻きするめ・・・更にようひ餅が入っているあたり、やはり信長が天正10年5月15日に、安土城で徳川家康をもてなした際の献立(「続群書類従」)を参考に再現しているようです。

天正十年安土御献立
於安土上様。三河守殿。御申献立。拾伍日をちつき。

本膳
たこ/たいのやき物/な汁/のなます/かうの物
(香の物)/ふなのすし/御めし
二膳
うるか
(鮎のわたの塩辛)うちまる(宇治丸:ぶつ切り鰻の蒲焼)/ほやひや汁/ふとに/かいあわひ(鮑)/はむ(鱧)/こいの汁
三膳
やきとり/やまのいも・つる(鶴)しる/かさめ(がざみ:渡り蟹)/にし(タニシ)/すゝき(鱸)
四膳
まきするめ/しきつほ(鴫の壺焼き)/ふな汁/しゐたけ
五膳
まなかつうを さしみ(真魚鰹の刺身)/しやうかす(生姜酢)/かわらけ入こほう(牛蒡)/かも汁/けつりこふ(削り昆布)
御くハし(御菓子) ふちたか足をつけて(容器の説明)
やうひもち(求肥餅)/まめあめ/ミのかき(美濃柿)/はなにこふ(花昆布)/から花(造花)

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用いられる器の一つ一つにも全て、木瓜紋が入っています。

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鯉の洗は人生初体験でした。

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岐阜城下、長良川の畔で信長の饗応膳を堪能する・・・織田信長を追い求める者にとってはまたとない、贅沢なひと時でした。

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饗応膳を堪能した後は岐阜公園へ移動。
岐阜市歴史博物館で開催中のGifu信長展で;

ルイス・フロイス書簡写(原本/1569)
・フランシスコ・ザビエル書簡(自筆/1549)
※何故か署名部分が切り取られている。
・太田牛一自筆の信長記(岡山大学附属図書館)
・唐物肩衝茶入 銘:勢高
・唐物文琳茶入 銘:本能寺
・織田信長制札 北加納宛(永禄10年9月日)
・数々の織田信長書状類

などを見学してきました。
※後期展示にも必ず足を運びます。

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午前中にCGで見学した山麓居館跡を抜けて・・・

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ロープウェイで金華山の山頂へ。

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岐阜城資料館の特別展信長公の隠れ家

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その中のテーマ展示マンガに描かれた信長公

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7月1日~9月28日までの期間は、宮下英樹氏「センゴク」の複製原画が展示されています。

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織田信長肖像画(長野剛氏)と南蛮胴具足。

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混雑するロープウェイを諦め、猛暑(35度超え!)の中、岐阜城の大手とされる七曲り道で下山。

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暑くて大変でしたが、実は岐阜城の登城路を歩くのは初めてだったので、密かに嬉しかったりする(笑)

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途中、ちょっと気になる痕跡も・・・道?

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岩盤がセットバックに切り開かれている箇所も。
・・・本当はこの、平に整地された岩盤部分が道だったのかな?

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岐阜市街へ戻り、夜は恒例のギフナイト☆
貴重で美味しい日本酒も味わい、2次会まで楽しく過ごしました。

岐阜市信長公450プロジェクト
勿論、私自身も楽しませていただきましたが、これがより多くの岐阜市民の方が歴史に関心を持つきっかけになるといいな、と思いました。地元の関心が高まってこそ、文化財の保護などへの認識も高まるでしょうし。
そういった点でCGやマンガをテーマに用いた展示は、門戸を広げる意味に於いて面白い試みなのかもしれません。応援したいと思います。

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2017年6月21日 (水)

白河の関

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みちのくの玄関口・・・白河関跡

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古関蹟
の碑
白河の関は古代から陸奥への関門として知られてきましたが、江戸時代も後期になるまで、その位置を特定できていなかったようです。
それを調査・考証し、この地(福島県白河市旗宿関ノ森)を白河の関の跡地であると断定したのは、白河藩主で老中にもなる松平定信でした。
これは寛政12年(1800)に建てられた、考証の経緯を記した石碑です。

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説明板にある通り、源義経ゆかりの矢立の松碑。

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白河神社
源頼義、義家、頼朝、義経ら錚々たる面々の奉献を受け、元和元年(1615)には伊達政宗も社殿を奉納したとか・・・もう少し社殿もしっかり拝観しておくべきだったか…(^_^;)

実際に訪れるまでは白河の関跡といっても、こちらの白河神社が建っているだけだろうと思っていましたが、この本殿横(南)に凄い遺構が残っていました・・・。

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横堀に土橋、土橋の先には関所施設の跡地か・・・曲輪も。

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曲輪はかなりの広さで、北・東・南面には土塁もしっかり残っていました。

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曲輪北面の横堀

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北東隅のコーナー部分

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東面の横堀
この横堀を南へ進むと・・・

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南東隅は横矢が掛かり、出枡のようになっていました。

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出枡側から北向きに横堀を見る・・・美しい曲線。

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南側の虎口?
こちら側は土塁も切れ、形状が少し不明瞭でした。

しかし予想外に素晴らしい遺構を堪能させていただきました。
これはもう、中世の単郭城館跡・・・お城と呼んでも差し支えないでしょう。
発掘調査で周囲からは竪穴式住居跡も出土しており、縄文時代から古代、中世に至るまで幅広い年代に渡って利用されてきた痕跡の残る遺跡なのだとか・・・これからも大切に伝えていきたいですね。

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最後に、松尾芭蕉と曽良の像。
「奥の細道」といえば、白河の関・・・ですね。

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2017年6月20日 (火)

会津西街道 上三依~田島宿

先日、久しぶりに家族で温泉旅行に出かけました。
今回の宿泊先は芦ノ牧温泉。折角なのでその道すがら、慶応4年(1868)の戊辰戦争時、宇都宮で負傷した土方歳三が会津まで運ばれ、新政府軍と戦い続けた大鳥圭介らが往来した会津西街道を北上してみることにしました・・・完全に私の趣味→運転手特権(笑)

会津西街道
街道は古来、向かう先の地名にちなんで呼ばれることが多く、会津側からは「日光街道」、或いは「南通り」「南山通り」「下野街道」などとも呼ばれてきました。
江戸後期にもなると、会津藩では「下野街道」を公称としていたようですが、煩雑になるので当記事では「会津西街道」で統一します。

西那須野塩原ICから国道400号を経由し、上三依でほぼ旧会津西街道に沿って通る国道121号に合流。
121号を北上し始めてすぐ、この日最初の立ち寄りポイントは・・・

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鶴が渕城址
ナラ入沢渓流釣りキャンプ場入口への分岐を過ぎてすぐ、左手に見える男鹿川に架かる小さな橋を渡った南側です。

鶴が渕城は永禄年間に、田島地頭職の流れを汲む長沼氏によって築かれました。
男鹿川左岸、国道121号の東にそびえる姥捨山の山上に築かれた曲輪群と、男鹿川右岸の山麓に築かれた角馬出・長塁とが残ります。
山麓の角馬出や長塁は、その規模や形状から長沼氏時代のものではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直前、徳川家康の北進に備え、当時会津を領していた上杉氏が築いたものと考えられています。実際に直江兼続が実弟の大国実頼(田島鴫山城主)に対し、「鶴渕山」の防備を固めさせるように指示したことを窺わせる書状も残されています。

今回は山麓の角馬出と長塁のみ、サクッと観てまわります。
上写真の案内板を過ぎ、正面の角馬出への土橋上から右に目を向けると・・・

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西へ向かって一直線に伸びる、見事な長塁が飛び込んできます。
笹藪が結構キツイですが、堀も土塁も非常に良好な状態で残っていました。
正面奥に見えるのは会津鬼怒川線の線路。更にその先にも長塁は続いているそうなのですが、さすがに独りで突き進む勇気がなく、今回はパス…(^_^;)

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反対に左側(東)は、男鹿川の渓谷に向かって落とされているようです。

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男鹿川の断崖縁に築かれた角馬出
周囲を囲む土塁も残っています。

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角馬出の南東隅だけ、土塁が切れていました。
この防塁を築いた段階に於いては、構造からしても角馬出(の付近)に街道を通していたことになるのでしょうか。

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角馬出北西方向。
土塁が、眼前を横切る長塁の堀まで続いている様子がお分かりいただけるでしょうか。

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角馬出のすぐ脇を流れる男鹿川。
とにかく水が綺麗で、美しい眺めでした。

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鶴が渕城(防塁)址図面(しみず作)
今まで縄張図など描いたこともないので、稚拙な出来栄えですが・・・ざっくりとイメージをお伝えしたく、帰宅後に記憶を頼りにトライしてみました。描いたのはあくまで、自ら実際に観てまわった範囲のみです。
実尺と異なり、サイズなどはデフォルメされていることをお断りしておきます。

歴史は家康を小山で反転させて関ヶ原へと向かわせることになるので、実際にこの防塁が利用されることはありませんでしたが・・・実際にこうした山中で、400年以上も前の痕跡を目にすることができる喜びは、やはり無上のものです。

再び121号を北上します。

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横川村の少し手前に残る、横川一里塚

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背後の山の斜面に「よばわり岩」と呼ばれる大岩があることから、「よばわりの岩の一里塚」とも呼ばれていました。
その大岩は生い茂る樹木に遮られ、辛うじて認識できる程度にしか見えませんでした。

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会津藩横川関所跡と如意輪観音堂(江戸時代後期)
横川村は会津西街道の下野国最北の集落。会津藩の預かり地でもあり、会津藩が領内へ出入りする街道沿いに築いた関所の一つです。

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清水伝左衛門の墓
文化10年(1813)、横川村で盆踊りが催された際、盆踊りに興じる人垣が関所の敷地内に立ち入ってしまいました。
「関所内で盆踊りとは不届き」との責めを負い、関守であった清水伝左衛門は切腹して果てたと云います。

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横川宝篋印塔
推定戦国時代末期の作。
村の伝承から「三依」地名の起源にもなったと伝わる三依姫の供養塔とされています。
三依姫の詳細は分かっていませんが、下野国矢板の塩谷氏から、会津田島の地頭・長沼氏に嫁いだ姫のようです。
長沼氏は後に足利義満によって任を解かれ、その知行を没収されたため、姫も流浪の身となり、最期は横川で寂しく生涯を終えたと伝えられているそうです。

2017061713
横川の町並

(慶応4年閏4月)四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原ならびに鈴木藩之助等と同宿す。
(大鳥圭介「南柯紀行」…以下引用同

日光・今市を明け渡し、一旦田島へ向かうことにした大鳥圭介の旧幕府脱走陸軍は、ここ横川でも一泊しています。
この時に大鳥自身が泊まった家も、この写真の中にあるのでしょうか。

2017061714
トンネルで下野と陸奥(会津)国境の山王峠を越え、少し下った先の旧会津西街道名残の砂利道と、山王茶屋跡地
江戸期の茶屋は旧道左側の草むらや国道に掛かる辺りに位置し、戊辰戦争で焼かれた後、明治2年に旧道右側の写真奥(民家の建つ付近)に再建されました。

五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。

横川を出立した大鳥圭介は山王峠を越え、この地に建つ茶屋で会津藩の若年寄であった山川大蔵と出会っています。
大鳥、山川を評して曰く「性質怜悧」「余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。」
二人は田島まで同行して軍容を整えた後、今市奪還を期して共に新政府軍と戦うことになります。

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奥会津博物館に移築保存されている、明治2年再建の山王茶屋

2017061716
茶屋とはいえ「乗り込み玄関」を備えた本陣形式の立派な建築です。

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現在はお食事処として営業しており、我々もこちらでお昼をいただきました。

2017061718
奥会津博物館には他にも、様々な歴史的日本家屋が保存されています。
写真は旧猪俣家住宅。奥会津地方に現存する最古の住宅遺構でもあります。

2017061719
木地小屋
山に入った木地師たちの作業場兼住居です。

更に北上を続け、田島宿へ。

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田島に置かれていた旧南会津郡役所
「郡区町村編制法」の施行により、明治12年に会津郡から南会津郡が分割されて設置されました。明治18年落成~昭和45年移築保存。

2017061721
田島宿の町並と、昭和9年創業の和泉屋旅館
和泉屋旅館は一時、進駐軍の指定旅館になっていたこともあり、国の登録有形文化財に指定されています。

本日(五日)、糸沢、中食、夕方、田島に着き本陣に宿す。

大鳥らは田島に10日間ほど滞在して軍容を整えた後、今市奪還を期して再度、会津西街道を南下していくことになります。
※今市での攻防戦はコチラ
※その後の小原沢の戦いはコチラ
※足を負傷し、会津まで運ばれる土方歳三も、その道中に田島に宿陣しています。(島田魁「日記」)

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鴫山城跡(愛宕山)登山口
家族連れなので、さすがに山城は行けませんが…(^_^;)

2017061723
旧南会津郡役所も建つ福島県南会津合同庁舎の駐車場一角には、鴫山城の外郭土塁も。

さて、今回の会津西街道めぐりはここまで。
※この先の大内宿~会津に関しては、コチラを参照願います。

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最後に塔のへつりにも立ち寄って・・・

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芦ノ牧温泉の宿にチェックイン。
喜多方から祖母も合流し、久しぶりにのんびりと共に過ごしました。

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2017年5月27日 (土)

愛犬ボンの旅立ち。

2017年5月24日(水)の午後6時30分頃、我が家の愛犬ボンが永眠いたしました。
満14歳と4ヶ月、食欲と家族への愛情に満ちた人生を全うしてくれました。

実は、3月下旬頃だったか4月に入ってからだったか・・・体調を崩していました。
かかりつけの病院でいろいろと調べて貰いましたが、どうやら貧血だったようです。それも再生不能性の疑いのある・・・しばらく造血剤を飲ませても、一向に改善は見られませんでした。

それからというもの、暑くもないのに呼吸が乱れることが多くなり、あれだけ毎日飽きることもなく、同じご飯を歓喜の雄叫びと共にガツガツと食べていた彼が食べたがらなくなり、栄養をつけないといけないからと、根気よく手で食べさせていました。
(それでも、大好物のチキンとかは喜んで食べていました)

亡くなる3日ほど前くらいからは息切れが特に苦しそうで、今までは(固いままだと喉に詰まらせるので)ご飯に水をたっぷり含ませて柔らかくしてから食べさせていたので水を殆ど飲まなかった彼が、頻繁に飲みに行くようになっていました。
時折、あまりの息切れに辛そうな表情も見せていました。それでもチキンとかは欲しがるから、貰うまではなかなかおとなしく寝ない→息切れで余計に苦しそうにする、のジレンマが続いていました。
毎晩、母や弟たちが風呂からあがってくるタイミングを待って、私がおやつのチキンをあげるのが日課になっていましたが、亡くなる前夜も呼吸が乱れて苦しいくせに、早く欲しいものだから落ち着かず、風呂場の様子を見に行ったりしながらソワソワ・・・。
その様子を見るに耐えられず、少しでも早く落ち着いて寝て欲しかったこともあって、いつもより早くあげたんだけど・・・本来であればお互いにとって楽しいはずの時間も、ただただ不安を募らせていた私はその日課をさっさと済ませ、早く寝て呼吸を落ち着かせてもらうことにしか意識が向かず、半ば投げやりな感じになってしまっていました・・・これが最後になっちゃったのに。
このことは今でも悔いている。

今から思えばフラつくこともあったし、体はもう限界に近かったのだと思います。でも、彼の目には未だ悲観も諦観の色もなく、その光には確実に生命力が宿っていたので、今日明日の切迫した状況だとの認識は抱いていなかった・・・。

そして当日。
前夜も遅くまで息が乱れていたそうで、この日は朝からグッタリとしていました・・・動くのも億劫な様子で。
なんとなく胸騒ぎを覚えていたのだと思います・・・仕事を遅出の予定にしていたこともあり、母が弟を職場へ送りに行った時、その帰りまで一緒にいてやることにしました。
今から思えば、私にとってこれがせめてもの救いだったかな・・・私の近くまで寄って来た彼は、そのまま横になり、お留守番の間ずーっと私の方に顔を向けて、私の存在を確認するようにして寝ていました。その間は呼吸も安定していました。
母も戻り、私が出かける際は「ごめん、行ってくるな。頑張ってな」と声をかけました。結果的にこれが、ボンとの最後の別れになりました。

夜、帰宅途中の電車内で受けた家からの着信・・・その日はずーっと嫌な予感がしていたので、瞬時に察しはつきました。

帰宅後に対面したボンは目こそ開けたままでしたが、まるで眠っているかのようでした。本当にただ、呼吸をしていないだけ。
最期の様子を聞くと、例によって残したご飯を少しずつ、手ずから与えている最中に突然、スーッと全身の力が抜けたかのように崩れ落ち、すぐに呼吸も停まったそうです。
・・・きっと心臓がもう、限界だったんだね。命を燃やし尽くした。
一番大好きだった母ちゃんと触れ合っている最中で、本当に良かったと思います。そばにいた母や弟は驚いただろうけど。

翌25日、かかりつけの先生から紹介していただいたお寺さんで火葬し、見送ってきました。
お花や、元気だった頃は大好きだったご飯、チキン、たまごボ―ロ、チーズ、、、そして母・弟・私の3人が笑顔で見送る写真と共に。
火葬場の担当の女性は優しい方で、仕事振りも真心のこもった素敵な方でした。熱気が立ち込める中、どんなに小さな骨のかけらまでをも灰の中から探し出し、全身のパーツを復元して説明してくださいました。
最後は自らの手で骨壷に納め、一緒に帰宅しました。
本当にいいところで見送ってやれたと思います。

20170525
この日はどんよりとした曇り空でしたが涼しく、暑いのが苦手だった彼には良かったのかな。
それに火葬している最中、一瞬ですが火葬場の上空に晴れ間がのぞきました。きっとあの瞬間、無事に天国へ行けたんだね。

出会ってからの14年1ヶ月、たくさんの笑顔と幸せと愛をくれました。きっと君も幸せだったよね?
共に過ごした日々、寸分の空白もなく、とことん愛し抜いた。そこには一点の曇りも疑いも悔いもないよ・・・すがすがしいほどに。

20170521
最後に、彼の生前最後に撮った写真を添えて、愛犬ボンの記事も締めくくりたいと思います。
この記事は特に、SNS上での更新告知は流しません。きっと普段から私のblogをご覧いただいている方は、ボンのことも気にとめてくださっていたと思うから。
長い間、当blogやtwitterを介してボンを可愛がり、応援してくださった方々には感謝の言葉もありません。叶うことならば、これからも私と会ったり、絡んでいただいた際にちょっとだけ、彼のことを思い出してやってください。
本当にありがとうございました。

ボン、今まで本当にありがとね!
君と出会えてからというもの、信じられないくらいに毎日が刺激的で感動的で、幸せに満ちた日々だったよ。
心から愛してる、大好きだよ、ボン!
しばらくは直接触れてやることはできないけど、みんな君のハートとともにいるよ。僕らの胸にも君はずーっといる。
もう息切れもしないし、4年前に痛めた“あんよ”も痛くない。好きなものを好きなだけ食べてもいいんだよ。自由気儘に、好き勝手過ごしながら待っててね。
いつかまた、そっちで抱っこしてやれる日まで♪

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2017年5月24日 (水)

碓氷峠…新発見の陣城と旧中山道

5月20日(土)
愛車を駆って一路、軽井沢へ。

2017052001
旧軽井沢駅舎
特に渋滞もなく、自宅から2時間ちょっとで到着しました。

今回の目的地は信越国境の碓氷峠
この一週間ほど前に、「碓氷峠付近の旧中山道沿いで、新たな山城(陣城)跡が発見された」とのニュースが流れてきました。
少ない情報を元にtwitter上で城仲間と場所の推定をしているうち、「実際に行ってみよう」ということになっての今回の遠征。
プランとしては峠の新発見陣城跡から、そのまま旧中山道を群馬県側へ碓氷湖(坂本ダム)まで下り、道々の旧街道の名残を楽しみつつ、他に砦などの痕跡がないか確認する、というもの。
同行者と軽井沢駅で合流し、総勢4名で碓氷峠へ向かいます。

2017052002
旧中山道碓氷峠、その頂上に鎮座する熊野皇大神宮(以下、熊野神社)。
参道の石段から手前へ、真っ直ぐ赤いラインが引かれていますが、これが長野(左)と群馬(右)の県境
また、熊野神社は安政2年(1855)、安中藩主の板倉勝明が、藩士らを安中城から碓氷峠まで走らせた「安政遠足」の決勝点でもあります。

今回発見されたという陣城跡は、この熊野神社から東へ250mほどとのことなので、旧中山道を群馬県側へ下ります。
旧中山道は群馬県側へ下り始めるとすぐに舗装路が切れ、未舗装の林道に入っていきます。

2017052003
そのまま林道を少し進むと、上写真の分岐点に至ります。右へ少し下るのが旧中山道ですので、ここは右へ。
ちなみに左は幕末、皇女和宮降嫁の際に開かれた道(和宮道)のようです。

2017052004
和宮道との分岐点付近には、熊野神社神宮寺の仁王門跡の碑が建っていました。

2017052005
一つ目の分岐点のすぐ先に、もう一つ林道との分岐点が出てきます。
ここは左が旧中山道。今回発見された陣城跡は、この分岐した道の間に位置しています。

さて、私には絵心というものが全くございませんので、図面を載せることは叶いません。
苦肉の策として、言葉で縄張の概略を示しておきたいと思います。

まず、城跡は上写真の分岐の先、旧中山道側に沿って楕円状に展開しています。
■手前(峠側)に竪堀(堀切?)、その先に曲輪が3つ、旧中山道に沿って群馬県側へ縦に並ぶ。
(仮に峠側の北西から南東へ向かって曲輪A→同B→同Cとする)
■曲輪Cからは曲輪Bの北東へ回り込むように腰曲輪状の削平地が開けており、その下段にも腰曲輪あり。
■上段腰曲輪の先端(北)、竪堀の手前に下段腰曲輪~旧中山道へと続く枡形虎口あり。

大雑把に言葉で説明すると、こんな感じになるでしょうか…(^_^;)

2017052006
我々は先ほどの分岐を旧中山道ではなく、右の林道側へ少し進み、城跡の南側からアプローチしました。
写真は、その林道(南)から城跡を見た様子・・・窪地の先に曲輪A(左手前)、B(右奥)の土塁が見えています。

2017052006b
また、曲輪BCにかけての手前(南)側には横堀(竪堀?)も残っていました。

2017052007
曲輪A(左)とB(右)間の堀跡

2017052008
曲輪BからAの方角
墓地を囲うように南面から西面にかけて、土塁がL字型に残っていました。
また、やはり曲輪Aにも土塁が南面から西面にかけてL字型に残っています。
AB両曲輪で同じような残り方をしているのは、他の面には土塁が存在しなかったというよりは、後世の何らかの意図(墓地整備など)による改変かもしれません。

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曲輪BよりCを見る。

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反対に、曲輪CからB
曲輪Cは土塁がごく一部しか残存していないため不明瞭ですが、曲輪Bとの間もやはり横堀のようになっていたのかもしれません。

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曲輪CからBの北東側を回り込む腰曲輪。右下にもう一段見えています。
この上段の腰曲輪を北西方向へ進んだ先に・・・

2017052012
枡形虎口があります。
写真は斜め上から俯瞰気味に撮影したものです。

2017052013
上段腰曲輪から見る枡形。
正面突当りで右に折れて、下段腰曲輪に出ます。

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下段腰曲輪から枡形を振り返る。

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ルートとしては下段腰曲輪に下りて更に右に折れ、その先で左に曲げて(日影と日向の境目付近)旧中山道に通していたようです。

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枡形の西側に切られている竪堀

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この竪堀はそのまま、旧中山道まで落とされています。

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竪堀と旧中山道の合流点。
こうして見ると旧中山道が、まるで横堀のようでもあります。

新発見の陣城跡・・・これは全くの個人的な感想ですが、ロケーションや旧中山道からの導線、枡形の受け方などから察するに、なんとなく東の方角へ意識が向いていたように感じます。
そういった意味では新聞報道にもあったように、天正18年(1590)の小田原攻めに於いて、松井田城を攻める豊臣方(北国軍)の後方拠点という見方でも無理はないのかなと思えます。
※但し、碓氷峠は上信国境の要衝であり、それがために時代を問わず、こうした軍事施設が築かれていた可能性もありそうなので・・・難しいですね(^_^;)
いずれにしても、なんらかの軍事施設、陣城・砦であったことは確かだと感じました。

2017052019
城跡脇を通る旧中山道
この付近から東へ向かって結構な下り坂が続いており、その名も「長坂道」と呼ばれていたようです。
引き続き、この旧中山道を群馬県側へ下っていきます。

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新発見陣城から少し下った先にも面白いものがありました。
写真右側の斜面は旧中山道に沿って切岸状に削り落とされた絶壁になっており、その上部を仰ぎ見ると、、、

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数段の小曲輪が階段状に並んでいるように見えました。
(実際に登った同行者によると、やはり削平されたような痕跡があった、とのこと)

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また、その絶壁の先端部には裏へ回り込めるように細い道が付けられており、実際に絶壁の裏側へ回り込んでみると、綺麗に削平された平場がありました・・・まるで街道(を通る敵)から、絶壁に守られるかのように。

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平場の奥には谷が入り込み、その先には古い道の痕跡が続いていました(写真右上部分)。
後方に控える新発見陣城の物見的な出城か、或いは江戸期の番所のようなものがあったのかもしれない・・・などと想像を膨らませました。

引き続き旧中山道歩きへ・・・

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また旧道沿いに不思議な痕跡が出てきました。

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古道らしき痕跡が複雑に入り組んでいるため、幾つものコブのような小山ができていますが、旧中山道とは高低差もあり、いずれの古道も旧中山道には繋がっていませんでした。

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小さな沢に出ました。
旧中山道はこの沢を渡っていたようです。

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沢の畔に人馬施行所跡
施行所とは何ぞや?と思いましたが、どうやら呉服商が文政11年(1828)に建てた、人馬のための休憩所があったようです。

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沢を渡ってしばらくすると、峠で分岐していた和宮道との合流ポイントに出ました。
写真左がここまで歩いてきた旧中山道で、右が和宮道。
看板を見るに現在、毎年5月に開催されている「安政遠足 侍マラソン」では、どうやら和宮道のコースが採用されているようですが、和宮降嫁は文久元年(1860)。安政遠足催行よりも後のことになりますので、実際の安政遠足では旧中山道を通ったものと思われます。
※峠からここまでの旧中山道は道幅も狭く、現代人を走らせるには危険な箇所も随所にありましたので無理もないですね…(^_^;)

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そしてこの和宮道との合流地点には、ご覧のような案内板も設置されていました・・・そう来たら、確認しない訳にはいかないでしょ(笑)

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陣場が原の旧道沿いには、子持山がそびえています。
この付近が度々戦場になっていたのであれば、子持山にも何かしらの痕跡があるのではないかと思い、登ってみたのですが・・・写真のような岩場が点在する細尾根で、遺構と思しきものは一切見受けられませんでした。

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引き続き、和宮道と合流した旧中山道を歩きます。

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・・・いろいろとツッコミどころ満載一つ家跡の案内板(^_^;)

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その足元には別の、朽ちた古い案内板も転がっていたのですが・・・書いてあることが大分違うんですけど?(笑)

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山中坂

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山中茶屋跡

碓氷峠から群馬県側の麓までの、ちょうど中間に位置しています。
坂本宿(群馬県側)から登ってきた旅人は、この先に山中坂の急坂を控えていますので、必ずこちらの山中茶屋で休憩を入れたそうです。それが茶屋の発展にも繋がりました。
明治期には小学校も建設され、明治天皇御巡幸(明治11年)の際には、当時の生徒数が25人だったことから25円(現代の50万円相当か)の奨学金が下賜されたそうです。

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山中茶屋の外れにあった馬頭観音。

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二重の痕跡を留める旧中山道。
我々が歩いてきた道は左ですが、右の上段部分も明らかに古道ですね。

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旧中山道からの眺め。
遠くに見えるは・・・妙義山かな?

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それにしても碓氷峠の古道遺構はスケールが大きい・・・このクラスの堀割遺構が延々と続いています。

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明治6年に設置され、「交番」のはじまりとされている見回り方屯所があった栗が原

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栗が原の近くには、旧中山道から分岐する明治天皇御巡幸道路もありますが、現在は崩落により立入禁止。

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座頭ころがしの急坂。

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座頭ころがしの堀割も・・・ご覧の規模。

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座頭ころがしの坂を下った先には、旧中山道と平行する尾根上に中世東山道の痕跡も残っています。
近くには、小山を切り開いて築かれた東山道の一里塚があるとのことでしたが・・・これかな?

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北向馬頭観音
文化十五年四月吉日

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南向馬頭観音
寛政三年十二月十九日

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さて・・・いよいよ土橋が見えてきました。

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天正18年、豊臣秀吉小田原攻めに備え、松井田城主・大道寺政繁が築いたと云う堀切(大道寺堀切)。
写真左側は確かに掘り切られていましたが、右側は・・・崩れて薄くなったのか、あまり人工的な堀切感はありませんでした。

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堀切を少し過ぎて振り返った様子。
防衛線として堀切を築いたということは、他にも防御のための施設が周辺にあったとしてもいいのではないか?と思い、旧中山道の左に写る斜面上にも登ってみたのですが・・・

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そこにあったのは、これまた古道跡と思しき痕跡。
もしかするとこれも、先ほど触れた東山道の名残かもしれません・・・。
仮に東山道とすると、大道寺政繁が堀切を築いた当時、碓氷峠越えの主要道として用いられていたのはこちら。
旧中山道よりも高所を通り、堀切の手前で一気に下る・・・その高低差も含めた防御施設(意図)だったのでしょうか。

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碓氷坂の関所跡
設置されたのは・・・昌泰2年(899)!?

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刎石茶屋跡の石垣
四軒の茶屋が並んでいたことから、別名「四軒茶屋」とも。

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弘法大師の「ここを掘れば水が出る」との指示で掘られたと云う、弘法の井戸

2017052052b
弘法の井戸付近にも、旧中山道を取り巻くように古道の痕跡が散見されました。
写真は弘法の井戸から少し下った先、旧中山道脇を見上げた様子・・・まるで横堀のようにも見えます。

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刎石溶岩にできた風穴。
湿った風が吹き出すということでしたが・・・?

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また古い馬頭観音が出てきました。

2017052055
」と呼ばれるビューポイントから、山麓の坂本宿を・・・覗く(笑)
小林一茶も;
坂本や 袂の下の 夕ひばり
と詠んでいます。

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十返舎一九が;
たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて
と書き記した難所(なんじょ)、刎石坂(上り地蔵下り地蔵)に差し掛かりました。

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石の・・・」と表現されるだけあって、土止めの石垣は壮観でした。

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刎石坂にもあった馬頭観音

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大日尊に南無阿弥陀仏碑

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柱状節理の岩盤
※こちらの岩盤脇には、竪堀状の深い溝が切られていましたが・・・詳細は不明です。

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刎石坂では、他にも不思議な岩盤層が多く見受けられます。

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ゴロゴロと転がる石には足首を取られ、かなり難儀しましたけど・・・まさに難所道。

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念佛百萬遍

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旧中山道はこの先、堂峰番所跡を経てすぐに国道18号へ出ますが、その前にちょっと寄り道。
写真中央部分で旧中山道を左へ逸れ、愛宕山城へ向かいます。

2017052066
愛宕山城の土塁と横堀(北西面)・・・ド藪(^_^;)

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とりあえず時計回りに横堀を1周してみます。

愛宕山城は、土塁と横堀をグルッと廻らせた単郭方形型の城で、東の角は出隅状に突き出させ、南西角には馬出を備えていたようです。

2017052068
東角の出隅部分の土塁
左側が曲輪内になるのですが、とにかく藪が酷かった・・・。
それでも出隅部分は他に比べて幾分マシで、辛うじて形状を確認することができました。

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南東面の横堀

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馬出も藪々・・・馬出にも横堀が残っていましたが、この藪では写真はどうにもなりません。

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馬出の先に建っていた梵字に「石壇(安永七年)」の石碑。

愛宕山城…もう少し藪が枯れてくれれば、規模の割には見応えのあるお城なのではないでしょうか。
旧中山道に戻ります。

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堂峰番所跡の案内板付近にあった石積。

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谷を挟んだ対岸にも、二段の立派な石垣が残っていました。

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さて、ついに国道18号まで下ってきました。
「熊野神社」から「現在地」まで、ほぼ赤い点線に沿って歩いてきたことになります。

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国道を碓氷湖(坂本ダム)目指して歩いていると、左手には竜駒山狼煙台が見えます。

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碓氷湖の畔、旧信越本線トンネルと架線跡

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旧信越本線はここから更に峠を登り、軽井沢へと向かっていたのですね。

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碓氷湖
対岸に見える山は坂本城(城の峯城)の城山です。

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さて、ラストは旧信越本線の碓氷第三アーチ、通称「めがね橋」。

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煉瓦造りのレトロ感が堪りません。

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第三アーチから続くトンネル。

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トンネル内はとても涼しく、暑い日の散策にはもってこいでした♪←

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アーチ橋上からの眺め。

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アーチ橋の上、アプトの道。
碓氷峠の急勾配を登るために採用されたアプト式・・・タモさんの例の番組でもやってましたね(笑)

煉瓦造りのめがね橋・・・前々から気にはなっていたので、訪問叶ってラッキーでした。

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最後は軽井沢駅で解散、私は愛車で帰宅の途に就きました。
帰りも渋滞に巻き込まれることなく、順調なドライブ。良き休日になりました♪

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2017年5月18日 (木)

渡邊家の蔵(日野宿)

毎年5月、土方歳三の命日(旧暦5月11日)前後の週末に開催されるひの新選組まつり
その週末に合わせ、甲州街道沿いに建つ渡邊家の蔵も公開されていましたので、祭りの合間にちょっと見学させていただきました。

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こちらが渡邊家の蔵
江戸末期~明治初期頃の建築です。

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渡邊家の屋号は「中村屋」
蔵は味噌・醤油・酒などを扱うお店(万屋)の店蔵として利用されていたそうです。
当初は木造だったものの、関東大震災(大正12年)の影響で土壁にひびが生じたため、昭和5年になって大谷石による石造りに改修されています。
また、昭和7年には甲州街道の拡幅により、位置を少し移されているようです。

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蔵の二階には調度品などの展示も。
一階には天然理心流の目録?免許??(きちんと確認しなかったので詳細不明です…スミマセン)も展示されていました。
※撮影禁止

そういえば八坂神社の天然理心流奉納額に、佐藤彦五郎や井上松五郎らと並び;
渡邊庄三郎藤原盛正
という人物の名前が見えます。
或いはこちらの渡邊家の関係者でしょうか・・・来年また機会があったら確認します(;・∀・)

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梁の木材がとても立派でした。

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二階の窓から覗く甲州道中・・・
普段は無粋な都道も、この時は祭りの開催で車両通行止め。徒歩で行き交う人の流れが、なんとなく往時の街道宿場町の雰囲気を味わわせてくれました。

2017051406
昭和33年、アジア大会自転車競技開催時の渡邊家の蔵。
この時は病院として使われていたようです。

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