2018年8月 6日 (月)

苦林野合戦と鎌倉街道

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今回は埼玉県毛呂山町へドライブ。
まずは、毛呂山町歴史民俗資料館で下調べ&資料調達から。

毛呂山町に残る鎌倉街道の旧道を歩いてみたくて訪れたのですが、資料館で苦林野合戦のことを知って興味を惹かれたので、まずはそちらの関連地をめぐってみることにします。

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資料館を出てすぐ、県道39号沿いで見かけた稲荷台の馬頭観音。

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苦林古墳(大類一号古墳)
苦林野一帯には古墳が数多く点在し、中でもこちらの苦林古墳と呼ばれる前方後円墳は高さ2.4m×最長部は23mあり、苦林野合戦の折には芳賀高貞が物見に使ったとの伝承も残っているそうです。
(太平記「小塚の上に打ち上りて・・・」)

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前方部には昭和8年に建立された苦林野合戦の記念碑が建ち、

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後円部には文化10年(1813)に、苦林野合戦戦死者への供養塔として建立された千手観音菩薩像が建ちます。

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裏には苦林野合戦を記録した記述も見られました。

相刕鎌倉将軍左馬頭基
氏下毛宇都宮芳賀伊賀
守高貞貞治四年六月十
七日兩将戰斯地矣


ちなみにこの供養塔、「新編武蔵国風土記稿」の挿絵にも描かれています。

苦林野合戦
観応の擾乱で直義方だったために失脚し、信濃に逃れていた上杉憲顕を密かに越後守護職に再任し、更には関東管領に据えようとする鎌倉公方・足利基氏と、その阻止を目論む宇都宮氏綱(上野・越後守護職)の重臣で越後守護代の芳賀氏との間で、貞治2年(1363 ※供養塔では貞治4年)6月に勃発した戦い。
宇都宮氏や芳賀氏は観応の擾乱に於いて尊氏方について功があったため、前者は上野・越後守護職、後者は越後守護代に任じられて、関東で大きな勢力を誇っていました。

鎌倉の基氏の元へ上る憲顕を上野で迎え討とうと、800騎ほどの軍勢で出陣した芳賀高貞・髙家に対し、基氏は3000余騎の軍勢を率いて芳賀氏討伐に向かい、両軍は苦林野で激突しました。
戦いは基氏の勝利に終わり、これによって芳賀氏の主家・宇都宮氏は上野と越後の守護職を解かれ、その勢力を大きく削がれました。
以後、関東管領職も上杉氏が世襲していくことになります。

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苦林古墳から古戦場方向を眺める・・・古戦場は雑木林の更に向こう側になりますが。
視線の先にもう一基、前方後円墳が見えます。

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その古墳(大類二号古墳)
規模はさほどでもありませんが、形状はかなり明瞭でした。

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十社神社
苦林古墳から見えていた雑木林の中に静かに佇みます。
苦林野合戦で、基氏を守って戦死した金井新左衛門の外9名を祀ったのが始まりとされています。
当初は祀られた10人にちなんで「十首明神」と呼ばれていましたが、のちに現在の社号に改められました。

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ちなみに、付近には大薬寺という寺があります。
鎌倉幕府の五代執権・北条時頼が旅の僧に扮して廻国していた際、当地で腹痛を起こし、当時まだ小さな草庵だった大薬寺で休んで薬師如来に祈ったところ、たちまち腹の痛みが治まった。喜んだ時頼は大薬寺に多くの寄進をし、これが元で大薬寺には多くの参拝者が訪れるようになって栄えた、との伝承があるそうです。
しかしその後、苦林野合戦の戦火によって伽藍を焼失し、一旦は再興されたものの、明治になって再び火災に遭い、今では本尊の薬師如来像を祀るお堂が残るのみとなっています。

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追分のような分岐点に出ました。
右手に庚申塔や馬頭観音が見えています。

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その神明台の庚申塔、馬頭観音。
この背後の一帯が、苦林野合戦の古戦場になるようです。

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大類グラウンド脇から南へ伸びる鎌倉街道
ようやく今回の本来の目的、鎌倉街道歩きがスタートです。

この日は気温38~39℃の酷暑。
強い日差しも照り付け、既に私の体力はレッドゾーンに突入していました。。。

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鎌倉街道とは幕府が置かれた鎌倉と、関東諸国や信濃・越後・陸奥方面などを結ぶために設置された幹線道路で、毛呂山町を南北に貫くこちらの古道は、鎌倉から武蔵・上野を抜けて信濃へと至る鎌倉街道上道(かみつみち)の一部と考えられています。

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県道39号線に分断される鎌倉街道。

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県道を超えた先も、更に南へと続きます。
苦林野合戦の折には3000余騎を率いた基氏も、鎌倉からこの道を伝って進軍(北上)してきたものと思います。

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こういう雑木林に入ると多少は涼しくなっていいのだけれども、ちょっとでも立ち止まると蚊の襲来を受けて、おちおち休むこともままなりません・・・。

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鎌倉街道の掘割遺構
舗装路は右へ逸れていますが、本来の鎌倉街道は写真正面方向へ真っ直ぐ伸びていました。

発掘調査では側溝も出土しているそうですが・・・時期が時期だけに、案の定のド藪でした(;^_^A
地元からもそう遠くはないですし、藪も枯れる時期に改めて来てみたいと思います。

※雑木林の中でも一部、道の両サイドが盛り上がって掘割になっていた痕跡は認められました。

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2018年7月16日 (月)

下妻陣屋、下館城

慶応4年(1868)4月、国府台にて結成された旧幕府脱走陸軍(総督:大鳥圭介)。
秋月登之助・土方歳三率いる前軍(以下「前軍」で表記統一)は4月12日に国府台を出発し、小金原(千葉県松戸市)・布施(同柏市)・水海道(茨城県常総市)を経て、16日に宗道村(茨城県下妻市)まで達します。

十六日、走土(宗道)村ニ宿陣。夜半、隊ヲ整エ、東照宮ノ白旗ヲ瓢シ、我藩ハ鎮守ノ白旗ヲ瓢シテ下妻陣屋〈井上辰若丸、一万石ナリ〉ニ達シ、我立見氏、会ノ米沢氏陣内ニ進ミ、重臣ニ面シ説諭シ、彼情実ヲ聞、強ル能スシテ退ク。土方氏又行テ説ク。暫シテ重臣タル者、候ノ自筆ヲ携、我陣ニ降ル。
(戊辰戦争見聞略記)

時ニ軍監井上清之進、峯松之介、倉田巴(立見鑑三郎)、我輩四人、於之東照神君ノ白旗ヲ翻シ、勢揃ヲシ、常州下妻井上辰若丸、使節ヲ以テ封書ヲ送リ、直ニ辰若丸殿当陣門ニ来リ同志ス。依之秋月某、精兵四百人余ヲ以テ下妻陣屋ヲ巡リ、土方公ハ弐百五十有余人ヲ引テ、同ク下館城ニ向フ
(島田魁日記)

宗道村に到着した前軍は、そこからすぐ北に位置する下妻藩の陣屋へと向かい、「東照大権現」と大書された幟旗を翻して陣屋を包囲して圧力をかけ、城内に使者を派遣して談判に及びます。
旗幟を迫られた下妻藩には、伝習隊をはじめとする旧幕府の精鋭を揃える前軍に武力で抗する術もなく、一部の藩士を従軍させることでなんとか話をつけ、難を逃れました。

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中世には多賀谷氏の居城であったことから、多賀谷城跡公園として整備された下妻城(陣屋)本丸跡。

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多賀谷氏遺跡碑

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思わせぶり?に丸みを帯びた公園の区画や・・・

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周辺との段差、

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公園の先でぐっと下がった地形(西側)が、ここにかつては城が存在したことを連想させるものの、これといった遺構は認められませんでした。

先に引用した各史料の記述が一致せず、実際に陣屋へ乗り込んで談判に及んだ面子が誰だったのか確証がなく、「戊辰戦争見聞略記」では土方歳三も乗り込んでいったようにも読めます。
しかし、「立川主税戦争日記」4月17日の条には「(下館藩降伏後)ソレヨリ土方兵隊、秋月隊長合兵ス。」と記されていることから、「島田魁日記」にある通り宗道村で兵を分け、下妻陣屋の包囲は秋月登之助が指揮を執り、土方は250人を率いて先に下館へ向かったのではないかと考えています。

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下妻から15~6㎞ほど北上した場所に位置する下館城本丸跡(城山八幡神社)
下館城は文明10年(1478)、水谷勝氏による築城と伝えられています。
江戸時代以降は度々城主が変わったものの、享保17年(1732)に石川氏が2万石で入封してからは、その居城として明治の世を迎えました。

城山八幡神社は清和源氏の流れを汲み、石清水八幡宮を尊崇していた石川氏が勧請し、武運長久と領民の安泰を願って建立されました。
鳥居には;
奉 慶應二年丙寅秋八月望日
とあります。土方らの前軍が迫って来た時、この鳥居は既に存在していたことになるのですね。
なお、本殿は市の文化財に指定されています。

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下館城の図
本丸には確かに、「八幡」の文字が見て取れます。
東を五行川、西は「沼」に挟まれた、南北に延びる舌状台地の上に築かれていたようです。

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下館城址

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先の図で、本丸南側の堀が描かれていた位置に該当しそうな道。
五行川へ向かって急坂が下っています。

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下館城の東を流れる五行川。

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五行川畔から見上げる本丸跡。
藪の上が城山八幡神社になります。

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反対に西側の地形。やはり急激に落ちています。
この先には「沼」が広がっていたのでしょう。

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城山八幡神社から、道路を挟んで反対側にある西城(出丸)跡。
江戸期には局出丸とも呼ばれ、城に勤める女性たちの殿舎が置かれていたとも云われています。
四囲を空堀に囲まれていましたが、昭和に入ってからの下館上水道事業により、遺構は消滅してしまいました。

天明十七日、十二字比、復進ミテ下館城〈石川若狭守、三万石ヲ領ス〉ヲ襲フ。速ニ兵ヲ散シテ城ヲ囲ム。彼大ニ驚キ城中ヨリ巳ニ発砲セントス。土方氏、両三人ヲ率ヒ、城中ニ進ミ、重臣ニ面シテ談論ス。是亦忽降ル。故ニ兵粮方ヲ命シ、是ニ陣宿ス。
(戊辰戦争見聞略記)※石川氏下館藩は2万石

内藤隼人(土方)、松井九郎ノ両人ハ一小隊護衛ニテ城中ヘ参向、重役ニ面会シテ談判ニ及ブ。諸隊ハ両士ノ報告ニ依テ戦争ニ相成ル可シト、何レモ奨励シテ相待チケリ。然ル処午前十時頃、重役二人、内藤、松井ト連立門外迄出、諸隊長ヘ懇篤ニ礼有リ、城内ヘ案内ス。其上曾テ違心無キ意ヲ述テ、其証トシテ兵ヲ指出ス。
(戊辰ノ変夢之桟奥羽日記)

下妻藩を下した翌17日、前軍はこの下館城を囲み、土方歳三自らも城内へ乗り込んで談判に及びました
(但し、島田魁や中島登は城内へ向かった人員として、下妻でも談判に向かった井上・倉田(立見)・島田らの名前を挙げており、更に島田魁の日記によれば、土方は大手通りの本営で待機していたようにも読み取れます)

「奥羽日記」には兵ヲ指出スとありますが、下館藩は軍資金と兵粮を提供することで免じられたようです。

下妻・下館両藩をひとまず下した前軍はこの後、蓼沼(栃木県上三川町)へ進み、時局はいよいよ宇都宮城の攻防戦 へと移っていくことになります。


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ところで、城山八幡神社のすぐ北には、水谷氏の菩提寺である定林寺があります。
下館城を築城した水谷氏初代・勝氏が文明13年(1481)に開山しました。銅鐘は永禄10年(1567)の水谷勝俊による寄進で、県指定文化財にもなっています。

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水谷氏歴代墓所
なお、結城四天王としても名を馳せた六代・正村(政村/蟠龍斎)の墓所は、栃木県真岡市の芳全寺にあるようです。

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2018年7月 8日 (日)

顏振峠と渋沢平九郎最期の地

先日、深谷市の渋沢栄一記念館で開催されている「渋沢平九郎展」に足を運び、生家なども見学させていただいた(→参考記事)ので、今回は平九郎が最期を迎えた地を訪れてみました。

慶応4年(1868)5月23日、飯能での新政府軍との戦い(飯能戦争)に敗れて戦場を脱した渋沢平九郎は、現在の飯能市と越生町との境に位置する顏振峠まで逃れてきました。

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細くて心許ない林道を愛車で慎重に登り、どうにか辿り着いた顏振峠

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顏振峠の案内板

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標高500mからの眺望

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顏振峠で営業している平九郎茶屋

なんとか顏振峠まで辿り着いた平九郎は、峠の茶屋で一服した後、更に北東方向へ峠を下っていきます。
この時、茶屋の女主人に「新政府軍の残党狩りがあるから、刀を持っていては素性がバレて危険だ」と言われたからとも、茶屋で求めた草鞋の代金として渡したとも云われていますが、平九郎は太刀を茶屋に置いていったようです。

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平九郎茶屋の店内には、平九郎の肖像写真も飾られていました。
確証はありませんが、どうやら平九郎茶屋のご先祖が、この時の茶屋の女主人にあたるみたいです。

峠を下り、黒山村の辺りまで達したところで新政府軍の斥候部隊に見咎められ、小刀で応戦して一度はそれを振り払ったようですが、銃撃によって負傷し、最後は自刃して果てたと伝えられています。

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黒山の渋沢平九郎自決之地碑

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碑の脇には、平九郎がその上に座って自害したと伝わる自刃岩も。享年僅かに22。
自刃岩の奥に生えているぐみの木は・・・

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その実が平九郎の血の色を宿すとされ、平九郎ぐみと呼ばれています。
私が訪れた7月上旬は既に時期が過ぎていたのか、実の殆どは朽ち、僅かに2~3粒を残すのみとなっていました。
今年(平成30年)は気候の関係で、桜や紫陽花などの花々も開花時期が早まっていたようなので、或いは平九郎ぐみも例外ではなかったのかもしれませんね。

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自決之地碑の正面には、山へ向かって細い道が伸びていました。
或いは平九郎も、この道を伝って峠から下って来たのでしょうか・・・峠から黒山を経由した遥か先には、彼の故郷である下手計村(深谷市)があります。

胴は黒山の村人らによって同村の全洞院に葬られ、首は越生今市村の高札場に晒されましたが、高札場近くの法恩寺の僧侶らによって密かに埋葬されたと云われています。

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黒山村の全洞院

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平九郎の胴が埋葬されたと云うお墓。
全洞院の墓地最上段にありました。

全洞院住職は平九郎の位牌に;
大動即了居士 俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山村にて討死
とのみ記したのだそうです。

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平九郎のお墓からの眺め。

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全洞院には後年、義兄であり義父でもある渋沢栄一も、平九郎を偲んで訪れていました。

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今市村の高札場跡
平九郎の首は、この付近に晒されたと云われています。

写真左手には立派な蔵造の建物が残っていました。
あちらは岡野家住宅の店蔵で大正4年(1915)の竣工。写真には写っていませんが更に左手にもう一棟、二階建ての土蔵があり、そちらは江戸後期~明治前期にかけての創建なのだそうです。

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明治2年の今市村地図
高札場の並びに「法恩寺」の文字も見えます。

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こちらがその法恩寺。
天平10年(738)、行基による開創と伝わります。
源頼朝の命で建久元年(1190)に堂塔伽藍が建立され、天正19年(1591)には徳川家康から寺領20石の朱印を与えられたりと、結構な歴史を有しているようです。

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法恩寺絵図
明治20~30年代頃の姿を描いたもののようです。
「扇町屋警察署越生分署」の前の通りを、図面の右へ進むと高札場になります。

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正徳4年(1714)に再建された山門。

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鐘楼
こちらも正徳4年の再建。

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渋沢平九郎埋首之碑
実際に首が葬られた場所は判明していませんが、供養のために後年、法恩寺境内に建碑されました。

今回、渋沢平九郎が最期を迎えた越生町の関連地をめぐって感じたのは、土地の人々が大切に供養し、その歴史を後世の我々にきちんと伝えようとしていることでした。
この地で亡くなったとはいえ、平九郎は出身者でもないいわば“余所者”。一般的には然程メジャーな人物でもなく、それを考えると少々意外でもあり、少しは浮かばれるのかなと嬉しくもありました。

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ところで越生町は、かの太田道灌にも縁深い地。
道灌に関する史跡も数多く残されていますが、これらはいずれまた、機会を改めてじっくりとめぐりたいと思います。

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2018年7月 1日 (日)

和田宿(中山道)

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国道142号線が同152号線と分岐した先、青原交差点で右折すると旧中山道に入ります。

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旧街道らしく、道端のそこかしこに馬頭観音や道祖神が並べられていました。

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下和田地区の若宮八幡宮

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その境内に、和田城主・大井信定のお墓があります。
天文22年(1553)、大井信定は矢ヶ崎で武田晴信(信玄)と戦って討死し、その首級がこの地に埋葬されたと云います。
元禄6年(1693)、和田の信定寺第六世来安察伝和尚によって墓碑が建立されました。
隣りの羽田家とは、大井氏の重臣だった羽田氏を指すものと思われます。

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若宮八幡宮の少し先、芹沢一里塚跡の碑と中山道。

さ、それでは和田宿へ向かいます。

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和田宿本陣に到着。

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和田宿の地図

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まずは本陣から見学します。
和田宿本陣は文久元年(1861)3月10日、宿場を襲った大火によって焼失しています。
しかし、同年11月には皇女和宮の降嫁が決まっていたことから、幕府からの拝借金を以て急ぎ再建されました。

上の写真は中山道側から撮影しているのですが、御入門が中山道に面しておらず、玄関との位置関係にも違和感を覚えました。
けど、それにはちゃんと理由があったのです。

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本陣内で展示されていた図面。写真上方向に中山道が通っています。
実は現在残る建物は図面のピンクで囲まれた、主に長井家の住居として使われていた主屋部分のみで、で囲まれた、和宮や大名の宿泊に充てられた座敷棟は現存していません
維新後に本陣としての役目を終え、拝借金返済のために売却されて、丸子町の龍願寺に移築されたとのことでした。この時、御入門も同様に丸子町の向陽院に移築されています。
その後、座敷棟の跡地に道路ができ、御入門は中山道と垂直に交わるその新しい道路に面して復元されたため、現在のような少々不自然な配置になったのだそうです。

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写真手前を横に走っているのが中山道で、正面方向奥へ伸びている道路の辺りが座敷棟の跡地です。
江戸へ向かう和宮が泊った場所も、御入門が建っていた位置も、この道路付近のいずれかということになります。

主屋にも式台の玄関が存在しているのは、大名の宿泊がバッティングしてしまった場合に、一方(格の低い方)を主屋側に通すためなのだとか。

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玄関から真っ直ぐ奥へと続く(写真手前から)三之間、二之間、一之間などは、そのための空間です。

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主屋の中でも、そうした大名らを通す格式の高い部屋には、白壁や・・・

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黒壁が用いられていますが、

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完全なプライベート空間である居住スペースはこの通り、土壁のままになっていました。

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裏二階へと上がる箱階段

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裏二階
別の階段で表二階(駕籠などが展示されていました)へも上がることができます。

本陣主屋は昭和59年まで、村役場や農協の事務所などとして利用されてきました。

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和田宿の町並み
右に大黒屋、左奥にかわちや。
いずれも当時の旅籠で、本陣で共通券(300円也)を購入すると見学できます。

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まずは、かわちや(歴史の道資料館)から。
かわちやも文久元年の大火で焼失し、和宮降嫁に備えて急ぎ再建されています。

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板の間から土間
引き戸ではなく、珍しく木製の門扉が取り付けられています。

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和宮に随行してくる公家ら、身分の高い人を泊めることも想定して再建されたため、一旅籠ながら式台の玄関や・・・

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上段の間をも有します。
ガイドさんのお話では、岩倉具視もかわちやに泊まる予定だったものの、あまりの大行列で和田宿だけでは収容できず、岩倉は当宿をスルーして下諏訪まで赴いたのだとか。
なお、式台の玄関が利用されたのは和宮降嫁の行列を迎えた時だけで、それ以外の時は先ほどの木製の門扉を利用していたそうです。

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旅人を泊めていた二階。
窓側の天井が一段低くなっているのが、お分かりいただけるかと思います。
窓は中山道に面しており、当然のことながら参勤交代の行列などが通るので、窓から街道に向かって弓を弾けないようにしてあるのだそうです。

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・・・鉄砲を使われたら意味がないような気もするけど(笑)

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別の階段で、宿主の家族や使用人らが生活する二階へ。
本陣でいうところの裏二階に相当するのかな?

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その裏二階から中山道を見る。

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続いて大黒屋へ。
こちらは無人でしたが、電気が点いて鍵も掛かっていなかったので、チケットもあることだし勝手に入らせていただきました(笑)

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大黒屋では女郎さんを置いていたようで、二階部分は彼女らが逃げ出せないよう、夜は階段を外して閉じ込め部屋になっていたのだそうです。

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こちらは信定寺
武田晴信との合戦で討死した大井信定の菩提を弔うため、天文22年に創建されました。
そういえば、かわちやに「信玄袋」と呼ばれる旅行用の手提げ袋が展示されていました。侵攻~支配を受けたこともあり、何かと武田家と縁の深い土地柄なのですね。
幕末期、当寺14世の活紋禅師は隠居後に上田へ移り、佐久間象山から師と仰がれています。

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信定寺の裏山が大井氏の和田城跡で、いい空堀が残ってるとのことでしたが・・・
雨降る中、途中まではトライしましたが、中腹辺りでルートを見失い、安全を考慮して撤退しました。
いずれまた和田宿を訪れる機会があれば、下調べをした上でリベンジしたいと思います。

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ところで、和田宿にも「いしあい」さんがいらした(今も?)ようです。
割と珍しいお名前だと思うのですが、長久保宿の石合家と関係があるのでしょうか・・・?

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和田宿の先へと続く中山道。

本来であればこの後も中山道を辿りつつ、唐沢の一里塚とか、水戸天狗党の墓とか、観て回りたいポイントがあったのですが、和田に入った頃から降り出した雨がいよいよ本降りとなり、あえなく断念。。。
諏訪まで一気に走り抜け、そのまま中央道で帰路につきました。

今回は車での行動だったので見落としも多く、改めて街道旅は歩くに限ると思いました。
いずれ再チャレンジしたいと思います。

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2018年6月30日 (土)

芦田宿・笠取峠松並木・長久保宿(中山道)

前日は小諸からスタートして海野宿~上田と、結果的に北国街道に沿ってドライブしてきましたが、2日目は立科町の芦田宿から中山道を、諏訪方面へ向かって進んでいきます。

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中山道、芦田宿
仙石権兵衛秀久の命で慶長2年(1597)に成立しました。

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芦田宿では明治以降、中山道の道筋が多少改変されているようで、車道から逸れた、現在は畑となっている場所に江戸時代の道の痕跡が一部残されていました。

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石打場公園
この辺りが芦田村の境界にあたるようです。

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芦田宿を抜けると、中山道は笠取峠に差し掛かっていきます。
写真中央奥、交錯する2本の国道の間を縫うようにして進みます。

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先ほどの交差点から2~30mほども進むと、中山道は車道から逸れ、街道沿いに笠取峠の松並木が現れます。

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笠取峠松並木
江戸時代初期、幕府は諸街道の整備を進め、慶長7年(1602)頃からは一里塚の設置や並木の植樹を奨励しています。
芦田宿と長久保宿の間にある笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、峠道約1.6㎞に渡って植樹したものです。

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大正13年(1924)の調査時には229本が確認されていますが、平成の初期段階で110本、平成30年の現在では約70本を残すのみとなっています。

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中山道で唯一現存する江戸時代の松並木・・・何とか永く保っていってもらいたいものです。

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松並木をしばらく登っていくと、中山道が国道142号線に分断される箇所に出ます。

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その国道との交錯点に、小諸領境界石標が建っていました。
前日に訪れた小諸城の本丸跡に笠取峠の石標が移設されていましたので、こちらは復元されたものになりますでしょうか。

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国道を越えても、松並木はまだ続いていました。

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この先、中山道が再び国道にぶつかるところで、松並木も途切れているようです。
この後は少し車で移動します。

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笠取峠松並木から車で5分ほども走ると、芦田宿に続く中山道の宿場町、長久保宿に到着します。

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長久保宿と中山道の景観

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左手前に長久保宿歴史資料館が写っていますが、実は明治初期にほぼ同じアングルで撮られた写真が残っています。

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こちらがその1枚。
左隅で2人の男性が立っている辺りが、現在は歴史資料館になっている場所らしいです。

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まずは長久保宿歴史資料館の見学から。
資料館の建物は明治初期、一福処濱屋という旅籠として建てられたものの、維新後に街道の交通量が減少したことから開業には至らなかったそうです。

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長久保宿本陣、石合家
石合家4代目当主の元には、真田信繁の娘(一般に「すえ」と伝わる)も嫁いでいます。
「真田丸」でも、恒松祐里さん演じる「すえ」が、加藤諒さん演じる「石合十蔵」に嫁いでいましたね。

寛延2年(1749)の絵図面と現状の間取りが同じことから17世紀後半の建築と推定され、中山道に現存する本陣遺構としては最古のものとされています。

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こちらは竹内家住宅(釜鳴屋)
享保16年(1731)の祈祷札に打ち替えた跡がないことから、それ以前に建てられたものとして、長野県内最古の町屋建築とされています。

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脇本陣跡

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丸木屋の内部もちょっとだけ見学。
元は旅籠で、慶応3年(1867)に築かれました。

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続いて、長久保宿から少し離れて西蓮寺へ。
こちらに石合家へ嫁いだ真田信繁息女のお墓があるというので、お参りさせていただくことにしました。

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墓地の片隅で静かに眠る、真田信繁息女墓。
父の死後も、彼女が平穏な日々を送れたことを願います。

この後は中山道を更に京方へ進み、和田宿へ向かいます。

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2018年6月29日 (金)

海野宿、芳泉寺

小諸をあとにして向かった先は、北国街道の海野宿(東御市)です。

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海野宿の入口に鎮座する白鳥神社
詳しい創建時期は判っていませんが、「平家物語」や「源平盛衰記」が木曽義仲の挙兵(治承5年/1181)を白鳥河原の勢揃」として伝えているので、平安時代には既に鎮座していたものと考えられます。
「白鳥河原」とは白鳥神社の前に広がる千曲川の川原のことで、この地は以仁王の令旨に応じた義仲挙兵の地としても知られているのです。
海野荘に勢力を張る海野氏からも、幸親・幸広父子が義仲軍に参陣して活躍しました。

建久2年(1191)には、海野幸広の子(もしくは弟)・幸氏が白鳥神社の社殿を遷しています。
幸氏は義仲の子・清水冠者義高に仕えて鎌倉入りし、その後は頼朝の家臣となって重用されました。

御神木のケヤキは推定樹齢700年以上ということなので、或いはそういった歴史を見守ってきたのかもしれません。

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海野宿
寛永2年(1625)の成立と伝わる北国街道の宿場町です。
往時は約650mに渡って旅籠屋造の建物が軒を並べていました。今も「海野格子」と呼ばれる出格子を二階に持つ建物がよく残されています。

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こんな立派な「うだつ」も。

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平日とあって訪れる人もごく僅かで、とてもゆったりとした気分で散策を楽しめました。

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海野宿本陣

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こんな案内を目にしたら・・・行かない訳にはいかないでしょう(笑)

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海野氏の菩提寺、興善寺

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永正3年(1506)の開創で、開基は海野幸明と伝えられています。
天文10年(1541)、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)との戦いで海野幸義が戦死し、海野氏は滅亡しました。

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境内に眠る海野幸明の墓所。

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海野宿まで戻り、北国街道の往来を眺めながら美味しいお蕎麦をいただきました。

この後は、宿を押さえている上田市へ向かいます。

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上田城下の芳泉寺
元和8年(1622)、真田家が松代へ移封された後に小諸から上田に入った仙石忠政は、真田昌幸が当地に置いていた常福寺を下之条へと移転させ、自らの菩提寺であった宝仙寺を小諸から移しました。
延宝2年(1674)、忠政の子・政俊の死後、寺名を芳泉寺と改めています。

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真田信之正室・小松姫の墓所。
小松姫は元和6年(1620)、埼玉の鴻巣で没し、勝願寺で密葬されました。
芳泉寺の墓所は、信之が小松姫の一周忌に建立したものです。

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小松姫の墓所の隣には、仙石家の霊廟も。
手前は仙石政俊の霊廟で、左奥には藩祖・秀久(政俊祖父)らの霊廟もあります。

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仙石権兵衛秀久のお墓。
奇しくも5月には、秀久・小松姫両名の墓参に鴻巣の勝願寺を訪れたばかりでした。
何の因果か共に鴻巣で生涯を終え、親族によって上田でも供養され、、、歴史の偶然に不思議な力を感じた瞬間でした。

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ホテルにチェックイン後は、上田駅前へ。
上田には何度か訪れていますが、駅前は初めてなので、こちらの銅像にも初めてお目に掛かりました。

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ふらっと入ったお店で一献。
久しぶりに美味しい馬肉もいただけて満足・・・早めに切り上げて、翌日に備えました。

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2018年6月28日 (木)

小諸城と城下の町並み

今回は久しぶりの一人旅。
ドライブを楽しみたくて、愛車と共に信州へ出かけてきました。

休暇を取得し、平日の8:30頃にゆったりと出発。
圏央道→関越→上信越と高速道路を乗り継ぎ、まず最初に向かった先は・・・

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小諸城(懐古園)です。

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城跡北側にある駐車場に車を停めると、目の前に大きな空堀のような谷底が口を開けていました。
北谷と呼ばれる、おそらくは自然の地形ですが、これを空堀に見立てて縄張りされた様子が見て取れます。

三の門前の料金所から懐古園に入場し、曲輪が連なる西へ向かって進んでいきます。

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二の丸

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二の丸からの、北の丸・南の丸越しに本丸方向。
写真では分かりづらいかもしれませんが、本丸方向へ進むにつれ、地形が緩やかに下っています
本丸周辺の先端部分が最も低地となることから、小諸城は「穴城」とも呼ばれているそうです。

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南の丸の石垣にあった「鶯石」
城主が通行したり、何か祝い事があるとウグイスの声で鳴いたのだとか・・・。

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南の丸から木谷
こちらの谷も、なかなかの要害ぶりです。

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主郭手前の堀切に架かる黒門橋

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黒門橋上から見る堀切

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黒門橋を渡った先が黒門跡。

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黒門跡の先にそびえる本丸の石垣。

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本丸跡(懐古神社)

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懐古神社鳥居の脇には、「小諸領境界石標」が移設されていました。
文化3年(1806)のもので、西は軽井沢の追分の原、東は立科町の笠取峠にそれぞれ設置されていました。

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山本勘助愛用の鏡石・・・ホントに?(;^_^A
ちなみに勘助は、現在に遺構が残る小諸城のベースとなる縄張りを担当したとも伝えられています。

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天守台

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天守台石垣
天守自体は、寛永6年(1629)の落雷により焼失しています。

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西谷

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北谷
あちらの橋へ下りてみると・・・

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主郭部下の北谷は、岩盤質の絶壁がほぼ垂直に切り立っていました。
これは到底、攻め登ることはできそうにありません・・・。

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水の手展望台からの眺め。

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武器庫

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城内で唯一の井戸となる荒神井戸

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再び三の門まで戻ってきました。
次は大手門へ向かいます。

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三の門前にある徳川秀忠の「憩石」
慶長5年(1600)の第二次上田合戦で、徳川軍は小諸城を本陣としていますが、その在陣中、秀忠が腰を掛けていた石との伝承に由来しています。

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三の門から線路を越えた先にある大手門。
小諸駅一帯が、三の丸の跡地に該当するようです。

こちらの大手門は慶長17年(1612)、初代小諸藩主・仙石権兵衛秀久により創建されました。
明治以降は小諸義塾の仮教室や料亭として利用されてきましたが、平成20年になって往時の姿に復元されています。

引き続き、城下町を散策します。

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移築復元された小諸宿本陣の主屋。
明治11年(1878)に佐久市の桃源院に移築され、桃源院の本堂や庫裡として利用されてきましたが、平成7年に小諸市へ寄贈され、本陣跡地にも近い「せせらぎの丘」に復元されました。

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北国街道沿いに建つ、旧小諸宿本陣・問屋場(国重要文化財)
小諸宿は北国街道の宿場町の一つで、参勤交代や善光寺詣などの需要もあって栄えました。
先ほどの主屋も、本来はこちらに建っていたことになります。

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本陣跡から北国街道を少し東へ進んだ先、脇本陣跡。
一見したところ廃屋のようにも見えますが、なかなか風情のある建物です。

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本町交差点まで来たところで一旦北国街道を離れ、権兵衛坂へ。
同交差点から北北東へ伸びる、細い下り坂の路地です。
「権兵衛坂」の名は、小諸城主となった仙石権兵衛秀久が、健速神社参拝の折に通行していたことに由来するそうです。(諸説あり)

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権兵衛坂を下った先の常盤橋
何となく古そうな橋だなぁ~と思って調べてみると、昭和3年の竣工だそうです。

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仙石秀久も参拝した・・・健速神社
但し、当地に遷座されたのは延宝3年(1675)とのことなので、秀久が参拝していた時は別の場所にあったことになります。
御神木のケヤキは推定樹齢4~500年、毎年7月に行われる例祭、「祇園祭」が有名です。

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北国街道に戻りました。

小諸散策はこのあたりで切り上げ、(ほぼ)北国街道伝いに少し移動します。

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2018年6月14日 (木)

「戊辰戦争 菊と葵の500日」展

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国立公文書館で開催されている企画展、戊辰戦争 菊と葵の500日(~H30.6.30)に足を運んできました。

戊辰所用錦旗及軍旗真図
函館五稜郭開拓使ヨリ請取方伺

鳥羽・伏見戦で負傷した山口次郎(斎藤一)が、江戸で松本良順の治療を受けたことを示す;
新撰組手負之者山口次郎医学所江罷越候儀ニ付申上候書付
といった展示品をはじめとして;

Ⅰ 開戦 鳥羽・伏見の戦い
Ⅱ 江戸・関東への転戦
Ⅲ 東北・北越戦線へ
Ⅳ 終幕 五稜郭の戦い

という構成で、各戦線にまつわる史料(どちらかというと新政府軍サイドのものが多め)が時系列に沿って展示されていました。

各史料の詳細は省きますが、その中に桑名藩士・中村武雄の記した戊辰桑名戦記というものがあり、旧幕府脱走陸軍が市川国府台に集結したくだりを開いて展示してあったので、思わずケースに被りつきで読み込んでしまいました。
大鳥圭介ハ陸軍ノ事ニ達シ著名ナル人故之ヲ以テ惣督トシ土方歳三ハ従来新撰組ノ副長ニテ機智勇略兼子(ネ)備リタル故参謀ト定メ・・・

その他では土佐藩士・細川広世の記した跨関日記の中で、近藤勇(大久保剛)を「日野の産」と誤って認識しているところが・・・個人的にはツボ(笑)

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2018年6月11日 (月)

渋沢平九郎の故郷を訪ねて

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埼玉県深谷市の渋沢栄一記念館。

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twitterからの情報で現在、幕末のイケメン!渋沢平九郎展が開催(~H30.7.29)されていることを知り、足を運んでみました。

渋沢平九郎は尾高勝五郎保孝の子として生を受けました。渋沢栄一とは従弟であり、且つ栄一が平九郎の姉と結婚しますので義兄弟という間柄になります。
栄一が徳川昭武(慶喜弟)に随行してパリ万博へ向かうことになったのを機に栄一の見立て(仮)養子となり、渋沢平九郎と名乗りました。
慶応4年(1868)に戊辰戦争が勃発すると、天野八郎らとの対立から彰義隊を脱した親類の渋沢喜作(成一郎)や、兄・尾高惇忠らと共に振武軍を結成して飯能で新政府軍と戦います(飯能戦争)が敗れ、同年5月23日、逃れる途中に顔振峠黒山の山中で敵兵に捕捉されたために自害して果てます。享年僅かに22歳でした。

展示の方はほんの一コーナーといった程度の、意外なほどに小規模なものでしたが;

・「藍香選 渋沢平九郎昌忠傳」
→渋沢平九郎の人となりを伝える。

・「昌忠致身受慶録」(慶応3年)
→平九郎が渋沢井栄一の見立て養子となった際の祝いの記録。

・「東遊録」(慶応3年)
→江戸での暮らしを伝える平九郎の日記。

・平九郎書状(2通ほど)

などが展示されていました。

折角なので、近隣の関連地もめぐります。

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渋沢栄一の生誕地に建つ、中の家(なかんち)。

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明治44年に建てられた副屋。

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庭には若き日の栄一

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主屋と土蔵

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主屋は明治28年の上棟。渋沢家の住宅として利用されてきました。

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主屋裏に建つ渋沢平九郎追悼碑

楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
昌忠


平九郎が幕府軍に参加する前日、仮住まいの障子に書いたと云う言葉が彫られています。
渋沢栄一が建立(篆額も)し、谷中の渋沢家墓地にありましたが、墓地の整理縮小に伴って市に寄贈され、中の家に移設されました。

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続いて、渋沢平九郎の生家でもある尾高惇忠生家へ。
尾高惇忠は先にも触れましたが、平九郎の長兄です。渋沢栄一は惇忠の従弟であり、且つ妹婿にあたります。

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尾高家は栄一の中の家から東へ1㎞強ほどの距離で、若き日の栄一は日々ここへ通い、惇忠の教えを受けていたと云います。
やがて尊王攘夷思想に傾倒していった二人が、やはり親類の渋沢喜作(成一郎)らと共に、高崎城乗っ取り計画の謀議(文久3年/1863)を図ったのも、この尾高家の二階であったと云われています。
写真奥の床の間の裏手に階段があるそうですが、現在はまだ整備修復が進んでおらず非公開です。

惇忠は後に富岡製糸場の初代場長(娘が工女1号)や、第一国立銀行盛岡支店・仙台支店の支配人などを歴任していますが、こちらの尾高惇忠生家は富岡製糸場が世界遺産に登録されたのを機に、関連施設として公開されるようになりました。

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尾高家は、染め物の染料となる藍玉の製造・販売でも生計を立てていたそうです。
この藍玉一つで、当時の価値で10万円ほどもしたのだとか。

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主屋の屋根。上段部分は創建当時のままなのだそうです。

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煉瓦倉庫

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倉庫に使われている煉瓦には、日本煉瓦製造株式会社(明治21年、渋沢栄一らによって設立)の上敷免工場(現深谷市上敷免)製であることを示す「上敷免」の刻印が打たれています。
(東京駅にも、日本煉瓦製造製の煉瓦が使用されていたようです)

「渋沢平九郎を取り上げた展示なんて珍しいから、ちょっと覗きに行ってみよう」という軽い気持ちで訪れた深谷市。思わぬ収穫がたくさんの、いいドライブになりました。
ラストは道の駅に立ち寄り、先日テレビで紹介されて気になっていた深谷もやしと、定番の深谷ねぎを仕入れてから帰宅しました。

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2018年6月10日 (日)

騎西城

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今回の日帰りドライブはまず、埼玉県加須市の騎西城跡へ向かいました。

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騎西城復元図
築城時期や築城者は不明ですが、永禄6年(1563)には武州松山城の救援に間に合わず、方向転換?した上杉輝虎(謙信)に攻められて落城しています。
遺構はほぼ何も残っていないようですが、この復元図を元に主だったポイントを歩いてみることにします。
※冒頭写真のような天守風の建物もありますが、この復元図で見る限り、その立地は当時の堀の中にあたるようですね…(;^_^A

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生涯学習センターの片隅に建つ天神曲輪跡の標柱。
標柱の位置が曲輪の端にあたるようなので、写真で標柱の左側(天守風建物のある方)は当時、堀だったことになります。

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天神曲輪の土塁跡
唯一と言ってもいい、騎西城の遺構なのですが・・・

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昭和40年頃に撮られた写真を見る限り、その後の整備段階で多少盛り直されていそうですね。

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復元図aの堀があったと思われるポイント。

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同じくbの堀跡と推定したポイント。
考え過ぎかもしれませんが、堀跡の高低差(窪み)をそのまま、水田に利用したようにも見えてきます。

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大手門跡
復元図によると、畑の部分が堀跡ということになります。

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生涯学習センターまで戻って、二の丸跡。
二の丸跡は、生涯学習センターの敷地や宅地でほぼ埋め尽くされているようです。

折角なので、本丸跡の方にも向かってみます。

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復元図c地点から、本丸跡方向を見た様子。
写真手前の地表面が低く、家屋が建ち、車などが置かれている場所は一段高くなっていましたが・・・なんとも言えません。
その気になったら、なんでも城の痕跡に思えてきちゃう・・・(笑)

さて、暑さも厳しい(まだ6月も前半だというのに、この日の気温は車の温度計で35度を指していました)ので騎西城跡めぐりはこの辺りで切り上げ、次は深谷市へ向かいます。

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