2018年5月24日 (木)

下田で史跡めぐり

なんとなく年一の恒例となっている家族での温泉旅行。今年の行き先は、ちょっとした紆余曲折を経て伊豆は下田になりました。
家族連れとはいえ、そこは折角の遠出。勿論、史跡めぐりも盛り込んでいきます(笑)
※テーマは方々に飛び散ってまとめるのも面倒なので、今回は単純に訪問順でご紹介していきます。

■5月18日(金) 
偶然なのですが、この週末は下田で黒船祭りが開催されることを旅行計画後に知り、慌てて祭りのスケジュールを睨みながら、なんとかバッティングを避けるように行程を組みました。

道路渋滞もない快適なドライブ。順調に天城越えで下田市域に入り、まず最初に訪れたのは・・・

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蓮台寺温泉の吉田松陰寓寄処です。

嘉永7年(1854)3月3日、神奈川で日米和親条約が締結されます。
条約によって開港場に指定された下田へと向かったペリー艦隊を追い、吉田松陰(寅次郎)も金子重輔を伴って下田へと向かいました。
同18日、松陰は「瓜中万二」、重輔は「市木公太」という変名を用い、まずは下田の岡方屋(岡村屋とも。現下田屋旅館)という宿に入ります。
当時、皮膚病(疥癬)を患っていた松陰は下田到着後、治療のために蓮台寺温泉を訪れました。
とある深夜、2人が本来は村人しか利用できない共同湯にいるところへ、向かいの屋敷に住む村山行馬郎が現れます。見慣れぬ2人を訝しんだものの、医師でもあった行馬郎は事情を察したのでしょう、2人を自邸に引き取って匿うことにしました。

前置きが長くなりましたが、この村山行馬郎の屋敷こそ、上写真の吉田松陰寓寄処(以下、村山邸)となるのです。

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室内の様子
さすがに平日の昼間とあって訪れる人もなく、一人で独占して見学できました。

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入口の土間の脇にはお風呂も・・・しかも温泉が引かれていたのだそうです。
松陰たちと出会った際、行馬郎は自邸にも温泉があったのに何故、わざわざ共同湯へ行ったのか?
案内してくださったボランティアさんによると、当時は村山邸が単純泉であったのに対し、共同湯は硫黄泉であった(現在は共に単純泉)ことから、行馬郎は体調や病といった何がしかの理由で、硫黄泉を求めてわざわざ共同湯に浸かりにいったのではないか、とのことでした。

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村山邸から正面に見える、松陰・重輔の2人が潜んでいた共同湯。

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「吉田松陰湯治湯の跡」とあります。

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村山邸に戻ります。
村山邸の風呂は写真右奥にあり、その手前に見える階段を上がると・・・

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松陰や重輔を匿った隠れの間があります。
階段を取り外して天井板を閉めると、ちょっとした隠し部屋になる構造です。

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吉田松陰隠れの間
この一間で松陰は、密航の企てを実行に移すタイミングを計っていたのでしょうか。

数日の間を共に過ごすうち、松陰と行馬郎は大変に意気投合したようで、行馬郎の娘が後年、松陰と行馬郎が夜な夜な語り合う様子を語り残しているのだそうです。
(松陰の患っていた皮膚病の具合も)

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村山邸を出た松陰と重輔は3月27日の深夜(28日未明)、柿崎の弁天島の浜から小舟を漕ぎ出し、碇泊していたペリー艦隊(旗艦ポーハタン号)に乗り込んで密航を企てますが拒否され、現在の下田市須崎付近の浜へと送り返されました。
黒船に乗り込んだ際、盗んで漕ぎ寄せてきた小舟を見失っていた2人は事態の発覚を覚悟して自首、江戸伝馬町の牢屋敷へ送られた後に死罪は免れて国許蟄居とされ、松陰は萩の野山獄に入れられました。(重輔は岩倉獄に入れられ、そのまま獄死)
出獄が許された後も杉家幽閉の身となり、このことが松下村塾(叔父が主宰していたものの名を引き継いだ)を開塾するきっかけとなったのでした。

さて、私も村山邸を辞し、下田の中心街へと向かいます。

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宝福寺
嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結され、新設された下田奉行の都築駿河守が宿所としたことから、仮の下田奉行所となりました。
文久3年(1863)には土佐藩の山内容堂が宿を取り、順動丸で入港した勝海舟が訪れて容堂に謁見し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを取り付けた地としても知られています。
「晴れて赦免の身となった龍馬の活躍はここから始まる」との意から、石柱には「坂本龍馬飛翔之地」ともありました。

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こんな可愛らしい龍馬像も。

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宝福寺境内、唐人お吉記念館に展示されている容堂・海舟謁見の間

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記念館裏には、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに奉公したお吉の墓所も。
お吉は下田で芸妓をしていたところを奉行所の目に留まり、ハリスの元へ侍妾として奉公することになった人物です。
その後は一旦下田を離れたものの、維新後には再び戻って髪結い業を始めたり、小料理屋(安直楼)を開業したりしますが、安直楼は2年で廃業と、なかなか上手くはいかなかったようです。
ハリスの侍妾として奉公した過去から世間に「唐人」と嘲弄され、貧困の中に世を儚み、明治24年3月27日、豪雨の夜に川へ身を投じて51年の生涯を閉じました。
こちらの墓石は後にお吉を演じた水谷八重子らによって寄進されたもので、向かって右横には小さな元の墓石も祀られていました。

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続いて了仙寺へ。
嘉永7年(1854)3月、日米和親条約が締結されて下田が開港場になると、了仙寺は上陸したペリー艦隊一行の応接所となり、同年5月には和親条約の細部を詰めた下田条約調印の場にもなりました。
調印された下田条約により、了仙寺は玉泉寺と共にアメリカ人乗組員のための休息所となっています。
満開に咲き誇るアメリカジャスミンの香りが、辺りを濃厚に包んでいました。

今度は了仙寺の目と鼻の先、下田公園へ。
一旦幕末から離れ、戦国期へシフトします。

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下田城
小田原北条氏の海の拠点の一つ。豊臣秀吉との間に緊張が高まってくると北条氏は、清水康英を城将として入れ、城に改修の手を加えて整備させています。

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登り始めて最初に目に飛び込んできた横堀。
細い尾根上に配された曲輪群を取り巻くようにして伸びています。

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堀切

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5月にもなると下草が伸び、ちょっと見え辛いけど・・・畝堀

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畝堀の先にも堀が続きます。

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先ほどとは反対側から畝堀を見た様子・・・チャンスがあれば冬に再チャレンジですね(^_^;)

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元々は「鵜島」という島だったそうで、鵜島城とも呼ばれているようです。

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伝「天守台」跡とされる曲輪部分。
下田城の主郭にあたります。

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主郭から三方へ伸びる細尾根の一つ。

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尾根上から、先ほどの畝堀を見下ろした様子。

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城跡からの眺め。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、下田にも長宗我部元親や脇坂安治らの率いる1万余りの大軍が押し寄せます。
僅か600ほどの手勢で立て籠もる清水康英は抵抗するものの、50日間に及ぶ防戦の末に開城しました。

そのまま幕末へ戻り・・・

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下田公園北側の中腹に建つ、開国記念碑
下田開港100年を記念し、昭和29年(1954)に建てられました。

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ペリーとハリスの言葉が刻まれています。
ペリーの「余は平和の使節として此の地に来れり」という言葉を選したのはGHQのマッカーサーで、「開国記念碑」の揮毫は吉田茂元首相によります。

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更に麓へ下ると・・・ペリー上陸の碑
嘉永7年(1854)に締結された日米和親条約で下田が開港場となり、入港してきたペリー艦隊の乗組員たちが初めて上陸した地点に建てられています。

さて、これにて初日の史跡めぐりは終了としました。
この後は宿へ入り、温泉に山海の幸、美味しい地酒、、、贅の限りを尽くしてきました(笑)


■5月19日(土)

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前夜から明け方まで降り続いた雨も、出発する頃までにはすっかり上がって陽も射してきました。
2日目のスタートは・・・

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柿崎弁天島からです。
本記事の冒頭でご紹介した吉田松陰寓寄処の箇所でも書きましたが、吉田松陰が黒船に乗り込んでの密航を企て、金子重輔と共に小舟でペリー艦隊の碇泊する海へと漕ぎ出した場所です。
・・・それにしてもすごく特徴的な地層ですね。

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七生説の碑(左)と金子重輔行状碑(右)

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ペリー艦隊を目指し、小舟を漕ぎ出す松陰と重輔の図。
・・・湾内にしちゃ、海が荒れすぎじゃね?(笑)

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弁天島に建つ弁天社(手前)と下田龍神宮(奥)
踏海を企む2人は、手前の弁天社で仮眠を取ったとも云われています。

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柿崎弁天島からの下田湾。
ペリーの乗船するポーハタン号は果たして、どの辺りに碇泊していたのでしょうか。

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なんとか黒船に乗り込んでペリーに交渉したものの、乗船を拒否された2人は、写真左奥方向に位置する須崎付近の浜に送り届けられました。

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柿崎弁天島の近く、三島神社境内に建つ吉田松陰像。
(弁天島の松陰&重輔の銅像は、すっかり見落としてしまいました・・・)

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2人が送り届けられた須崎に行ってみると、ご覧の案内板が設置されていました。

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生い茂る樹木の中でひっそりと佇む、吉田松陰上陸の碑

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上陸地点からの下田湾。
弁天島の方向には、視界は開けていません。

この後の顛末は、吉田松陰寓寄処の箇所でも簡単に触れた通りです。
乗船を拒否され、この地に送り返された時、松陰の目にこの景色はどのように映っていたことでしょう。

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さて、今回最後にご紹介するのは玉泉寺です。
(本当は吉田松陰上陸の碑よりも先に訪れていますが、あしからず)

嘉永7年(1854)5月の下田条約によってアメリカ人乗組員の休息所となり、安政3年(1856)に来日した初代総領事タウンゼント・ハリスが住居に定めて以降、日米修好通商条約によって開港された横浜へ移る同6年までの間、アメリカの総領事館として機能しました。

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ハリス記念碑

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日本最初の屠殺場跡
領事館員の食糧のため、この場所にあった木に牛を繋いで屠殺していたのだそうです。
その木は既に枯れていますが、境内のハリス記念館で保存されているそうです。残念ながら今回は寄りませんでしたが。

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山門脇には、カーター大統領来訪記念碑などもありました。

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総領事ハリスや、通訳ヒュースケンの居室が置かれていた本堂。
本堂の前にあるのは牛乳の碑。

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本堂には穴を空けた石を壁に埋め込み、ストーブの煙突を通していた痕跡も残っていました。

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最後にぺルリ艦隊乗組将兵の墓へもお参り。

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下田での史跡めぐりは、吉田松陰に始まってペリー来航など、個人的にはこれまであまり詳細には触れて来なかった歴史の連続。
そういった意味でも、改めて見直してみるいい機会にはなりました。

帰路は伊豆半島の東海岸沿いを北上し、伊東で昼食&ひもの購入休憩を挟んで無事に帰宅。土曜日だったこともあって渋滞にもはまらず、愛車にとってもいい運動になったようです。

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2018年5月14日 (月)

高安寺

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府中市の高安寺

その昔、藤原秀郷(俵藤汰)の館跡だった地に創建された見性寺が始まりとされています。
壇ノ浦で平家を討ち果たすも、鎌倉入りを許されなかった源義経が京への帰路に立ち寄り、元弘3年(1333)の分倍河原の戦いに於いては、鎌倉幕府軍と対峙する新田義貞が本陣を布いたとも伝えられている地です。

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立派な山門

見性寺はやがて荒廃しますが、後に将軍となった足利尊氏によって再興され、尊氏が全国に展開させていた安国寺の一つ(武蔵国)に位置づけ、寺名も高安寺と改められました。

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そのため、本殿(1803年再建)には尊氏の戒名「等持院殿仁山妙義大居士」にちなんだ扁額も。

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藤原秀郷を祀る秀郷稲荷

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京への帰路に見性寺(高安寺前身)へ立ち寄った源義経は、ここで弁慶らと赦免祈願のための大般若経を写したと云います。
その墨のための水を汲んだとの伝承から、弁慶硯の井と呼ばれる井戸跡もありました。

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高安寺は、多摩川の浸食による段丘の縁のような場所に位置しています。
その地理的条件から、高安寺として再興された後も軍事目的で利用され、度々戦乱に巻き込まれてきました。
戦国期には後北条氏の庇護を受けるものの次第に寺勢を失い、慶長年間になって青梅の海禅寺七世・関州徳光禅師が再興し、その末寺に入って現在に至ります。

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2018年5月13日 (日)

布多天神社

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調布市の布多天神社

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その境内片隅に建つ日露戦役記念碑

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記念碑裏の従軍人名には、新選組局長・近藤勇の娘たまと婿養子・勇五郎の子で、勇にとっては孫にあたる近藤久太郎の名も刻まれています。
彼は日露戦争に出征し、明治38年(1905)に僅か23歳で戦病死しました。

碑文は上石原の名主だった中村勘六の長男・克昌によります。
慶応4年(1868)3月、甲陽鎮撫隊を率いて甲府へ向かう近藤勇は上石原の西光寺で休息し、西光寺の向かいにあった中村勘六邸で歓待を受けています
・・・世代を経ても、人の縁はこうして繋がっていたのですね。

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西光寺門前に建つ近藤勇像
3年ぶりの再訪ですが、銅像が奇麗になっていました。

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西光寺の向かい、旧甲州街道を挟んだ対面の中村勘六邸跡
布多天神社からは、旧甲州街道を西へ1㎞ほどの距離になります。

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ところで、布多天神社には天正18年(1590)の小田原征伐の際、豊臣秀吉から発給された制札も残されているようです。
今回は日露戦役記念碑を目当てに布多天神社を参拝しましたが、いずれ機会があれば制札にもお目にかかってみたいものですね。

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2018年5月 4日 (金)

鴻巣宿周辺の歴史散策

GWの混雑を避け、本日は近場へお気軽ドライブ・・・埼玉県鴻巣市へ向かいました。
中山道の宿場町、鴻巣宿の周辺を散策します。

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まずは鴻巣市本町勝願寺へ。
勝願寺は天正年間(1573~93)、鴻巣市登戸から当地へ移され、宗派もそれまでの真言宗から浄土宗に改められて再興されました。
石柱にある「檀林」とは浄土宗僧侶のための学問所・養成所のことで、勝願寺は関東十八檀林の一つにも数えられています。
※移転後の登戸跡地はしばらく衰退しますが、秀忠の代になって元の真言宗寺院として再興され、現在も「勝願寺」として存続しています。(登戸勝願寺)

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参道を進むと、石戸藩主から丹後国田辺城主へと転じた牧野氏歴代当主夫妻の墓所がありました。どうやら非公開のようです。

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徳川家康も鷹狩で度々鴻巣を訪れており、同寺中興二世の円誉不残上人に帰依して寺領30石を寄進し、「三つ葉葵紋」の使用も許されました。

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立派な仁王門

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本堂

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境内では、ナンジャモンジャが満開の花を咲かせていました。

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本堂横に祀られている(向かって左から)仙谷権兵衛秀久・真田信重室・真田信重・小松姫(真田信之室)らの墓所。

仙谷秀久は慶長19年(1614)5月6日、江戸から領国の信州小諸への帰途、ここ鴻巣の地で没しています。
本廟は長野県上田市の芳泉寺にありますが、終焉の地である当寺にも分骨建墓されました。
(偶然ですが、訪れた日は5月4日・・・旧暦と新暦の違いはありますが、僅か2日違いだったのですねぇ・・・)

真田信重は真田信之の三男で慶安元年(1648)に、やはり鴻巣にて病没しています。
隣に眠る彼の室(鳥居左京亮六女)は、夫に続き翌慶安2年に没しました。

小松姫は云わずと知れた本田平八郎忠勝の息女で徳川家康の養女となり、真田信之に嫁した人物。元和6年(1620)2月4日没。
生前、円誉不残上人に帰依した縁で一周忌に際し、勝願寺にも分骨して祀られるようになりました。
(本廟は仙谷秀久と同じ芳泉寺)

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中山道鴻巣宿本陣跡

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鴻巣宿は中山道7番目の宿場町で、慶長7年(1602)に北本市の本宿から移されて栄えました。

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お次は、“日本で一番小さい東照宮”が祀られている鴻巣御殿跡へ。

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鴻巣御殿跡の東照宮(祠)
鴻巣御殿は、鷹狩の際などに利用された徳川将軍のための休泊施設で、家康・秀忠・家光の三代に渡って使用されました。

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しかし寛永7年(1630)頃を最後に使用されなくなり、明暦の大火(1657)後には焼失した建物の再建のため、その一部が江戸城へと移築され、元禄4年(1691)になると跡地に東照宮を祀って除地とされました。

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江戸図屏風に描かれた鴻巣御殿

・・・もう少し散策を続けます。

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鴻巣駅から西へ向かい、20分ほど歩いた先にある・・・伝源経基館跡の横堀。

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曲輪内はかなり広い柵平地となっていました。

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こちらは・・・櫓台でしょうか?

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櫓台の上に建っていた石碑

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櫓台から見渡す曲輪

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土塁と横堀

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食い違いに横矢をかける土塁と堀

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伝源経基館跡・・・中世の豪族居館跡であることは確かと思います。
遺構としては単郭の土塁や横堀のみですが、住宅街に残された貴重な歴史遺産といえるでしょう。

渋滞知らずのお気軽ドライブ&歴史散策・・・リフレッシュできた1日となりました。

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2018年4月25日 (水)

宮ヶ瀬ダム

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数年ぶりに県立あいかわ公園へやってきました。
前回は郷土資料館が目的でしたが、今回は宮ヶ瀬ダムを見学します。

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こちらは宮ヶ瀬ダムの下流に建設された石小屋ダム
宮ヶ瀬ダムの副ダムになります。

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新石小屋橋からの宮ヶ瀬ダム。
遠目にも、その圧倒的なスケールが伝わってきます。

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橋の反対側には大沢の滝。

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宮ヶ瀬ダム
高さ156m(国内6位/約3,000基弱)、基底部の厚みは180mもあるのだそうです。
「重力式コンクリートダム」という形式で、同形式のものとしては国内第1位の体積を誇ります。
2001年に運用が開始されたばかりの、比較的新しいダムです。

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インクライン
元々はダム建設時、ダンプなどの重機を引き上げるために用いられていたもので、現在は見学用に運行されています。
ダム堤頂部へは無料のエレベーターでも上がれますが、折角なのでインクラインを使うことにします。

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参考までに、インクラインの時刻表を載せておきます。

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インクラインで上昇中~♪

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毎週水曜/第2日曜/第2・4金曜(4~11月)の11時と14時には、6分間ほど観光放流も行っているそうです。
インクラインから見たら、さぞ壮観だろうなぁ・・・放流に合わせて訪れるのもいいですね。

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堤頂部からダム湖

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ダム湖の反対側・・・圧倒的な高低差です。

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宮ヶ瀬ダム・・・ドライブついでのちょっとした見学には、うってつけのポイントかもしれません。

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水とエネルギー館内にあるレストランでは、名物?の宮ヶ瀬ダム放流カレーがいただけます。
旗を刺してあるウィンナーが堰になっており、それを引き抜くと・・・

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ダムカレーの放流~♪

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帰りは、宮ヶ瀬ダムとあいかわ公園(パークセンター)を結ぶロードトレイン「愛ちゃん号」で☆

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2018年4月24日 (火)

布勢天神山城

吉川経家の墓所で鳥取城包囲線めぐりオフは解散したものの、私は帰りのフライトまでまだ時間があったので、延長戦へ。

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布勢天神山城全景
布勢天神山城は文正元年(1466)、山名勝豊による築城と伝えられ、山名豊国が天正元年(1573)に鳥取城へ移るまで、因幡守護山名氏の居城だったとされています。
(但し、勝豊は1466年には既に死去していたとの指摘もあり、築城時期・築城主についてはなお、慎重な検討が必要になりそうです)

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主郭の切岸

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主郭

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主郭にあった井戸跡

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堀切

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天神山城から眺める湖山池
往時は湖山池から引き入れられた総延長2.6㎞にも及ぶ外堀が、天神山や布勢卯山、城下町をも包み込むようにして廻らされていたそうです。

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さて、それでは東京へ帰ります。
今回の鳥取旅も、事前の想定以上の成果を得られて充実したものとなりました。

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鳥取城包囲線めぐり

鳥取旅2日目、いよいよ念願の鳥取城包囲線めぐりです。

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スタートはこちら。
芳心寺南東脇の尾根に取り付き、そのまま尾根上を北東方向へ進んでいきます。

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登り始めて10分も経たないうちに早速、一つ目の陣跡が見えてきました。
何やら切岸の上で小躍りしている人がいますが、あの切岸の上は、江戸時代の古絵図で仙石権兵衛秀久の陣跡と伝えられています。

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伝仙石陣跡
写真ではわかりづらいのですが、周囲には土塁らしき高まりも残っていました。

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伝仙石陣跡から見上げる鳥取城
こうして包囲線上から、その対象となる城との距離感を感じながらめぐるのも楽しみの一つです。


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伝仙石陣跡、北東側の切岸。
更に進みます。

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尾根上には数多くの陣跡が連なっており、進むにつれてこうした切岸や削平地が散見され・・・

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一部、堀切らしき痕跡も見受けられました。

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尾根に沿って伸びていた古道?らしき跡。
現地では何気なく過ごしてしまいましたが、鳥取城の方角に面しており、後でご紹介することになる秀吉本陣・太閤ヶ平の下(西側)に築かれていた防塁線にも似たような形状をしていますので、或いはこちらも、そうした防塁線の一部として築かれたものだったのでは?と思えてきます。

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既にいくつめの陣跡だったか定かではありませんが・・・これまた立派な切岸に行き当たりました。
この切岸の上も・・・

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綺麗に削平され、四方を土塁が取り巻いていました。

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その土塁
奥で一段上がり、二段構成の陣跡になっていました。

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太閤ヶ平の南側では最高所となる地点に築かれていた陣跡の虎口。

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太閤ヶ平南側の最高所から見上げる鳥取城。

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こうした馬蹄段状の小曲輪が幾段にも重なる斜面をアップダウンしつつ・・・

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陣跡の削平地を拾い歩きながら進むと、やがて六角展望台の辺りで舗装された管理道に出ました。
その管理道に沿って20分ほども登ると、いよいよ太閤ヶ平へと辿り着くことができます。

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ここまでの行程。
が山中に残る陣跡で、おおよそ赤い線に沿って登ってきました。

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さ、太閤ヶ平の横堀が見えてきました。

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太閤ヶ平縄張図

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東虎口
虎口に土橋、横堀、そして横堀の先で横矢を掛ける土塁の折れ、、、
一目この光景を目にした瞬間、痺れました。

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主郭内
とってもシンプルな構造だけに、その広さや土塁の頑強さといったスケール感が際立ちます。

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主郭の南東隅で、大きく突き出た部分。
手前の窪んだ箇所は、弾薬庫のような倉庫的な施設があったのではないか、との見解もあるそうです。
先端部分は一段高く上がっています。東と南の2ヶ所に設けられた虎口の中間に位置しており、両虎口への備えのための縄張でしょう。

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土塁の先にも、腰曲輪状の平坦地。

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東虎口へしっかりと横矢を掛ける土塁の折れ。

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主郭南西隅の櫓台

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櫓台の上に、太閤ヶ平の石碑が建っていました。

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南西櫓は、南虎口にしっかりと横矢を掛けています。

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南虎口
土橋に横堀、虎口の先の主郭内まで続く土塁、、、その全てが美しいです。

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南虎口と南西櫓台

太閤ヶ平・・・とにかく遺構の規模の大きさに、大袈裟ではなく度肝を抜かれました。
これは一部将の陣城の規模ではなく、もはや巨大な山城。

とつとりの東に、七、八町程隔て、並ぶ程の高山あり。羽柴筑前守、彼の山へ取り上り、是れより見下墨、則ち、この山を大将軍の居城に拵へ
(信長公記 巻十四「因幡国鳥取城取り詰めの事」より抜粋)

信長公記も大将軍の居城に拵へた、と記しています。

厳重な兵糧攻めが効果を発揮し、鳥取城は結果的には僅か3ヶ月ほどで開城することになりますが、当の秀吉にそれを予知することはできませんし、現に三木城の包囲戦では開城までに2年の歳月を要しています。
鳥取城の包囲が長引くことで毛利氏の来援も考えられ、秀吉は来たる(かもしれない)毛利本隊との決戦に備え、この陣城(太閤ヶ平)に主君・織田信長を迎え入れることも想定した上で、これほどの規模に築き上げたのではないでしょうか。
信長公記の大将軍という表現が、あたかもそれを裏付けているように思えてなりません。

(天正9年)八月十三日、因幡国とつとり表に至りて、藝州より、毛利・吉川・小早川、後巻として、罷り出づべきの風説これあり。則ち、御先手に在国の衆、一左右次第、夜を日に継ぎて、参陣いたすべき用意、少しも由断あるべからずの趣、仰せ出だされ候。
(信長公記 巻十四「八月朔日御馬揃への事」より抜粋。)

8月に入ると実際に毛利氏来援の風説が流れ、信長は在国衆にいつでも自らの先陣として出陣できるよう、油断なく準備する旨を厳命しています。
結果的に毛利本隊との決戦/信長の出馬は、水攻めで有名な備中高松城攻めの時まで持ち越され、その道中、京へ入った信長を光秀の謀反という未曾有の大事件(本能寺の変)が襲い、中国出馬~毛利との決戦も幻となるのですが・・・。

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太閤ヶ平から、包囲する鳥取城を眺める・・・約3ヶ月間、秀吉が毎日目にしていた光景。
至近と言ってもよさそうな距離感に、当時の緊迫感が迫ってくるかのようです。

さて、太閤ヶ平を満喫した後は、太閤ヶ平南西の尾根を少し下ります。

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太閤ヶ平周辺図(以下周辺図)

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太閤ヶ平南西の尾根を下った先、周辺図1の陣跡。
外縁の土塁も確認できます。

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その土塁の外側を覗き込むと・・・横堀のような溝があります。

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周辺図a部分の堀状遺構。写真左側の一段下がった位置にも並行して掘られていて、二重になっています。
(周辺図で水色に塗られている部分が堀状遺構)

周辺図でも明らかなようにこれは、太閤ヶ平と鳥取城の間を断ち切り、鳥取城を包み込むようにして築かれた防塁線です。
ここからは、この防塁線に沿って進んでいきます。

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急斜面を、まるで竪堀のように駆け下る防塁腺(周辺図b

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やはりここでも二重に掘られていました。
(同行者2名が立っている位置が、それぞれの堀底)

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下った先から振り返る・・・

鹿垣結ひまわし、とり籠め、五・六町、七・八町宛に、諸陣、近ゝと取り詰めさせをほつては、尺(柵)を付け、又、をほつては、塀を付け、築地高ゝとつかせ、透間なく、
(信長公記 巻十四「因幡国鳥取城取り詰めの事」より抜粋。)

これこそまさしく、信長公記が云う「鹿垣」「」「築地」の遺構でしょう!

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防塁線に沿って谷合の鞍部まで下りた地点。
生い茂る樹木でわかりづらいですが、二重の防塁線はすぐに反対側の斜面を駆け上がっていきます。

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我々も急勾配の堀底を直登・・・。

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登り切ると防塁線は、尾根を断ち切る二重の堀切のようになっていました。(周辺図c

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地形に合わせて折れを伴いつつ、なおも延々と続きます。

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再び斜面を下り始めました。

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しばらく下ると、今度は水溜まりのような池のある鞍部に出ました。
この池の手前辺りから、ここまで歩いてきたルートとは対岸の斜面を上がっていきます。

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池の近くから駆け上がる防塁線(周辺図d
この辺りでは三重になっていて、写真左手に1本、右手の高い土塁の上にも1本通っていました。
この右手の高い土塁などは、「築地」と表現してもよさそうな規模です。

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堀の斜面に残っていた石列

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池からの斜面を登り切ると、周辺図2の陣跡に出ました。
こちらは羽柴秀長(秀吉弟)の陣跡とも伝えられる場所です。

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伝秀長陣跡は東西に細長く、陣跡まで伸びていた防塁線の延長線上、削平地(曲輪)の縁に沿って土塁が続いています。

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伝秀長陣跡西端から、再び土塁と堀を伴った二重の防塁線が北西方向に伸びていました。

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土塁越しに堀底を覗く。。。

これにて、鳥取城包囲線めぐりは終了とします。
帰路は伝秀長陣跡付近から尾根上を西へ進み、途中1~2ヶ所の陣跡を拾いつつ、鳥取城(久松山)を経由することにしました。

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20分ほどで鳥取城の城域へ到着。
写真は鳥取城の出城、十神砦の虎口。

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十神砦から眺める太閤ヶ平・・・よく歩いたなぁ~

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砦の外側へ向け、斜面に築かれていた石垣。

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鳥取城山上ノ丸、三ノ丸へと続く虎口。
前日に訪れた際は爆風に負け、二ノ丸までで引き返していたので、改めて来ることができてよかったです。

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やはり石垣には、晴れた空が合い似合いますね~

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本丸からの太閤ヶ平

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とつとりと、西の方、海手との真中、廿五町程隔て、西より東南町際へ付きて流るゝ大河あり。此の川舟渡しなり。とつとりへ廿町程隔て、川際につなぎの出城あり。又、海の口にも取り継ぐ要害あり。藝州よりの味方引き入るべき行として、二ケ所拵へ置きたり。
(信長公記 巻十四「因幡国鳥取城取り詰めの事」より抜粋。)

信長公記のこの一節は、まさにこの光景を描写したものですね。
上の写真で、尾根先端の先にある独立した小山が鳥取城の補給基地になっていた丸山城で、手前の尾根続きには中継拠点となる雁金山城などの支城が築かれていました。
秀吉は細川水軍衆を海上へ配し、雁金山城を宮部隊に急襲・攻略させて、鳥取城の補給路を完全に遮断したと云います。
これにより天正9年10月、兵糧が枯渇した城側は城主・吉川経家以下、主だった重臣の切腹を以て降服開城しました。

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よく晴れたので、前日以上に砂丘も綺麗に見えていました。

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念願だった鳥取城包囲線めぐり、想定以上に有意義なものとなりました。

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吉川経家像
山上の石垣も綺麗に見えています。

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最後に車で少し移動し、吉川経家の墓所へ。

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経家はどのような思いで散っていったのでしょうか・・・それを少し窺わせる彼の書状の一節をご紹介して、本記事の締め括りとさせていただきたいと思います。

日本貮ツ之御弓矢於堺及切腹候事 末代之可為名誉存候
日ノ本二つの御弓矢(織田×毛利)境に於いて切腹に及び候事、末代の名誉と存じなさるべく候。
(吉川経言(広家)宛吉川経家書状の一節)

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2018年4月23日 (月)

鳥取城、他

天正9年(1581)の第2次鳥取城攻め
織田家の将、羽柴秀吉は周囲の山々や城下に付城(陣城)を築いて鳥取城を厳重に包囲し、海上からの補給ルートも封鎖して兵糧攻め(いわゆる「渇え殺し」)にしました。
山麓に築かれた陣跡は既に消滅していますが、山中にはまだ多くの遺構が残っているのです。
今回はその包囲線をめぐるため、4月14~15日にかけて鳥取市へお邪魔してきました。

初日はまず、じっくりと鳥取城を攻めることにします。

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鳥取城の城山、久松山を背景に直立する吉川経家像。

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鳥取城跡
見事な石垣群が迎えてくれますが、これらは一度、昭和18年の鳥取大震災でその大半が崩れており、後に復元されたものになります。

まずは麓の近世城郭遺構を見ていきます。

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中仕切門
昭和50年の台風で倒壊していますが、すぐに再建されました。

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二ノ丸の西側に築かれた登り石垣

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二ノ丸三階櫓の石垣
山陰地方初の層塔型三階櫓として創建され、元禄5年(1692)に山頂(山上ノ丸)の天守が落雷で焼失して以降は、鳥取城を象徴する存在となりました。
享保5年(1720)の石黒大火で一度は焼失しますが、同13年に再建されて明治の世を迎えます。その後、明治12年に解体撤去されました。

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三階櫓の石垣に積まれた「お左近の手水鉢」
近世鳥取城築城の折、侍女お左近の働きが目覚ましく、これにあやかってお左近の手水鉢を石垣に用いたところ、難工事であった三階櫓も無事に完成した、との伝説が残されていました。
そして昭和38年、この「お左近の手水鉢」と思われる石材が発見されたため、石垣修復に際して伝説の通りに復元されました。

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二ノ丸の石切り場
元々この場所には、久松山からの尾根が伸びていたようです。それを切り開いて曲輪を造成し、採掘された岩を石垣用の石材として用いました。

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二ノ丸から東の方角。
翌日の鳥取城包囲線めぐりは、手前から2本目の尾根を北(左)へ向かって登っていきます。

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菱櫓

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何故か斜めに積まれた雁木石垣・・・確かに目的がよく分からない(^_^;)

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鳥取城の象徴的な存在の一つ、天球丸の巻石垣。
文化年間、崩れそうになっていた石垣の補強のために築かれました。残念ながら甲羅状に貼られた石材の多くが抜き取られていたため、後に復元されています。

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巻石垣を上から。

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ところで、鳥取城の石垣の中にはこんな、小さな扇状の刻印を持つ石があります。
詳細な場所は失念しましたが、二ノ丸下段の東寄りだったかと・・・目線の高さにありますので探してみてください。

それでは山上の曲輪群(山上ノ丸)へ向かいます。

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天球丸からの登山道に入ってすぐ、八幡宮跡。

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久松山の登山道は細く、岩場も多くて結構タフな道のりでした。

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五合目に祀られていた神社

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八合目付近で見かけた石垣
石垣の上は藪ですが、綺麗に削平された痕跡が認められましたので、おそらく曲輪跡と思われます。

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登り始めてから約30分弱、ようやく山上ノ丸に到着しました。。。

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山上ノ丸の二ノ丸

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そして本丸
奥に天守台が見えます。

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鳥取城本丸から眺める、羽柴秀吉本陣・太閤ヶ平(中央、鉄塔のようなものが3本見えている山の頂上)。
吉川経家以下、籠城する将兵らが日々にらみつけていた光景・・・こんな距離感で対峙していたのですね。

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本丸にあった井戸跡

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天守台の石垣
天守は元禄5年(1692)に落雷によって焼失し、以後再建されることはありませんでした。

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天守台
穴蔵の痕跡(石列で四角く区画された部分)も。

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天守台からは鳥取砂丘も見えていました。

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天守台から見下ろす出丸。
残念ながら出丸は見学が制限され、立ち入ることはできませんでした。

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この日はとてつもなく風が強かった(もはや台風並み…)のですが、なんとか無事に下山できました。

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下山後は県立博物館や・・・

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少し離れた場所にある市立歴史博物館にも立ち寄ってから・・・

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鳥取東照宮へ

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一直線に伸びる参道

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鳥取東照宮・・・樗谿神社
慶安3年(1650)、鳥取藩主・池田光仲により、日光東照宮の分霊を勧請して創建されたことから、因幡(鳥取)東照宮とも呼ばれてきました。
こちらの唐門、及び拝殿・幣殿・本殿は国の重要文化財に指定されています。

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左手前から拝殿・幣殿、そして少し離れて本殿。

参拝後は徒歩で駅前まで戻り・・・

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鳥取へ来たからには・・・ということで、すなば珈琲へ。

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驚いたことに、店内の足元が本当に砂場になっていました。

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夜は鳥取駅前で、翌日の包囲線めぐりをご一緒するメンバーと前夜祭☆
贅沢な一夜でした・・・♪

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2018年4月 8日 (日)

「織田信長と上野国」展

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今回は高崎市にある群馬県立歴史博物館へ。

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目的は勿論こちら、2018年3月17日~5月13日まで開催されている企画展「織田信長と上野国」です。
関東で信長の特集展示なんて・・・なかなか貴重な機会、見逃すわけにはいきません。

天正10年(1582)3月、織田信長の命による甲州征伐で甲斐武田氏が滅亡に追い込まれると、上野国は織田家の分国に組み込まれました。
織田家の上野国支配は、本能寺の変の勃発~神流川合戦の敗戦により僅か3ヶ月足らずで終焉を迎えるのですが、江戸時代に入ると信長の二男・信雄に上野国甘楽郡2万石が与えられ、その子息によって小幡藩が成立し、7代に渡って織田氏による小幡統治が続きました。

本企画展はこうした信長・織田家と上野国との関わりを中心に、主に3部(章)から構成されています。
詳細は省きますが;

「第一章 信長」では、長篠合戦(天正3年/1575)から甲州征伐に至る間の、(おそらくは対武田戦略を念頭に置いた)信長と東国武士との関わりを、
「第二章 一益」では甲州征伐後、東国の取次役を任されて上野に入国した滝川一益の、上野~関東統治に心を砕く様子などに触れることができました。
また、「第三章 小幡の地」では小幡藩にまつわる工芸品や道具類の他、信雄関連の文書などが展示されていました。

学んできた歴史を当事者たちの生の声で伝えてくれる文書類には、目にする度に興奮を覚えますね。

ちなみに常設展示は原始~古代に関する展示が充実していた印象。
6月24日までの期間限定で
「明智光秀の源流 -沼田藩土岐家の中世文書-」
というテーマ展示(足利尊氏自筆御内書も!)も開催されていました。

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知らなかった信長文書もありましたので、引き続き購入した図録で勉強していきます。
ちなみに横の箱は、ミュージアムショップで見かけて思わず買ってしまった「織田信長と天下布武クッキー」(笑)
蓋を開けてみると・・・

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意外なクオリティの高さにビックリww

展示替えもあるので、会期後半にも足を運びたいのですが・・・時間が取れないかなぁ~

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2018年4月 2日 (月)

石戸蒲ザクラ

数年前にその存在を知り、いずれは開花に合わせて訪れてみたいと思っていた石戸蒲ザクラ
それがちょうど見頃を迎えているとの情報を得て、埼玉県は北本市までドライブしてきました。

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専用駐車場の桜並木も、満開に咲き誇っていました。

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石戸蒲ザクラは東光寺という、今はお堂が立つのみの小さなお寺の境内にあります。

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石戸蒲ザクラ
遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)の出身だったことから、『蒲冠者』とも呼ばれた源範頼(頼朝の異母弟)。その範頼の杖が根付いたもの、との伝説から『蒲ザクラ』の名で呼ばれてきました。

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国の天然記念物にして、日本五大桜の一つにも数えられています。
エドヒガンとヤマザクラの自然交配で、樹齢は800年にも及ぶと推定されていますが、現在花を咲かせている幹は老木からの株分かれらしく、厳密には二代目ということになります。
例年だと4月上旬~中旬にかけてが満開の時期だそうですが、今年(2018年)は3月の下旬から暖かい日が続いたことで一気に開花が進んだようです。
(訪問日:4月1日)

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蒲ザクラの根元には、桜の絨毯に腰掛けるようにして範頼の供養塔らしき古い石塔が佇んでいました。

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一説には東光寺の開基も範頼と云われており、実際に彼は、すぐ近くの吉見一帯を領していたと伝えられています。
参考記事

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東光寺の裏手、石戸神社の境内には・・・

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蒲ザクラの後継樹が、こちらもピンクの綺麗な花を咲かせていました。

ちなみに、石戸神社が鎮座する地の小字名は「堀之内」。
東光寺を含む周辺一帯はかつて城館跡(範頼の居館とも石戸左衛門尉なる人物のものとも伝わる)だったようで、神社の裏手には堀や土塁が今も残っているそうです。

蒲ザクラを充分に満喫した後は、桶川市の三ツ木城跡へ。
桶川市川田谷の城山公園内にあります。

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台地状の高台に生い茂る樹木を少し分け入ると、なかなかの横堀が姿を現しました。
写真は横堀のコーナー部分にあたります。

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三ツ木城の横堀
右の斜面は高い切岸になっており、その上が曲輪跡になります。

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切岸を登り、2つ前の写真のコーナー部分の切岸と横堀を見下ろした様子。

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自然地形の台地を利用しているだけあり、曲輪を取り巻く土塁の上から見下ろすと、かなりの高低差を感じます。

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三ツ木城の曲輪跡。
周囲を囲む土塁も立派なものです。

三ツ木城・・・期待以上には見応えもあり、立ち寄って良かったと思わせてくれる城跡でした。

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お昼は北本市のB級グルメ、北本トマトカレーで舌鼓♪
お店によって味も様々なようですが、私がいただいたものはトマトの酸味がしっかりと効き、サッパリとした味わいで美味しかったです。

久しぶりに愛車にも運動させてあげられたし、いい休日になりました。

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