2017年11月 5日 (日)

「佐野の城館跡」展

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佐野市郷土博物館(栃木県)へ行ってきました。

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佐野市は、足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴したことで知られる田中正造の出身地とあって、玄関前には銅像が建ち、彼に関する品々専用の展示室も設けられていましたが・・・

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私のお目当てはこちら。
佐野市で第24回 全国山城サミット in 佐野唐沢山城跡/2017年11月25~26日)が開催されることを記念して開かれている企画展佐野の城館跡です。
同展で展示されている中でもとりわけ;

波に巻子形兜号 龍綺/唐沢山神社蔵)
上の写真、「佐野の城館跡」展の看板にも載せられている兜です。

信長公ヨリ拝領之
天正三乙亥九月
秀吉公筑前○○為祝
天徳寺賜之者也

※○部分は失念してしまいました…m(_ _)m

天正3年(1575)、秀吉が筑前守に任官した御祝いとして(?)織田信長から拝領し、後に秀吉から天徳寺宝衍佐野房綱)に与えられ、更にその家臣の福地氏へと渡りました。
※この福地氏、今回の企画展に展示されていた佐野氏の書状や判物などにも、その宛所として数多く見受けられました(福地出羽守、福地帯刀、etc...)。

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山城サミットのロゴのさのまるくんも被っていますね。

甲冑金具 号 避来矢(唐沢山神社蔵)
佐野氏の祖とされる藤原秀郷(俵藤太)が、三上山の百足退治のお礼として琵琶湖の龍神から贈られた宝物の一つ(他に「米の尽きることのない俵」など)とされる甲冑の金具。実際には秀郷の時代よりも少し新しい時期のもの、とする説もあるようですが。
百足退治のお話も伝説に過ぎませんが、秀郷は平将門追討(天慶3年/940)の功で下野守・武蔵守・鎮守府将軍に任ぜられています。
今回は鉄十五枚厳星兜鉢小札壺板(脇楯の上部にある右の脇壺にあてる鉄板)の部分が展示されていました。

以上の2つを特に拝観したく、愛車で駆けつけたのでした。

企画展のタイトルにもなっている城館跡については、詳細に触れているのは唐沢山城や佐野城くらいで、その他は簡単なパネル展示が中心の構成になっています。
もう少しそれぞれの城館の位置関係やその意義、遺構の見所などについてわかり易く解説してあるといいのかなぁ、とも思いました。
※あくまでも個人の感想です。

私は別の遠征が入っていて参加できませんが、山城サミットの成功をお祈りしております。

最後に佐野厄除け大師にも立ち寄り、大師おみくじ(大吉!)を引いてから帰路につきました。
最近は電車旅が続いてあまり乗れていなかったので、愛車にもいい運動になったかな。

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2017年11月 3日 (金)

青木家屋敷 (町田市相原)

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11月3日の文化の日は、町田市相原の青木家屋敷へ。
目の前の通りは町田街道の旧道です。

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普段は医院を開業されていて非公開ですが、東京文化財ウィークの一環でこの日だけは敷地内が開放され、主屋などの外観を見学できます。
敷地内は撮影禁止と聞いていましたので、写真はここまで。

青木家屋敷は幕末頃の建立(文久2年/1862の祈祷札あり)と推定されています。多くの間取りを有し、幕末当時としては最上層の大型民家なのだそうです。
外観のみでは詳細までは把握できないものの、玄関の規模などは「然もありなん」と思わせるものがありました。
また、主屋の西南(上写真左隅)と東南の2ヶ所に土蔵が対で建っているのも印象的でした(西南のを上蔵、東南を下蔵と呼びます)。

裏山には自然の傾斜を活かした庭園もあったようで、これら屋敷や庭園は、水戸の弘道館と下屋敷を模して造られたとも伝えられているそうです。

青木家には、天然理心流二代目の近藤三助も出稽古に訪れていたと云われ、実際に彼はここ相原で客死しています。
そのためか・・・

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青木家の近くにある清水寺の観音堂脇には、近藤先生碑と刻まれた三助の供養碑が建っています。

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その基台には発起願主の人々の名前が並びますが、その中には嶋崎周平の名も・・・言わずと知れた天然理心流三代目、後に近藤勇を養子とする近藤周助(周斎)です。
※近藤勇も周助の跡を継ぐにあたり、まず嶋崎家の養子に入って「嶋崎(勝太~)勇」を名乗っています(日野八坂神社の奉納額など)。
何名か「青木」姓も見えますね。

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青木家屋敷、さすがに今も住居兼医院として活用されているだけあって手入れも行き届き、茅葺屋根がとても素敵なお屋敷でした。

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2017年10月30日 (月)

本田家住宅 (主屋・薬医門)

東京文化財ウィーク2017、今年は国立市にある本田家住宅(主屋・薬医門)の講演・見学会に参加させていただきました。
本田家住宅には4年前、やはり東京文化財ウィークの公開期間に訪れています(記事)が、どうしても主屋の内部も見学したくて、今回の参加を決めました。

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まずは講演会から。
会場は本田家住宅のすぐ近くにある下谷保防災センター。

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防災センター前にあった本田道庚申塔。寛政5年(1793)の造立。
細くて古い路地ですが、通りにも「本田」の名がついていたのですね。

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講演は多摩近郷に残る古民家建築などの事例から、近世(江戸期)に於ける農家の住宅形式の変遷を、本百姓/名主/総名主(惣代?)の階層別に見ていき、その中での本田家住宅(の形式)の位置づけを確認し、その歴史や具体的な建築形式について解説していただく、といった内容。
しかし、時間が不足して後半は端折り気味となり、本田家住宅の詳細については現地で見学しながらご説明いただく、ということになりました。

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本田家住宅薬医門
幕末期の建立と推定されています。
一般的に「豪農」と呼ばれる階層の住宅には長屋門が多いのですが、それだけに本田家の高い格式を物語るかのようです。

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本田家住宅主屋
平成21年までは実際に住居として利用されていました。
平成29年、薬医門と共に本田家より国立市へ寄贈されています。

参加者が60名弱と多かったので、3班に分かれての見学となりました。
私のC班はまず、お庭で待機して外観の見学から(つまりは…お預けw)。

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本田家は遠祖を畠山重忠の郎党とし、江戸時代に下谷保村(国立市谷保)に定着して代々名主を務めるようになりました。
10代・定价は市河米庵に書を習い、本田家の書家としての礎を築きます。
幕末には日野宿の佐藤家や、土方歳三の土方家とも姻戚関係を結んでいます。歳三も生家から多摩川を越えて、本田家11代・覚庵(定済)の元へ書や学問を習いに通ったと伝えられています。
また、覚庵の日記には歳三や近藤勇が文久3年に上洛するまで度々訪れ、時には泊まったりした様子が書き残されているそうです。

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玄関
棟札がないので正確な創建年代は不明ですが、中の間の柱から;
享保十六辛亥歳 八月吉祥日
と記された祈祷札が見つかったことから、主屋は少なくとも享保16年=1731年には建てられていたことが判っています。
その後、嘉永2年(1849)には茶室などを増築したようです。

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屋根は赤いトタンに覆われていますが、その内側にはまだ藁葺が残っていました。

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主屋東面
一見しただけですぐ、建物が斜めに傾いているのがわかります。
築300年近い年月の老朽化に加え、平成23年の東日本大震災によるダメージが大きかったようです。

20分ほどもブラブラしていると声が掛かり、土間へ誘導されました。

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土間に陳列されている米庵流の篆刻作品。

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土間から前室越しに見える書斎、そこに架かっている「大観書屋」と大書された額は市河米庵の筆

土間では、本多家住宅を管理する国立市職員の方から、主屋に残されていた資料についてのご説明を受けました。
主屋には判明しているだけでも、約7万点もの資料が保存されていたのだそうです。
新選組に関連する部分でいうと、前述の覚庵の日記に近藤や土方らとの交流が綴られていますが、佐藤彦五郎や小島鹿之助などとは違い、直接的に新選組を支援した記録はないそうです。
しかし元治元年(1864)、近藤が江戸に下って隊士を募集した折の名簿の写しが残っていて、そこには実際には上京前に入隊を取り止めた面々の名前もあることから、しばらく日時が経過した後に知らされた情報ではなく、近藤が隊士を募っている最中のリアルタイムな情報を入手できていたのではないか、とのことでした。
即ち、それだけ近藤や新選組に近いネットワークを持っていた、ということを窺わせます。

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資料に関するお話が終わると、いよいよ主屋内部の見学に移ります。
写真は、土間から直接上がれる広間と呼ばれる一間。右に見えるのが3本ある大黒柱のうちの1本。

※この後見ていく各部屋の配置を簡単にご説明すると、主屋ほぼ中央南に位置する「土間」から東へ「広間」→「玄関」→「中の間」と続き、中の間の南に「茶室」、北に「奥の間」があります。
これが今回、見学させて頂いた範囲。

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本田家住宅主屋の形式は、江戸後期の名主層の代表的な住宅形式である整形六間型(各部屋の間口が揃って縦横真っすぐに配置されている)よりも時代が先行する食違形六間型(間取りに食い違い=ズレを持たせている箇所がある)という形式になるのだそうです。六間型としては東京都最古の住宅なのだとか。
写真は広間(手前)と、その先の玄関との間の食い違い。広間の方が奥行きが深い分、間取りに段差ができています。

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玄関

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中の間から見る玄関(右)と茶室(左)

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茶室

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中の間の柱。
白くなっている部分に、享保16年の祈祷札が貼ってありました。

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中の間から奥の間を見る。
土方歳三や近藤勇が実際に泊った部屋、かもしれませんね。

奥の間には佐藤彦五郎の母・マサの姉で、本田家10代・定价に嫁いだチカ(共に土方家出身)のお顔を描いた額が飾られていました。
定价とチカの間に生まれた娘に婿養子として分家から迎えたのが覚庵であり、よって覚庵・彦五郎・歳三は従兄同士ということになります。
(彦五郎と歳三は義兄弟でもある)

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近藤や土方も間違いなく訪れ、泊った本田家住宅。
その貴重な空間を少しの間だけでも共有でき、とても幸せな気分でした。
願わくば今後、この貴重な文化財が適切に保護され、長くその歴史を語り継いでいくことを祈らずにはおられません。

※参加者の中に慶応4年(1868)、新政府軍に追われた佐藤彦五郎一家を匿った「羽生家」(参考記事)の関係の方がいらしたので不躾ながらお声掛けし、少しお話を聞かせていただけました。
近藤勇の三浦休太郎宛書状を羽生家が所蔵する理由については、逃れてきた彦五郎が持ってきたのではないか、とお考えのようでした。
だが、そもそも彦五郎と羽生家の繋がりが確認できていないらしく、やはり伝承通り二宮村の茂平のような仲介者がいたのかもしれません。
また、羽生家の家屋は明治15年に火事で焼失しており、彦五郎らを匿った当時から現存するのは土蔵だけなのだそうです。

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2017年10月25日 (水)

「山城に行こう!2017」参戦

台風21号の足音がヒタヒタと迫り来る10月21~22日、岐阜県可児市&可児市山城連絡協議会主催のイベント;
山城行こう!2017 センゴクの城
に参戦してきました。

■10月21日(土) めぐる
初日は可児市の山城をめぐる一日。
今回のイベントで対象の城に指定された美濃金山城や久々利城、大森城、今城をはじめとする幾つかの山城をめぐり、各城で1枚ずつ貰える通行証2枚以上集めると、翌日のトークショーでの優先指定席に挑戦できる、という趣旨の試み。

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我々はまず、大森城から攻めました。

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大森城は奥村氏の居城でしたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変を受けて信濃(川中島)から撤退してきた森長可に攻められて落城したと伝わります。
城跡に残る横堀や土塁、虎口などの遺構の規模や技巧性から、落城後は森氏の手によって改修が加えられ、美濃金山城の出城(の一つ)として利用されていたとも考えられています。

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城山東麓に建つ大森神社
こちらの社殿手前を右へ進み、北側から城跡に入ります。

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いくつかの曲輪跡を抜けて・・・

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ものの5分も登ると主郭に到達。

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我々も登ってきた主郭北側の先には小さな平場があり、馬出のようになっていました。

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主郭を取り巻く横堀(東側)

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主郭の更に南側にも、かなり良さそうな遺構が覗いていましたが・・・
大雨の影響もあって足元はぬかるみ、大変滑り易くなっていましたので、残念ながらこの日は立入禁止。

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最後は主郭東側の横堀に下り、堀底を通って引き揚げます。

通行証はGETしたので、今回の大森城攻めはここまで。
いずれまた、天候の良い時にじっくりと攻めましょう。

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2城目は久々利城

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久々利城も天正11年(1583)、森長可に攻められて落城していますが、その後はやはり森氏によって改修され、防衛拠点の一つとして利用されていたようです。

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上の縄張図で枡形虎口とある辺り。
井戸も確認できます。

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三の丸から二の丸 & 本丸を仰ぎ見る。

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本丸手前から、東の尾根に展開する曲輪群方向。

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本丸からの眺め・・・ある意味、幻想的(笑)

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「イチオシ」と言われちゃあ、行くしかないでしょ。

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1本目の堀切に架かる土橋

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二重堀切の1本目・・・薄い。

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そして2本目・・・こちらは深く切り立ち、なかなか見応えのある遺構でした。

さて、久々利城も足場が悪いのでサクッと切り上げて・・・

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ランチは唐揚げに定評があるという中華屋さんで。物凄いボリュームでした…(^_^;)

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この日のラストは、5月にも訪れている美濃金山城参照記事)へ。
既に通行証は2枚(大森・久々利)GETしているので、本丸の発掘現場へ直接向かいました。

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今回発掘調査が進められたのは、本丸の中で天守台と考えられているポイント(つい最近まで神社が建っていた場所)。
写真は天守台石垣(南面)の内側で発掘された石列。

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そして、内向きに面して築かれていた石垣(南東角)も。
この遺構により穴蔵、もしくは半地下構造を有する天守が建っていたのではないか、と考えられるようになっています。

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麓を流れる木曽川の下流域から持ち込まれたと思われる、小さな川原石を敷き詰めたような遺構。
内向きの石垣が発掘されたポイントよりも少し西側で、御殿跡とされる礎石群寄りの場所から発掘されています。こちらは今のところ、天守への入口にあたる通路の痕跡ではないかと思われる、とのことでした。
ここまでが、美濃金山城天守の初期段階の遺構と推定されています。

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川原石発掘現場近くの地中断面。
真ん中に通る黒い筋は、神社建設の際に埋め立てられた草木の層なのだそうです。
つまり、神社建設に伴う造成前までは、黒い筋のすぐ下が地表面だったということになります。
写真を見てもお分かりの通り、川原石の推定通路跡は神社造成前の段階で、既に埋められていたことが明確になります。

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こちらはある時期に、礫や粘土質の土で埋められていたことが判明した内向きの石垣。

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天守台北側、不自然に鋭角な角度で伸びる石列(いったいどんな構造の建物が乗っていたのでしょうね?)と、何故か川原石を撒き散らして石列を埋めたかのような痕跡。
石列の角度も不思議ならば、川原石の散在もなかなか説明がつきそうにありません。
2つ前の写真でご紹介した通路跡と思われる川原石より、上の層から発掘されています。

これらの調査結果を元に検討された結果、一度築かれた(初期)天守を取り壊し、その上から新たな天守(第二期)を築き直しているのではないかと考えられています。
但し、今回の調査で発掘された遺構が持つ個々の情報を整理するのが難しく、この翌日に行われたトークショーの第2部でも話題に上り、出演者の方々からも様々な意見が出されていました。

それらを参考に素人なりの印象をまとめると、内向きの石垣や石列をわざわざ埋めたということは、やはりより広くて高い(重い)建造物を建てるための造成だった、ということでいいのではないかと思います。
穴蔵(半地下)構造を埋め、これまでの縄張(石列の配置など)を一旦無にして均し、広くて平らなスペースを確保した、と考えられないでしょうか。

しかし、それでも美濃金山城の天守台には、大きな建造物を建てるのに充分なスペースがあるとは言い難いのですが、そこで注目されるのが・・・

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天守台の南東角から伸びる、石垣に覆われたこちらの1本の石塁。
この石塁の存在により、天守台の南側は枡形虎口のようになっているのですが、実はこれ、明らかに後から増築されているのだそうです。

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石塁の内側(枡形内)つけ根部分。
石垣を初めから折って築いたのではなく、明らかに天守台石垣(左)の面に垂直に土盛りを取り付け、そこに石垣を積んだ様子が見て取れます。

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石塁の外側(東)
左の石垣と自然岩盤の境界が、件の石列と天守台の境目。
石塁の石垣は写真右端に見える天守台石垣とも、積み方に時間差が見受けられるそうです。

何故、わざわざこのような石塁を築いたのか・・・そこには必ず何かしらの意図があるはず。
例えば、虎口や通路を跨ぐようにして築かれた建造物は他にも事例がある訳で、現地にいらした可児市教育委員会の方も仰っていましたが、石塁や枡形の周辺に、美濃金山城天守の建て替えに関するヒントが眠っているような気がします。

近いうちに枡形も調査する予定とのことでしたので、そちらの調査も楽しみに待ちたいと思います。

この後は可児市内のホテルにチェックインし、近くの居酒屋で乾杯☆
楽しく盛り上がりました。


■10月22日(日) あそぶ

台風の影響で、この日も朝から本格的な雨模様。
9時過ぎにホテルを出発し、会場の可児市文化創造センターalaへ。

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前日にGETした通行証を手に、10時からの優先指定席(100席)券配付に向けて列に並びます。

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早めに並んだ甲斐もあり、特製レジャーシート付の優先指定席券は無事に確保できました。

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トークショーは午後1時~なので、それまでは会場内で思い思いに過ごします。
私はグッズ売り場で「センゴク」シリーズの織田信長の手ぬぐいを購入~♪

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ブースコーナーでは、美濃金山城天守台で発掘された遺物の展示も。やはりアカニシガイが一際異彩を放つ。
軒丸瓦も立派なもので、それなりの規模・格式を持った建造物が建っていたことを窺わせます。
近いうちに訪れたいと思っている小里城や鶴ヶ城(高野城)の資料も配布されていました。
※アプリ「発見!ニッポン城めぐり」のブースが最も行列を作っていましたが、個人的には興味がないのでスルー(笑)

その他、「センゴク」名場面集のコーナーや、香川元太郎先生の城郭復元イラスト作品集のコーナー等々。
一度、昇太師匠や中井先生、加藤先生、香川先生がグッズ売り場などの様子を見に現れ、宮下先生も「センゴク」名場面集コーナーをスタッフの案内で訪れていました。

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お昼は屋台で水攻めカレーをGET。

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腹拵えも済んだところで、トークショーの会場へ。

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トークショー第1部はセンゴクの城を語る
出演は「センゴク」シリーズ作者の宮下英樹先生、春風亭昇太師匠、城郭考古学の中井均先生、加藤理文先生、イラストレーターの香川元太郎先生で、可児市教育委員会の方の進行で進められました。

出演者各位がそれぞれ持ち寄った城の写真を見ながら、その魅力などについて語っていく内容でしたが、途中からは客席参加型の城当てクイズ大会の様相を呈してきました(笑)
さすがに最前列に陣取っていた効果もあり、私の仲間たちは3人ほどがちゃっかり景品をGETしておりましたwww

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第2部は発掘!美濃金山城
出演者は第1部同様で、美濃金山城の天守台発掘調査の成果報告から、推定される天守の姿についてのディスカッション。
美濃金山城訪問時の記事内でも書きましたが、ここでも飛騨高山城や松倉城、越前大野城などの事例を交えつつ、様々な意見が出されていました。
その中でも印象に残っているのは伊予松山城。香川先生が複数の古絵図を提示して伊予松山城初期の天守についてお話しをされていましたが、それらを元に推定復元された築城当初の姿は、これまでは五層の天守があったとさえ言われてきた通説のものとは大きくかけ離れていました
お城の定説も常にUPDATEされていくということを、ここでも改めて実感。
※トークショーの間中、宮下先生は他の先生方に個人的な質問をガンガンぶつけていました。それはそれで聴いていて楽しかったのですが、よくマイクを取り忘れていらしたので、最前列に座っていた私にはそれでも聴こえたものの、後方の方々には少し可哀想に思えました…(^_^;)

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最後は宮下先生に、可児市山城連絡協議会のベスト(蛍光グリーン)が授与されました。
これで来年以降も「センゴク」が可児に帰ってくる!?

あいにくな天候でしたが、ここではとても書き切れないほどの様々な知見も得られ、充実の2日間でした。来年もチャンスがあれば是非、参戦したいと思います。
※翌23日(月)もせめると題して、昇太師匠と苗木城跡を攻める企画が予定されていましたが、そちらは台風の影響で早々に中止が決定していました。
(といっても私自身は仕事があるので、元々予定には入れていませんでしたが)

関係者の皆様、お疲れ様でございました。
P.S. さちこさん、早く良くなってくださいね。

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2017年10月17日 (火)

「近藤勇と調布の幕末維新」展と、上石原若宮八幡神社

小雨パラつく日曜の午後、ちょっと調布までドライブしてきました。
目的地は調布市郷土博物館。twitterで近藤勇と調布の幕末維新展が開催されていることを知り、覗きに来ました。
新選組局長として名高い近藤勇や、その他の調布周辺の人々に関連する古文書が中心の展示で、いくつか興味を惹かれる史料もありました。これで入館無料とは驚き・・・。

近藤勇養子縁組状
嘉永2年(1849)10月19日

原惣兵衛宛小島鹿之助書簡(原家文書)
元治元年(1864)7月30日

近藤勇事も討死いたし候与凶音
所々□申来り寔心配罷在候
勇事も去春攘夷之心得ニ而応
募国内之乱ニ而討死いたし候而者
亡霊之激怒思やられ候


原惣兵衛とは上布田村の名主で、布田宿組合の大惣代を務めた人物です。
元治元年(1864)の元治甲子戦争(禁門の変)で近藤勇が討ち死にしたとの風聞に接した小野路村の小島鹿之助が、原惣兵衛に宛てて近藤の安否を尋ねた書簡。
「勇は去年の春、攘夷の志で浪士組に応募して上京したのに、内乱で死んでしまっては、その無念たるやあまりに浮かばれない」といったところでしょうか。
(勿論、実際には死んでなどいませんでしたが)

三浦休太郎宛近藤勇書簡(羽生家蔵)
慶応3年(1867)11月18日

陳二郎事潜伏之義
如之御配慮奉多謝候
就而者同人義少々
相用候事件出来
候間
無断引取申候


所蔵する羽生家についてはコチラの記事をご参照ください(後半部分)。
三浦休太郎は紀州藩士。この書簡が出される直前の15日に暗殺された坂本龍馬とは、いろは丸沈没事件の賠償交渉での因縁がありました。
その関係で、龍馬暗殺の疑いをかけられて海援隊士らから命を狙われ、京都守護職を通して護衛の要請を受けた新選組は、斎藤一(二郎=山口二郎)ら7名を三浦の滞在する天満屋へ派遣していました。
斎藤はこの直前に伊東甲子太郎が主宰する御陵衛士を脱していましたが、この書簡の文面からすると彼を三浦の下に派遣したのは、新選組との間で隊士の行き来を禁じる取り決めのあった御陵衛士の目から隠す目的もあったのかもしれませんね(二郎事潜伏之義)。
そして近藤は、少々相用候事件出来したために断り無く斉藤を一旦引き取ったことを三浦に詫びているのですが・・・慶応3年の11月18日はまさに、新選組が伊東甲子太郎を暗殺し、伊東の凶報に接して現場に出てきた御陵衛士の襲撃を企てた油小路の変の当日・・・。
少々相用候事件が何を指しているのか・・・もはや言うまでもないところ、ですね。

布田宿組合宛振武軍軍用金請取状(原家文書)
慶応4年(1868)5月

上野の寛永寺で新政府軍と戦った彰義隊と分裂し、田無~飯能へと展開した振武軍については、コチラの記事をご参照ください。
田無で結成された振武軍は多摩各地から軍用金を徴収していますが、布田宿も例外ではなかったようです。

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受付で、10月14日に開催された講演会の資料も無料でいただけました。こちらも追って勉強していきたいと思います。

郷土博物館を辞し、車でちょっとだけ移動して・・・

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上石原若宮八幡神社へ。
「若宮」とつく通り、八幡神・応神天皇の皇子である仁徳天皇を祭神としています。
手前の石鳥居は天保14年(1843)の建立(昭和2年修繕)。

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拝殿
奥の本殿(覆屋内)は、文化4年(1807)の造営になります。

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上石原若宮八幡は、上石原村の鎮守。
同村出身の近藤勇も慶応4年(1868)、甲陽鎮撫隊を率いて甲州道中を甲府へ向かう途中、故郷(西光寺・中村勘六家/参照記事)に立ち寄った際、上石原若宮八幡の方角へ向かって拝礼し、戦勝祈願をしたと伝わります。

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帰りがけには土方歳三資料館にも立ち寄り、和泉守兼定の刀身や鎖帷子、加藤福太郎書簡(※)などを拝観して帰宅しました。
※加藤福太郎は多摩出身で、室蘭警察署に勤務していた人物。歳三の幼馴染の息子である平忠次郎から、歳三の遺体の行方についての調査を依頼され、その調査結果を報告する内容の手紙。

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2017年10月 9日 (月)

島原角屋

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船岡山から地下鉄鞍馬口へ向かって歩いている途中、たまたま出くわした妙覚寺
本能寺の変の際、織田信忠が宿所としていたお寺ですね。当時は二条衣棚にありましたが、後に秀吉によって現在地へ移されました。
有名な「斎藤道三の遺言状」、或いは「美濃国譲り状」とも呼ばれる書状の一つも、こちらで所蔵されています。

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地下鉄を乗り継ぎ、二条城前からJR二条駅へ向かって歩いている途中で見かけた小浜藩邸跡の碑。

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JR丹波口駅近くにある、平安京朱雀大路跡の碑。
平安後期には既に荒廃しつつあったという朱雀大路。その痕跡は現在の千本通りにあたるようです。

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西本願寺のすぐ西、平安中学・高校脇の小路。
この付近に明治期、元新選組で西本願寺に勤務していた島田魁が住んでいたそうです。

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そしてようやく島原へ・・・島原大門

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置屋として歴史を重ねてきた輪違屋
浅田次郎氏の小説の舞台にもなっていますね。現在は宴席の場として営業されていますが、数年前に特別公開された折に見学させていただきました。(参照記事

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今回の旅最後の目的地・・・角屋

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島原には何度か訪れていますが、どういう訳かタイミングが合わず、角屋の内部を見学するのは今回が初めてとなります。

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玄関

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玄関に残る刀傷

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台所
こちらに新選組掛売禁止の古文書(慶応2年9月/新選組の調役がこれまでのツケを清算し、今後は隊士への掛け売りを禁じ、もしツケを強要する隊士がいたら届け出るように通達した内容)も展示されていました。

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刀箪笥

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網代の間

一通り一階を見学したところで、いよいよニ階へ。
ニ階は撮影禁止のため写真はありませんが、合計で10以上ものお座敷を、襖の絵や欄干の形状・壁の色・釘隠しに至るまで、丁寧に説明しながらご案内いただきました。
特に青貝の間は素晴らしかった。見事な螺鈿細工の壁、そして柱の3ヶ所につけられた深い刀傷・・・感激。
※どうも新選組は、座敷に刀を持ち込んでいたようですね(笑)

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最後に、一階の松の間から臥龍松の庭の眺め。
松の間は大正14年の火災で一度焼失しており、角屋の座敷の中では唯一文化財指定を外れています。
また臥龍松も今は枯れ、現在のものは3本の若い松で臥せる龍を再現していました。

一人旅は何気に久しぶりでしたが、当初の目的も果たせて今回もいい旅になりました。
京都にはこれからも折を見て訪れたいと思います。

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2017年10月 8日 (日)

船岡山城

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大徳寺を出て向かった先はすぐ近くの、織田信長を祀る建勲神社も鎮座する船岡山です。

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応仁永正戦跡 船岡山
船岡山は標高112mほどの小高い丘陵で、その戦略性から歴史上、軍事拠点として度々利用されてきました。
応仁の乱(1467-77)では西軍が拠点を築き、永正8年(1511)には室町幕府の実権を争った細川澄元・政賢らが陣取っています。

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船岡山に残る横堀状の遺構
この写真は、1枚目の見取図に「あずまや」とある場所のすぐ脇になります。

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公衆トイレ付近でカーブする空堀。

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どのタイミングで、何れの勢力によって築かれたものかは不明ですが、なかなか見応えのある遺構です。

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しかし、京都市内でも藪漕ぎをするとは・・・よほどの物好きね(笑)

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最後に3年ぶりの建勲神社にもお参りしてから移動します。

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狩野永徳筆「織田信長公像」拝観

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京都旅2日目は大徳寺からスタート。

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一目散に本坊へ向かいます。

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大徳寺本坊は現在、特別公開中。
お目当ては無論、初公開されている狩野永徳筆「織田信長公像」(但し10/1まで)です!

まずは国宝の方丈で前庭と、聚楽第の南門を移築したと伝わる唐門(日暮門/国宝)を眺めながら係の方の説明を聴き、狩野探幽筆の襖絵後醍醐天皇御宸筆の額を堪能し、小堀遠州作庭の東庭を眺めつつ、方丈の裏手へ。
開山大燈国師の木像を安置する雲門庵(外観)や、その木像を火災から守るためだけに設置されたという井戸、大幢燈国師の墓所を遠目に見学してから、とある一間の書院へ・・・

その床の間に、狩野永徳の筆に成る織田信長の肖像画が、総見院殿像(総見院蔵)と並んで展示されていました。

実際に本人にも拝謁している狩野永徳が描いた織田信長。
先日拝観した長興寺蔵の肖像画(参照記事)とは表情も一線を画し、独特な雰囲気を醸し出していました。
僅か1mほどの至近距離で直に拝観することができ、感激も一入です。
(ゆっくり拝観するため、次の人に遠慮することもないよう、わざとグループの最後尾に並んだことは言うまでもないww)

最後に法堂で龍の天井絵を拝観して、大徳寺をあとにしました。

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2017年10月 7日 (土)

長谷川家住宅、墨染、藤森神社

2017年9月30日~10月1日、久しぶり?に京都へ出かけてきました。
京都行きを決めた一番の目的は、特別公開中の大徳寺本坊で初公開されている狩野永徳筆「織田信長公像」(9/16~10/1)を拝観すること。
そちらは公開最終日にあたる2日目に充て、初日はまず、京都駅から地下鉄へ乗り換えて十条駅で下車、旧東九条村の長谷川家住宅へ向かいます。

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長谷川家住宅
寛保2年(1742)築。開館は9月2日~12月10日の土・日・祝のみ。
最近発見された長谷川家当主(長谷川軍記/1822-71)の日記により、元治甲子戦争(禁門の変)に於いて鴨川の九条河原や銭取橋(勧進橋)に布陣した会津藩が、当家などを宿所として利用していたことが判明しています。
また、新選組(壬生浪士組)も同村の又右衛門・吉兵衛・九右衛門方に宿営していました。

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現在のご当主は100歳を超えるご高齢で施設に入られているとのことで、年齢の離れた妹ご夫妻が管理・運営されているようです。
私以外の来館者はほんの2~3組で、しかもわざわざ東京から来たということで大変喜んでいただき、貴重な古文書の数々や古地図なども交えながら、時間をかけてじっくりと丁寧にご案内いただきました。

長谷川軍記日記(前出)
会津藩らの着陣の様子や宿所割当の記録などの他、長州勢が迫って銭取橋の陣所から法螺貝が吹かれ、宿所で休息中だった非番の兵士らが俄かに甲冑に身を固めて飛び出していく様や、頻りに聞えてくる大砲の音など、元治甲子戦争の様子が生々しく記録されている。

浄土宗門人別改帳
浄土宗の改帳とあるが、東九条村一帯が相国寺領だったために報告先も相国寺宛になっている。

歳中諸事覚帳
年貢の納め先や、用水・水運のために開かれた高瀬川(現在は暗渠)の水利をめぐる争いの記録など。江戸中期頃から藍の栽培を始め、大正期まで染工場が多かった村の歴史を知ることもできる。

村誌

職員録(明治2年)
官員録(明治9年)
上記2点共、三条実美や岩倉具視、大久保利通らを筆頭に、当時のいわゆる国家公務員全員の名が記されている。中には後に陸軍大将を務める乃木希典の名もあり、そこに記された当時の階級は「少佐」。

会津藩軍勢図
etc...

2階の隠し書庫には、江戸期の書物が膨大に所蔵されていました。

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長谷川家住宅はご夫妻が修築・管理するようになってから、まだ5年くらいとのこと。
この先、この貴重な建物や史料をどう次代に引き継いでいくか、切実な問題として頭を悩ませていると仰せでした。
微々たるものですが、我々のような歴史好きが訪れ、注目されることで少しでも助けになれることを願います。

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会津藩が布陣した銭取橋(勧進橋)から鴨川の流れ。
長谷川軍記日記によれば、新選組(壬生浪士組)は「加茂川向」に陣取っていたようです。

さて、再び電車で少し移動し、近鉄京都線伏見駅から少し北上すると・・・

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料亭「清和荘」の前に、近藤勇遭難の地碑が建っています。
慶応3年12月、二条城での軍議を終え、当時新選組の宿営地となっていた伏見奉行所への帰路に就いた近藤勇は道中、御陵衛士残党の襲撃に遭いました。
しかし、この碑の建つ場所は江戸期の伏見街道と竹田街道のちょうど中間にあたり、主要な街道からは外れていますので、実際の現場ではないと思われます。

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清和荘から東へ5~600mほど進むと、墨染交差点へ出ます。
こちらも近藤勇襲撃現場の候補地の一つとされています。上の写真は北から南の方角を向いており、北(手前)から続く伏見街道(大和街道とも)が右へ曲がって鉤型に折れるポイントです。
御陵衛士の残党は、交差点を直進した少し先から近藤を待ち受けていたと云いますので、街道が鉤型に折れて速度を緩める瞬間を狙っていたのでしょうか。

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今度は南側から、待ち受ける御陵衛士残党の視点。
あくまでも候補地の一つとして訪れてみました。実際のところは何か決定的な証拠(記録)でも出てこない限り、場所の特定は難しいでしょうね。

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墨染交差点から伏見街道を少し北上して、この日最後は藤森神社へ。

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額のない石鳥居
本来は後水尾天皇御宸筆の額が架けられていて、参勤交代で大名行列が伏見街道を通行する際は、藤森神社の前では大名も籠から降り、槍などを伏せて通っていたのだそうです。
ところが幕末の動乱期を迎え、そんな悠長なことをしてい場合ではないと考えた近藤勇が、額を外してしまったと云われているのだとか。
いくら動乱期とはいえ、天皇の御宸筆の額ですからね・・・俄かには信じ難い気もしますが。

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藤森神社は菖蒲の節句の発祥として知られ、菖蒲=勝負に通じ、毎年5月5日には駆馬神事が催行されることから、勝運と馬の神社として特に信仰を集めてきました。また、祭神の一人として舎人親王を祀ることから、学問の神としても信仰されています。

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御旗塚
神功皇后が大旗を立てた場所で、藤森神社発祥の地とされています。(そういえば長谷川家住宅の床の間にも、神功皇后を中心に据えた五月人形が飾られていました)
このいちいの木に参拝すると腰痛が治るとされ、近藤勇も参拝したとか・・・腰痛持ちだったんですかね?

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御神水の不二の水
“二つとないおいしい水”ということで「不二」の名がつけられています。

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大将軍社
桓武天皇が平安遷都された折、都の東西南北四方に祀った大将軍社のうちの一つ(南)。
現在の社殿は永享10年(1438)、足利義教による造営

この他、宝物館では;
・戊辰役で有栖川宮熾仁親王が着用した鎧兜(徳川家綱奉納)
・八連発式火縄銃
・戊辰役で薩摩軍が使用した先込式大筒(砲身が50cmもない小さなもの)
・宝剣の三条小鍛治宗近
などを拝観しました。

さて、これにて旅の初日は終了です。
2日目も大徳寺を皮切りに、京都をのんびり楽しみます。

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2017年10月 6日 (金)

北関東のスパルタ城めぐり (群馬編)

ゆっきーを迎えての北関東城めぐり、続いては群馬編です。

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この日4つめのお城は金山城
こちらも8年ぶり2度目の訪問になります。
の駐車場までは車で登り、まずは左の見附出丸から順に観ていきます。

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山麓側から見附出丸への土橋と虎口。
土橋の両サイドは堀になっています。

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出丸側から城外・・・頼みもしないのに土橋でポーズをとる赤い人。

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「見附塹壕」の標識のあった遺構・・・喰違虎口の堀切と土塁です。
一部、石積みも残っていました。

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遊歩道とは別に、古い城道も(右)

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西矢倉台西堀切

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物見台下堀切に架かる通路

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物見台下堀切
剥き出しの岩盤の上(右)が、物見台になります。

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馬場
奥に物見台、その先が堀切になっています。

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馬場曲輪の先の大堀切・・・と赤い人。

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月ノ池
その先、右斜め奥へのルートが大手虎口。

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月ノ池付近から斜面下を見下ろす。
発掘調査でも進めているのでしょうか・・・遠目に石垣らしきものも見えていました。

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大手通路を進みます。
石垣を復元したエリアですね。

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大手通路を振り返る。

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日ノ池
前回はここまでで満足して帰ったな、確か…(^_^;)

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現存石垣を求め、本丸(右)と二の丸間の堀切を進む。
・・・中央奥に見えるものについては、もう何も言わない(笑)

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本丸切岸に残る石垣

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}こちらにも。

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本丸には新田義貞を祀る新田神社

この後は北城を目指し、尾根を少し下ります。

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本丸北側の尾根を少し下った先にあった堀切。
更に少し進むと・・・

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坂中城址(北城)の石碑が建っており、周辺には数段の曲輪跡が残っているようなのですが・・・如何せん藪が酷くて探索を断念。

金山城・・・唐沢山城同様、改めていいお城だなと実感する再訪でした。

またまた移動し、この日5つめのお城は・・・

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桐生柄杓山城です。
駐車スペースから、割と緩やかな山道を5分少々も登ると三の丸へ到達します。

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ルートに沿って登ると最初に出迎えてくれる、三の丸手前の堀切。

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三の丸の南脇には、横堀らしき痕跡も見受けられました。

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三の丸には、その横堀へ下りるための虎口らしき折れを伴った溝状の遺構も・・・
写真手前から奥に向かい、そこで右へ折れて右下の横堀に繋がっていたのですが・・・写真では伝わらないですよね(^_^;)

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反対側から・・・奥から手前へ向かって左に折れて下っている様子を汲んでいただけると幸いです、忖度で(笑)

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三の丸と二の丸間の堀切
ここから北曲輪の尾根へ進みます。

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北曲輪の堀切・・・1本目。

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そして2本目。
堀切の先には馬出状の小さな曲輪があり、三方を土塁で囲まれています。
(赤い人の右手方向です)

この後は主郭部の尾根に戻り、本丸北面の切岸を這うように回り込みながら石垣を探しましたが・・・残念ながら見つけられませんでした。

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本丸

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本丸下の横堀状の溝(西側)

桐生柄杓山城、なかなか見応えのある城跡でした。

さて・・・桐生柄杓山城を無事下山した後は、とりあえず高崎方面を目指しつつ作戦タイム。
残る候補先は膳城・大胡城・箕輪城など・・・日曜夕方の上り渋滞と、ゆっきーの帰りの新幹線の時間を考慮しつつ、
(ゆっきーが一番行きたい)箕輪+何城追加できるか、、、
箕輪だけに絞るか、、、
いや箕輪までの移動時間+見学所用時間を考えると、今回は箕輪を諦めて他の城にすべきでは、、、
などと(こばたかさんの頭の中で)葛藤を繰り返した結果、結論としては膳城をラストに攻めて〆よう、ということになりました。
・・・うん、この時点では確かにそうなっていたはず。←

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という訳で膳城
天正8年の武田勝頼による素肌ぜめの伝承で知られるお城です。本丸、及び二の丸跡の周囲に遺構が残っているようです。

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本丸

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本丸から見下ろす横堀

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二の丸西側の土橋と横堀

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一つ前の写真の横堀のすぐ外側にももう1本、並行するように横堀が走っていました。
この一帯は横堀が複雑に入り組んでいて、二の丸の西から北へかけては堀が二重に連なり、その間の空間は帯曲輪のようになっていたのかもしれません。

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その帯曲輪状の土塁から。
写真では捉えきれていませんが、左右両方に横堀が通っています。

現在に遺構の残る城域こそ狭いものの、堀や土塁、切岸の規模はなかなか見応えのあるものでした。

さぁ膳城攻めも終え、ゆっきーを迎えての北関東の城攻めも、これにて無事終了~!!
汗だくになったシャツも着替えたし、あとは事故なく無事に帰るだけ・・・

とはスンナリ行かないのがこばたか流
ええ、そうでしたね・・・去年も2度3度と翻弄されましたよね、そういえば・・・もう着替えちゃったよ(笑)

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という訳で、まだイケる!と判断したこばたかさんによって連行されました・・・追加の山上城
ま、膳城のすぐ近くだしね。

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山上城の模型・・・でいいのかな。
手前の広い空間が三の丸で、奥へ進むに連れて二の丸→本丸(→北郭)と配置されています。

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三の丸は芝生の広場になっていました。
この広場を横切っていくと・・・

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なかなか綺麗な横堀が取り巻いていました。

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その堀底。

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二の丸側から、少し高くなっている本丸の切岸を見る。
赤い人の先には薄っすらと、横堀のような痕跡も残っていました。

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本丸から見下ろす北郭。
北郭を囲む横堀も綺麗に見えて、なかなか格好いい眺めです。

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その北郭の横堀。

まさかの延長戦でしたが結構楽しい城跡でした、山上城。

この日、1日でめぐったお城の数:7城。
唐沢山や金山といった規模の大きなものもフルでめぐっているので、なかなかにハードでした・・・ホントにドSなんだから(笑)

なんだかんだとイジリ倒しましたが、早朝のお迎えから運転、城の選択、資料の準備まで、こばたかさんには本当にお世話になりました。ありがとうございます。
ゆっきーもまたいらっしゃい、関東へ・・・次はもう少し上手な作戦を考えて話を通しておくから(笑)

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