2017年7月20日 (木)

島津の退き口 (関ヶ原~多良)

夏の岐阜旅2017、2日め(7月17日)は島津の退き口です。

慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦い
合戦に敗れた西軍に属す島津義弘の軍勢は、東軍総大将・徳川家康本陣の鼻先を掠めるようにして敵中を突破、追撃する東軍諸隊と壮絶な退却戦を繰り広げつつ、伊勢街道を南下して戦場を離脱します。これがいわゆる島津の退き口

2017071701
という訳で、この日のスタートは関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡から。

2017071702
島津義弘陣跡から見る開戦地、小西行長陣跡、そして松尾山(小早川秀秋陣跡)。
まさに西軍の最前線ライン上ともいえる位置取りなのですが・・・島津隊は二番備えだったとも云われており、案内板によると実際にはもう少し後方に布陣していたようです。

2017071703
島津隊の戦場離脱ルート。
家康本陣の脇を掠めるようにして伊勢街道へ向かっています。

2017071704
なんとか家康本陣近くを通り抜け、伊勢街道へ出た先・・・烏頭坂

2017071705
烏頭坂に建つ島津豊久顕彰碑
義弘の甥(弟・家久息)である豊久は、大将の義弘を逃がすためにこの地に踏みとどまり、殿(しんがり)を務めて奮戦します。
これまで一般的に豊久は、烏頭坂での殿戦で義弘の身代わりとなって討死を遂げたとも伝えられてきましたが、一説には重傷を負いつつも家臣に守られ、多良(大垣市上石津町)の辺りまで逃れたという伝承も残っているようです。
今回は我々も、この伝承を追って更に南へ進んでみることにします。

2017071706
移動中に見かけて立ち寄った木曽神社。
源頼朝の追討軍に敗れて戦死した源(木曽)義仲。
旧臣に守られ、この地に隠棲した息女・糸姫は義仲寺(後に宝聚院。義仲墓所あり)を建立して父の菩提を弔ったと云います。

2017071707
近くには地蔵群の脇に、義仲を詠んだ松尾芭蕉の歌碑も建っていました。

2017071708
大垣市上石津町牧田の琳光寺

2017071709
琳光寺境内に建つ阿多長寿院盛淳の墓所。
島津家の家老だった阿多長寿院盛淳は、本領蒲生の兵70を引き連れて義弘の元へ馳せ参じ、関ヶ原に参陣していました。
西軍の敗色が濃厚となって島津隊が戦場に孤立すると、主君・義弘は切腹しようとしますが、盛淳は豊久と共にこれを諫め、退却戦に移りました。
豊久の烏頭坂に続き、盛淳はここ牧田に踏みとどまって殿を務め、義弘の退却を見届けると拝領した陣羽織をまとって追いすがる東軍の中へ斬り込み、壮絶な討死を遂げました。

2017071710
琳光寺近くには、盛淳の顕彰碑も建っていました。

2017071711
ちょっとまた寄り道をして・・・西高木家陣屋の長屋門。

2017071712
西高木家陣屋図

2017071713
結構な規模を誇る石垣と、上屋敷跡へと続く坂(石段?)

2017071714
埋門

2017071715
井戸跡

2017071716
私有地で立ち入れない箇所にも、石垣が覗いていました。

2017071717
西高木家は2300石を領する旗本。
その家格に見合う規模なのかどうかは分かりませんが、それにしても立派な石垣に少々驚かされました。

2017071718
西高木家陣屋跡には現在、上石津郷土資料館が建っています。

2017071719
ちょうど島津豊久を主人公に描いたマンガの原画展が開催されていましたが、個人的には;
・織田信長の朱印状
・羽柴秀吉の書状(賤ヶ岳合戦直後、戦陣からのもの)
・徳川家康の書状
などの方に興味を惹かれました。

2017071720
上石津町上多良瑠璃光寺

2017071721

瑠璃光寺は、重傷を負って多良まで逃れてきたと云う豊久の菩提寺になっています。
許可を得て、本堂にて豊久の御位牌にもお参りさせていただきました。
慶長五年庚子
嶋光院殿忠道源津大居士神儀
九月十五日

文字もかすれ、煤けたような黒漆地がまた、400年以上もの時の移ろいを醸しだしているようで感動いたしました。

2017071722
瑠璃光寺近くの島津塚・・・豊久の墓所と伝わります。
烏頭坂での殿戦で重傷を負いながらも勝地峠を越え、多良まで辿り着いた豊久でしたが、受けた疵重く、これ以上は付き従う家臣らの足手まといになると考え、遂には近くの白拍子谷にて自害したと云います。

2017071723
島津の退き口めぐり、ラストはその白拍子谷へ。

2017071724
白拍子谷・・・島津豊久最期の地。

島津豊久や阿多盛淳らの奮戦もあり、無事に薩摩へと帰り着くことのできた島津義弘。
島津家では義弘帰還後も、豊久戦死の確報を掴めていなかったらしく、義弘はその後、3年もの長きに渡って家臣に豊久の消息を探らせたのだそうです。
※但し、そうなると豊久に付き従っていた家臣は誰一人、本国へ帰還できなかった(報告できなかった)ということにもなる訳で、であればそもそも豊久が烏頭坂から重傷を負いながらも、多良(白拍子谷)まで辿り着いたという伝承の信憑性は…?と疑問も湧いてきますが、この辺りはよくわからないので、あまり深く追及しないことにします。


この後は、解散前に海津市にある高須松平家の菩提寺・行基寺にも立ち寄りましたが、そちらは再訪の為、過去記事のリンクを貼っておきます。
美濃高須

| | コメント (0)

2017年7月19日 (水)

450周年の「岐阜」

今年に入って早4度めとなる岐阜への旅。
2017年は織田信長が稲葉山城を攻略して美濃を制圧し、「岐阜」と改めてから450年の節目の年。
それにちなんで岐阜市では、岐阜市信長公450プロジェクトと銘打って様々な試みが実施されています。今回は同プロジェクトに関連するいくつかのイベントに足を運んでみることにしました。

7月16日(日)、岐阜駅前で集合して最初に向かったのは・・・

2017071601
ぎふメディアコスモスにて開催されている信長公ギャラリー

2017071602
お目当ては「おもてなし劇場」で上映される岐阜城山麓居館のCG
信長の小姓に扮したMCの先導で見学してまわるという設定で、15分ほどの内容でした。
奥御殿や茶室の周辺が中心で、CG自体は素晴らしいのですが、もう少し全体をくまなく紹介して欲しかったなぁ…というのが正直な感想です。

2017071603
他にも、自らCGを操作して山麓居館をバーチャル散策できるコーナーなどがありました。

入館無料ですし、私のような遠来者のみならず、地元の方々にも多く足を運んでいただき、改めて信長のいた時代の岐阜城の姿に思いを馳せ、郷土の誇りを感じてもらうきっかけになればいいな、と思える企画でした。

2017071604
さて、お次は長良川沿いのとあるホテルへ移動し、川沿いの一室へ通されて・・・

2017071605
予め予約を入れておいていただいた、信長の饗応膳にて昼食です。
料理は勿論のこと、天下布武の朱印に織田木瓜紋・・・その全てに目も心も奪われます。

2017071606
献立
鯉に鮑、宇治丸(鰻)、巻きするめ・・・更にようひ餅が入っているあたり、やはり信長が天正10年5月15日に、安土城で徳川家康をもてなした際の献立(「続群書類従」)を参考に再現しているようです。

天正十年安土御献立
於安土上様。三河守殿。御申献立。拾伍日をちつき。

本膳
たこ/たいのやき物/な汁/のなます/かうの物
(香の物)/ふなのすし/御めし
二膳
うるか
(鮎のわたの塩辛)うちまる(宇治丸:ぶつ切り鰻の蒲焼)/ほやひや汁/ふとに/かいあわひ(鮑)/はむ(鱧)/こいの汁
三膳
やきとり/やまのいも・つる(鶴)しる/かさめ(がざみ:渡り蟹)/にし(タニシ)/すゝき(鱸)
四膳
まきするめ/しきつほ(鴫の壺焼き)/ふな汁/しゐたけ
五膳
まなかつうを さしみ(真魚鰹の刺身)/しやうかす(生姜酢)/かわらけ入こほう(牛蒡)/かも汁/けつりこふ(削り昆布)
御くハし(御菓子) ふちたか足をつけて(容器の説明)
やうひもち(求肥餅)/まめあめ/ミのかき(美濃柿)/はなにこふ(花昆布)/から花(造花)

2017071607
用いられる器の一つ一つにも全て、木瓜紋が入っています。

2017071608
鯉の洗は人生初体験でした。

2017071609
岐阜城下、長良川の畔で信長の饗応膳を堪能する・・・織田信長を追い求める者にとってはまたとない、贅沢なひと時でした。

2017071610
饗応膳を堪能した後は岐阜公園へ移動。
岐阜市歴史博物館で開催中のGifu信長展で;

ルイス・フロイス書簡写(原本/1569)
・フランシスコ・ザビエル書簡(自筆/1549)
※何故か署名部分が切り取られている。
・太田牛一自筆の信長記(岡山大学附属図書館)
・唐物肩衝茶入 銘:勢高
・唐物文琳茶入 銘:本能寺
・織田信長制札 北加納宛(永禄10年9月日)
・数々の織田信長書状類

などを見学してきました。
※後期展示にも必ず足を運びます。

2017071611

午前中にCGで見学した山麓居館跡を抜けて・・・

2017071612
ロープウェイで金華山の山頂へ。

2017071613
岐阜城資料館の特別展信長公の隠れ家

2017071614

その中のテーマ展示マンガに描かれた信長公

2017071615

7月1日~9月28日までの期間は、宮下英樹氏「センゴク」の複製原画が展示されています。

2017071616
織田信長肖像画(長野剛氏)と南蛮胴具足。

2017071617
混雑するロープウェイを諦め、猛暑(35度超え!)の中、岐阜城の大手とされる七曲り道で下山。

2017071618
暑くて大変でしたが、実は岐阜城の登城路を歩くのは初めてだったので、密かに嬉しかったりする(笑)

2017071619
途中、ちょっと気になる痕跡も・・・道?

2017071620
岩盤がセットバックに切り開かれている箇所も。
・・・本当はこの、平に整地された岩盤部分が道だったのかな?

2017071621
岐阜市街へ戻り、夜は恒例のギフナイト☆
貴重で美味しい日本酒も味わい、2次会まで楽しく過ごしました。

岐阜市信長公450プロジェクト
勿論、私自身も楽しませていただきましたが、これがより多くの岐阜市民の方が歴史に関心を持つきっかけになるといいな、と思いました。地元の関心が高まってこそ、文化財の保護などへの認識も高まるでしょうし。
そういった点でCGやマンガをテーマに用いた展示は、門戸を広げる意味に於いて面白い試みなのかもしれません。応援したいと思います。

| | コメント (0)

2017年6月21日 (水)

白河の関

2017061801
みちのくの玄関口・・・白河関跡

2017061802
古関蹟
の碑
白河の関は古代から陸奥への関門として知られてきましたが、江戸時代も後期になるまで、その位置を特定できていなかったようです。
それを調査・考証し、この地(福島県白河市旗宿関ノ森)を白河の関の跡地であると断定したのは、白河藩主で老中にもなる松平定信でした。
これは寛政12年(1800)に建てられた、考証の経緯を記した石碑です。

2017061803
説明板にある通り、源義経ゆかりの矢立の松碑。

2017061804
白河神社
源頼義、義家、頼朝、義経ら錚々たる面々の奉献を受け、元和元年(1615)には伊達政宗も社殿を奉納したとか・・・もう少し社殿もしっかり拝観しておくべきだったか…(^_^;)

実際に訪れるまでは白河の関跡といっても、こちらの白河神社が建っているだけだろうと思っていましたが、この本殿横(南)に凄い遺構が残っていました・・・。

2017061805
横堀に土橋、土橋の先には関所施設の跡地か・・・曲輪も。

2017061806
曲輪はかなりの広さで、北・東・南面には土塁もしっかり残っていました。

2017061807
曲輪北面の横堀

2017061808
北東隅のコーナー部分

2017061809
東面の横堀
この横堀を南へ進むと・・・

2017061810
南東隅は横矢が掛かり、出枡のようになっていました。

2017061811
出枡側から北向きに横堀を見る・・・美しい曲線。

2017061812
南側の虎口?
こちら側は土塁も切れ、形状が少し不明瞭でした。

しかし予想外に素晴らしい遺構を堪能させていただきました。
これはもう、中世の単郭城館跡・・・お城と呼んでも差し支えないでしょう。
発掘調査で周囲からは竪穴式住居跡も出土しており、縄文時代から古代、中世に至るまで幅広い年代に渡って利用されてきた痕跡の残る遺跡なのだとか・・・これからも大切に伝えていきたいですね。

2017061813
最後に、松尾芭蕉と曽良の像。
「奥の細道」といえば、白河の関・・・ですね。

| | コメント (0)

2017年6月20日 (火)

会津西街道 上三依~田島宿

先日、久しぶりに家族で温泉旅行に出かけました。
今回の宿泊先は芦ノ牧温泉。折角なのでその道すがら、慶応4年(1868)の戊辰戦争時、宇都宮で負傷した土方歳三が会津まで運ばれ、新政府軍と戦い続けた大鳥圭介らが往来した会津西街道を北上してみることにしました・・・完全に私の趣味→運転手特権(笑)

会津西街道
街道は古来、向かう先の地名にちなんで呼ばれることが多く、会津側からは「日光街道」、或いは「南通り」「南山通り」「下野街道」などとも呼ばれてきました。
江戸後期にもなると、会津藩では「下野街道」を公称としていたようですが、煩雑になるので当記事では「会津西街道」で統一します。

西那須野塩原ICから国道400号を経由し、上三依でほぼ旧会津西街道に沿って通る国道121号に合流。
121号を北上し始めてすぐ、この日最初の立ち寄りポイントは・・・

2017061701
鶴が渕城址
ナラ入沢渓流釣りキャンプ場入口への分岐を過ぎてすぐ、左手に見える男鹿川に架かる小さな橋を渡った南側です。

鶴が渕城は永禄年間に、田島地頭職の流れを汲む長沼氏によって築かれました。
男鹿川左岸、国道121号の東にそびえる姥捨山の山上に築かれた曲輪群と、男鹿川右岸の山麓に築かれた角馬出・長塁とが残ります。
山麓の角馬出や長塁は、その規模や形状から長沼氏時代のものではなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直前、徳川家康の北進に備え、当時会津を領していた上杉氏が築いたものと考えられています。実際に直江兼続が実弟の大国実頼(田島鴫山城主)に対し、「鶴渕山」の防備を固めさせるように指示したことを窺わせる書状も残されています。

今回は山麓の角馬出と長塁のみ、サクッと観てまわります。
上写真の案内板を過ぎ、正面の角馬出への土橋上から右に目を向けると・・・

2017061702
西へ向かって一直線に伸びる、見事な長塁が飛び込んできます。
笹藪が結構キツイですが、堀も土塁も非常に良好な状態で残っていました。
正面奥に見えるのは会津鬼怒川線の線路。更にその先にも長塁は続いているそうなのですが、さすがに独りで突き進む勇気がなく、今回はパス…(^_^;)

2017061703
反対に左側(東)は、男鹿川の渓谷に向かって落とされているようです。

2017061704
男鹿川の断崖縁に築かれた角馬出
周囲を囲む土塁も残っています。

2017061705
角馬出の南東隅だけ、土塁が切れていました。
この防塁を築いた段階に於いては、構造からしても角馬出(の付近)に街道を通していたことになるのでしょうか。

2017061706
角馬出北西方向。
土塁が、眼前を横切る長塁の堀まで続いている様子がお分かりいただけるでしょうか。

2017061707
角馬出のすぐ脇を流れる男鹿川。
とにかく水が綺麗で、美しい眺めでした。

2017061707b
鶴が渕城(防塁)址図面(しみず作)
今まで縄張図など描いたこともないので、稚拙な出来栄えですが・・・ざっくりとイメージをお伝えしたく、帰宅後に記憶を頼りにトライしてみました。描いたのはあくまで、自ら実際に観てまわった範囲のみです。
実尺と異なり、サイズなどはデフォルメされていることをお断りしておきます。

歴史は家康を小山で反転させて関ヶ原へと向かわせることになるので、実際にこの防塁が利用されることはありませんでしたが・・・実際にこうした山中で、400年以上も前の痕跡を目にすることができる喜びは、やはり無上のものです。

再び121号を北上します。

2017061708
横川村の少し手前に残る、横川一里塚

2017061709
背後の山の斜面に「よばわり岩」と呼ばれる大岩があることから、「よばわりの岩の一里塚」とも呼ばれていました。
その大岩は生い茂る樹木に遮られ、辛うじて認識できる程度にしか見えませんでした。

2017061710
会津藩横川関所跡と如意輪観音堂(江戸時代後期)
横川村は会津西街道の下野国最北の集落。会津藩の預かり地でもあり、会津藩が領内へ出入りする街道沿いに築いた関所の一つです。

2017061711
清水伝左衛門の墓
文化10年(1813)、横川村で盆踊りが催された際、盆踊りに興じる人垣が関所の敷地内に立ち入ってしまいました。
「関所内で盆踊りとは不届き」との責めを負い、関守であった清水伝左衛門は切腹して果てたと云います。

2017061712
横川宝篋印塔
推定戦国時代末期の作。
村の伝承から「三依」地名の起源にもなったと伝わる三依姫の供養塔とされています。
三依姫の詳細は分かっていませんが、下野国矢板の塩谷氏から、会津田島の地頭・長沼氏に嫁いだ姫のようです。
長沼氏は後に足利義満によって任を解かれ、その知行を没収されたため、姫も流浪の身となり、最期は横川で寂しく生涯を終えたと伝えられているそうです。

2017061713
横川の町並

(慶応4年閏4月)四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原ならびに鈴木藩之助等と同宿す。
(大鳥圭介「南柯紀行」…以下引用同

日光・今市を明け渡し、一旦田島へ向かうことにした大鳥圭介の旧幕府脱走陸軍は、ここ横川でも一泊しています。
この時に大鳥自身が泊まった家も、この写真の中にあるのでしょうか。

2017061714
トンネルで下野と陸奥(会津)国境の山王峠を越え、少し下った先の旧会津西街道名残の砂利道と、山王茶屋跡地
江戸期の茶屋は旧道左側の草むらや国道に掛かる辺りに位置し、戊辰戦争で焼かれた後、明治2年に旧道右側の写真奥(民家の建つ付近)に再建されました。

五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。

横川を出立した大鳥圭介は山王峠を越え、この地に建つ茶屋で会津藩の若年寄であった山川大蔵と出会っています。
大鳥、山川を評して曰く「性質怜悧」「余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。」
二人は田島まで同行して軍容を整えた後、今市奪還を期して共に新政府軍と戦うことになります。

2017061715
奥会津博物館に移築保存されている、明治2年再建の山王茶屋

2017061716
茶屋とはいえ「乗り込み玄関」を備えた本陣形式の立派な建築です。

2017061717
現在はお食事処として営業しており、我々もこちらでお昼をいただきました。

2017061718
奥会津博物館には他にも、様々な歴史的日本家屋が保存されています。
写真は旧猪俣家住宅。奥会津地方に現存する最古の住宅遺構でもあります。

2017061719
木地小屋
山に入った木地師たちの作業場兼住居です。

更に北上を続け、田島宿へ。

2017061720
田島に置かれていた旧南会津郡役所
「郡区町村編制法」の施行により、明治12年に会津郡から南会津郡が分割されて設置されました。明治18年落成~昭和45年移築保存。

2017061721
田島宿の町並と、昭和9年創業の和泉屋旅館
和泉屋旅館は一時、進駐軍の指定旅館になっていたこともあり、国の登録有形文化財に指定されています。

本日(五日)、糸沢、中食、夕方、田島に着き本陣に宿す。

大鳥らは田島に10日間ほど滞在して軍容を整えた後、今市奪還を期して再度、会津西街道を南下していくことになります。
※今市での攻防戦はコチラ
※その後の小原沢の戦いはコチラ
※足を負傷し、会津まで運ばれる土方歳三も、その道中に田島に宿陣しています。(島田魁「日記」)

2017061722
鴫山城跡(愛宕山)登山口
家族連れなので、さすがに山城は行けませんが…(^_^;)

2017061723
旧南会津郡役所も建つ福島県南会津合同庁舎の駐車場一角には、鴫山城の外郭土塁も。

さて、今回の会津西街道めぐりはここまで。
※この先の大内宿~会津に関しては、コチラを参照願います。

2017061724
最後に塔のへつりにも立ち寄って・・・

2017061725
芦ノ牧温泉の宿にチェックイン。
喜多方から祖母も合流し、久しぶりにのんびりと共に過ごしました。

| | コメント (0)

2017年5月27日 (土)

愛犬ボンの旅立ち。

2017年5月24日(水)の午後6時30分頃、我が家の愛犬ボンが永眠いたしました。
満14歳と4ヶ月、食欲と家族への愛情に満ちた人生を全うしてくれました。

実は、3月下旬頃だったか4月に入ってからだったか・・・体調を崩していました。
かかりつけの病院でいろいろと調べて貰いましたが、どうやら貧血だったようです。それも再生不能性の疑いのある・・・しばらく造血剤を飲ませても、一向に改善は見られませんでした。

それからというもの、暑くもないのに呼吸が乱れることが多くなり、あれだけ毎日飽きることもなく、同じご飯を歓喜の雄叫びと共にガツガツと食べていた彼が食べたがらなくなり、栄養をつけないといけないからと、根気よく手で食べさせていました。
(それでも、大好物のチキンとかは喜んで食べていました)

亡くなる3日ほど前くらいからは息切れが特に苦しそうで、今までは(固いままだと喉に詰まらせるので)ご飯に水をたっぷり含ませて柔らかくしてから食べさせていたので水を殆ど飲まなかった彼が、頻繁に飲みに行くようになっていました。
時折、あまりの息切れに辛そうな表情も見せていました。それでもチキンとかは欲しがるから、貰うまではなかなかおとなしく寝ない→息切れで余計に苦しそうにする、のジレンマが続いていました。
毎晩、母や弟たちが風呂からあがってくるタイミングを待って、私がおやつのチキンをあげるのが日課になっていましたが、亡くなる前夜も呼吸が乱れて苦しいくせに、早く欲しいものだから落ち着かず、風呂場の様子を見に行ったりしながらソワソワ・・・。
その様子を見るに耐えられず、少しでも早く落ち着いて寝て欲しかったこともあって、いつもより早くあげたんだけど・・・本来であればお互いにとって楽しいはずの時間も、ただただ不安を募らせていた私はその日課をさっさと済ませ、早く寝て呼吸を落ち着かせてもらうことにしか意識が向かず、半ば投げやりな感じになってしまっていました・・・これが最後になっちゃったのに。
このことは今でも悔いている。

今から思えばフラつくこともあったし、体はもう限界に近かったのだと思います。でも、彼の目には未だ悲観も諦観の色もなく、その光には確実に生命力が宿っていたので、今日明日の切迫した状況だとの認識は抱いていなかった・・・。

そして当日。
前夜も遅くまで息が乱れていたそうで、この日は朝からグッタリとしていました・・・動くのも億劫な様子で。
なんとなく胸騒ぎを覚えていたのだと思います・・・仕事を遅出の予定にしていたこともあり、母が弟を職場へ送りに行った時、その帰りまで一緒にいてやることにしました。
今から思えば、私にとってこれがせめてもの救いだったかな・・・私の近くまで寄って来た彼は、そのまま横になり、お留守番の間ずーっと私の方に顔を向けて、私の存在を確認するようにして寝ていました。その間は呼吸も安定していました。
母も戻り、私が出かける際は「ごめん、行ってくるな。頑張ってな」と声をかけました。結果的にこれが、ボンとの最後の別れになりました。

夜、帰宅途中の電車内で受けた家からの着信・・・その日はずーっと嫌な予感がしていたので、瞬時に察しはつきました。

帰宅後に対面したボンは目こそ開けたままでしたが、まるで眠っているかのようでした。本当にただ、呼吸をしていないだけ。
最期の様子を聞くと、例によって残したご飯を少しずつ、手ずから与えている最中に突然、スーッと全身の力が抜けたかのように崩れ落ち、すぐに呼吸も停まったそうです。
・・・きっと心臓がもう、限界だったんだね。命を燃やし尽くした。
一番大好きだった母ちゃんと触れ合っている最中で、本当に良かったと思います。そばにいた母や弟は驚いただろうけど。

翌25日、かかりつけの先生から紹介していただいたお寺さんで火葬し、見送ってきました。
お花や、元気だった頃は大好きだったご飯、チキン、たまごボ―ロ、チーズ、、、そして母・弟・私の3人が笑顔で見送る写真と共に。
火葬場の担当の女性は優しい方で、仕事振りも真心のこもった素敵な方でした。熱気が立ち込める中、どんなに小さな骨のかけらまでをも灰の中から探し出し、全身のパーツを復元して説明してくださいました。
最後は自らの手で骨壷に納め、一緒に帰宅しました。
本当にいいところで見送ってやれたと思います。

20170525
この日はどんよりとした曇り空でしたが涼しく、暑いのが苦手だった彼には良かったのかな。
それに火葬している最中、一瞬ですが火葬場の上空に晴れ間がのぞきました。きっとあの瞬間、無事に天国へ行けたんだね。

出会ってからの14年1ヶ月、たくさんの笑顔と幸せと愛をくれました。きっと君も幸せだったよね?
共に過ごした日々、寸分の空白もなく、とことん愛し抜いた。そこには一点の曇りも疑いも悔いもないよ・・・すがすがしいほどに。

20170521
最後に、彼の生前最後に撮った写真を添えて、愛犬ボンの記事も締めくくりたいと思います。
この記事は特に、SNS上での更新告知は流しません。きっと普段から私のblogをご覧いただいている方は、ボンのことも気にとめてくださっていたと思うから。
長い間、当blogやtwitterを介してボンを可愛がり、応援してくださった方々には感謝の言葉もありません。叶うことならば、これからも私と会ったり、絡んでいただいた際にちょっとだけ、彼のことを思い出してやってください。
本当にありがとうございました。

ボン、今まで本当にありがとね!
君と出会えてからというもの、信じられないくらいに毎日が刺激的で感動的で、幸せに満ちた日々だったよ。
心から愛してる、大好きだよ、ボン!
しばらくは直接触れてやることはできないけど、みんな君のハートとともにいるよ。僕らの胸にも君はずーっといる。
もう息切れもしないし、4年前に痛めた“あんよ”も痛くない。好きなものを好きなだけ食べてもいいんだよ。自由気儘に、好き勝手過ごしながら待っててね。
いつかまた、そっちで抱っこしてやれる日まで♪

| | コメント (0)

2017年5月24日 (水)

碓氷峠…新発見の陣城と旧中山道

5月20日(土)
愛車を駆って一路、軽井沢へ。

2017052001
旧軽井沢駅舎
特に渋滞もなく、自宅から2時間ちょっとで到着しました。

今回の目的地は信越国境の碓氷峠
この一週間ほど前に、「碓氷峠付近の旧中山道沿いで、新たな山城(陣城)跡が発見された」とのニュースが流れてきました。
少ない情報を元にtwitter上で城仲間と場所の推定をしているうち、「実際に行ってみよう」ということになっての今回の遠征。
プランとしては峠の新発見陣城跡から、そのまま旧中山道を群馬県側へ碓氷湖(坂本ダム)まで下り、道々の旧街道の名残を楽しみつつ、他に砦などの痕跡がないか確認する、というもの。
同行者と軽井沢駅で合流し、総勢4名で碓氷峠へ向かいます。

2017052002
旧中山道碓氷峠、その頂上に鎮座する熊野皇大神宮(以下、熊野神社)。
参道の石段から手前へ、真っ直ぐ赤いラインが引かれていますが、これが長野(左)と群馬(右)の県境
また、熊野神社は安政2年(1855)、安中藩主の板倉勝明が、藩士らを安中城から碓氷峠まで走らせた「安政遠足」の決勝点でもあります。

今回発見されたという陣城跡は、この熊野神社から東へ250mほどとのことなので、旧中山道を群馬県側へ下ります。
旧中山道は群馬県側へ下り始めるとすぐに舗装路が切れ、未舗装の林道に入っていきます。

2017052003
そのまま林道を少し進むと、上写真の分岐点に至ります。右へ少し下るのが旧中山道ですので、ここは右へ。
ちなみに左は幕末、皇女和宮降嫁の際に開かれた道(和宮道)のようです。

2017052004
和宮道との分岐点付近には、熊野神社神宮寺の仁王門跡の碑が建っていました。

2017052005
一つ目の分岐点のすぐ先に、もう一つ林道との分岐点が出てきます。
ここは左が旧中山道。今回発見された陣城跡は、この分岐した道の間に位置しています。

さて、私には絵心というものが全くございませんので、図面を載せることは叶いません。
苦肉の策として、言葉で縄張の概略を示しておきたいと思います。

まず、城跡は上写真の分岐の先、旧中山道側に沿って楕円状に展開しています。
■手前(峠側)に竪堀(堀切?)、その先に曲輪が3つ、旧中山道に沿って群馬県側へ縦に並ぶ。
(仮に峠側の北西から南東へ向かって曲輪A→同B→同Cとする)
■曲輪Cからは曲輪Bの北東へ回り込むように腰曲輪状の削平地が開けており、その下段にも腰曲輪あり。
■上段腰曲輪の先端(北)、竪堀の手前に下段腰曲輪~旧中山道へと続く枡形虎口あり。

大雑把に言葉で説明すると、こんな感じになるでしょうか…(^_^;)

2017052006
我々は先ほどの分岐を旧中山道ではなく、右の林道側へ少し進み、城跡の南側からアプローチしました。
写真は、その林道(南)から城跡を見た様子・・・窪地の先に曲輪A(左手前)、B(右奥)の土塁が見えています。

2017052006b
また、曲輪BCにかけての手前(南)側には横堀(竪堀?)も残っていました。

2017052007
曲輪A(左)とB(右)間の堀跡

2017052008
曲輪BからAの方角
墓地を囲うように南面から西面にかけて、土塁がL字型に残っていました。
また、やはり曲輪Aにも土塁が南面から西面にかけてL字型に残っています。
AB両曲輪で同じような残り方をしているのは、他の面には土塁が存在しなかったというよりは、後世の何らかの意図(墓地整備など)による改変かもしれません。

2017052009
曲輪BよりCを見る。

2017052010
反対に、曲輪CからB
曲輪Cは土塁がごく一部しか残存していないため不明瞭ですが、曲輪Bとの間もやはり横堀のようになっていたのかもしれません。

2017052011
曲輪CからBの北東側を回り込む腰曲輪。右下にもう一段見えています。
この上段の腰曲輪を北西方向へ進んだ先に・・・

2017052012
枡形虎口があります。
写真は斜め上から俯瞰気味に撮影したものです。

2017052013
上段腰曲輪から見る枡形。
正面突当りで右に折れて、下段腰曲輪に出ます。

2017052014
下段腰曲輪から枡形を振り返る。

2017052015
ルートとしては下段腰曲輪に下りて更に右に折れ、その先で左に曲げて(日影と日向の境目付近)旧中山道に通していたようです。

2017052016
枡形の西側に切られている竪堀

2017052017
この竪堀はそのまま、旧中山道まで落とされています。

2017052018
竪堀と旧中山道の合流点。
こうして見ると旧中山道が、まるで横堀のようでもあります。

新発見の陣城跡・・・これは全くの個人的な感想ですが、ロケーションや旧中山道からの導線、枡形の受け方などから察するに、なんとなく東の方角へ意識が向いていたように感じます。
そういった意味では新聞報道にもあったように、天正18年(1590)の小田原攻めに於いて、松井田城を攻める豊臣方(北国軍)の後方拠点という見方でも無理はないのかなと思えます。
※但し、碓氷峠は上信国境の要衝であり、それがために時代を問わず、こうした軍事施設が築かれていた可能性もありそうなので・・・難しいですね(^_^;)
いずれにしても、なんらかの軍事施設、陣城・砦であったことは確かだと感じました。

2017052019
城跡脇を通る旧中山道
この付近から東へ向かって結構な下り坂が続いており、その名も「長坂道」と呼ばれていたようです。
引き続き、この旧中山道を群馬県側へ下っていきます。

2017052020
新発見陣城から少し下った先にも面白いものがありました。
写真右側の斜面は旧中山道に沿って切岸状に削り落とされた絶壁になっており、その上部を仰ぎ見ると、、、

2017052021
数段の小曲輪が階段状に並んでいるように見えました。
(実際に登った同行者によると、やはり削平されたような痕跡があった、とのこと)

2017052022
また、その絶壁の先端部には裏へ回り込めるように細い道が付けられており、実際に絶壁の裏側へ回り込んでみると、綺麗に削平された平場がありました・・・まるで街道(を通る敵)から、絶壁に守られるかのように。

2017052023
平場の奥には谷が入り込み、その先には古い道の痕跡が続いていました(写真右上部分)。
後方に控える新発見陣城の物見的な出城か、或いは江戸期の番所のようなものがあったのかもしれない・・・などと想像を膨らませました。

引き続き旧中山道歩きへ・・・

2017052024
また旧道沿いに不思議な痕跡が出てきました。

2017052025
古道らしき痕跡が複雑に入り組んでいるため、幾つものコブのような小山ができていますが、旧中山道とは高低差もあり、いずれの古道も旧中山道には繋がっていませんでした。

2017052026
小さな沢に出ました。
旧中山道はこの沢を渡っていたようです。

2017052027
沢の畔に人馬施行所跡
施行所とは何ぞや?と思いましたが、どうやら呉服商が文政11年(1828)に建てた、人馬のための休憩所があったようです。

2017052028
沢を渡ってしばらくすると、峠で分岐していた和宮道との合流ポイントに出ました。
写真左がここまで歩いてきた旧中山道で、右が和宮道。
看板を見るに現在、毎年5月に開催されている「安政遠足 侍マラソン」では、どうやら和宮道のコースが採用されているようですが、和宮降嫁は文久元年(1860)。安政遠足催行よりも後のことになりますので、実際の安政遠足では旧中山道を通ったものと思われます。
※峠からここまでの旧中山道は道幅も狭く、現代人を走らせるには危険な箇所も随所にありましたので無理もないですね…(^_^;)

2017052029
そしてこの和宮道との合流地点には、ご覧のような案内板も設置されていました・・・そう来たら、確認しない訳にはいかないでしょ(笑)

2017052030
陣場が原の旧道沿いには、子持山がそびえています。
この付近が度々戦場になっていたのであれば、子持山にも何かしらの痕跡があるのではないかと思い、登ってみたのですが・・・写真のような岩場が点在する細尾根で、遺構と思しきものは一切見受けられませんでした。

2017052031
引き続き、和宮道と合流した旧中山道を歩きます。

2017052032
・・・いろいろとツッコミどころ満載一つ家跡の案内板(^_^;)

2017052033
その足元には別の、朽ちた古い案内板も転がっていたのですが・・・書いてあることが大分違うんですけど?(笑)

2017052034
山中坂

2017052035
山中茶屋跡

碓氷峠から群馬県側の麓までの、ちょうど中間に位置しています。
坂本宿(群馬県側)から登ってきた旅人は、この先に山中坂の急坂を控えていますので、必ずこちらの山中茶屋で休憩を入れたそうです。それが茶屋の発展にも繋がりました。
明治期には小学校も建設され、明治天皇御巡幸(明治11年)の際には、当時の生徒数が25人だったことから25円(現代の50万円相当か)の奨学金が下賜されたそうです。

2017052036
山中茶屋の外れにあった馬頭観音。

2017052037
二重の痕跡を留める旧中山道。
我々が歩いてきた道は左ですが、右の上段部分も明らかに古道ですね。

2017052038
旧中山道からの眺め。
遠くに見えるは・・・妙義山かな?

2017052038b
それにしても碓氷峠の古道遺構はスケールが大きい・・・このクラスの堀割遺構が延々と続いています。

2017052039
明治6年に設置され、「交番」のはじまりとされている見回り方屯所があった栗が原

2017052040
栗が原の近くには、旧中山道から分岐する明治天皇御巡幸道路もありますが、現在は崩落により立入禁止。

2017052041
座頭ころがしの急坂。

2017052042
座頭ころがしの堀割も・・・ご覧の規模。

2017052044
座頭ころがしの坂を下った先には、旧中山道と平行する尾根上に中世東山道の痕跡も残っています。
近くには、小山を切り開いて築かれた東山道の一里塚があるとのことでしたが・・・これかな?

2017052045
北向馬頭観音
文化十五年四月吉日

2017052046
南向馬頭観音
寛政三年十二月十九日

2017052047
さて・・・いよいよ土橋が見えてきました。

2017052048
天正18年、豊臣秀吉小田原攻めに備え、松井田城主・大道寺政繁が築いたと云う堀切(大道寺堀切)。
写真左側は確かに掘り切られていましたが、右側は・・・崩れて薄くなったのか、あまり人工的な堀切感はありませんでした。

2017052049
堀切を少し過ぎて振り返った様子。
防衛線として堀切を築いたということは、他にも防御のための施設が周辺にあったとしてもいいのではないか?と思い、旧中山道の左に写る斜面上にも登ってみたのですが・・・

2017052049b
そこにあったのは、これまた古道跡と思しき痕跡。
もしかするとこれも、先ほど触れた東山道の名残かもしれません・・・。
仮に東山道とすると、大道寺政繁が堀切を築いた当時、碓氷峠越えの主要道として用いられていたのはこちら。
旧中山道よりも高所を通り、堀切の手前で一気に下る・・・その高低差も含めた防御施設(意図)だったのでしょうか。

2017052050
碓氷坂の関所跡
設置されたのは・・・昌泰2年(899)!?

2017052051
刎石茶屋跡の石垣
四軒の茶屋が並んでいたことから、別名「四軒茶屋」とも。

2017052052
弘法大師の「ここを掘れば水が出る」との指示で掘られたと云う、弘法の井戸

2017052052b
弘法の井戸付近にも、旧中山道を取り巻くように古道の痕跡が散見されました。
写真は弘法の井戸から少し下った先、旧中山道脇を見上げた様子・・・まるで横堀のようにも見えます。

2017052053
刎石溶岩にできた風穴。
湿った風が吹き出すということでしたが・・・?

2017052054
また古い馬頭観音が出てきました。

2017052055
」と呼ばれるビューポイントから、山麓の坂本宿を・・・覗く(笑)
小林一茶も;
坂本や 袂の下の 夕ひばり
と詠んでいます。

2017052056
十返舎一九が;
たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて
と書き記した難所(なんじょ)、刎石坂(上り地蔵下り地蔵)に差し掛かりました。

2017052057
石の・・・」と表現されるだけあって、土止めの石垣は壮観でした。

2017052058
刎石坂にもあった馬頭観音

2017052059
大日尊に南無阿弥陀仏碑

2017052060
柱状節理の岩盤
※こちらの岩盤脇には、竪堀状の深い溝が切られていましたが・・・詳細は不明です。

2017052062
刎石坂では、他にも不思議な岩盤層が多く見受けられます。

2017052063
ゴロゴロと転がる石には足首を取られ、かなり難儀しましたけど・・・まさに難所道。

2017052064
念佛百萬遍

2017052065
旧中山道はこの先、堂峰番所跡を経てすぐに国道18号へ出ますが、その前にちょっと寄り道。
写真中央部分で旧中山道を左へ逸れ、愛宕山城へ向かいます。

2017052066
愛宕山城の土塁と横堀(北西面)・・・ド藪(^_^;)

2017052067
とりあえず時計回りに横堀を1周してみます。

愛宕山城は、土塁と横堀をグルッと廻らせた単郭方形型の城で、東の角は出隅状に突き出させ、南西角には馬出を備えていたようです。

2017052068
東角の出隅部分の土塁
左側が曲輪内になるのですが、とにかく藪が酷かった・・・。
それでも出隅部分は他に比べて幾分マシで、辛うじて形状を確認することができました。

2017052069
南東面の横堀

2017052070
馬出も藪々・・・馬出にも横堀が残っていましたが、この藪では写真はどうにもなりません。

2017052071
馬出の先に建っていた梵字に「石壇(安永七年)」の石碑。

愛宕山城…もう少し藪が枯れてくれれば、規模の割には見応えのあるお城なのではないでしょうか。
旧中山道に戻ります。

2017052072
堂峰番所跡の案内板付近にあった石積。

2017052073
谷を挟んだ対岸にも、二段の立派な石垣が残っていました。

2017052074
さて、ついに国道18号まで下ってきました。
「熊野神社」から「現在地」まで、ほぼ赤い点線に沿って歩いてきたことになります。

2017052075
国道を碓氷湖(坂本ダム)目指して歩いていると、左手には竜駒山狼煙台が見えます。

2017052076
碓氷湖の畔、旧信越本線トンネルと架線跡

2017052077
旧信越本線はここから更に峠を登り、軽井沢へと向かっていたのですね。

2017052078
碓氷湖
対岸に見える山は坂本城(城の峯城)の城山です。

2017052079
さて、ラストは旧信越本線の碓氷第三アーチ、通称「めがね橋」。

2017052080
煉瓦造りのレトロ感が堪りません。

2017052081
第三アーチから続くトンネル。

2017052082
トンネル内はとても涼しく、暑い日の散策にはもってこいでした♪←

2017052083
アーチ橋上からの眺め。

2017052084
アーチ橋の上、アプトの道。
碓氷峠の急勾配を登るために採用されたアプト式・・・タモさんの例の番組でもやってましたね(笑)

煉瓦造りのめがね橋・・・前々から気にはなっていたので、訪問叶ってラッキーでした。

2017052085
最後は軽井沢駅で解散、私は愛車で帰宅の途に就きました。
帰りも渋滞に巻き込まれることなく、順調なドライブ。良き休日になりました♪

| | コメント (0)

2017年5月18日 (木)

渡邊家の蔵(日野宿)

毎年5月、土方歳三の命日(旧暦5月11日)前後の週末に開催されるひの新選組まつり
その週末に合わせ、甲州街道沿いに建つ渡邊家の蔵も公開されていましたので、祭りの合間にちょっと見学させていただきました。

2017051401_2
こちらが渡邊家の蔵
江戸末期~明治初期頃の建築です。

2017051402_2
渡邊家の屋号は「中村屋」
蔵は味噌・醤油・酒などを扱うお店(万屋)の店蔵として利用されていたそうです。
当初は木造だったものの、関東大震災(大正12年)の影響で土壁にひびが生じたため、昭和5年になって大谷石による石造りに改修されています。
また、昭和7年には甲州街道の拡幅により、位置を少し移されているようです。

2017051403_2
蔵の二階には調度品などの展示も。
一階には天然理心流の目録?免許??(きちんと確認しなかったので詳細不明です…スミマセン)も展示されていました。
※撮影禁止

そういえば八坂神社の天然理心流奉納額に、佐藤彦五郎や井上松五郎らと並び;
渡邊庄三郎藤原盛正
という人物の名前が見えます。
或いはこちらの渡邊家の関係者でしょうか・・・来年また機会があったら確認します(;・∀・)

2017051404_2
梁の木材がとても立派でした。

2017051405
二階の窓から覗く甲州道中・・・
普段は無粋な都道も、この時は祭りの開催で車両通行止め。徒歩で行き交う人の流れが、なんとなく往時の街道宿場町の雰囲気を味わわせてくれました。

2017051406
昭和33年、アジア大会自転車競技開催時の渡邊家の蔵。
この時は病院として使われていたようです。

| | コメント (0)

2017年5月14日 (日)

実相寺、正法寺、幡頭神社

GW旅、ラストは太田輝夫先生の著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」で読んで以来、ずっと気になっていたエピソードを確かめるため、三州吉良の地へ向かいました。

20170506c01
吉良西条の実相寺(西尾市上町下屋敷)
文永8年(1271)、吉良氏の菩提寺として吉良満氏が創建。三河国の初代安国寺として壮大な伽藍を誇りました。
ちなみに満氏の弟・国氏が駿河今川氏の始祖となっています。
やがて吉良西条が今川氏の勢力下に入ると、天文15年(1546…諸説あり)には今川家の軍師として名高い雪斎が住職に就いています。

実はこちらの実相寺、永禄3年(1560)5月5日のまさに桶狭間合戦の直前に、織田信長による焼き討ちに遭っているのです。(「岡崎領主古記」等)
※注:実相寺発行の沿革には「桶狭間の翌年」とある。

この焼き討ちについて、「西尾町史」は;
「一説に当時実相寺には多数の僧兵居りしが信長之を以て今川の残党なりとして攻めたりと」
としています。
(「桶狭間合戦 奇襲の真実」より引用)

タイミングから判断するに、今川義元出陣の報を掴んだ信長は、かつて雪斎(弘治元年=1555年に長慶寺にて死去)が住職を務めていたこともある実相寺を今川氏の前線拠点とみなし、これに先制攻撃を加えたものか・・・。

20170506c02
永禄2年創建の釈迦堂
焼き討ちで荒廃した実相寺再興のため、天正4年(1576)に鳥居元忠が寄進したものです。

20170506c03
方丈
こちらは慶長8年(1603)の再建。

20170506c04
八葉宝鐸型梵鐘
南北朝期の作。竜頭は和様の双頭形で、八稜形の口縁には中国式の形状が見られることから、和漢混淆式梵鐘とも呼ばれています。

ところで吉良にはもう一つ、信長と義元に関連して興味深い逸話が残されています。

実相寺の焼き討ち、そして桶狭間合戦より遡ること2ヶ月の永禄3年3月、今川義元は三河を巡視して乙川(吉良町)の正法寺に滞在しています。
やはり知多にいた信長は、義元の三河滞在を知るや舟を仕立て、乙川の沖合にある梶島まで押し寄せてきました。
正法寺住職の誘いで宮崎海岸での舟遊びに興じ、なまこ取りを見物していた義元は信長勢の接近に驚き、岬の高台にある幡頭神社に逃げ込みますが、信長が強襲を諦めて梶島から引き返したので難を逃れました。

この義元の三河巡視~信長の強襲未遂に関するエピソードは、地元の社家に残る旧記に伝えられるものとして「吉良町誌」に掲載され、「桶狭間合戦 奇襲の真実」の中でも取り上げられています。

20170506c05
義元が滞在していたと云う正法寺
永禄3年の3月という時期からして、やはり同年5月に予定している尾張進攻に向けた準備活動の一環だったのでしょうか。
※門前に建っているのは、明治22年と昭和28年の高潮被害に関する標柱です。

20170506c06
薬師堂拝殿
宝永3年(1706)の建立で、西尾市の文化財に指定されています。

現地にあった説明板によると、正法寺には義元の朱印状(禁制、もしくは安堵状か)も残されているようです。(正法寺文書)
・・・義元と正法寺の繋がりは確認できました。

20170506c07
正法寺(の隣り)には古墳も(正法寺古墳)。
古墳公園に建つ、写真奥にチラッと見えている祠は陣屋稲荷・・・江戸時代、この地を治めた吉良氏(元禄赤穂事件で有名な高家)の陣屋の鎮守だったようです。

20170506c08
こちらは、信長勢の接近を知った義元が逃げ込んだと云う幡頭神社
大宝2年(702)の創建という古い歴史を誇ります。

20170506c09
本殿は天正8年(1580)の建立で、国の重要文化財。
両サイドはそれぞれ神明社と熊野社の本殿で、やはり天正期の建立と推定されています。いずれも愛知県指定文化財。

幡頭神社の説明板にも「足利尊氏、そして今川義元も参拝したと伝わる」とありました。
義元がこの地まで足を運んだとすると、それはやはり、3月であれ5月(桶狭間への出陣時)であれ、永禄3年のことであった可能性が高いだろうと思います。

20170506c10
幡頭神社境内から見る梶島

20170506c11
義元強襲を諦めた信長が、舟の舵を切り直して知多へと引き返したことから、「梶島」の名で呼ばれるようになったとも伝えられています。
当時の海岸線はもっと手前側に入り込んでいたでしょうが、舟遊びをしていた義元からすれば、まさに目と鼻の先・・・相当に慌てたことでしょうね。

この乙川~梶島での1件が、2ヶ月後の実相寺焼き討ちに繋がったのかもしれません。

ここで取り上げた一連のエピソードは、1次史料では一切確認できず、事の真偽は定かではありません
が、実際に訪れた関係各所で着実に義元、或いは信長の痕跡を確かめられた点は大きな収穫で、手応えを得ることができました。

さて、これにて2017年のGW旅も全行程を終了です。最後は名古屋まで送っていただいて解散しました。
お蔭さまで今回も、事前の想定を超える成果の詰まったいい旅になりました。ありがとうございました。

| | コメント (0)

2017年5月13日 (土)

本證寺、安祥城、小豆坂古戦場

GW旅3日目…最終日。
この日は愛知県東部、三河地方をめぐります。

20170506a01
まずは三河一向一揆の拠点にもなった、安城市野寺の本證寺から。
鎌倉時代後期の創建で、室町期に真宗本願寺派に転じています。

三河一向一揆
永禄6年(1563)、「守護不入」の特権(寺内の治外法権と租税免除)を主張する一向宗寺院は、本證寺10世・空誓(蓮如孫)が中心となって蜂起し、特権を排除して三河の支配強化を図る徳川家康と争いました。
翌永禄7年、一揆勢は小豆坂・馬頭原での戦いに敗れて家康と和議を結びますが、家康からの改宗命令を拒否したために追放され、伽藍は破却、一向宗の信仰も禁じられました。
三河に於いて一向宗が赦免されるのは、約20年後のこと(天正11年に信仰が再び認められ、同13年には家康の黒印状で道場屋敷の保証と寺内の租税免除が認められている)。
以降、江戸期には東本願寺(大谷)派に属して三河の触頭として栄え、幕末には末寺200以上を有するまでになっています。

20170506a02
本堂は寛文3年(1663)の再建。

20170506a03
本證寺には往時、内外二重の堀が厳重に廻らされていました。
濃い緑色の部分が、現在もその姿を留めている箇所になります。

20170506a04
本證寺に現存する堀と土塁(内堀)
通常は公開されていませんが、ご住職にお伺いすると許可していただいたばかりか、ご案内までしてくださいました。

20170506a05
それにしても見事な土塁。

20170506a06
続いて外堀の探索へ。
こちらは東面の外堀の一部。

20170506a07
外堀から山門(奥に本堂)までの距離感。
この内側がいわゆる「寺内」「寺内町」となります。

20170506a08
北面にごく一部だけ現存する外堀。

20170506a09
先にご案内いただいた内堀の土塁は、境内外側からも見ることができます。

一度拝見してみたかった本證寺の遺構・・・念願叶って感謝。

20170506a10
続いて安祥城へ。
安祥城は安祥松平氏(徳川家康の家系)の拠点だった城。
安祥松平氏は4代・清康の時に、本拠を岡崎へ移しました。
城跡一帯は現在、「安祥文化のさと」として整備され、歴史博物館を初めとする様々な施設が併設されています。

20170506a12
その歴史博物館では常設展の他、こちらの企画展も見学しました。
今川義元の感状や、この直前に訪れていた本證寺の御本尊なども展示されていました。

20170506a13
館内に設置されていた松平清康像。

20170506a14
続いて安祥城本丸跡へ。
現在は大乗寺の境内となっています。

20170506a15
天正12年の小牧長久手合戦時にも利用され、改修の手が加えられているようです。

20170506a16
安祥城本丸

清康の死後(天文4年「守山崩れ」)、同族間の争いで混乱する三河を狙って東からは今川が、そして西からは織田信秀が触手を伸ばしてきます。
天文9年(1540)には信秀が安祥城を攻略し、長子の信広を据えています。(※天文16年など諸説あり)
小豆坂での戦いを経た同18年(1549)、今度は今川方の雪斎が安祥城を奪還し、松平広忠死後の岡崎にも城代を派遣して今川家による三河の支配体制を確立しました。
今川家による三河の実効支配はその後、桶狭間での義元討死(1560)~松平元康(徳川家康)の独立まで続くことになります。

20170506a17
安祥城本丸脇に建つ、本多忠高(徳川四天王・本多忠勝父)の墓碑。
天文18年の安祥城攻めで今川方として奮戦し、本丸付近で戦死しています。
墓碑は寛政9年(1797)、250回忌で岡崎城主の本多忠顯が忠高戦死の地に建立しました。

20170506a18
お次は小豆坂古戦場へ。

20170506a19
小豆坂古戦場碑

20170506a20
血洗池跡の碑
これらの石碑はいずれも、付近の関連地から一ヶ所に集められたものです。

20170506a21
天文11年(1542)にあったとされる第1次小豆坂合戦で奮戦した織田方の七将が、槍を立てて休憩したと伝わる鎗立松の碑。

天文9年に安祥城を手に入れ、三河進出を目論む織田信秀と、それを阻止せんと正田原(信長公記)に押し寄せた今川勢との間で、天文11年8月に勃発したと云われる第1次小豆坂合戦
しかし、この合戦は1次史料では「信長公記」にしか見られず、しかも「公記」には年次が示されていません。天文11年としているのも「甫庵信長記」など、後世の創作物のみです。
近年では、今川の勢力が天文11年の段階では未だ西三河に及んでいるとは思われず信秀の安祥城奪取を天文16年と匂わす文書(織田信秀宛北条氏康書状)が存在することもあって、戦いそのものの存在を疑問視する見方が強まっています。
なお、天文17年(1548)3月第2次合戦は、今川義元の感状も残っているので間違いのないところでしょう。

20170506a22
先ほどの石碑群とは少し離れた場所にある、小豆坂戦没者英霊記念碑。
そして・・・

20170506a23
江戸時代の古絵図を元にアタリをつけた、正田原(付近の県道48号沿いに「正田城跡」あり)を駆け下る小豆坂の旧道
今となってはなだらかになっていますが、坂下には「陣場」(岡崎市羽根町陣場)という地名も残っており、この付近で合戦が行われたことを暗に示しているかのようでもあります。
また、その更に西方には天文17年の合戦(第2次)で、織田方が布陣したと云う「上和田」の地名もあります。

20170506a24
小豆坂の旧道は県道26号線との角に建つ、こちらのモニュメントが目印です。
(「不吹町北」交差点)

天文17年の合戦は今川の勝利に帰し、敗れた織田勢は安祥城へ撤退します。
翌天文18年、岡崎の松平広忠が家臣に刺殺され、更に安祥城を今川に奪われて西三河での拠点を失った織田信秀は、安祥城で生捕られた信広と、広忠の遺児・竹千代との人質交換に応じざるを得なくなり、三河は完全に今川の勢力下に布かれるようになりました。

なお永禄7年(1564)には、前年から三河一向一揆との戦いを強いられていた徳川家康が、この小豆坂、及び馬頭原での一揆勢との決戦に勝利して和議に持ち込み、最終的に一揆の解体に成功しています。

| | コメント (0)

末森城、桃巌寺

小牧城下町の惣堀探しの後は、名古屋市内へ移動。

20170505b01
桃巌寺
信長の父・織田信秀の菩提寺(の一つ)で、信秀晩年の居城・末森城を継承した次男・信勝が創建しました。
寺名は信秀の戒名「桃巌道見大禅定門」から採られています。

20170505b02
現在の境内地は正徳4年(1714)に移転されたものです。
創建当初は城山(末森城)南麓の、穂波町付近にあったようです。

20170505b03
織田信秀廟所
こちらの五輪塔は、当地へ移転後に建立されたようです。

20170505b04
こちらが移転前に祀られていた旧墓石。
寺の移転後も墓石は旧地に残されていましたが、昭和になって移設されています。
正面に「前備州太守桃巌道見大禅定門
左側面には「柴田修理勝家」の文字が見えました。
他に3基の小さな五輪塔もありました。

20170505b05
桃巌寺といえば名古屋大仏・・・なのだそうです。

20170505b06
続いて末森城跡へ。
織田信秀晩年の居城で、その没後は次男の信勝が継承しました。

20170505b07
現在、末森城跡には城山八幡宮が鎮座していますが、当社は築城当時から城山の麓に祀られていたようです。
昭和11年に現在地へ遷座されました。

20170505b08
神域前のこの付近が本丸跡で、拝殿や本殿が並ぶ神域は二の丸跡。
江戸期の古絵図によると、二の丸には丸馬出まであったとのことですが・・・。

20170505b09
実際に訪れてみて、とにかく驚いたのは横堀の規模
本丸、及び二の丸をグルッと取り巻くように深く、幅広な堀が穿たれています。

20170505b10
前方に写る同行者との対比からも、その規模を推し量れようというもの。

20170505b11
名古屋市内にこれほどの遺構が残っていたのか・・・とにかく驚きです。

それと同時に、ふと疑問も持ち上がりました。
織田信長は小牧山にも岐阜にも、そして安土にも山腹には横堀を一切用いていません
末森城は信長の城ではなかったとはいえ、当然その縄張や構造は見知っていたはずです。知った上で、このような横堀は無用と考えたのでしょうか・・・?

末森城に残る横堀遺構の規模や雰囲気には、後に徳川家康が小牧山に築かせたものと通じるものがあるようにも思えます。
末森城の二の丸にあったとされる丸馬出にも、年代的・地域的な観点から違和感を覚えるし、そう考えていくと、この横堀は(丸馬出も)信秀・信勝時代の遺構ではなく、後の、例えば小牧長久手合戦などでの改修によるものと考えた方がいいように思えてきました。
※但し文献上では、末森城跡の小牧長久手時の再利用は確認されていないそうです。

いずれにしても想定外に素晴らしい遺構でした。

20170505b12
末森城をあとにして、道三・信長の会見で有名な聖徳寺跡や・・・

20170505b13
加賀野井城跡・・・

20170505b14
「名人久太郎」こと、堀秀政生誕の地と伝わる上茜部城跡などに立ち寄りつつ、岐阜駅へ。
夜は同行者たちとの恒例、ギフナイト☆

20170505b15
実はこの日は私の誕生日。
サプライズにプレゼントまでいただき、嬉しい1日になりました♪
・・・その分、翌朝がちょっと大変だったけど(笑)←

| | コメント (0)

«小牧山城(城下町)の惣堀