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2012年9月27日 (木)

2012年7月22日 川中島古戦場を巡る旅 初日

さて、若干無理しちゃった感が否めない2週連続の遠征。今回は以前からずっと狙っていた川中島合戦の古戦場巡りです。
現地近くにお住まいのフォロワー(twitter)さんに駐車場情報など詳細を教えていただき、準備万全でスタート!そう、今回は現地での足を考え、一人旅では初の愛車とのDrive旅!

朝5時半に愛車を駆って自宅を出発。圏央道から関越経由で上信越を順調に進む。
途中2回の休憩を挟んで長野ICで高速を降りたのは8時頃。想定より早く到着できたので順番を若干入れ替え、まずは第4次川中島合戦で討ち死にを遂げた武田家の軍師、山本勘助のお墓から史跡めぐりスタート!
事前にtwitterを介して教えていただいたガイドブックで情報を仕込み、先述の近くにお住まいの方の貴重な情報のお陰もあり、至って順調にスケジュールを消化できた。
なにより、予報に反してとても気持ちのいい快晴!写真映えもして良かった!夕方にはスコールに見舞われたものの、その時には大方の史跡巡りを終えていたので問題なし。
夜は長野駅近くのホテルにチェックインして駅前で一杯。日曜ということもあり、開いているお店も少なかったので普通の居酒屋チェーンで(^^;
詳細はこちらから、写真で!

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旅の最初は、第4次川中島合戦において壮絶な
討ち死にを遂げた、武田家の軍師・山本勘助のお墓から。
千曲川の畔、今は周囲を畑に囲まれた場所にひっそりと・・・。

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勘助のお墓の近くには「広瀬の渡し」
合戦の際、武田家が渡河した場所。

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少し移動して八幡原古戦場
軍記物で有名な一騎打ちの銅像が建つ。
まさに第4次合戦時の武田信玄本陣跡。

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八幡社の右に「三太刀七太刀之跡」
太刀を三度討ち下ろした謙信。それを軍配で受けた信玄。後で軍配を調べたところ、疵跡が7ヶ所あったことに由来する。すなわち信玄が床几を据えていた場所。確かに周囲には土塁跡が残っていた。
中央の木は武田軍が打ち込んだ乱杭がそのまま自生したという「逆さ槐」

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「執念の石」
本陣に突撃してきた謙信を討ち漏らし、武田家臣の原大隅が悔しさのあまり、槍を突き通したという。。。

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敷地内に建つ長野市立博物館。
特に川中島合戦に特化している訳ではなく、むしろ原始・古代や民俗系に力が入っていた印象。

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松代藩出身の幕末の奇才、佐久間象山像。

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再び愛車で移動、こちらは典厩寺。

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そう、その名の通り武田信玄の弟、武田典厩信繁に縁の深いお寺。
彼の首を清めたとされる井戸。

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そして、武田典厩信繁のお墓。
彼もまた、第4次合戦において壮絶な最期を迎えた。。。

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典厩寺の近くにあるこちらのお店で少し早い昼食。
店お奨めの普通のとシソを練り込んだもの2種類のお蕎麦セットはなかなかのお味。何故この店にしたのかって?それは…

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その敷地内に「胴合橋」があるから。
討ち取られた山本勘助の首を取り戻し、その胴体と合わせた場所、とか。

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さて、次は松代地区に移動。
まずは真田宝物館から。

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そして真田邸。

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幕末、佐久間象山らの具申により設けられた藩校「文武学校」

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弓道場

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松代城
川中島合戦当時は海津城といい、武田軍の拠点となった。
第4次合戦時も武田信玄はここから八幡原へと出撃する。

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本丸にて

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本丸内の石垣

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城内から妻女山。
なるほど、信玄もこうして謙信の本陣を睨み据えていたのか。

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北不明門

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長国寺
門が傾いてる・・・(^_^;)

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長国寺境内
いわゆる観光寺、という風情は全くない。
他に参拝客もなく、案内を乞うと(お昼寝中を起こしてしまったようだがw)、拝観料300円で丁寧にガイドしてくれた。勿論、マンツーマンで(笑)

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初代松代藩主、真田信之の御霊屋。
破風の鶴は左甚五郎作と伝わる。

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横には四代藩主、真田信弘御霊屋。
財政難などの事情により、藩主の御霊屋作りはこの四代で最後となる。

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歴代藩主やその親族の墓所。
信之公は向かって一番左奥。

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二代藩主の御霊屋跡。現在は石碑のみ建つ。
そして三代の御霊屋も現在はその場になく、、、

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実は少し離れた本堂の脇に建つ開山堂が、第三代の御霊屋だったとか。
いつの時代か、移築して御堂として利用するようになった。
屋根を瓦に変えたため、重みで建物全体が歪んできている・・・。
なお、第二代の御霊屋は現在、妻女山近くの林正寺というお寺に移築されているという。今回は回り切れないので確認は出来ず。

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こちらは藩財政の立て直しに功績のあった家老、恩田木工民親のお墓。
(同じく長国寺)

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妻女山の麓へ移動。少し分かり辛い場所にありますが、会津比売神社の境内にある「謙信公槍先の清水」

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そして鞍掛けの松

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妻女山登山路の途中には「上杉謙信槍尻の泉」
先程の槍先の清水と何が違うんだ?ww

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妻女山展望台から八幡原。正面には旭山城。
ここから謙信は、海津(松代)城から上がる炊飯の煙の量の違いに気付き、武田軍の動きを察知して先手を打ったとされるが・・・、現在は木々に阻まれ海津城は見えない。
この辺りから空模様が怪しくなりだした。。。

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妻女山を下った上杉軍が八幡原へ向けて千曲川を渡河した「雨宮の渡し」
「鞭聲肅肅夜河を過る・・・」by 頼山陽
近くに小川が流れるが無論これではなく、往時はこのすぐ近くを千曲川の本流が流れていた。

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明徳寺。遂に降り出したとおもったら、いきなりのスコール!!

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こちらの境内には武田四天王の一人で海津城代でもあった高坂弾正昌信のお墓がある。
川中島の戦死者を敵味方の別なく手厚く葬り、それに感じ入った謙信が後年、塩止めに苦しむ武田家へ塩を送ったとされる故事(敵に塩を送る)から、墓石に塩を供えて祈ると熱病に効き目があるとされてきたことから、下部が少し抉れている。

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長野オリンピックスタジアムの横には勘助宮。勘助討ち死にの場所。
訪れた時、大きな野球の試合が行われており、歓声も聞こえてきた。
流れてきたアナウンスでは「○○のラッキー7の攻撃です」などと言っている。
ヤバい、早く立ち去らないと一気に渋滞に巻き込まれる!!ってことで早々に退散。

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狭ーい路地の住宅街をグルグルと彷徨い、何度も同じ場所をウロウロとして近隣住民からいよいよ不信者扱いされそうになった頃、ようやく見付けだした八幡宮。
第4次合戦後、武田軍がこの場所で勝鬨を上げたことから別名「勝鬨神社」。ホントに普通の空き地です(笑)

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最後にこの日のお宿。
設備に若干古さは感じたけど広くてとても落ち着いた感じが好感。

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