「桶狭間の戦い」を辿る ②(11月24日)
さて2日目。
ホテルで簡単な朝食を済ませ、7時前に出発。最寄りの地下鉄「伝馬町」駅から「堀田」で名鉄に乗り換える。
その堀田駅にて。
7時30分、鳴海駅に到着。随分と立派な駅舎だな~
てくてくと歩き始めたところで見つけた東海道、鳴海宿高札場の復元。
まずは鳴海駅から徒歩7~8分ほどにある鳴海城跡へ。ここは桶狭間合戦当時、今川方の岡部元信が守っていました。
写真は鳴海城跡から織田方の砦、鷲津方面の眺め。
天神社に建つ鳴海城跡の碑。
さて、再び歩き始めます。鳴海城跡から北の方角へ。
この辺りに旧東海道が通っていたのかな。
永禄3年5月19日
熱田から更に軍を進めた信長は、今川方となっている鳴海城に対する付城として築いた丹下砦を経由し、同じく善照寺砦へと向かった。。。
こちらが丹下砦跡(光明寺)。
包囲する鳴海城のほぼ真北で、実際にこの地に来てみると鳴海城を見下ろすような高低差がありました。残念ながら周辺の建物で見通しはあまり効きませんが。
光明寺に入ってみます。
境内の銀杏の木。なんか不思議なコブが垂れ下がってる。。。
紅葉も綺麗。。。
丹下砦を出て信長が次に向かったのは善照寺砦。丹下砦からは南東方向。
同じように向かってみました。坂道を下りながら消火栓のフタなどをパシャ☆ 名古屋城の絵柄ですね♪
…とその前に、鳴海城跡で天神社の隣にある鳴海城址公園に立ち寄るのを忘れていたことに気づき、寄り道。こちらの公園の方に主郭部があったとか。
鳴海城址公園からの丹下砦。
そして今川本軍が展開していた南東の方角もどうにか視界確保(^_^;)
正確な位置関係は見た目にはちょっと分かりませんでしたが、当時は当然建物もありませんので、お館(今川義元)の軍勢がよく見えたことでしょう。
織田方の丹下、善照寺、中島の各砦に囲まれ、籠城を続けていた城兵にはとても心強い光景だったはず…だが。
さて、再び善照寺砦を目指して歩きます。鳴海城からは東の方角。丹下砦から直接向かっていれば20分くらいの距離。当時はもっと直線的に向かえたでしょうから、5~10分で着いたものと思われます。
大通りから横道に入るとご覧の坂…。そりゃ、砦が築かれていたんだから坂もあるよね、当然(^_^;) 結構堪えました(笑)
善照寺砦跡。現在は児童公園になっています。
ここからは今川軍が展開する南~南東方面が本当によく見えました。
写真向かって右(南)から左(南東)へ→鷲津砦、漆山・大高緑地公園(左京山)、高根山など。一番左が“現在の”おけはざま山か? それぞれに「こここそ今川義元の本陣跡」との説が展開している。
今でこそ密集する住宅でよく分かりませんが、この善照寺がある地点から南に向かって急な下り坂となっており、間を流れる扇川を境にまた上り始めて対岸も全体が東西に伸びる高い丘陵地帯のようになっている。
牛一が記した「おけはざま山」とは即ち、どれか特定の山(丘)を指したものではなく、この丘陵地帯全体を呼んだものではなかったのか?…ふとそう感じました。
昨日とはうって変わって空も綺麗!
善照寺砦の南側斜面。
善照寺砦から今川勢の様子をつぶさに観察した信長は、おそらくここで最後の決断を下したのでしょう。
「今川勢から丸見えになって人数が少ないことがばれる」からと、馬の轡を取って引きとめる家老衆を振り切って更に南進。この辺り一帯では最も低地に位置する最前線・中島砦へと向かいました。
同じように中島砦跡を目指します。
ご覧のように、かなりの急坂。現在の区画でもほぼ一直線に向かえます。
手前から左へと流れるのが扇川(黒末川)で、右へ分かれているのが手越川。
その分岐点、中洲のように見える位置が中島砦跡。
中島城(砦)の碑。
民家の庭の様な所に立っていますが、所有者のご好意により、自由に見学できます。
織田信長はここ中島砦から、いよいよ今川義元の本陣目指して出撃していきます。
手越川を越えた「桶狭間の戦い」のクライマックス、今川義元本陣探しや戦場史跡巡りは次回にて♪(つづく…)
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