八王子千人同心-石坂弥次右衛門
今回は地元・八王子から。
西八王子駅近くを通る甲州街道沿いの「八王子千人同心」関連の史跡を簡単にご紹介します。
まずはこちら、興岳寺。
境内には「武田菱」も。
甲斐武田家滅亡の後、徳川家康は多くの旧武田家臣を召抱え、八王子に所領を与えて住まわせました。これが八王子千人同心の発端となるのですが、この興岳寺はそのうちの一家石坂家によって建立されました。
武田信玄の息女松姫も養われていたことがあったとか。
同じく境内に建つ、千人頭・石坂弥次右衛門の顕彰碑。
石坂弥次右衛門は慶応4年(1868)3月、急死した定番の代番として日光勤番に赴きます。
そしてその直後の4月、板垣退助率いる新政府軍が日光へと押し寄せて来ます。この際、弥次右衛門は大鳥圭介らに諮って無血開城を決断、現在に威容を誇る日光東照宮は辛うじて戦火を免れるに至りました。
ところが帰郷した弥次右衛門を待っていたのは、戦わずして降伏したことへの非難でした。結局彼は、その責を負う形で切腹して60歳の生涯を閉じてしまうのです。この時の介錯人はなんと、79歳になる彼の父親でした…。
石坂弥次右衛門のお墓
墓前に置かれた線香をあげる台には「日光市」の文字。日光を戦火から守ったことへの感謝の意を込めて日光市から贈られたものです。何よりの供養になったのではないでしょうか。
ちなみに、左右の灯篭は共に日光勤番を務めた隊士達が建てたもの。
その基台部分には日光勤番に同行していた井上松五郎や土方勇太郎らの名前も刻まれています。
井上松五郎は言わずと知れた、新選組六番隊組長・井上源三郎の実兄。
土方勇太郎も無論千人同心の出で、土方歳三の幼馴染でもあります。
実際にこの時期、宇都宮城での攻防戦で足を負傷して今市にいた土方歳三は、中島登を日光へ使いに遣って勇太郎を呼び寄せ、
「味方を鼓舞するために怖気づいて逃げ出そうとした兵士一人を斬ったが、不憫なので弔って欲しい」
と頼んだというエピソードが残っていますね。
さて、興岳寺から甲州街道を少し東へ向かった先に建つ追分の道標。
以下、現地説明板より。
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追分の道標について
この道標は文化八年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高尾山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。
その後、昭和二十年(1945)八月二日の八王子空襲によって四つに折れ、一部は行方不明となってしまいました。基部は地元に置かれ一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。
このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建立されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。
八王子市教育委員会
平成十五年五月
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その道標が建つ交差点の名前は無論、「追分町」。
江戸の方角から西へ向かってくると、左が甲州道中、右が案下道になります。
追分町交差点の近く、案下道の方を少し行った先には、「八王子千人同心屋敷跡」の石碑。
再び西側へ引き返す途中にある、了法寺。
右に建つ看板を見てもお分かりの通り、何故だか最近「萌え寺」として有名になってる。。。が、その理由とかはもはや調べる気にもなれない (-_-;)
八王子七福神の一つで寺としてもそれなりの由緒があるだろうに、こんなことでいいのか?…ま、好きな人もいるだろうから、これ以上は言うまい。
千人隊(同心)が拝領した馬場があった場所。
馬場横丁の碑が建つ一帯は「千人町」
先ほどの「追分町」もそうですが、現在に残る地名の由来を辿って行くと様々な歴史に繋がって楽しいものです♪
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