京都の旅 3日目④鳥羽伏見の戦い‐淀城外戦闘編
鳥羽伏見での戦闘に敗れた旧幕府軍の敗残兵は現職の老中、稲葉正邦の淀城へと逃れようとこの地にやって来ます…が、新政府軍と戦う意思のない淀藩によって入城を拒否されてしまうのです。
(この時、藩主・正邦は江戸に居り、藩主不在の中での決定であったという…)
入城を拒否された旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退しますが、この戦闘の最中、新選組六番組隊長・井上源三郎が戦死します。。。
どうしても淀に来たかった理由、それがこの井上源三郎だったのです。
この戦闘に従軍していた源三郎(以降「源さん」)の甥・泰助は後年、以下のような証言をしています。
「戦死した叔父(源さん)の首だけでも持ち帰ろうとしたが叶わず、撤退の最中、近くに実家(日野)の目の前にある寺と同名の寺があるのを知り、そこの門前に埋葬した」
その寺の名前とは「欣浄寺」です。
この辺りのことは以前、私の地元でもある日野の新選組史跡巡りをした際の記事にも載せましたので、御参考までに。日野の欣浄寺も写真を上げています。
※なお、後にこの泰助の証言は
・(淀の)欣浄寺がすぐに廃寺になっていたこと
・泰助の息子の嫁・ケイが周囲に「欣浄寺」と伝えた際、「それはケイさんの家の前にあるお寺じゃないか。老齢でボケてしまったのだろう…」と判断され、記録から「欣浄寺」という寺名が抹消されてしまっていたこと
などがあり、実際の埋葬地がどこななのか、長く判明しませんでした。ところが近年、偶然にも淀の古図に「欣浄寺」が描かれていることに気付き、ケイさんの証言は間違っていなかったんだ!と判断されたのだそうです。
今回はその埋葬地を探してみたかったのです。
※後日、以下にご紹介する欣浄寺跡地の位置が間違っていたことを知り、改めて再検証しました。その様子、欣浄寺跡地の正しい位置についてはコチラ の記事をご参照ください。
まだまだ未熟者、お詫び申し上げます。(2014年2月追記)
という訳で淀に到着。そうか、淀だもんね。京都競馬場。初めて見た。
こちらが淀城下の古地図(淀城跡設置の説明板より)。
今回も本能寺跡地の時同様の手法で印を入れて進めていきます。赤い矢印部分が欣浄寺。
欣浄寺の辺りをアップで。ここでは「納所」という地名と、青い丸で囲った地点を覚えておいてください。
古地図上に引いた赤・緑・水色の各ラインの道と、青い丸の交差点を現在の地図に当て嵌めるとこのようになります。
※淀駅の周辺地図より。古地図との対比の便宜上、上下逆さに掲載しています。
ここから推定した欣浄寺の跡地は、位置関係から赤い矢印の区画ではないかと推定しました。
では早速ウォーキング。
まずは青い丸の交差点。その名も「納所」!
納所交差点の様子。古地図からも分かる通り、欣浄寺は緑のラインの通り沿いなので、そちらへ進みます。
先ほどの欣浄寺がアップになった古地図を見て頂くと、緑ラインの通りから欣浄寺まで細い路地の様な線が描かれているのが見えると思います(ピンクの印をつけてあります)。
それがこの路地ではないかと…つまり、この先が欣浄寺の寺域。
寺域側から路地を。
もしここが本当に欣浄寺があった場所だとしたら、門は当然、通りに面した側にあったでしょう。。。つまりこの辺り。
そして「欣浄寺の門前に埋葬」された源さんの御首、その埋葬地もまさにこの辺りではないかと推定しました。
先ほどの門があった(であろう)場所から右側を見た様子。
同じく左側。それぞれ水色のラインに沿った場所が寺域だったのではないかと。
裏手側からも。
古地図に描かれた欣浄寺の大きさと周辺の通りの位置関係を比較しても、規模はほぼ一致するように思います。
そして偶然か、何か(誰か)の意思が介在したものか…、寺域と推定したすぐ裏手には石碑も建っていました。。。「戊辰役戦場址」
次は妙教寺に向かいます。その道すがら。サイガさんによると、淀古城のお堀の名残だそうです。
妙教寺
ちなみに妙教寺と先ほどの欣浄寺との位置関係。
(「唐人雁木」とかかれている部分も一応チェックしておいてください)
妙教寺境内にあった「淀古城祉/戊辰役砲弾貫通跡」の石碑。
…ん?貫通?!
こちらの石碑の文字は榎本武揚の筆。
ところでこの時、サイガさんがお寺の奥様に何事か交渉していると思ったら、普段非公開の本堂の中を見せていただけるという。
そう、先ほどの石碑にもありました通り、この妙教寺、戊辰戦争で砲弾の直撃を受けているのです!
その砲弾が飛び込んで来た穴。「東軍」とあるから旧幕府軍が放った砲弾ですね。
アップで♪(写真提供:寺旅人さん)
ここから本堂に飛び込んで来た砲弾は、、、
あの柱をも貫通し…
この柱ですよ。
あの色が変わっている部分の板戸を抜けて着弾したそうです。すご…
更に、我々が熱心に見学している様子を見ていた奥様から信じられないお言葉が!
「砲弾も見たいですか?」
え!?…いいんですか?勿論!!
これが実際に飛んで来た砲弾、そして当時の住職が書き残していた記録。。。
「これは滅多なことではお見せしないんだけど、本当に好きそうだったからね」と奥様。ありがとうございます!震えるほどに感動しました。。。
なお、永倉新八の手記に「淀小橋付近で大砲を一門見付け、それを追い縋る薩摩軍に向けて発射した」といったことが書かれているので、或いはこの砲弾、その時の永倉が放ったものかもしれないのです…。
※砲弾の実物ですっかりテンションが上がったサイガさん。なんとこの時、空は晴れているのに雨がザーッと降ってくるという珍現象が!?w
御本人ももはや、すっかり呆れ顔でした(笑)
妙教寺の近くを通る1本道で駅方面へ引き返します。
淀古城の虎口の名残と思われる場所。
その道を更に進み、「納所」交差点へ繋がる大通りにぶつかった辺りにある「唐人雁木」の石碑。
古地図に描かれた場所とも完全に一致します。ますます欣浄寺の推定地が「確信」へ…。
※唐人雁木とは?→「京都観光Navi」さんのHPへ(他サイト)
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000036
旅もいよいよ大詰め、最後の目的地です。淀城。
天守台内部?
淀城から見える山崎合戦の地、天王山。いつかあそこにも…。
さ、これにて2泊3日の京都の旅も終了です。
この後、参加者たちとはそれぞれの行き先に向けて別れ、私は真っ直ぐ京都駅へ。予め予約していた新幹線の時間までだいぶ余ってしまったので、駅で夕食を摂りながらまったりと過ごして東京への帰路に就きました。
主催のサイガさんを初め、オフ会初日、2日目、池田屋での懇親会に参加された皆様、本当にありがとうございました。
そして、この長々としたブログも最後までお付き合いくださった皆様も。
次はいつ、どこに現れるとしましょうか…(笑)
END
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