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2013年2月

2013年2月24日 (日)

浄福寺城

本日は地元・八王子にある浄福寺城へ行ってきました。

浄福寺城という城名、実は山麓に建つ浄福寺から名を取って便宜上そう呼ばれているに過ぎません。
八王子城築城後はその出城として改修・利用されたでしょうが、武蔵と甲斐を結ぶ交通の要衝「案下通」(陣馬街道)を押さえる立地、且つこの近辺に、大石氏の由井本郷(弐分方、壱分方、他)があったと考えられることから、それ以前は大石氏の本城で古史料にもその名が散見される「由井城」だったのではないかとの説もあります。
大石氏を継承する北条氏照も養子入り後、まずは由井こ入っています。この時点での北条家の仮想敵国は甲斐の武田家
その後の甲相駿三国同盟締結による武田家との緊張緩和、及び永禄4年の上杉謙信による越山・小田原攻めでは平の渡しから多摩川を越えて南下されたことなどを受け、平の渡し、及びそれに続く小田原へと至る幹線路を押さえる地に滝山城を築き、本拠を移したものと考えられます。
その後の武田家との手切れ&越相同盟の締結、甲相同盟、御館の乱以後の徳川・織田との接近、etc...と外交状況が複雑に流れていく中で再び警戒の目を西(上方、豊臣か)へ向け、八王子城の築城・本拠移転へと繋がっていきました。

何はともあれ、探索スタートです♪
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麓の浄福寺。駐車場をお借りしたので、きちんとお参りもしますw

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恐らく往時には居館が置かれていたのではないでしょうか。

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ちなみに浄福寺城とはこんなお城(現地案内板より)
…だいぶ色が剥がれ落ちていて補正してもこれがやっとでしたが、他に使える図面もないので仕方がない。浄福寺の脇からスタートして、水色のラインに沿って進みます。

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墓地の西隅に建つ白山大権現の脇から登城スタートです。
※初め私は浄福寺本堂の真裏から分け入ったのですが、すぐに道が途絶えて暫し立ち往生…。これから登城される方はご注意を(笑)

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暫くはクネクネとしたつづら折りの山道を登り…

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すぐに観音堂(図面a)に到着。ここまでは比較的楽な登りです。ここまでは、ね…(^_^;)

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観音堂の背後から更に登り始めてすぐ、図面bの位置に穿たれた竪堀。なかなかの規模でした。

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延々と急勾配な直登の道を行きます…。
写真では分かり辛いですけど目の前に崖が聳え立ったような、本当に滑り台のような勾配ですよ!

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やっとの思いで辿り着いた主郭部(図面Ⅰ)の虎口(内側から)

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山上では一番広い曲輪Ⅰ。この規模からしても、やはり平時の居館は麓にあったのでしょう。

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Ⅰの曲輪脇をいきなりザックリと断ち切った堀切(図面c)
ここから尾根伝いに更に北へ向かいます。

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cの位置から右手(東)にも尾根伝いに曲輪が配置されていて、何本もの竪堀が確認されているようだが…藪っていてパッと見には曲輪自体が分からなかった…。今日は心細い単独行動なのでトライしません(笑)

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尾根伝いには何本もの堀切が連続して現れます(写真は図面d)。
おぉ…!と感動していたら…

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すぐにもっと大きな規模の堀切が!(図面dの少し北側に描かれた堀切)

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その堀底から。

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そして図面eの部分にある2本の連続した堀切。規模も大きいし、結構圧倒されます。

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特に2本目は深さも見事!

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畝状に築かれた土塁(図面f)

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深さはそれ程ないけど、しっかり形状は留めています。
左上にはeの堀切(2本目)も見えています♪

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同じ場所から東側には、更に段丘状の曲輪が配されていました。
この周辺はもう楽しくて、時の経つのを忘れます!(笑)

今回はここまでで引き上げ。帰りは急勾配の坂道を、文字通り“転げ落ちるように”下山したのでアッという間でした(笑)

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麓付近から見た八王子城遠景。
この浄福寺城、最終的には彼の城の出城的な役割を担ったことでしょう。

まだまだ歴史的には謎の多い浄福寺城。
しかし今日訪れてみて、個人的には八王子にあるお薦めのお城ナンバー3にランクインしました♪

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2013年2月23日 (土)

高幡不動尊 (高幡城祉も)

今日はフラッと高幡不動尊へ出掛けてきました。
朝9時過ぎに到着したので駐車場も空いていてラッキー♪

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まずはこの方にご挨拶☆
土方歳三の銅像と、近藤・土方の顕彰碑「殉節両雄之碑」(右)

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「殉節両雄之碑」
上部の篆額(てんがく)は松平容保、碑文は松本順(良順)の筆による。

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重要文化財の仁王門

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同じく重文の不動堂と五重塔

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そして今回訪れた一番の目的はこちら、奥殿。
平安時代に作られた巨像「丈六不動三尊」(11世紀/木像/重要文化財)を初め、数々の貴重な寺宝を拝観できます。

・土方歳三隊旗「東照大権現」幟
・歳三書簡
・徳川慶喜・松本良順・勝海舟・榎本武揚・大鳥圭介らの書軸
・山岡鉄舟の屏風
・会津松平家13代目の御当主から贈られた伝来の家宝
etc...

もう堪らん!状態(笑) これで300円はお得!訪れたら必見です。

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総本堂「大日堂」
「鳴り龍天井」で有名ですが、近藤・土方の位牌もこちらで拝観できます。

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大日堂の脇にこんな看板があったので、墓地にも行ってみた。。。

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こんなエピソード、知らなかった…。

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そのお墓。

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さて、そのまま裏山?に登って、高幡城祉へ。

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ここが本丸、、、っぽい。
何の予備知識も縄張図もなかったので、遺構は殆ど分かりませんでした(^_^;)

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高幡城祉から見た日野の眺め。土方歳三の故郷・石田村も丁度この中央辺りです(GPS確認済み)。

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城祉は現在「山内八十八ヶ所巡拝コース」になっており、そこかしこにお地蔵さんの姿が。
この辺りも帯曲輪に見えなくもないが…。

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下山途中に見かけたポイント。大きな切岸と竪堀のように見えたが、これ以上近付けなかったので確認出来ず…。

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こちらのパンフレット、「殉節両雄之碑」碑文の意訳や、歳三書簡の解説などが載っていて参考になります。新選組に興味のある方は是非。売店などで200円で販売されています。

ではでは、今回はこの辺で。

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2013年2月17日 (日)

京都の旅 3日目④鳥羽伏見の戦い‐淀城外戦闘編

鳥羽伏見での戦闘に敗れた旧幕府軍の敗残兵は現職の老中、稲葉正邦の淀城へと逃れようとこの地にやって来ます…が、新政府軍と戦う意思のない淀藩によって入城を拒否されてしまうのです。
(この時、藩主・正邦は江戸に居り、藩主不在の中での決定であったという…)
入城を拒否された旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退しますが、この戦闘の最中、新選組六番組隊長・井上源三郎が戦死します。。。

どうしても淀に来たかった理由、それがこの井上源三郎だったのです。
この戦闘に従軍していた源三郎(以降「源さん」)の甥・泰助は後年、以下のような証言をしています。

「戦死した叔父(源さん)の首だけでも持ち帰ろうとしたが叶わず、撤退の最中、近くに実家(日野)の目の前にある寺と同名の寺があるのを知り、そこの門前に埋葬した」

その寺の名前とは「欣浄寺」です。
この辺りのことは以前、私の地元でもある日野の新選組史跡巡りをした際の記事にも載せましたので、御参考までに。日野の欣浄寺も写真を上げています。

※なお、後にこの泰助の証言は
・(淀の)欣浄寺がすぐに廃寺になっていたこと
・泰助の息子の嫁・ケイが周囲に「欣浄寺」と伝えた際、「それはケイさんの家の前にあるお寺じゃないか。老齢でボケてしまったのだろう…」と判断され、記録から「欣浄寺」という寺名が抹消されてしまっていたこと
などがあり、実際の埋葬地がどこななのか、長く判明しませんでした。ところが近年、偶然にも淀の古図に「欣浄寺」が描かれていることに気付き、ケイさんの証言は間違っていなかったんだ!と判断されたのだそうです。


今回はその埋葬地を探してみたかったのです。

※後日、以下にご紹介する欣浄寺跡地の位置が間違っていたことを知り、改めて再検証しました。その様子、欣浄寺跡地の正しい位置についてはコチラ の記事をご参照ください。
まだまだ未熟者、お詫び申し上げます。(2014年2月追記)

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という訳で淀に到着。そうか、淀だもんね。京都競馬場。初めて見た。

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こちらが淀城下の古地図(淀城跡設置の説明板より)。
今回も本能寺跡地の時同様の手法で印を入れて進めていきます。赤い矢印部分が欣浄寺。

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欣浄寺の辺りをアップで。ここでは「納所」という地名と、青い丸で囲った地点を覚えておいてください。

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古地図上に引いた赤・緑・水色の各ラインの道と、青い丸の交差点を現在の地図に当て嵌めるとこのようになります。
※淀駅の周辺地図より。古地図との対比の便宜上、上下逆さに掲載しています。

ここから推定した欣浄寺の跡地は、位置関係から赤い矢印の区画ではないかと推定しました。
では早速ウォーキング。

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まずは青い丸の交差点。その名も「納所」!

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納所交差点の様子。古地図からも分かる通り、欣浄寺は緑のラインの通り沿いなので、そちらへ進みます。

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先ほどの欣浄寺がアップになった古地図を見て頂くと、緑ラインの通りから欣浄寺まで細い路地の様な線が描かれているのが見えると思います(ピンクの印をつけてあります)。
それがこの路地ではないかと…つまり、この先が欣浄寺の寺域。

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寺域側から路地を。
もしここが本当に欣浄寺があった場所だとしたら、門は当然、通りに面した側にあったでしょう。。。つまりこの辺り。
そして「欣浄寺の門前に埋葬」された源さんの御首、その埋葬地もまさにこの辺りではないかと推定しました。

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先ほどの門があった(であろう)場所から右側を見た様子。

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同じく左側。それぞれ水色のラインに沿った場所が寺域だったのではないかと。

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裏手側からも。
古地図に描かれた欣浄寺の大きさと周辺の通りの位置関係を比較しても、規模はほぼ一致するように思います。

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そして偶然か、何か(誰か)の意思が介在したものか…、寺域と推定したすぐ裏手には石碑も建っていました。。。「戊辰役戦場址」

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次は妙教寺に向かいます。その道すがら。サイガさんによると、淀古城のお堀の名残だそうです。

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妙教寺

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ちなみに妙教寺と先ほどの欣浄寺との位置関係。
(「唐人雁木」とかかれている部分も一応チェックしておいてください)

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妙教寺境内にあった「淀古城祉/戊辰役砲弾貫通跡」の石碑。
…ん?貫通?!

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こちらの石碑の文字は榎本武揚の筆。

ところでこの時、サイガさんがお寺の奥様に何事か交渉していると思ったら、普段非公開の本堂の中を見せていただけるという。

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そう、先ほどの石碑にもありました通り、この妙教寺、戊辰戦争で砲弾の直撃を受けているのです!
その砲弾が飛び込んで来た穴。「東軍」とあるから旧幕府軍が放った砲弾ですね。

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アップで♪(写真提供:寺旅人さん)
ここから本堂に飛び込んで来た砲弾は、、、

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あの柱をも貫通し…

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この柱ですよ。

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あの色が変わっている部分の板戸を抜けて着弾したそうです。すご…

更に、我々が熱心に見学している様子を見ていた奥様から信じられないお言葉が!
「砲弾も見たいですか?」
え!?…いいんですか?勿論!!

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これが実際に飛んで来た砲弾、そして当時の住職が書き残していた記録。。。
「これは滅多なことではお見せしないんだけど、本当に好きそうだったからね」と奥様。ありがとうございます!震えるほどに感動しました。。。
なお、永倉新八の手記に「淀小橋付近で大砲を一門見付け、それを追い縋る薩摩軍に向けて発射した」といったことが書かれているので、或いはこの砲弾、その時の永倉が放ったものかもしれないのです…。

※砲弾の実物ですっかりテンションが上がったサイガさん。なんとこの時、空は晴れているのに雨がザーッと降ってくるという珍現象が!?w
御本人ももはや、すっかり呆れ顔でした(笑)

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妙教寺の近くを通る1本道で駅方面へ引き返します。
淀古城の虎口の名残と思われる場所。

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その道を更に進み、「納所」交差点へ繋がる大通りにぶつかった辺りにある「唐人雁木」の石碑。
古地図に描かれた場所とも完全に一致します。ますます欣浄寺の推定地が「確信」へ…。

※唐人雁木とは?→「京都観光Navi」さんのHPへ(他サイト)
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000036

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旅もいよいよ大詰め、最後の目的地です。淀城。

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天守台内部?

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淀城から見える山崎合戦の地、天王山。いつかあそこにも…。

さ、これにて2泊3日の京都の旅も終了です。
この後、参加者たちとはそれぞれの行き先に向けて別れ、私は真っ直ぐ京都駅へ。予め予約していた新幹線の時間までだいぶ余ってしまったので、駅で夕食を摂りながらまったりと過ごして東京への帰路に就きました。

主催のサイガさんを初め、オフ会初日、2日目、池田屋での懇親会に参加された皆様、本当にありがとうございました。
そして、この長々としたブログも最後までお付き合いくださった皆様も。

次はいつ、どこに現れるとしましょうか…(笑)
END

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京都の旅 3日目③寺田屋‐鳥羽伏見の戦い番外編

伏見戦闘編でも触れましたが、伏見奉行所見学の後、寺田屋にも立ち寄らせていただきました♪

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十石舟が賑やかに行き交ったであろう川の畔を進み…

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寺田屋に到着~♪

※2~3年前、実はこの寺田屋が鳥羽伏見の戦いの兵火で焼失していることが判明しました。従って、現在残るこの建物は龍馬で有名な寺田屋事件や、薩摩藩士たちによる同士討ちとなった寺田屋騒動の時からの現存ではありません。
それを踏まえた上で、しかし忠実に再現されている(同じように建て直された)と信じて話を進めます。
(実は敷地も当時は現在の建物の東隣にあったそうですが…)

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龍馬の部屋。
伏見奉行所の獲り方の襲撃を受けた龍馬、最終的にあの窓から飛び降りたのか…。

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刀痕…再建とするとこれは一体?w

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龍馬が放ったスミス&ウェッソンの弾痕…?ま、いいやww

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獲り方に包囲されたことをいち早く察したお龍は風呂から上がり、この階段を駆け上がって龍馬に急を知らせた。

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そのお風呂。「裸のお龍さんで有名なお風呂です」って…(笑)

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こちらは寺田屋騒動の現場となった部屋。

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いまや観光地で人も多いですが、、、結構楽しめました♪

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伏見は名水でも有名。寺田屋の近くにもこんな場所が。

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土佐藩邸跡の碑。こちらも寺田屋のすぐ近くです。
しかし脱藩の身であった龍馬、彼が寺田屋事件で襲撃を受けた際に庇護を求めた先は、薩摩藩邸であった…。

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なかなかいい風情ですね♪

さ、次は本編に戻って「淀城外戦闘編」です。
個人的には3日目の中で最も力が入る記事になりそうですよ♪
(つづく…)

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京都の旅 3日目②鳥羽伏見の戦い‐伏見戦闘編

竹田駅から近鉄線で、今度は伏見御陵前まで移動します。

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駅すぐ近く、料亭「魚三楼」(うおさぶろう)に残る弾痕に釘づけの参加者達♪

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その弾痕。どちらから飛んできたか、一目瞭然ですね!

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このほんの僅かな部分だけでも二発当たっている…。戦闘の激しさが偲ばれます。

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これからも大事に後世へ残していって欲しいと切に願います。

この後は近くのお店で昼食。Twitterでは写メを載せましたが、700円の天麩羅御膳、美味しかったな~♪

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新政府軍(薩摩)が陣を布いた御香宮神社。大砲を四門据えたそうです。
ここから新選組らが立て篭もる伏見奉行所にも砲撃を加えました。
後年、新選組二番組隊長・永倉新八が「御香宮の敵陣に突撃した」と証言しているそうですが、果たして…。
(島田魁が永倉を鉄砲で塀の上に引き上げて助けたエピソードも、ここでの戦闘の折のものですね)

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ちなみに御香宮神社の表門は、伏見城大手門の移築!

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境内には伏見城の石垣の石も…。

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拝殿

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「伏見の戦跡」

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石碑横の説明板はなんと、佐藤栄作(元総理)著!

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御香宮神社を出て、次は伏見奉行所跡を目指します。
向かうにつれて下っていくこの高低差。兵器の性能の差などもあったのでしょうが、後手を踏んで有利な高所を押さえられたことも、旧幕府軍敗退の大きな要因になったのでしょう。

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伏見奉行所跡。土方歳三もここで戦いました。

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とても安っぽい作りだけど…(^_^;) 設置されたこの「っぽい」塀が続く辺り一帯が伏見奉行所の敷地だったようです。
それにしても団地の側壁…(笑)

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奉行所跡近くの中学校敷地内にあった石碑。「維新戦」…( -_-)

この後、私のリクエストで寺田屋にも立ち寄ってもらったのですが、そちらは追って「番外編」としてUPするとして、ここでは伏見戦闘跡地巡りを続けます。

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お次は龍雲寺(桃山善光寺)!

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こちらのお寺、戦闘時には 薩摩軍の砲兵隊長・大山巌が陣を布いて、伏見奉行所などに砲撃を加えた場所です。

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…ちょちょ、寺さん?!(笑)
この後の顛末は…言うまい(^x^)

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龍雲寺から伏見奉行所(写真中央奥、煙突の様なものが見えている辺り)方面の眺め。
推定距離、約400m強。鳥羽戦闘編でも触れましたが、やはりこのくらいの距離が当時の砲撃戦の距離だったのでしょうね。
そして、ここでも旧幕府軍は高所を押さえられています。

さて、当初の予定ではこの後、伏見城に向かってから淀へ、という流れでしたが時間が押した為、伏見城か淀の二者択一に。
どうしても淀に行きたい理由があった私は、ここでも我儘を通していただき、伏見城はパスして淀へと向かうことになりました。皆さん、ありがとうございました。
(つづく…)

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京都の旅 3日目①鳥羽伏見の戦い‐鳥羽戦闘編

早いもので京都の旅も3日目、最終日です。
本日は幕末、慶応4年(1868)1月に起こった鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の緒戦)の跡地を巡ります。参加者は講師のサイガさんと寺さん、ririoさんに私の4名。

朝9:30、近鉄/烏丸線「竹田」駅にて集合。あとはひたすら歩きます。

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まずは寺さんの提案でこちらに立ち寄りました。安楽寿院。
白河天皇(白河院)が自らの院政の地として造営した鳥羽離宮が置かれていた場所で、この安楽寿院はその鳥羽離宮にあった仏堂が起源となっているそうです。

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在りし日の鳥羽離宮(復元案)
鳥羽伏見の戦いの頃の古図面を見る限り、幕末の頃には既にこの大きな池は埋め立てられています。

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白河法皇、鳥羽法皇 院政之地
一気に昨年の大河ドラマが蘇ってきましたねw 伊東さんに三上さん…

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こちらは鳥羽天皇陵…

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さて、城南宮までやってきました。
鳥羽伏見の戦い勃発時、新政府側の薩摩軍はここ城南宮から小枝橋にかけてのラインに陣を張って旧幕府軍と対峙しました。

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城南宮から小枝橋方面へ繋がる1本道。ここがまさに薩摩軍の前線ライン。
旧幕府軍は南(写真左)に展開します。

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現在の小枝橋。このクランクは虎口状を意識して当時からあったものか、それとも橋の架け替えで位置が変わった分のズレか…
直観的な印象としては後者。本来は道のどん突きから真っ直ぐに架けられていた橋を、架け替えの際に何らかの理由で現在の位置にずらした為に生じたクランクではないでしょうか。

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小枝橋の袂、「鳥羽伏見戦碑」

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小枝橋付近に現存する薩摩軍の砲台跡。

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その砲台跡の上から、旧幕府軍が対峙する赤池方面。
樹間からかすかに見えるK'sデンキの辺りが赤池。この距離で砲弾を撃ち込んでいました。

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砲台真横の道から赤池方面。真っ直ぐに開けているので距離感も分かり易い。
戦闘では砲撃戦を優位に進めた薩摩軍がこの後、旧幕府軍を後退させ、赤池辺りまで進軍しました。
という訳で我々も赤池へ向かいます。この際に歩測してみたのですが、距離に換算して約350m前後。この距離感が当時の砲撃戦の鍵となりそうです。

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「千本通赤池」交差点。
古図面によると、前進した薩摩軍はここにも大砲を据えて旧幕府軍を攻撃しました。
※著作権の関係で古図面を掲載できません。古図面を見ながらだと凄く分かり易いんですけどね~。

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交差点近くにあったお地蔵さん。
この台座…石臼でしょ?!w

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近年になって川の位置が変えられたのでしょうね、高瀬川の欄干跡。
この辺りでも桑名(旧幕府)と長州(新政府)らの戦闘がありました。

さて、この後は伏見戦闘地へ移動するため、再び竹田駅へ戻りました。
(つづく…)

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2013年2月16日 (土)

京都の旅 2日目⑥池田屋(飲み会ですw)

さ、この後はいよいよ懇親会(という名の飲み会)です♪
三条にある池田屋はなの舞店の前で、残念ながら明日香さんとはお別れ(一日ありがとうございました♪)、そして先ほど合流した寺さんに加え、さきさん・あっぴん。さん・恵美さんと合流!

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いざ、御用改めにござる!

※実際の池田屋とは少し場所がずれていて、本当は向かって左隣にある某スーパーの辺りにあったそうです(恵美さん・みかんさん談)

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池田屋と言ったら…この人たちではないと思うぞ?(^_^;)

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近藤局長らが駆け上がった階段?!(笑)

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こういうの嬉しいね、いちいちテンション上がる♪

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途中、恵美さんによる「岡山と新選組」(恵美さんは岡山からお越し)講義もありつつ、宴は2時間ほど続きました。

これにて京都の旅2日目も終了♪
3日目は鳥羽伏見の戦いの跡地を巡ります。
(3日目へつづく…)

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京都の旅 2日目⑤北野天満宮(御土居)

2日目の記事も五つめとなりました…(^_^;)

御所からもバスで移動、次なる目的地は、、、
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北野天満宮!

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豊臣秀吉が晩年に催した北野大茶会の舞台でもありますね♪
その石碑(奥)と「太閤井戸」。

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ぼちぼち梅の季節でもあります。
城ガール隊隊員からのリクエストで、この梅の前で暫し撮影会…(^_^;)

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境内になっていた蜜柑を欲しがるみかんさん之図(笑)
※その後、御本人により「これは蜜柑ではなく、金柑です」との訂正を頂きました。失礼いたしました☆(^_^;)

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そして秀吉によって築かれた御土居(堀底から見た図)。
京の都防衛のための巨大な堀と土塁で、洛中洛外を隔てていました。

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これは凄い!しんさんに教えていただいた、御土居の内側に溜まった水を抜くための排水溝。こんなのが残っているなんて…!

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ちょ、サイガさん?!…(笑)
排水溝の中がどこまで続いているのか、必死に調査されていましたwww

そして、サイガさんのテンションが上がるにつれ、空模様が怪しくなるという…(^_^;)
恐るべし!(Twitter仲間には周知の事実、サイガさん=雨男)

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その排水溝の中(撮影:サイガさん)
本当に真っ直ぐに伸びています!苦労されただけあって、見事な1枚!

御土居探索の後は暫し休憩所でお茶を頂き、再び移動開始。
天満宮前のバス停でバスを待っていたら、なんとこの後の飲み会から合流予定の寺旅人さん(以降、寺さんとお呼びします)と遭遇!
一緒に三条まで戻りました。

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京都の旅 2日目④蛤御門

さてさて、本能寺跡地巡りの後はバスで少し移動した後、喫茶店のようなお店に入り、ランチタイム♪
(使える写真がなかったので省略しますが…)

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堺滞在中の家康に本能寺の変の急報を届け、伊賀越えも助けた豪商・茶屋四郎次郎邸跡や、

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水戸藩邸跡の碑を見やりつつ…

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禁門の変の舞台、蛤御門に到着~!

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門柱には戦闘時の弾痕がハッキリと…

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しかし、少し上を見ると全くない。弾痕は人間の背丈くらいの高さまでしか確認できません。
これは当時の銃の精度からしても、それだけ至近距離での銃撃であったことを物語っているのだそうです。

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現在の御門から100m程内側に入った辺り。実は禁門の変当時、蛤御門はこの辺りに建っていたとか。向きも90度違ったそうです。

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京都御所。実はここも中まで来るの初めて(^_^;)

ここでも禁門の変の解説を初め、みかんさんが大活躍でしたね♪
とてもたくさんのことを教えていただきましたが、私の乏しい幕末知識が下地ではとてもまとめ切れません…(>_<)
だいぶ端折ってしまいますが、次へ。

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京都の旅 2日目③本能寺跡地

※本能寺の跡地については、この後に行われた発掘調査などを踏まえ、見解を改めております。
詳細につきましては、本記事下段に「追記」「改訂追記」として載せておりますので、是非最後までお読みください。

八木邸をあとにして、徒歩で本能寺跡地に向かいます。

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途中で目に止まった京都三名水の一つ「醒ヶ井の水」

ところで本能寺の跡地、現在の地図でいうとこういう位置になります。
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サイガさん配布の資料より(各印入れはしみず)
少しでも分かり易いように、これからご紹介する写真や模型にも該当ポイントを共通のカラーリングで印を入れました。
なお、南東の青い短い横ライン辺りから本能寺の堀跡が発掘されています。

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本能寺復元案模型(写真提供:サイガさん)
この写真の南正面案の他、東正面案など他の考察もあるようですが、ここでは南正面案を基に進めます。

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まずは寺域南東の角(地図a/水色ラインのポイント)からアプローチします。
角の部分で現在では道幅が半分に狭まっていますが、これは角から手前は堀を埋め立てて道とし、奥は宅地としたためです。従って、道幅の違いの分だけ堀幅があったことになります。

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「此附近 本能寺址」の碑(地図&模型の赤●ポイント)
この辺りが正門があった場所になります。

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正門跡から真っ直ぐ北上♪(地図&模型の黄緑ライン)

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地図&模型の赤い十字ポイントから東を見た様子。
bポイントのあのクランク…、あれは東門の虎口の名残じゃないの!?でなきゃ、こんな不自然に曲げる理由もないでしょ。。。これだけでメチャクチャ興奮しました♪

信長公が最期を遂げた御殿(御座所)は模型で言うと本堂のすぐ北東の茶色い屋根。ということは、赤い十字ポイントから更に少し北上した…

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この辺り、ちょうど皆が見ている右奥のグレーの建物辺りになるのではなかろうか。
ここで織田信長は…。一人、涙が出そうになっていたことを、今ここで初めてコッソリと告白しておく(^_^;)

一通り歩いてみた上での感想。
寺域であったであろうと思われる区画のラインや規模、その中央部分から東側虎口跡(と思われる)ポイントまでの距離、、、諸々条件を重ね合わせると、やはり「南正面案」が正しいのではないかと改めて思った。
まぁ、この辺り一帯を一斉に発掘できればいろんな真実が出てくるんだろうけどね。さすがにそんな無茶は今更ムリ…(笑)

さて、お次は…?w


以下追記

本能寺跡地の推定範囲について
Map
豊臣秀吉により、寺町の現在地へ移転される前の本能寺跡地について、従来からの説は;

東西:西洞院通~油小路/南北:錦小路通~六角通までの、南北に長い2街区(上地図「」範囲)

とされてきました。
これは江戸時代(宝暦3年/1753)に作成された古地図に拠っていたのですが、近年の発掘調査の結果、その中央を横断する蛸薬師通沿いから下京惣構の堀が発見されました。(同水色のライン
これによって本能寺跡地は蛸薬師通以北にあった(某老人福祉施設前に建てられている碑が実際の範囲から南へ外れているのもこのため)ことが確定し、現在では;

東西:西洞院通~油小路/南北:蛸薬師通~六角通までの約130m四方の1街区(同「」範囲)

とする説が最もポピュラーに紹介されています。
この当該1街区を天文14年(1545)に本能寺が、それまで所有していた土倉の沢村家から買い取った記録が残っていることも、この説を後押ししているようです。

しかし、戦国史研究家の藤井尚夫先生は著書「ドキュメント 信長の合戦」(学研)の中で;

・位置が1街区分南へずれてはいたが、宝暦3年段階では2街区分の広さがあったと想定されていこと
・僅か130m四方の1街区のみでは諸伽藍に加え、信長が自らのために築かせたと云う御殿(御座所)を配置するには手狭過ぎると思われること
・寺町に移転した本能寺の境内が2街区分あった(現在よりも広かった)こと

などの点を挙げ、実際の範囲を東西、及び南面は変わらないものの、北は三条通まで含めた2街(上地図で赤く塗った部分)だったのではないか、と推定されています。

土地買い付けの証文が1街区分しかないといっても、それは現在に残っている記録が沢村家から買い取った分だけ、ということであって、それ以外の部分は買っていないということにはならないでしょうし、私も現時点では藤井先生の説を支持したいと思います。


■以下2018年2月4日 改訂追記

最近、「六角通~三条通間の発掘調査の結果、寺の痕跡を思わせるものは出土せず、当該地は本能寺の変当時は畑だったことが判明した」との報道がありましたが、この件について先日、実際に調査に携わった藤井尚夫先生に直接お話しを伺う機会に恵まれました。

調査地(北側街区の西側、やや北寄り)からは確かに寺の痕跡は出ず、焼土層元治甲子戦争(禁門の変=1864年)の際のものしか出土しなかったそうです。
となると本能寺の変では燃えていないことになり、やはり変当時の本能寺は、おおよそ蛸薬師通~六角通(東西は西洞院通~油小路通)間の1街区の範囲に限られることになりそうです。
但し、「上杉本洛中洛外図屏風」を見ると、六角通は本能寺の東側で境内にぶつかって止まっているように描かれており、必ずしも六角通が北限ではなく、地形観察や、西洞院通~油小路通の間に小川通という通りがあることから、六角通のやや北側に川が流れていた可能性があり、その辺りまでが本能寺の境内だったのでは?とのことでした。
確かに「上杉本洛中洛外図屏風」にも、本能寺の北側に川のようなものが描かれています。

また、寺の向きについても、洛中の寺院は基本的に御所へ背を向けないように建てられており(南を守護する東寺と、平安京ができる以前からあった六角堂は例外)、御所の南西にあった本能寺は東向きに建てられていたのではないか、とのことでした。
事実、焼けた瓦などは西側から集中して出土している(つまり、境内の「奥側」にあったであろう本堂や御殿は西側にあったと推測される)そうですし、明智の手勢に加わっていた本城惣右衛門も、その覚書の中で;

(本能寺の)南の堀際を東向きに進み、本道(現在の西洞院通か)に出て橋の際(当時、西洞院通には川が流れていた)にいた人の首を獲り、門が開いていたので首を持ったまま中へ入った。

といった趣旨のことを述べていますので、西洞院通のある東側に門があった可能性は高そうです。

(天正8年)二月廿六日、本能寺へ御座を居ゑらるべきの旨にて、御成りあつて、御普請の様子、村井春長軒に仰せ付けらる。
(信長公記 巻十三「播州三木落居の事」より抜粋)

天正8年(1580)、本能寺に築かせた信長の御殿。
最終的にその御殿の納戸で最期を迎えることになるのですが、本能寺の境内がおよそ120m四方しかなかったとなると、御殿の規模も思いの外、信長の権力に比して小さなものだったのかもしれませんね。

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京都の旅 2日目②前川邸&八木邸(オフ会スタート)

午前10時、京都駅前バスチケットセンターにて集合!
今回の参加者はサイガさん、しんさん、ririoさん、海姫さん、みかんさん、明日香さん、私の7名。まずはバスに乗って新選組が屯所にした前川邸、八木邸へ向かいます。

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前川邸

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山南敬助が切腹前、島原の天神・明里との別れを惜しんだ出窓があった辺り。

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土方歳三が捕らえた古高俊太郎を逆さ吊りにして拷問にかけた蔵2階の窓(左奥)。
ここから池田屋騒動へと発展していく。

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すぐお隣には八木邸。
後ろ姿はしんさんと海姫さん♪

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邸内撮影禁止なので写真はありませんが、みかんさんのガイドのお陰で芹沢鴨暗殺現場の刀傷や鴨の血天井、躓いた文机などもしっかり観れました♪

休憩所で抹茶と屯所餅を頂いた後、徒歩で次の目的地へ移動します。
※休憩所のおばちゃんの態度のでかさ、あれはいただけないな。一瞬イラッと来た。一人だったら文句言ってたな(苦笑)
(つづく…)

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京都の旅 2日目①朝の散歩

2日目。ここからは細切れに更新していきます…(^_^;)
まずはオフ会集合時間までの朝の散歩から。

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地下鉄「二条城前」駅にて。なんかいろいろ展示していました。

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地下鉄の階段…ホンマかい?!(笑)

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さて…まずはこちら、“今の”本能寺。

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オフ会でこの後、実際に本能寺の変が起きた跡地を巡りますが、まずは信長公の廟所にお参り。

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本能寺境内

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信長公廟

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例え遺骸は埋葬されていなくとも、長い年月、信長公を祀ってきた人々の「念」が込められた場所には違いない。やっと来れました。。。

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信長公のお墓の左隣には、本能寺の変で散った人々の合祀墓。

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手前(下段)から、徳川家重(九代将軍)夫人の供養塔、管中納言局庸子の石塔、島津義久夫人の石塔。
何故この序列になったのかは疑問。。。

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本能寺からは徒歩で三条大橋へ。偶然に通りかかった今晩の宴会場(笑)

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三条大橋の袂、弥次喜多像w
「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)の中で2人は、この三条大橋近くの宿に泊まり、梯子を買わされる羽目に陥っています(笑)

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三条大橋の擬宝殊に残された刀傷。
現地説明板では「池田屋騒動の時に付けられたものでは?」とありましたが、果たしてどうでしょうか…。さすがにいつの時代、どの瞬間に付けられたものかは特定できないと思います。

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三条大橋
この後、再び京阪電鉄で移動します。

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以前から一度来てみたかった三十三間堂。

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…またかよ。
webで調べたら午前8時から開いている(この時点で8:20くらい)と書いてあったから来たのに…。冬期は9時からなんだそうです。だったらちゃんとそう書いておいてよ。

集合時間の10時まではまだだいぶあったので、再びバスに乗ってダメ元で西本願寺へ行ってみた。今回のオフ会、懇親会場を「池田屋」に定めた瞬間からウェートが新選組にシフトしていったので…(笑)

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…だから、ここはダメ元で来たからいいんだって!ww
はい、やはり入れませんでした(笑)

さて、まだ時間もあるし、のんびり歩いて京都駅に向かいますかね。
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集合場所の京都駅前に到着~

さ、いよいよオフ会が始まりますよ~!
(つづく…)

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京都の旅 初日②妙心寺~二条城

金閣寺の後はバスと徒歩で移動…

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妙心寺へ♪

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手前から仏殿→法堂→大方丈。

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「明智風呂」
1587年頃に作られたとのことですが、何故「明智」なのか、その由来は今一つはっきりしないようです。

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妙心寺を訪れた最大の目的はここ、春光院!…が、やはり拝観謝絶 orz

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この春光院には信長の時代、南蛮寺で使われていたという梵鐘が保存されているのです。これが観たかった…。
誇らしげ?に説明板を出すくらいなら、鐘だけでも見せてくれたらいいのに。。。

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気を取り直して…折角だから佐久間象山先生にもご挨拶していきますか。パンフレットによると特別公開中らしいし、大法院(松代藩主・真田信之の孫、長姫が開基)。

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……おいっ!
なんだよ、「拝観中止」って…orz 一気に疲れた。

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ずっと降ったり止んだりしていた風花が、この辺りで激しく舞い散るようになりました。。。写真でもはっきり分かるくらいに。

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再びバスで移動。何だかんだで来ちゃいました、二条城www

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二の丸の唐門は現在、修復工事中。

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二の丸御殿。しっかり大政奉還の現場なども見学して来ました♪
御殿内の見学ルート、実は450mもあるらしいですよ。

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二の丸から本丸への入口、本丸櫓門。
相変わらず、いつ見てもユニークな形♪

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天守台から本丸の様子。

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その天守台。

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だいぶ疲れてきたし、そろそろ空腹も限界。二条城、撤収~

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二条城の近くのラーメン屋で遅い昼食を頂いた後、ホテルにチェックイン。
今回の2泊のお宿はこちら「ANA CROWNE PLAZA HOTEL」。実は二条城(東側)の道路1本隔てたお隣なのです♪

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さすがにお隣なだけあって、ホテルロビーには「洛中洛外図屏風」のレプリカや、

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二条城の模型なども展示されていました♪

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夜のお散歩、二条城東大手門。ライトアップされていました。

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東南隅櫓。こちらはライトアップされていなくて実は真っ暗だったのですが、デジイチのお陰で撮影成功♪

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初日は拝観できない所が多く、望んでいた成果は上げられなかったけど、それでも巡り歩いているだけで心が酔える1200年の歴史の街・京都♪
楽しくて仕方ない☆

2日目へつづく…

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京都の旅 初日①大徳寺~金閣寺

とうとう京都オフ会の時がやってまいりました!
2月9日の初日はオフ会の為の前乗りで、お気楽な一人旅。完全に観光気分です(笑)

と言っても実は私、出張のついでで史跡を巡ったことはあっても本格的に京都を旅するのはこれが初めて(20年以上前に親と旅行したことはあるが、あの時はただついて回っただけだし)。
京都はそこかしこ街中「歴史」だらけで、どこから手を付けたらいいか考えが回らず、ずっと後回しにしていました…(^_^;)

そんな訳で今回も初日のルート決定までには紆余曲折があったのですが、今回のオフ会のキッカケが本能寺跡地巡りに端を発しているので、まずは大好きな信長公にも縁のある大徳寺へ向かうことにしました。


早朝に自宅を出て、東京駅から新幹線で京都へ。そこからは地下鉄烏丸線→北大路→バスと乗り継ぎ、午前11時前には目的の大徳寺に到着!

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ご覧になってもお分かりの通り、大徳寺境内には数多くの塔頭が建ち並びます。とても全てを巡ることは出来ませんので、この中から3つほどピックアップします。

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勅使門

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仏殿
前の晩に降ったという雪がまだ残っていました。

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石田三成の首が葬られたという三玄院。早速お参り…と思ったのですが、

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門柱に掲げられた「拝観謝絶」の札…。
ろくに下調べもせずに来たのがいけないのですが、折角の史跡も普段は公開されていなかったのですね…(T_T)

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そして、最も来たかった場所「総見院」
秀吉によって祀られた信長公の廟所があります…が、

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こちらも「拝観謝絶」。
特別公開されることとかってあるのかな~?あるのなら何としても駆けつけたい!!!

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高桐院。こちらは公開されています。

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雪の残る綺麗なお庭を拝しつつ…

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細川家廟所へ。
正面に見えているのが、細川三斎(忠興)・ガラシャ夫妻の墓所。

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細川家初代・幽斎(藤孝/正面)と歴代之墓。

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「袈裟形のおりつくばい」(浄水盤)
加藤清正が持ち帰った朝鮮王城羅生門の礎石で、三斎に贈られたもの。
三斎はとても気に入っていて、肥後⇔江戸間の参勤交代時にも持ち歩いていたというが…運ばされる家来からしたら、いい迷惑だよな(^_^;)

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書院 意北軒
千利休邸を移築したもので、襖絵は狩野永眞(探幽の弟)の筆。

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大徳寺をあとにして、次の目的地まで1.5km程の道のりをのんびり歩きます。途中で目にした大文字!

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およそ20分強で到着!

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屋根に雪を被った写真が撮れないかな~と思って寄ってみたんだけど…すっかり溶けちゃいましたね(笑) 逆さ金閣も辛うじて? 21年ぶりの再訪。

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なんか、「あぁ~京都に来た」って感じww

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陸舟の松
足利義満の盆栽を移して帆掛け舟の形に仕立てられたと伝わる松。

この後は妙心寺へ向かいます。
(つづく…)

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2013年2月12日 (火)

比企の城攻めオフ♪ ②小倉城・杉山城

比企の城攻めオフも後半…

■小倉城
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4城目は小倉城。こちらもれっきとした山城ですが、城域まで車で登れます。

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土塁を前にして…。サイガ先生も少々お疲れ気味?(笑)

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あ、ほらまた…(^_^;)

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本丸の石碑前で軍議中。。。

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主郭部へ続く尾根筋をザックリと絶ち切る堀切。私が立つ位置から対岸の天辺まで、本来は尾根道が続いていた筈です。この深さ!
あ…この写真のちょめさんは私がリクエストして立って貰いました(笑) 堀の深さが分かり易いでしょ?

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そして、小倉城のもう一つの見どころは石垣!
薄い石を平積みにしたような不思議な形状の石垣が、特に三ノ曲輪をぐるっと固めています。

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大きな竪堀が畝状に3本通っているポイント。写真だとあまりに分かり辛いですが…。
現地を訪れた際はお見逃しなく。

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関東の山城に残る石垣って、こういう細かい石で積まれたものが多い気がする。
…そもそも石垣自体が少ないけど(^_^;)

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このポイントから見る石垣は高さといい…いいね♪

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小倉城の石垣、形状などから察するに上方の影響とかではなく、当時から土止め(形状保全)の意味合いが強かったんじゃないかなぁ、と勝手に推測。岩盤の質の問題もあるだろうが積み方が全く違うし、あえてそれ以上の必然性も感じなかったので。

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岩盤をくり抜いたような堀切にて。
城ガール隊の面々は、岩盤の地質にまで興味津津?(笑)

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へぇ~ここから徒歩で青山砦までイケるんだ。

小倉城も曲輪や堀、土塁、そして石垣、、、良質な遺構がお出迎えしてくれました♪
ここもお薦め!

■杉山城
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本日最後は杉山城!
小倉城から一旦、菅谷館まで戻って全員の車をピックアップ。そこからは兎に角、日没との勝負!ww

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土塁を渡り来るあいすさんを横矢から攻撃!w

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どんどん日が暮れる。。。急げ!

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杉山城と言ったら、やはりこの眺め♪ 本郭から南面の大手口方面。
こうして郭の段々を見ると、如何にして敵の侵入に備えたかがよく分かるね。す、素晴らしい…

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本郭の石碑を前にして。
今回が山城初体験のtantanさんも興味深げに説明板でお勉強中~♪
(その向こうでさり気なく仁王立ちは…なっちさんwww)

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これは岸縁入路か、単に二重土塁か…?!
しかし、格好いいな。。。

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遺構の名称を云々する以前に、これはもう造形美♪

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本郭から見た東二、三の郭。こっちもいいな☆

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昨年4月に訪れた際は藪っていた北の郭群。今回は綺麗に刈り込まれていました。
こちらは北二と三の郭間を断ち切る堀。もうそろそろ暗さが限界(笑)

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最後に、井戸跡に集まる本日の参加者たち。

これにて比企の城攻め5城、終了です。この後は近くのファミレスで夕食を共にし、解散しました。
皆さん、本当にお疲れさまでした。なっちさん、サイガさん、お世話になりました。そしてTwitter、今回もいい出会いをありがとう♪

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比企の城攻めオフ♪ ①松山城・菅谷館・腰越城

2013年2月3日(日)、この日は埼玉県比企郡の城攻めオフ♪(幹事:なっちさん/講師:サイガさん)
参加者は前出のお二方に加え、あいすさん・さとみんさん・ロームさん・ちょめさん、そして初めまして♪のririoさん・tantanさんを加えた総勢9名(勿論、私を含む)。

※予めお断り→今回はオフ会の様子を簡単に紹介する感じで、城跡の詳細は特に掘り下げて載せておりません。悪しからずご了承を。

■松山城
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集合は吉見百穴前に午前9時。ところが高速が驚くほど空いていたので、私は何と8時には到着してしまった…。
早朝、まだオープン前の吉見百穴。

パラパラと集まりだした参加者達と談笑しつつ、電車組の到着を待って…

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いよいよオフ会スタート!
まずは吉見百穴のすぐ隣、武州松山城から♪

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岩室観音堂の真下から伸びる、岩盤をくり抜いた竪堀。
下山時はロームさんと2人、ここを下ってきましたが、かなりの急勾配!

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平山城とはいえ、そこそこ登ります。

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本丸に建つ石碑

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堀底に下りて見上げると…こちらを狙う敵兵が!?(ちょめさんですw)

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二ノ曲輪から南側を見た様子。岸縁入路状の土塁が何とも格好いい…

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ちなみに松山城とは、こんな感じのお城。
北西方向に最初に見た岩室観音堂から伸びる竪堀があり、我々は西側の斜面から登ってきました。

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…オイッ!(^_^;)
ホントにこの子(ちょめさん)ときたら…人が写真を撮ろうとするとワザと前を横切るし、土橋や土塁の上に立っていると後ろから突き落とそうとしてくれるし…困った子ですwww
きっとあれだな、今回はこばたかさんがいなかったからだな(笑)

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恒例の藪漕ぎ~
しかも松山城の藪には「イバラ」が多くて難渋しました。皆、傷だらけ!w

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三方向に伸びる土橋ヽ(^o^)丿
八王子の滝山城にも同じ形状のものがありますね。好きだな~こういうの♪

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屈折した空堀。美しい…

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三ノ曲輪(手前)と四ノ曲輪を繋ぐ土橋ヽ(^o^)丿

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堀底を分断するかのように伸びる土盛り(堀障子の原型?)に見入る参加者たち。

まだまだ、ここでは紹介しきれないくらい魅力的な遺構がふんだんに残る松山城。複雑な縄張をたっぷりと1時間30分ほどかけて堪能しました。

■菅谷館
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車で少し移動して、お次は菅谷館へ。こちらは整備が凄く行き届き、堀や土塁の形状を分かり易く見学できます。

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本丸をぐるりと囲む土塁

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「火」!?…水道だけに「昨日来やがれ!」ってこと?(笑)

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出枡形土塁

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畠山重忠の石像…傾いてワイヤーで吊るされてますww

菅谷館での滞在時間は1時間弱くらいでしたかね。勿論こちらもまだまだ沢山見どころがあるのですが、今回はデジイチを持参しておらず、スマホのみでの撮影だったのでロクな写真がない。。。
個人的には松山城共々、2度目の訪問で別の記事でも紹介しているので、そちらも合わせてご覧ください。

■腰越城
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菅谷館の駐車場にロームさんとあいすさんの車を置き、ここからは私となっちさんの2台で移動。
本日3城目は腰越城!こちらの登山道入口で記念写真を撮りました♪(さとみんさん、ちょめさん、写真ありがとうございました)

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しばらくは遺構もなく、ひたすら階段を上ります。。。

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10分ほど登って城域に辿り着くと、そこからはそれはもう見事な遺構が楽しめます♪
こちらは竪堀と横堀が交差している地点。なかなかないよね、こういうのも。

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写真で見てもハッキリ分かるくらいだから、実際に現地で見たら…分かるでしょ?山城経験者には!(笑)

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石積みを発見!しかもこれ、落ち葉に埋まっていますが斜面下に続く土塁状の側面全体に残っているのです。
後世に積まれた土止めとも思えるが、それならば何故ここだけ?という疑問も残るし…という訳で私(と、さとみんさんも?)の中では、こちらを「登り石垣」と勝手に認定♪(笑)

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腰越城本丸。

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結構登ってきただけに…この絶景!

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お!真面目にお勉強中のロームちゃん♪w

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…と、思い思いに本丸周辺を探索する面々。

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駐車場まで下山して見付けた看板。簡単な模型も置かれていました。

腰越城、初めて来ましたが結構楽しめますよ。
勾配はあるけど登山道も整備されているし、駐車場も完備。まだの方は是非♪

※後半へつづく。

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2013年2月 2日 (土)

満10歳の誕生日♪

2月2日は愛犬ボンのお誕生日!今年で満10歳になりました♪

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毎年恒例のボン専用お誕生日ケーキ作成中♪
待ち切れないこの目ヂカラ!(笑)

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…来たっ!
大好きなお芋さん(サツマイモ)とリンゴで作ったケーキ?を前に飛び掛かるの図(笑)

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もうイレコミが激しくて押さえるの大変!!(爆)

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与えてからは一瞬の出来事…(^_^;)

未だ右前脚の不安は付き纏うが、今年も無事に誕生日を迎えられてよかったね♪
いつも家族に笑顔と幸せをもたらしてくれて、ありがとう!これからも健康で仲良くしようね☆

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観泉寺 - 今川氏累代墓

西武新宿線「上井草」駅から徒歩でてくてくと…

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軽く1km以上ありましたね…現在地。
「今川」という地名だけでもうテンション上がる!(笑)

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想像以上に広大な敷地。土塀?が延々と続く…

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あれ?途中で一つ前の写真の場所と瓦の紋が変わった!

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という訳で今回は、こちらを目当てに観泉寺にやって来ました♪

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観泉寺山門

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山号は「宝珠山」(曹洞宗)

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観音堂

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本堂と境内

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墓地内にある「今川氏累代墓」

戦国時代、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた今川義元の子孫は、江戸時代には高家として幕府に仕えました。今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めました。
義元から三代目となる直房はこの観泉寺を今川家の菩提所とし、今川氏の始祖国氏や義元など今川一族の供養を行うようになりました。墓碑が残るのは義元の子氏眞以降の当主や一族出身の女性や子供などなど多岐にわたっています。
また、観泉寺は今川氏の所領支配の中心でもあり、年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。
この周辺の今川という地名も今川家と観泉寺とのかかわりに因むものです。
(東京都教育委員会)

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左から2つ目が今川氏真のお墓。累代の一族のお墓が敷地をぐるりと囲みます。

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辛うじて戒名も読み取れるかな?
「仙岩院殿豊山泰英大居士」(今川氏真)

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この観泉寺の境内、とても上品で静か、ゆったりとした時間が流れていて良かったです。
ここ最近訪れた豪徳寺や松陰神社などの中では一番好きかな。

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松陰神社(東京)

先日記事をUPした豪徳寺へ向かうために乗った世田谷線。
その車内で「どんな所を通るのかな~」と何気なく路線図を見ていたら…

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え、松陰神社?!
存在は知っていましたが、まだ詳細を調べてはいなかったので場所までは把握していませんでした。へぇ~ここにあったんだ…

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という訳で、来ちゃいました(笑)

吉田松陰刑死の4年後(文久3年)、門下生であった高杉晋作、伊藤博文らによって長州藩主の別邸があった当地に墓が改葬され、明治15年に松陰を祀る社を建立したのが始まりだそうです。

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松陰神社道の道標
旧大山道(矢倉沢往還。現在の世田谷通り)から松陰神社に至る道の入口に建てられていた道標。世田谷通りの拡張事業の際に境内に移設した。明治45年乃木希典公により寄進。
(現地案内板より)

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徳富蘇峰植樹の碑
徳富蘇峰(本名 猪一郎、徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本学校をへて、同志社に学ぶ。政治的には桂太郎と密接な関係を持った。
明治41年自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、碑を建立した。
(現地案内板より)

…ちなみに、どれが植樹された木なのかはよく分かりませんでした。
(同志社出身なので新島八重さんにも会ってるんですよね。確か八重のことを「ヌエのような女」とか何とか、酷くこき下ろしたようなことを言っていたような…。あれ確か蘇峰だったよな?)

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御社殿

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吉田松陰像

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山口県萩市の松陰神社に保存されている松下村塾を模したもの。

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五十年祭と百年祭の石碑。

境内には他に、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎・乃木希典・etc...錚々たる面々が奉納した32基の石灯籠などもありました(写真を撮り忘れた…orz)

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松陰先生他烈士墓所
手前の鳥居は木戸孝充寄進。

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そして、吉田松陰(寅次郎)墓

とても意外だったのだが、よくよく考えるとすぐ近く(ほぼお隣と言ってもいいくらい)には豪徳寺がある。そこに眠るのは…井伊直弼。そう、安政の大獄で松陰の処刑を命じた張本人。
何の因果か偶然か、すぐ近くに眠っていたんですねぇ…

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