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2013年5月

2013年5月29日 (水)

上野戦争の爪痕

【上野戦争】
徳川慶喜の謹慎・恭順を受けて新政府軍による江戸総攻撃は回避されたものの、抗戦派の旧幕臣や不満を募らせた慶喜の一橋藩主以来の家臣らは同志を募って彰義隊を結成する。
上野戦争とは、寛永寺に立て籠もったこの彰義隊と新政府軍との間で行われた戦闘で、戊辰戦争の一つに数えられる。慶應4年(1868)5月15日に開戦し、僅か1日で終結。彰義隊はほぼ壊滅した。
この時、新政府軍の指揮を執っていたのは大村益次郎で、彰義隊には新選組十番隊組長の原田左之助も加わっていたと云う(この戦闘での傷が元で死去したとも伝わる)。

という訳で、今回は上野戦争に関連する史跡をご紹介。

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江戸期の寛永寺の様子。上野公園展示パネルより。
ここが上野戦争の舞台となります。

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上野公園内に建つ彰義隊の墓。
実際には隊士たちの遺骸の火葬場となった場所だそうです。御遺骨の一部は円通寺に埋葬されています。

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「彰義隊奮戦之図」
奥に描かれているのは寛永寺の黒門(総門)だと思われますが、この形を覚えておいてください。

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有名な西郷どんの銅像が建つこの辺りも、彰義隊の砲撃場でした。
ちなみに新政府軍の本営は松坂屋辺り。そう、土方歳三も幼い頃に一時、奉公に出ていたと云うお店です。距離にして800mくらいでしょうか。

上野公園を離れて、お次は・・・

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日暮里駅近くにある経王寺へ。
上野戦争の時に彰義隊の敗走兵を匿ったため、新政府軍の攻撃を受けています。

その証拠に・・・
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その山門には現在も銃弾の痕が残されています。。。
こちらは向かって左側の扉。

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そして右側。。。さぞかし残党狩りは熾烈を極めたことでしょう。
現に開戦前から大村益次郎は彰義隊の敗走ルートまで想定し、事前に追討の兵を配備していたといいます。
その布陣を見た西郷隆盛が「皆殺しになさるおつもりですか?」と問うと、益次郎は事も無げに「そうです」と答えたとか・・・。


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更に場所を移動して、南千住の円通寺へ。
・・・それにしても、なんちゅーお寺(の建物)だ(^_^;)

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円通寺の境内には、寛永寺から移築された黒門(総門)が残されています。
先程の「彰義隊奮戦之図」に描かれていたものとソックリですね。

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その黒門に残された上野戦争での弾痕の数々…、この距離でもハッキリ見て取れます。。。

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本当に凄まじい数です。

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弾痕の形状からも、真正面からマトモに撃ち込まれていたことがよく分かります。

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彰義隊の墓。合葬墓です。ここでも「戦死墓」の三文字のみ。。。
会津・長命寺の記事参照

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「死節之墓」
鳥羽・伏見、会津、函館での戦死者の氏名を彫って供養していたものだそうです。中には土方歳三の名前も彫られているそうですが…さすがに見えませんでした。

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更に周囲には幕末の著名人達の供養・追悼碑が目白押しでした。
こちらは榎本武揚。

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蝦夷共和国で榎本に次ぐ副総裁を務めた松平太郎に・・・

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同じく蝦夷共和国の陸軍奉行、大鳥圭介・・・

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ちょっと分かり辛いけど・・・
函館で土方が戦死した際、一本木関門まで来て遺体を引き取り、五稜郭へ運んで埋葬したと云われる小柴長之助。土方歳三の遺体の行方、是非とも聞いてみたい。
彼は明治政府から釈放された後、ここ円通寺で墓守をしていました。

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中には新門辰五郎親分までw

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同じ境内には八幡太郎源義家が東北で討ち取った首を埋葬して供養したと伝わる「四十八首塚(小塚原)」や、徳川家光鷹見の松もありました。

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帰りに立ち寄った小塚原回向院。詳細は↑この写真で。

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正面奥が橋本佐内のお墓。
他にも吉田松陰、頼三樹三郎、鼠小僧らのお墓もありました…が、吉田松陰は後に松陰神社へ改葬されています。
鼠小僧のお墓は両国の回向院にもありましたが…。

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延命寺にも立ち寄り。「首切り地蔵」として有名な延命地蔵尊。彼の震災でこんなにズレてしまったのですね。。。しかし!

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今ではすっかり元通りに♪
ヨカッタヨカッタ♬

最後はちょっと駆け足になってしまいましたが…(^_^;)
また関連する史跡に足を運んだら記事を追加で上げていきます。


☆6月13日追記
また上野方面に行く用ができたので、、、

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寛永寺旧本坊表門
上野戦争での焼失を免れ、現在に至る貴重な遺構。ト―ハクの前身である帝国博物館の門として利用され、関東大震災後、現在の輪王殿に移築されました。
修復の手も入り、一見するととても綺麗なのですが・・・

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その門扉には砲弾や銃弾の痕がくっきりと・・・
この写真の中だけでも銃弾痕は3ヶ所、砲弾痕は言わずもがな。。。

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上野公園内、清水観音堂に掲げられる上野戦争図と使用された砲弾。
(2015年1月追加)

こうした歴史の記憶、しっかりと後世に受け継ぎたいですね。

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2013年5月26日 (日)

桂福寺&観栖寺

本日は地元、八王子市のお寺巡りをしてきました。
まずはこちら…

■桂福寺
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戸吹にある桂福寺へ。滝山街道沿いです。

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文政6年(1823)に建てられた鐘楼山門。その名の通り、山門の上に鐘楼を乗せた珍しい形をしています。
鐘も昭和18年までは元禄10年(1697)に鋳造されたものが現存していたそうですが…おそらくは戦争に供出されてしまったのでしょう・・・。

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でも桂福寺を訪れた一番の目的はこちら♪
天然理心流の開祖・近藤内蔵助と二代目・近藤三助の墓所です。

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「剣聖光武神」

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真ん中は昭和44年に建てられた2人の墓石で、向かって右が初代・内蔵助、左が二代目・三助の元々の墓石。

左の三助の墓石、継ぎ接ぎだらけなのがよく分かると思います。2人のお墓は元々、三助の実家・坂本家(戸吹村の名主。近藤家へは養子入り)の敷地内にありました。
そして慶応4年(1868)、天然理心流の四代目でもある新選組局長・近藤勇が新政府軍によって板橋で斬首されると、縁戚として咎められることを恐れた坂本家では2人の墓石を地中に埋めて隠したのです。

そして月日は流れ…昭和45年、滝山街道の拡張工事に伴って2人のお墓を桂福寺へ移すことになったので掘り返してみると…代々言い伝えられてきた通りにこの墓石が出てきたそうです!
初代・内蔵助の墓石は小さかったためにそのまま埋められていましたが、二代目・三助のものは大き過ぎたため、砕いてから埋められたようです。。。
幕末~明治にかけての激しい時代の片鱗がハッキリと見て取れました。

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昭和61年に奉納された天然理心流の奉額も。
今も脈々とその系譜は受け継がれています。


■観栖寺
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さて、お次は西寺方町にある観栖寺へ。
童謡「夕やけ小やけ」の作詞者・中村雨紅の歌碑。
「ふるさとはみな懐かしく温かし 今宵は聞かむ夕焼の鐘」

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観栖寺山門

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本堂
そうそう、境内に繋がれていたお寺で飼われている子犬に懐かれたので(^_^;)、しばらくかまってあげました(笑)

その後、目的のお墓を探してウロウロ…
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こんな可愛らしいお地蔵さんもいました。

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これが「夕焼の鐘」?

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こちらは俳人・熊澤兀雨のお墓。

そして案内板もなく、広大な墓地をあまりウロウロする訳にも行かず、諦めるか否かで葛藤しながらもネットを駆使してようやく訪ねあてたのが、こちら・・・

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新選組隊士で「戦友姿絵」や「中島登覚え書き」を書き残した中島登の両親や代々のお墓。登本人のお墓は浜松にあるそうです。

実は中島家、八王子千人同心の一つで観栖寺のすぐ近くに住んでいました。

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その「中島登出生之地」碑。観栖寺から数百mの距離で、今は古着屋さんの敷地になっています。


さて、以上で本日の行程は終了なのですが、帰りがけにチョット寄り道。
以前から車で甲州街道「追分町」交差点を通り掛かる度に「道標の石柱が見えないな~」と気になっていたので確認してみることに。
※追分の道標についてはコチラ(過去の記事)

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あぁ~やっぱり失くなってる!?
…堪らず目の前の交番でお巡りさんに事情を聞いてみました。すると…

この写真に写っている立体歩道橋を架け替えるそうで、そのために一時避難させているのだとか。工事が終われば元の場所に戻すとのことで一安心。

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確かに元の位置から10m程ズレた場所に健在でした(^_^;)
ヨカッタヨカッタ☆

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2013年5月19日 (日)

岩櫃城オフ♪

5月18日(土)、あいすさん主催の岩櫃城オフ会に参加致しました。
朝6:30、日野駅でnikkoさんと待ち合わせ、私の車でいざ群馬県へ!

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土曜の朝の関越道下りは多少混雑したものの、予定時刻より早く集合場所の高崎駅に到着。
ちなみに今回の参加者は;
主催のあいすさん・寺さん・なっちさん・nikkoさん・しろうさぎさん・ロームさん・上信古城探訪さん(以下:上信さん)・しみずの計8名。
予定通り全員揃ったところで岩櫃城に向けて出発!(上信さんとは現地待ち合わせ)

今回は現地ガイドの方がボランティアで城跡を案内してくださいました!
午前の部は岩櫃城のすぐ隣、同じく岩櫃山からの尾根続きに築かれた柳沢城(岩鼓の要害)に向かいます。立地からして、岩櫃城の出城でしょうか。

※お城の詳細はいずれ他の参加者が紹介してくれると思いますので、ここではオフ会の楽しい様子が少しでも伝われば、を主眼に置いて書き進めます。

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到着後、早速ここから藪に分け入り…
※ちなみ引き返してきた際、あいすさんはこの坂を転げ落ちて下の道路に前のめりにズッコケ、nikkoさんは着地の際に靴が破裂?するという惨事(珍事)に見舞われましたw
開始僅か5分の出来事。みんな、さすがに役者が違うな~ww

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なかなか見事な竪堀に遭遇♪

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登城路にある岩穴には見事なヒカリゴケ。ここまでハッキリと「光っている」のは初めて目にしました。

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こんなシダが密生する中を抜けて…

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曲輪跡や…

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竪堀も探索。しろうさぎさんが立っている位置が土橋で、左手のその他の参加者たちがいる場所は、1枚前の写真の曲輪。

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外曲輪と三の曲輪の間の堀。深さはあまりありませんが、山城にしては幅が広い印象。

外曲輪は柳沢城主郭部の最西部で、ここから東に向かって、三の曲輪→二の曲輪→一の曲(本丸)と続くのですが、この間のそれぞれの曲輪を分かつ堀の連続がまたエキサイティング!
少しでも雰囲気を伝えられないかと思い…

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無駄な努力と思いつつ、3枚の写真を並べてみた。完全手作り稚拙パノラマ(笑)
勿論形は歪んでいて正確ではありませんが、二の曲輪の南面に立つとこうして左右に2本の堀を視界に捉えることが出来ます。

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先程の稚拙パノラマの右手、二の曲輪(左)と一の曲輪を隔てる堀。綺麗な形で深さもなかなか。

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柳沢城山頂、櫓台からの眺め。

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下山途中。
岩の下に隠れたロームさんのトラップにまんまと嵌って驚くあいすさん。之図(笑)

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凄い規模の岩場の峡谷には、観音窟や胎内窟などが残り、かつて修験の場だったことが容易に想像できます。

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丸太(倒木)があれば渡るし、穴があったら入りたくなる性分なんだね、きっと☆
ちなみにこちらが胎内窟の入口。

※そうそう、ロームさんはこの後、実際に丸太を渡ろうとして乗った瞬間にボキッと折れてズッコケてましたww

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胎内窟。この二つの穴は岩の中で繋がっていて潜り抜けられるようになっています。

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みんなでお不動さんにお参り。

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不動の滝。その昔は、修験者達が滝行をしていたことでしょう。

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午前の部、最後の難関!
鎖を頼りに登りながらこの岩の中、狭い空洞を抜けるのです!見た目以上にハード!!

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抜けた先。。。あの穴から這い出て来ます(笑)

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そうそう、開始5分で破裂したnikkoさんの靴、柳沢城探索を経た後には…
ご覧の有様(笑)
※たまたま予備の靴をお持ちだったので、午後はちゃんと履き換えていました。

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昼食をいただく「コニファーいわびつ」へ。この階段部分も実は竪堀跡だったそうです。。。

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お昼は地元のブランド豚「大和豚」の丼♬
塩味でとっても美味でした。

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さぁ、午後はいよいよ岩櫃城(本城)を攻めます!
揺れる吊り橋にビビり、決して下を見ることが出来ずに恐々と橋の真ん中を渡る高所恐怖症が一人…w

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この竪堀もまた見事だなぁ~
あの先で右に折れてますよ☆

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こんな具合に。

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そして二重竪堀も☆
少しでも分かり易いように、二本の堀底を歩いて貰いました。

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早速主郭部へ。

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岩櫃城本丸の土塁上から。
右手が曲輪の削平地です。土塁の先、すこし右側にでっぱっているように見える部分が櫓台跡だそうです。言うなれば、岩櫃城の天守跡のようなもの?
とても広い曲輪でした。

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主郭東面下。笹藪が酷いですが…たまたま影がちょうど土塁や切岸を縁取ってくれました。

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過去最強の藪漕ぎだったかもしれん…(^_^;)
実はすぐ横に迂回ルートもあったらしく、そちらに回った参加者もいたのですが、城ガール隊員は全員こちらへ…恐るべし!

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何気なく歩く道も堀底道。右手の土塁がなかなかニクい☆

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ここは竪堀♪

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城主の屋敷跡ではないかと云われている「殿屋敷」は現在、果樹園に。

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岩櫃城、最後の城代・出浦対馬守の屋敷跡に残る石積み。

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天狗丸から仰ぎ見る岩櫃山。ちなみに岩櫃城は左手前の尾根上にあります。

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岩櫃神社裏の堀がまた見事なこと・・・

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少し車で移動して、岩櫃山の南側へ。

ここから次に向かう場所へは一般車が入れないくらい極端に狭い道になるため、ガイドの方にとある方法で運んで頂きました。

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どんな方法かは大人の事情?で詳しく書けませんが・・・
よっ!絵になるね~☆

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天正10年(1582)、織田連合軍による武田攻めを受け、遂に甲斐の国を支えられなくなった武田勝頼。その落ち延びる先は軍議の上、一旦は真田昌幸の岩櫃城と決する。
昌幸は勝頼を迎える為、僅か3日間という急ピッチで屋敷を築造します。それがこの潜龍院跡。今は石垣だけが残ります。
岩櫃山の中腹に確保された広い削平地、しかも麓からは視界に入り辛い絶好の立地条件だったようです。
しかし、勝頼は最後に方針を覆し、小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)へ向かい、そこで信茂の裏切りに遭い、最終的には田野で織田軍に追い詰められて自害して果てます。

この奥の竹藪には更に別の削平地があり、近くには歴代城主のお墓もあります。

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歴史のif
もし勝頼が予定通り岩櫃に来ていたなら、その後の歴史はどうなっていたのでしょうか。特にこの直後から策士ぶりを如何なく発揮して、「表裏比興の者」と評されることになる昌幸が如何に立ち回ったのか…興味は尽きません。

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更に移動して顕徳寺へ。
潜龍院に急造された勝頼のための御殿はその後、とある山伏に下賜されて護摩堂として移築され、一度は火災で失われたそうですがソックリ再建されて今はこの顕徳寺の本堂として使われているそうです。

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門前にあった勝軍地蔵。寺さんに教えていただきました。

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こちらがその本堂。

さて、これにて岩櫃城オフも無事に終了。踏破距離は約14km!その殆どが山道ですよ~。
ガイドさんと顕徳寺にてお別れし、一行は高崎駅へ。駅前のファミレスで食事して解散しました。

毎度毎度思うことだが、同じ趣味を共有する方々との城巡り、史跡巡りは掛け値なしに楽しい。その分、終わりは寂しいのですが、それが次への原動力になるのでしょうね☆
皆さん、今回もありがとうございました。特にあいすさんやガイドの方には素敵な資料もご用意いただいて、感謝です。また近いうちにご一緒しましょうね♪

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2013年5月12日 (日)

ひの新選組祭り 2013

この週末に開催された「ひの新選組祭り」
昨年は残念なこともありましたが、今年は無事に開催されることを祈りつつ…遠くからこの日の為に上京してきたみかんさんと、近くに住むnikkoさんとの3人で日野の新選組関連史跡巡りをしてきました☆

午前9:30、日野駅前で集合~!まず向かった先は八坂神社。

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境内で行われていた少年剣士たちの試合を眺めつつ…

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年二回しか公開されない「天然理心流奉納額」を拝観!
実は私も初めてでした。

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八坂神社からすぐ近くの宝泉寺で井上源三郎のお墓にお参りし…
※写真は顕彰碑

大昌寺に立ち寄って佐藤彦五郎さんのお墓にもお参りしました。

更に歩いて「新選組のふるさと歴史館」では、特別公開の;
「白虎隊自刃図」
近藤勇→宮川音五郎宛書状
沖田総司→宮川音五郎宛書状
などを見学し、洋装の土方に扮したnikkoさんの撮影会を催したりしながら…

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佐藤彦五郎新選組資料館へ。
ここでは;
土方歳三愛刀「備前康継」
土方が函館から市村鉄之助に持たせた自らの写真(有名な洋装座像)
近藤が彦五郎に持参した自らの写真
沖田総司→佐藤彦五郎宛書状
などを見学しました☆

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彦五郎資料館のすぐ近くにある、近藤が愛したという「ちばい」を見て…
(残念ながら混雑でお蕎麦は頂けませんでしたが)

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日野宿本陣へ。
※備忘録:市村鉄之助の命日は明治六年十一月十六日

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更に本陣前でパレードも!
今年の土方さんは女性になったんですね~

パレードの後は井上源三郎資料館へ。
ここでの特別公開は;
近藤が井上松五郎へ贈った「大和守源秀國」刀身!
いつも話の長いジイチャンに捕まって若干辟易しつつ…(苦笑)、何とか振り切って脱出(笑)

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次はモノレールで移動するので「甲州街道駅」まで歩いている道すがら。。。まぁ、柑橘類を見つけては黙っていませんはね(笑)

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モノレールを「万願寺駅」で降りて、土方歳三資料館へ。
物凄い混雑だったので、私は遠慮して一人外で待機。5月中は「和泉守兼定」の刀身を公開しています。

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そして、歳三が生まれた元の生家近くにある「とうかん森」(写真)や、石田寺にも足を伸ばして、お墓参り致しました。

ラストは再びモノレールに乗って高幡不動へ。
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参道で偶然再会した、今年の土方さん♪

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高幡不動尊境内の歳三銅像と「殉節両雄之碑」前にて。

奥殿の宝物館も見学し、この日の行程は無事に終了☆
高幡からはモノレールで立川まで戻り、解散しました。

nikkoさん、みかんさん、至らぬ道案内ではございましたが、本日は一日お付き合いいただき、ありがとうございました!
また是非お越しください♪

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2013年5月11日 (土)

雨中の鎌倉・・・

さてさて。本日は昨年7月の高尾山、9月の鎌倉に続く「職場の仲間で歩こう会」第三弾。今回の舞台も鎌倉です。

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午前11:30、北鎌倉駅で集合。すぐに近くの中華屋(何故かこの会の食事はいっつも中華ww)で昼食を済ませて…

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まず向かった先は東慶寺。
実は私、個人的にはこの東慶寺が今回の鎌倉歩きで一番楽しみにしていた場所。
その訳は後ほど…

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東慶寺本堂。きちんとお参りも済ませて…
目的の墓苑を彷徨うこと数分、ようやく訪ね当てたのがこちら…

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東慶寺第二十世、天秀尼のお墓。そう、豊臣秀頼の娘です。
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、天秀尼は秀頼の正室で家康の孫娘・千姫の助命嘆願もあり、命は助けられてこの寺に入ります。

東慶寺について;
現代とは違い、昔は女性の側から離縁することはできませんでした。しかし、その唯一の方法がこの寺に駆け込むことだったのです。以降、江戸期を通してこの東慶寺は「かけこみ寺」、「縁切寺」として有名になります。

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もう一つの目的がこちらの宝篋印塔。天秀尼のお墓のすぐ左横にあります。

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その碑銘を読み解くと;
「台月院殿明玉宗鑑大姉天秀和尚御局 正保二年乙酉九月二十三日」
と刻まれています。写真は「天秀和尚御局」の部分。
つまり天秀尼のお付きの女性のお墓、ってこと。このことから小田原の役の後に秀吉の側室とされ、後に秀頼やその娘である天秀尼の世話役になったとも云われている甲斐姫のものでは?と俄に注目されているお墓なのです。

正保二年ってことは1645年。小田原の役で忍城に籠った1590年時に甲斐姫が17~18歳だったとすると、享年72~73歳。充分に有り得る話ですね。

あ、ちなみに甲斐姫は映画「のぼうの城」にも出てくる忍城主・成田氏長の娘です。

事実がどうかは知る術もありませんが…歴史ロマンにほんのり触れられた気がして、、、至福の一時でした♪

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引き続き、てくてくと歩きます。建長寺の門前をスルーして…

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向かった先はここ、鶴岡八幡宮!
今回は正面ではなく、西側からお参りです。

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ちゃんとお参りするの、10年ぶりくらいだな~

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倒れてしまった大銀杏。

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参拝を済ませた後は再び歩きます。

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報国寺門前もスルーして、、、

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次はこの「巡礼古道」を進みます。

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大雨の中、こんな石段や…

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山道を進む一向…靴はもうドロドロ(^_^;)

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途中、こんな景色を眺めつつ…

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超~危険な断崖も渡り…

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ざっと3~40分は歩きましたかね、ようやく名越の切通しに到着☆

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そして、期間限定で臨時公開されている「まんだら堂やぐら群」へ。
ここは現在、年間でも50日程度しか公開されいていない貴重な遺跡。調査員の方がガイドしてくれます。

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中には意味不明なトンネルもあったりして…(笑)
でもガイドのオバチャンのお話はなかなか興味深かったですよ~。

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「まんだら堂」と言っても、お堂が残っている訳ではありません。では何故その名前が?というと…
資料で最初にその名が確認されるのは、秀吉による「太閤検地」。かの検地帳にこの地は;
「まんたらたう 下畠」
との記載が残っているそうです。そう、作物の成りの悪い(=下)畠=畑の地名として。検地の時点で既にこの地にお堂はなく、畑になっていました。しかし人々の記憶と口伝によって「まんだら堂」の名が地名として伝わっていたのではないか、と考えられています。

その証拠?に、写真手前の削平地からは建物の柱穴跡も発掘されています。これが「まんだら堂」の跡ではないか、と現在研究が進められているそうです。

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展望ポイントから

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再び切通しへ。こちらは「第一切通し」と呼ばれているポイント。
写真では伝わり辛いと思いますが…奥に見えている岩盤も含めて、全て切り通されています。凄い迫力!

そして、この写真の右からせり出している岩、その足元をよ~く見てみると…

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地面との間に隙間があり、「乗っかっている」だけなのが分かります。
実はこの切り通し、文献からは本来2.7mの幅があった筈なのです。ところが写真でも分かる通り、現在では狭い所で90cm程度。
更に、この隙間の下からは江戸期の陶器の欠片も発掘されているそうです。

これらのことから考え合わせると…何らかの理由でこの岩は江戸期以降、せり出してきて本来の通りを狭めてしまっていると考えられるのです。
これだけの岩を動かす理由、しかも江戸期の陶器が置かれた後、となるともう関東大震災しか考えられない、というのが現時点での専門家の見解だそうです。

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言われいてみれば岩の亀裂も確認出来ますね。
こんなエピソードはなかなか聞くチャンスもない。ラッキーでした♪

下山後はバスで逗子駅まで移動。飲み会へと移る一向と別れ、私は帰宅の途へと就きました。
鎌倉七ツ口と云われた切り通し、奥が深いです。これは何としても全て踏破しなくては!

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2013年5月 6日 (月)

会津の旅⑧ 猪苗代城(亀ヶ城)

さぁ、旅の行程もいよいよ大詰めです。
土津神社参拝後は駅との間にある猪苗代城址(亀ヶ城址公園)まで歩きました。

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ちょうど桜の時期と重なったため、駐車場はほぼ満車状態。

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猪苗代城とはこんなお城。
一国一城令の例外として江戸期を通して会津藩から城番が置かれ、会津若松城(鶴ヶ城)の東の守備を固めました。藩祖を祀る土津神社を守護する役割もあったのかもしれません。
他に例外としては仙台藩の白石城が有名ですね。

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上の図の「角櫓」と書かれた辺りから北を見た様子。
今は小学校の校庭になっていますが、お堀だった名残がはっきり見て取れますね。

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実はあまり期待していなかったのですが猪苗代城、土塁の残存状況がとても良かったです☆

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綺麗に整備されているから見落としがちだけど、こんな遺構がもし仮に藪の中に残っていたら、、、鼻血ものでしょ?!(笑)

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本丸に残る石垣と土塁

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本丸から望む、桜越しの磐梯山♪

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この土塁も何気にツボ(笑)
写真だと分かり辛かったのでラインを引きました。
時間があればもっとじっくり、それこそ綺麗に整備されていて見易いので縄張図作成の練習をしながら歩くのにいいお城だと思いました。

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麓?には村役人層の山内家住宅(移築現存)
記録によると1800年代初期に建てられたものだそうです。

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さ、では駅に戻りますか!道すがら、振り返れば磐梯山☆

ゆっくりと歩いて30分程で猪苗代駅まで戻れました。
帰りの電車まで駅前の食堂でソースカツ丼を食しましたが…味は決して悪くないものの、店の態度がね(苦笑) ちょっと忙しくなっただけで料理作りたくなくなるんだったら、お店なんかやるなよ。
気分害したので紹介しない(笑)

さて、これで2泊3日に渡った会津一人旅も終了です。
15時30分過ぎの磐越西線で郡山まで出て、16時44分の新幹線に乗車。東京には18時17分に到着しました。

一人旅の時は割とツイートする方(誰か一緒の時は基本人任せw)で、今回もTL騒がしましたが、お付き合いくださりありがとうございました。一人で知らない土地、慣れない土地を旅している時にリプを貰えると、心強いものですよ☆

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会津の旅⑦ 土津神社

さて、早くも3日目です。
早く目が覚めてしまったので喜多方駅前をぶらりと散歩したり、朝食後に祖父母との談笑を楽しんだりして過ごし、午前10時に出発。じいちゃん、ばあちゃんには次に来る時まで元気でいて欲しい、願いはそれだけ。

会津若松を経由して向かった先は猪苗代。正午前には到着。

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猪苗代駅。ここからはタクシーを利用しました。

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そして遂にやって来ました、土津神社。
そう、激混み必至のGWにわざわざ旅に出る理由、それはこの日(5月5日)が私の誕生日だから。2年前は琵琶湖の竹生島、昨年は米沢、、、そして今年、福島を選択した理由がここ、土津神社だったのです。
御祭神は土津(はにつ)霊神。初代会津藩主にして天下の執政、保科正之公です。別に会津藩主だからというだけでなく、彼の政治家として残した数々のフェアで仁徳に満ちた業績、清廉潔白な振る舞い、etc...まさに天下太平の江戸時代にあるべき武家の姿、その理想を示した人柄に強烈に惹きつけられて以来、どうしても来たかった場所なのです。

徳川二代将軍・秀忠の庶子として生まれた保科正之公。その養育を任されたのは武田信玄の息女で、その妹が松姫。松姫自身も姉を助けて正之公の養育を手伝ったと云います。その関係で私が現在住む八王子とも縁を感じて、どうしても思い入れを強くしてしまいます。

今回は誕生日に念願叶っての拝謁です。

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拝殿。桜がとても綺麗でした。
来る時に乗ったタクシーの運転手によると、猪苗代辺りではこれからが桜のピークなのだそうです。若松周辺では殆ど終わりかけていたのに。割と近くなのに、随分と違うものですね。

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灯篭の足元に置かれていた砲弾の様なものが気になりましたが、詳しい所以は分かりません。

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建ち並ぶ末社。

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さぁ、それではこの道を辿って奥の院へ向かいます。。。

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暫くすると…、見えてきましたね。

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保科正之公が眠る奥の院。「奥津城門」(おくつきもん)というそうです。

拝殿でもそうしましたが、こちらでも勿論、真剣にお参り。伊勢神宮内宮にお参りした時以上だったかもしれない。

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やはり、表石(墓碑)と墳丘(鎮石)が順に並んでいます。
※院内御廟の記事参照。

そして碑石はずーっと下った先、拝殿の前にありました。勿論、亀形石に乗っています。

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脇からちょっと失礼して、墓碑と…

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鎮石が乗る墳丘。。。
とても厳粛な気持ちになって、言葉もありません。

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最大の目的を果たし、何とも言えない充足感に満たされました。

帰りに御札を買って神社をあとにしました。

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会津の旅⑥ 神指城、他

鶴ヶ城からも周遊バスを使いました。若松駅に出て次に向かう「黒川」行きのバスの乗り場を確認したら、丁度5分後に出るという。ラッキー!

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「黒川」バス停で降りてトボトボと歩いているうちに見えてきました、神指城二の丸の土塁。
このお城、直江兼続の指揮の元で築城が進められましたが、関ヶ原合戦後に上杉家が米沢へ転封されたため、結局未完に終わった幻の巨城と呼ばれています。
「高瀬の大木」と呼ばれる大ケヤキがよく目立つな~

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高瀬の大木。本当に御大きい。。。

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その根元。

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高瀬の大木が生えるこの土塁は二の丸北東の隅。
彼方に見えている南東隅の土塁を結ぶこのラインが、神指城二の丸東面のライン。

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本丸近くで見かけた看板より。
水色のラインが先程の写真で紹介したポイント。赤の方は後ほど。

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本丸に残る櫓台のような土盛。しかし本丸の殆どは私有地で、しかも荒れ放題なために遺構はあまり確認出来ませんでした。

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如来堂が建つ土塁から。この赤いラインが先程の図面で同じく赤で示した二の丸南面のラインです。

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如来堂、新選組殉難地。
会津戊辰戦争で斉藤一に率いられた新選組はここでの戦闘で壊滅的な被害を受けます。隊士の一人、中島登はその手記に「斉藤もここで戦死した」と書き残したほどです。
実際に現地へ来てみると、神指城跡を要塞として戦う意図だったのだろうなぁ、と実感できます。

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如来堂の奥まで足を踏み入れると、塹壕跡のような窪みがありました。
※サイガさんに教えていただきました。

※後日、「如来堂では実際には戦闘になっていないのではないか」とのご指摘を受け、自分で調べてみたり、周囲の方にもご意見を伺ったりいたしました。
どうも新政府軍の配置や進軍ルート等を考え合わせるに、この如来堂(神指城跡)は新政府軍にとって通過点でしかなく、あえて攻撃する必要の無いポイントだったようです。
とはいえ周囲から如来堂に籠る新選組の人数や装備を正確に推し量ることも不可能で、全くの素通りは危険ですから様子見の威嚇射撃やそれに対する応戦といった程度の小競り合いはあったかもしれませんが、いずれにしても新選組側が早々に戦場を放棄した可能性が高いようです。
そう考えると、この石碑の「新選組“殉難地”」という表現には問題があると思うのですが・・・。

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バス停付近まで戻って、中野竹子殉節之地。彼女たちが戦った柳橋も近くにあります。

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竹子さんの石像。ちなみに彼女のお墓はバスで更に行った先、坂下(ばんげ)町にあります。

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黒川バス停。若松駅に戻るバスの時刻まで50分ありましたが、周辺にはお店なんか何もないし、とても歩く気力はなかったので車だけがビュンビュン通り過ぎ、人っ子一人通らない狭い国道沿いの歩道でポツーンと一人、ひたすら待ちましたよ(^_^;)

ようやく来たバスに乗り込んで若松駅に戻ってみると、電車も更に1時間20分待ち。。。この接続の悪さ、笑えてきたww
開き直って生ビール、頂いちゃいました♪

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まちなか周遊バス「ハイカラさん」「あかべぇ」の揃い踏み☆

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若松駅ホームにて

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磐越西線で約20分、喜多方駅に到着~!
今夜のお宿は祖父母の家。久し振りの再会。二人とも90を過ぎているが元気そうで安心しました。

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会津の旅⑤ 鶴ヶ城

滝沢本陣からはこの旅で初めてバスを使います(笑)
まちなか周遊バス「あかべぇ」に乗車して次に向かったのは、、、

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鶴ヶ城!三の丸口から入城しました。

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・・・ところが、本丸まで来てみると天守入場券売場にはご覧の長蛇の列…。
滝沢本陣に寄ったタイムロスがあるとはいえ、まだ午前10時くらい。これは誤算、残念ですが天守に上るのは諦めます。

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御三階跡地。先にも触れましたが、建物は阿弥陀寺に移築されています。
現在発掘調査中。いずれ復元される計画もあるとかないとか…

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千利休切腹の後、蒲生氏郷に匿われた千少庵縁の茶室「麟閣」
こちらは比較的空いていたので見学致しました。

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赤瓦に葺き替えられてからは初めて来ました。とても綺麗です♪

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別アングルから☆

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しばらく石垣の上に上って遊んでましたww

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ここなんか、こうやって見ると登り石垣に見えなくもない?(笑)

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三の丸、秋月悌次郎の詩碑。
結局お目当ての佐川官兵衛顕彰碑は見付けられず…orz

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激しく行列する大河ドラマ館には興味なし。通りすがりに見かけた八重隊のショー(笑)

天守内部はまた機会を改めて来ることにします。では次へ。

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会津の旅④ 「院内御廟」松平家墓所~滝沢本陣

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天寧寺を出た後は大通りまで戻らず、そのままご覧の様な山道や、、、

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長閑な農道をテクテクと歩きました。すぐ先には東山温泉も♪

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ゆったり歩くこと15分ほどで到着。こちらが「院内御廟」と呼ばれる松平家墓所です。
山の中に第二代~九代までの藩主、その他の親族が眠ります。

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って、いきなりこの警告…(;-_-)
まさか鈴の用意なんかないし、この時は一瞬本気で躊躇しました。
後で祖母に聞いたのですが、会津はちょっとした小山でも本当に熊が多いらしい。祖母ももう少し若かった頃は里山歩きが趣味でよく山に入っていたが、少なくとも2度遭遇したとか…。

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ビクビクしながらも暫く石段を上って、神域に到達。
二代は仏式で葬られましたので形状が違いますが、三代~九代までは神式で祀られていて、お墓は斜面下段より、亀形石を台座にした碑石→対の灯篭→表石(墓石)→一番奥に墳丘という形で作られています。
写真は手前から五代・六代・七代の碑石。

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こちらは第九代藩主、松平容保の碑石。確かに亀形石だ。

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そして表石と、奥にチラッと見えているのが墳丘。

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御廟内の石畳は所々苔生していて滑ります(^_^;) ご注意を。

院内御廟参拝を終えたのが午前8時頃。まだ周遊バスが動いていなかったので、徒歩で飯盛山方面へ向かうことにします。その距離、3km弱。今日も朝からハードだ(笑)

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御廟のすぐお隣には武家屋敷。まだオープンしていない時間だったし、予定にも組んでいなかったので通過~

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院内から飯盛山へは「いにしえ夢街道」と呼ばれる一本道をひたすら進みます。

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ようやく飯盛山が近付いたところで、白虎隊の自販機☆

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飯盛山もスル―(笑)

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向かった先は滝沢本陣。開館時刻(8:30)丁度に到着。計算通り!w
歴代藩主が参勤交代や藩祖保科正之公を祀る土津神社参拝の際に、旅支度を整えるために利用した本陣。
会津戊辰戦争の折には白虎隊の出陣地にもなりました。

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表札場

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御座之間

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御座之間や御次之間には戊辰戦争の弾痕が数多く残されています。

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そして刀傷も。。。これなどは「柱を斬り倒そうとしたのか?!」と思えるほど、凄まじいものでした。
実際の戦闘の凄まじさを直に感じる貴重な遺産です。

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会津の旅③ 天寧寺

2日目は朝6時にホテルをチェックアウト。すぐ近くの天寧寺に向かいました。

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ここで私、不明にも初めて郡長正のお墓もこちらにあるということを知りました。

郡長正については、こちらで↓
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全国的にはマイナーな方ですが、私は祖父母が会津地方に住んでおり、子供の頃に祖母が送ってくれた郡長正の伝記を読んで衝撃を受けたのをはっきりと記憶しています。

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天寧寺案内図

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本堂

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郡長正の父で国家老、萱野権兵衛のお墓。ある意味、藩主・松平容保の命を救った一人と言えるでしょう。

権兵衛さんのお墓の奥を更に登った先に…
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郡長正のお墓。
30年近く前に伝記で知って以来、期せずしての御対面となりました。

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登山道(?)に戻って更に登ります。会津の街の見晴らし。

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そして…新選組局長、近藤勇のお墓。土方歳三によって建てられたと云われます。
横にはその土方の慰霊碑も。

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会津の旅② 長命寺、他諸々…

阿弥陀寺から少し南下、長命寺に向かいました。

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ここ長命寺は戊辰戦争の激戦地となった一つ。土塀には数多くの弾痕が残されていました。
その土塀も崩落が激しく、現在のは建て替えられたものですが、写真を元に弾痕の位置を再現しています。

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門前に建つ碑。「無名の万骨…」そう…

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戊辰戦争後、明治政府は戦死した会津藩士の埋葬を翌年の雪解けまで許しませんでした。
しかし、それを見かねた長命寺の住職は密かに150体近くの遺骸をここに埋葬、更に後年になって元会津藩士たちの尽力により墓碑も建てられましたが、それでもなおまだ、碑銘には「戦死墓」の三文字しか許されなかったと云います。。。

※近年の研究により、遺体の埋葬自体が禁じられていた訳ではないことが判ってきています。
それでも会津の人々の遺体が、明治新政府からぞんざいな扱いを受けていたことに変わりはないようですが。。。
(2018年7月追記)

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長命寺本堂。空が綺麗だ…

次に向かったのは;
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興徳寺境内に建つ蒲生氏郷のお墓。豊臣秀吉の命で会津の地に封じられました。
本墓は3月に訪れた京都大徳寺の黄梅院にありますが、こちらには遺髪が納められているそうです。

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お墓のすぐ脇にはこんなものも♪

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興徳寺のすぐ近くには鶴ヶ城の外郭、甲賀町口門跡。中心部の北出丸からでも直線で700m程あります。写真奥が郭内で武家の住む所、手前が城外になり、町人たちが住んでいました。

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鶴ヶ城主郭部に近付いたところで、直江兼続屋敷跡、及び山鹿素行生誕地。
兼続は関ヶ原合戦まで会津に入封していた上杉景勝の重臣(執政)だから分かるけど、山鹿素行も随分お城(主郭)に近い場所で生まれていたのですね。

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日新館跡地に唯一現存する天文台跡。

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一応、登ってみた(笑)
振り返ると鶴ヶ城天守がよく見えました。

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さて、歩いている最中にこういうものを目にしたので…

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一応来てみたw
ここで八重さんたちは毎日鉄砲を…?

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先程の図面にも書かれている通り、石碑は少し離れた場所に建っています。
何だか大人の事情がありそう?(^_^;)

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鶴ヶ城北出丸近く、西郷頼母邸址。
会津籠城の折、頼母の妻ら女性たちは籠城の足手まといになることを厭い、自害して果てます。。。

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次の目的地まで歩いている途中に通り掛かった団地の掲示板。
生活の中に普通に「あいづっこ宣言」が根付いていることを実感。

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鶴ヶ城東側の外郭を固める天寧寺町土塁。

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戊辰戦争で新政府軍が大砲を据えた小田山(手前の小山)

この後はそのまま歩いて天寧寺近くのホテルにチェックイン。
結局初日の行程は一度もバスを使わず、全て徒歩で回り切った。地図上でざっと計算したところ、約8km。そんなもんか…気分的にはもっと歩いた気がしてたけど。疲れた。

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会津の旅① 清水屋旅館跡~阿弥陀寺

GW後半の5月3~5日、2泊3日で会津に出掛けてきました。
「何も好き好んで、この混む時期に…」という声も聞こえてきそうですが(^_^;)、これだけは譲れない理由があるのです。会津をチョイスした理由(決して「八重の桜」に影響されたミーハーではございませんww)も含め、それは追々。。。

早朝に自宅を出て東京駅から新幹線を利用。郡山で磐越西線の快速に乗り換えです。13050301
その車両。やっぱりそう来るよね(笑)

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磐越西線に揺られること1時間強、正午前には会津若松駅に到着しました。

早速バス案内所に向かってみたが、やはり市内の渋滞で周遊バスも時間が読めない模様。。。仕方ないのでスパッと徒歩に切り替えます!

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陽が射しているのに小雨混じりというおかしな天気の中、大町通りを南下。
いきなり飛び込んできたあの看板に一瞬ソラ目…だって、最初に目指している場所が…

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更に梶原平馬さんの菩提寺も通過~

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野口英世と八重の桜(笑)
野口英世青春通りにて。

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歩くことちょうど1km、清水屋旅館跡に到着。ここにはかつて吉田松陰や、戊辰戦争時に足を負傷した土方歳三が療養で宿泊しました。

さて続きましては七日町通りを七日町駅方面に向かって歩きます。
途中にある「会津新選組記念館」はスルーしちゃいましたw

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向かった先は阿弥陀寺。あちらは鶴ヶ城本丸に建っていた御三階。戊辰戦争後に戦火に焼かれた阿弥陀時の為に移築されました。
玄関の唐破風は本丸御殿の玄関の一部を使用しているそうです。

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こちらのイメージ図と比較すると、御三階に御殿の玄関を配したことが分かり易いですね。
(鶴ヶ城本丸設置の案内板より)

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境内では枝垂れ桜が満開☆

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その遺言によって会津の地に葬られた斉藤一(藤田五郎)のお墓も阿弥陀寺にあります。

さて、次は長命寺に向かいますよ。

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とうかん森

会津の旅から戻り、blogも更新しなければなりませんが、まずは会津へ行く前にフラッと訪れた日野の「とうかん森」の記事から。

「とうかん森」とは↓
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よく間違われるそうですが、歳三の土方家(お大尽)はこの10家に含まれません。
しかし、この近辺こそ紛れもなく歳三が産まれ、水害に遭って現在の地(土方歳三資料館)へ移るまでを過ごした元の生家があった場所。
石田寺に近く、周辺の地形を地図で確認すると多摩川と浅川に挟まれた分流点そば。洪水の被害を受けたのも納得です。

尚この「とうかん森」、つい最近(2011年)まで案内板の写真にもあるように当時からの姿のまま残されてきましたが、大きく枝を広げた老木が複雑に絡み合い、このままでは周辺の民家に危険が及ぶと判断され、氏子の土方さん達が決断、一部伐採(いわゆる間引き)されました。

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現在の「とうかん森」。民家一軒分くらいのスペースです。

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伐採された切株が残ります。

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近くの浅川水再生センターの上から撮影。
歳三さんは少年時代に間違いなく、この辺りで遊んでいたのでしょうねぇ・・・。
(日野市石田1‐23)

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とうかん森から1km程歩いた所に残る万願寺の一里塚。
(日野市万願寺2‐38)

日野を訪れた際はお時間の許す限り、この辺りも散策してみてください。

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2013年5月 1日 (水)

八王子城オフ♪ 2013年春篇

4月29日(月)、八王子城オフ会を催しました♪
今回の参加者はサイガさん、寺旅人さん、なっちさん、さとみんさん、あいすさん、私の計6名。

午前10時過ぎに八王子城跡ガイダンス施設に集合し、早速踏査スタート。
まずは大手虎口などの遺構を確認しながら太鼓曲輪へ。

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太鼓曲輪第Ⅰ堀切

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第Ⅰ堀切の断面にしがみつく…あいすさん(笑)

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第Ⅰ堀切付近に残る石積み

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第Ⅱ堀切にて
ここは前回来た時より木が伐採されていて見易かった。

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第Ⅲ堀切脇に残る防塁の石垣跡を確認するメンバーたち

そして第Ⅲと第Ⅳ堀切の間の尾根から脇を覗き込み、「何かありそうだな~。少し下りてみよう」と思い、足を伸ばしてみたら・・・
ズズ―ッ!!・・・見事に滑落いたしました(^_^;) しかし…

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何とか踏み止まった位置から見上げると…石積みが残ってるではありませんか!

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数mに渡って尾根を固めるように・・・。
後になって気付いたのですが、この脇にはロープが張られていました。ご覧になる方は是非ロープ伝いに下りてください(笑)

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前回は何気なくスルーしてしまったこの櫓台も、先端に立って覗き込んでみると…

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一直線の尾根から三角形に張り出させている様子がよく分かりました!
登ってくる敵に横矢を掛けられる仕組みですね♪

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太鼓曲輪は一度登ってしまえば、あとは基本的にこういう典型的な尾根道を進みます。

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第5堀切
・・・妖精さん?www

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こうして見ると、尾根をザックリと切り落としているのがよく分かりますね♪

この後は太鼓曲輪を下山。御主殿の広場で昼食♪

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昼食後、まずは御主殿脇に残る現存石垣を見て、、、

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復元的整備工事の終わった御主殿を眺めやりながら、「殿の道」へ。

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登り始めてすぐに現れる第Ⅰ石垣群

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この第Ⅰ石垣群、全部で四段に積まれた段石垣の形状をしています。

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第Ⅱ石垣群
・・・朽ちた木が落ちて石垣を直撃した模様。。。以前撮影した写真と比べてみましたが、被害はさほど大きくないものの、それでも確実に数個の石は崩れてしまっている。
市のご担当者様、早速調査の成果を試される時が来ましたよ!何としても修復してください、お願いしますっ!!

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第Ⅲ石垣群。奥の第Ⅳ石垣群まで見通せて、なかなかの迫力。

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第Ⅳ石垣群に魅入られている?城ガール隊員♪

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石垣群を見た後は、そのまま殿の道を登りました。途中で見付けた石積み。

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「山王台」すぐ下の竪堀

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山王台
ここからは主郭部への直登ルートを選択しました。

主郭部では本丸にも寄らず、そのまま「詰め城」を目指します。

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もう一丁、竪堀☆

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「駒冷やし」の堀切

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詰め城に至るルートを固める登り石垣跡。もう崩れてしまっていますが、積まれていた石がゴロゴロしています。

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詰め城にて

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詰め城下の大堀切

今回は更に尾根伝いに北へ向かいます。
ここで私、疲労と油断でkaiり(ズッコケ)まして…落ちていた岩で掌を切ってしまいました。幸いなっちさんが消毒液や傷テープをお持ちで、医療系にお勤めのさとみんさんもいらっしゃって…とっても心強いゾ、城ガール隊☆ありがとうございました。

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向かった先の目的は…これ、登り石垣♪
まだ一部、積まれたまま残っている箇所もあるではありませんか!!☆ いや~感動的。
さすがに広大な八王子城、何度来ても新たな発見が続々☆
かなりタイトに攻めたのでとてつもなく疲れましたが、とてつもなく楽しかった!

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主郭部へ戻って、八王子権現に無事を報告&御礼(-人-)

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この後は新道で高丸→柵門台→金子丸→馬蹄段を経由して下山し、何とか無事にオフ会終了♪参加した皆様、お疲れさまでした!

打ち上げは八王子駅前にて。とっても楽しく盛り上がりましたよ!
でも詳しいレポートは…出来ません。だって、途中から覚えてないんだもん、しょーがないじゃない?(;-_-)

しかし、改めてこうして大好きなことを一緒に共有できる仲間に感謝、出会いに感謝です!ありがとうございます☆

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