会津の旅② 長命寺、他諸々…
阿弥陀寺から少し南下、長命寺に向かいました。
ここ長命寺は戊辰戦争の激戦地となった一つ。土塀には数多くの弾痕が残されていました。
その土塀も崩落が激しく、現在のは建て替えられたものですが、写真を元に弾痕の位置を再現しています。
門前に建つ碑。「無名の万骨…」そう…
戊辰戦争後、明治政府は戦死した会津藩士の埋葬を翌年の雪解けまで許しませんでした。
しかし、それを見かねた長命寺の住職は密かに150体近くの遺骸をここに埋葬、更に後年になって元会津藩士たちの尽力により墓碑も建てられましたが、それでもなおまだ、碑銘には「戦死墓」の三文字しか許されなかったと云います。。。
※近年の研究により、遺体の埋葬自体が禁じられていた訳ではないことが判ってきています。
それでも会津の人々の遺体が、明治新政府からぞんざいな扱いを受けていたことに変わりはないようですが。。。
(2018年7月追記)
長命寺本堂。空が綺麗だ…
次に向かったのは;
興徳寺境内に建つ蒲生氏郷のお墓。豊臣秀吉の命で会津の地に封じられました。
本墓は3月に訪れた京都大徳寺の黄梅院にありますが、こちらには遺髪が納められているそうです。
お墓のすぐ脇にはこんなものも♪
興徳寺のすぐ近くには鶴ヶ城の外郭、甲賀町口門跡。中心部の北出丸からでも直線で700m程あります。写真奥が郭内で武家の住む所、手前が城外になり、町人たちが住んでいました。
鶴ヶ城主郭部に近付いたところで、直江兼続屋敷跡、及び山鹿素行生誕地。
兼続は関ヶ原合戦まで会津に入封していた上杉景勝の重臣(執政)だから分かるけど、山鹿素行も随分お城(主郭)に近い場所で生まれていたのですね。
日新館跡地に唯一現存する天文台跡。
一応、登ってみた(笑)
振り返ると鶴ヶ城天守がよく見えました。
さて、歩いている最中にこういうものを目にしたので…
一応来てみたw
ここで八重さんたちは毎日鉄砲を…?
先程の図面にも書かれている通り、石碑は少し離れた場所に建っています。
何だか大人の事情がありそう?(^_^;)
鶴ヶ城北出丸近く、西郷頼母邸址。
会津籠城の折、頼母の妻ら女性たちは籠城の足手まといになることを厭い、自害して果てます。。。
次の目的地まで歩いている途中に通り掛かった団地の掲示板。
生活の中に普通に「あいづっこ宣言」が根付いていることを実感。
鶴ヶ城東側の外郭を固める天寧寺町土塁。
戊辰戦争で新政府軍が大砲を据えた小田山(手前の小山)
この後はそのまま歩いて天寧寺近くのホテルにチェックイン。
結局初日の行程は一度もバスを使わず、全て徒歩で回り切った。地図上でざっと計算したところ、約8km。そんなもんか…気分的にはもっと歩いた気がしてたけど。疲れた。
| 固定リンク
「新選組・戊辰戦争」カテゴリの記事
- 土方歳三の遺髪(2024.04.01)
- 石田散薬 製造体験(2022.04.29)
- 扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~(2022.01.06)
- 振武軍が宿営した箱根ヶ崎(2021.12.19)
- 近藤芳助が所持していた近藤・土方肖像写真(2021.11.23)
コメント