桂福寺&観栖寺
本日は地元、八王子市のお寺巡りをしてきました。
まずはこちら…
■桂福寺
戸吹にある桂福寺へ。滝山街道沿いです。
文政6年(1823)に建てられた鐘楼山門。その名の通り、山門の上に鐘楼を乗せた珍しい形をしています。
鐘も昭和18年までは元禄10年(1697)に鋳造されたものが現存していたそうですが…おそらくは戦争に供出されてしまったのでしょう・・・。
でも桂福寺を訪れた一番の目的はこちら♪
天然理心流の開祖・近藤内蔵助と二代目・近藤三助の墓所です。
「剣聖光武神」
真ん中は昭和44年に建てられた2人の墓石で、向かって右が初代・内蔵助、左が二代目・三助の元々の墓石。
左の三助の墓石、継ぎ接ぎだらけなのがよく分かると思います。2人のお墓は元々、三助の実家・坂本家(戸吹村の名主。近藤家へは養子入り)の敷地内にありました。
そして慶応4年(1868)、天然理心流の四代目でもある新選組局長・近藤勇が新政府軍によって板橋で斬首されると、縁戚として咎められることを恐れた坂本家では2人の墓石を地中に埋めて隠したのです。
そして月日は流れ…昭和45年、滝山街道の拡張工事に伴って2人のお墓を桂福寺へ移すことになったので掘り返してみると…代々言い伝えられてきた通りにこの墓石が出てきたそうです!
初代・内蔵助の墓石は小さかったためにそのまま埋められていましたが、二代目・三助のものは大き過ぎたため、砕いてから埋められたようです。。。
幕末~明治にかけての激しい時代の片鱗がハッキリと見て取れました。
昭和61年に奉納された天然理心流の奉額も。
今も脈々とその系譜は受け継がれています。
■観栖寺
さて、お次は西寺方町にある観栖寺へ。
童謡「夕やけ小やけ」の作詞者・中村雨紅の歌碑。
「ふるさとはみな懐かしく温かし 今宵は聞かむ夕焼の鐘」
観栖寺山門
本堂
そうそう、境内に繋がれていたお寺で飼われている子犬に懐かれたので(^_^;)、しばらくかまってあげました(笑)
その後、目的のお墓を探してウロウロ…
こんな可愛らしいお地蔵さんもいました。
これが「夕焼の鐘」?
こちらは俳人・熊澤兀雨のお墓。
そして案内板もなく、広大な墓地をあまりウロウロする訳にも行かず、諦めるか否かで葛藤しながらもネットを駆使してようやく訪ねあてたのが、こちら・・・
新選組隊士で「戦友姿絵」や「中島登覚え書き」を書き残した中島登の両親や代々のお墓。登本人のお墓は浜松にあるそうです。
実は中島家、八王子千人同心の一つで観栖寺のすぐ近くに住んでいました。
その「中島登出生之地」碑。観栖寺から数百mの距離で、今は古着屋さんの敷地になっています。
さて、以上で本日の行程は終了なのですが、帰りがけにチョット寄り道。
以前から車で甲州街道「追分町」交差点を通り掛かる度に「道標の石柱が見えないな~」と気になっていたので確認してみることに。
※追分の道標についてはコチラ(過去の記事)
あぁ~やっぱり失くなってる!?
…堪らず目の前の交番でお巡りさんに事情を聞いてみました。すると…
この写真に写っている立体歩道橋を架け替えるそうで、そのために一時避難させているのだとか。工事が終われば元の場所に戻すとのことで一安心。
確かに元の位置から10m程ズレた場所に健在でした(^_^;)
ヨカッタヨカッタ☆
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