上野戦争の爪痕
【上野戦争】
徳川慶喜の謹慎・恭順を受けて新政府軍による江戸総攻撃は回避されたものの、抗戦派の旧幕臣や不満を募らせた慶喜の一橋藩主以来の家臣らは同志を募って彰義隊を結成する。
上野戦争とは、寛永寺に立て籠もったこの彰義隊と新政府軍との間で行われた戦闘で、戊辰戦争の一つに数えられる。慶應4年(1868)5月15日に開戦し、僅か1日で終結。彰義隊はほぼ壊滅した。
この時、新政府軍の指揮を執っていたのは大村益次郎で、彰義隊には新選組十番隊組長の原田左之助も加わっていたと云う(この戦闘での傷が元で死去したとも伝わる)。
という訳で、今回は上野戦争に関連する史跡をご紹介。
江戸期の寛永寺の様子。上野公園展示パネルより。
ここが上野戦争の舞台となります。
上野公園内に建つ彰義隊の墓。
実際には隊士たちの遺骸の火葬場となった場所だそうです。御遺骨の一部は円通寺に埋葬されています。
「彰義隊奮戦之図」
奥に描かれているのは寛永寺の黒門(総門)だと思われますが、この形を覚えておいてください。
有名な西郷どんの銅像が建つこの辺りも、彰義隊の砲撃場でした。
ちなみに新政府軍の本営は松坂屋辺り。そう、土方歳三も幼い頃に一時、奉公に出ていたと云うお店です。距離にして800mくらいでしょうか。
上野公園を離れて、お次は・・・
日暮里駅近くにある経王寺へ。
上野戦争の時に彰義隊の敗走兵を匿ったため、新政府軍の攻撃を受けています。
その証拠に・・・
その山門には現在も銃弾の痕が残されています。。。
こちらは向かって左側の扉。
そして右側。。。さぞかし残党狩りは熾烈を極めたことでしょう。
現に開戦前から大村益次郎は彰義隊の敗走ルートまで想定し、事前に追討の兵を配備していたといいます。
その布陣を見た西郷隆盛が「皆殺しになさるおつもりですか?」と問うと、益次郎は事も無げに「そうです」と答えたとか・・・。
更に場所を移動して、南千住の円通寺へ。
・・・それにしても、なんちゅーお寺(の建物)だ(^_^;)
円通寺の境内には、寛永寺から移築された黒門(総門)が残されています。
先程の「彰義隊奮戦之図」に描かれていたものとソックリですね。
その黒門に残された上野戦争での弾痕の数々…、この距離でもハッキリ見て取れます。。。
本当に凄まじい数です。
弾痕の形状からも、真正面からマトモに撃ち込まれていたことがよく分かります。
彰義隊の墓。合葬墓です。ここでも「戦死墓」の三文字のみ。。。
※会津・長命寺の記事参照
「死節之墓」
鳥羽・伏見、会津、函館での戦死者の氏名を彫って供養していたものだそうです。中には土方歳三の名前も彫られているそうですが…さすがに見えませんでした。
更に周囲には幕末の著名人達の供養・追悼碑が目白押しでした。
こちらは榎本武揚。
蝦夷共和国で榎本に次ぐ副総裁を務めた松平太郎に・・・
同じく蝦夷共和国の陸軍奉行、大鳥圭介・・・
ちょっと分かり辛いけど・・・
函館で土方が戦死した際、一本木関門まで来て遺体を引き取り、五稜郭へ運んで埋葬したと云われる小柴長之助。土方歳三の遺体の行方、是非とも聞いてみたい。
彼は明治政府から釈放された後、ここ円通寺で墓守をしていました。
中には新門辰五郎親分までw
同じ境内には八幡太郎源義家が東北で討ち取った首を埋葬して供養したと伝わる「四十八首塚(小塚原)」や、徳川家光鷹見の松もありました。
帰りに立ち寄った小塚原回向院。詳細は↑この写真で。
正面奥が橋本佐内のお墓。
他にも吉田松陰、頼三樹三郎、鼠小僧らのお墓もありました…が、吉田松陰は後に松陰神社へ改葬されています。
鼠小僧のお墓は両国の回向院にもありましたが…。
延命寺にも立ち寄り。「首切り地蔵」として有名な延命地蔵尊。彼の震災でこんなにズレてしまったのですね。。。しかし!
今ではすっかり元通りに♪
ヨカッタヨカッタ♬
最後はちょっと駆け足になってしまいましたが…(^_^;)
また関連する史跡に足を運んだら記事を追加で上げていきます。
☆6月13日追記
また上野方面に行く用ができたので、、、
寛永寺旧本坊表門
上野戦争での焼失を免れ、現在に至る貴重な遺構。ト―ハクの前身である帝国博物館の門として利用され、関東大震災後、現在の輪王殿に移築されました。
修復の手も入り、一見するととても綺麗なのですが・・・
その門扉には砲弾や銃弾の痕がくっきりと・・・
この写真の中だけでも銃弾痕は3ヶ所、砲弾痕は言わずもがな。。。
上野公園内、清水観音堂に掲げられる上野戦争図と使用された砲弾。
(2015年1月追加)
こうした歴史の記憶、しっかりと後世に受け継ぎたいですね。
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コメント
天野忠告の戦いは西南戦争の頃のものである。
投稿: ガーゴイル | 2022年1月 5日 (水) 18時34分