会津の旅⑥ 神指城、他
鶴ヶ城からも周遊バスを使いました。若松駅に出て次に向かう「黒川」行きのバスの乗り場を確認したら、丁度5分後に出るという。ラッキー!
「黒川」バス停で降りてトボトボと歩いているうちに見えてきました、神指城二の丸の土塁。
このお城、直江兼続の指揮の元で築城が進められましたが、関ヶ原合戦後に上杉家が米沢へ転封されたため、結局未完に終わった幻の巨城と呼ばれています。
「高瀬の大木」と呼ばれる大ケヤキがよく目立つな~
高瀬の大木。本当に御大きい。。。
その根元。
高瀬の大木が生えるこの土塁は二の丸北東の隅。
彼方に見えている南東隅の土塁を結ぶこのラインが、神指城二の丸東面のライン。
本丸近くで見かけた看板より。
水色のラインが先程の写真で紹介したポイント。赤の方は後ほど。
本丸に残る櫓台のような土盛。しかし本丸の殆どは私有地で、しかも荒れ放題なために遺構はあまり確認出来ませんでした。
如来堂が建つ土塁から。この赤いラインが先程の図面で同じく赤で示した二の丸南面のラインです。
如来堂、新選組殉難地。
会津戊辰戦争で斉藤一に率いられた新選組はここでの戦闘で壊滅的な被害を受けます。隊士の一人、中島登はその手記に「斉藤もここで戦死した」と書き残したほどです。
実際に現地へ来てみると、神指城跡を要塞として戦う意図だったのだろうなぁ、と実感できます。
如来堂の奥まで足を踏み入れると、塹壕跡のような窪みがありました。
※サイガさんに教えていただきました。
※後日、「如来堂では実際には戦闘になっていないのではないか」とのご指摘を受け、自分で調べてみたり、周囲の方にもご意見を伺ったりいたしました。
どうも新政府軍の配置や進軍ルート等を考え合わせるに、この如来堂(神指城跡)は新政府軍にとって通過点でしかなく、あえて攻撃する必要の無いポイントだったようです。
とはいえ周囲から如来堂に籠る新選組の人数や装備を正確に推し量ることも不可能で、全くの素通りは危険ですから様子見の威嚇射撃やそれに対する応戦といった程度の小競り合いはあったかもしれませんが、いずれにしても新選組側が早々に戦場を放棄した可能性が高いようです。
そう考えると、この石碑の「新選組“殉難地”」という表現には問題があると思うのですが・・・。
バス停付近まで戻って、中野竹子殉節之地。彼女たちが戦った柳橋も近くにあります。
竹子さんの石像。ちなみに彼女のお墓はバスで更に行った先、坂下(ばんげ)町にあります。
黒川バス停。若松駅に戻るバスの時刻まで50分ありましたが、周辺にはお店なんか何もないし、とても歩く気力はなかったので車だけがビュンビュン通り過ぎ、人っ子一人通らない狭い国道沿いの歩道でポツーンと一人、ひたすら待ちましたよ(^_^;)
ようやく来たバスに乗り込んで若松駅に戻ってみると、電車も更に1時間20分待ち。。。この接続の悪さ、笑えてきたww
開き直って生ビール、頂いちゃいました♪
まちなか周遊バス「ハイカラさん」「あかべぇ」の揃い踏み☆
若松駅ホームにて
磐越西線で約20分、喜多方駅に到着~!
今夜のお宿は祖父母の家。久し振りの再会。二人とも90を過ぎているが元気そうで安心しました。
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