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2013年6月

2013年6月30日 (日)

三増合戦 (もののふ戦国バスツアー)

6月29日(土)、「第14回もののふ戦国現地セミナー」に参加させていただきました。
テーマは「三増合戦」、講師は工業デザイナーであり、且つ戦国史に関する多くの著作をお持ちの藤井尚夫先生。
朝8:30に新宿駅西口に集合、バスに乗り込んで出発です!参加者は総勢20名強。

※以下、藤井先生に教えていただいたものを私なりの解釈をもって書き進めます。
※いくつかの城跡も巡りましたが、あくまでも「三増合戦」の経過・地理的条件からの踏査であり、細かい遺構の紹介は省略致します。一部の城好きさんから怒られてしまいそうなので、あしからずご承知おきの程を(笑)



■三増合戦とは?
永禄12年(1569)、関東に侵攻して鉢形城や滝山城を攻撃しながら南下した甲斐の武田軍は10月初旬、北条家の本拠・小田原城を包囲する。だが北条勢が城に籠って出て来ないと見るや数日で包囲を解き、再び相模川沿いを北上して甲斐への撤退を開始する。
この時、滝山城の北条氏照、鉢形城の氏邦らは撤退する武田軍の迎撃(追撃? 小田原の本軍との挟撃を狙ったとも)を目論んで出陣、現在の神奈川県愛川町にある三増で激突した戦い。

関東では戦国大名同士が主力を持ってまともに激突した合戦は殆どなく、そういう意味でも屈指の古戦場です。

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まず向かった先は伊勢原市にある岡崎城跡。
鎌倉期には既に存在し、16世紀初頭には三浦道寸が居城としていましたが、永正9年(1512)に伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて落城しています。
その後については詳しく分かっていないようですが、もしそのまま北条家が拠点としていた場合、相模川沿いという立地から武田信玄の関東侵攻の際には何かしらの戦闘なり、動きがあったものと思われます。

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踏査は本郭周辺のみでしたが、幅の広い堀跡や・・・

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藪々ながら素敵な堀底道も・・・

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現在「無量寺」が建つ本郭前のこの道は竪堀の名残

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段郭跡の切岸も綺麗に残っていました。
城好きの方には是非ともじっくり遺構を見ていただきたい城跡です☆


再びバスに乗り込み、相模川沿いを武田軍と同じように北上します。

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国道246号と129号が交差する「金田」交差点(厚木市)。
小田原からの帰路(往路も)、武田軍はこの付近(金田・妻田・三田)で陣を張って一泊しました。近くにお寺が3~4軒あるので、その辺りに本陣を置いたかもしれませんね。
実際、金田の建徳寺や妻田の薬師院、少し南の最勝寺などには「上杉謙信(1561年)や武田信玄の関東出兵の際、付近も大きな被害を被った」という記録が残っているそうです。

写真正面に伸びる道が129号。当時は「八王子街道」と呼ばれた道の名残で、滝山城の北条氏照も小田原への往復には常に利用した道と思われます。私も湘南方面の往復には必ず利用します(笑)
金田で一夜を明かした武田軍は八王子街道を相模川西岸沿いに北上、街道が相模川を渡る手前で西に進路を変え、三増方面(愛川町)へと進みます。

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その武田軍が通ったとされる愛川町の「信玄道」
右側は現在の新道(県道63号)で、武田軍は左の古道を進みました。
※この先も度々「信玄道」が登場しますが、これらは武田軍が通行した道の総称と思われます。

そして問題はこの先。合戦の経過というか、両軍の布陣について2つの説があるのです。

■A説:「北条軍北側に布陣」説
一般的に流布されている説で、「甲陽軍鑑」の記述に拠ったものと思われます。
この説を図にすると以下のようになります。

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武田軍を迎撃するため、氏照・氏邦率いる北条軍は三増峠(の西隣の中峠?)付近に布陣。そこへ北上してきた武田軍と激突する。
合戦当初は有利な地理条件(高所)を活かした北条側が優勢に進めたが、信玄の命を受けて志田峠を迂回した山県昌景らが北条軍の側面を急襲、形勢は武田軍優勢に反転した―

しかしこの説には1点、どうしても解せない部分があるのです。お分かりでしょうか?
それは、武田軍が再び八王子方面に進攻してくる恐れもある中で、何故北条軍が“予め”三増付近に布陣した(出来た)のか、ということです。それには当然、予め武田軍の撤退ルートを正確に、確信を持って把握していなければなりません。

ところが北条家側では、小田原城の包囲を解いた信玄が一旦東に向かったので;
「謙信の先例(永禄4年)同様、鎌倉に向かったみたいだ(実際には鎌倉へは行かず、手前の相模川河口付近で北に向きを変えている)」
と考えていたりして、武田軍の動きが読めずに神経を尖らせている様子が伺えます。
そんな状況の中で「主戦場は三増」と事前に把握することは絶対に不可能です。つまり、「甲陽軍鑑」は合戦が三増で起きたことを知る“結果”から書かれたものでしかない考えられるのです。

では実際の合戦の経過・両軍布陣はどのようになったのでしょうか。

■B説:「武田軍北側に布陣」説
これは古くから地元などで伝承されてきたもののようです。
北上してくる武田軍がどのルートを通るか分からない状況で氏照・氏邦の北条軍が採るべき作戦とは如何なるものか・・・?当然のことながら八王子方面に再侵攻されることも警戒していたでしょうから、それは軍略上・地形的条件からしても相模川を挟んで武田軍と対峙する、というものだった筈です。
そして彼らが着陣した場所ですが、北条方に一番有利で武田方に不利な場所、となると三増から津久井方面に抜けるルート(「みませすぢ」甲陽軍鑑)を見据えつつ、武田軍が(八王子方面に侵攻してくる場合に)相模川を渡河するであろう地点しかありません。
現在では場所は少し変わっているかもしれませんが、「八王子街道」が相模川を越える下図のポイント辺り(当麻の渡し)だと考えます。つまりここが、北条軍にとっての当初の想定決戦地。

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ところが、こうした北条方の動きを物見によっていち早く察した信玄は、小田原勢による追撃も警戒していましたので挟撃される危険を避けて西に進路を変え、三増に向かいます。
これを受けて追撃を開始する北条軍。北条家としては早く武田勢を関東から追い出したいし、目前で敵が背中を見せた訳だから、ある意味当然の行動と言えます。
その結果、戦場での布陣は下図のようになりました。

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いち早く高所を押さえて反転した武田軍に対して、北条軍は峠下の平地に布陣して睨み合う形となり、開戦しました。
北条側からすれば僅かな追撃の遅れが、武田軍に高所を占められる結果になったのかもしれません。

信玄は後日、苗木遠山家を介して織田信長に合戦の様子を報じていますが、その中で「三増峠を左に置いて陣を布いて戦った」と言っています(北側に布陣しないと三増峠が左にはならない)し、戦国期に書かれた北条方の「北条記」にも「信玄は三増を究竟の要害を構え」とあります。
これらのことを考え合わせても、武田軍が北⇔北条軍が南という布陣は間違いないと思います。

それにしてもここまでの、目の前を逸れていった武田軍を追って追撃したら武田軍が反転して開戦、という一連の動きを見ていくと何だか「三方ヶ原の戦い」に似ていますね。

では早速、古戦場巡りへ☆
といきたいところですが、その前に腹ごしらえ♪

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昼食会場は近くのゴルフ場クラブハウス。玄関の軒下には燕が巣を作って子育ての真っ最中でした。可愛い頭が覗いていますね♪

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昼食の「大名椀」!どれから食べたものか…凄く豊富なおかずに思わず迷い箸…(^_^;)

さ、それでは古戦場巡りへ!

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北条軍が布陣した辺りに建つ石碑。電柱の向こう、一番高い山の上に信玄が本陣を置いた「旗立松」があります。

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三増合戦布陣図。手前の赤が北条方で志田峠・中峠・三増峠一帯の山中に布陣しているのが武田方。
北条方が布陣している辺りに縦に3本の沢が描かれていますが、これは現在も残っています。今回バスで通りすがりに見ただけなので写真はありませんが、3本とも兎に角深くて鋭く切り立っていました。(上記掲載のA説/B説両図面中①~③)この沢のせいで北条方は相互の連携が取り辛くなっていたと云います。

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信玄も進んだであろう道を進んで「旗立松」を目指します。
なお、旗立松があるのは中峠といい、三増峠はその東側になります。西には志田峠もありますが、三増・志田の両峠は谷間を進む沢道になっており、2万からの軍勢なので当然3本の峠に跨って幅広く布陣したでしょうが、軍略上の常識からして信玄本隊は唯一尾根上を進む中峠に布陣、退却していきました。
それならば「中峠合戦」となりそうなものですが、激戦が展開された平地部一帯の地名を「三増」といった為、「三増合戦」と呼ばれるようになったのです。

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先程の写真と同じ位置から志田峠方面。

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この山の上に「旗立松」があります。ご覧頂いてお分かりの通り・・・周囲をグルッとゴルフ場に囲まれています。
のみならず、実はゴルフ場造成のためにザックリと山を削られており、「信玄道」などの遺構は山頂部の「旗立松」を除いて悉く破壊されています。。。それでも敷地内を通って見学させて貰えるだけマシか。。。

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山頂部に残る「信玄道」の名残と思われる尾根道の一部。当然ながら山を削られているので、一部しか残っていません。

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こちらが武田信玄本陣「旗立松」
もはや2代目の松も枯れていました・・・

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信玄本陣からの眺め。眼下に広がる養鶏場(白い屋根)の辺り一帯に北条軍が布陣していました。
そして、樹間から僅かにゴルフコースが覗いていますが、本来はこの山頂からあのコースの縁にかけてなだらかに続く坂道でした。今では断崖。。。
※この近くの山中に、1kmにも及ぶ塁壁が残っているそうですが…現在は藪のため断念。いずれそこにも行ってみよう♪

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麓に下りて、合戦戦没者の首塚と・・・

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胴塚

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道端には可愛らしいガクアジサイがまだ辛うじて咲いていました。

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三増峠付近で南から攻めかかった(関八州古戦録)北条綱成配下の銃弾に倒れた浅利信種のお墓。
1789年(合戦の220年後)に村人がお墓の周りを掘ったところ、小さな骨壷が出てきたとか。これを祀りなおして現在では浅利明神として尊崇を集めてきたと云います。

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浅利明神から南側を見た様子。浅利信種もここで、追い縋る北条軍を必死に防いでいたのでしょうか。

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そして、ここまで巡った古戦場の位置関係はこんな感じになります。
(GPSログ/画像提供:サイガさん)
こうして見ると「旗立松」の周囲360度をゴルフ場の造成で見事にぶった切られていることがよく分かりますね。。。


さぁ、次は津久井城へ移動します!

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麓の資料館にあった津久井城のジオラマ。左手前の居館跡から本丸がある左端のピークに向かって一気に直登します。

なお津久井城には「津久井衆」と呼ばれる武士団が形成されて北条配下とされていましたが、この地域は北条⇔武田の軍事的緩衝地帯にも近く、「どっちつかず」な豪族たちも数多くいました。その為か、三増合戦の折にも結局津久井衆は動きませんでした。

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津久井城主、内藤氏の居館跡。かなりの広さがありました。

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やっとこさ山頂部に登り切って…今でも枯れることがないという「宝ヶ池」

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堀切。ここには引橋が架かっていたとのことなので…土橋に見えるあれは後世のもの?それとも引橋の基礎部分?!

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樹齢900年以上の大杉

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本城曲輪(本丸)土塁上に建つ石碑。この土塁…

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本丸を囲むように綺麗に残っていて、とても素敵でした☆

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本丸から津久井湖を見下ろす。
この後、私となっちさんはお年を召した参加者のペースを慮って一行とはぐれて下山。その為、家老屋敷に残っているという石積みを見逃してしまいました。無念!!

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こちらがその石積み(写真:サイガさん提供)


さてさて、最後は津久井城から北条⇔武田の軍事境界線ともいえる道志川を越えて「上の山城」へ。

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城(跡)域内には今でも領主の末裔の方(個人名にもなるのであえて領主名は伏せます)が住んでおられるので、皆でご挨拶いたしました。

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上の山城には武田軍が通過した「信玄道」が城内ド真ん中を通っているのですが、他にも大山詣での「大山道」も通っていました。

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こちらが大山道。

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早速歩いてみます。

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写真先に伸びる舗装路は割と近年まで存在しなかったらしく、右側の山道が唯一手前側に繋がる道だったそうです。こういう古道が今もひっそりと残っている辺り、歴史が現在でも進行中で繋がっていることを実感します。

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さて、では「信玄道」へ。
三増方面から退却し、現在でも広大な幅と深さを誇る絶対防衛ライン・道志川を越えた武田軍。更に道志川の支流を越えて、その河岸段丘上に築かれた上の山城に入ります。
写真はその入り口となる古道「信玄道」
※北条側の絶対防衛ラインは津久井城から仙洞寺山に掛けてのラインと考えられ、中間の三ヶ木や関戸辺りは緩衝地帯。

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段丘を登り切って城内側から見た「信玄道」
しっかりと折って虎口にしてあります。

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城内から段丘を見下ろす。凄く急峻に切り立っています。
北条軍の追撃を振り切って道志川を渡り、更にこの河岸段丘を登って上の山城に入れば、武田軍も安心だったでしょうね。

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城域内をほぼ南北に伸びる「信玄道」ここを進むと・・・

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最初に訪れたご領主の館付近に戻ります。
三増から退却して来た信玄はこの「信玄道」を通って上の山城を通過、更に進んで現在「信玄森」(地元の訛りか「せんげんもり」と読みます)辺りまで来て首実検を行ったと云います。近くには「首洗い池」があるらしいです。

※実はその近くの「寸沢嵐」という場所に学生時代に友人が住んでいたことがあり、遊びに行った際、彼が地元の人から聞いたという伝承を教えて貰ったことがあります。その内容は;
「この辺りは昔、処刑場があって切られた首を洗う池もあった。その為、今でもよく幽霊が出る」
といったもの。
「処刑場」云々はおそらく友人の聞き間違えか、興味本位のいい加減な伝達によるものと考えられますが、その伝承が実は三増合戦時のものに由来していることを今回初めて知りました。18年ぶりのスッキリ☆…(^_^;)

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最後に上の山城の詰の城?のような小山にも登って、いくつかの郭や土塁などの遺構も確認してきました。残念ながら暗くなっていたので写真はNGでしたが…(^_^;)
言うなれば、根古屋式山城のミニチュア版(失敬w)といったイメージのお城ですかね(笑)

これにて本日のバスツアー「三増合戦」も終了~。私は相模湖駅でバスを降ろして貰い、電車で帰って来ました。

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偶然にも相模湖駅から乗ったホリデー快速「河口湖号」は本日が最後だったとか。翌日からは「富士山号」に名称が変わるそうです。


それで「三増合戦」の勝敗の帰趨ですが…一般的には武田軍の勝利、と伝わっているものが多いですが、これはあくまでも武田側の資料「甲陽軍鑑」に拠るもの。

双方にとっての三増合戦の目的を考えてみると;
武田:とにかく無事に甲斐に戻る。
北条:早く武田を関東から追い出す。

となります。これからすると双方共に目的を果たしており、戦後、氏照も上杉謙信に「勝った」と報じています。
戦死者の数は多少、北条方の方が多かったようですが武田方も浅利という有力武将を失っており、且つ退却したのも武田側。
それらを考え合わせても、お互いに最低限の戦益を確保した「痛み分けだったのではないだろうかと考えます。

そもそもの大戦略的に武田家の関東侵攻からの一連の軍事目的を見ると、駿河計略から北条の手を引かせることにありました。
そして、それは100%全うされることになるので三増合戦単体ではなく、全体を見渡せば武田家により益の大きい軍事衝突だったといえるでしょう。


最後に。
今回初めて専門的な先生の解説を拝聴しながら現地を巡る機会に恵まれました。それはとても得るものが大きく、内容も濃く、大変有意義な時間になりました。
改めて藤井先生始め、機会を設けていただいた主催者の方、その他の関係各位にこの場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました☆

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2013年6月26日 (水)

近藤勇終焉の地(板橋宿)

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今回は旧中山道の宿場町の一つ、板橋宿(仲宿)へ。

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今は商店街となっている旧中山道をてくてくと歩き・・・

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板橋宿本陣(飯田新左衛門家)
通常「本陣」というと参勤交代の折などに大名が宿泊したイメージが強いですが、板橋宿は江戸の町から近過ぎる為、実際には休息に使われることが多かったようです。
幕末、公武合体で14代将軍・家茂に輿入れする際、皇女和宮も江戸入り前に滞在しています。そして・・・

下総流山で新政府軍に包囲されて出頭した新選組局長・近藤勇(大久保大和)は当時、新政府の東山道軍本営が置かれていたこちらの板橋宿本陣に連行されます。
そして詮議の末に「新選組の近藤」と見破られ、身柄を拘束されるのです。。。

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本陣跡から旧中山道を700m程、南東方向に向かいます。そこから少し脇に逸れた先には・・・

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板橋宿平尾脇本陣(豊田家)
本陣で拘束された近藤勇の身柄は、こちらの脇本陣に移されました。彼は処刑される前々日までをここで過ごしたのです。。。

更に旧街道を南東方向へ。国道17号(現中山道)を越えて脇本陣からは合計で1㎞程歩きましたかね、JR板橋駅にだいぶ近づいたところで次の目的地に。

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この辺りにはかつて、平尾一里塚がありました。
近藤はこの一里塚の近くにあったという馬捨て場で処刑され、35歳の生涯を閉じるのです。。。

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一瞬こちらの道路の膨らみが一里塚の名残か?と思いましたが、どうやら違ったようです。
何でも上水の跡だとか。そう言えば旧中山道に沿ってずっと膨らんでいたように思います。

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すぐ近くの中山道脇には、馬頭観音も祀られています。
馬捨て場/馬頭観音の繋がり・・・或いはこの辺りが?と思わせるものがありました。

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JR板橋駅東口すぐの場所には、近藤勇の墓所があります。
処刑場からは5~60mくらいの距離でしたかね?元々宿場で亡くなった人々を埋葬した無縁塚があったらしく、処刑後、首の無い近藤の胴が埋められた場所です。

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墓所内にあった肖像画。一番左は永倉新八。

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近藤勇の姿を描いた石板。

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そして、明治9年に永倉新八らによって建てられた供養塔。正面には近藤と土方の名前。
※何故か近藤の諱が「冝昌」と逆さになっていますが、正しくは「昌冝」。

裏面には;
「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 發起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」

左右の側面には戦死・切腹・病死などで命を落とした元隊士たち110名の名前が刻まれています。

ちなみに近藤勇の墓石はこの供養塔の向かって右にあります。
首は平尾一里塚で晒された後に京に運ばれて三条河原で晒されています。そして胴の方ですが、これについては後年、近藤の養子で娘婿の勇五郎が;
「処刑の3日後、親類数名で板橋に行き、番人に金を渡して埋めた場所も教えて貰って掘り起こし、三鷹(「上石原」)の龍源寺まで運んで埋葬した」
と証言を残しており、詳しい顛末は子母澤寛の『新選組遺聞』で紹介されています。

ところがこの時、遺体の目印にしたという銃創(伏見で元御陵衛士に撃たれたもの)を「左肩」と間違えており(実際に近藤の治療にあたった松本良順が「側ノ鎖骨上ヨリ、上斜脊椎ノ旁二貫キタル」と記しているので本当は右肩であったと思われる)、また、昭和4年に板橋の墓石の下から首のない遺骨が発見されたらしいことから、今でもどちらに眠っているのか、本当のところはハッキリしません。

まぁ、証言の間違い?に関しては勇五郎の記憶違い、はたまた子母澤の聞き間違いという可能性もあるし、何よりも勇五郎がわざわざ全くのデッチ上げでこのような証言をするとも考え難いので、私の個人的な心証としては龍源寺かな~とは思います。
※但し、子母澤寛の著作には当事者たちの「証言」の体裁をとりながら、結構「作り話」が多いらしいことも判明してきていますので注意が必要ですが。

いずれにしても永倉新八を始め、近藤や土方、多くの元隊士たちを偲んで動いた人々の思いが込められた場所であることは間違いありません。

※そういえば子母澤が書き残した件の勇五郎の証言も昭和4年に取材したというもの。板橋で首のない遺骨が発見されたのと同じ年だったのですね。不思議な感じがします。

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近藤勇のお墓の“当初の墓石”らしいのですが、手前の石を指しているのか奥の方か…判断つきませんでした…(^_^;)

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近藤勇の石像と、碑文の刻まれた石碑。

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最後に…この地に近藤らを祀った永倉新八のお墓。
彼の遺言に従い、遺骨の一部や遺髪が納められているそうです。

久し振りにまた、三鷹の龍源寺にも行ってみたくなりました。

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2013年6月23日 (日)

大久保長安陣屋跡

どんよりとした梅雨空の日曜昼下がり。朝から読書に耽っていたのだが、ちょっと気まぐれでドライブへ。
向かった先は・・・

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八王子市小門町にある大久保長安の陣屋跡。現在は産千代稲荷神社になっています。

大久保石見守長安は元・甲斐武田家臣。信玄お抱えの猿楽師だったとも。
その後、徳川家康に仕え、家康の江戸入封に伴って甲州街道の警備や治安維持を目的とした“八王子二百五十人同心”の創設を具申。それが認められると旧武田家臣団を集めて自らこの地に陣屋を構えました。
八王子二百五十人同心はその後、五百人に増員され、慶長五年(1599)には家康の許しを得て更に倍増し、ここに「八王子千人同心」が誕生するのです。

江戸幕府開府後には佐渡奉行、所務奉行(後の勘定奉行)、伊豆奉行などを兼任し、「天下の総代官」とも称されました。
その死後には奉行時代の不正蓄財を咎められ(多分に幕府内の派閥争いに利用された“言いがかり”の感も拭えませんが)、残された一族には悲惨な末路が待っていました。。。

しかし八王子では今でも地元発展の功績を讃え、意外?と大切にその業績を語り継いでいるのです。

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近くの公園に設置されていた案内板より。江戸期の古地図と現在の比較。長安陣屋跡は②
武田信玄の息女・松姫が庵を結んだ信松院③もすぐ近くにあります。

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おや?随分立派な龍が・・・

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今となっては陣屋としての遺構は残っていませんが、八王子市民としては今後も大切にしていきたい場所の一つ。またお参りに来ます。

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2013年6月15日 (土)

大法寺・清水寺・保井寺

特に遠征の予定が入っていない週末は地元の史跡巡りへ♪

■大法寺
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まず向かったのは、八王子市鑓水にある大法寺。
位置的には、八王子バイパス「鑓水」出口のすぐそばです。

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お目当ては新選組隊士・横倉甚五郎のお墓。
伊東甲子太郎ら高台寺党を粛清した油小路事件に出動し、局長の近藤勇が伏見街道でその高台寺党の生き残りに狙撃された現場にも近藤の護衛として居合わせました。
その後の戊辰戦役では土方と共に函館まで戦い、最後は弁天台場で降伏。坂本龍馬暗殺の嫌疑で取り調べを受ける中、明治3年に獄中死しました。享年37歳と伝わりますが、こちらのお墓には「三十五才」とありますね。


■清水寺
引き続き大法寺からも程近い、八王子と町田の市境にある清水寺(「せいすいじ」と読みます)へ。

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正面の石段をずっと登って行った先に、町田市の有形文化財に指定されている観音堂があります。

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その観音堂の彫刻がまた見事なこと♪
そして、この観音堂の脇に・・・

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天然理心流二代目宗家・近藤三助の石碑があります。
(お墓は以前ご紹介した桂福寺)

この台座の部分をよ~く見ると・・・
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「嶋崎周平」の文字が。彼は後の近藤周助。天然理心流三代目宗家にして、近藤勇の養父でもあります。勇も一時、「嶋崎勇」を名乗っています。
※日野の八坂神社の奉納額にも「嶋崎勇」と書かれています。

この時、観音堂の周辺を掃除している女性がいて話しかけられました。
私が新選組に興味があって、今回はこちらの石碑を見に来た旨を伝えると、「詳しくないので逆に教えて欲しい」とのこと。簡単に近藤三助・周助・勇の関係などをお話ししました。
ところがこの周辺、藪蚊が多くてねぇ…(^_^;) 物凄い襲撃を受け、ほんの数分立ち話をしている間に何ヶ所も喰われました…(>_<)

しかし「嶋崎」という名前を出した時に、その女性から;
『ここから16号を越えた先の“お山”の辺りに「嶋崎」姓の方が今でも沢山住んでいる』
ということを教えて頂きました。
後で地図で確認したところ、明確に「山」と呼べるような地形は無かったのですが、清水寺から16号を越えた町田街道沿いに「小山ヶ丘」という地名があり、「小山観音」もあるようですので;
「お山」→「小山」
の聞き取り違いだったようです。この周辺が「嶋崎」姓のルーツなのかもしれませんね。いずれ詳しく調べてみます。


■保井寺
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さて、最後は八王子市堀之内の保井寺(ほうせいじ)へ。

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こちらのお寺には新選組隊士・斎藤一諾斎(秀金)のお墓があります。

元は武士の生まれながらお寺に養子に出されて住職を勤めていましたが、甲陽鎮撫隊の要請に“一諾”で応えて物資を提供し、更に還俗して新選組に入隊したとも伝わります。
上野の彰義隊にも参加しましたが再び新選組に復し、会津戦争にも参戦して最後は仙台で降伏しました。

その名前(号)から、あの司馬遼太郎が斉藤一と混同したこともあるとか…(^_^;)

まだまだ八王子周辺にも興味深い場所がありますね。追々またご紹介していきます☆

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2013年6月 8日 (土)

お久しぶりのボン♪

最近すっかり滞っていたボンのblog。折角自宅でノンビリしているこの機会に☆

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ボンはとにかく母ちゃんッ子。スリッパの位置を見ても分かる通り、母ちゃんが出掛けるといつも寂しそうに玄関を見つめています。。。
俺だっているのに…(^_^;)

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寝る時はとにかく腕枕♪
ちょっと体を伸ばそうとうつ伏せになった隙に・・・(笑)

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私の誕生日にフォロワーのみかんさんから頂いたパグのぬいぐるみを見せると・・・どういう訳だか大層な気に入りようで、ガシガシ噛み付いて離さなくなりました(^_^;)
ぬいぐるみが可哀相なので引き離しました(笑)

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梅雨の時期ともなるとボンも暑いのか、ここ最近は寝床から体が半分はみ出していますww

また写真が溜まったら更新しますね~♬

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姉川古戦場、他

さて、刀根から引き返し、車を返すために米原へ向かう途中、姉川の古戦場にも立ち寄りました。

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実は初めて来ました。

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姉川の北方、浅井長政が布陣した野村の郷(右)と朝倉景健が布陣した三田村(左)
浅井本陣の後方には小谷城も見えています。

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織田×浅井軍が激突した辺りに立つ古戦場の碑

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姉川と南方、織田信長が本陣を布いた龍ヶ鼻(横山城麓)方面

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少し移動して、徳川×朝倉軍が激突したと云う血原公園に立つ石碑
大太刀を振り翳して奮戦したという真柄十郎左衛門直隆で有名ですね。この時の真柄の大太刀と伝わるものが熱田神宮に展示されています。本当にあんなものを振り回せるのか…甚だ疑問ですが(^_^;)

今回はついでの立ち寄りだったので、ここもいずれまた、ちゃんと下調べして再訪しなくてはなりません。

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米原駅のすぐ近くにある、大谷吉継の首塚

さて、これにて今回の2泊3日の行程も全て終了。
しかし、私もサイガさんも帰りの新幹線を遅めの時間に設定していたため、大いに時間が余ってしまった。
と、そこへ、twitterを通して京都にいた有里さんが彦根にいる流星☆さん一向に合流する、との情報をGET!
彦根といえば米原から僅か一駅。という訳で、我々も合流させていただくことにしました♪

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米原で車を返し、電車で移動した彦根駅前。あちらのお店で流星☆さん、あっぴん。さん、ゆっき~(幸村!)さん、有里さんにサイガさん、しろうさぎさんとまさかの2日連続城好き飲み会☆
私は東京へ帰らないと行けないので中座しましたが、とても予想外で楽しい夜になりました♪
(サイガさんは結局、東彦根で延泊ww)

今回も歴史欲を存分に刺激される、充実した2日間になりました。お会いした方々、本当にありがとうございます!またいずれ、日本のどこかの空の下でお会いしましょう♪

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神懸りな朝倉追撃戦 (柳ヶ瀬~刀根)

天正元年(1573) ※7月に元亀より改元

8月12日
浅井長政の小谷城を包囲する織田信長は、山本山城の浅井家重臣・阿閉貞征や『やけを』の浅見対馬らが味方に寝返ったのを契機として、自らの馬廻りを率いて風雨の中、浅井の後詰に来た朝倉勢が守る大嶽城、丁野山城を続けざまに落とします。

8月13日
『然れば、信長御諚には、必定、今夜、朝倉左京大夫(義景)退散すべく候。先手に差し向け候衆、佐久間右衛門(信盛)、柴田修理(勝家)、滝川左近(一益)、蜂屋兵庫頭(頼隆)、羽柴筑前(秀吉)、丹羽五郎左衛門(長秀)、~(中略)~此の外歴々の諸卒、爰をのがし候はぬ様に覚悟仕るべきの旨、再往再三仰せ遣はさる。』
※「信長公記」巻六より抜粋。( )内はしみず追記

と配下の武将たちに;
今夜必ず朝倉義景は退却するから、いつでも動けるように油断するな
と厳命を下します。
果たして信長の読み通り、その日の夜中に朝倉勢は撤退を始めるのです。

『十三日夜中に越前衆陣所へ、信長又、御先懸なされ、懸け付けられ候。』
※同

再三「油断するな」と言われていたにも関わらず諸将は結局出遅れ、またも信長自らが先駆けすることになります。

慌てた諸将は必死に信長の後を追いかけ、「信長公記」によると『地蔵山を越し』た辺りでようやく信長に追いつき、そこで厳しく叱責された、とあります。
この「地蔵山」がどれに当たるのか私には分かりませんでしたが、距離感からして柳ヶ瀬の集落の手前辺りではないかと思います。

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現在の柳ヶ瀬の集落。中心を北国街道の旧街道が貫きます。
すぐ脇を現在の国道365号線が通っていますが、往時は間違いなくこちらが主街道だったことでしょう。
この写真は北から南に向かって撮影していますので、追撃する織田勢は写真正面から迫ってきたことになります。
朝倉勢も小谷城の後詰に向かう際は一旦この柳ヶ瀬に陣を張り、ここから『田神山』に移動しています(「朝倉始末記」)。

織田勢が追撃の手を緩めることなく進むと;
『(朝倉勢は)中野河内口、刀根口二手に罷り退き候。何方へ付き候て然るべく候はんやと、相支え、僉議区(センギマチマチ)候ところに、信長御諚には、引檀・敦賀の身方城を心懸け、退くべく候間、引檀口へ人数を付け候へと御諚候。』
※同
※引檀は現在の「疋田」で、刀根の先にあります。つまり「引檀口」=「刀根口」


小谷からの朝倉勢撤退を予言したことといい、この日の信長の読みは神懸っていました。中野河内口には『雑兵』を退かせ、『朝倉左京大夫、名ある程の者どもを召し列れ』敦賀を目指して刀根口を逃れていたのです。

今回の我々の踏査のメインターゲットは、この「刀根口」「中野河内口」の追分を訪ね当てることにありました。
サイガさんが事前に「信長公記」の記述や、現在の地形図を見比べて「アタリ」を付けていた場所に行ってみると・・・

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なんと・・・今でもしっかり残っているではありませんか!
先程の旧街道を北上した、柳ヶ瀬集落の北端辺りです。右の舗装路が「中野河内口」で、左が件の「刀根口」。この場に立った瞬間、大袈裟ではなく鳥肌が立ちました。
間違いなく織田信長はこの場に立ち、「左へ進め!」と命じたのです。。。

※後日、地図で確認したら右の舗装路を進んで国道に合流し、更に北上した先に「中河内」という地名を確認しました。「中野河内」は「中の(之)河内」だったのかも知れません。

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地形図でいうと右下の水色の○で囲った辺り。引檀の先へ更に進むと敦賀に至ります。

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現地に立っていた案内板

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今でこそ砂利敷きの“脇道”といった風情ですが、ご覧のように石仏が道に面して祀られていますし、明治11年(西南戦争の翌年)の明治天皇による北陸巡幸の際にも、天皇はこちらの道をお通りになっています。近年まで敦賀方面に抜ける主要道であったことは間違いありません。
ちなみに祀られている石仏は不動明王でした。

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この道が刀根峠を越え、刀根の集落から引檀(疋田)へと続きます。
すぐ目の前には、賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家が陣を布いた玄蕃尾城もあります。

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刀根の集落に来てみました。敦賀市域に入るので、バス停の看板が「銀河鉄道999」♪

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こちらにも旧街道の風情が…

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そして旧街道沿いには、やはり石仏が。
先程の“別れ道”に祀られていたものは、向かって右の石仏と同じような形をしていました。

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『さる程に、信長、年来、御足なかを御腰に付けさせられ候。今度刀根山にて、金松又四郎、武者一騎山中を追い懸け、終に討ち止め、頚を持参候。其の時、生足に罷り成り、足はくれなゐに染みて参り候を御覧じ、日比(ヒゴロ)御腰に付けさせられ候御足なか、此の時御用に立てられ候由、御諚候て、金松に下さる。且は冥加の至り、面目の次第なり。』
※同

足なか(足半)とは、踵の部分がない草履のこと。平地を駆けるのに適していたと云います。
裸足で山中を駆け回り、血で足を赤く染めた金松(兼松)の姿を見た信長は、自らの足なかを手ずから金松に与えました。写真に写っているのが「刀根山」と思われるので、まさにこの辺りでのエピソード。
そして驚くことに、この時の足なかは金松の子孫によって大切に保管され、現在は名古屋の「秀吉清正記念館」に寄贈されているというではありませんか!・・・これは何としても観に行かねば☆

後に土佐藩主となる山内一豊の顔に矢が刺さり、郎党に顔を足で踏みつけて矢を引っこ抜かせたというエピソードも、ここ刀根坂での戦闘の話です。

刀根坂については、コチラの記事を参照。

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刀根集落の外れにあった気比神社。敦賀気比神社の奥の院だそうです。

境内をブラブラしていたら社務所?にいた方々から「寄っていけ」と声を掛けられ、お言葉に甘えてお茶をいただき、いろいろお話も聞かせていただきました。
この時にお会いした方々は敦賀市の市議会議員さんだったり、玄蕃尾城跡保存会の方だったり…貴重な出会いとお話に感謝☆
特に玄蕃尾城築城の際、気比神社の建物をごっそり移築して、その代わり賤ヶ岳で秀吉に勝ったらたくさん寄進してやる、と言ったというエピソードなんかは興味深かったです。
戦の結果は…周知の通り(^_^;)

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年に数回しか公開されないという貴重な仏像も拝観させていただきました。
釈迦如来坐像は平安後期の作で、県の重要文化財なのだそうです。

・・・ん?神社に仏像??と思ったそこのアナタ、鋭い!(笑)
実は刀根の集落は昭和21年に大火に見舞われており、集落にあったいくつかのお寺や神社も焼失してしまったそうです。その後、これらの寺社は再建されることなく、集落の外れにあって焼失を免れた気比神社で合同で祀られることになったのだそうです。

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先程もご紹介した明治天皇巡幸の際、こちらで御休息されたことを記念する碑。

時間の都合で今回はもう引き返しますが、いずれまた、この先の引檀や敦賀までのルートを巡りたいと思います!

※姉川古戦場につづく。。。

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長浜城~賤ヶ岳

6月2日、大阪で迎えた2日目の朝はまずJR大阪駅でサイガさん、しろうさぎさんと待ち合わせ、新快速で一気に米原まで移動。
米原からはレンタカーして車での移動となります。まず最初に向かったのはこちら・・・

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長浜城~ヽ(^o^)丿 2年ぶりの再訪です。
お目当ては長浜城歴史博物館でこの日まで開催されていた特別企画
「賤ヶ岳合戦と羽柴秀吉」!
数種類の合戦図や様々な書状、そして加藤清正の十文字槍など、、、早朝で人が少ないのをいいことに、3人ともじっくりと時間をかけて観て回りました♪

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天守最上階から。正面に浅井長政の小谷城と、左手前が虎御前山。織田方が対浅井戦でよく陣を張った場所です。

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長浜城で見つけたマンホールは、秀吉の千成瓢箪~☆

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この場所からは水色のラインに沿って実際の石垣遺構が発掘されています。今は埋め戻されていますが。

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太閤井戸
前回来た時は琵琶湖の潮が満ちていて足元まで見えなかったのでラッキー☆

朝の長浜城散策を終えて、再び車で移動します。

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お次はリフトで賤ヶ岳に登ります!

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いや~凄い眺めだ!竹生島があんなに小さく・・・

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リフトを降りて7~8分ほど登れば賤ヶ岳砦跡に到着します。
勿論遺構も残っていますが今回は古戦場の全体把握が目的なので、こちらの案内板だけでご容赦を!ww

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賤ヶ岳の石碑

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お~これが有名な銅像ですね♪

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そして・・・賤ヶ岳の古戦場を俯瞰で。
※1:堂木山砦、2:大岩山砦、3:岩崎山砦、4:東野山城、5:神明山砦、6:茂山砦
(赤=羽柴方、白=柴田方)


堂木山砦(1)と東野山城(4)の間には南北に伸びる北国街道が通っており、それを封鎖するように羽柴勢によって土塁が築かれていました(紫のライン)。

天正11年(1583)4月。両軍対陣する中、岐阜で反秀吉の兵を挙げた織田信孝を攻めるために大垣方面へ向かった秀吉不在の隙を突き、柴田方の佐久間盛政は余呉湖の南岸を迂回するように進んで(白いライン)中川清秀らが守る大岩山・岩崎山(23)の両砦を奇襲し、これらを落とす。
総大将・柴田勝家からの再三にわたる撤退命令にも勝ちに驕ったか、盛政軍がそのまま留まっていたところへ、大垣から大返ししてきた秀吉の大軍が突如出現する。
慌てた盛政は元来たルートを辿って退却を開始するが、そこへ賤ヶ岳砦に登った秀吉軍が怒涛の追撃を開始する(赤いライン)。
この時の追撃戦で活躍して有名になるのが「七本槍」で、盛政軍は散々に追い崩される。これがきっかけとなり、前田利家(柴田方)の戦場放棄もあって戦いは羽柴勢の大勝に終わる。

この場所に立ち、眼下で展開されている合戦で自らの軍勢が敵勢を追い崩していく様を凝視している時の秀吉の心境たるや…如何に。
きっと「勝った!これで遂に俺の時代が来る!!」という興奮に包まれた、まさに人生絶頂の瞬間だったでしょうね。

今はとても静かな同じ場所に立ち、同じ景色を眺めながらそんなことを考えていました。

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同じ賤ヶ岳の山頂から、反対の南側へ目をやると…今度は織田信長と浅井長政の間で元亀年間(1570~73)に展開された数々の争乱の舞台が広がっています。
※1:小谷城、2:虎御前山、3:姉川・横山城方面、4:山本山城

凄いなぁ、近江。「回れ~右!」しただけなのに(笑) 羨ましくて身悶えしちゃいそうww

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賤ヶ岳砦の土塁。山頂は公園みたいになっていますが、こうした土塁や切岸は明瞭に残っていました。

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下山もリフトで☆絶景を前に必死でしがみつく高所恐怖症♪
2週間前の岩櫃城の吊り橋に続く第2弾!w これから、しろうさぎさんとご一緒する時は恒例化しようかな?(笑)

この後は天正元年8月、小谷城救援を諦めて越前に撤退する朝倉軍を追う織田信長の追撃戦のルートを辿って北上しますが、その途中で車を停めて確認したのがこちら↓
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先程の賤ヶ岳古戦場俯瞰の写真で、紫のラインを引いた秀吉軍の防塁が築かれていた場所(北側より)
右が堂木山砦で左の東野山城に向かって、丁度電線に沿うような感じで伸びていたものと推察。ここを北国街道が通っています。
残念ながら遺構らしきものは何もありません。左前方に見えている杉の雑木林が怪しいと思いましたが、地面は真っ平でした(^_^;)

さ、次は朝倉追撃戦を辿ります☆

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2013年6月 6日 (木)

堺見物♪

先週末(6月1~2日)は近畿方面に出掛けておりました。
そもそものきっかけは、大阪で行われた城好き飲み会(主催:みかんさん)に参加させてもらうことにしたこと。
宿を梅田に確保して、2日目の予定はサイガさんやしろうさぎさんとの間でトントン拍子に決まり、さて初日はどうしよう…?

と考えた末に辿り着いた結論が…堺。
古くから海運交易で栄え、戦国末期に渡来した宣教師からは「東洋のベニス」と讃えられた町。敬愛する織田信長公にも縁深いのに一度も訪れたことがなかったので、いい機会になりました。

早朝に自宅を出発して、堺駅に到着したのは午前11時過ぎ。
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早速、駅の観光案内所でレンタサイクルしてスタート!…のつもりでいたのに、「所用で不在」ってどういうこと?!
30分くらいは待ちましたかね、一向に現れず。せめて戻り時間だけでも書いておいてくれたら待つか諦めるか、すぐに判断できたのに。。。日本でもこんないい加減な話が存在するんですね。結構アタマに来た。

仕方ないのでチャリは諦め、目的地も減らして歩くことに。余計なタイムロスだ。

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う~ん、南蛮♪(笑)

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てくてくと歩きながら、与謝野晶子生家跡。

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そして千利休屋敷跡。

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駅からは2km弱ほど歩きましたかね、南宗寺に到着。

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南宗寺の塔頭の一つ、天慶院。境内には山上宗二の供養塔もあるようですが、非公開でした。

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千家一門の墓。一番高いのが千利休のお墓。

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利休の茶の湯の師匠、武野紹鷗の墓。

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三好長慶一族の墓。

そして・・・
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こちらが「伝説の徳川家康のお墓」だそうです。。。
大坂夏の陣で“本物の”家康は“実は”討ち死にしており、密かに埋葬されたという“伝説”に由来しています。
勿論、俗説の域を出ませんが、二代将軍・秀忠に続き三代・家光までもが参拝している事実が更なる憶測を呼んだのでしょうね。

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近年になって建てられた家康の墓石。
裏に彫られた寄進者の中には松下幸之助さんのお名前もありました。ボランティアの方が経緯について説明されていましたが…忘れました(^_^;)

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方丈前の枯山水。

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この鬼瓦の奥には小さな穴があって、水琴窟になっています。

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こうして竹筒を当てて聴くらしいのですが…普通に通り掛かっただけでも聴こえて来ましたよw

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利休遺愛の手水鉢に…

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紹鷗遺愛の灯篭も。

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「八方睨みの龍」

南宗寺を出てからは再び歩きます。
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堺のマンホール。図柄は何種類か違うものもありました。

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一度は来てみたかった仁徳天皇陵。
現地に来てみて初めて気付いたのですが、三重の水濠に囲まれています。

仁徳天皇陵からはバスで堺東駅まで移動。

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駅近くの堺市役所展望ロビーから。まずは反正天皇陵古墳。

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そして仁徳天皇陵古墳。
周囲には他にも様々な古墳が並び、これらを総称して「百舌鳥古墳群」と呼んでいます。

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次の目的地へ向かう途中で通り掛かった「土居川公園」。
名前から、堺の町を囲っていたという堀(土居)に関係があるのかな~と思ったんだけど、どうなんでしょう?

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そして、堺での最後の目的地は妙国寺。

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境内には、信長が気に入って安土に持ち帰ったものの夜な夜な「堺に帰りたい」と泣くので、怒った信長が刀で切ったら血が噴き出し、さすがに気味悪がって妙国寺に戻されたという大蘇鉄があります。
※写真は別の蘇鉄。大蘇鉄は撮影不可。

このエピソードは妙国寺でのみ口伝で伝わってきたもので他の文献では見受けられないし、話の内容からしてもとても事実とは思えないが、案内してくださった方によると;

蘇鉄は中が空洞になっていて、そこに水を溜め込んでいるのだそうです。
堺から安土へ運ぶ途中に何本かが折れてしまい、その空洞部分が「ヒューヒュー」と鳴ったので「泣いている」ように聞こえたのではないか。
また、刀で切った際に中に溜まっていた水が空気に触れて酸化し、それが一気に噴き出したので、あたかも「血が噴き出した」ように見えたのではないか、とのこと。確かに「鉄」の字が使われていますものね。

また、元々「蘇鉄」は「鉄の蔦」と呼ばれていましたが、安土から戻された「鉄の蔦」が日珖上人による一年がかりの読経のお陰で見事に「蘇った」ことから、「蘇鉄」と呼ばれるようになったのだとか…思わず、なるほど☆と納得してしまいましたww

なお、日珖上人は「安土宗論」での日蓮宗側の代表者でもありました。

他にも小堀遠州が家康のために作ったという駿河~遠江を模した枯山水や貴重な文化財の数々、幕末に土佐藩士とフランス人水兵との間で起きた「堺事件」縁の品々など、見どころはたくさんありました。

※そういえば私が堺を訪れた6月1日は旧暦で本能寺の変の前日。天正10年のその日、堺見物をしていたのは徳川家康…なんだか不思議な偶然に少し驚き。

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さて、堺から大阪に戻った後は、梅田で飲み会♪
前日が参加者の一人、しろうさぎさんのお誕生日だったのでバースデーケーキ☆

この日は私もお酒を過ごすことなく、二次会までのんびりとした気分で楽しく参加させていただきましたよ(笑)

翌日は琵琶湖の湖北を巡ります。
(つづく)

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