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2013年6月30日 (日)

三増合戦 (もののふ戦国バスツアー)

6月29日(土)、「第14回もののふ戦国現地セミナー」に参加させていただきました。
テーマは「三増合戦」、講師は工業デザイナーであり、且つ戦国史に関する多くの著作をお持ちの藤井尚夫先生。
朝8:30に新宿駅西口に集合、バスに乗り込んで出発です!参加者は総勢20名強。

※以下、藤井先生に教えていただいたものを私なりの解釈をもって書き進めます。
※いくつかの城跡も巡りましたが、あくまでも「三増合戦」の経過・地理的条件からの踏査であり、細かい遺構の紹介は省略致します。一部の城好きさんから怒られてしまいそうなので、あしからずご承知おきの程を(笑)



■三増合戦とは?
永禄12年(1569)、関東に侵攻して鉢形城や滝山城を攻撃しながら南下した甲斐の武田軍は10月初旬、北条家の本拠・小田原城を包囲する。だが北条勢が城に籠って出て来ないと見るや数日で包囲を解き、再び相模川沿いを北上して甲斐への撤退を開始する。
この時、滝山城の北条氏照、鉢形城の氏邦らは撤退する武田軍の迎撃(追撃? 小田原の本軍との挟撃を狙ったとも)を目論んで出陣、現在の神奈川県愛川町にある三増で激突した戦い。

関東では戦国大名同士が主力を持ってまともに激突した合戦は殆どなく、そういう意味でも屈指の古戦場です。

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まず向かった先は伊勢原市にある岡崎城跡。
鎌倉期には既に存在し、16世紀初頭には三浦道寸が居城としていましたが、永正9年(1512)に伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて落城しています。
その後については詳しく分かっていないようですが、もしそのまま北条家が拠点としていた場合、相模川沿いという立地から武田信玄の関東侵攻の際には何かしらの戦闘なり、動きがあったものと思われます。

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踏査は本郭周辺のみでしたが、幅の広い堀跡や・・・

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藪々ながら素敵な堀底道も・・・

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現在「無量寺」が建つ本郭前のこの道は竪堀の名残

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段郭跡の切岸も綺麗に残っていました。
城好きの方には是非ともじっくり遺構を見ていただきたい城跡です☆


再びバスに乗り込み、相模川沿いを武田軍と同じように北上します。

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国道246号と129号が交差する「金田」交差点(厚木市)。
小田原からの帰路(往路も)、武田軍はこの付近(金田・妻田・三田)で陣を張って一泊しました。近くにお寺が3~4軒あるので、その辺りに本陣を置いたかもしれませんね。
実際、金田の建徳寺や妻田の薬師院、少し南の最勝寺などには「上杉謙信(1561年)や武田信玄の関東出兵の際、付近も大きな被害を被った」という記録が残っているそうです。

写真正面に伸びる道が129号。当時は「八王子街道」と呼ばれた道の名残で、滝山城の北条氏照も小田原への往復には常に利用した道と思われます。私も湘南方面の往復には必ず利用します(笑)
金田で一夜を明かした武田軍は八王子街道を相模川西岸沿いに北上、街道が相模川を渡る手前で西に進路を変え、三増方面(愛川町)へと進みます。

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その武田軍が通ったとされる愛川町の「信玄道」
右側は現在の新道(県道63号)で、武田軍は左の古道を進みました。
※この先も度々「信玄道」が登場しますが、これらは武田軍が通行した道の総称と思われます。

そして問題はこの先。合戦の経過というか、両軍の布陣について2つの説があるのです。

■A説:「北条軍北側に布陣」説
一般的に流布されている説で、「甲陽軍鑑」の記述に拠ったものと思われます。
この説を図にすると以下のようになります。

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武田軍を迎撃するため、氏照・氏邦率いる北条軍は三増峠(の西隣の中峠?)付近に布陣。そこへ北上してきた武田軍と激突する。
合戦当初は有利な地理条件(高所)を活かした北条側が優勢に進めたが、信玄の命を受けて志田峠を迂回した山県昌景らが北条軍の側面を急襲、形勢は武田軍優勢に反転した―

しかしこの説には1点、どうしても解せない部分があるのです。お分かりでしょうか?
それは、武田軍が再び八王子方面に進攻してくる恐れもある中で、何故北条軍が“予め”三増付近に布陣した(出来た)のか、ということです。それには当然、予め武田軍の撤退ルートを正確に、確信を持って把握していなければなりません。

ところが北条家側では、小田原城の包囲を解いた信玄が一旦東に向かったので;
「謙信の先例(永禄4年)同様、鎌倉に向かったみたいだ(実際には鎌倉へは行かず、手前の相模川河口付近で北に向きを変えている)」
と考えていたりして、武田軍の動きが読めずに神経を尖らせている様子が伺えます。
そんな状況の中で「主戦場は三増」と事前に把握することは絶対に不可能です。つまり、「甲陽軍鑑」は合戦が三増で起きたことを知る“結果”から書かれたものでしかない考えられるのです。

では実際の合戦の経過・両軍布陣はどのようになったのでしょうか。

■B説:「武田軍北側に布陣」説
これは古くから地元などで伝承されてきたもののようです。
北上してくる武田軍がどのルートを通るか分からない状況で氏照・氏邦の北条軍が採るべき作戦とは如何なるものか・・・?当然のことながら八王子方面に再侵攻されることも警戒していたでしょうから、それは軍略上・地形的条件からしても相模川を挟んで武田軍と対峙する、というものだった筈です。
そして彼らが着陣した場所ですが、北条方に一番有利で武田方に不利な場所、となると三増から津久井方面に抜けるルート(「みませすぢ」甲陽軍鑑)を見据えつつ、武田軍が(八王子方面に侵攻してくる場合に)相模川を渡河するであろう地点しかありません。
現在では場所は少し変わっているかもしれませんが、「八王子街道」が相模川を越える下図のポイント辺り(当麻の渡し)だと考えます。つまりここが、北条軍にとっての当初の想定決戦地。

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ところが、こうした北条方の動きを物見によっていち早く察した信玄は、小田原勢による追撃も警戒していましたので挟撃される危険を避けて西に進路を変え、三増に向かいます。
これを受けて追撃を開始する北条軍。北条家としては早く武田勢を関東から追い出したいし、目前で敵が背中を見せた訳だから、ある意味当然の行動と言えます。
その結果、戦場での布陣は下図のようになりました。

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いち早く高所を押さえて反転した武田軍に対して、北条軍は峠下の平地に布陣して睨み合う形となり、開戦しました。
北条側からすれば僅かな追撃の遅れが、武田軍に高所を占められる結果になったのかもしれません。

信玄は後日、苗木遠山家を介して織田信長に合戦の様子を報じていますが、その中で「三増峠を左に置いて陣を布いて戦った」と言っています(北側に布陣しないと三増峠が左にはならない)し、戦国期に書かれた北条方の「北条記」にも「信玄は三増を究竟の要害を構え」とあります。
これらのことを考え合わせても、武田軍が北⇔北条軍が南という布陣は間違いないと思います。

それにしてもここまでの、目の前を逸れていった武田軍を追って追撃したら武田軍が反転して開戦、という一連の動きを見ていくと何だか「三方ヶ原の戦い」に似ていますね。

では早速、古戦場巡りへ☆
といきたいところですが、その前に腹ごしらえ♪

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昼食会場は近くのゴルフ場クラブハウス。玄関の軒下には燕が巣を作って子育ての真っ最中でした。可愛い頭が覗いていますね♪

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昼食の「大名椀」!どれから食べたものか…凄く豊富なおかずに思わず迷い箸…(^_^;)

さ、それでは古戦場巡りへ!

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北条軍が布陣した辺りに建つ石碑。電柱の向こう、一番高い山の上に信玄が本陣を置いた「旗立松」があります。

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三増合戦布陣図。手前の赤が北条方で志田峠・中峠・三増峠一帯の山中に布陣しているのが武田方。
北条方が布陣している辺りに縦に3本の沢が描かれていますが、これは現在も残っています。今回バスで通りすがりに見ただけなので写真はありませんが、3本とも兎に角深くて鋭く切り立っていました。(上記掲載のA説/B説両図面中①~③)この沢のせいで北条方は相互の連携が取り辛くなっていたと云います。

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信玄も進んだであろう道を進んで「旗立松」を目指します。
なお、旗立松があるのは中峠といい、三増峠はその東側になります。西には志田峠もありますが、三増・志田の両峠は谷間を進む沢道になっており、2万からの軍勢なので当然3本の峠に跨って幅広く布陣したでしょうが、軍略上の常識からして信玄本隊は唯一尾根上を進む中峠に布陣、退却していきました。
それならば「中峠合戦」となりそうなものですが、激戦が展開された平地部一帯の地名を「三増」といった為、「三増合戦」と呼ばれるようになったのです。

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先程の写真と同じ位置から志田峠方面。

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この山の上に「旗立松」があります。ご覧頂いてお分かりの通り・・・周囲をグルッとゴルフ場に囲まれています。
のみならず、実はゴルフ場造成のためにザックリと山を削られており、「信玄道」などの遺構は山頂部の「旗立松」を除いて悉く破壊されています。。。それでも敷地内を通って見学させて貰えるだけマシか。。。

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山頂部に残る「信玄道」の名残と思われる尾根道の一部。当然ながら山を削られているので、一部しか残っていません。

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こちらが武田信玄本陣「旗立松」
もはや2代目の松も枯れていました・・・

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信玄本陣からの眺め。眼下に広がる養鶏場(白い屋根)の辺り一帯に北条軍が布陣していました。
そして、樹間から僅かにゴルフコースが覗いていますが、本来はこの山頂からあのコースの縁にかけてなだらかに続く坂道でした。今では断崖。。。
※この近くの山中に、1kmにも及ぶ塁壁が残っているそうですが…現在は藪のため断念。いずれそこにも行ってみよう♪

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麓に下りて、合戦戦没者の首塚と・・・

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胴塚

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道端には可愛らしいガクアジサイがまだ辛うじて咲いていました。

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三増峠付近で南から攻めかかった(関八州古戦録)北条綱成配下の銃弾に倒れた浅利信種のお墓。
1789年(合戦の220年後)に村人がお墓の周りを掘ったところ、小さな骨壷が出てきたとか。これを祀りなおして現在では浅利明神として尊崇を集めてきたと云います。

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浅利明神から南側を見た様子。浅利信種もここで、追い縋る北条軍を必死に防いでいたのでしょうか。

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そして、ここまで巡った古戦場の位置関係はこんな感じになります。
(GPSログ/画像提供:サイガさん)
こうして見ると「旗立松」の周囲360度をゴルフ場の造成で見事にぶった切られていることがよく分かりますね。。。


さぁ、次は津久井城へ移動します!

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麓の資料館にあった津久井城のジオラマ。左手前の居館跡から本丸がある左端のピークに向かって一気に直登します。

なお津久井城には「津久井衆」と呼ばれる武士団が形成されて北条配下とされていましたが、この地域は北条⇔武田の軍事的緩衝地帯にも近く、「どっちつかず」な豪族たちも数多くいました。その為か、三増合戦の折にも結局津久井衆は動きませんでした。

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津久井城主、内藤氏の居館跡。かなりの広さがありました。

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やっとこさ山頂部に登り切って…今でも枯れることがないという「宝ヶ池」

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堀切。ここには引橋が架かっていたとのことなので…土橋に見えるあれは後世のもの?それとも引橋の基礎部分?!

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樹齢900年以上の大杉

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本城曲輪(本丸)土塁上に建つ石碑。この土塁…

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本丸を囲むように綺麗に残っていて、とても素敵でした☆

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本丸から津久井湖を見下ろす。
この後、私となっちさんはお年を召した参加者のペースを慮って一行とはぐれて下山。その為、家老屋敷に残っているという石積みを見逃してしまいました。無念!!

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こちらがその石積み(写真:サイガさん提供)


さてさて、最後は津久井城から北条⇔武田の軍事境界線ともいえる道志川を越えて「上の山城」へ。

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城(跡)域内には今でも領主の末裔の方(個人名にもなるのであえて領主名は伏せます)が住んでおられるので、皆でご挨拶いたしました。

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上の山城には武田軍が通過した「信玄道」が城内ド真ん中を通っているのですが、他にも大山詣での「大山道」も通っていました。

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こちらが大山道。

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早速歩いてみます。

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写真先に伸びる舗装路は割と近年まで存在しなかったらしく、右側の山道が唯一手前側に繋がる道だったそうです。こういう古道が今もひっそりと残っている辺り、歴史が現在でも進行中で繋がっていることを実感します。

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さて、では「信玄道」へ。
三増方面から退却し、現在でも広大な幅と深さを誇る絶対防衛ライン・道志川を越えた武田軍。更に道志川の支流を越えて、その河岸段丘上に築かれた上の山城に入ります。
写真はその入り口となる古道「信玄道」
※北条側の絶対防衛ラインは津久井城から仙洞寺山に掛けてのラインと考えられ、中間の三ヶ木や関戸辺りは緩衝地帯。

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段丘を登り切って城内側から見た「信玄道」
しっかりと折って虎口にしてあります。

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城内から段丘を見下ろす。凄く急峻に切り立っています。
北条軍の追撃を振り切って道志川を渡り、更にこの河岸段丘を登って上の山城に入れば、武田軍も安心だったでしょうね。

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城域内をほぼ南北に伸びる「信玄道」ここを進むと・・・

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最初に訪れたご領主の館付近に戻ります。
三増から退却して来た信玄はこの「信玄道」を通って上の山城を通過、更に進んで現在「信玄森」(地元の訛りか「せんげんもり」と読みます)辺りまで来て首実検を行ったと云います。近くには「首洗い池」があるらしいです。

※実はその近くの「寸沢嵐」という場所に学生時代に友人が住んでいたことがあり、遊びに行った際、彼が地元の人から聞いたという伝承を教えて貰ったことがあります。その内容は;
「この辺りは昔、処刑場があって切られた首を洗う池もあった。その為、今でもよく幽霊が出る」
といったもの。
「処刑場」云々はおそらく友人の聞き間違えか、興味本位のいい加減な伝達によるものと考えられますが、その伝承が実は三増合戦時のものに由来していることを今回初めて知りました。18年ぶりのスッキリ☆…(^_^;)

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最後に上の山城の詰の城?のような小山にも登って、いくつかの郭や土塁などの遺構も確認してきました。残念ながら暗くなっていたので写真はNGでしたが…(^_^;)
言うなれば、根古屋式山城のミニチュア版(失敬w)といったイメージのお城ですかね(笑)

これにて本日のバスツアー「三増合戦」も終了~。私は相模湖駅でバスを降ろして貰い、電車で帰って来ました。

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偶然にも相模湖駅から乗ったホリデー快速「河口湖号」は本日が最後だったとか。翌日からは「富士山号」に名称が変わるそうです。


それで「三増合戦」の勝敗の帰趨ですが…一般的には武田軍の勝利、と伝わっているものが多いですが、これはあくまでも武田側の資料「甲陽軍鑑」に拠るもの。

双方にとっての三増合戦の目的を考えてみると;
武田:とにかく無事に甲斐に戻る。
北条:早く武田を関東から追い出す。

となります。これからすると双方共に目的を果たしており、戦後、氏照も上杉謙信に「勝った」と報じています。
戦死者の数は多少、北条方の方が多かったようですが武田方も浅利という有力武将を失っており、且つ退却したのも武田側。
それらを考え合わせても、お互いに最低限の戦益を確保した「痛み分けだったのではないだろうかと考えます。

そもそもの大戦略的に武田家の関東侵攻からの一連の軍事目的を見ると、駿河計略から北条の手を引かせることにありました。
そして、それは100%全うされることになるので三増合戦単体ではなく、全体を見渡せば武田家により益の大きい軍事衝突だったといえるでしょう。


最後に。
今回初めて専門的な先生の解説を拝聴しながら現地を巡る機会に恵まれました。それはとても得るものが大きく、内容も濃く、大変有意義な時間になりました。
改めて藤井先生始め、機会を設けていただいた主催者の方、その他の関係各位にこの場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました☆

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