長浜城~賤ヶ岳
6月2日、大阪で迎えた2日目の朝はまずJR大阪駅でサイガさん、しろうさぎさんと待ち合わせ、新快速で一気に米原まで移動。
米原からはレンタカーして車での移動となります。まず最初に向かったのはこちら・・・
長浜城~ヽ(^o^)丿 2年ぶりの再訪です。
お目当ては長浜城歴史博物館でこの日まで開催されていた特別企画
「賤ヶ岳合戦と羽柴秀吉」!
数種類の合戦図や様々な書状、そして加藤清正の十文字槍など、、、早朝で人が少ないのをいいことに、3人ともじっくりと時間をかけて観て回りました♪
天守最上階から。正面に浅井長政の小谷城と、左手前が虎御前山。織田方が対浅井戦でよく陣を張った場所です。
長浜城で見つけたマンホールは、秀吉の千成瓢箪~☆
この場所からは水色のラインに沿って実際の石垣遺構が発掘されています。今は埋め戻されていますが。
太閤井戸
前回来た時は琵琶湖の潮が満ちていて足元まで見えなかったのでラッキー☆
朝の長浜城散策を終えて、再び車で移動します。
お次はリフトで賤ヶ岳に登ります!
いや~凄い眺めだ!竹生島があんなに小さく・・・
リフトを降りて7~8分ほど登れば賤ヶ岳砦跡に到着します。
勿論遺構も残っていますが今回は古戦場の全体把握が目的なので、こちらの案内板だけでご容赦を!ww
賤ヶ岳の石碑
お~これが有名な銅像ですね♪
そして・・・賤ヶ岳の古戦場を俯瞰で。
※1:堂木山砦、2:大岩山砦、3:岩崎山砦、4:東野山城、5:神明山砦、6:茂山砦
(赤=羽柴方、白=柴田方)
堂木山砦(1)と東野山城(4)の間には南北に伸びる北国街道が通っており、それを封鎖するように羽柴勢によって土塁が築かれていました(紫のライン)。
天正11年(1583)4月。両軍対陣する中、岐阜で反秀吉の兵を挙げた織田信孝を攻めるために大垣方面へ向かった秀吉不在の隙を突き、柴田方の佐久間盛政は余呉湖の南岸を迂回するように進んで(白いライン)中川清秀らが守る大岩山・岩崎山(2,3)の両砦を奇襲し、これらを落とす。
総大将・柴田勝家からの再三にわたる撤退命令にも勝ちに驕ったか、盛政軍がそのまま留まっていたところへ、大垣から大返ししてきた秀吉の大軍が突如出現する。
慌てた盛政は元来たルートを辿って退却を開始するが、そこへ賤ヶ岳砦に登った秀吉軍が怒涛の追撃を開始する(赤いライン)。
この時の追撃戦で活躍して有名になるのが「七本槍」で、盛政軍は散々に追い崩される。これがきっかけとなり、前田利家(柴田方)の戦場放棄もあって戦いは羽柴勢の大勝に終わる。
この場所に立ち、眼下で展開されている合戦で自らの軍勢が敵勢を追い崩していく様を凝視している時の秀吉の心境たるや…如何に。
きっと「勝った!これで遂に俺の時代が来る!!」という興奮に包まれた、まさに人生絶頂の瞬間だったでしょうね。
今はとても静かな同じ場所に立ち、同じ景色を眺めながらそんなことを考えていました。
同じ賤ヶ岳の山頂から、反対の南側へ目をやると…今度は織田信長と浅井長政の間で元亀年間(1570~73)に展開された数々の争乱の舞台が広がっています。
※1:小谷城、2:虎御前山、3:姉川・横山城方面、4:山本山城
凄いなぁ、近江。「回れ~右!」しただけなのに(笑) 羨ましくて身悶えしちゃいそうww
賤ヶ岳砦の土塁。山頂は公園みたいになっていますが、こうした土塁や切岸は明瞭に残っていました。
下山もリフトで☆絶景を前に必死でしがみつく高所恐怖症♪
2週間前の岩櫃城の吊り橋に続く第2弾!w これから、しろうさぎさんとご一緒する時は恒例化しようかな?(笑)
この後は天正元年8月、小谷城救援を諦めて越前に撤退する朝倉軍を追う織田信長の追撃戦のルートを辿って北上しますが、その途中で車を停めて確認したのがこちら↓
先程の賤ヶ岳古戦場俯瞰の写真で、紫のラインを引いた秀吉軍の防塁が築かれていた場所(北側より)
右が堂木山砦で左の東野山城に向かって、丁度電線に沿うような感じで伸びていたものと推察。ここを北国街道が通っています。
残念ながら遺構らしきものは何もありません。左前方に見えている杉の雑木林が怪しいと思いましたが、地面は真っ平でした(^_^;)
さ、次は朝倉追撃戦を辿ります☆
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