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2013年6月 8日 (土)

神懸りな朝倉追撃戦 (柳ヶ瀬~刀根)

天正元年(1573) ※7月に元亀より改元

8月12日
浅井長政の小谷城を包囲する織田信長は、山本山城の浅井家重臣・阿閉貞征や『やけを』の浅見対馬らが味方に寝返ったのを契機として、自らの馬廻りを率いて風雨の中、浅井の後詰に来た朝倉勢が守る大嶽城、丁野山城を続けざまに落とします。

8月13日
『然れば、信長御諚には、必定、今夜、朝倉左京大夫(義景)退散すべく候。先手に差し向け候衆、佐久間右衛門(信盛)、柴田修理(勝家)、滝川左近(一益)、蜂屋兵庫頭(頼隆)、羽柴筑前(秀吉)、丹羽五郎左衛門(長秀)、~(中略)~此の外歴々の諸卒、爰をのがし候はぬ様に覚悟仕るべきの旨、再往再三仰せ遣はさる。』
※「信長公記」巻六より抜粋。( )内はしみず追記

と配下の武将たちに;
今夜必ず朝倉義景は退却するから、いつでも動けるように油断するな
と厳命を下します。
果たして信長の読み通り、その日の夜中に朝倉勢は撤退を始めるのです。

『十三日夜中に越前衆陣所へ、信長又、御先懸なされ、懸け付けられ候。』
※同

再三「油断するな」と言われていたにも関わらず諸将は結局出遅れ、またも信長自らが先駆けすることになります。

慌てた諸将は必死に信長の後を追いかけ、「信長公記」によると『地蔵山を越し』た辺りでようやく信長に追いつき、そこで厳しく叱責された、とあります。
この「地蔵山」がどれに当たるのか私には分かりませんでしたが、距離感からして柳ヶ瀬の集落の手前辺りではないかと思います。
※木之本に古くからの名刹である木之本地蔵院(浄信寺)があり、前年の元亀3年7月には織田軍の侵攻を受けて焼き討ちにも遭っているようですが、「地蔵山」も或いはこの地蔵院に関連した場所だったのかもしれません(2019年9月追記)

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現在の柳ヶ瀬の集落。中心を北国街道の旧街道が貫きます。
すぐ脇を現在の国道365号線が通っていますが、往時は間違いなくこちらが主街道だったことでしょう。
この写真は北から南に向かって撮影していますので、追撃する織田勢は写真正面から迫ってきたことになります。
朝倉勢も小谷城の後詰に向かう際は一旦この柳ヶ瀬に陣を張り、ここから『田神山』に移動しています(「朝倉始末記」)。

織田勢が追撃の手を緩めることなく進むと;
『(朝倉勢は)中野河内口、刀根口二手に罷り退き候。何方へ付き候て然るべく候はんやと、相支え、僉議区(センギマチマチ)候ところに、信長御諚には、引檀・敦賀の身方城を心懸け、退くべく候間、引檀口へ人数を付け候へと御諚候。』
※同
※引檀は現在の「疋田」で、刀根の先にあります。つまり「引檀口」=「刀根口」


小谷からの朝倉勢撤退を予言したことといい、この日の信長の読みは神懸っていました。中野河内口には『雑兵』を退かせ、『朝倉左京大夫、名ある程の者どもを召し列れ』敦賀を目指して刀根口を逃れていたのです。

今回の我々の踏査のメインターゲットは、この「刀根口」「中野河内口」の追分を訪ね当てることにありました。
サイガさんが事前に「信長公記」の記述や、現在の地形図を見比べて「アタリ」を付けていた場所に行ってみると・・・

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なんと・・・今でもしっかり残っているではありませんか!
先程の旧街道を北上した、柳ヶ瀬集落の北端辺りです。右の舗装路が「中野河内口」で、左が件の「刀根口」。この場に立った瞬間、大袈裟ではなく鳥肌が立ちました。
間違いなく織田信長はこの場に立ち、「左へ進め!」と命じたのです。。。

※後日、地図で確認したら右の舗装路を進んで国道に合流し、更に北上した先に「中河内」という地名を確認しました。「中野河内」は「中の(之)河内」だったのかも知れません。

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地形図でいうと右下の水色の○で囲った辺り。引檀の先へ更に進むと敦賀に至ります。

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現地に立っていた案内板

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今でこそ砂利敷きの“脇道”といった風情ですが、ご覧のように石仏が道に面して祀られていますし、明治11年(西南戦争の翌年)の明治天皇による北陸巡幸の際にも、天皇はこちらの道をお通りになっています。近年まで敦賀方面に抜ける主要道であったことは間違いありません。
ちなみに祀られている石仏は不動明王でした。

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この道が刀根峠を越え、刀根の集落から引檀(疋田)へと続きます。
すぐ目の前には、賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家が陣を布いた玄蕃尾城もあります。

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刀根の集落に来てみました。敦賀市域に入るので、バス停の看板が「銀河鉄道999」♪

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こちらにも旧街道の風情が…

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そして旧街道沿いには、やはり石仏が。
先程の“別れ道”に祀られていたものは、向かって右の石仏と同じような形をしていました。

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『さる程に、信長、年来、御足なかを御腰に付けさせられ候。今度刀根山にて、金松又四郎、武者一騎山中を追い懸け、終に討ち止め、頚を持参候。其の時、生足に罷り成り、足はくれなゐに染みて参り候を御覧じ、日比(ヒゴロ)御腰に付けさせられ候御足なか、此の時御用に立てられ候由、御諚候て、金松に下さる。且は冥加の至り、面目の次第なり。』
※同

足なか(足半)とは、踵の部分がない草履のこと。平地を駆けるのに適していたと云います。
裸足で山中を駆け回り、血で足を赤く染めた金松(兼松)の姿を見た信長は、自らの足なかを手ずから金松に与えました。写真に写っているのが「刀根山」と思われるので、まさにこの辺りでのエピソード。
そして驚くことに、この時の足なかは金松の子孫によって大切に保管され、現在は名古屋の「秀吉清正記念館」に寄贈されているというではありませんか!・・・これは何としても観に行かねば☆

後に土佐藩主となる山内一豊の顔に矢が刺さり、郎党に顔を足で踏みつけて矢を引っこ抜かせたというエピソードも、ここ刀根坂での戦闘の話です。

刀根坂については、コチラの記事を参照。

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刀根集落の外れにあった気比神社。敦賀気比神社の奥の院だそうです。

境内をブラブラしていたら社務所?にいた方々から「寄っていけ」と声を掛けられ、お言葉に甘えてお茶をいただき、いろいろお話も聞かせていただきました。
この時にお会いした方々は敦賀市の市議会議員さんだったり、玄蕃尾城跡保存会の方だったり…貴重な出会いとお話に感謝☆
特に玄蕃尾城築城の際、気比神社の建物をごっそり移築して、その代わり賤ヶ岳で秀吉に勝ったらたくさん寄進してやる、と言ったというエピソードなんかは興味深かったです。
戦の結果は…周知の通り(^_^;)

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年に数回しか公開されないという貴重な仏像も拝観させていただきました。
釈迦如来坐像は平安後期の作で、県の重要文化財なのだそうです。

・・・ん?神社に仏像??と思ったそこのアナタ、鋭い!(笑)
実は刀根の集落は昭和21年に大火に見舞われており、集落にあったいくつかのお寺や神社も焼失してしまったそうです。その後、これらの寺社は再建されることなく、集落の外れにあって焼失を免れた気比神社で合同で祀られることになったのだそうです。

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先程もご紹介した明治天皇巡幸の際、こちらで御休息されたことを記念する碑。

時間の都合で今回はもう引き返しますが、いずれまた、この先の引檀や敦賀までのルートを巡りたいと思います!

※姉川古戦場につづく。。。

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織田信長・信長公記」カテゴリの記事

コメント

すばらしいブログ、読んでいて鳥肌が立ちました。
もし差し支えなければ、追分の写真を以下のブログで使わせて
いただけないでしょうか?
https://nobunagaoncanvas.blogspot.com/2022/04/the-crossroads-yogo-9-september-1573.html

投稿: 津島 | 2022年6月12日 (日) 16時08分

津島様
ご訪問いただき、ありがとうございました。
また、ブログも拝見いたしました。織田信長の数々のエピソードを英語で詳細に解説されていて驚きました。素晴らしいです。
写真も拝見いたしましたが、柳ケ瀬にも行かれているのですね。追分の写真、承知いたしました。お使いください。

投稿: 管理人@歴旅.こむ | 2022年6月15日 (水) 11時14分

ありがとうございます。追分の写真、使わせていただきます。
(リンク貼らせていただきました。ご迷惑でしたらお知らせください)
柳ケ瀬には、絵の取材のために2010年に行きました。余呉から刀根坂を経由して疋田まで歩きました。このブログを見ていて、当時の記憶が蘇ってきます。なつかしいです。

投稿: 津島 | 2022年7月 2日 (土) 13時15分

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