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2013年7月

2013年7月31日 (水)

一夜の城 ― 織田信忠陣城跡

2013年7月28~29日、長野県は伊那 & 諏訪市を旅して来ました。
そもそもは、まだ行ったことのない諏訪大社にお参りしよう、と思い立ったことがきっかけ。折角だから他に周辺で面白い場所は無いかな~と調べているうちに・・・見つけちゃいました(笑)

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 (天正十年)三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、(中略)中将信忠卿は御ほろの衆十人ばかり召し列れ、仁科五郎楯籠り候高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。(以下略)
『信長公記』巻十五 「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」より

天正10年(1582)、甲州攻めの総大将に任じられた織田信忠は3月1日、仁科五郎盛信(武田信玄五男)が籠る高遠城を攻略するため、貝沼原かいぬま原に陣を布いた、とあります。
上の地形図はいつも通りGoogleさんから借用した現在のものですが、右上に高遠城、その4kmほど西(左)へ行った場所に「一夜の城」と呼ばれる遺構があります。これがこの時、信忠が布陣した陣城の跡ではないか、と云われているのだそうです。
地図で確認したところ、実際にすぐ近くには「伊那市富県貝沼」という地名も見えるし・・・これは是非とも足を運んでみなければ☆

※ちなみに左端に南北に流れているのが天竜川(天龍川)で、地形図には収まっていませんが、天竜川沿いに更に南下した場所には「飯島」という地名も残っています。信忠の軍勢は天竜川沿いに北上してきたことが分かります。

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という訳で早速(笑)
こちらは「一夜の城」近くに建つ若花八幡神社(と我が愛車w)
沿道のスペースに駐車させて頂いたので、勿論神社にもお参りいたしました。

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神社境内の参道脇には空堀に見えなくもない溝がありましたが・・・ちょっと離れているし、少なくとも「一夜の城」の遺構とは関係ないでしょう。

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「一夜の城」は約50m四方の、ほぼ正方形に土塁で囲われた形状をしているのですが、その南東のコーナーから東面の土塁を望む。
なお、お堀らしき遺構は確認できませんでした。

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東面の土塁中央には虎口があり、そこから城内側に入って南の方角を見た様子。
南東のコーナーで土塁がほぼ直角に折れている様子が分かりますか?

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東面と、この写真の南面の土塁はご覧のように結構残存状態が良かったのですが・・・

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同じ虎口付近から北に目を向けると、こちらは現在では土塁がすぐに途切れてしまっていました・・・

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虎口から東の方角を見た様子。あの山の向こうに、仁科五郎盛信の籠る高遠城があります。
信忠は「御ほろ(母衣)の衆」を「十人ばかり召し列れ」て川より手前(こなた)にある「高山」に登り、高遠城を見下ろした、と冒頭にも引用した信長公記の記述にはありますが、現在では「高山」と呼ばれる山は確認できません。
果たして、あれらの山々の何れかだったのでしょうか。。。

※事前に地図を凝視していて、1枚目の地形図にも記したようにずっと南に「高山神社」という文字は発見しましたが、位置からしてここではありえないでしょう。

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虎口を城外から。「一夜の城」の碑があります。
命名の由来ですが、「織田信忠が一夜にして築いたから」とも云われています。
一方で、布陣した翌日の3月2日には高遠城への総攻めが行われ、高遠は即日落城。結果的に「一夜」限りの陣城になったこともまた事実。。。

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北東のコーナーから。

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北側に回って東面(左/中央に虎口)と南面(右)の土塁を奥に眺める。

さて、一番肝心なテーマである;
「一夜の城」が果たして本当に織田信忠の陣城跡だったのか?

についてですが、実はこの周辺の富県地区(つまりは貝沼原)だけでも17もの城館遺構が確認されているそうで、その中で「この一夜の城こそが!」と断定するのは難しいとは思います。
ただ、これに関しては滋賀県立大学の中井均先生が、当地での講演で次の点を挙げて「一夜の城」を信忠の陣城と考えていいのではないか、とご指摘されていたそうです。

・他の城館跡は殆どが丘陵の先端部分に築かれており、その形式がこの地方の在地土豪の一般的な城館構築様式と思われるが、「一夜の城」は完全な平地部に築かれており、異質である。
・小字を調べていくと、他の城館跡には全て「城」にまつわる名称が付けられていたのに、「一夜の城」がある場所のそれは「延引畑(えんにんはた)」となっていて「城」として伝承されておらず、在地性が感じられない。
・地元でも明治30年代まで「一夜の城」の伝承が知られておらず、土地との関わりが希薄である。
・干ばつなどに備えた給水源ともなる堀を構築した形跡が見受けられない。
etc...
参考文献:「高遠城の攻防と一夜の城」(ほおずき書籍)

なるほどな~と思わず唸ってしまいました。
但し発掘調査では相当幅広い年代の遺物も発見されているようで、信忠の陣だったとしても「元々存在した城館跡を利用したのではないか」という意見もあり、まだまだ検証の余地はありそうですが、地名フェチ?(笑)な私としては中井先生の「小字」の話などは特に強く惹きつけられます。

その後の発掘調査の結果、土塁の周囲で相当規模の空堀の存在が確認されたことから、織田軍が陣を布いたにしても一夜で構築された城ではなく、在地土豪の屋敷を接収するなどして利用したのではないか、との見方が強まっています。
(2017年4月追記)

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おっと!これもお決まり、伊那のマンホール(笑)

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周辺にはとっても素敵な旧街道を思わせる集落も♪
この辺りが「伊那市富県貝沼」の地名を持つ土地です。

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長閑な田園風景。
きっと、信忠が見た風景と殆ど変わらないのでしょうね♪

この後は織田信忠自ら陣頭に立って攻め込んだという高遠城に向かいます。
(つづく)

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2013年7月20日 (土)

流山探訪―近藤・土方 別離の地

さて、本日は朝から愛車を駆って流山へ行ってきました☆
自宅からは片道75kmくらいの道のり。特に渋滞も無く、1時間30分程度で順調に到着♪


図1
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現在の流山周辺の地図。
これ以降、この図と照らし合わせながら各ポイントをご紹介していきます。
※赤いは新政府軍の進軍ルート、青い(流山駅左)は新選組本陣

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丹後の渡し跡
流山に移ってくる直前まで滞在していた五兵衛新田を発った新選組が渡河した地点(図1 中央下)

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対岸は埼玉県(三郷市)。
ここから渡河した新選組の面々は・・・

以下、平成15年に確認された『恩田家文書』(思井村の名主による日記)、慶応4年(1868)4月3日の条より抜粋。
(「・・・」は略の意。以降も恩田家文書の内容に沿って進めます)

・・・江戸方歩兵三百八九十人余、去朔日より二日迄流山光明院流山寺其外かり居る長岡七郎兵衛方本陣相成、此家大将大久保大和、内藤隼人両人其外大勢かり居る。

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という訳で『江戸方歩兵』=新選組駐屯地の一つ、光明院。

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注連縄でかっ!(笑)

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そして流山寺 (光明院・流山寺共に、図1 中央下箇所
この辺りの路地も如何にも古道の風情があっていいですね~♪

長岡七郎兵衛方』に本陣を置いた近藤勇(大久保大和)、土方歳三(内藤隼人)らを除く一部の隊士たちは、この近辺に分宿していました。そこへ・・・


御かんぐん(官軍)方彦根、萩(長州)鹿子嶋(薩摩)大村惣勢八百七八十人、鳩ヶ谷宿より出陣あり。吉川三輪野江の渡シ場ヲわたり、八ツ半頃流山着、

現在の地図で見てみると、図1 左上のように「吉川市」「三輪野江」という地名が確認出来ます。その位置から察するに・・・

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この羽口の渡し跡が『三輪野江の渡シ場』だったのだろうと推定されます。
流山に宿陣する新選組に対し、新政府軍は北側からひたひたと迫って来たのです。。。


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ところで、「恩田家文書」はこちらの市立博物館に展示されています。
私は併設されている図書館で、貴重な史料もコピーさせていただきました☆


図2
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大坂屋の前より三手わけ、壱手表通り(図2の1、壱手裏通り(同2壱手うら手加村山(同3陣取大炮ヲ本陣江むけ置。浅間裏(虫損)御かんぐん方大将菊の紋付たるはたおし立陣取、・・・

この新政府軍側の動きを現在の地図に当て嵌めると、図2の赤いラインのようになります。
北側から迫る新政府軍に対して、近藤たちは図1を見てもお分かりの通り、多くの兵をずっと南側の光明院や流山寺などに配していました。
既に新政府側に押さえられた江戸が南西の方角にあるので、敵が来るとするならば或いはそちらから、と南側に警戒を張っていたのでしょうか。

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流山の旧街道。
新政府軍はこの道を南下して、近藤たちの本陣へと迫っていきます。やがて・・・

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大坂屋の前(図2 に達します。
ここで新政府軍は三手に分かれ、『浅間』に本陣を置く『大将』の一隊は右の『表通り』へ、『裏通り』と『加村山』に向かうニ隊は一旦左に曲がり、その先で更に分かれていきます。

ところで正面の建物・・・

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まさかとは思ったけど、「大坂屋」って表示されてる☆

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私もまずは『表通り』へ。今でも時代を感じさせる建物が残っていました。

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新政府軍の『大将』が『菊の紋付たるはたおし立』て陣取った『浅間』神社。
(図2 1

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浅間神社の境内には、富士塚がありました。
新選組本陣までの距離、直線にして100m程度。格好の物見台になったのではないでしょうか。

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こちらは『裏通り』、新政府軍の第二隊目が進んだ道です。
それにしても何ですか、あの素敵なS字クランクは・・・ニクい♪(笑)

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そして三隊目は更に東へ進み、『加村山』へ向かいます。
今でも高台になっていることが、地形からもハッキリと見て取れます。

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先程の坂を少し登って市役所の裏手(南隣り)に回り込むと、更なる高所がありました。
立入禁止のようだったので確認は出来ませんでしたが、ここが新政府軍三隊目の陣地だった場所かもしれませんね。
この位置からでさえ、近藤らの本陣まで300mもありません。これ程の至近距離に何ヶ所も陣を構えられてしまった事実が示すもの・・・恐らくは完全に不意を衝かれた奇襲に近い作戦行動だったのでしょう。

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さて、それではいよいよ近藤らの本陣、「長岡屋」へ向かいます。
何かの文献で;
「(長岡屋の)表玄関から入り切れなかった兵や武器類は、閻魔横丁を裏に回った」
といった内容の記述を目にした記憶があります。。。

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近藤勇と土方歳三、二人が共に過ごした最後の地、長岡屋本陣跡。

ちなみに『恩田家文書』では『長岡七郎兵衛方』とありますが、当時この辺りに「長岡七郎兵衛」という人が住んでいた記録は無く、恐らく「永岡三郎兵衛」の誤りだろうといわれています。
そして、近藤らが本陣とした場所についても他に「鴻池儀兵衛方」としている史料も残っており、どちらが正しいのか様々な見解が飛び交ってきたようです。

しかし、これについては廣瀬早苗さんという方が大変興味深い考察を「流山市史研究 第19号」の中で著されています。ごくごく簡単に要約すると;

・残された史料を付き合わせると「鴻池」は屋号であり、この鴻池“屋”は文政年間に孫の代までの「苗字御免」を下されて「永岡」という苗字を名乗っている。

・且つ、とある文書で;

   同人甥勝太郎事
    永岡儀兵衛若年ニ付
    後見 三郎兵衛㊞

という署名が残されていることから、「儀兵衛」とは後継者が代々世襲する名であり、後見している三郎兵衛を周囲が「儀兵衛」(=当主?)と同様に認識していたとしてもおかしくはない。

これらのことを考え合わせ、「長岡七郎兵衛方(永岡三郎兵衛方)」=「鴻池儀兵衛方」と同一のものとみなしていいのではないか、ということでした。とても説得力のある考察で、私もこれが本当のところではないかなと思います。

とすると・・・、本来ならば「長岡屋」ではなく「鴻池屋」、もしくは「永岡邸」とでも呼称する方がいいような気がするけど・・・ま、これ以上は言うまい。
※便宜上、本記事内ではこれ以降も近藤らの本陣跡を「長岡屋」と表記します。

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こんなのも置いてありました☆

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流山市立博物館に展示されていた、“長岡屋”の酒蔵の階段。
追い詰められた近藤と土方の2人はこの階段を駆け上がり、2階で;
近藤「武士らしく切腹する」
土方「いや、ここで死んでは犬死だ」
etc...と話し合ったのでしょうか・・・。

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「長岡屋」の前から。こういう路地、大好物ですよ♪
ちなみに右に写っているのは物産館。折角なので入ってみると・・・

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近藤勇が、酒蔵を営む「小西」さんからお金を借りた際に提出した覚書の写真が掲示されていました。こんなのも残っているのですね~♪

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折角なので、私も「小西」酒造さんのお酒を・・・(笑)
なんでも、幕末頃の製法に則って造られたお酒なのだそうです♪…楽しみ☆

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最後に・・・矢河原の渡し跡
多少の戦闘行為もあったようですが、すぐに降伏して新政府軍に出頭した近藤勇(大久保大和)が連れられて行った渡し場です。。。
この地域の地名をとって「加村の渡し」とも呼ばれているのだとか。確かに近くの電柱の住所表記は「流山市加」となっていました。

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近藤勇や、御供の野村利三郎らも、あの中洲の間を渡っていったのでしょうか。土方はここで近藤を見送っていたのかなぁ・・・

そうそう、完全に包囲されたにも関わらず土方は見逃されているし、「恩田家文書」などの当時の史料にも「新選組」という表記は出てこないので、少なくともこの時点では彼らが新選組であるとは全くバレていなかったのでしょうね。
野村利三郎と相馬主計(主殿)の2人は近藤の助命嘆願もあり、死罪を免れてそれぞれの出身母体(藩)に戻されます。が、すぐに脱走w、江戸で合流した後に土方も参加する榎本艦隊に加わり、函館(箱館)まで戦います(野村は宮古湾に於いて戦死)。

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流山、都心からも近いのに長閑で歴史の息吹も色濃く残した、とても素敵な街でした♪

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2013年7月18日 (木)

日野の甲州道中

今回は日野宿周辺の甲州道中(旧街道)をご紹介します。

図1
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赤いラインは現在の甲州街道で、水色のラインが今回歩く旧街道になります。
こうして見てみると重なっている部分もありますが、結構位置が変わっているのですね。
地図右端、万願寺の一里塚からスタートです♪

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こちらが万願寺の一里塚。すぐ上を多摩都市モノレールが走っています。

図2
1r
ところがね…歩き始めてすぐ、ちょっとガッカリなことが。。。
この付近、道路の拡張と区画整理の工事が進んでいるようで、黒いラインの区間が通れなくなっており、紫のラインに沿って迂回させられました。

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気を取り直して…迂回した後の旧街道。
しかし、この区間も写真右手の用地を国が確保しており、いずれ拡張するのは明らか。
※図2の黄緑ラインの部分です。

こうしてどんどん昔の面影は失われていくのでしょうか…

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途中からは道幅も細くなります。
この先の通りには趣のある大きなお宅が何軒も並んでいました。きっと、日野の歴史を紡いできた方々(のご子孫)が、今も変わらずに同じ場所にお住まいなのでしょう♪

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現在の甲州街道と交差するポイントに出ました。
※図2のポイント

今回、旧甲州街道のことを調べてみようと思ったそもそものきっかけは、先日サイガさんと歩いていて、このいかにも旧街道の面影を残す路地が現在の甲州街道を跨いでいることに気付いたことから。
後日、地図を眺めながら手前の路地を遡っていくうちに万願寺の一里塚にぶつかり…「そうか!こっちが本来の甲州道中だったんだ!!」と気付いたのでした。

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引き続きのポイント。こんな感じで新旧2本の街道が交差しています。
勿論、私は旧街道へ(笑)

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何だか時代に取り残されたような感じ?…(^_^;)

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図2の地図をご覧頂いても分かる通り、すぐにまた現在の甲州街道に合流します。
地点

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旧道と合流した新道の方にも、明治・大正期のものと思われる石造りの建物や土蔵などが数軒、今もひっそりと佇んでいます。

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川崎街道の入口には「高幡不動尊道」の標石。
この川崎街道とぶつかる辺りから西側が日野宿のエリアになります。

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左手に日野宿本陣(佐藤彦五郎邸)を見ながら・・・

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問屋場・高札場跡は図書館に。

図3
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このまま進むとJR日野駅にぶつかるのですが、その直前で旧街道は再び面白い軌道を描きますww ←のポイント

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八坂神社の前辺りで再び新道から北側に逸れ、すぐにまた左折、新道を跨いで南に向かいます。
正面に写る消防団の建物の壁には・・・

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こんな説明板も掲げられていました☆
こうした形状から察するに、この辺りが日野宿の西の端だったのかもしれません。

赤い点線が1684年以降の甲州道中で、の点線はそれ以前の甲州道中になります。従って、私が歩いてきたのは1684年以前の街道ということになります。

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私も消防団の脇を回り込んで南下します。

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井上源三郎の墓所がある宝泉寺の山門前を通り…

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少し坂を登ると、図3ののポイントへ。
右に見えているのは「坂下地蔵堂」。この先は線路が横切っており、現在では踏切も無いので進めません。

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一昔前までは、こんな風景だったのですねぇ~。
写真中央、電車のすぐ右脇に建っているのが坂下地蔵堂、私が立っている地点です。この写真で踏切を越えて左右に伸びているのが即ち甲州道中、旧甲州街道になります。
分かり辛いですが、地蔵堂の右前にはお地蔵さんが数体並んでいるのが見えます。

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そのお地蔵さん♪

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さて、現在では古写真のような踏切もなく、道も線路に分断されているので一旦迂回します。

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線路を迂回して回り込んだ先。この先も甲州道中は延々と続きます。大久保大和こと近藤勇も、甲陽鎮撫隊を率いて揚々とこの道を甲府目指して進んだのでしょうか。。。

ちなみにこの辺りの地名は「大坂上」。
日野宿名主・佐藤彦五郎の曾孫が著した「聞きがき新選組」の中で、土方歳三が彦五郎の長男・源之助俊宣を伴い、この大坂上から日野宿の通りまで馬を攻めて駆け下った、というエピソードが紹介されています。

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先程の写真右手、自販機裏で見つけた・・・唐申塚。

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最後に、、、日野駅ホームから。
左の赤い屋根が先程の坂下地蔵堂。旧街道は水色のラインに沿って通っていました。

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駅前にはこんな案内板も建っていますので、是非参考にしてください☆

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2013年7月12日 (金)

都会に隠れた遺構 (幸橋御門と土橋)

まず最初に、江戸城外堀のおさらいから↓
2013071101
以前、外堀歩きをした際にも使用した図w
今回は図の下方(南)、幸橋御門付近に足を運びました。

2013071102
ちょっとアップにしてみる。西の方角から伸びてきた外堀が北に折れたコーナーの部分にあったのが幸橋御門です。
この図面を現在の地図に置き換えてみると・・・

2013071103
こんな感じになります。上の図と上手いことシンクロしたww
左端の虎御門(虎ノ門)から伸びてきて、幸橋で北(数寄屋橋~鍛冶橋方面)と東(浜離宮方面)に分岐する外堀は、ちょうど現在の首都高速沿いに通っていたことが分かります。
というより(ここら辺りの堀がいつ頃埋め立てられたのかは調べていませんが)、首都高は大抵、堀や川の上に建設されていますので、ある意味それも当然とも言えますね…(^_^;)

2013071104_3
幸橋御門が建っていた辺り(城内側)から外堀のコーナーを見た様子。線路に沿って写真左方向に進むと数寄屋橋などに繋がります。
尚、この幸橋の手前(城内)側の地域は、”「幸」橋の内側”ということで『内幸町』という地名になっています。
それにしてもこの殺伐とした都会のビル群に、一昔前にはこんな門が建っていたなんて…↓

Saiwaibashi
在りし日の幸橋門。今では跡形もなく、想像すらできません…(^_^;)
ちなみにこの写真はアングルからして、現在のJR新橋駅辺りから撮られていますね。

ところで今回、幸橋辺りに足を運んだ理由ですが、それはこちら↓
2013071105
何の気なしにこの古地図を見ていたら、幸橋御門のすぐ横に描かれている「土橋」に目が留まりました。
ちょうどこの辺りには現在、「土橋」という名の交差点や高速の入口があることを知っていたので、もしかして何か痕跡が残っていないかと・・・

で、実際に確認してみた「土橋」交差点↓
2013071106
高速の真下が不自然なくらいに盛り上がっていました。
※先ほどの現在地図に茶色で印をつけた位置です。

この高速道路に沿って堀が通っていた筈なので、まず間違いなく”土橋”の痕跡でしょう!これもれっきとした『遺構』♪

※写真正面の方向に伸びている道路が「外堀通り」なので一瞬混乱しましたが、幸橋御門から山下御門辺りまでの区間、北に伸びる外堀は少し西側の線路の辺りを通っていました。なので、この地点では写真に示したような感じで浜離宮方面に流れていく堀が横切っており、縦に伸びる道路に沿うような形で土橋が架かっていたものと考えられます。


ついでなので、もう少し足を延ばして・・・
2013071107
こちらは数寄屋橋交差点。この辺りからはまた、写真正面の外堀通りに沿って堀が伸びていました。数寄屋橋御門は左。
とすると、茶色い線で示した方向に土橋が架けられていた筈で、そういう目で見てみると確かに交差点部分だけが周囲よりも僅かに高く盛り上がっているような・・・?

まだまだ東京中を歩けば、こういう「隠れた遺構」はたくさん残っていそうですね☆

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2013年7月 6日 (土)

龍馬の剣術修行&江戸三大道場

今週も得意先回りの合間にフラフラ~っと史跡巡り(笑)

まずは職場からも割と近い、こちら・・・
20130703_1
坂本龍馬が江戸剣術修行の際に通った「千葉定吉道場」
ここで佐那(さな、さな子)さんとのロマンスも・・・♪
場所は鍛冶橋交差点すぐ近く。つまり土佐藩上屋敷の目と鼻の先ですが、「上」屋敷は通常、藩主や重臣クラスしか滞在できませんでしたので、身分制度が特に厳しかった土佐藩で郷士の龍馬が泊まれる訳もなく、彼が江戸で滞在したのは・・・

20130703_2
こちら、中屋敷と比定される土佐藩築地邸(現在は中央区役所)
千葉定吉道場から1km程度ですかね、龍馬もこの間を往復していたんですね。
なお、土佐勤皇党の武市半平太も滞在していたことがあります。彼が通ったのは“江戸三大道場”と謳われた一つ、桃井春蔵の「志学館」(鏡新明智流)
※土佐藩には他にも複数の江戸藩邸があり、龍馬や武市が滞在したのがこの築地邸であると断定できるものではありません。まぁ、それぞれが通った道場との位置関係を見ると、可能性は高いと思いますが。

20130704_2
という訳で来てみたww、志学館跡(現京橋公園)
先程の中屋敷からほんの300m程度。案外、剣術修行の道場選びは立地で決めていたんですかね?(笑)
『位の桃井』

さて、「三大道場」という言葉が出てきたところで、ついでなので・・・

20130704_1
千葉定吉の兄、千葉周作の北辰一刀流「玄武館」(千代田区神田東松下町)
『技の千葉』

20130704_3
道場ネタからは離れますが、外濠沿いを歩いていて通り掛かったので…
「一石橋迷子しらせ石標」

20130704_5
詳しくはこちら↑で…(^_^;)

20130705_1
三大道場、最後の一つ(の跡地)は現在、靖国神社の境内に取り込まれています。

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大村益次郎

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そして、斉藤弥九郎の神道無念流「練兵館」
元々はここから九段坂を下った先、外濠に架かる爼橋の辺りにあったそうですが、天保9年の火事で焼失し、この地に移ってきたようです。
『力の斉藤』

お江戸散策、また次のネタも考えないとなぁ~(笑)

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