一夜の城 ― 織田信忠陣城跡
2013年7月28~29日、長野県は伊那 & 諏訪市を旅して来ました。
そもそもは、まだ行ったことのない諏訪大社にお参りしよう、と思い立ったことがきっかけ。折角だから他に周辺で面白い場所は無いかな~と調べているうちに・・・見つけちゃいました(笑)
(天正十年)三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、(中略)中将信忠卿は御ほろの衆十人ばかり召し列れ、仁科五郎楯籠り候高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上させられ、御敵城の振舞・様子御見下墨なされ、其の日はかいぬま原に御陣取り。(以下略)
『信長公記』巻十五 「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」より
天正10年(1582)、甲州攻めの総大将に任じられた織田信忠は3月1日、仁科五郎盛信(武田信玄五男)が籠る高遠城を攻略するため、貝沼原/かいぬま原に陣を布いた、とあります。
上の地形図はいつも通りGoogleさんから借用した現在のものですが、右上に高遠城、その4kmほど西(左)へ行った場所に「一夜の城」と呼ばれる遺構があります。これがこの時、信忠が布陣した陣城の跡ではないか、と云われているのだそうです。
地図で確認したところ、実際にすぐ近くには「伊那市富県貝沼」という地名も見えるし・・・これは是非とも足を運んでみなければ☆
※ちなみに左端に南北に流れているのが天竜川(天龍川)で、地形図には収まっていませんが、天竜川沿いに更に南下した場所には「飯島」という地名も残っています。信忠の軍勢は天竜川沿いに北上してきたことが分かります。
という訳で早速(笑)
こちらは「一夜の城」近くに建つ若花八幡神社(と我が愛車w)
沿道のスペースに駐車させて頂いたので、勿論神社にもお参りいたしました。
神社境内の参道脇には空堀に見えなくもない溝がありましたが・・・ちょっと離れているし、少なくとも「一夜の城」の遺構とは関係ないでしょう。
「一夜の城」は約50m四方の、ほぼ正方形に土塁で囲われた形状をしているのですが、その南東のコーナーから東面の土塁を望む。
なお、お堀らしき遺構は確認できませんでした。
東面の土塁中央には虎口があり、そこから城内側に入って南の方角を見た様子。
南東のコーナーで土塁がほぼ直角に折れている様子が分かりますか?
東面と、この写真の南面の土塁はご覧のように結構残存状態が良かったのですが・・・
同じ虎口付近から北に目を向けると、こちらは現在では土塁がすぐに途切れてしまっていました・・・
虎口から東の方角を見た様子。あの山の向こうに、仁科五郎盛信の籠る高遠城があります。
信忠は「御ほろ(母衣)の衆」を「十人ばかり召し列れ」て川より手前(こなた)にある「高山」に登り、高遠城を見下ろした、と冒頭にも引用した信長公記の記述にはありますが、現在では「高山」と呼ばれる山は確認できません。
果たして、あれらの山々の何れかだったのでしょうか。。。
※事前に地図を凝視していて、1枚目の地形図にも記したようにずっと南に「高山神社」という文字は発見しましたが、位置からしてここではありえないでしょう。
虎口を城外から。「一夜の城」の碑があります。
命名の由来ですが、「織田信忠が一夜にして築いたから」とも云われています。
一方で、布陣した翌日の3月2日には高遠城への総攻めが行われ、高遠は即日落城。結果的に「一夜」限りの陣城になったこともまた事実。。。
北東のコーナーから。
北側に回って東面(左/中央に虎口)と南面(右)の土塁を奥に眺める。
さて、一番肝心なテーマである;
「一夜の城」が果たして本当に織田信忠の陣城跡だったのか?
についてですが、実はこの周辺の富県地区(つまりは貝沼原)だけでも17もの城館遺構が確認されているそうで、その中で「この一夜の城こそが!」と断定するのは難しいとは思います。
ただ、これに関しては滋賀県立大学の中井均先生が、当地での講演で次の点を挙げて「一夜の城」を信忠の陣城と考えていいのではないか、とご指摘されていたそうです。
・他の城館跡は殆どが丘陵の先端部分に築かれており、その形式がこの地方の在地土豪の一般的な城館構築様式と思われるが、「一夜の城」は完全な平地部に築かれており、異質である。
・小字を調べていくと、他の城館跡には全て「城」にまつわる名称が付けられていたのに、「一夜の城」がある場所のそれは「延引畑(えんにんはた)」となっていて「城」として伝承されておらず、在地性が感じられない。
・地元でも明治30年代まで「一夜の城」の伝承が知られておらず、土地との関わりが希薄である。
・干ばつなどに備えた給水源ともなる堀を構築した形跡が見受けられない。
etc...
参考文献:「高遠城の攻防と一夜の城」(ほおずき書籍)
なるほどな~と思わず唸ってしまいました。
但し発掘調査では相当幅広い年代の遺物も発見されているようで、信忠の陣だったとしても「元々存在した城館跡を利用したのではないか」という意見もあり、まだまだ検証の余地はありそうですが、地名フェチ?(笑)な私としては中井先生の「小字」の話などは特に強く惹きつけられます。
その後の発掘調査の結果、土塁の周囲で相当規模の空堀の存在が確認されたことから、織田軍が陣を布いたにしても一夜で構築された城ではなく、在地土豪の屋敷を接収するなどして利用したのではないか、との見方が強まっています。
(2017年4月追記)
おっと!これもお決まり、伊那のマンホール(笑)
周辺にはとっても素敵な旧街道を思わせる集落も♪
この辺りが「伊那市富県貝沼」の地名を持つ土地です。
長閑な田園風景。
きっと、信忠が見た風景と殆ど変わらないのでしょうね♪
この後は織田信忠自ら陣頭に立って攻め込んだという高遠城に向かいます。
(つづく)