日野の甲州道中
今回は日野宿周辺の甲州道中(旧街道)をご紹介します。
図1
赤いラインは現在の甲州街道で、水色のラインが今回歩く旧街道になります。
こうして見てみると重なっている部分もありますが、結構位置が変わっているのですね。
地図右端、万願寺の一里塚からスタートです♪
こちらが万願寺の一里塚。すぐ上を多摩都市モノレールが走っています。
図2
ところがね…歩き始めてすぐ、ちょっとガッカリなことが。。。
この付近、道路の拡張と区画整理の工事が進んでいるようで、黒いラインの区間が通れなくなっており、紫のラインに沿って迂回させられました。
気を取り直して…迂回した後の旧街道。
しかし、この区間も写真右手の用地を国が確保しており、いずれ拡張するのは明らか。
※図2の黄緑ラインの部分です。
こうしてどんどん昔の面影は失われていくのでしょうか…
途中からは道幅も細くなります。
この先の通りには趣のある大きなお宅が何軒も並んでいました。きっと、日野の歴史を紡いできた方々(のご子孫)が、今も変わらずに同じ場所にお住まいなのでしょう♪
現在の甲州街道と交差するポイントに出ました。
※図2の①ポイント
今回、旧甲州街道のことを調べてみようと思ったそもそものきっかけは、先日サイガさんと歩いていて、このいかにも旧街道の面影を残す路地が現在の甲州街道を跨いでいることに気付いたことから。
後日、地図を眺めながら手前の路地を遡っていくうちに万願寺の一里塚にぶつかり…「そうか!こっちが本来の甲州道中だったんだ!!」と気付いたのでした。
引き続き①のポイント。こんな感じで新旧2本の街道が交差しています。
勿論、私は旧街道へ(笑)
何だか時代に取り残されたような感じ?…(^_^;)
図2の地図をご覧頂いても分かる通り、すぐにまた現在の甲州街道に合流します。
②地点
旧道と合流した新道の方にも、明治・大正期のものと思われる石造りの建物や土蔵などが数軒、今もひっそりと佇んでいます。
川崎街道の入口には「高幡不動尊道」の標石。
この川崎街道とぶつかる辺りから西側が日野宿のエリアになります。
左手に日野宿本陣(佐藤彦五郎邸)を見ながら・・・
問屋場・高札場跡は図書館に。
図3
このまま進むとJR日野駅にぶつかるのですが、その直前で旧街道は再び面白い軌道を描きますww ←③のポイント
八坂神社の前辺りで再び新道から北側に逸れ、すぐにまた左折、新道を跨いで南に向かいます。
正面に写る消防団の建物の壁には・・・
こんな説明板も掲げられていました☆
こうした形状から察するに、この辺りが日野宿の西の端だったのかもしれません。
※赤い点線が1684年以降の甲州道中で、緑の点線はそれ以前の甲州道中になります。従って、私が歩いてきたのは1684年以前の街道ということになります。
私も消防団の脇を回り込んで南下します。
井上源三郎の墓所がある宝泉寺の山門前を通り…
少し坂を登ると、図3の④のポイントへ。
右に見えているのは「坂下地蔵堂」。この先は線路が横切っており、現在では踏切も無いので進めません。
一昔前までは、こんな風景だったのですねぇ~。
写真中央、電車のすぐ右脇に建っているのが坂下地蔵堂、私が立っている地点です。この写真で踏切を越えて左右に伸びているのが即ち甲州道中、旧甲州街道になります。
分かり辛いですが、地蔵堂の右前にはお地蔵さんが数体並んでいるのが見えます。
そのお地蔵さん♪
さて、現在では古写真のような踏切もなく、道も線路に分断されているので一旦迂回します。
線路を迂回して回り込んだ先。この先も甲州道中は延々と続きます。大久保大和こと近藤勇も、甲陽鎮撫隊を率いて揚々とこの道を甲府目指して進んだのでしょうか。。。
ちなみにこの辺りの地名は「大坂上」。
日野宿名主・佐藤彦五郎の曾孫が著した「聞きがき新選組」の中で、土方歳三が彦五郎の長男・源之助俊宣を伴い、この大坂上から日野宿の通りまで馬を攻めて駆け下った、というエピソードが紹介されています。
先程の写真右手、自販機裏で見つけた・・・唐申塚。
最後に、、、日野駅ホームから。
左の赤い屋根が先程の坂下地蔵堂。旧街道は水色のラインに沿って通っていました。
駅前にはこんな案内板も建っていますので、是非参考にしてください☆
| 固定リンク
「新選組・戊辰戦争」カテゴリの記事
- 土方歳三の遺髪(2024.04.01)
- 石田散薬 製造体験(2022.04.29)
- 扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~(2022.01.06)
- 振武軍が宿営した箱根ヶ崎(2021.12.19)
- 近藤芳助が所持していた近藤・土方肖像写真(2021.11.23)
コメント