都会に隠れた遺構 (幸橋御門と土橋)
まず最初に、江戸城外堀のおさらいから↓
以前、外堀歩きをした際にも使用した図w
今回は図の下方(南)、幸橋御門付近に足を運びました。
ちょっとアップにしてみる。西の方角から伸びてきた外堀が北に折れたコーナーの部分にあったのが幸橋御門です。
この図面を現在の地図に置き換えてみると・・・
こんな感じになります。上の図と上手いことシンクロしたww
左端の虎御門(虎ノ門)から伸びてきて、幸橋で北(数寄屋橋~鍛冶橋方面)と東(浜離宮方面)に分岐する外堀は、ちょうど現在の首都高速沿いに通っていたことが分かります。
というより(ここら辺りの堀がいつ頃埋め立てられたのかは調べていませんが)、首都高は大抵、堀や川の上に建設されていますので、ある意味それも当然とも言えますね…(^_^;)
幸橋御門が建っていた辺り(城内側)から外堀のコーナーを見た様子。線路に沿って写真左方向に進むと数寄屋橋などに繋がります。
尚、この幸橋の手前(城内)側の地域は、”「幸」橋の内側”ということで『内幸町』という地名になっています。
それにしてもこの殺伐とした都会のビル群に、一昔前にはこんな門が建っていたなんて…↓
在りし日の幸橋門。今では跡形もなく、想像すらできません…(^_^;)
ちなみにこの写真はアングルからして、現在のJR新橋駅辺りから撮られていますね。
ところで今回、幸橋辺りに足を運んだ理由ですが、それはこちら↓
何の気なしにこの古地図を見ていたら、幸橋御門のすぐ横に描かれている「土橋」に目が留まりました。
ちょうどこの辺りには現在、「土橋」という名の交差点や高速の入口があることを知っていたので、もしかして何か痕跡が残っていないかと・・・
で、実際に確認してみた「土橋」交差点↓
高速の真下が不自然なくらいに盛り上がっていました。
※先ほどの現在地図に茶色で印をつけた位置です。
この高速道路に沿って堀が通っていた筈なので、まず間違いなく”土橋”の痕跡でしょう!これもれっきとした『遺構』♪
※写真正面の方向に伸びている道路が「外堀通り」なので一瞬混乱しましたが、幸橋御門から山下御門辺りまでの区間、北に伸びる外堀は少し西側の線路の辺りを通っていました。なので、この地点では写真に示したような感じで浜離宮方面に流れていく堀が横切っており、縦に伸びる道路に沿うような形で土橋が架かっていたものと考えられます。
ついでなので、もう少し足を延ばして・・・
こちらは数寄屋橋交差点。この辺りからはまた、写真正面の外堀通りに沿って堀が伸びていました。数寄屋橋御門は左。
とすると、茶色い線で示した方向に土橋が架けられていた筈で、そういう目で見てみると確かに交差点部分だけが周囲よりも僅かに高く盛り上がっているような・・・?
まだまだ東京中を歩けば、こういう「隠れた遺構」はたくさん残っていそうですね☆
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コメント
今日は~^^またブログ覗かせていただきました。よろしくお願いします。
投稿: プラダ アウトレット | 2013年7月28日 (日) 12時24分