流山探訪―近藤・土方 別離の地
さて、本日は朝から愛車を駆って流山へ行ってきました☆
自宅からは片道75kmくらいの道のり。特に渋滞も無く、1時間30分程度で順調に到着♪
図1
現在の流山周辺の地図。
これ以降、この図と照らし合わせながら各ポイントをご紹介していきます。
※赤い→は新政府軍の進軍ルート、青い▲(流山駅左)は新選組本陣
丹後の渡し跡
流山に移ってくる直前まで滞在していた五兵衛新田を発った新選組が渡河した地点(図1 中央下)
対岸は埼玉県(三郷市)。
ここから渡河した新選組の面々は・・・
以下、平成15年に確認された『恩田家文書』(思井村の名主による日記)、慶応4年(1868)4月3日の条より抜粋。
(「・・・」は略の意。以降も恩田家文書の内容に沿って進めます)
『・・・江戸方歩兵三百八九十人余、去ル朔日より二日迄流山光明院流山寺其外江かり居る。長岡七郎兵衛方本陣ニ相成、此家ニ大将大久保大和、内藤隼人両人其外大勢かり居る。』
という訳で『江戸方歩兵』=新選組駐屯地の一つ、光明院。
注連縄でかっ!(笑)
そして流山寺 (光明院・流山寺共に、図1 中央下●箇所)
この辺りの路地も如何にも古道の風情があっていいですね~♪
『長岡七郎兵衛方』に本陣を置いた近藤勇(大久保大和)、土方歳三(内藤隼人)らを除く一部の隊士たちは、この近辺に分宿していました。そこへ・・・
『然ル処江御かんぐん(官軍)方彦根、萩(長州)、鹿子嶋(薩摩)、大村惣勢八百七八十人、鳩ヶ谷宿より出陣あり。吉川三輪野江の渡シ場ヲわたり、八ツ半頃流山江着、』
現在の地図で見てみると、図1 左上のように「吉川市」「三輪野江」という地名が確認出来ます。その位置から察するに・・・
この羽口の渡し跡が『三輪野江の渡シ場』だったのだろうと推定されます。
流山に宿陣する新選組に対し、新政府軍は北側からひたひたと迫って来たのです。。。
ところで、「恩田家文書」はこちらの市立博物館に展示されています。
私は併設されている図書館で、貴重な史料もコピーさせていただきました☆
図2
『大坂屋の前より三手ニわけ、壱手ハ表通り(図2の1)、壱手ハ裏通り(同2)、壱手ハうら手加村山(同3)江陣取大炮ヲ本陣江むけ置。浅間裏(虫損)御かんぐん方大将菊の紋付たるはたおし立陣取、・・・』
この新政府軍側の動きを現在の地図に当て嵌めると、図2の赤いラインのようになります。
北側から迫る新政府軍に対して、近藤たちは図1を見てもお分かりの通り、多くの兵をずっと南側の光明院や流山寺などに配していました。
既に新政府側に押さえられた江戸が南西の方角にあるので、敵が来るとするならば或いはそちらから、と南側に警戒を張っていたのでしょうか。
流山の旧街道。
新政府軍はこの道を南下して、近藤たちの本陣へと迫っていきます。やがて・・・
『大坂屋の前』(図2 ★)に達します。
ここで新政府軍は三手に分かれ、『浅間』に本陣を置く『大将』の一隊は右の『表通り』へ、『裏通り』と『加村山』に向かうニ隊は一旦左に曲がり、その先で更に分かれていきます。
ところで正面の建物・・・
まさかとは思ったけど、「大坂屋」って表示されてる☆
私もまずは『表通り』へ。今でも時代を感じさせる建物が残っていました。
新政府軍の『大将』が『菊の紋付たるはたおし立』て陣取った『浅間』神社。
(図2 1)
浅間神社の境内には、富士塚がありました。
新選組本陣までの距離、直線にして100m程度。格好の物見台になったのではないでしょうか。
こちらは『裏通り』、新政府軍の第二隊目が進んだ道です。
それにしても何ですか、あの素敵なS字クランクは・・・ニクい♪(笑)
そして三隊目は更に東へ進み、『加村山』へ向かいます。
今でも高台になっていることが、地形からもハッキリと見て取れます。
先程の坂を少し登って市役所の裏手(南隣り)に回り込むと、更なる高所がありました。
立入禁止のようだったので確認は出来ませんでしたが、ここが新政府軍三隊目の陣地だった場所かもしれませんね。
この位置からでさえ、近藤らの本陣まで300mもありません。これ程の至近距離に何ヶ所も陣を構えられてしまった事実が示すもの・・・恐らくは完全に不意を衝かれた奇襲に近い作戦行動だったのでしょう。
さて、それではいよいよ近藤らの本陣、「長岡屋」へ向かいます。
何かの文献で;
「(長岡屋の)表玄関から入り切れなかった兵や武器類は、閻魔横丁を裏に回った」
といった内容の記述を目にした記憶があります。。。
近藤勇と土方歳三、二人が共に過ごした最後の地、長岡屋本陣跡。
ちなみに『恩田家文書』では『長岡七郎兵衛方』とありますが、当時この辺りに「長岡七郎兵衛」という人が住んでいた記録は無く、恐らく「永岡三郎兵衛」の誤りだろうといわれています。
そして、近藤らが本陣とした場所についても他に「鴻池儀兵衛方」としている史料も残っており、どちらが正しいのか様々な見解が飛び交ってきたようです。
しかし、これについては廣瀬早苗さんという方が大変興味深い考察を「流山市史研究 第19号」の中で著されています。ごくごく簡単に要約すると;
・残された史料を付き合わせると「鴻池」は屋号であり、この鴻池“屋”は文政年間に孫の代までの「苗字御免」を下されて「永岡」という苗字を名乗っている。
・且つ、とある文書で;
同人甥勝太郎事
永岡儀兵衛若年ニ付
後見 三郎兵衛㊞
という署名が残されていることから、「儀兵衛」とは後継者が代々世襲する名であり、後見している三郎兵衛を周囲が「儀兵衛」(=当主?)と同様に認識していたとしてもおかしくはない。
これらのことを考え合わせ、「長岡七郎兵衛方(永岡三郎兵衛方)」=「鴻池儀兵衛方」と同一のものとみなしていいのではないか、ということでした。とても説得力のある考察で、私もこれが本当のところではないかなと思います。
とすると・・・、本来ならば「長岡屋」ではなく「鴻池屋」、もしくは「永岡邸」とでも呼称する方がいいような気がするけど・・・ま、これ以上は言うまい。
※便宜上、本記事内ではこれ以降も近藤らの本陣跡を「長岡屋」と表記します。
こんなのも置いてありました☆
流山市立博物館に展示されていた、“長岡屋”の酒蔵の階段。
追い詰められた近藤と土方の2人はこの階段を駆け上がり、2階で;
近藤「武士らしく切腹する」
土方「いや、ここで死んでは犬死だ」
etc...と話し合ったのでしょうか・・・。
「長岡屋」の前から。こういう路地、大好物ですよ♪
ちなみに右に写っているのは物産館。折角なので入ってみると・・・
近藤勇が、酒蔵を営む「小西」さんからお金を借りた際に提出した覚書の写真が掲示されていました。こんなのも残っているのですね~♪
折角なので、私も「小西」酒造さんのお酒を・・・(笑)
なんでも、幕末頃の製法に則って造られたお酒なのだそうです♪…楽しみ☆
最後に・・・矢河原の渡し跡
多少の戦闘行為もあったようですが、すぐに降伏して新政府軍に出頭した近藤勇(大久保大和)が連れられて行った渡し場です。。。
この地域の地名をとって「加村の渡し」とも呼ばれているのだとか。確かに近くの電柱の住所表記は「流山市加」となっていました。
近藤勇や、御供の野村利三郎らも、あの中洲の間を渡っていったのでしょうか。土方はここで近藤を見送っていたのかなぁ・・・
そうそう、完全に包囲されたにも関わらず土方は見逃されているし、「恩田家文書」などの当時の史料にも「新選組」という表記は出てこないので、少なくともこの時点では彼らが新選組であるとは全くバレていなかったのでしょうね。
野村利三郎と相馬主計(主殿)の2人は近藤の助命嘆願もあり、死罪を免れてそれぞれの出身母体(藩)に戻されます。が、すぐに脱走w、江戸で合流した後に土方も参加する榎本艦隊に加わり、函館(箱館)まで戦います(野村は宮古湾に於いて戦死)。
流山、都心からも近いのに長閑で歴史の息吹も色濃く残した、とても素敵な街でした♪
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