五兵衛新田
慶応4年(1868)3月初旬の甲州勝沼の戦い(→柏尾古戦場関連記事) に敗れた新選組一行は3月13日夜、突如として五兵衛新田(現 足立区綾瀬)の金子左内家に現れて駐屯し始めます。
14~15日にかけても隊士は増え続け、最終的には230名前後を数えたとか。金子左内家を本陣に定め、滝二郎(次郎)方や観音寺にも分宿しました。
ちなみに土方歳三(内藤隼人)の到着は15日、近藤勇(大久保大和)は13、もしくは14日だったそうです。
それぞれの駐屯地を現在の地図に当てはめると以下のようになります。
川(綾瀬川)を西に置いて多くの兵(隊士)を分宿させ、その北に本陣を定める・・・考えてみたら彼らがこの後に移動する流山での布陣にそっくりですね。やはり新政府軍がいる江戸市中の方向に警戒を張っていたことは間違いありません。
甲州勝沼で敗れ、江戸へ引き返した新選組。そこへ後を追うように着々と迫り来る新政府軍。。。
既に江戸四宿のうち千住宿を除く三宿(内藤新宿・品川・板橋)を新政府軍に押さえられていましたので、千住のすぐ先にあるこの地(常磐線/千代田線「綾瀬」の隣は「北千住」)が駐屯地に選ばれたのは必然だったのかもしれませんね。
(新選組が五兵衛新田に到着した3月13~14日には早くも勝・西郷会談が行われ、翌15日には江戸総攻撃の中止が決定される。まさにギリギリのタイミング)
そして結果的に19日間に及ぶ五兵衛新田滞在の間、彼らは何をしていたのか・・・これについては崙書房から出版されている「新撰組五兵衛新田始末」の中で;
黒色火薬、及び弾丸の製造を行っていたのではないか?
という見解が示されていました。史料を元にした検証も具体的で大変興味深い考察だと思います。
さて、それでは綾瀬駅からウォーキング・スタートです。
まず最初に訪れたのは観音寺。
こちらには最大で62人の隊士が分宿していました。
観音寺本堂
金子左内家の菩提寺でもあり、五兵衛新田開発者の一人・金子五兵衛家直のお墓もあります。
※「左内」は屋号
五兵衛新田役人惣代・大室源右衛門宅
新選組の屯集を代官・佐々井半十郎に報じる書類が遺されています。
隊士分宿地の一つ、滝二郎(次郎)宅があった辺り。もはや何の面影もありません。
こちらには最大83人が滞在しています。
如何にも当時の形状を留めていそうな趣ある道を北上し・・・
本陣に定められた金子左内家。大久保・内藤の「殿二人」を初め、48人が滞在していました。また、松本良順が訪れている記録も残っています。
時の当主・金子健十郎は新選組の世話をした際の賄方の記録を「おぼへ」として詳細に残しており、大変貴重な史料となっています。
なお、こちらの門は近年の再建ですが、、、
あちらの母屋は移築復元とか。もしかしたら近藤や土方らの痕跡が何かしら残っているかもしれませんね。
綾瀬川に架かる五兵衛橋。
地名としての「五兵衛(新田)」はもはや消滅していますので、唯一の名残とも言えるかな。
現在の綾瀬川・・・
土方歳三が釣りをしていたとも伝わる川ですが、それも今は昔。。。
慶応4年4月1日、新政府軍が遂に千住宿まで進出してきたため、同日、新選組も慌ただしく五兵衛新田を出立しました。
(この時、近藤が残していった「のし金弐千疋」と自筆で書かれたのし袋と、自らの肖像写真が現在でも金子家に保管されているそうです)
彼らが向かった先は流山。(→流山関連記事)
4月2日未明の流山到着から、新政府軍先鋒に本陣を包囲されて近藤が出頭する4月3日の夜まで、その間僅か2日弱。
殆ど無抵抗に終わったのは、近藤らの布陣は南(南西)方向を警戒して本陣を北に置いていたにも拘わらず、実際は北から急襲されたために兵を揃えられなかったからというのも勿論あるでしょうが、前出の「新撰組五兵衛新田始末」では新選組の流山転陣から新政府軍による急襲までがあまりにも早過ぎたため、五兵衛新田で大量に製造した筈の火薬や弾丸がまだ届いていなかったからではないか、という見解も示されていました。
なるほどねぇ・・・いろいろ考えだすとキリがないけど、だからこそ歴史は面白い!
(近藤らの無念を思えば少し不謹慎かな)
出頭した近藤はその後、板橋宿まで連行されて35歳の生涯を閉じます。。。(→板橋宿関連記事)