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2013年8月 1日 (木)

高遠城

「一夜の城」探索の後は再び愛車に乗り、天正10年3月の織田軍と同じく、高遠城を目指します。
※例によって縄張り図も持たないテキトーな城攻めですので、縄張りの詳細や細かい遺構の紹介はご容赦願います…(;・∀・)

今は駐車場になっている勘助曲輪に愛車を停めて、いざ探索スタート☆

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大手口、三の丸に残されていた楼門。
一時、高遠高校の正門として使われていたこともあるのだとか。

なお、高遠城の大手口は城の西側に位置しており、東側が搦め手口とされていますが、これは江戸期に入ってから改められたようで、それ以前の築城当時は反対に東側が大手口とされていたようです。

三月二日、払暁に、御人数寄せられ、中将信忠卿は尾続きを搦め手の口へ取りよらせられ、大手の口、森勝蔵、団平八、毛利河内、河尻与兵衛、松尾掃部大輔、此の口へ切つて出で、数刻相戦ひ、数多討取り候間、残党逃げ入るなり。
『信長公記』巻十五 「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝの事」より(以下青文字同様)

この「信長公記」の記述と、先の大手⇔搦め手が江戸期に入れ替えられたという点を合わせて考えると、総大将の信忠は(根)続き進んで西側の搦め手へ攻めかかり、御先へ遣はされた森や河尻らの軍勢が東側の大手口を受け持ったことになります。

しかし地形図などで確認すると、貝沼原にいた筈の信忠の軍勢が高遠城の西側を攻めるのに、わざわざ(根)続き進んだという点に少し違和感を覚えるのですが・・・

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大手口(天正10年当時は搦め手口)
「信長公記」の記述通りだとすると、織田信忠はこちら側から攻め寄せたことになります。それも・・・

中将信忠卿御自身、御道具を持たせられ、先を争つて塀際へつけられ、柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、

と自ら先頭に立つ勢いで。。。
まるで桶狭間や天王寺での御父上、信長公を彷彿とさせる激しさですね。

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大手口から西の方角を望む。
一夜の城は写真左手の山の、更に向こう側に位置しています。いくら高い山に登ったとしても、この距離では高遠城を
御見下墨なさる形にはなりません。
城攻め前日、僅か10人程度の供を従えただけで行われた信忠自らによる物見は、相当高遠城近くまで寄せていたのですね。

自ら陣頭に立った城攻めといい、この高遠攻めには妙に力が入っている信忠。これも「もしかすると城に松姫(元?許嫁)がいるかも」と思えばこそ、でしょうか。
2人が生涯で最もニアミスした場所であることは確かですね。


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もはや高遠城址定番のシンボル、桜雲橋(奥に問屋門)

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堀はどれも深さがあってとてもいい感じでしたが、特にこの法幢院曲輪と南曲輪の間を通る堀が素敵でしたね♪

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「天下第一の桜」碑

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本丸の太鼓櫓

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藩校「進徳館」

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進徳館は建物内部には入れませんが、周囲をグルッと一周できます。

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おや?不思議な飛行機雲。T字になっているけど・・・どうやって出来たの??ww

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さて、高遠城址のすぐ近く、高遠湖の畔には「高遠町歴史博物館」がありますので、そちらにも足を運びました。
駐車場から見下ろす高遠湖。

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・・・なんじゃ、あれは?!

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初代会津藩主にして四代将軍家綱の後見も務めた保科正之と生母・お静の方の像。

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こちらが歴史博物館外観。

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博物館に併設される形で「絵島生島事件」で高遠に遠流となった絵島の囲屋敷も展示されています。
屋敷自体は復元ですが、実際にこの場所にあったのだとか。忍返し・・・

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幽閉されていた絵島の間。

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その後、五郎山の仁科盛信のお墓にもお参りしようと、車で途中まで狭い山道を登ったのですが・・・
正確な場所が分からず、とりあえずアタリを付けたこちらから少し登ってみたところ、暫くして不審な物音と明らかな獣臭が漂ってきたので、もうダッシュで撤退!諦めました・・・(^_^;)

下山後は諏訪へ移動しました。
(つづく)

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