卜全塚 -信長公を想う旅⑥
「大田口合戦の事」(「信長公記」巻四)
(元亀2年/1571)五月十二日、河内長島表へ三口より御手遣ひ。信長は津島まで御参陣。中筋口働きの衆、佐久間右衛門、(中略) 川西多藝山の根へつけて、大田口へ働きの衆、柴田修理亮、(中略) 氏家卜全、(以下略)
元亀2年(1571)5月、織田信長は長島一向一揆討伐の為、軍を起こします(第一次長島侵攻)。
5月12日、信長自らは津島(地図右)に布陣し、中筋口(同中央)からは佐久間信盛率いる軍勢が、そして氏家卜全は柴田勝家率いる大田口(同左)の軍勢に加わり、三方から長島へ向けて南進します。
五月十六日、在々所々放火候て、罷り退き候ところに、長島の一揆ども山々へ移る。右手は大河なり、左は山の下道、一騎打ち節所の道なり。(中略) 柴田修理見合せ、殿(シツハライ)候のところ、(中略) 柴田薄手を被り、罷り退く。二番、氏家卜全取り合ひ、一戦に及び、卜全、其の外、家臣数輩討死候ひしなり。
ところが一揆勢の頑強な抵抗に遭い、木曽川や長良川といった大河に守られた地を攻めあぐねた織田勢は5月16日、方々に放火しながら撤退を開始します。
大田口を引き上げていく柴田勢は勝家自ら殿軍を務めますが、傷を負ってしまいます。そこで2番目に殿を務めたのが氏家卜全。
ところが右は大河(揖斐川)、左は山(養老山脈)に挟まれた一騎打ちの狭い道。山々へ移った一揆勢の猛攻を受けて、卜全は敢えなく最期を遂げます。。。
地図のAが卜全塚の位置。大河と山に挟まれた地、まさに「信長公記」の記述通りの地形でした。少し南に「太田」という地名も見えていますね。おそらくこれが「大田口」の由来でしょう。
卜全塚。田んぼの奥には揖斐川の堤防が見えています。
反対側から。
山と大河に挟まれた場所は決して「一騎打ち節所の」と表現するほど狭くはありませんでしたが、当時この辺り一帯は湿地で、軍勢が通れる道は狭かったのかもしれませんね。
こちらは現在の願證寺。
当時の願證寺跡地は長良川の川底に沈んでしまっていますが、長島の一向一揆は願證寺の住職が盟主となり、長島城を拠点に信長に抵抗しました。
石山本願寺が「石山御坊」なら、こちらは「長島御坊」。
菊の御紋に桐紋・・・
長島一向一揆殉教之碑
400年追悼法要で建てられました。
織田軍の第ニ次侵攻も退けた一揆勢でしたが、天正2年(1574)7月の第三次侵攻で遂に殲滅されるのでした。。。
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