聖徳寺跡 & 総見院 -信長公を想う旅②
中村公園を後にして、次に向かったのは「聖徳寺跡」。
「信長公記」首巻の中に;
山城道三と信長御参会の事
一、四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はゞ、祝着たるべく候。対面ありたきの趣、申し越し候。
という記述があります。そう、有名な織田信長・斎藤道三による正徳寺の会見です。(天文22/1553年)
聖徳寺跡
いつ、どんな事情で「正徳寺」が「聖徳寺」に変わったのかは調べがついていないので分かりませんが、まさしくここで信長と道三は相見えたのです!
会見の場をセッティングしたという堀田道空が地盤を持つ津島の北で、岐阜県(美濃=斎藤領)との県境をなす木曽川の畔(東岸)という立地にも完全に納得です。
周辺の地名は今でも「富田」・・・
「信長公記」の中で;
富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。
と紹介されている名残か、目の前を旧街道が通り、とても趣のある家屋が建ち並んで往時の繁栄を偲ばせる素敵な場所でした。機会があればこの辺りの街道歩きもしてみたい♪
お次は清州(清須市)にある総見院へ。
元々この地には天正年間に信長の次男・織田信雄が父の菩提を弔うために建立した総見寺がありましたが、「清州越し」によって名古屋へ移転します。
その跡地に1644年、尾張初代藩主・徳川義直によって再興され、「総見院」と名付けられたのが始まりです。
こちらを訪れた最大の目的は・・・
本能寺の変直後、焼け跡から信雄が見つけ出したと伝わる(伝)織田信長所用の「焼け兜」(写真提供:海姫さん)
信雄から秀信(信長嫡孫)へと渡り、最終的には1785年に柏原藩織田家より総見院へ奉納されました。箱の由緒書きは時の柏原藩家老、生駒主水方綱・津田内蔵助頼利の筆によります。
前立ても装飾も全て焼け落ちていますが、形状からして相当身分の高い武将のものであったことは確かでしょう。本当に織田信長のものであった可能性は高いと信じます。
実はこの焼け兜、拝観には要予約です。私は事前にそのことを全く把握していなかったのですが、ちゃんと流星☆さんが予約してくれていました。感謝☆
総見院を出た後は小牧方面へ。
既に午後2時になっていたので、小牧山城下で遅めの昼食♪
名古屋グルメの一つ、あんかけスパゲティ♪
濃いめの味付けと太めの麺の相性がGood☆ 美味しくいただきました。
さ、腹拵えも済んだところで次は小牧山城に登ります!
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