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2013年10月14日 (月)

法蔵寺 -「近藤勇の首塚」 私的見解

10月の体育の日を絡めた3連休といえば…そう、F1日本GPです!
今回も3泊4日の旅程を組んで10月11日(金)、毎年一緒に観戦しているTomoを拾って出発!!

初日は例年通り鈴鹿サーキット近くの宿泊地までの移動日。私の趣味で史跡巡りをしながらユルユルの行進?です♪(笑)


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最初の訪問地は愛知県岡崎市の本宿。旧東海道の趣ある通り沿いに・・・


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二村山法蔵寺
飛鳥時代、行基によって創建されました(創建当時は出生寺)。平安時代には空海の来訪を受けて真言宗となったものの南北朝期に竜芸上人が浄土宗に改宗、寺名も法蔵寺に改められました。
徳川家の始祖・松平親氏が松平家の菩提寺としたことから、後に家康も幼少時にこちらのお寺で読み書きの手習いを受けたのだそうです。


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…なので、山門の前には家康(竹千代)の手植えと伝わり、手習いのおり草紙を掛けていたことから「御草紙掛松」と呼ばれる松も。勿論、何代か代を重ねていますが。
(「御茶屋の松」「御腰掛の松」とも…)


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鐘楼門も素敵・・・


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本堂。至る所に徳川家の葵紋がちりばめられています。


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御本尊の阿弥陀如来像


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境内の高台には家康を祀る東照宮もありました。


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東照宮が建つ高台から。

竹千代手習いの寺、法蔵寺。こちらにはその竹千代ゆかりの品として;

・竹千代八歳時の書き初め
・竹千代の落書きが残る文机


なるものが残されているということだったので、何としても拝観したかったのですが…寺務所の呼び鈴を押してお伺いしたところ非公開とのことでした。
こればかりは致し方ないですね。
お寺の方には丁重にご対応いただきました。ありがとうございました。


竹千代ゆかりの品は残念でしたが…でも、いいんです!今回法蔵寺を訪れた一番の目的はこちらですから・・・

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新選組局長、近藤勇の首塚とも伝えられてきた石碑(右)です。

板橋での斬首後、勇の首は京に運ばれて三条大橋の近くで晒されていましたが、その後の行方が分からなくなっています。
それが何故こちらに?という疑問も当然湧きますが…


それについて法蔵寺案内板によりますと;

『近藤勇首塚の由来


新撰組隊長近藤勇は、慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。
刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
また、勇の首は、処刑後、塩漬にして、京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同士が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。
しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。
しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。
そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。
昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。
今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。


法蔵寺 執事』


とのこと。
しかし、どうにも根拠が薄い(失礼)気がしたので、個人的にもう少し掘り下げて調べてみることにしました。


石碑の台座には・・・

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ご覧の面々の名前が刻まれています。

土方歳三
戸村静一郎
小笠原新太郎
内田良太郎
鈴木萬之助
佐藤善二郎
鈴木源兵衛
菰田幸之助
松下信三郎
市橋鐘太郎
大田政一郎


世話人
清水三右エ門
堀川廉之助


慶応?年
内山勝行
建立

おそらく案内板にもある昭和33年の調査で、この台座の連刻名も発見されたのでしょう。
案内板では調査の結果明らかになったという『埋葬の由来』について、根拠が具体的には記されていません。が、土方歳三の名があったこと、そして当初は土方と共に名が刻まれていた人々は新選組隊士たちの変名と考えられたことなども、これが近藤勇の首塚であるとされた理由の一つだったようです。

ところが実は土方以外の面々も変名などではなく、ちゃんと実在した人物なのです。

小笠原/内田/鈴木萬之助(蕃之助)は伝習第一大隊、
戸村/鈴木源兵衛/市橋/大田は回天隊、
佐藤/菰田/内山も回天隊→伝習第一大隊に所属していました。


そしてここからが肝心なところ…
名前を刻まれた人々について調べてみると、戸村静一郎という人物、相馬左金吾という変名?を用いていますが回天隊の隊長を務めています。そのため他の人物よりも情報が多くて助かったのですが、彼は慶応4年4月19日、宇都宮での戦闘で戦死しています。(大田政一郎もかな?)

・・・そう、近藤勇の板橋での処刑は慶応4年4月25日、近藤より先に亡くなっている人物の名前が、近藤の首塚の石碑に刻まれるなどということがあり得るでしょうか?しかも処刑後、板橋で数日晒し首→京へ移送→三条大橋で晒し首という一ヶ月近くの時間経過を経た末に・・・。

という訳で、私の見解は言わずもがな。私はこちらの石碑は近藤勇の首塚ではない考えます。

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もう一度台座をよく見ると、建立年を示す部分だけが(不自然に)削られていて読めませんが…

そもそも、これが近藤を供養したものであるならば、土方以外に当時の新選組隊士の名前が一人も刻まれていないというのも可笑しな話。

土方歳三と伝習第一大隊や回天隊らは慶応4年4月の国府台集結から始まる北関東転戦で行動を共にしますが、ここは愛知県…。
まぁ、鳥羽伏見の戦いの折にも伏見奉行所付近で接点があったようなので、石碑は鳥羽伏見の戦い前後~戸村戦死までの期間に築かれたのではないでしょうか。(無論、近藤勇もその時点では存命)
理由・趣旨は分かりませんが刀も出土しているらしいので、伏見での戦死者を祀ったものか、はたまた江戸での再起を期したものであったか…或いは国府台出発を前に、内山某に依頼したものなのか(それにしても何故愛知県岡崎市に?という疑問は残る)・・・現時点ではそれ以上は知る由もない、かな。


さて、法蔵寺はあとにしますが旅はまだまだ続きます。

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