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2013年11月

2013年11月29日 (金)

名古屋城 城友会2013(前乗り)

11月23~24日は年一回の城友会。今年のターゲットは三重のお城ですが、23日は早朝からの行動開始となるため、前日の22日に名古屋へ前乗りしました。

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お昼前に名古屋入りし、名古屋城をのんびり散策します♪

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名古屋城二之丸にある「那古野城跡」の碑。
織田信秀が今川氏豊から奪って以降、織田家の持ち城となり、信長も1555年に清州城へ移るまで居城していました。

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城内で見かけたマンホール☆

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お馴染み、「清正公石曳きの像」

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そして名古屋城へ来た目的の一つがこちら、復元中の本丸御殿☆

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まだ工事中ですが、一部見学できます。

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おぉ…綺麗だ。まだ真新しい木の香りがします♪

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そして、、、一番楽しみにして来たのが、あの二つ☆ 共にこの週末までだったので、ギリギリセーフ。

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早速、天守へ。
「巨大城郭名古屋城」展は天守2階で開催されています。豊富な数の手紙類や図面など、名古屋城築城にまつわる様々な史料展示が充実していて見応えありました。個人的には福島正則が;
「当家が担当した石垣が崩れたとのことだが、あれは雨量が多すぎたためで手抜きではない~云々」
などと言い訳している手紙がツボでした(笑)

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天守最上階から・・・

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更に本丸御殿障壁画も特別公開中…
※挿入写真は復元中の本丸御殿内。複製された障壁画が使われています。

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そして西北隅櫓へ・・・一般的には「清須櫓」として有名なので、私も以降は「清須櫓」と表記します。(別名:戌亥隅櫓)

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清須櫓の内部

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階段などは少し傾いていて、結構傷みは出ているように見えました。

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清須櫓からの眺め・・・

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これも結構ツボにはまった、窓の水抜き♪(入子水抜)

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ところで清須櫓、お堀の外から見るとこんな感じ♪綺麗ですよね~
(2013年4月撮影)

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さて、ブラブラしていたらあんなのが目に入ったので…

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ちょっと覗いてみました。復元本丸御殿の木材加工場。
復元したばかりですぐにひび割れしまくっている甲府城の櫓門みたいなことのないように、しっかりお願いしますね。

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この後、城内の売店で遅めのお昼を頂き、もう少し周辺を散策します。

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元々は天王社と呼ばれ、一度焼失しましたが織田信秀によって那古野城内に再建された那古野神社。
徳川家による名古屋城築城の際、御神籤でもって神意を伺ったところ「遷座不可」と出たため、そのまま城内三之丸に残されました。

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織田木瓜♪

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こっちも☆テンション上がる(笑)

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更にぶらぶら~

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名古屋城外堀。なかなかの規模ですね☆

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地下鉄「丸の内」駅にて。なかなかいいじゃん☆

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この後一旦ホテルに入り、夜は名古屋近隣にお住いのmisaさんやまっさん、翌日からの城友会参加のために名古屋入りしたあいすさん、こばたかさんらと前夜祭☆
風来坊の手羽先☆…少々飲み過ぎました(^_^;)

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2013年11月17日 (日)

佐藤彦五郎の逃避行 (東光寺道と日野用水、他)

慶応4年(1867)3月、近藤勇こと大久保剛率いる甲陽鎮撫隊の甲州遠征に参加した日野の名主・佐藤彦五郎は勝沼での敗戦後、必然的に新政府軍に睨まれることになりました。
そして板垣退助率いる新政府軍が八王子に着陣し、甲陽鎮撫隊の敗残兵探索を始めたことを知ると急ぎ身支度を整え、妻・ノブを初め幼い子供らを連れて東光寺道を伝って小宮村北平の大蔵院へと逃れます。

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本日の始点、栄町五丁目交差点近くに建つ成就院。東光寺の子院の一つだったものと伝わります。

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成就院に移築された東光寺薬師堂。

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成就院から少し進んだ先にある辻、栄町五丁目交差点。
正面、大きな杉が生えている辺りの空地が、成就院に移築された東光寺薬師堂が本来建っていた跡になります。

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この辻には東光寺道が日野用水を渡るために架けられていた石橋「東光寺大橋」の石碑も建っています。目の前を流れるのが日野用水

この辺りは道路拡張工事もあり、私が越してきた1990年代と比べても随分と景観が変わってしまいました。。。

東光寺道はこの先、この日野用水に沿って進みます。

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谷地川を渡る日野用水。

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ちゃんと観るの、初めてだ…

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谷地川に沿って一旦都道169号を逸れます。
日野用水もちゃんと東光寺道に沿って左側を流れています。

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この辺りは幅も広くて、流れが穏やかです。

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お茶屋の松跡
昭和45年頃までは松の大木が残っていたそうです。

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日野用水改修記念碑

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石川堰

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石川堰から再び都道169号に合流した辺り。
歩道が先に行くに従って左へ広がっているのが分かりますか?左側に建つ企業の敷地も斜めに区画されています。
何故、車道(都道169号)と平行していないのかというと・・・

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すぐ先で都道169号と別れ、旧道(東光寺道)が左へ伸びています。歩道が斜めに広がっていたのは、この旧道に沿っていた名残でしょうね。
私も勿論、旧道へ進みます。

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逃げる彦五郎一家はそれどころではなかったでしょうが、歩いていて何だかとても落ち着く通りです。

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この辺りは既に八王子市域に入り、当時は小宮村粟の須という集落がありました。
彦五郎の遠い親戚で、義兄弟の契りを交わしていたと云う井上忠左衛門が住んでいた村です。
日野用水の左側は地形が上がって台地の様になっています。「聞きがき新選組」の中で彦五郎らが新政府軍から逃れる際の様子を;

「東光寺道より粟の須を走り、」

と描写していますが、まさにその通りの地形です。

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東光寺道は三度、都道169号を離れて真っ直ぐ続きます。

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横切る八高線に、都道169号の高架(左上)。
この先しばらく進むと、大蔵院のある北平(平町)へと抜ける尾根越えの山道に入れるはずなのですが・・・

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まさか、これか?!藪・・・orz

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それでも頑張って登ると、いい雰囲気の尾根道が続いていました。
ここを彦五郎たちも通ったのかも、と思うと感慨も一入です。

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尾根からの眺め。ずっと続くあの遥か先の尾根上には滝山城があります。

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分かれ道。ここは右を選択して下っていきます。

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尾根を越えた先に・・・

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小宮村北平の大蔵院(福生寺)

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大蔵院本堂

何とか大蔵院に辿り着き、尼僧の接待を受けて安堵の一息を吐いたのも束の間、粟の須の井上忠衛門から;

「新政府軍がここ(大蔵院)にも来そうだ」

との急報が入ります。
慌てた彦五郎らは寺院の裏庭続きに雑木林をよじ登り、間一髪で難を逃れます。この時、大蔵院を包囲した新政府軍の様子を目撃していた村人の;

「裏山を三、四人這いあがる、その白足袋がよくチラチラ見えた」

という証言が残っています。まさに危機一髪、切迫した状況が目に浮かぶようなエピソードです。

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今は墓地となっていますが、裏庭続きによじ登った雑木林、村人が証言した裏山は間違いなくここでしょう・・・。
あの斜面を幼い子供を抱え、白足袋をチラチラさせながら必死によじ登る彦五郎一行・・・

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その裏山、つまり現在の加住丘陵上にはご覧のような山道が一部残されています。
或はこの道を、彦五郎一家は西を指して逃れていったのでしょうか。
この後の彼らの足取りは、二宮村→大久野村と続きます(下記参照)ので、この加住丘陵の尾根を高月辺りまで西へ進み、そこから秋川を越えて二宮へ出たのではないでしょうか。
もしかすると、滝山城址も通り抜けたかもしれませんね。

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1800年代前半の文献には既に登場しているという、大蔵院(門前)の大銀杏。まだ青々と・・・(^_^;)

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当時この付近は平氏が名主を務めており、現在も「平町」の地名が残ります。
この地には平の渡しと呼ばれる多摩川の渡し場もあり、上杉謙信が永禄4年に小田原城を攻める際、ここで多摩川を越えて当麻(相模原市)へと抜けていますし、かの徳川家康も八王子城跡や滝山城跡を巡見してから川越へ向かう際に通行したと云います。

その時に家康から洪武通宝を下賜され、これを御神体として村にある西玉神社に家康を合祀しますが、御神体の紛失を恐れて寛政8年(1796)には平家の敷地内に新たに東照宮を建てて遷し、今も御子孫が祀っていらっしゃいます。

『(慶応元年四月)十七日、天気、
一 上平村東照神君様御宮拝例ニ、彦五郎・歳三、其外之もの相越し候処、(中略)帰宅掛ヶ粟須村忠左衛門方え立寄、稽古いたし候、』

(佐藤彦五郎日記)

そう、慶応元年(1865)には京から戻っていた土方歳三も彦五郎と共に訪れ、お参りした東照宮です。きっと同じように東光寺道を辿って来たことでしょう。
この時も帰りには粟の須の井上忠左衛門方に立ち寄っているのですね。
※平家の東照宮については、コチラの記事も参照。

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その平の渡し跡付近

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多摩川を挟んで対岸の、昭島側から見た平の渡し跡。
グラウンドの先に多摩川が流れています。

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大蔵院裏山の中腹にある西玉神社
前述した通り、大国主命と共に徳川家康を祀っています。

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社紋も三葉葵

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西玉神社境内から大蔵院を眼下に収める眺め。


さて、その後の彦五郎一行の足取りですが、二宮村(現JR「東秋留」駅付近一帯)に立ち寄った後、そこの茂平の案内で大久野村(日の出町)の羽生家に匿われました。

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二宮村を出て、最後に辿り着いた大久野村

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彦五郎らを匿った羽生家の門。
とても立派ですが、空き缶の山が・・・(;-_-)

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立派な土蔵も…!

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あちらは勝手口になるのかな?
とても広大な敷地を誇るお屋敷でした。

大蔵院からは車のルートにして約16~17km。それは大変な苦労の連続だったことでしょう。。。この屋敷に辿り着き、ようやく緊張の糸を緩めることができた彦五郎らの思いや如何に・・・。

そしてこちらの羽生家、近藤勇の三浦休太郎宛書簡を所蔵されています。
坂本龍馬暗殺事件を受けて身の危険を感じた紀州藩の三浦休太郎は、京都守護職松平容保を通じて新選組に身辺警護を依頼します。
新選組は三浦の依頼に応え、御陵衛士を脱した斎藤一(山口二郎)を付けますが、この書簡はその二郎を少々必要とする件(少々相用い候事件)が出来して、断りなく引き上げさせたことを詫びる内容です。
少々必要とする件というのが何なのか気になるところですが、日付は(慶応三年)霜月十八日
龍馬暗殺の3日後で、伊東甲子太郎ら御陵衛士の粛清を謀った油小路の変まさに当日・・・なんとも示唆的ですね。
この後、ひと月も経たない12月7日には、実際に龍馬暗殺を疑った海援隊士らによる三浦休太郎襲撃事件が発生し、三浦の警護に戻っていた斎藤一は手傷を負いながらもなんとか撃退に成功しています(天満屋事件)。

何故この書簡が羽生家に伝わったのかは謎ですが・・・多摩の有力者たちと新選組の密接な関係を裏付ける証左とも言えそうですね。

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帰りしな車を発車させてすぐ、立派な門構えが目に飛び込んできたので急遽路駐して撮影した1枚。

大久野村の羽生の里、まだまだ奥が深そうだ♪
もう少し調べてから、是非とも再訪しよう☆

なお、彦五郎の長男・源之助俊宣は新政府軍が迫って来た時、病に臥せっており、父母らと別れて前出の粟の須・井上忠左衛門宅へ逃れた後、山越しして隣村の宇津木へ移りますが、そこで新政府軍に捕らえられます。
※この時「山越し」した山もまた、父・彦五郎らがよじ登った大蔵院の裏山、加住丘陵の尾根続きと思われます。私の家もその山の上…。

八王子に置かれた新政府軍本営・柳瀬屋で厳しい詮議を受けますが、最後は東山道軍参謀の板垣退助により、

「自分が罰せられようとも父を庇うというのは孝道に厚きもの。その厚き孝道に免じて今日総てを許し遣わす。必ず親は大切にせよ」

と申し付けられて釈放されました。
戊辰戦争終結後、賊軍とされた会津藩の名誉回復に努めたことといい、新政府側の中では(個人的に)とーっても数少ない好感の持てる人物の一人です。

※2016年4月3日 部分改訂


■2016年9月、佐藤彦五郎らが大久野へ逃れる前に立ち寄ったと云う二宮村(現あきる野市二宮/JR五日市線「東秋留」駅周辺)を訪れてみました。

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二宮神社

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二宮神社は武蔵総社六所宮・大國魂神社の二之宮に祀られています。
本殿は江戸時代の創建で秋留台地の東端に位置し、中世には境内、及びその周辺は大石氏の城館跡であったとも考えられています。
ただ、この近くに「御屋敷」と呼ばれる高台が別にあり、近年になってそちらから、14世紀の豪族居館跡が発掘されているのだそうですが・・・でも、なんとなく右奥の段差とか気になりますよね。

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二宮神社境内から見渡す旧二宮村の眺め。
彦五郎一家を大久野の羽生家へ案内した二宮の「茂平」が如何なる人物で、その家が具体的にどこにあったのかは、まだ調べがついていません。五日市郷土館や二宮考古館にも立ち寄ってみましたが、分りませんでした。

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二宮神社正面の小道を少し入ると、天然理心流 井上才市翁表徳碑があります。
井上才市は二宮出身で、この地に天然理心流の道場、心武館を開いた人物です。2代目近藤三助以降、周助-勇と続く流派とは別系統になりますが、勇の養子・勇五郎とは交流もあったとか。
生まれも1862年とのことで彦五郎とは世代が違い直接「茂平」には繋がりませんが、ちょっと気にはなります…今後は彼の周辺も調べてみようかな。

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拝島大師大黒堂(旧本堂)に掲げられる天然理心流奉納額。
大正2年11月23日、井上才市によって奉納されています。
屋外に掲げられているので、他サイト様でも「雨風による劣化が著しい」と紹介されており心配でしたが、思いの外、文字はしっかり判読できました。少し修復したのかな?

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初代・近藤蔵助(内蔵助)、二代・三助と続き、そこから新選組メンバーを輩出する流派とは分かれ、2代を経て心武館を創設した井上才市・・・

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この奉納額に、近藤勇五郎も名を連ねています。

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ちなみに隣は、才市の額が奉納されてから98年後の平成23年11月23日、才市から数えて4代目の館長らが中心となって奉納された2代目の奉納額です。

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あきる野市雨間の古道追分(多摩川幼稚園北、二宮の西方2km)にあったという道標。
ここ二宮から「大久野」へ向かう彦五郎一家もこの道標に従い、古道を「右」へ進んだのかもしれませんね。
(現在は二宮考古館前に展示)

※以上、2016年9月25日追記

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2013年11月12日 (火)

女影ヶ原古戦場、鎌倉街道、柏原城

飯能オフも佳境に入り…お次は「女影ヶ原(おなかげがはら)古戦場」へ。

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古戦場に建つ霞野神社。
女影ヶ原古戦場や鎌倉街道(古道)に関する説明板も設置されています。

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女影ヶ原古戦場の碑

鎌倉幕府滅亡後、信濃に匿われていた最後の執権・北条高時の遺児・時行が1333年に挙兵しました。甲斐などを制圧した時行軍は上野(こうずけ)から鎌倉街道を南下して鎌倉を目指します。
これを迎え討つ為、鎌倉の足利直義(尊氏弟)は渋川義季、岩松経家らの軍勢を派遣。1335年、両軍はここ女影ヶ原で激突しました。。。

戦いは時行軍の勝利で終わり、鎌倉を目指して更に進軍した時行軍は小手指原での戦いも勝ち進み、ついには一時、鎌倉の占拠に成功します(その後すぐに足利尊氏によって討伐されますが…)。

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霞野神社の目の前にはこの通り、鎌倉街道(上の道)が通っています。
趣ある古道ですねぇ・・・

この方角から攻め上ってきた時行軍は女影ヶ原で足利軍を打ち破り、、、

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こちらの追分を左に進んで小手指原方面へと進軍を続けます。

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その道標。「右 八王子道、左 所沢みち」
時行軍と同じように、車で少し左の道を進むと、、、

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鎌倉街道の石碑がありました。

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あの先は切通しになっています。
この街道が昔からあった以上、あの切通しも遺構ということになります。


◆柏原城

さて、今オフ会で最後に訪れたのは狭山市にある柏原城。

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柏原城の図面

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本郭を囲む堀
・・・既にだいぶ日が陰り、スマホでの撮影だったので暗視カメラのような写真になってしまっていますがご容赦ください…(^_^;)

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本郭と二の郭間の堀底

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本郭。結構立派な土塁が取り巻いています。

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本郭の虎口

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柏原城の南東側は、入間川によって築かれた河岸段丘となっています。
写真右手、今では住宅地となっていますが往時は河原だったということですね。

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二の郭側から三の郭方向。手前の窪んでいる箇所は堀です。。。分からないですよね(^_^;)

柏原城、築城年代や詳細は諸説あってハッキリしないようですが、すぐ近くを先に紹介した鎌倉街道の上の道が通っており、交通の要衝を押さえる重要な拠点だったのでしょうね。

飯能オフ会、
明治(東郷公園)あり、幕末(飯能戦争跡地)あり、中世(女影ヶ原)あり、古道ありでとても充実しました☆
主催のなっちさんはじめ、参加者の皆さん、ありがとうございました♪

この後は川越へ移動し、翌日の忍城時代祭のために埼玉入りしていたあっぴん。さんや他のフォロワーさんとも合流し、懇親会でした☆

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2013年11月11日 (月)

聖天院 - 高句麗渡来人の記憶

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聖天院
高句麗から渡来した高麗王若光の菩提を弔うため、天平勝宝3年(751)に創建されました。

高句麗滅亡後、多くの高麗人が日本に帰化していましたが、716年、朝廷は駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7ヶ国に居住していた高句麗移民1799人を現在の日高市と飯能市の一部に移します(「続日本記」)。
これが高麗郡の始まりで若光はその初代郡司でした。

高麗郡は明治29年(1896)に入間郡に編入されて消滅しますが、その頃には郡域を鶴ヶ島市、川越市、狭山市、入間市の一部にまで広げていました。

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てっきり仁王門かと思っていましたが、後で調べてみるとこちらは風神・雷神を祀る「雷門」なのだそうです。

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雷神(左)と風神(右)
この時点で、どこか日本の寺院と違う雰囲気は感じていました。

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風神も雷神も共に、爪が異様に鋭いです・・・
手は3本指で、、、足は2本指か?!

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雷門の天井絵・・・

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高麗王廟…若光を祀ります。

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あちらの中門の先には・・・

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とても広い庭園と、山を登った先に本堂が見えています。

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中門の・・・まさしく“鬼”瓦。

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本堂…平成12年に新築されています。随分と立派だこと☆

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本堂前からの眺め・・・

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こちらは本堂新築の際、山を造成していたら出てきたという岩。
「雪山」と名付けられています。

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在日韓民族慰霊塔…なんだか日本にいる気がしなくなります。

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ついつい「ここ、日本の埼玉県だったよね?」と確認せずにはいられなくなるような、不思議な空間が広がるお寺でした。

今回は時間の都合で寄りませんでしたが、近くには高麗神社や「高麗家住宅」(高麗神社神職の旧宅)もあります。いずれ機会があれば、そちらにも足を運んでみようかな。

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2013年11月10日 (日)

飯能戦争の舞台

「飯能戦争」

きちんと勉強した訳ではないので簡潔にまとめると・・・

慶応4年(1868)、上野に籠った彰義隊の頭取だった渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)は、副頭取の天野八郎と対立して上野を去り、田無で新たに振武軍を結成する。この時、田無や府中、所沢、拝島、更には日野といった多摩各村から軍用金を徴収している。
同年5月15日、上野戦争が勃発すると振武軍も上野へと向かうが、彰義隊の敗報が伝わると田無へ引き返している。

その後、彰義隊の敗残兵も加えた振武軍は飯能へ移動、天覧山(当時は羅漢山)の麓の能仁寺を本営とし、周辺の智観寺や廣渡寺、玉宝寺、観音寺などに宿営する。
そこへ久留米藩や筑前藩、川越藩などから成る新政府軍が方々から進軍し、5月23日に一斉攻撃を開始する。これが飯能戦争と呼ばれる戦い。圧倒的な兵力と火器を有する新政府軍を前に抗する術もなく、振武軍は僅か一日で敗走した。

渋沢成一郎は辛うじて横手から秩父方面へ逃げ落ち、後に榎本武揚の軍に参加して函館まで戦い続ける(明治以降も渋沢栄一の引きで大蔵省に入省するなど、政財界で活躍している)が、振武軍参謀で渋沢栄一の養子・渋沢平九郎は戦いで傷を負い、逃走中に新政府軍に遭遇、数人を斬った後に自害して果てている。

・・・ざっとこんな感じでしょうか。
という訳でまずはこちら;

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振武軍が本営とした能仁寺の仁王門。

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紅葉はまだちょっと微妙…(^_^;)

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本堂

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境内には飯能戦争の顕彰碑も・・・

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戦闘で焼失したこともあって本堂や山門もまだ新しく、広くて綺麗なお寺さんでした。

更に能仁寺裏手の天覧山に登ると・・・

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山腹の岩肌には十六羅漢像が。
この十六羅漢像、徳川綱吉(五代将軍)が重い病に罹った時、心配した生母・桂昌院が黒田直邦に相談したところ、彼の菩提寺である能仁寺の住職による病気平癒祈願を勧められた為、直ちに江戸城に召して祈願させた。すると病も癒えたので喜んだ桂昌院から寄進されたものだとか。
それまで愛宕山と呼ばれていた山名も、この機に羅漢山と改められました(後に明治天皇が軍事演習視察の為に当山に登られたことから、以降は現在に至るまで天覧山と呼ばれています)。

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更に進んで、こんな岩肌を抜けて・・・

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山頂から。
能仁寺はこの真下、智観寺は方角が違って見えませんが、廣渡寺や玉宝寺といった飯能戦争の舞台が一望のもとに見渡せます。
新政府軍の主力部隊は写真左奥の方角(南西)から攻め込んできました。

少し車で移動して・・・

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こちらが智観寺。
北東の鹿山方面から攻め込んできた筑前藩や川越藩などから成る新政府軍の砲撃を受け、正面に見える山門にも着弾しました。

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残念ながら山門は昭和32年に老朽化によって建て替えられていますが、着弾点に印をつけて残されているそうです。
・・・どれがそうなのかイマイチ分かり辛かったのですが、おそらく横に渡された梁の“アレ”ではないかと・・・(^_^;)

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そして境内には本堂がありませんでした。おそらくは戦争で焼失後、再建されることなく現在に至っているのではないかと推察。
ご本尊などはあちらの宝物館に安置されている模様。他にも被弾した山門(再建前のもの)の木材など、飯能戦争にまつわる品もあるそうですが、残念ながら年一回、10月の最終日曜日のみの公開です。

今回は個人的に準備不足の感が拭えないので、きちんと飯能戦争のことを調べた上で、改めて訪れてみたいと思います。

※ちなみに智観寺が建つ辺り一帯、「中山」という地名で戦国期には中山氏が治めていました。八王子城が豊臣軍に攻められた時、奮戦して戦死(自害?)した中山家範が有名ですね。
その関係で、彼の二男・信吉の系統の代々の菩提寺でもあります。

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秩父御嶽神社(東郷公園)

11月9日は飯能を巡るオフ会に参加しました。
朝9時に八高線・東飯能駅に集合。主催のなっちさんの車に乗り合わせ、総勢6名でスタート☆

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まず最初の訪問地はこちら、秩父御嶽神社。
境内の山麓部分には、飯能で生まれ育った鴨下清ハ(秩父御嶽神社創設者)が建立した東郷平八郎元帥の銅像があり、縁の品々も展示して「東郷公園」として整備されています。

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早速来ましたね~☆
右はバルチック艦隊の砲弾で、左は旅順港口に布設されていた水雷…本物です。

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そして…見えてきましたね♪

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「皇国の興廃此の一戦に在り 各員一層奮励努力せよ」
(東郷平八郎揮毫)

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東郷平八郎は自らの生前に銅像を建てることに対して「断固固辞」の姿勢を貫いていました。が、鴨下清八は東郷邸に通うこと80回以上(!?)、最後は東郷も根負けして銅像建立を許可。除幕式には自ら足を運びました。
即ち、世界で唯一の本人公認の銅像。除幕式ではあの位置に立っていたのですねぇ…。

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とても格好いい銅像です☆

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ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦で東郷が乗っていた戦艦「三笠」の甲板。
これだけの砲弾を受けながら、よくぞ勝てたなというくらいの凄まじさです。。。

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除幕式に足を運んだ際、東郷が休憩した至誠館。
あの一階(地階)部分には・・・

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ロシア製の3インチ野砲が納められていました。

「東郷公園」はここまで。この先は山頂の本殿を目指します。

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何、この階段・・・
ゼェゼェ言いながら何とか登り切った先に・・・

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秩父御嶽神社本殿
登り切った満足感は・・・高いです(笑)

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山麓に戻って、こちらは陸軍大将・乃木希典の銅像。

東郷平八郎の銅像もさることながら、三笠の甲板や砲弾、水雷、etc...
飯能にこんな場所があったとは、迂闊にも知りませんでした。ご興味のある方は是非、訪れてみてください。

この後は幕末の「飯能戦争」に関連する地を巡ります。

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2013年11月 4日 (月)

本田家 & 富澤家

11月3日の文化の日。
訪れてみたい場所があったので電車でフラッとお出掛け。

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JR南武線「谷保」駅で下車。こんな雰囲気のある小路をてくてくと歩くこと6~7分で・・・

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旧本田家住宅に到着♪
代々、谷保村(国立市谷保)の名主を務めた家柄で、幕末期の当主・本田覚庵はかの新選組副長・土方歳三の書の先生としても知られています。

歳三が日野からここまで通っていたのかぁ~と思うと感慨も一入。
ちなみに電車で動いていると分かり辛いですが地図で確認すると、谷保と歳三の住んでいた石田は多摩川を挟んで直線距離でほんの3km程度。ちょうど万願寺の渡しを越える江戸時代初期までの甲州道中のルート上だったみたいですね。
※歳三が生きた時代には、既に甲州道中はルートを変更されています。

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普段は非公開ですが、2013年は10月26日~11月4日の間、「東京文化財ウィーク」なるものが開催されており、この期間だけ特別に敷地内に入ることができます☆

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なので、普段は閉ざされている薬医門も今日は♪
こちらの薬医門、江戸後期の創建で当初はもう少し向かって左手(主屋正面)にあったそうですが、甲州街道の拡幅工事に伴い現在の場所に移されています。

では早速☆

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本田家主屋
建物から享保16年(1731)の祈祷札が見つかっていることから、築280年以上とも考えられています…凄い!
嘉永2年(1849)に増築されているそうですが、さすがに老朽化が進み、現在はかなり傾いていました。。。

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主屋、本来の玄関

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こちらは現在、玄関として用いられている所。
ここの土間の部分だけ中に入ることができます。中では・・・

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ちょっとした展示も。

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お庭

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横に回って、こちら側には奥から手前に向かって;
奥の間・中の間・書院
が配されています。

この写真、私がヘタクソで斜めになっている訳ではないですよ…(^_^;)
これだけ老朽化が進んでいるということ。いずれ何らかの手を加えなければ保存が難しいことは明白。有形文化財に登録した以上、国が何とかしないとね。

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奥の間

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そして中の間(右)と書院(左)
歳三も、これらのいずれかで覚庵に書を習っていたのでしょうね…

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奥の間のすぐ外には、富士塚らしき築山もありました。

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古い建造物からは歴史の流れがダイレクトに伝わってきて、本当に来れて良かったです♪


さて、旧本田家住宅を辞した後は再び電車で移動します。

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多摩センターで下車して、多摩中央公園の奥の方まで足を運ぶと・・・

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旧富澤家住宅が移築されています。

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富澤家の先祖は駿河今川家の家臣と伝わり、今川家滅亡後、この地に逃れて土着したとか。
以来代々、当主は忠右衛門を名乗り、連光寺村(多摩市連光寺。多摩中央公園から北東方向に4~5km)の名主を務めてきました。

幕末期には日野の佐藤家、小野路の小島家らと共に新選組を支援していて、時の当主・富澤忠右恵門政恕は京都に旅した際、近藤や土方、山南、沖田らといった試衛館時代から親交のある面々から歓待を受けています。
※彼はこの旅の様子を「旅硯九重日記」として書き残しています。

そんな関係で現在、こちらの家屋内部では特別展が開催(~11/24)されており、新選組に纏わる史料などが展示されています。
家屋内は写真撮影禁止なので、ご紹介は出来ませんが…(^_^;) 印象に残っているのは近藤勇から贈られた陣羽織かな。史料は殆ど複製が中心です。

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池も綺麗だったので少し散策・・・

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文化の日に地元・多摩の歴史に触れる・・・いい休日になりました♪

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2013年11月 3日 (日)

甲斐の城攻め④ 湯村山城&甲府城

(2日目のつづき)

午後は湯村山城へ。躑躅ヶ崎館の1kmほど西に位置します。

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登城口にて。
こちらは城域まで舗装された登山道が続き、比較的楽に登れます・・・私でも(笑)

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古墳。付近一帯に計7基もの古墳があるそうです。

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ところで湯村山城、こういった石積みがあったり、、、

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井戸跡もあったりしますが、曲輪がどうも分かり辛い。
位置関係からして躑躅ヶ崎館の西を守る出城、甲府盆地を一つのお城と見立てた場合、本丸(=躑躅ヶ崎館)を守る櫓のような役割を担っていた城なんでしょうね。

さて下山後、帰りの電車の時間が決まっているあむさんの為に大急ぎで甲府駅近くまで戻り、山梨県庁防災新館へ。

ここの地下にあるのが・・・
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甲府城の石垣展示室。
防災新館(山梨プラザ)建設に伴い、発掘調査を経て移築復元されました。

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おかしな感想だけど・・・石垣の石って、磨くとこんなに白くなるんだね(笑)

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このパネルの意味がよく分からなかったんだけど・・・まさかこれだけの石垣を全部壊して建てた訳でもあるまいし。
他の箇所の写真を用いて、「移築した石垣は、この高さに充当するよ」ってことかな?

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こういう図面は現在と過去が分かり易くていいね☆

ここであむさん、更に躑躅ヶ崎館に戻って忘れたスタンプを押しに行くkuroさん、kuroさんを送るえりさんともお別れ…(>_<)/~

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残ったなっちさん・nikkoさん・ロームさんと甲府城散策。

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実は8年ぶり…(^_^;)

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石垣の修復でもするのかな?

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真新しい鉄御門!

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本丸と天守台。
実は8年前に来た時は、ちょうど花火大会と重なって本丸周辺は立入禁止になっていた。。。

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なので、初めての天守台からの眺め♪
ある意味、慶応4年(1868)に近藤勇らが夢見た景色でもある?(^_^;)

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井戸

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どの時期に何の目的でそうしたのか・・・古い石垣を覆うように新しい石垣が積まれています。幅を広げて多聞櫓でも造りたかったのかな?

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すっかり暗くなった甲府城から。富士山も見えています。

ここで躑躅ヶ崎館から戻って来たkuroさんと再合流。代わりに電車で帰るなっちさんとはお別れ(T_T)/~

残ったメンバーで、駅ビルで食事。
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最後の最後でありついたB級グルメ「鳥もつ」♪

これにて今回のオフ会も終了。皆さんとお別れして一人、中央道で帰路へ。
談合坂を過ぎた直後から酷い渋滞にも遭いましたが、何とか無事に帰宅。。。

今回は台風情報に振り回され、初日の天候の悪さもあって予定の行程を消化できず、発起人のあむさんも消化不良だったことでしょう。。。
同じく遠い九州から来たkuroさん共々、また来てくださいねー☆

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甲斐の城攻め③ 要害山城(&要害山出城:熊城)

さ、2日目。前日とはうって変わって雲一つない快晴です☆

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2日目の集合場所もここ☆
朝陽が射して…神々しいですぞ、信玄殿w

要害山城は武田家の居館・躑躅ヶ崎館の詰城。北に2~3km程の場所に位置します。

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甲府駅からも車で10分程度。
早速登城します。

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つづら折れの山道を登ること10~15分。急な斜面に息も上がりがちですが、ようやく城域に到着。

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登城口から城域に入ると、いくつか細かい曲輪が複雑に連なり、ご覧の様な枡形虎口や、、、

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井戸などの遺構も残ります。

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道なき道を行く、「遺構あるある探検隊」(笑)
道と言うより、ただの斜面ですね(^_^;)

この後、とても大きな竪堀も直登しました。
そんなこんなで遺構を求めて登っていくうち、いよいよ本丸に迫ります。。。

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この虎口を抜けた先に・・・

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要害山城本丸。土塁が素敵ですねぇ…

永正17年(1520)、躑躅ヶ崎館やこの要害山城を築いたばかりの甲斐国主・武田信虎は、今川家臣・福島正成の侵攻を受け、正室の大井夫人を要害山城に避難させた上で福島勢を迎撃、見事に撃退します。
この折、大井夫人は避難先の要害山城で信虎の嫡男を出産します。つまり・・・

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ここ、要害山城の本丸こそ、武田信玄生誕の地と考えられるのです。

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こうして見ると、土塁が長方形の本丸を綺麗に縁取っているのが分かりますね♪

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本丸を東側に抜けてすぐの竪堀。
縄張図に石垣のような印が付けられていたので注意深く見てみると…!?

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堀底から・・・ほぉ~♪

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竪堀の切れっぷりも見事☆

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更に別の竪堀・・・堀底に下りて何を熱心に見ているのかと思ったら・・・

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こちらにも石積み☆
竪堀の起点の土留めの意味合いが強いのでしょうかね。

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歩を進めるほどに、またまたスケールの大きい竪堀…もうキリがないくらい(笑)

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木にしがみ付いて堀底を眺める・・・お猿さん?(*≧艸≦)

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引き続きまして、要害山の出城・熊城に移動中~☆

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まー初っ端から堀切の見事なこと!

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ほら、こっちも。
あそこにいるのはkuroさんかな?堀の深さがよく分かるでしょ♪

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大きな堀切を2本乗り越えると、サクッと本丸に到着。石積みも残っていますね。

しかし、熊城の本番はここから☆
縄張図に描かれた13本からなる畝状竪堀を求めて急斜面を転げ落ちた先に・・・

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畝状竪堀。写真だと厳しいなぁ~
左上から右下に向かって幾筋もの竪堀が下っている様子、分かります?…地表面が波打ってるでしょ。

まぁ、写真では感動は伝わり辛いですが、圧巻の一言!
まともに立っていられない程の急斜面を下らないといけないので大変な場所ですが、これは必見です☆

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これまた、どでかい竪堀を見つけてボーッと見入る探検隊の面々(笑)

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こっちも切れてるね!

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史跡境界線の石柱。
ここからは元来た道を引き返しました…が、既にバテバテの私は皆のペースに着いて行けず、一人遅れがち。限られた時間の中でご迷惑をお掛けしました m(_ _)m

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やっとの思いで下山した後はこちらの温泉宿、その名も「要害」でランチ。
・・・燕の巣(^_^;)

(そう言えば下山した直後、ちょうどバスで乗り付けた団体さんの一人に「山に登って来たんですか?…汚れているから」と声を掛けられました…(^_^;) 全身の汚れが城攻めの険しさを物語るww)

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まさか…現役?

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こんな景色のいいラウンジで頂くランチは・・・

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虹鱒の甘露煮定食♪

いや~それにしても疲れた!!(笑)

この後、ここでオフ会を離脱する寺さんを甲府駅で見送り、一行は次の目的地へ。。。

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甲斐の城攻めオフ② 雲峰寺・恵林寺

ほうとうで充分過ぎるほどお腹を満たされた後は塩山方面へ移動。。。

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雲峰寺へ・・・石段がステキ♪

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仁王門
ここまで車でかなり登ったので、霧が凄い…(^_^;)

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雲峰寺を訪れた一番の目的は、こちらで展示されている「御旗」!
武田家重代の家宝で日本最古の日ノ丸とも云われています。

武田家で軍議などを経て家中の重大事項が決定された時、当主が;
「御旗、楯無も御照覧あれ!」
と宣して誓う儀式で有名な、あの御旗です♪
さすがに生地はボロボロでしたが、感動です。。。

実はこの週末、「こくみん文化祭」の一環で、もう一つの家宝である「楯無鎧(小桜韋威鎧兜大袖付)」が所蔵する菅田天神社で公開される予定だった(なんと明治時代以来の一般公開)のですが、台風接近により拝観中止と発表されていました。
折角のチャンスだったのに残念ですが、せめてもう一方の御旗だけでも、ってことで雲峰寺に訪れた次第です。

※ところが後日、よく晴れた翌日曜日(27日)には「中止」という公式発表の変更も無しに“こっそり”公開されていたことを知りました。。。文化祭主催サイド・天神社いずれの問題か、はたまた相互の連絡不備かは知りませんが、次に機会が訪れるのかも知れない貴重なチャンスをみすみす逃すことになった側としては、大変に不愉快な思いを致しました!

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本堂(左)と庫裏(右)
手前の大きな木は品種は忘れてしまいましたが、樹齢800年の桜だそうです。信玄もここを訪れて愛でたのでしょうか・・・

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とても雰囲気のあるお寺で、御旗も拝観出来たので満足です☆

また少し移動して・・・

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恵林寺へ。
ここも人が少ない・・・(^_^;)

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三門

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「安禅必ずしも山水を須いず 心頭滅却すれば火自ら涼し」

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境内

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三重塔
ここの三重塔、雰囲気が好きなんだよね♪

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武田の花菱!

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枯山水

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信玄が出家する際、剃り落した髪を自ら胸部に塗り込めたとの伝承もある「武田不動尊」
・・・暗くてブレてますが(^_^;)

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武田信玄墓所
この先には徳川五代将軍・綱吉の側用人として有名な柳沢吉保の墓所もあるのですが、この日は雨天により立入禁止になっていました。

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庭園

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宝物館では武田信玄の愛刀「来国長」などの名刀も拝観しました♪

最後に皆でお団子を頂いて・・・
(一人、せっせと鴨に与えている人もいましたが…ww)

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甲府市内に戻り・・・

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閉館時間ギリギリ(本当は少し過ぎていたw)で山手御門に駆け込み☆

各々ホテルにチェックインした後は、甲府駅前のこちらで!
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風林火山はなの舞☆
共通の趣味を持った者同士、宴は楽しく過ぎていきます・・・

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〆はあむさん、寺さんとラーメン♪
あむさんが事前に見つけていた久留米ラーメンのお店で。
あむさんの九州センサー、ラーメンセンサー、、、さすが(笑)

こうしてオフ会初日の夜は楽しくも呆気なく過ぎていくのでした。。。

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甲斐の城攻めオフ① 躑躅ヶ崎館

10月26~27日は甲斐の城攻めオフ♪
台風27号と28号が同時に日本列島へ向かい、ちょうど週末に再接近しそう、でも「藤原の効果」でこの先の動きが読めない!っていうんで週初めからヤキモキさせられた一週間。
直前に軌道が逸れて直撃は免れ、九州から参戦のお二方の飛行機も無事に飛べることになったので何とか開催…ヤレヤレ(^_^;)

初日(26日)の早朝、私は自宅近くの駅でなっちさんを拾い、土砂降りの中央道を西へ。
元々渋滞を避けるために早めの出発にしていたことに加え、台風の動きに翻弄されてか、外出する人も少なかったと見えて至って順調なDRIVE。

甲府駅前での集合時間9時にはだいぶ早過ぎる到着になりそうだったので、ちょっと寄り道。

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カーナビに出ていた名前に惹かれて訪れてみた…山縣神社。
山縣昌景を祀った神社かと思いきや・・・その子孫で江戸時代中期の学者、山縣大弐を祀っていました。境内には大弐さんの墓所もあります。

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更に甲府駅北口にて。復元展示されている甲府城の石垣。

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図面でいうとこの辺り・・・(左下の「現在地」)

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山手御門と奥に…稲荷櫓かな?

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とまぁ、適当にブラブラしていたら時間になったので、集合場所の甲府駅南口へ。

最終的にオフ会参加者は8名。生憎の天候により、この日の山城攻めは断念して寺社中心の行程に。
まずは甲斐武田家の居館、躑躅ヶ崎館(武田神社)へ向かいます。

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武田神社に到着。時間が早いこともあるだろうけど・・・まさかここで無人の写真を撮れるとは!(^_^;)

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まずはお参りして・・・

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武田信玄も使った(であろう)井戸

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居館跡(神社境内)を囲む土塁も立派です。

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本来の大手口は東側のこちら。

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大手門東史跡公園。前回(6年前)来た時はただの原っぱだったよな~
武田氏以降の遺構が復元されています。実はこの更に下に・・・

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武田氏時代の三日月堀の遺構が眠っているらしいのです。

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上の説明板からすると、こんな感じかな。
三日月堀も観てみたいけど、それには地表面の遺構を壊さなきゃいけなくなるし…仕方ないね。

この後、宝物殿を見学し、、、

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再び拝殿に戻って、nikkoさんの取り計らいで全員中に上がらせて貰い、お祓いを受けて宮司さんのお話を聞かせて頂いたりしました。

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お次は西曲輪へ。
・・・いいねぇ☆

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西曲輪北側の枡形

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この枡形の先には、とっても素敵な土橋が♪

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ほら☆
高さがあり、エッジも効いていて最高(笑)

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外側から。土橋奥に枡形。

このまま外周を時計回りにグルッと回って・・・

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神社参道正面へ。
皆さん、あちらのお店でお土産物色中(笑)

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お昼は甲府駅前の「小作」さんで名物のほうとう♪
私のは辛口豚ほうとう☆キムチたっぷり。かぼちゃなどの野菜も大きくて凄いボリューム。正直言って完食するのに一苦労でした…(^_^;)

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