飯能戦争の舞台
「飯能戦争」
きちんと勉強した訳ではないので簡潔にまとめると・・・
慶応4年(1868)、上野に籠った彰義隊の頭取だった渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)は、副頭取の天野八郎と対立して上野を去り、田無で新たに振武軍を結成する。この時、田無や府中、所沢、拝島、更には日野といった多摩各村から軍用金を徴収している。
同年5月15日、上野戦争が勃発すると振武軍も上野へと向かうが、彰義隊の敗報が伝わると田無へ引き返している。
その後、彰義隊の敗残兵も加えた振武軍は飯能へ移動、天覧山(当時は羅漢山)の麓の能仁寺を本営とし、周辺の智観寺や廣渡寺、玉宝寺、観音寺などに宿営する。
そこへ久留米藩や筑前藩、川越藩などから成る新政府軍が方々から進軍し、5月23日に一斉攻撃を開始する。これが飯能戦争と呼ばれる戦い。圧倒的な兵力と火器を有する新政府軍を前に抗する術もなく、振武軍は僅か一日で敗走した。
渋沢成一郎は辛うじて横手から秩父方面へ逃げ落ち、後に榎本武揚の軍に参加して函館まで戦い続ける(明治以降も渋沢栄一の引きで大蔵省に入省するなど、政財界で活躍している)が、振武軍参謀で渋沢栄一の養子・渋沢平九郎は戦いで傷を負い、逃走中に新政府軍に遭遇、数人を斬った後に自害して果てている。
・・・ざっとこんな感じでしょうか。
という訳でまずはこちら;
振武軍が本営とした能仁寺の仁王門。
紅葉はまだちょっと微妙…(^_^;)
本堂
境内には飯能戦争の顕彰碑も・・・
戦闘で焼失したこともあって本堂や山門もまだ新しく、広くて綺麗なお寺さんでした。
更に能仁寺裏手の天覧山に登ると・・・
山腹の岩肌には十六羅漢像が。
この十六羅漢像、徳川綱吉(五代将軍)が重い病に罹った時、心配した生母・桂昌院が黒田直邦に相談したところ、彼の菩提寺である能仁寺の住職による病気平癒祈願を勧められた為、直ちに江戸城に召して祈願させた。すると病も癒えたので喜んだ桂昌院から寄進されたものだとか。
それまで愛宕山と呼ばれていた山名も、この機に羅漢山と改められました(後に明治天皇が軍事演習視察の為に当山に登られたことから、以降は現在に至るまで天覧山と呼ばれています)。
更に進んで、こんな岩肌を抜けて・・・
山頂から。
能仁寺はこの真下、智観寺は方角が違って見えませんが、廣渡寺や玉宝寺といった飯能戦争の舞台が一望のもとに見渡せます。
新政府軍の主力部隊は写真左奥の方角(南東)から攻め込んできました。
少し車で移動して・・・
こちらが智観寺。
北東の鹿山方面から攻め込んできた筑前藩や川越藩などから成る新政府軍の砲撃を受け、正面に見える山門にも着弾しました。
残念ながら山門は昭和32年に老朽化によって建て替えられていますが、着弾点に印をつけて残されているそうです。
・・・どれがそうなのかイマイチ分かり辛かったのですが、おそらく横に渡された梁の“アレ”ではないかと・・・(^_^;)
そして境内には本堂がありませんでした。おそらくは戦争で焼失後、再建されることなく現在に至っているのではないかと推察。
ご本尊などはあちらの宝物館に安置されている模様。他にも被弾した山門(再建前のもの)の木材など、飯能戦争にまつわる品もあるそうですが、残念ながら年一回、10月の最終日曜日のみの公開です。
今回は個人的に準備不足の感が拭えないので、きちんと飯能戦争のことを調べた上で、改めて訪れてみたいと思います。
※ちなみに智観寺が建つ辺り一帯、「中山」という地名で戦国期には中山氏が治めていました。八王子城が豊臣軍に攻められた時、奮戦して戦死(自害?)した中山家範が有名ですね。
その関係で、彼の二男・信吉の系統の代々の菩提寺でもあります。
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