佐藤彦五郎の逃避行 (東光寺道と日野用水、他)
慶応4年(1867)3月、近藤勇こと大久保剛率いる甲陽鎮撫隊の甲州遠征に参加した日野の名主・佐藤彦五郎は勝沼での敗戦後、必然的に新政府軍に睨まれることになりました。
そして板垣退助率いる新政府軍が八王子に着陣し、甲陽鎮撫隊の敗残兵探索を始めたことを知ると急ぎ身支度を整え、妻・ノブを初め幼い子供らを連れて東光寺道を伝って小宮村北平の大蔵院へと逃れます。
本日の始点、栄町五丁目交差点近くに建つ成就院。東光寺の子院の一つだったものと伝わります。
成就院に移築された東光寺薬師堂。
成就院から少し進んだ先にある辻、栄町五丁目交差点。
正面、大きな杉が生えている辺りの空地が、成就院に移築された東光寺薬師堂が本来建っていた跡になります。
この辻には東光寺道が日野用水を渡るために架けられていた石橋「東光寺大橋」の石碑も建っています。目の前を流れるのが日野用水。
この辺りは道路拡張工事もあり、私が越してきた1990年代と比べても随分と景観が変わってしまいました。。。
東光寺道はこの先、この日野用水に沿って進みます。
谷地川を渡る日野用水。
ちゃんと観るの、初めてだ…
谷地川に沿って一旦都道169号を逸れます。
日野用水もちゃんと東光寺道に沿って左側を流れています。
この辺りは幅も広くて、流れが穏やかです。
お茶屋の松跡
昭和45年頃までは松の大木が残っていたそうです。
日野用水改修記念碑
石川堰
石川堰から再び都道169号に合流した辺り。
歩道が先に行くに従って左へ広がっているのが分かりますか?左側に建つ企業の敷地も斜めに区画されています。
何故、車道(都道169号)と平行していないのかというと・・・
すぐ先で都道169号と別れ、旧道(東光寺道)が左へ伸びています。歩道が斜めに広がっていたのは、この旧道に沿っていた名残でしょうね。
私も勿論、旧道へ進みます。
逃げる彦五郎一家はそれどころではなかったでしょうが、歩いていて何だかとても落ち着く通りです。
この辺りは既に八王子市域に入り、当時は小宮村粟の須という集落がありました。
彦五郎の遠い親戚で、義兄弟の契りを交わしていたと云う井上忠左衛門が住んでいた村です。
日野用水の左側は地形が上がって台地の様になっています。「聞きがき新選組」の中で彦五郎らが新政府軍から逃れる際の様子を;
「東光寺道より粟の須下を走り、」
と描写していますが、まさにその通りの地形です。
東光寺道は三度、都道169号を離れて真っ直ぐ続きます。
横切る八高線に、都道169号の高架(左上)。
この先しばらく進むと、大蔵院のある北平(平町)へと抜ける尾根越えの山道に入れるはずなのですが・・・
まさか、これか?!藪・・・orz
それでも頑張って登ると、いい雰囲気の尾根道が続いていました。
ここを彦五郎たちも通ったのかも、と思うと感慨も一入です。
尾根からの眺め。ずっと続くあの遥か先の尾根上には滝山城があります。
分かれ道。ここは右を選択して下っていきます。
尾根を越えた先に・・・
小宮村北平の大蔵院(福生寺)
大蔵院本堂
何とか大蔵院に辿り着き、尼僧の接待を受けて安堵の一息を吐いたのも束の間、粟の須の井上忠左衛門から;
「新政府軍がここ(大蔵院)にも来そうだ」
との急報が入ります。
慌てた彦五郎らは寺院の裏庭続きに雑木林をよじ登り、間一髪で難を逃れます。この時、大蔵院を包囲した新政府軍の様子を目撃していた村人の;
「裏山を三、四人這いあがる、その白足袋がよくチラチラ見えた」
という証言が残っています。まさに危機一髪、切迫した状況が目に浮かぶようなエピソードです。
今は墓地となっていますが、裏庭続きによじ登った雑木林、村人が証言した裏山は間違いなくここでしょう・・・。
あの斜面を幼い子供を抱え、白足袋をチラチラさせながら必死によじ登る彦五郎一行・・・
その裏山、つまり現在の加住丘陵上にはご覧のような山道が一部残されています。
或はこの道を、彦五郎一家は西を指して逃れていったのでしょうか。
この後の彼らの足取りは、二宮村→大久野村と続きます(下記参照)ので、この加住丘陵の尾根を高月辺りまで西へ進み、そこから秋川を越えて二宮へ出たのではないでしょうか。
もしかすると、滝山城址も通り抜けたかもしれませんね。
1800年代前半の文献には既に登場しているという、大蔵院(門前)の大銀杏。まだ青々と・・・(^_^;)
当時この付近は平氏が名主を務めており、現在も「平町」の地名が残ります。
この地には平の渡しと呼ばれる多摩川の渡し場もあり、上杉謙信が永禄4年に小田原城を攻める際、ここで多摩川を越えて当麻(相模原市)へと抜けていますし、かの徳川家康も八王子城跡や滝山城跡を巡見してから川越へ向かう際に通行したと云います。
その時に家康から洪武通宝を下賜され、これを御神体として村にある西玉神社に家康を合祀しますが、御神体の紛失を恐れて寛政8年(1796)には平家の敷地内に新たに東照宮を建てて遷し、今も御子孫が祀っていらっしゃいます。
『(慶応元年四月)十七日、天気、
一 上平村東照神君様御宮拝例ニ、彦五郎・歳三、其外之もの相越し候処、(中略)帰宅掛ヶ粟須村忠左衛門方え立寄、稽古いたし候、』
(佐藤彦五郎日記)
そう、慶応元年(1865)には京から戻っていた土方歳三も彦五郎と共に訪れ、お参りした東照宮です。きっと同じように東光寺道を辿って来たことでしょう。
この時も帰りには粟の須の井上忠左衛門方に立ち寄っているのですね。
※平家の東照宮については、コチラの記事も参照。
その平の渡し跡付近
多摩川を挟んで対岸の、昭島側から見た平の渡し跡。
グラウンドの先に多摩川が流れています。
大蔵院裏山の中腹にある西玉神社。
前述した通り、大国主命と共に徳川家康を祀っています。
社紋も三葉葵
西玉神社境内から大蔵院を眼下に収める眺め。
さて、その後の彦五郎一行の足取りですが、二宮村(現JR「東秋留」駅付近一帯)に立ち寄った後、そこの茂平の案内で大久野村(日の出町)の羽生家に匿われました。
二宮村を出て、最後に辿り着いた大久野村。
彦五郎らを匿った羽生家の門。
とても立派ですが、空き缶の山が・・・(;-_-)
立派な土蔵も…!
あちらは勝手口になるのかな?
とても広大な敷地を誇るお屋敷でした。
大蔵院からは車のルートにして約16~17km。それは大変な苦労の連続だったことでしょう。。。この屋敷に辿り着き、ようやく緊張の糸を緩めることができた彦五郎らの思いや如何に・・・。
そしてこちらの羽生家、近藤勇の三浦休太郎宛書簡を所蔵されています。
坂本龍馬暗殺事件を受けて身の危険を感じた紀州藩の三浦休太郎は、京都守護職松平容保を通じて新選組に身辺警護を依頼します。
新選組は三浦の依頼に応え、御陵衛士を脱した斎藤一(山口二郎)を付けますが、この書簡はその二郎を少々必要とする件(少々相用い候事件)が出来して、断りなく引き上げさせたことを詫びる内容です。
少々必要とする件というのが何なのか気になるところですが、日付は(慶応三年)霜月十八日。
龍馬暗殺の3日後で、伊東甲子太郎ら御陵衛士の粛清を謀った油小路の変のまさに当日・・・なんとも示唆的ですね。
この後、ひと月も経たない12月7日には、実際に龍馬暗殺を疑った海援隊士らによる三浦休太郎襲撃事件が発生し、三浦の警護に戻っていた斎藤一は手傷を負いながらもなんとか撃退に成功しています(天満屋事件)。
何故この書簡が羽生家に伝わったのかは謎ですが・・・多摩の有力者たちと新選組の密接な関係を裏付ける証左とも言えそうですね。
帰りしな車を発車させてすぐ、立派な門構えが目に飛び込んできたので急遽路駐して撮影した1枚。
大久野村の羽生の里、まだまだ奥が深そうだ♪
もう少し調べてから、是非とも再訪しよう☆
なお、彦五郎の長男・源之助俊宣は新政府軍が迫って来た時、病に臥せっており、父母らと別れて前出の粟の須・井上忠左衛門宅へ逃れた後、山越しして隣村の宇津木へ移りますが、そこで新政府軍に捕らえられます。
※この時「山越し」した山もまた、父・彦五郎らがよじ登った大蔵院の裏山、加住丘陵の尾根続きと思われます。私の家もその山の上…。
八王子に置かれた新政府軍本営・柳瀬屋で厳しい詮議を受けますが、最後は東山道軍参謀の板垣退助により、
「自分が罰せられようとも父を庇うというのは孝道に厚きもの。その厚き孝道に免じて今日総てを許し遣わす。必ず親は大切にせよ」
と申し付けられて釈放されました。
戊辰戦争終結後、賊軍とされた会津藩の名誉回復に努めたことといい、新政府側の中では(個人的に)とーっても数少ない好感の持てる人物の一人です。
※2016年4月3日 部分改訂
■2016年9月、佐藤彦五郎らが大久野へ逃れる前に立ち寄ったと云う二宮村(現あきる野市二宮/JR五日市線「東秋留」駅周辺)を訪れてみました。
二宮神社
二宮神社は武蔵総社六所宮・大國魂神社の二之宮に祀られています。
本殿は江戸時代の創建で秋留台地の東端に位置し、中世には境内、及びその周辺は大石氏の城館跡であったとも考えられています。
ただ、この近くに「御屋敷」と呼ばれる高台が別にあり、近年になってそちらから、14世紀の豪族居館跡が発掘されているのだそうですが・・・でも、なんとなく右奥の段差とか気になりますよね。
二宮神社境内から見渡す旧二宮村の眺め。
彦五郎一家を大久野の羽生家へ案内した二宮の「茂平」が如何なる人物で、その家が具体的にどこにあったのかは、まだ調べがついていません。五日市郷土館や二宮考古館にも立ち寄ってみましたが、分りませんでした。
二宮神社正面の小道を少し入ると、天然理心流 井上才市翁表徳碑があります。
井上才市は二宮出身で、この地に天然理心流の道場、心武館を開いた人物です。2代目近藤三助以降、周助-勇と続く流派とは別系統になりますが、勇の養子・勇五郎とは交流もあったとか。
生まれも1862年とのことで彦五郎とは世代が違い、直接「茂平」には繋がりませんが、ちょっと気にはなります…今後は彼の周辺も調べてみようかな。
拝島大師大黒堂(旧本堂)に掲げられる天然理心流奉納額。
大正2年11月23日、井上才市によって奉納されています。
屋外に掲げられているので、他サイト様でも「雨風による劣化が著しい」と紹介されており心配でしたが、思いの外、文字はしっかり判読できました。少し修復したのかな?
初代・近藤蔵助(内蔵助)、二代・三助と続き、そこから新選組メンバーを輩出する流派とは分かれ、2代を経て心武館を創設した井上才市・・・
この奉納額に、近藤勇五郎も名を連ねています。
ちなみに隣は、才市の額が奉納されてから98年後の平成23年11月23日、才市から数えて4代目の館長らが中心となって奉納された2代目の奉納額です。
あきる野市雨間の古道追分(多摩川幼稚園北、二宮の西方2km)にあったという道標。
ここ二宮から「大久野」へ向かう彦五郎一家もこの道標に従い、古道を「右」へ進んだのかもしれませんね。
(現在は二宮考古館前に展示)
※以上、2016年9月25日追記
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