立政寺・北方城・軽海合戦
12月14~15日は城好き仲間との「忘年会in大津」と甲賀の城館を巡るオフ会。
14日の忘年会は当然夜からなので、それまでの時間は参加者それぞれで思い思いに過ごしました。
私はまず、午前10時にフォロワーのゆっきーと岐阜駅で合流☆
岐阜に来たら…当然、黄金の上様にご挨拶♪ おはようございます!!
最初に連れて行って貰ったのは岐阜駅からも程近い、立政寺。
信長公記 巻一『信長御憑み御請けの事』より抜粋。
『永禄十一年七月廿五日、越前へ御迎へのため、和田伊賀守、不破河内守、村井民部、島田所之助を進上なされ、濃州西庄立正寺に至りて、
公方様御成り、末席に鳥目千貫積ませられ、・・・』
そう、越前一乗谷の朝倉氏の元を離れ、信長を頼って美濃(濃州)へ移ってきた足利義昭(後の室町幕府十五代将軍)を迎え入れた場所が、こちらの立政寺(立正寺)なのです!
織田信長×足利義昭が初めて相見えた場所。ここから歴史は一気に「天下布武」へと動き出します。
※ちなみに周辺の地名は今でも「西荘(西庄)」です。
境内には足利義昭の御座所が置かれていたと云う塔頭・正法軒跡の碑♪
何かと思えば…「吾・唯・足・知」ね。なるほど…面白い☆
次に立ち寄ったのは北方町にある安藤守就戦死の地。
武田家との内通を疑われて織田信長から追放されていた安藤守就は、本能寺の変による信長の死を知ると蜂起、自らの居城であった北方城を奪って立て籠もります。
…が、信長の命で北方城を預かっていた同じ西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄の攻撃を受けて敗北、一族諸共この地で敢え無い最期を遂げました。。。
という訳でこの付近一帯が北方城の跡地で、近くには城跡の石碑も建っているらしいのですが完全に宅地化されており、遺構は何も残っていないと思われます。
更に車で進んで向かった先の交差点…!?
信長公記 首巻『十四条合戦の事』より抜粋。
『(永禄四年)五月廿三日、井口より惣人数を出だし、十四条と云ふ村に御敵人数を備へ候。即ち洲股より懸け付け、足軽ども取り合ひ、朝合戦に、御身方、瑞雲庵おとゝうたれ、引き退く。此の競ひに御敵北かるみまでとり出だし、西向きに備へ候。信長懸けまはし御覧じ、西かるみ村へ御移り候て、古宮の前に東向にさし向ひ、御人数備へられ、・・・』
こちらは現在の周辺地図。
井ノ口(井口/現在の岐阜)から兵を出した斉藤勢と、墨俣(洲股)から出撃した信長勢が五月廿三日の朝に合戦に及んだ「十四条」という地名も南側に見えていますね♪
一旦兵を退いた後、斉藤勢が北かるみに西向きに陣を構えたのを自ら確認した信長は、西かるみ村の古宮の前に東向に陣を構えました。
地図●地点には軽海神社があります。創建時期は不詳らしいのですが、それだけに古いということでしょうから或はこちらが「古宮」かもしれませんね。
また、「軽海」の文字が見える辺りが軽海地区の北東端。斉藤勢が陣したのはこの辺りか…。
いずれにしても、かなりの接近戦だったと思われます。
この後、両軍は夜になって再び合戦に及び(軽海合戦)、この時は斉藤勢が先に兵を退いて井ノ口へ引き返し、信長は朝を待って墨俣へ引き上げました。
ところで、軽海神社の背後には「軽海西城址」の石碑が建っていました。
※地図★地点
説明版にも;
「永禄四年(一五六一)軽海合戦の折り重要な役割を果たしたものと推定される。」
とありましたが、詳細は分かりません。
※同じ説明版に「軽海城址と推定し、」と書かれているのに、どうして軽海“西”城なのか…(;´・ω・) 軽海地区の西に位置していることは確かですが。
う~ん、岐阜はやっぱりいいなぁ…信長好きにとっては夢のような場所がそこかしこに!☆
旅は始まったばかり。まだまだ続きます。
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