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2014年1月

2014年1月26日 (日)

小田原城外郭巡り♪ (…と、石垣山城)

1月25日(土)、小田原城の外郭巡りに出掛けました。

今回の参加者はサイガさん、なっちさん、tantanさんに私を加えた4名。早朝7時30分、私の自宅近くの駅に集合して頂き、マイカーで出発!

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石垣山にあった説明板を拝借。あえて北を上にしました。

全長9km以上に及ぶ小田原城の外郭「総構」。今回は西北の「御鐘ノ台」を中心に、遺構の残存状態が良好だという西側を巡ります。

図面
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「御鐘ノ台」とは総構が一ヶ所だけ突出したこの部分。
現地を訪れるとよく分かりますが、突端部分が城域に連なる尾根の中で最高所に位置していることから、天正18年(1590)の豊臣秀吉軍の侵攻に備えて攻城ルートを押さえる為に急遽増設された軍事施設と考えられるそうです。
だから、ここだけ不自然なくらいに飛び出ているのですね。

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スタートは城山陸上競技場から。ここは「御前曲輪」跡。周囲を高い土塁(切岸)に囲まれています。
小田原城域の中で最も奥まった配置。「御前」という名や、別名「人質曲輪」とも呼ばれていたそうなので、おそらく奥向きの曲輪だったのでしょうね。

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毒榎平を抜けて、、、

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ご存知、「小峯の大堀切」(図面
写真右手の斜面の上は、、、

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土塁で囲まれた曲輪になっています。
図面でいうと、堀にU字型に囲まれた部分。

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下を覗くと、縦に横に堀が巡らされています☆

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小峯の大堀切の堀底。よ~く見ると、所々に障子堀の畝の名残のようなものが見受けられ、堀底が波打っています。

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堀底を南下していくと、見事なクランクが☆

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一旦、図面の最外郭線に出て石垣山方面を望む。目と鼻の先に秀吉の本陣が・・・

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再び小峯の大堀切を北上~

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御鐘ノ台手前の曲輪跡にあった土塁の断面…(^_^;)

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さ、いよいよ御鐘ノ台へ♪

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御鐘ノ台、北面の堀跡(図面
藪で覆い尽くされていて分かり辛いですが・・・(^_^;)

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図面の堀跡。
御鐘ノ台が構築されるまでは、この堀が総構の最西端だったと思われます。

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図面の位置から・・・
正面の最高所が御鐘ノ台突端部分付近。

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羽柴秀勝軍が小田原攻城の為に構築したと云う前線陣地「荻窪仕寄」推定跡地。
藪もきつく、これといった遺構は確認できませんでした。(図面

※その後、探索していた「荻窪仕寄」の位置を間違えていたことが判明しました。正しくは図面上、で書いたの位置になります。訂正してお詫びいたします…m(_ _)m

今度は御鐘ノ台の南面に移って外郭沿いに歩いていると、なっちさんが素敵な切岸を発見☆
早速下りてみた・・・

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おぉ・・・

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そこから更に南に折れて、こんな堀跡も♪ あの先は土橋か、堀の封鎖か。
左手の切岸の上は、横矢掛けの為の「出っ張り」部分(図面

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御鐘ノ台先端部分からの眺め。写真右端の尾根は小田原城外郭線。


さて、ここからは外郭線沿いに北東へ、谷津方面に進みます。途中には・・・

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「総構稲荷森」の堀跡☆(図面
北条家特有の、自然地形に土塁を掻き上げて通路状の堀を構築した岸縁入路遺構がハッキリ見て取れます♪

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この高低差!
右上にtantanさんが写ってるんだけど…見つけられるかな?(笑)

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こんな“気になる”土塁も☆

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こちらは「山ノ神堀切」!(図面
後世の手が入って浅くなっちゃっているけど、、、この先も凄かった☆

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じゃーん☆ こちらにも土塁を掻き上げた岸縁入路が!(図面

※“土塁を掻き上げた”とは・・・
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こういうこと(笑)
八王子の滝山城や、埼玉の杉山城などでもよく見受けられる構造です。

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ここにも障子堀の跡らしき畝々が・・・♪

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更に進みます。総構の外郭線がクッキリ☆

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内側に目を向けると・・・小田原城天守♪
北条氏時代の主郭はその右手です。

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谷津地区に至りました。とあるお宅の駐車場越しに(笑)
城域に取り込んだ地形の高低差がハッキリと確認できます。

今回の総構歩きはこの辺で切り上げ。

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車を停めた陸上競技場(御前曲輪)に戻る道すがら、慈眼寺門前。
この急坂、これも堀の跡です。(図面

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慈眼寺脇を通るこの道に沿って、堀が通されていました。
そして図面で見て頂くと分かる通り、そのままの山ノ神堀切に繋がっていたものと思われます。

ディ~プな小田原城の世界、楽しかったぁ!!

まだ少し時間があったので石垣山城にも行ってみることにしました。調べてみたらなんと私、10年ぶり…(^_^;)
・・・で、着いてみてビックリ \(◎o◎)/!

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すっかり観光地化されとる…( -_-)
10年前は駐車場もただの原っぱだった・・・はず。

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展示されていた石の矢穴と刻印。

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石垣山城(公園)の図面。

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枡形虎口と、右は南曲輪。

西曲輪を経由して、、、

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本丸跡。奥に見えるのが天守台。

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本丸から小田原市街を一望☆
小田原城天守を探せ!(笑)

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そして井戸曲輪
城内殆どの石垣が崩落している中、井戸曲輪の石垣はよく持ち堪えています。
※一部、修復工事中のようでしたが。

下手に観光地化して、何処かのお城みたいに崩落に拍車がかからないといいなぁ、と願わずにはいられません。

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本当に素敵です、荒々しい石垣♪

この石垣の裏(外)側がどうなっているのか気になり、一旦上に上がった後、通行止め区間を迂回して回ってみました。

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す、素晴らしい・・・☆
サイガさんによると、この石垣が築かれた僅か数年後に行われた「唐入り」(朝鮮出兵)の際、日本軍が彼の地に築いた「倭城」の石垣にそっくりなのだそうです。
歴史は繋がっている☆

そのサイガさん、気付くとこの壁面の一ヶ所にへばり付いて何かを覗き込んでいる…(・_・;)?

何かと思えば・・・
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隙間から石垣の奥が見えていたのでした♪
oO(てっきり某あいす女史のように石の匂いを嗅いでいるのかと思った(笑)

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実に素晴らしい☆

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やっぱり石垣山は井戸曲輪が一番の見どころ♪

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二の丸越しに本丸。

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最後に南曲輪下の石垣。

さて、石垣山もサクッと堪能したところで、本日の行程は全て終了。
この後は八王子へ戻り、八王子駅前でお疲れさん会☆ 大好きなお城や歴史の話で盛り上がり、楽しい時間を過ごせました♪

今回ご一緒させて頂いたサイガさん、なっちさん、tantanさん、本当にありがとうございました☆
次も是非、よろしくお願いします!

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2014年1月24日 (金)

ちょっと寄り道? 茅ヶ崎城

先日、仕事で横浜市の青葉台へ行く用事があったので、、、その前にちょっと寄り道ww

まずは田園都市線で「あざみ野」駅へ。そこから横浜市営地下鉄ブルーラインに乗り換えて、向かった先は「センター南」駅。駅からは徒歩5~6分で・・・

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茅ヶ崎城♪

築城年代とか詳しいことはハッキリしませんが、後北条氏時代には小机城の支城であったと考えられているお城です。
主郭となる中郭を中心に北・東・西の三方を郭で囲んだシンプルな造りのようです。

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まずは北郭から攻城スタート☆

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中郭には礎石の展示?もありました。
周囲を囲む土塁がいい感じです。

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中郭側から東郭。
両郭を繋ぐ土塁は、、、少し薄くなっちゃってるかなぁ…

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東郭に渡って中郭を望む…この光景にはちょっと魅かれた。
郭を綺麗に取り囲む土塁・・・まるで先月、甲賀で幾度となく目にした「単郭方形」みたい♪

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土塁の外周には腰郭も。

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東郭の虎口。
虎口なのに・・・通せんぼてどうする?(笑)

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先程の中郭(左)と東郭(右)を繋ぐ土橋を横から。

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最後に西郭へ。

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「センター南」駅から望む茅ヶ崎城祉。

ほんの2~30分程度の駆け足での訪城となりましたが、城の構造が分かり易くて楽しい城跡でした。
城攻め入門にいいかもしれませんね☆

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2014年1月20日 (月)

鎌倉古道を歩く…町田市に残る「上道」を求めて

先週に引き続き、今回も鎌倉古道を歩きます。
いくつか確認されている鎌倉街道(鎌倉往還)の中でも、今回は鎌倉と北関東を結ぶ主要道であったと推定されている「上道」を探索します。

朝9時、JR町田駅でこれまた先週に引き続きフォロワーのなっちさんと待ち合わせ。まずはバスでスタート地点へ。

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ちなみに今回の行程はこんな感じ。菅原神社からスタートし、赤いラインに沿って北上します。

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スタート地点の菅原神社。

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この菅原神社、その昔には井出の沢城という城館(砦?)があったらしく、境内の周囲には土塁跡らしき形状も確認できました。

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あの辺りが井出の沢城の主郭推定地。

そしてこの井出の沢の地、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の遺子・時行が信濃で挙兵して関東を南下、最終的に鎌倉を20日間程占拠した「中先代の乱」での古戦場の一つでもあります。

建武2年(1335)、女影ヶ原(埼玉県日高市…参照)→小手指ヶ原(同所沢市)で続け様に鎌倉将軍府(建武政権)の軍を打ち破った時行軍は鎌倉街道上道を更に南進し、ここ井出の沢で足利直義(尊氏弟)率いる軍勢と激突しました。
この合戦で直義軍をも敗走させた時行軍は勇躍、鎌倉へと進軍したのです。。。

という訳で、我々は時行軍とは反対に鎌倉街道上道の古道跡を井出の沢から北上します。

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菅原神社から歩き始めてすぐ、古道は養運寺や宏善寺(写真)といったお寺の門前を通り、、、

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こんな住宅街を抜けていきます。分かり辛いですが、なかなかニクいクランク♪(笑)

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更に日向山公園の脇を抜け、、、

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「今井谷戸」交差点で交通量の多い現在の鎌倉街道と交差します。
古道を行く我々はあちらの、コンビニ左脇の道へ進みます。この辺りから登り勾配となり、七国山に差し掛かります。

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立派な門構えのお宅が多いのも、古街道の特徴の一つ。

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七国山中腹辺りで「町田ダリア園」の前を過ぎ、、、

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この分岐点ではどちらに進むべきか迷い、通り掛かった地元のお爺さん(白い背中)にお訊ねしたところ丁寧に案内してくださいました☆

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山頂付近でいよいよ雰囲気のある道に入り、、、

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新田義貞が鎌倉幕府討伐軍を進めている時に掘らせたとの伝承がある鎌倉井戸七国山鎌倉街道の碑(地図1

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ここから先は下り始めたので、丁度この辺りが七国山の山頂になるかと思います。

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鎌倉古道は再び舗装路から外れて下り始めます。

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鎌倉~高崎間を結ぶ鎌倉街道上道・・・いつか完歩してみたい?(笑)

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山道を下り始めてすぐ、左手に三段で構成された削平地が広がっていました。
部分的に土塁らしきものも残っており、往時には何らかの施設があったものと思います。

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しばらくすると、今度は分かれ道に遭遇しました。
分かれ道と言っても並行して通っていたので、本道と支道でしょう。

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左が支道、右下の明るい部分が本道と思われる道。

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ここの支道も綺麗な堀割状遺構が残っていますねぇ…♪

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そして、度胆を抜かれたのがこの先、右手の竹藪の中。。。

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なんと、幅が優に20m以上はあろうかという大きな堀割状遺構が!
この写真はその堀底の真ん中で撮影しているのですが、幅が広過ぎて両サイドが収まり切らない…(笑)
もはや「道」というスケールではないです。一体何の為にここまで掘り広げたのでしょうかねぇ…?

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巨大な堀割状遺構を抜けた先。写真正面の竹藪が先ほどの巨大堀割状遺構です。
鎌倉古道はここに繋がり、、、

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舗装路となって更に続きます。
右側の土手も堀割状遺構の名残かもしれませんね。

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かつては板橋が架かっていたという丸山橋を渡って鶴見川を越えて、、、

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野津田公園方面へ。

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道端で見かけました・・・文政年間に設置されたみたいです。

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そこから少し進んだ先。車道から逸れていく歩道の左側・・・何か匂いませんか?

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はい、こちらにも堀割状遺構が明瞭に残されています!(地図2

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舗装された遊歩道が付けられていますが、鎌倉古道は左側の窪みの中。
左の切岸の高さを見ていただければ、その深さもお分かりいただけるはず☆

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堀割状遺構は30m程で途切れ、公園の敷地に入っていきます。

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公園に入って後ろを振り返った様子。正面の茂みが先ほどの堀割状遺構。
ちょうどこの杭のラインに沿って道が繋がっていたようです。

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そしてこの公園の広場、ここも巨大堀割状遺構。
両サイドが切岸状になっていますね。それにしても…グラウンドがスッポリ収まってる(笑)
やはり、町なり何らかの施設なりを作るための土木の跡なのでしょうね。

さて、野津田公園を抜けると小野路に入っていきます。
江戸時代、近世以降の鎌倉街道(古道)は当然のことながら小野路宿を通っていくのですが、中世以前の鎌倉古道は小野路宿の裏山尾根辺りを通っていたと推定されているので、我々もそちらへチャレンジしてみることにしました。

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その裏山に分け入る手前で見かけました。どちらの柳生さんでしょうか…?

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なかなか道の遺構は見つけられなかったのですが、彷徨っているうちにこんな痕跡があったり、、、

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明らかに人の手が加えられた規模の大きな痕跡が随所に見受けられました。
「何だかお城(の遺構)みたいだよね」などと話していたのですが、後で知ったところによると本当に城跡と考えて小野路関屋城と呼んでいる研究者の方もいるようです。

・・・そして更に。
我々は分からないうちに入り込んでしまいましたが、この小野路宿の裏山一帯は私有地が多く、立入禁止になっていたようです。なので、ここまで紹介しておいて何ですが、良い子は真似しないでね☆(笑)

さて、結局山の中では鎌倉古道の痕跡を見つけることができず、ウロウロしているうちに先日一人で歩いた「布田道」に出たので、、、

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関屋の切通し、再び!(笑) (地図3
ここで一旦古道歩きを離れ、小野路城に向かいました。

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その道すがら。
廃仏毀釈のためか、大きなお地蔵さんは全て頭が失われていました・・・。

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小野路城の主郭
土塁がグルッと廻らされています。

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こちらは二の丸

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そして三の丸

サクッと観て回ったところ、特にこれといって技巧的な遺構はなく、自然地形を利用した城跡といった印象でした。
関東に残る城跡の中でも最も古い時代のものに属するみたいなので、さもありなん、ですね。

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小野路城跡のすぐ近くにある小町井戸
その昔、小野小町が病に罹った折、この山に千日籠ってこの湧き水で目を洗ったところ、病が癒えたという伝説からこの名前が付いているのだとか・・・。

そういえば小野路の「小野」も、平安時代に武蔵国司として赴任してきた小野孝泰を初めとする小野一族(武蔵七党、横山・猪俣党の祖か?)に関係があるみたいですね。
その孝泰によって創建されたと伝わる小野神社の祭神は小野篁。孝泰の先祖であり、小野小町の祖父にあたる人物です。
まぁもっとも、篁や小町の代に武蔵国に所縁があったかどうかは甚だ疑問ですが…(^_^;)

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小野路城跡の説明版・・・割れてる。

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小野路城からは小野神社の方へ迂回して小野路宿へ戻ります。
このルートは、鎌倉古道から離れて小野路城に向かうための道だったのではないかと考えられているそうです。
綺麗な切通になっています。右手の上は乗越八幡跡。

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道祖神も♪

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こちらが件の小野神社。

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そして小野路宿。こちらの通りが近世以降の鎌倉古道。
※「大山詣で」の為の道としても使われた為、江戸時代には「大山道」とも呼ばれました。

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今回の鎌倉古道歩きもラスト・スパート!
鎌倉古道と布田道が交差する関屋の切通し地点を過ぎた辺り。

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お!またいい雰囲気になってきました♪

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典型的な堀割状遺構☆

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更に進むと道幅が狭くなった堀割状遺構。こちらも素敵♪

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こちらの舗装路に繋がり、、、、

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恵泉女学園大学の裏を抜け、、、

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都道に出た所にあった碑。ここまで辿ってきた道が鎌倉古道上道であった何よりの証に思えて、少し嬉しくなりました♪

これにて今回の古道歩きも終了です!
またそう日を置かずに古道歩き(特に峠路!)にチャレンジしたいと思います☆

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2014年1月15日 (水)

鎌倉古道を歩く…御殿峠、他

御殿峠」とは現在の町田市相原町から八王子市片倉町に位置する峠のことです。この峠には中世以来の「鎌倉街道(往還)」と呼ばれる主要道の一つが通っていました。
更にこの古道、永禄12年(1569)の甲斐武田軍による関東侵攻の折、滝山城(八王子市)を攻めた後に武田軍が北条家の本拠・小田原を目指して南下した際に通ったとも伝わる道なのです!(復路は手前で三増~津久井方面に逸れています。→参照

この古道が現在でも往時の遺構をよく残しているというので、早速歩いてみることにしました。

御殿峠 踏査コース
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踏査日:2014年1月13日

スタートはJR横浜線「相原駅」から。武田軍とは逆に御殿峠を北上します。
朝9時、鎌倉古道について熱心に勉強されているフォロワーのなっちさんと合流し、ウォーキング・スタート。

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相原駅のすぐ近くには幕末期の豪農の家屋である「青木家住宅」。(地図1
文久2年頃に建てられたと推定される、名主造りという建築様式なのだそうです。門で見え辛いですが、母屋は茅葺☆
そして驚くことに、現在は医院を営まれています。…そっか、患者として来れば中も見学できる?!(笑)

後日教えていただいたのですが、天然理心流二代目の近藤三助はよく、地元の戸吹からこちらの青木家まで出稽古に赴いていたそうです。しかも、三助は相原で客死したと云われていますので、或いは・・・。
現在の建物は文久2年頃の創建とのことなので、三助が通っていた頃のものとは違うのでしょうが、意外なところで繋がりました。

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この通りのすぐ南(写真左)側を現在の町田街道が並行して通っていますが、これだけのお屋敷が門を構える道・・・往時はこちらが街道筋だったのでしょうね。

(現在の)町田街道に出た後、少し東に進んで八王子バイパスの高架と交差する手前を左折。
暫くだらだらと続く上り坂を行きます。峠に差し掛かった証。途中でちょいと振り返ると・・・

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ご覧の絶景☆富士山も頭を覗かせています♪

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実はここまで上って来たこの道、これも鎌倉街道だったのです。(地図2


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さ、いよいよ♪

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一見、右の山道を鎌倉古道と勘違いしてしまいそうですが、本当はその左に並行して走る“窪み”が鎌倉古道です。この写真では藪で分かり辛いですが…(^_^;)
空堀のように掘り通されているのも、鎌倉街道の一つの特徴なのだそうです。これを「堀割状遺構」と呼びます。

暫くは藪がきつくて、しっかり見通せなかったのですが・・・ようやく藪が薄い箇所がありました!

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ドーンッ!これぞ鎌倉古道の堀割状遺構!!こんな山の中で真っ直ぐに伸びています☆

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後ろを振り返っても、ドドーンッ!!

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真横から・・・楽しい♪

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すぐ脇にある写真左手の土手(?)の上は削平地になっており、按察使大納言の御殿跡という説や、関東武士団・横山党の一人である藍原孝遠(「相原」の由来か?)の館跡という説もあるようです。
これが「御殿峠」と呼ばれる所以かもしれません。(地図3

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さて、更に進んだ先。道の左側にはとても高い(場所によっては2m以上)土塁状の土盛りがあるのに、右はコンクリートの塀しか見えない・・・。
妙に違和感を覚え、念の為に塀の中を覗いてみました。すると・・・

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やっぱりこっちにもあった!土盛り☆

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片側がコンクリート塀によって遮られていますが、ご覧の通りここもしっかりと堀割状の道になっているのです♪

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更には、こんな藪に包まれた山道のすぐ横にも・・・

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こうして堀割状遺構が並行して続いています☆

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結婚式場「日本閣」の脇を通る車道によって尾根は一度分断されているのですが、その少し手前(南)の「殿丸」と呼ばれるポイント。(地図4
おそらくは切通しでしょう。凄い・・・

写真の両サイド共に、この上は少し平らに開けていて「殿丸城」の遺構ではないか、という説があるそうですが・・・現地を見る限り「お城」と呼べそうな遺構は見当たりませんでした。
地形からして関所・番所の類はあったのかもしれませんが。

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上からも。こうして見たら立派な堀切だね☆

さて、一旦車道に降り立って横切った後、日本閣の駐車場脇を通らせていただいて更にその先へと抜けます。

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その駐車場で見かけた、気になる土盛り。

日本閣の敷地を抜けた辺りで待ち構えていた遺構が凄かった・・・

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これぞ鎌倉古道・堀割状遺構の傑作!?(笑)
幅といい深さといい・・・見事という他はありません。感動。。。。(地図5


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一つ前の写真の突当り部分でカーブしています。
まるで山城の横堀!…前出の殿丸“城”、或はこちらに築かれていたのかも?とも思いました。

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本道の遺構の脇には鎌倉支道の跡も残っていました。

さて、先程の堀底道のカーブを抜けた所で鎌倉古道の遺構は途切れており、藪と急斜面でほぼ行・き・止・ま・り(笑)
どうにかこうにか藪を掻き分け、斜面を滑り下りた先は国道16号線沿い、東京工科大学の向かい側・・・の、とある会社の敷地(滝汗)
不審者感丸出しで通り抜ける(笑)

御殿峠の鎌倉古道、遺構の残存状態も良くて楽しい散策になりました♪

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そのまま国道16号を歩いて北上・・・

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普段は車で通り過ぎているだけなので、こんな素敵な雰囲気のカフェの存在も初めて知りました☆

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片倉城にも立ち寄り。写真は本丸と二の丸の間の堀跡。

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曲輪跡は公園化されているので軽くスルーして、こんな竪堀や、、、

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二の丸西側の堀跡を見たりしながらサクッと切り上げました。

この後は片倉駅から電車→八王子駅でバスに乗り継いで都立小宮公園がある「ひよどり山」に向かいました。
先日も当ブログでご紹介しましたが、滝山城を攻める武田勝頼が陣を置いたとされている「尾崎山」があった辺りと考えられています。

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ひよどり山付近にも鎌倉街道が通っていたらしく、周辺道路の様子・方角から、小宮公園の西沿いに繋がるこちらの道がそうではないかとアタリをつけました。
上ってみます。

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とすると…これも堀割状遺構か?!

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道は小宮公園(右)の脇を抜けて、、、

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頂上付近で「ひよどり山中学校」にぶつかります。さすがに中学校の敷地には勝手に入れないので、回り込んで一段下がった場所から見た滝山城方面。
軍勢の移動に街道を使ったであろうことを考慮すると、この中学校周辺も勝頼陣跡の候補地の一つだと考えます。

このまま歩いて滝山城を目指します。

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ひよどり山を振り返って・・・果たして勝頼が布陣した場所は何処であったか。

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ひよどり山の北、中央高速を跨いだ場所で「尾崎」を見つけました。

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今回は滝山城の東山麓にある少林寺付近からアプローチします。

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幹が9本に分かれた「九本桜」

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そしてお馴染み?滝山城域の東端、刑部屋敷跡の堀。
既に日が陰り始めていましたので今回はお城見学はせず、引き返して尾根伝いに解散場所の小宮駅を目指します。

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前回も思ったけど、このポイントには尾根を見張る番所なりがあったと思う。

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ここにも・・・

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最後に国道16号で分断された尾根を。

一日でいったい何km歩いたんだろう…(^_^;)
とりあえず怪我もトラブルもなく、小宮駅でなっちさんを見送って無事に解散しました。

昔の街道・峠道歩き、とっても楽しいですよ♪
八王子周辺には他にも興味深い「道」がまだまだたくさんありそうなので、これからも折に触れてチャレンジしていきます☆

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2014年1月 5日 (日)

武田勝頼の滝山城攻城ルート(「私的」考察)

永禄12年(1569)、関東へ侵入した甲斐武田軍は小田原への途次、北条氏康の子・氏照が籠もる滝山城に攻め寄せました。

※武田軍による滝山城攻めの様子は江戸期に書かれた『武田三代軍記』などに描かれていますが、言い慣わされてきた合戦の詳細については、その出典も含めて不明です。
従いまして、本記事でも以降は口伝・通説を元に考察していきますので、あしからずご承知置きください。


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武田軍総帥・信玄は図のように多摩川を挟んで滝山城の対岸、拝島大師のある辺りに本陣を構え、滝山城攻めの指揮を任された四郎勝頼は南方、尾崎山(現・八王子インター一帯。地形は改変されて残らず)に陣を布いたと云います。

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尾崎山の勝頼本陣があったと云う場所付近から、滝山城方面の眺め。
正面、印を付けた丘が視界を遮って、高い建築物が無かった当時でも滝山城への視界は効かなかったと思われます。
(地図も地点)

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ちなみに信玄本陣付近からの滝山城の眺めはこんな感じ。

尾崎山に陣取った武田勝頼はまず始めに、北方にあった左入城に攻めかかったとも伝わります。
※地図左入城地点

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なお現在、勝頼陣所跡すぐ北西近く(地図地点)にも「左入城祉」の石碑が建ちますが、丘(山)に挟まれた窪地の地形、勝頼本陣や滝山城との距離・位置関係等を考え合わせてもここに将兵が籠もる理由がなく、少なくとも合戦が行われた時点で「城」として機能したとは思えません。
なのでここでは、国道16号沿いの尾根上を「左入城」と推定して話を進めます。

とすると、勝頼が左入城を攻略した(と仮定して)その目的は何か。
おそらくは滝山城に攻め寄せるルート(地図赤ライン)確保のためだったのではないかと考えました。
※武田軍は滝山街道沿いに進軍して滝山城の「大手」とされる小宮曲輪・三の丸下から攻め寄せた、とする見解もあるようですが、現地を訪れれば一目瞭然の通り滝山街道は常に尾根筋の眼下に収められており、進軍するには危険極まりないルートになります。

折角近所に住んでいるので、そのルートを歩いてみることにします。

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左入城推定跡地。
すぐ脇(下)を国道16号線が通ります。

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国道16号線。こうして見ると、道路によって尾根が分断された様子がよく分かります。
尾根は実際には更に東(写真左)へ続き、現在のJR小宮駅手前まで伸びていました。

国道16号のすぐ東、多摩川の南岸には平町という集落があり、その昔には「平の渡し」という多摩川の渡し場が設けられていました。
そのルートは多摩川を挟んで南北に連なる現在の都道162号線に該当し、小田原攻めに向かう上杉謙信の軍勢や、関東に入封した徳川家康も通行したと伝えられていることからも、この付近が歴史上、重要な交通路であったことは確かで、左入城も或いは滝山城の東方を守備すると共に、この街道を押さえる役目も負っていたのかもしれません。

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16号線から脇道に逸れると、すぐに尾根道に入ることができます。

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しばらくは尾根道としては幅広な道が続きます。

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そうかと思ったら、急に雰囲気が変わったりしつつ・・・

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分岐点。ここは左へ・・・

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てくてくてく・・・

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少林寺真裏の地点。
正面に見える段差の奥(上)は削平地になっていました。堀切のように切り立った自然地形(写真手前)を利用した防禦(監視)施設の一部かもしれません。

なお、この付近を鎌倉古道の一つが南北に横切っています。

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更に道は続き・・・

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滝山丘陵の見晴らし♪

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気がつけば呆気なく城域に到達してしまいました。。。「刑部屋敷」先端の堀。

ここに至るまで、尾根上にはこれといって防禦の為の遺構は見当たりませんでした。
立地からするとあまりに無防備。やはり左入城と呼ばれるような出城なりは尾根上にあって然るべしと思いました。

ちなみに勝頼は、滝山城の二の丸前(ニ階門:『武田三代軍記』より)まで攻め寄せたと云いますから、この先の進軍ルートは以下のようになります。
2014010515
このルートはそのまま、滝山城の本来の「大手」だったとも考えています。

ところで、我が自宅から滝山城域まで要した時間、尾根伝いに徒歩で僅か1時間20分。
脇目も振らずに歩けば1時間以内で行ける♪・・・今後は駐車場を気にすることなく、歩いて行こうかな?(笑)

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