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2014年2月

2014年2月22日 (土)

古代の道「東山道武蔵路」を歩く

「東山道武蔵路」をご存知でしょうか。
上野・下野から武蔵国府(東京都府中市)に跨って南北に築かれていた古代(7~8世紀頃)の官道の一つです。

そんな古い道が西国分寺駅周辺で発掘され、現在では埋め戻されていますが再生展示されているというので、ちょっと足を運んでみました。
※府中市は西国分寺からちょうど真南に位置します。

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東山道武蔵路の再生展示。
中央の芝生部分が道路面で、左右に分かれて左から順に茶色・肌色・茶色・肌色のラインが表現されています。これは側溝が発掘された位置を示しています。

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東山道武蔵路の再生展示があるのは、JR西国分寺駅の南東側、地図に黄色の線が引かれた位置になります。
先程の写真はその南端、赤で「現在地」と書かれた位置で撮影しました。このまま黄色の線に沿って北上します。

ところで先程の側溝、同時期に東西(左右)各2本ずつ、計4本掘られていた訳ではありません。

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側溝の展示を見ると「第1期」「第3期」の文字が・・・

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当初、東西に肌色で展示された位置に側溝を掘って築かれていた道(第1期)は、側溝の埋没後にその上面を路面としていた時期(第2期)を経て、新たに第1期の側溝位置から西側(茶色の展示)にずらして側溝を掘削し直して利用していた第3期へと移っていきました。

だから、現在の再生展示では4本の側溝跡が表現されているのです。

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いずれの場合も側溝間の道幅は約12m。
織田信長が領国内に整備させた街道のうち、主要なものでも道幅約6mくらいだったというので、如何に巨大な道であったかが偲ばれます。

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第1期の側溝跡に重なるように黒で展示されている部分、ここからは竪穴住居の跡が発掘されています。
この住居跡からは9世紀後半の遺物が見つかっていることから、少なくとも第1期の側溝は9世紀後半までには埋没していたことが判明しています。

東山道武蔵路の再生展示は一旦住宅街に遮られますが、、、

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少し北へ迂回すると再びドーンと真っ直ぐに伸びています。
本当に見事なまでに直線に築かれていたんですねぇ・・・。

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勿論、ここにも側溝跡。

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本当は車道をもっと広く取りたかったんだろうけどね…(^_^;)
古代道の遺構が発見されたことにより、それを残すために歩道の方が圧倒的に広い!何とも贅沢な歩道(笑)

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写真では読み取り辛いですが、「東山道武蔵路」と彫られています。

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更に北上していくと古道は、車道やその先で中央線の線路に遮断されていますが、その線路の北側にも少し残されているみたいです。

しかしまぁ、これほど見事な古代の道が、長い年月を経て再び現代の我々の前に姿を現すとは・・・ちょっとしたロマンに浸れる散策になりました♪

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「天下布武」印を求めて♪

前回の記事で館林城や館林の史跡をサクッとご紹介しましたが、そもそも館林を訪れた本来の目的はこちら。

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館林市第一資料館で3月16日まで開催されている「サムライたちのメール」展です♪

昨年(2013)末、前橋藩松平家の家臣だった八木家より前橋市に寄贈された1750点に及ぶ古文書の中から、「天下布武」印が押された織田信長の書状2点が発見されました!
その実物が今回、館林で開催されている同企画展で展示されているというので、矢も楯もたまらず駆けつけました☆

発見された信長書状2点は、いずれも本願寺宛で;

・「天下布武」の朱印が押された方は本願寺との石山合戦真っ只中の「天正四年(1576)二月十五日」付。停戦中の本願寺に対し、
「私に歯向かったことは許すので、不穏な動きはするな」と牽制する内容のもの。

・もう1点の「天下布武」は黒印で、本願寺から贈られた太刀や馬に対するお礼状(「正月二十八日」付。年未詳)。

残念ながら私が訪れた時は何故か朱印状の方はパネル展示でしたが、黒印状は実物を拝することができました♪


さて、ここまで信長の書状のことばかりご紹介しましたが、その他にも;

・新田義貞や足利尊氏・直義に始まり、
・室町期の関東公方・足利家や同管領・上杉家、
・戦国に入って関東越山を繰り返した上杉謙信、
・その謙信と争い、越相同盟も結んだ後北条家、etc...

錚々たる面々の書状が88点ほど展示されています。
これらの書状、その殆どが館林など北関東の国人領主層に宛てられたもので、大勢力の狭間で揺れ動く国人領主たちの苦労が垣間見えて大変興味深いです。

個人的には特に、滝川一益が天正10年6月12日、上野小泉城主・富岡秀高に対して;
「京都の儀(本能寺の変)はそれ以降、何も聞いていません。別に変わったことはありません」
と書き送った書状が、何とか動揺を抑えようと苦心している様子が伺えて感慨深かったです。。。

無料ですし、展示されている88点の書状の相当数を網羅した読み下し文もリーフレットで置いてあります。
関東の歴史に興味のある方には特にオススメです☆

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館林城と城下町

ちょっと目当てがあり、群馬県館林市へ行ってきました。
折角なので館林城や周辺の史跡をサクッと駆け足で巡ります。

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浅草・東京スカイツリー・北千住から東武特急「りょうも」が出ているし、東京からのアクセスは割といい場所ですね。

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ところで館林駅東口周辺にはかつて、榊原康政の菩提寺でもある善導寺がありました。
平成2年に駅前広場整備事業の一環で同市楠町へ移転しているのですが、その際に榊原康政の墓所も移されています。
しかしまさか、東口ロータリーの中がまさに彼のお墓だったとは・・・。

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そのロータリーから「歴史の小路」なるものが伸びていて案内マップもあったので、それに沿って歩いてみます。

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館林のマンホール☆

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「竜の井」
この辺りに件の善導寺本堂がありました。
その昔、城沼に棲む竜神の妻が美しい女性に姿を変えて寺での説教を真剣に聞き、迷いから救われたお礼としてこの井戸に入って寺を守ったという伝説から、この名が付いています。

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更に歩いて…鷹匠町長屋門。

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こちらは武鷹館。

※長屋門も武鷹館も史跡ではなく、元々この地にあった武家屋敷街の雰囲気を演出するために、平成になって建てられたものです。

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そして、駅から歩くこと10分少々で館林城跡に到着。三の丸の土橋門。
その名の通り、かつては門の手前に土橋が架けられていたようです。今では跡形もありませんが・・・。

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土橋門の周囲には土塁が残っていました。

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門を入ると枡形になっています。

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三の丸をグルッと囲む土塁。

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現在「向井千秋記念こども科学館」が建つ辺りが、かつての本丸跡だとか。
その場所に残っていた土塁と思しきもの。

館林城にはほんの“ついで”に立ち寄っただけで、曲輪配置とか遺構については調べていないので詳細はご紹介できません。あしからずご了承のほどを・・・。

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本来のお目当て(次の記事でご紹介します)も済ませ、駅へ戻る道すがら。青龍神社。
館林藩主であった後の五代将軍・徳川綱吉と、その生母・桂昌院に所縁の神社だそうです。

群馬県館林市。
今回は下調べもなく、駆け足での訪問だったのでじっくりと観て回ることは出来ませんでしたが、なかなか歴史が深そうで興味深い街。
お城も縄張りに沿って詳しく観ていけば、まだまだ遺構が残っているのかもしれませんね☆

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2014年2月15日 (土)

記録的な大雪に見舞われたオフ会…

2月14~15日の週末は関東近郊、東海、長野などからフォロワーさんたちが集まり、八王子城&滝山城の八王子二大城跡巡りオフ!の予定でした・・・。

ところが周知の通り、先週の大雪(2/8)の影響で八王子城跡は当分の間閉鎖。そこに加えて再びの低気圧が接近し、関東ではまさかの2週連続の大雪予報に更なる予定変更を強いられる。。。

しかし14日朝の時点では、まさか8日ほどの大雪にはならないだろう、という希望的観測もあり、とりあえず一旦集合して、様々なオプションの中からまずは三増古戦場跡へ向かうことにしました。

三増(神奈川県愛川町)に向かう間にも雪は降り続き・・・

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雪原と化した三増古戦場・・・

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それでもこの時はまだ、こんなことして遊んでいる余裕があった・・・

この後は津久井城方面に向かおうとしましたが、、、

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どんどん雪が深まっていくのを見て撤退。

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結局、片倉城(八王子市)へ。
写真は本丸と二の丸の間の堀。

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正午頃のこの時点での積雪はこのくらい。傘の先の隠れ具合からして約20cmか?

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二の丸外側の堀もご覧の雪化粧・・・。
これはこれで綺麗でしたが。

八王子駅近くのファミレスで遅めの昼食にした後、車で帰らなきゃいけない方もいらしたのでこれ以上雪が深くならないうちに、とこの日は一旦早めの解散。

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夜になり、再集合して懇親会♪

2次会まで楽しく飲んだ後、私以外の2次会参加者は駅前のホテルに入り、私は自宅へ。ところが・・・ここからの帰路がとんでもないことに…(>_<)

バスは無理だろうと八高線を選択したものの、なかなか発車しない。
しばらく車内で待機したものの、結局「運転再開の見込みはたちません!」と、とても断定的なアナウンスが告げられた。。。
さてどうしたものかと苦慮していると、今度は「中央線上り電車は間もなく発車します」とのこと。慌てて飛び乗り、どうにか日野までは辿り着きました。

で、日野からの帰り方。当然ながらバスもタクシーも信じられないくらいの長蛇の列。
こりゃあ動いてないな、と覚悟を決め、自宅までの約5kmを歩くことにしました。

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ここ、階段だった筈なんだけど・・・(・_・;)

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初めのうちは膝くらいまでだった積雪も・・・

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進むにつれ、みるみるうちに深さを増していき・・・とんでもない雪中行軍となってしまいました。。。

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半ばヤケクソ気味にダイブしてみた。

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とある地点では遂に股下までの深さとなり、ジーパンを履いていた私の下半身がスッポリ埋まってしまいました。。。

しばらくはゼェゼェと息切らしながら頑張っていたものの、もはや歩道を歩き続けることは不可能!
車に踏まれて多少は雪が固まっている車道を歩き、未明にどうにか帰宅いたしました。。。

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一夜明けた自宅前。
こんな訳で15日(2日目)の予定は全てキャンセル。八王子駅前のホテルに滞在していた参加者の方々は交通機関の復旧を待って、それぞれの自宅や次の宿泊地へ移動するだけで精一杯の一日となってしまいました。

近いうちに何としても八王子の城跡巡りオフ、リベンジしたい!!

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2014年2月11日 (火)

京都新選組巡り♪

今回の京都への旅、2日目は新選組関連史跡巡りです。
案内(講師)役はフォロワーのみかんさん。生徒役は私を含め4人。総勢5名での散策♪
みかん先生の教え記憶の限り、参加者中最も不真面目?な生徒だった私がここにまとめさせていただきます(笑)

朝9:30に京都駅で集合し、先ずは・・・

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不動堂村屯所跡へ向かいます。写真は「不動堂村」の由来となったお不動さん。

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こちらが不動堂村屯所跡。現在はリーガロイヤルホテル京都の敷地となっています。

それまで新選組に北集会所を屯所にされていた西本願寺が土地や資金を用意し、新選組の希望を盛り込んだ設計で建てられました。その目的はやはり、境内からの追い出しか?
鳥羽伏見の戦い勃発直前の慶応3年12月に伏見奉行所へ移るまでの僅か数ヶ月間だけ利用された、京での最後の屯所です。

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屯所跡からほんの2~30m程北へ進んだこの付近の堀川通りの真ん中には、近藤勇の休息所があったそうです。(妾の深雪太夫を囲っていた所か?)

慶応3年11月18日、近藤の招きに応じた御陵衛士の伊東甲子太郎はここを訪れ、暫し会見の後、帰路へと就きます・・・

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その帰路、休息所を出てすぐの油小路に差し掛かったこの場所で、待ち伏せしていた新選組の大石鍬次郎らの襲撃を受け、伊東は致命傷を負います。
写真は大石役のみかんさんの襲撃を受ける、伊東あっぴん。さんの図(笑)

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致命傷を負った伊東甲子太郎はヨロヨロと油小路を北へ進み、襲撃現場から10m程の場所にあるこの本光寺前の石塔に倒れ掛かり、奸賊ばら!」と叫んで絶命したと云います・・・。
ところがこの日は暦でみると満月に近い夜で、暗殺に適した日取りではなかったようです。何故この日に実行されたのか。何か差し迫った事情があって急遽決行されたのか・・・。謎が残るところです。

残念ながらこの日はお寺さんに用事があったようで、門内の石塔は拝観出来ませんでした。

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伊東の暗殺に成功した新選組はその遺骸を更に北へ100m、油小路が七条通りと交わるこのまで運んで放置し、御陵衛士らに使いをやって伊東が暗殺“された”と伝えさせます。
そして、御陵衛士のメンバー7名が伊東の遺骸を引き取りに来たところを、予め伏せておいた40名もの隊士らが襲い掛かりました。つまり罠。
これが「油小路の変」と呼ばれる事件で、試衛館時代から近藤らの仲間でもあった藤堂平助もここで命を落とします。その場所は、写真左にある自動販売機の前辺りであったとか・・・。

ところがこの事件、戦闘のプロである新選組が40名もの人数で僅か7名を包囲・襲撃しておきながら、なんと半数以上の4名も取り逃がしているのです。ここにも不思議な謎が・・・。
結果、この時取り逃がした連中に近藤は肩を狙撃されますし、流山での投降後、板橋で尋問を受ける大久保大和を「近藤勇である」と証言?したのもまた、御陵衛士の残党だったかと記憶しています。その後の近藤の運命は言うまでもなく・・・。


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さて、こちらは天満屋事件跡。
慶応3年12月7日、この年の11月15日に坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺された海援隊・陸援隊は、いろは丸沈没事件で事故後の損害賠償交渉に於いて龍馬にまんまとしてやられて多額の賠償金を支払わされることになり、龍馬に恨みを抱いている(であろう)紀州藩を暗殺の首謀者と疑い、同藩の公用人・三浦休太郎を襲うことを計画、16名で三浦が滞在する天満屋を襲撃します。
この時、三浦には紀州藩から会津藩を通して依頼された新選組から、斉藤一を筆頭に7名が護衛に就いていました。

戦闘はすぐに灯りが消されて暗闇の中で行われ、襲撃側は十津川郷士の中井庄五郎が落命し、新選組側は宮川信吉、他1名が命を落としました。三浦自身は頬にかすり傷を負っただけですみました。

この事件、ちょっと裏話があるそうで、襲撃された側の誰かが機転を利かして襲撃側を装ったものか、それとも暗闇の中で味方同士間違えたのか、突然、
「三浦の首を討ち取った!」
という声が上がったそうです。襲撃側からすれば、三浦さえ討ち取れば目的は達成。急いで現場を離れ、改めて討ち取った首を確認すると・・・それは味方であるはずの中井庄五郎の首だったとか・・・。
しかも、陸奥陽之助(後の外務大臣・陸奥宗光)らは悔しさのあまり?、あろうことかその仲間の首を捨ててしまったそうです・・・哀れ中井庄五郎。

何故、天満屋跡に建つ石碑が中井庄五郎だけなのだろう、と思ったけど、確かにこうでもしないと浮かばれないよね・・・。


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さて、お次は西本願寺へ。この太鼓楼が建つ境内北側一帯に、新選組が屯所を置く北集会所がありました。
隊士だった島田魁は明治以降、謹慎を解かれると京に住み、道場を営む傍ら西本願寺で夜景の仕事をしていました。
そして70歳も過ぎたある夜、この太鼓楼の辺りで亡くなっていた云います。。。

ちなみに北集会所は新選組退去後に取り壊され、後に火事で焼失した姫路の亀山本徳寺に再建され、現存しています。早く行ってみたい!

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西本願寺の西側近く、この路地の奥に島田魁の住んだ家があったそうです。

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その路地(写真右、某タイヤメーカーの看板が掛かっている箇所)と突き辺りに見える西本願寺の距離感。

そのまま西へ歩いて、、、
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遊郭・島原へ。

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置屋「輪違屋」
現在も太夫を抱え、且つ宴席も営んでいる島原で唯一営業し続けているお店。
玄関には「観覧謝絶」、一見さんおことわりです…(^_^;)

浅田次郎氏の「輪違屋糸里」(芹沢と共に襲われるも逃れた平間重助の馴染み)でも有名ですが、輪違屋側には「糸里」が在籍した記録は無いそうです。

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そして「角屋」
新選組がよく宴席を設け、芹沢鴨がいろいろとやらかしたエピソードも残っていますね(笑)

その芹沢の最期の夜となる日も新選組はこの角屋で彼の慰労会を開き、心地よく酔いが回った芹沢が輿に乗って壬生の屯所(八木邸)へ戻り、愛人と寝入ったところを土方や沖田らが襲い、暗殺しました。

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という訳で我々も、暗殺される当日に芹沢らが通ったと思われる道を壬生へ向かいます。

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途中、個人の方が営まれている資料館にも立ち寄りつつ、、、
(中は乱雑ですが、よくよく見れば掘り出し物もあるかも?ww)

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今でこそ拡幅された五条通りが横切っていますが、道はこうしてしっかりとその先に続いています。

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壬生寺に到着~
境内で沖田総司が子供たちと遊んでいたことや、新選組が調練をしたエピソードなどが残っています。

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こちらで芹沢さんらに墓参。

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芹沢鴨暗殺現場となった八木邸の門前から、、、

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前川邸の、土方が古高俊太郎を拷問にかけた部屋の窓を覗き込む(左奥)。

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前川邸にも立ち寄り、、、

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そのまま山南敬助が眠る光縁寺へ。
彼がここに葬られた理由としては、光縁寺と山南の紋が同じだったこや、寺の門前に新選組の厩があり、親しく顔を合わせていた可能性が考えられるそうです。

勿論、山南さんや他の隊士たちのお墓にもお参りしました。
実は光縁寺墓地のすぐ北には嵐山本線が通っており、山南らのお墓は本来、その線路の辺りにあっそうです。
それが線路敷設にあたり、お墓の移動を余儀なくされ、墓石だけ現在の位置に移したのだとか。つまり、彼らは今も嵐山本線の下に眠る。。。もう少しどうにかならなかったのだろうか。

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こちらの路地の奥が、新選組の厩があったと推定されている場所です。

この後はこの日初めてバスで移動。

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もう一人のフォロワーであるちーさんと合流し、ランチタイム♪

昼食後、このお店の目の前にある、、、

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金戒光明寺、通称「くろ谷さん」へ。
言わずと知れた京都守護職・会津藩の本陣です。

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とても立派な御影堂。
この御影堂は普段から公開されていて中に入れるそうですが、この日は障子が閉められて中からは読経の声が聞こえる・・・。
どうしたものかと逡巡していると、、、みかんさんとちーさんが障子の隙間からしきりに中を覗き始めた(笑)

はい、無事に入れてお参り出来ましたよ。
ここで急遽駆け付けてくれたちーさんは時間切れでお別れ。ありがとうございました、またお会いしましょう☆

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有名な?アフロ地蔵♪

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徳川家光生母・江の供養塔

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そして、墓地の高台奥には会津藩殉難者墓地。200名以上もの墓石が並びます。
合掌。

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くろ谷さんが守護職本陣に選ばれた理由、それは江の供養塔があることからも分かる通り、徳川家所縁の寺であったこと。そして高台にあって、いざという時の防備の備えが施されていたことなどが考えられるそうです。

この眺めを見ればさもありなん。最も守るべき御所もしっかりと視界に捉えています。


さぁ、これにて京都新選組巡りも、雪への対応で思いがけず2泊3日に及んだ今回の旅も終わりです。
いろいろと準備を整え、一日丁寧に教えてくれたみかんさんを始め、あっぴん。さん、そして今回初めてお会いしたすばるさんにみらいさん、ありがとうございました☆
是非またお会いしましょうね♪

・・・と帰りの新幹線で旅の感慨に浸っていたら、忘れていたよ( ._.)

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関東では45年ぶりという記録的な大雪が降っていたことを…(^_^;)
まさか次週の八王子オフにまで影響を及ぼしてくれるとはね。。。

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淀・欣浄寺跡地の再検証

京都市内で阿弥陀寺、報恩寺と巡った後は淀へ向かいます。訳あって一年ぶりの再訪。
その一年前の記事で;

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この淀古地図にカラーのラインを引いて、現在の地図に当てはめると・・・

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この様になるから、新選組の井上源三郎の首が門前に埋葬されたと云う欣浄寺の跡地は赤い矢印の位置、とご紹介しました。
※井上源三郎の首の埋葬地が欣浄寺門前と推定されている経緯についても、一年前の記事などをご参照ください。

・・・ところが!
先日、一年前の踏査時にご案内して下さったサイガさんから
「欣浄寺の位置が違っていた」
というご連絡を受けました・・・なんと!?

そこで自分でも改めて古地図と現在の地図をじっくりと見比べているうちに、そもそも上の2つの地図では淀城の「角度」が全然違っていることに思い当たり、現在地図の淀城跡の角度を古地図に合わせると・・・
で囲んだ地点がそもそも全然ズレていました。

再度地図を睨みつけながら、古地図と現在地図の各地点を落とし込んでいき、2つを対比させると以下のようになるだろうと検討をつけました。

古地図
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現在地図
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各マーキングについては追々ご説明いたします。
これでいくと、緑でマーキングした一帯が欣浄寺の跡地と思われます。

これを元に改めて現地を歩いてみました。

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両地図上地点から北(上)を見た様子。
この地形、今ではすっかり埋め立てられていますが、間違いなく「宇治川」の名残ですね。

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地点の道路。
実は現在の地図を見ている時、「どうしてここだけ、こんなにイビツに道路が膨らんでいるんだろう?」と不思議になったポイント。
それも古地図と見比べているうちに気付いた。赤いラインでマーキングしたように、角度も一致している。淀小橋の袂の名残、当時の地割がそのまま道路の形に反映されたのではないでしょうか。

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「淀小橋」推定地点を橋を渡るように北上していくと、その先に、、、

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「淀小橋旧址」の石碑。(地点)
宇治川の北岸を示すように、地形も再び上がっていっています。

なので、ここから更に少しだけ北上し、小さな路地を右に曲がった、、、
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この付近が欣浄寺の門前かと。。。(地点)
古地図に描かれた寺への入口と思われる小さな路地は残っていませんが、左手前の民家の脇に細いスペースがあり、或いはこれが・・・?

いや、途中で北側へ(軽いクランク状に)キュッと切れ込んだ形状といい、この路地自体が欣浄寺の境内敷地そのものを示すラインかもしれませんね。

いずれにしても、この付近のどこかに源さんは・・・。

そして、この写真でも路地の先が下っている様子がお分かり頂けるでしょうか。

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その下った先から振り返って。
この高低差も古地図に描かれているU字型の堀川の名残だと思います。

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最後に「唐人雁木旧址」の石碑から南側を。(地点)
ここもやはり、「納所」交差点に向かって緩やかに下っています。

折角来たので本当はもっといろいろと観て回りたいところですが、寒さと腰の張りに加え、この日は競馬も開催されていたので混雑する前に早々に退散。

京都市内に戻って一旦ホテルに入った後、京都タワーの真下の居酒屋で一杯やっていると、twitterでたまたま京都に来ていたnikkoさんと連絡がついて合流。彼とは東京での住処も近いのに、まさかの京都で(笑)
お陰で楽しく過ごさせていただきました☆

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阿弥陀寺、報恩寺 (「第48回 京の冬の旅」)

2月8~9日は京都へ。
8日未明から関東では大雪になるとの予報もあり、前日から新幹線に乗る新横浜駅前に前泊する万全の態勢での上洛路。

一夜明け、早くもうっすらと雪が積もり始める8日午前8時に出発した新幹線は小田原で雪落としの為の停車があったり、姫路~相生間での倒木の影響もあって遅れがどんどんと大きくなっていく・・・。
この日、最も楽しみにしている阿弥陀寺の拝観時間は午前中に限定されていたため、遅々として進まない新幹線車内で気が気ではない私・・・(^_^;)

それでもどうにか定刻よりちょうど1時間遅れの午前11時に京都駅に到着。着いてみてビックリ!京都、雪が全くない…(@_@;)?!
お陰で市バスにもすぐに乗れ、何はともあれ先ずは阿弥陀寺へと向かう。

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市バス205系統「河原町今出川」の一つ先、「葵橋西詰」で下車。寺町通りを進む。
天候は生憎の雨・・・。

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そしてこちらが阿弥陀寺。なんとか間に合いました・・・。
正式名称「蓮台山 捴見院 阿弥陀寺」。開山は勿論、清玉上人です。

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先ずはこちらの本堂でガイドさんのお話を聞いた後;

・織田信長、信忠父子の木像(一周忌に家臣が作成)
・本能寺で討ち死にした百余名の合祀位牌
・信長の手槍先、弓掛、鞍覆
・明智光秀、木下藤吉郎の書状、etc...


などを拝観しました。

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そして、信長・信忠父子の墓前にもお参り。
向かって左には蘭(乱)丸・坊丸・力丸の森三兄弟や、二条御所で信忠と共に討ち死にした猪子兵助らのお墓。
同じ墓地内には清玉上人のお墓もあり、無論そちらにもお参りいたしました。
※猪子兵助は斉藤道三と信長が相見えた「正徳寺の会見」の際、道三の家臣として同席していた人物。道三死後、信長公に仕えました。

阿弥陀寺に伝わる「信長公阿弥陀寺由緒之記録」によると;
本能寺の変勃発を知った清玉上人は、僧徒20人余りを引き連れて本能寺へと駆けつけました。
裏道」(裏門か?)からどうにか寺内に入ると堂宇は既に炎上し、近くの竹林で信長の遺骸を隠すため、火葬しようとしている武士10人余りと出くわします。そこで上人は自らが火葬は勿論、将来に渡って追悼していくことを願い出ると、その武士らは大いに喜んで上人に遺骸を託し、敵に向かって行きました。
彼らが敵兵を防いでいる間、上人は信長の遺骸を火葬して白骨を法衣に包み、逃げ惑う本能寺の僧徒らに紛れて本能寺を脱出。阿弥陀寺に戻って土中深くに埋葬したと云います。。。

まぁ、寺の外にいた信長の家臣の中には、変の勃発を知って本能寺に駆けつけた者もいたし、案外と明智勢の包囲は甘くて上人らが忍び込むことも可能だったのかもしれませんが、近くで戦闘が行われている中、遺骸を荼毘に付してお骨にする余裕があったとは到底考え辛いと思います。
この由緒之記録は江戸期に一度焼失しており、現在に残るものはその折に記憶を頼りに書き直したものらしいので、果たしてどこまで真実か・・・。

ただ、大正6年に信長へ「正一位」の追贈があった際は勅使が阿弥陀寺に参向し、信長の墓前で儀式が執り行われました。

また一つ、信長所縁の場所を訪れることが出来て感慨も一入です。
最後に庫裡で御朱印を頂き、阿弥陀寺をあとにします・・・。

とここで、市バスの一日乗車券を紛失していることに気付く!まだ1回しか乗ってないのに!!・・・仕方ないので、次の目的地まで歩くことにしました。
そのお陰?という訳でもないですが、阿弥陀寺が秀吉によって現在の地に移される前、本能寺の変当時に存在していた推定跡地にも立ち寄ることができました。

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その推定地とはこちら。おおよそ薄く赤で塗った辺りになります(今出川大宮東)。結構広大な寺域を有していたようです。ちなみに本能寺があった四条西桐院までは3km程の距離。
印は現在の寺町阿弥陀寺。

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その推定跡地を今出川通と堀川通が交差する「堀川今出川」交差点から。
もし仮に阿弥陀寺の由緒之記録が真実であったとするならば、この付近の何処かが信長が最初に埋葬された地ということになります。。。


さて、更にてくてくと歩き、次に向かった先は・・・
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こちら。

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「鳴虎」で有名な報恩寺。
元和9年には入洛した黒田長政が宿舎とし、そして病を得て亡くなっています。

こちらでは;

・「鳴虎図」(複製。本物は寅年の三が日のみ公開)
・黒田如水・長政父子位牌
・黒田長政終焉の間
・豊臣秀吉肖像画


などを拝観致しましたが、私的には何といっても;

・織田信長肖像画

です!
近衛龍山(前久)の賛が付されており、信長の七回忌がこの肖像画の前で執り行われました。
他に残る信長の肖像画とは表情とか少し違う印象ですが、面長で鼻が高くて大きい点は共通していました。

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報恩寺の枯山水の庭園。

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「京の冬の旅」
この後は淀へ向かうことにしていたので今回は2寺だけでしたが、とても有意義な時間でした。
またこういう機会には訪れたいと思います☆

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2014年2月 2日 (日)

愛犬・ボンの誕生日♪

本日、2月2日は我家の愛犬・ボンのお誕生日☆
早いもので今年で満11歳になりました♪

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相変わらず、適当なものがあると何でも枕にして寝てしまうような奴ですが…(笑)

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既にTwitterではお知らせしていた通り、実は昨年の10月頃から右後肢の前十字靱帯を痛めてしまい、ずっと治療の日々が続いております。
ギプス生活も2ヶ月に及びました。

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フローリングは滑って靱帯にも良くないだろうということで、玄関周りにも絨毯が敷き詰められ、、、家族を挙げてボンの為に出来ることは何でもやってフォローしています。。。

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昨年末にギプスを外し、多少は改善もみられたものの、、、
医者曰く「手術をしない限り、これ以上完全には治らない」とのこと・・・。

その為、医者はしきりに手術を勧めてくるのだが、手術をすれば2ヶ月入院してゲージでの生活となる。それによって受けるであろうストレスと、
ボンは通常のドッグフードでは喉を詰まらせて呼吸ができなくなるので日頃から特別に柔らかくして与えており、いくら専門の看護師であろうと他人には入院中の世話を任せられない事情もあり、、、
とても手術に踏み切れる心境ではないのです。。。

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再び悪化するようなことがあれば、その時は覚悟を決めて手術を受けさせよう、ということにして、今は引き続き慎重に様子を見ながら通院(靱帯損傷に伴う膝関節への負荷が懸念されるので、その保護の為の注射と、他の部位への影響の有無の確認)の日々です。

あ、ちなみにこの写真は今年の年賀状に使用しました☆
ボン専用の毛布が競走馬のレイみたいで、午年にピッタリでしょ?(笑)

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という訳で、掛かり付けの動物病院へ向かう車中にて。
・・・人の気も知らずに熟睡してやがる(^_^;)

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冬の寒い朝は布団から出てきません(笑)

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そんなこんなで心配な日々は続きますが、まずは11歳の誕生日を一緒に迎えられたことに感謝しつつ、これからも楽しく過ごしていきたいと思います♪

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2014年2月 1日 (土)

鎌倉古道を歩く…七国峠

御殿峠」、「井出の沢~小野路」に続く鎌倉古道シリーズ第三弾!
今回は町田市相原町の「七国峠」を歩きます☆

ルートはこちら↓
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先月歩いた御殿峠の西、ほぼ並行するように南北に走る古道です。

JR横浜線「相原」駅で降りて、町田街道をひたすら西へ。
「相原十字路」交差点を右(北)に入ってすぐの位置から古道歩きスタートです。

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折れていた道標…どっちを指しているのか分からん・・・(^_^;)

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スタートしてすぐ。
藪で分かりにくいですが、両サイド共に2m級の土盛りがあって掘割状になっていました。

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笹藪が途切れるとよく分かるね♪

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古道の雰囲気たっぷり♪

これだけで充分満足しながら歩いていたんだけど、ふと横を向いたら、、、
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ん!?・・・もしかして堀割が二重になってないかい!!??
早速覗き込んでみたら・・・

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ほぉ~!なんじゃこりゃあ!?
あまりに雄大で美しい掘割状遺構に、暫しヘラヘラと笑うしかなかった・・・。

もしかしてこっちが本道だったのか?と思い、兎にも角にも歩いてみることに。
写真の先で右に折れているし、まずは行ける所まで行ってみよう!ということで、方角的には引き返すように進んでみたところ、すぐに畑のような私有地に出てしまいました。それ以上は行けないので、その場所から再び峠を登り直します。

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城郭に比定しても見事な規模の枡形虎口の様なクランク・・・☆

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そのクランクを振り返って・・・

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更に登り・・・

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そして振り返る(笑)
もう溜息しか出ない素晴らしい遺構。。。こんなのが住宅街の裏山のような場所に残っているのです。歴史の浪漫ですね♪

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そして二重に通っていた古道はすぐに合流します。
写真は合流ポイントを振り返って写したところ。左が最初に登って来た道で、右の窪みが件の堀割道。

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掘割状の古道はまだ続きます☆
こっちは素敵なカーブ♪

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勿論、振り返る(笑)

この先、少し下ると一旦舗装された車道に出ます。

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その舗装路との接続部分で撮った一枚。
今回歩いている鎌倉古道は「朱雀路」と呼ぶそうです。

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少し迷った挙句、路面に石灰で引かれた矢印に沿って左へ進んでみました。

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暫く雰囲気のある道を進むと・・・

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頂上付近で開けた場所に出ました。
小さな祠に祀られているのは大日如来像。寛文7年(1667)作の現存だそうです。

そしてこの場所、、、
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関東の七州(国)を見渡す見晴らし台だったようです。これが「七国峠」の名前の由来。

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残念ながら樹木に覆われて景色を見晴らすことは出来ませんでしたが、足元を見ればご覧の高低差。往時はさぞ、良い眺めだったことでしょう。

ところで先程の舗装路から登って来たこの道、どうやら鎌倉古道のルートからは外れていたようです。
このまま写真の手摺伝いに進んでも途中で合流出来るらしいのですが、折角なので一旦戻ることにします。

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舗装路に戻って。
進むべき古道はこの先。ということは、この舗装路も鎌倉古道の名残。

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心細くも真っ直ぐに伸びる古道。
笹藪に隠れていますが、ここも両サイド土盛りになっていて掘割状の道であることは間違いありません。

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暫く行くと、これまた見事な切通し。

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おや?・・・何か見えてきました。

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月山・湯殿山・羽黒山・・・
そう、所謂「出羽三山」の供養塔です。天保10年の銘が彫られていました。

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出羽三山の供養塔が建つ辺り。正面の土盛りの上に供養塔が建ち、その右手がここまで歩いてきた古道。

更に写真手前側に進みます。

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また良い感じの切通しが出てきました♪

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いいねぇ…

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ここも藪で分かり辛いですが、切通しになっていて古道の遺構であることは確か。
ところが、写真では見えませんが鉄製のワイヤーが張り巡らされていて、この先は立入禁止になっています。。。何故?

実はここで、これまで歩いてきた町田市側と、この先の八王子市側との市境になっているのです。
自治体が変わると、こうも対応が違うのですね・・・。

それもその筈。この先は、、、
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いきなり峠が寸断されています。
歴史浪漫溢れる七国峠の鎌倉古道も突然の終焉。。。
立入禁止の筈なのに何故写真があるの?というツッコミはこの際、置いておいて…

本来はこの先も峠は続き、古道も残っていた筈です。
ところが宅地造成の開発により峠は無残にも切り崩され、歴史浪漫の道も突然の強制終了を余儀なくされてしまったのです。

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こちらの航空写真。赤い線が八王子(北)と町田(南)の市境を示すラインです。
こうして見ると一目瞭然ですね。見事なまでに市境のラインに沿って、峠が切り崩されているのです。。。

様々な事情があるにせよ、片や散策路として開放し、一方は立ち入りを禁じて宅地造成。。。自治体によってこうも「史跡」の扱いが違うものなのか・・・。これほどまで顕著な例も珍しいのではないでしょうか。

※後日、はたと思い当たって調べてみたところ、先月歩いた御殿峠の古道が、日本閣駐車場裏手の掘割状遺構の先でプッツリと途絶えて急斜面を国道16号沿いに降りざるを得なくなったあのポイント、あそこもまた市境でした・・・。

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とあるサイトでこの「立入禁止」区域でも古道遺構が確認できる、とありましたが、今となってはご覧の藪。確かにそれらしい窪みはありましたが・・・

嘆いていても仕方ないので、本日の古道歩きはこれにて終了です。
帰りは出羽三山供養塔の場所で鎌倉古道からルートを外れ、相原中央公園経由で駅に戻りました。

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七国峠を仰ぎ見る。

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駅までの道すがら、こんなちょっと素敵な小路に迷い込みました♪
行き当たりばったりの散策は、こんな出会いも楽しいですね☆

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