淀・欣浄寺跡地の再検証
京都市内で阿弥陀寺、報恩寺と巡った後は淀へ向かいます。訳あって一年ぶりの再訪。
その一年前の記事で;
この淀古地図にカラーのラインを引いて、現在の地図に当てはめると・・・
この様になるから、新選組の井上源三郎の首が門前に埋葬されたと云う欣浄寺の跡地は赤い矢印の位置、とご紹介しました。
※井上源三郎の首の埋葬地が欣浄寺門前と推定されている経緯についても、一年前の記事などをご参照ください。
・・・ところが!
先日、一年前の踏査時にご案内して下さったサイガさんから
「欣浄寺の位置が違っていた」
というご連絡を受けました・・・なんと!?
そこで自分でも改めて古地図と現在の地図をじっくりと見比べているうちに、そもそも上の2つの地図では淀城の「角度」が全然違っていることに思い当たり、現在地図の淀城跡の角度を古地図に合わせると・・・
○で囲んだ地点がそもそも全然ズレていました。
再度地図を睨みつけながら、古地図と現在地図の各地点を落とし込んでいき、2つを対比させると以下のようになるだろうと検討をつけました。
古地図
現在地図
各マーキングについては追々ご説明いたします。
これでいくと、緑でマーキングした一帯が欣浄寺の跡地と思われます。
これを元に改めて現地を歩いてみました。
両地図上▲地点から北(上)を見た様子。
この地形、今ではすっかり埋め立てられていますが、間違いなく「宇治川」の名残ですね。
同■地点の道路。
実は現在の地図を見ている時、「どうしてここだけ、こんなにイビツに道路が膨らんでいるんだろう?」と不思議になったポイント。
それも古地図と見比べているうちに気付いた。赤いラインでマーキングしたように、角度も一致している。淀小橋の袂の名残、当時の地割がそのまま道路の形に反映されたのではないでしょうか。
「淀小橋」推定地点を橋を渡るように北上していくと、その先に、、、
「淀小橋旧址」の石碑。(●地点)
宇治川の北岸を示すように、地形も再び上がっていっています。
なので、ここから更に少しだけ北上し、小さな路地を右に曲がった、、、
この付近が欣浄寺の門前かと。。。(★地点)
古地図に描かれた寺への入口と思われる小さな路地は残っていませんが、左手前の民家の脇に細いスペースがあり、或いはこれが・・・?
いや、途中で北側へ(軽いクランク状に)キュッと切れ込んだ形状といい、この路地自体が欣浄寺の境内敷地そのものを示すラインかもしれませんね。
いずれにしても、この付近のどこかに源さんは・・・。
そして、この写真でも路地の先が下っている様子がお分かり頂けるでしょうか。
その下った先から振り返って。
この高低差も古地図に描かれているU字型の堀川の名残だと思います。
最後に「唐人雁木旧址」の石碑から南側を。(※地点)
ここもやはり、「納所」交差点に向かって緩やかに下っています。
折角来たので本当はもっといろいろと観て回りたいところですが、寒さと腰の張りに加え、この日は競馬も開催されていたので混雑する前に早々に退散。
京都市内に戻って一旦ホテルに入った後、京都タワーの真下の居酒屋で一杯やっていると、twitterでたまたま京都に来ていたnikkoさんと連絡がついて合流。彼とは東京での住処も近いのに、まさかの京都で(笑)
お陰で楽しく過ごさせていただきました☆
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