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2014年3月

2014年3月30日 (日)

「信長の城」シンポジウム♪

本日(3/30)は武蔵野大学有明キャンパスで開かれた、「信長の城」シンポジウムに行ってきました。

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会場のテーブルに置かれたクリアファイルを見ただけで、ワクワク☆

今回のシンポジウム、主催する日本城郭協会が公益財団法人に認定された記念に開催されたのだそうです。

プログラムは;

10:30
同協会理事長で静岡大学名誉教授の小和田哲男先生による開会挨拶に始まり…

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10;35
「信長の城」の著者で奈良大学教授の千田嘉博先生・落語家の春風亭昇太師匠・城郭ライターの萩原さちこさん(城メグさん)によるトークショー「信長・秀吉の城を歩こう」からスタート♪

そして、2列目に陣取った(学生時代は常に最後尾でしたww)私の斜め前には、、、
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なんと、小和田先生のお席が!
・・・もう大興奮☆

御三方によるトークショー、安土や岐阜、小牧山といった信長の城から全国様々なお城へと話題は飛び、昇太師匠や千田先生の軽妙なジョークで笑いもあり、とても楽しく拝聴しました。
特に、大聖寺城の本丸には絶滅危惧種のオオゴキブリが生息していて発掘が出来ない、というお話が印象深かったですね。
「オオゴキブリが籠城する城!」(by 昇太師匠)…まさに!(笑)

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トークショー後は一旦、昼休憩を挟み、、、

※ちなみに手前の左から2番目のテーブルで談笑する方々、城攻めや史跡巡りでお世話になっている皆さん。申し合わせた訳でもないのに、これだけ集まるって・・・みんな好きね(笑)

午後は;

13:00
千田先生による基調講演
…40分間では時間が足りなさ過ぎ!もっとたくさんお聴きしたかった。

13:45
小和田先生・千田先生・萩原さんに加え、国立歴史民族博物館教授の小島道裕先生を交えた4名の方々によるパネルディスカッション「信長・秀吉・家康の城」

という流れ。
お話の内容はあまりにも盛りだくさん☆で、とてもまとめきれないのですが、後半の千田先生・小島先生による;

「安土城の“御幸の間”はどこにあったのか?」
というテーマでのディスカッションは大変興味深かったです。
お互いに「信長公記」の記述から辿って推論されているのに、辿り着く地点は違うという・・・。こういう謎を追及していくのも、歴史に触れる醍醐味ですよね♪

歴史を探る上で;

文献実地調査(考古)

この両面を突き合わせて検討していくことが重要、且つ大変に興味深いアプローチになるなぁ~と改めて感じた一日でした。

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終了後は、小和田先生や千田先生にサインや記念撮影をおねだり♪

大好きな歴史の分野にドップリと浸かり、幸せな時間でした。
このような場を設けていただいた全ての方々に感謝します。ありがとうございました☆

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2014年3月23日 (日)

小田原城 外郭オフ☆

3月22日(土)は小田原城の外郭オフ。
幸いにも好天に恵まれて、小田原へ向かうロマンスカーの車窓から眺めた富士山もとても綺麗でした♪

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小田原駅西口、北条早雲像前で集合☆
今回の参加者は総勢10名です。

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サイガ先生の説明に聞き入る参加者たち。

この日のルートは;
まず御鐘ノ台周辺を丹念に観て回った後、外郭沿いに北東方向・谷津の山ノ神台へ進むというものでした。
ただ、この辺りは1月の下見時とかなり被るので、本記事では重複する箇所は割愛させていただき、今回初めて観た箇所などを中心にご紹介させていただきます。
※割愛部分の遺構についてはコチラより、下見の時の記事をご参照ください。
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今回もこちらの図を拝借(笑)

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a地点付近に残る外郭線の土塁と堀。小峯の大堀切から続くライン上にあります。
三の丸外郭新堀土塁と呼ばれていました。

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b地点、御鐘ノ台先端部分からの眺め。御鐘ノ台周辺の遺構を探索した後、昼食もここで摂りました。

右に小田原城の外郭ライン、左に包囲する豊臣軍が陣を布いた尾根が見えます。
その中間地点からは、豊臣軍が攻城のために築いた荻窪仕寄の遺構が発見されています。
※現在、遺構は大学校舎などが建って消滅。

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谷津丘陵の住宅街をてくてく。向かった先は・・・

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城下張出 cの“出っ張り”部分です♪
こうして現在の地形に、その形状がハッキリと残っています☆

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春ですねぇ~♪

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旧足柄道から続く・・・

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こちらは久野口の虎口!

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久野口周辺にも、少し埋まっていますが堀跡が残っていました。

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d地点。こちらも土塁の名残♪

今回の外郭巡りはここまで。
この後は市内中心部、近世小田原城方面に向かいました。

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北条氏政・氏照兄弟の墓所にもお参り。
八王子に住む者としては、やはり氏照さんにご挨拶しておかないとね☆

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幸田口門跡から伸びる土塁。この上を歩いて行くと・・・

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ひっそりと隠れるように石垣も残っていました。

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古絵図でいうと、で囲んだ部分。
縦にで描かれた土塁上を歩きました。石垣はちょうど櫓が建っている部分になります。

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大手門の石垣跡。上に乗っている鐘楼は後世の手によるものです。

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この絵図でいうと、大きな櫓門の右側の石垣が上の写真のものにあたります。
従って、その少し先には・・・
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「三の丸堀」と書かれたお堀の跡と思われる窪みが確認出来ます。横切っている道路の辺りがお堀だったのでしょう。
そして土橋が架かっていたと思われる位置は、うっすらと盛り上がっているようにも見えました。。。これは思い過ごしなのだろうか…「小田原市民会館前」T字路の辺りです。現地で確認してみてください。

※なお、現地説明板では道路の少し手前を堀として描いていましたが、大手門跡からの距離や地形を観る限り、これは誤りだと思います。


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最後に天守へ。
この後は1時間ほど自由行動となり、17:30からは懇親会♪ 大好きなお城や歴史の話でおおいに盛り上がりましたよ☆

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2014年3月21日 (金)

左義長まつり♪

旅の締め括りは近江八幡市の左義長まつり

「左義長」とは本来、小正月に行われる火祭りの行事のことで、日本全国で見られる習わしだそうです。

そして、近江八幡のそれは織田信長にもとても所縁が深いのです!

信長公記 巻十四(天正九年辛巳)御爆竹の事」に記述のある、
『正月八日、御馬廻、御爆竹用意致し、頭巾装束結構に致し、思ひゝゝの出立にて、十五日に罷り出づべきの旨、御触れあり。』

こそ、まさにこの左義長です☆
天正9年1月15日に行われた左議長、そこでの信長の出で立ちは、

『御馬場入り、御先へ御小姓衆。その次を信長公、黒き南蛮笠をめし、御眉をめされ、赤き色の御ほうこうをめされ、唐錦の御そばつぎ、虎皮の御行縢。蘆毛の御馬、すぐれたる早馬、飛鳥の如くなり。』

黒い南蛮笠を被って眉を描き、赤い頬当てに唐錦の袖無し羽織、虎皮の行縢・・・颯爽として得意気な姿が目に浮かぶようですね♪

信長の後には近衛前久を初め、織田一門が続きました。錚々たる行列だったでしょうねぇ☆
この安土での左義長の噂を聞きつけた正親町天皇の要望で、明智光秀を奉行とした馬揃えへと繋がるのです。

安土廃城後、豊臣秀次によって近江八幡の地に城と城下町が築かれると、左義長の風習もこの地に移ってきました。そのお祭りが今でも続いているのです☆

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という訳で、我々も近江八幡の城下町をブラブラと練り歩きます♪

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お、早速どこかの左義長(山車)が見えてきました。
実はこれら左義長の飾りは、その年の干支をテーマに制作されます。なので今年は馬☆

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そして、材料にはなんと食材が用いられているのです!
こちらの左義長の場合、蹄が…スルメ(笑)

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また別の左義長☆

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この桜だか梅の花はポップコーン、木の幹はお煎餅♪

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もうしばらく周辺を散策。
こちらは豊臣秀次の娘・玉姫の廟所がある洞覚院。

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おや?扁額に「慈恩寺」の文字が…!?
もしかして浄厳院のように、元は「慈恩寺洞覚院」だったのかな?

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玉姫の廟所

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近江八幡といえば…こちらも忘れてはいけない、メンタームの近江兄弟社。

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お昼は「左義長そば」(350円也)で腹拵えして・・・

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頃合いとなり、祭りのメイン会場である日牟禮八幡宮の鳥居前で、続々と各地区から集まってくる左義長を待ち受けていたら、、、

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早速おっ始めた!(笑) 左義長同士を組み合わせて争う“ケンカ”☆

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日牟禮八幡宮境内のそこかしこでも!

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「難波のことも 夢のまた夢」…豊臣秀吉の辞世ですね。

でも私が一番見たかった左義長は・・・

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勿論こちら☆ 前日のコンクールでも優勝している左義長で、テーマは;
天正九年御馬揃

まさに左義長まつりにピッタリ♪

他にも;
桐紋透大鐔と村雨(先程の秀吉辞世の句の左義長)
井伊の赤鬼
松風 ―天下無双の歌舞伎馬―


など、武将好きには堪らないテーマで制作された左義長がノミネートされていましたよ♪

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ちょっと油断していたらケンカに巻き込まれます…(^_^;)
とっても勇壮なお祭りでした☆

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おっと、これも忘れちゃいけない…たねやの「つぶら餅」♪(笑)
もっちりとした食感がGoodでした☆

この後も近江牛串近江牛のすき焼きコロッケと食べ歩きました♪・・・もはや、食道楽?(笑)

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祭りの喧騒を離れて少し散策・・・近江八幡城下町に縦横に廻らされた背割排水(背割の溝)。

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八幡堀

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ヴォ―リース建築のアンドリュース記念館

しばらくして日牟禮八幡宮に戻ってみると・・・

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絵に描いたような“祭りのあと”(笑)

境内でひとしきり暴れた?左義長は修復の為に一旦各地区へ戻り、夜の奉火(左義長を燃やす儀式)に備えます。
その時までいられないのが残念!

しかし左義長同士のケンカなど、たっぷり祭りの雰囲気も楽しめたし、大満足です☆

近江八幡であっぴん。さんとはお別れし、ゆっきーの車で米原まで送ってもらうことに。

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途中、安土城に寄り道し、、、

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彦根城や佐和山城の山麓も通過するルートを走ってくれて、最後まで楽しい旅になりました♪

あっぴん。さん、ゆっきー、本当にありがとうございました!

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2014年3月20日 (木)

セミナリヨ跡

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安土城下のセミナリヨ跡。

ところで、「信長公記」にこんな記述があります。

信長公記 巻十四(天正九年辛巳)因幡国鳥取城取り詰めの事」の条の一部に、

『七月十五日、安土御殿主(ママ)、並びに、惣見寺に挑灯余多つらせられ、御馬廻の人ゝ、新道・江の中に舟をうかべ、手ゝに続松とぼし申され、山下かゞやき、水に移りて、言語道断、面白き有様、見物群集に候なり。』

と、この年の盆に常の年とは違って安土城天主や総見寺に提灯を吊り、道や琵琶湖に浮かべた舟にも松明を灯してライトアップさせた様子が簡潔に記されています。

ちょうどこの時、安土を訪れていたイエズス会巡察師ヴァリニャーノの通訳として同行していたルイス・フロイスが、その著書「日本史」の中でこの時の様子をより詳しく綴っていますので、少し長いですが引用します。

『すなわち信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、彼だけが、色とりどりの豪華な美しい提燈で上の天守閣を飾らせた。七階層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提燈の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、鮮やかな景観を呈していた。彼は街路それは我らの修道院の一角から出発し、前を通り、城山の麓まで走っている-に、手に手に松明を持った大群衆を集め、彼らを長い通りの両側に整然と配列させた。』

信長が安土城や街路をどのようにライトアップさせたか、太田牛一とフロイス、共に描写が完全に一致していますね。

そして、その松明でライトアップされた道はここ、セミナリヨ(『修道院』)から真っ直ぐに安土城へ向かって伸びていたのです☆

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セミナリヨ跡から望む安土城。城山の麓に向かっている道(『街路』もありますね☆
ここに光の列が出来ていたのですねぇ…♪

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沙沙貴神社

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昨年末にも訪れた沙沙貴神社。その時はまだ屋根の葺き替え工事中だった楼門。

ところで、「信長公記 巻十四(天正九年辛巳)御爆竹の事」の中に、

『正月二日に、安土の町人どもに御鷹の雁・鶴を余多町ゝへ下され、忝きの由候て、佐々木宮にて、御祝言として能を仕り、爰にて頂戴候ひしなり。』

という記述があります。

織田信長が鷹狩で得た獲物の雁や鶴を、安土の町人たちへ与えることになったようです。喜んだ町人たちはお祝いとして『佐々木宮』能を舞い、その場で獲物の下賜を受けました。

そう、信長公記に『佐々木宮』とある場所こそ、ここ沙沙貴神社なのです!

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境内には能舞台も…♪
無論、天正9年当時のものではありませんが、なんだかその時の光景が目に浮かぶようです☆

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「安土宗論」をめぐる

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旅の2日目、近江八幡で迎える朝。

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ホテル最上階のレストランで近江八幡城の城山を眺めながらの朝食☆

そして午前9時、フォロワーのあっぴん。さん&ゆっきーと合流して出発。
まず向かった先は、、、

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安土の浄厳院
近江守護・佐々木氏の菩提寺だった慈恩寺の跡地に、織田信長が新たに慈恩寺浄厳院として開基させたお寺です。現在も周辺の字名は「慈恩寺」で、近江八幡にも町名が移って「慈恩寺町」があります。
写真の楼門は、佐々木氏の菩提寺だった慈恩寺の楼門として残っていたものの現存です。

しかしそれより何よりも、安土宗論の舞台として有名ですね、浄厳院は。

安土宗論
天正7年(1579)5月中旬、関東から来た浄土宗の霊誉玉念という僧が安土の町中で説法をしているところへ、法華宗徒の建部紹智大脇伝介が問答をけしかけます。
ところが玉念は、
「あなたたちに説いても、若いから仏法の奥深さを理解できないでしょう。法華宗のそれなりのお坊様を連れてくれば返答しましょう」
と言って取り合いません。
それならば法華宗の僧侶を連れてきて宗論をしよう、ということになり、

『京都より長命寺日光、常光院、九音院、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋弟坊主妙国寺不伝、歴ゝの僧衆、都鄙の僧俗、安土へ群れ集まり候。』
(「信長公記 巻十二 法花・浄土宗論の事」より)
※堺の妙国寺は大蘇鉄で有名ですね。蘇鉄のエピソードには前出の日珖上人『長命寺日光』も出てきます。→過去記事

この件はすぐに信長の耳にも達し、
「当家にも法華衆徒が大勢おり、信長が取り計らうから事を荒立てないように」
と通達します。
ところが浄土宗側は素直に仰せに従う姿勢を見せたものの、法華宗側は納得しません。

『左候はゞ、判者を仰せ付けらるべく候間、書付を以て勝負を御目に懸け候へ』

と命じ、日野の『秀長老』(南禅寺景秀鉄叟)と因果居士の2人を判者として添え、浄土宗側からは霊誉玉念の他、『田中の貞安長老』(西光寺聖誉貞安)も参加して5月27日、

『安土町末、浄土宗の寺浄厳院仏殿にて、宗論あり。寺中御警固として、織田七兵衛信澄、菅屋九右衛門、矢部善七郎、堀久太郎、長谷川竹、五人仰せ付けらる。』

となりました。派遣された5名の名前を見ても、結構大ごとになっているのが分かりますね。

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浄厳院本堂と、奥に鐘楼。

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白梅も綺麗に咲いていました♪

宗論の経過は長くなるので省略しますが結果は浄土宗側の勝ちとされ、法華宗側の僧侶たちはその場で見物人たちに袈裟を剥ぎ取られてしまいます。

『書付』を以て報告を受けた信長は時を移さず、すぐに浄厳院へ出向きます

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浄厳院境内から見た安土城。信長が駆け付けた距離

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安土はマンホールも素敵♪

信長は浄厳院に着くと浄土宗の玉念・貞安には褒美を取らせ、判者を務めた2人を労った上で、初めに問答をけしかけて宗論の原因を作った大脇伝介に対し、
「霊誉玉念の宿を引き受けながら、その応援をするどころか問答をけしかけ、身分不相応にも安土内外に騒動を引き起こしたこと、不届きである」
として首を刎ねました。
建部紹智は逃げ出しましたが、後日捕まって処刑されています。

更に妙国寺の普伝(『不伝』)を召し出し、着古したまがい物の小袖などを御加護がある(『結縁』=仏の縁を結ぶ)と言って人々に取らせて得意顔になっている、などの、近衛前久から聞いていた普伝の行状を問い質しました。
そして、いずれの宗派にも属していないと言いながら今回、金品目当てに法華宗側に参加したこと、更に、
「宗論の場では発言せず、勝ち目になったらしゃしゃり出ようと待ち構えていたことは誠に卑劣な企み(『胸の弱き仕立』)で許せぬ」
として、普伝も首を刎ねられました。
一々指摘が細かいところは、佐久間信盛父子追放時の例を取っても信長の特徴の一つですね…(^_^;)

残った法華宗の僧たちに対して信長は、
「法華宗徒らは口の上手い連中だから、後になって宗論に“負けた”とは言わないだろう。浄土宗に宗派を変えるか、さもなくば宗論に負けた上は今後、他宗を誹謗しない旨を誓約書にして提出しろ」
と迫り、法華宗側は起請文を提出しました。

※後になって法華宗の僧らがこの時の起請文に『負』の字を用いたことを、
「他にも表現のしようがあったのに、これでは文字に弱い女子供でも末代まで簡単に知ってしまう、失敗した」
と後悔していると漏れ伝わり、人々が大笑いしたという後日譚もあるそうです。

さて、この安土宗論
判者を務めた因果居士の記録に拠れば、予め信長の意を受け、浄土宗側を勝たせるように仕組まれたものであったようです。
そして、「負け」に追い込まれた法華宗の僧らに対して信長が要求したことは;
「浄土宗に宗旨を変えるか、さもなくば今後は他宗を攻撃しない旨を誓約しろ」
というもの。つまり、今後はこのような宗論を仕掛けるな、と言っているのです。
そもそも安土宗論の発端も、法華宗徒が浄土宗の僧侶に宗論をけしかけ、信長が「事を荒立てるな」と言っているにも関わらず、法華宗側が従わなかったことが原因です。

戦国時代も後期になると、駿河の今川氏や甲斐武田氏なども分国法で禁じているように、大きな争い(天文法華の乱などがその好例)を引き起こしかねない宗論は是とはされていませんでした。
(後に伴天連追放令を発令する豊臣秀吉も、その理由の第一に「信仰の強制(日本古来の神仏への排撃)」を挙げています)

しかし法華宗は、開祖日蓮からして他宗を折伏しながら伝道したように、他宗を誤りと攻撃する宗論を教線拡大に利用してきました。
事を荒立てないよう言っているにも関わらず従おうとしない法華宗に対し、それならばと、この機会に法華宗のこうした攻撃的な性格を改めさせるため、この安土宗論の場を利用した、というのが信長の真意だったのではないでしょうか。
他宗と共存し、政権に対し反抗しない限りに於いては、彼はその信仰の一切を容認しています。

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そんな安土宗論の舞台、浄厳院。織田信長が天正7年5月27日のその日、間違いなく存在していた場所。来れて良かったです。


もう少し安土宗論の関連史跡を巡ります。

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浄厳院から車で少し移動した先。
広大な田畑の真ん中に、ポツンと取り残されるように木々が生い茂って藪化している区画がありました。

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そこにあったのは宗論の原因を作り、身分不相応にも騒動を巻き起こしたとして処刑された大脇伝介武部紹智両名の供養墓。

実はここ、信長の時代には処刑場だったと伝わる場所で、天正9年には信長が竹生島へ参詣して安土を留守にした際、「鬼の居ぬ間に」と言わんばかりに城下の桑実寺などへ出かけ、無断で城を空けた侍女たちが成敗されるという事件がありましたが、その処刑もこの場で行われたのだとか。
以来、地元では「この地の樹木を伐採すると良からぬことが起きる」として手を付けなくなったため、今でもこうして不自然に一区画だけ樹木が生い茂っているのだそうです。


更に、
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現在は近江八幡城下に建つ龍亀山西光寺
信長公記の中で、浄土宗側の一人『田中の貞安長老』と紹介されている聖誉貞安上人が信長より寺領を賜り、安土田中(正確な場所は不勉強につき不明)の地に開いたお寺です。後に豊臣秀次によって現在の近江八幡に移されました。

ただ、開基が天正8年とあるので安土宗論の一年後ということになります。或いは宗論の褒美として寺領を与えられたものか?そうなると、「信長公記」の安土宗論の時点で『田中の貞安長老』と表記されているのはどういうことになるのだろう?
既に『田中』に住んでいて後にその場所に寺領を賜ったのか、もしくは牛一が「信長公記」をまとめたのがリアルタイムじゃないから、時期を混同したものか…。

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こちらの本堂も立派です・・・

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境内には信長の供養塔も。
なんと、京都の阿弥陀寺から信長の遺歯を分けられて納められている、と伝わっているそうです。。。あくまでも、清玉上人によって信長の遺体が阿弥陀寺に埋葬されたという、阿弥陀寺の「由緒之記録」が真実だとすれば、ですが。
※「信長公阿弥陀寺由緒之記録」についてはコチラの記事をご参照ください。

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信長の時代からは場所が移っているとはいえ、とても所縁の深いお寺さんの一つです。

「信長公記」に数多く出てくるエピソードのうち、ほんの一つを取り上げただけでもこれだけ所縁の場所が存在する地・近江。
やっぱり羨ましいなぁ~☆

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2014年3月18日 (火)

織田信長公塚石 (伏見港公園駐車場)

方広寺を出た後は七条京阪から中書島へ移動。訪れた先は、、、

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伏見港公園です。
この地にはかつて港が築かれていて船運で栄えていましたが、陸運の発達と共に廃れて埋め立てられました。

と言っても、私の目的は公園ではなく・・・

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公園の駐車場にひっそりと佇むあちらの・・・

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織田信長公塚石
豊臣秀吉が伏見城に居城していた時、信長追慕のために祀ったと云う墓石なのだとか。先日、フォロワーさんが訪れてツイートしていたのを見かけたので足を運んでみました。

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いくら文字を彫っても消えてしまう不思議な石なのだそうです。

港が埋め立てられた後、この地はしばらく墓地になっていたそうです。
その後は畑となり、塚石も埋もれていましたが昭和30年に掘り起こされ、個人の方によって祀られています。以降、周辺の公園化の際や駐車場拡張の度に自治体から撤去や移動の話を持ち掛けられたものの断り続け、今でもこうして祀られ続けているのです。

正直なところ、本当に秀吉によって伏見に信長追慕の墓が建てられた事実があるのか、あったとしてもこの塚石が正しくそれであるという根拠は?、etc...
根拠や出典が不明で、とても真偽の程は定かではありません。

が、私は文献や史料にはない伝承にも何かしら伝わってきた理由があると思いますし、個人の方の努力でこうして祀られ、伝えてきていただいたことに敬意を表し、紹介させていただきました。

さて、一通りこの日に予定していた行程はこなしたので、宿を取っている近江八幡へ移動します。

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丸一年ぶりに降り立った近江八幡駅前☆ ホテルにチェックイン後、夜は地元のあっぴん。さんと駅前で待ち合わせして楽しいお酒をいただきました♪

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高台寺、方広寺

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京都、どすなぁ…♪ww

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さ、高台寺に到着です☆

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京の冬の旅で特別公開されている貴重な伽藍や品々を拝観いたします♪

まずは本堂である方丈で、上の写真右側の看板に出ている豊臣秀吉・高台院(おね)の木像を拝観(撮影不可。基本的に建物内は撮影不可です)
この木像、本来は御霊屋に納められていますが、修復が完了したのを記念して方丈に移して公開されています。
なんでも表面に微かに残っていた顔料を綿密に調べた上で、同じ塗料を用いて塗り直したそうです。その為、とても綺麗で真新しく見えます。

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さて、境内を散策します♪

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開山堂
こちらでは狩野派が描いたという「天井龍図」などを拝観。

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おねの墓所である御霊屋
須弥壇や厨子に用いられた高台寺蒔絵が荘厳で見事でした☆

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ちょっと高台に登って傘亭(手前)と時雨亭(奥)
共に千利休の意匠によるもので、伏見城からの移築。「時雨」に「傘」だなんて…風流ですな(笑)

そして慶長20年5月、大坂夏の陣で夫・秀吉と築いてきた豊臣家が滅びるその時、北政所(おね)はこの時雨亭の二階から大坂落城の様子を見ていたと云います。その胸に去来したものは果たして・・・。


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高台寺を出て、次の目的地までしばらく歩きます。

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訪れた先はこちら、方広寺。

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高台寺で大坂の陣のエピソードが出てきたからという訳でもないですが、訪れた目的は勿論こちらの鐘。

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この鐘に刻まれた銘文の一部、「国家安康」「君臣豊楽」。
・・・もはや有名過ぎて今更言わずもがな、ですね。

しかし、この鐘も銘文もこうしてそのまま残されているところを見ると、家康も特別怒っていた訳ではなく、開戦の口実として利用できればよかっただけなのかな、と思ってしまいますね…(^_^;)
普通であれば戦後、鋳潰されていても不思議じゃないのに。

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方広寺石塁

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方広寺の近くには、文禄・慶長の役で戦功の証に首級の代わりに送られた耳や鼻を埋めて供養した耳塚(鼻塚)も。
上に載っている五輪の石塔は、寛永2年の古絵図には既に同じ形状で描かれているそうです。

さて、今回の京都市内散策はここまで。
この後は少し移動します。

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2014年3月17日 (月)

祇園会所跡、御陵衛士屯所跡

京都市考古資料館を出た後は、京の冬の旅で御霊屋などを特別公開している高台寺を目指し、バスで一気に祇園まで移動します。

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祇園に到着~八坂さん♪

ここから高台寺までの道すがら、少し新選組関連のスポットにも通り掛かったので、まずはそちらからご紹介。

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八坂さんの前から祇園会所跡。正面のローソンがある位置です。

元治元年6月5日、御所襲撃を目論む過激派浪士の探索に出る前、新選組が会津藩と合流するために集結した場所。ところが会津藩の到着が遅れ、新選組はここから単独で探索に出ます。
そして・・・世に名高い「池田屋事件」が勃発するのです。

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高台寺月真院
新選組から分離した伊東甲子太郎率いる御陵衛士(高台寺党とも)が屯所を置いた場所です。
・・・そういえば先月、伊東らが新選組に殺害される「油小路の変」跡地巡りもしましたね。

さ、次は高台寺です☆

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「京都の戦国時代 -応仁の乱から本能寺の変まで-」

3月15日(土)、先月に引き続いての京都へ。

今回京都行きを思い立ったきっかけは、、、京都市考古資料館で開催されている特別展「京都の戦国時代 -応仁の乱から本能寺の変まで-」です♪
発掘された本能寺の焼け瓦や、織田信長が足利義昭のために建てた旧二条城の出土品も展示されているというではありませんか☆
これは何としても拝見しなくては!

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…という訳で早速やって参りました、京都市考古資料館(笑)

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展示品は撮影していないのでリーフレットからの転用になりますが、こちらの鬼瓦軒瓦を初めとした本能寺跡地から出土した遺物の数々は無論のこと、旧二条城の石垣に転用されていた石仏などの石材もあり、信長に関わりのある遺物は特に念入りに、しっかりとこの目に焼き付けてきました♪

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中にはこんな変わり種?も。御土居から出土したという、ポルトガル語が書かれた木簡(これは撮影可)☆
想像を逞しくすれば、或いは信長と接点のあった宣教師のフロイスやオルガンティーノといった連中の直筆、という可能性だってないわけじゃないもんね♪

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ところで、京都市考古資料館の前にあるバス停の名前・・・そう、この資料館は信長の遺骸を本能寺から運び出して埋葬したという伝承を持つ阿弥陀寺が、その本能寺の変当時に建っていたと推定されている区域の目の前にあります。。。
単なる偶然に過ぎませんが、不思議な符合にちょっと驚きました。

さ、ここからバスに乗って次へ移動します☆

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2014年3月 6日 (木)

富岡製糸場

先日(3/2)参加したバスツアー「北条氏の上州戦跡を歩く」では、富岡製糸場にも訪問しました。

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製糸場周辺の町並み・・・

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富岡製糸場
煉瓦の褐色が鮮やかです。

幕末~明治初期にかけて、日本の絹産業の中心は「桑の都」と呼ばれた八王子と、その周辺でした。
新選組絡みでご紹介した小野路の小島家や、日野の土方家(土方歳三実家)などでも養蚕を行っていたと云います。
諸外国との通商が開始されると、日本の最大輸出品目は生糸になりました。一大集積地である八王子から輸出貿易港である横浜へと生糸を運んだ道(神奈川往還)は「絹の道」と呼ばれ、現在でもその一部が八王子市の鑓水に残っています。

ところが輸出量が増えるにつれ、大量生産の煽りを受けて生糸の品質が悪化します。
外貨獲得のためにも安定的生産と品質の改善が急務となった明治政府は、最新の西洋式繰糸器械を導入した官営の製糸工場を設立します。
これが明治5年に誕生した富岡製糸場です。これにより、生糸は日本の輸出貿易高の50%以上を占めるようになった時期もあったそうです。

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木骨煉瓦造」という建築様式なのだそうです。和洋折衷、といったところかな?(笑)
明治5年といえばまさに文明開化の端緒。西洋化への過渡期に建造された様式として大変興味深いです。

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繰糸場にて。生糸の品質などに関するノルマが記されているそうです。
・・・ガイドさんの説明を真面目に聴いていなかったので、詳細は忘れましたが…(^_^;)

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ズラッと並ぶ繰糸器械。。。

ところで、敷地内にはこんな光景も。。。
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この2週間前の大雪で倒壊してしまったそうです。現在、世界遺産登録に向けて申請・審査中の富岡製糸場。こちらの建物は復元するのでしょうか…?
いずれにしても、決定は今年(平成26年)6月とのこと。果たして登録なるのか否か。

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富岡市のマンホール。

帰りがけ、製糸場前にあるお店で「絹シュウマイ」なるものを土産に購入しましたが、これがなかなかイケる!お肉たっぷりで美味しかったです☆

そうそう、「富岡」といえば先日訪れた館林での「サムライたちのメール」展で目にした;
滝川一益が富岡秀高に宛てて出した天正10年6月12日付書状
が記憶に新しい(詳しくはコチラですが、こんなところでも「神流川の戦い」に繋がりましたね♪

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神流川の戦い

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「神流川古戦場跡」の碑

神流川の戦い
天正10年6月、本能寺の変による織田信長の横死をきっかけに織田方の滝川一益(東国取次)と、それまで織田家とは協調関係にあった小田原の北条家との間で起きた戦い。
上野・武蔵国境の神流川(現在の埼玉県上里町周辺)を跨いで争われ、数に勝る北条家の勝利に終わり、一益は辛うじて本領の伊勢長島へと逃れていきました。
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戦場となった一帯の現在の地図。
広大な平野の広がる舞台で、戦国期を通じて最も規模の大きな野戦だったとも伝わります。
※先程の石碑は地図地点

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ツアーの時間も押して夕闇が迫る中、駆け足での古戦場巡りになりますが、一度来てみたかったので楽しみです♪

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まずは上の地図で右側に表示されている陽雲寺へ。
元々は満願寺といい、かの新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を建立したこともあると云うので、相当歴史のあるお寺です。
室町期には金窪城主・斎藤氏の帰依を受けていましたが、神流川の戦いに於いて一度焼失しました。
(陽雲寺に限らず、周辺には同様に“神流川の戦いで焼失した”という伝承を持つ寺社がいくつもあるそうです。このことからも、戦いが広範囲に渡って繰り広げられたことが分かります)

その後、この辺りの領主となった川窪信俊(武田信玄の甥)が再興し、寺号を自らの養母で信玄夫人であった陽雲院からとって陽雲寺としました。

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なので、お寺には武田信玄にも所縁の品々がいくつか残されているようです。
武田信玄の起請文なんて、ちょっと拝見してみたいですよね☆

本能寺の変報を受け、小田原の北条氏政は天正10年6月11日付で滝川一益に対し;
今後も変わらずに協調関係を継続したい
と伝えてきます。

ところが実際には、その翌日の12日には領国に動員令を発し、上州侵攻を開始するのです。
この侵攻の理由としては同年2月の甲州征伐時、一度は北条家が奪取した松井田城を一益に取り上げられたことや、上野各地の領有を巡って北条家に不利な裁定を下されたことに不満を募らせていたことなどが挙げられているようです。
まぁ何にしても関東制覇は北条家の宿願でしたからね。

こうした北条家の動きをいち早く察した一益は6月18日、上州から神流川を越えて北条方の金窪城を攻略します。これが神流川の戦いの初戦。

・・・そう、件の金窪城です。実は再興された現在の陽雲寺は、その金窪城の跡地(一部)に建っています。この辺り一帯には現在でも「金久保」の地名も残ります。
(寺の目の前には旧中山道が通っています)

今では普通にどこにでもありそうなお寺さんに見えますが、よ~く境内を観察すると、、、

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土塁が残っていたりします。

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こっちには土塁の下に堀の跡も☆

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こちらは変に造成してしまっていますが、これも土塁や堀の名残でしょう…一つ前の写真の堀や土塁のラインと繋がっていました。

まさに神流川の戦い、初戦が行われた地なのです!

初戦には勝利した滝川一益でしたが、翌19日になると態勢を整えた北条の大軍団が押し寄せます。
最終的な兵力は滝川軍18,000に対し、北条軍は50,000以上とも云われ、そこは広大な平野部での会戦。兵力の差は如何ともし難く、再び神流川を越えて撤退する滝川勢を包囲殲滅するように追う北条軍。。。
滝川方の将兵は次々に討たれていき、戦いの帰趨は北条側の大勝利に終わりました。
辛うじて戦場を脱した滝川一益は、最終的には碓氷峠を越えて本領である伊勢長島へと逃れていくのでした。

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地図地点の胴塚。
位置関係からしても、神流川北岸(上州側)でかなり熾烈な戦い(包囲殲滅戦?)が繰り広げられたであろうことが容易に想像できます。

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そして、同じく地点の首塚(首塚八幡宮)
或いは戦に勝利した北条軍によって、首実検が行われた地か・・・?

本当に主だったポイントのみの訪問ではありましたが、現在も神流川を挟んで広がる広大な大地を眺めていると、当時の雰囲気が充分に伝わってくる古戦場でした。

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ところで、、、首塚八幡宮の目の前にあったビニールハウスはご覧の有様。。。
いずれブログでもご紹介しますが、この日訪れた富岡製糸場で目にした倒壊建物といい、つくづく2月14~15日の大雪の被害の大きさを思い知らされました。。。

さ、これにてバスツアーも終了。
新宿帰着後、藤井先生も含めた数名での打ち上げに私も参加させて頂き、最後まで楽しいひと時を過ごしました♪
ありがとうございました☆

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2014年3月 5日 (水)

松井田城・磯部城・安中城

2014年3月2日(日)、藤井尚夫先生の もののふ戦国バスツアー15「北条氏の上州戦跡を歩く」に参加してきました。
私自身は昨年6月の三増合戦以来、2度目の参戦です☆

朝8:30、新宿駅西口に集合。まず初めに向かった先は、、、

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松井田城♪
上野と信濃の国境にあたる碓氷峠を押さえ、城の北には古代東山道、南には中山道が通る交通の要地に築かれています。
この地に初めて城が築かれた時期は不明ですが、永禄元年(1558)頃に在地領主である安中忠政が整備して居城としたようです。

安中忠政は翌永禄2年、松井田城の東方に安中城も築いて息子の忠成を入れるなどして防備を強化し、箕輪城の長野業正らと協力して武田信玄の西上野侵攻に対抗してきました。
しかし、その業正が永禄4年に亡くなると西上野の連合にも綻びが見え始め、遂には永禄7年、松井田城も武田軍の攻撃を受けて落城、忠政は戦死したとも降伏後に切腹させられたとも云われます。。。

その後暫くは武田家の支配下にあった松井田城ですが、天正10年(1582)の織田家による甲州征伐で武田家が滅びると、織田信長から関東の差配を任された滝川一益の管理下に入ります。
…が、それも束の間。同年6月に勃発した本能寺の変を契機として、関東制覇に野望を燃やす小田原北条家と滝川軍の間で起きた神流川の戦いを経て、以降は合戦に勝利した北条家の持ち城となり、重臣の大道寺政繁が入城します。
天正18年、豊臣秀吉による関東攻めで北条家が滅びると、松井田城もその役目を終えて廃城となりました。。。

今回の踏査は、現在地と書かれた地点から主郭群に向かって南下していきます。

※図面下に安中郭と見えますが、これが安中忠政が築いた当時の松井田城の主郭と思われ、その後、特に秀吉の関東侵攻に備えて増改築が施され、最終的に現在に遺構が残るこのような規模のお城になったと考えられています。

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地点の堀切。
この2週間前に降った大雪の残雪が深く、行く手を阻む・・・

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まずは水の手を目指します。

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水の手
土塁の下段は石積みで固められています。
そして土塁もご覧の通り、現在では写真中央(石積みの上)で切れていますが、本来は塞がっていて奥に水が貯められていました。

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水の手の石積み。かなり立派な石が使用されています。

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水の手から一旦引き返し、次は本丸を目指します。
途中、状態の良い横堀も残っていました。

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大手門跡の石積み。(図地点)

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本丸から二の丸を望む。
間にはとても規模の大きな堀切が横たわります。

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そして最後に二の丸から。
眼下には図にも描かれた連続空堀が広がります。是非とも行ってみたいところですが、、、ご覧の残雪で断念。

この日は安中郭や連続竪堀なども残雪で断念したので、是非ともコンディションの良い時に再訪したいお城ですね☆


本当はこの後、昼食を挟んで富岡製糸場へ行ったのですが、そちらは別の機会(記事)にご紹介するとして、お次は、、、


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磯部城を攻めます☆

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実はこの磯部城、誰がいつ頃築いたものか定かではありません。
遺構がとてもテクニカルなので「北条家の手によるものではないか」という見方が強いようですが、武田家が上州侵攻の拠点として築いた可能性もあるそうです。
現地案内板も武田家の築城と紹介していました。

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三の丸への虎口

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三の丸。雪、ですねぇ・・・(遠い目)

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馬出し。
「双馬出し」と紹介されていますが、どの辺りがなのか、、、遺構を見ても私にはサッパリ…(^_^;)

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本丸は笹薮に埋もれる・・・

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本丸の搦手虎口。
それほど登った感覚はありませんでしたが、結構な高低差。

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二の丸東面には立派な土塁が。
物見平とありますが、物見櫓でも建っていたのかもしれません。(図地点)

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同じ土塁続きに南へ目を向けると、こちらにも櫓台跡。

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そして、この土塁の外(東)側には立派な横堀も♪

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城内側に目を向ければ、二の丸越しに本丸まで。
山城跡のこういった造形、好きですねぇ…♪

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磯部城、最後の1枚は本丸下の横堀。これもなかなかの規模ですね。(図地点)


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さてさて、本日3城めは安中城☆

冒頭でも少し触れましたが、安中忠政が永禄2年に築城したのが始まり。
北に九十九川、南を碓氷川に挟まれた河岸段丘上に築かれた城郭です。江戸期には安中藩が置かれていました。

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という訳で、安中藩下級武士の四軒長屋。
近くには郡奉行役宅もありますが、この日は改修中で見学できませんでした。

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天井高い~

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無論この中は、、、

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台所の流し(笑)

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雨戸2枚に障子1枚の構成。つまり常にどちらか一方は雨戸で塞がれている状態になります。
藤井先生曰く、これは中世と同じ造りなのだそうです。

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近くにある旧碓氷郡役所跡では、安中藩出身の新島襄と妻・八重(子)の展示も。
まだ大河ドラマ「八重の桜」放映終了から僅か2ヶ月だというのに…人っ子一人いなかった…(^_^;)

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襄といえば、キリスト教だもんね。

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この辺りが安中城の大手門跡。
(図地点)

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おっと、安中市のマンホール(笑)

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地点のものと思しきクランクを抜けて、更に北上、、、

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少し左(西)に目を向けると本丸方面。
あの先に見えている学校の辺りが本丸跡ですが、少し地形が高くなっている様子が分かります。

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太郎兵衛曲輪を望む。。。(図地点)

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太郎兵衛曲輪との間に走る道路も実は堀跡。その先には九十九川も見えています。
この写真でようやく、安中城が河岸段丘上に築かれていたお城だったってこと、お分かりいただけたかな?(笑)

松井田城や磯部城などの山城と違い、市街地化が進んで遺構を探すのも大変ですが、こうしてよ~く観ていくと街の至る所に痕跡があり、こういったものを探していくのも結構楽しいですよ♪

さて、この後はいよいよ神流川の戦い跡地を巡ります。

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2014年3月 1日 (土)

増上寺 徳川将軍家墓所に参拝

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港区芝大門にある増上寺へ行ってきました。

今回の目当てはこちら・・・

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そう、徳川将軍家墓所の特別拝観です!
平成26年になり、個人向けにも土・日・祝日に限って特別公開されています。
(~平成26年12月28日まで。10名以上の団体は予約制で常時公開)

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それでは早速♪

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こちらには;

二代   秀忠公夫妻
六代   家宣公夫妻
七代   家継公
九代   家重公
十二代  家慶公
十四代  家茂公
皇女和宮(家茂正室)
将軍生母・側室らの合祀塔

といった方々が祀られてます。
本当は国宝指定されていたもっと立派な御霊屋があったのですが、第2次大戦の空襲で焼失してしまいました。。。
(現在の墓所は改葬)

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500円の拝観料を払うと、ご覧の3点セットを頂けます♪
特に「絵葉書」と書かれた封筒に入った中身が凄かった・・・

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明治後期に描かれた増上寺の境内図の他、焼失した御霊屋をはじめとした境内古写真の絵葉書が10枚も☆

期間は年末までありますし、歴史にご興味をお持ちの方は足を運んでみてはいかがでしょうか♪

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