2014年3月2日(日)、藤井尚夫先生の もののふ戦国バスツアー15「北条氏の上州戦跡を歩く」に参加してきました。
私自身は昨年6月の三増合戦以来、2度目の参戦です☆
朝8:30、新宿駅西口に集合。まず初めに向かった先は、、、
松井田城♪
上野と信濃の国境にあたる碓氷峠を押さえ、城の北には古代東山道、南には中山道が通る交通の要地に築かれています。
この地に初めて城が築かれた時期は不明ですが、永禄元年(1558)頃に在地領主である安中忠政が整備して居城としたようです。
安中忠政は翌永禄2年、松井田城の東方に
安中城も築いて息子の忠成を入れるなどして防備を強化し、箕輪城の長野業正らと協力して武田信玄の西上野侵攻に対抗してきました。
しかし、その業正が永禄4年に亡くなると西上野の連合にも綻びが見え始め、遂には永禄7年、松井田城も武田軍の攻撃を受けて落城、忠政は戦死したとも降伏後に切腹させられたとも云われます。。。
その後暫くは武田家の支配下にあった松井田城ですが、天正10年(1582)の織田家による甲州征伐で武田家が滅びると、織田信長から関東の差配を任された
滝川一益の管理下に入ります。
…が、それも束の間。同年6月に勃発した本能寺の変を契機として、関東制覇に野望を燃やす小田原北条家と滝川軍の間で起きた
神流川の戦いを経て、以降は合戦に勝利した北条家の持ち城となり、重臣の大道寺政繁が入城します。
天正18年、豊臣秀吉による関東攻めで北条家が滅びると、松井田城もその役目を終えて廃城となりました。。。
今回の踏査は、
現在地と書かれた地点から主郭群に向かって南下していきます。
※図面下に
安中郭と見えますが、これが安中忠政が築いた当時の松井田城の主郭と思われ、その後、特に秀吉の関東侵攻に備えて増改築が施され、最終的に現在に遺構が残るこのような規模のお城になったと考えられています。
①地点の堀切。
この2週間前に降った大雪の残雪が深く、行く手を阻む・・・
まずは
水の手を目指します。
水の手
土塁の下段は石積みで固められています。
そして土塁もご覧の通り、現在では写真中央(石積みの上)で切れていますが、本来は塞がっていて奥に水が貯められていました。
水の手の石積み。かなり立派な石が使用されています。
水の手から一旦引き返し、次は本丸を目指します。
途中、状態の良い横堀も残っていました。
大手門跡の石積み。(図
②地点)
本丸から二の丸を望む。
間にはとても規模の大きな堀切が横たわります。
そして最後に
二の丸から。
眼下には図にも描かれた
連続空堀が広がります。是非とも行ってみたいところですが、、、ご覧の残雪で断念。
この日は安中郭や
連続竪堀なども残雪で断念したので、是非ともコンディションの良い時に再訪したいお城ですね☆
本当はこの後、昼食を挟んで富岡製糸場へ行ったのですが、そちらは別の機会(記事)にご紹介するとして、お次は、、、
磯部城を攻めます☆
実はこの磯部城、誰がいつ頃築いたものか定かではありません。
遺構がとても
テクニカルなので「北条家の手によるものではないか」という見方が強いようですが、武田家が
上州侵攻の拠点として築いた可能性もあるそうです。
現地案内板も武田家の築城と紹介していました。
三の丸への虎口
三の丸。雪、ですねぇ・・・(遠い目)
馬出し。
「双馬出し」と紹介されていますが、どの辺りが
双なのか、、、遺構を見ても私にはサッパリ…(^_^;)
本丸は笹薮に埋もれる・・・
本丸の搦手虎口。
それほど登った感覚はありませんでしたが、結構な高低差。
二の丸東面には立派な土塁が。
物見平とありますが、物見櫓でも建っていたのかもしれません。(図
①地点)
同じ土塁続きに南へ目を向けると、こちらにも櫓台跡。
そして、この土塁の外(東)側には立派な横堀も♪
城内側に目を向ければ、二の丸越しに本丸まで。
山城跡のこういった造形、好きですねぇ…♪
磯部城、最後の1枚は本丸下の横堀。これもなかなかの規模ですね。(図
②地点)
さてさて、本日3城めは安中城☆
冒頭でも少し触れましたが、安中忠政が永禄2年に築城したのが始まり。
北に九十九川、南を碓氷川に挟まれた河岸段丘上に築かれた城郭です。江戸期には安中藩が置かれていました。
という訳で、安中藩下級武士の四軒長屋。
近くには郡奉行役宅もありますが、この日は改修中で見学できませんでした。
天井高い~
無論この中は、、、
台所の流し(笑)
雨戸2枚に障子1枚の構成。つまり常にどちらか一方は雨戸で塞がれている状態になります。
藤井先生曰く、これは
中世と同じ造りなのだそうです。
近くにある旧碓氷郡役所跡では、安中藩出身の新島襄と妻・八重(子)の展示も。
まだ大河ドラマ「八重の桜」放映終了から僅か2ヶ月だというのに…人っ子一人いなかった…(^_^;)
襄といえば、キリスト教だもんね。
この辺りが安中城の大手門跡。
(図
①地点)
おっと、安中市のマンホール(笑)
図
②地点のものと思しきクランクを抜けて、更に北上、、、
少し左(西)に目を向けると本丸方面。
あの先に見えている学校の辺りが
本丸跡ですが、少し
地形が高くなっている様子が分かります。
太郎兵衛曲輪を望む。。。(図
③地点)
太郎兵衛曲輪との間に走る道路も実は堀跡。その先には九十九川も見えています。
この写真でようやく、安中城が河岸段丘上に築かれていたお城だったってこと、お分かりいただけたかな?(笑)
松井田城や磯部城などの山城と違い、市街地化が進んで遺構を探すのも大変ですが、こうしてよ~く観ていくと街の至る所に痕跡があり、こういったものを探していくのも結構楽しいですよ♪
さて、この後はいよいよ
神流川の戦い跡地を巡ります。