「安土宗論」をめぐる
旅の2日目、近江八幡で迎える朝。
ホテル最上階のレストランで近江八幡城の城山を眺めながらの朝食☆
そして午前9時、フォロワーのあっぴん。さん&ゆっきーと合流して出発。
まず向かった先は、、、
安土の浄厳院
近江守護・佐々木氏の菩提寺だった慈恩寺の跡地に、織田信長が新たに慈恩寺浄厳院として開基させたお寺です。現在も周辺の字名は「慈恩寺」で、近江八幡にも町名が移って「慈恩寺町」があります。
写真の楼門は、佐々木氏の菩提寺だった慈恩寺の楼門として残っていたものの現存です。
しかしそれより何よりも、安土宗論の舞台として有名ですね、浄厳院は。
安土宗論
天正7年(1579)5月中旬、関東から来た浄土宗の霊誉玉念という僧が安土の町中で説法をしているところへ、法華宗徒の建部紹智と大脇伝介が問答をけしかけます。
ところが玉念は、
「あなたたちに説いても、若いから仏法の奥深さを理解できないでしょう。法華宗のそれなりのお坊様を連れてくれば返答しましょう」
と言って取り合いません。
それならば法華宗の僧侶を連れてきて宗論をしよう、ということになり、
『京都より長命寺日光、常光院、九音院、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋弟坊主妙国寺不伝、歴ゝの僧衆、都鄙の僧俗、安土へ群れ集まり候。』
(「信長公記 巻十二 法花・浄土宗論の事」より)
※堺の妙国寺は大蘇鉄で有名ですね。蘇鉄のエピソードには前出の日珖上人『長命寺日光』も出てきます。→過去記事
この件はすぐに信長の耳にも達し、
「当家にも法華衆徒が大勢おり、信長が取り計らうから事を荒立てないように」
と通達します。
ところが浄土宗側は素直に仰せに従う姿勢を見せたものの、法華宗側は納得しません。
『左候はゞ、判者を仰せ付けらるべく候間、書付を以て勝負を御目に懸け候へ』
と命じ、日野の『秀長老』(南禅寺景秀鉄叟)と因果居士の2人を判者として添え、浄土宗側からは霊誉玉念の他、『田中の貞安長老』(西光寺聖誉貞安)も参加して5月27日、
『安土町末、浄土宗の寺浄厳院仏殿にて、宗論あり。寺中御警固として、織田七兵衛信澄、菅屋九右衛門、矢部善七郎、堀久太郎、長谷川竹、五人仰せ付けらる。』
となりました。派遣された5名の名前を見ても、結構大ごとになっているのが分かりますね。
浄厳院本堂と、奥に鐘楼。
白梅も綺麗に咲いていました♪
宗論の経過は長くなるので省略しますが結果は浄土宗側の勝ちとされ、法華宗側の僧侶たちはその場で見物人たちに袈裟を剥ぎ取られてしまいます。
『書付』を以て報告を受けた信長は時を移さず、すぐに浄厳院へ出向きます。
浄厳院境内から見た安土城。信長が駆け付けた距離。
安土はマンホールも素敵♪
信長は浄厳院に着くと浄土宗の玉念・貞安には褒美を取らせ、判者を務めた2人を労った上で、初めに問答をけしかけて宗論の原因を作った大脇伝介に対し、
「霊誉玉念の宿を引き受けながら、その応援をするどころか問答をけしかけ、身分不相応にも安土内外に騒動を引き起こしたこと、不届きである」
として首を刎ねました。
※建部紹智は逃げ出しましたが、後日捕まって処刑されています。
更に妙国寺の普伝(『不伝』)を召し出し、着古したまがい物の小袖などを御加護がある(『結縁』=仏の縁を結ぶ)と言って人々に取らせて得意顔になっている、などの、近衛前久から聞いていた普伝の行状を問い質しました。
そして、いずれの宗派にも属していないと言いながら今回、金品目当てに法華宗側に参加したこと、更に、
「宗論の場では発言せず、勝ち目になったらしゃしゃり出ようと待ち構えていたことは誠に卑劣な企み(『胸の弱き仕立』)で許せぬ」
として、普伝も首を刎ねられました。
一々指摘が細かいところは、佐久間信盛父子追放時の例を取っても信長の特徴の一つですね…(^_^;)
残った法華宗の僧たちに対して信長は、
「法華宗徒らは口の上手い連中だから、後になって宗論に“負けた”とは言わないだろう。浄土宗に宗派を変えるか、さもなくば宗論に負けた上は今後、他宗を誹謗しない旨を誓約書にして提出しろ」
と迫り、法華宗側は起請文を提出しました。
※後になって法華宗の僧らがこの時の起請文に『負』の字を用いたことを、
「他にも表現のしようがあったのに、これでは文字に弱い女子供でも末代まで簡単に知ってしまう、失敗した」
と後悔していると漏れ伝わり、人々が大笑いしたという後日譚もあるそうです。
さて、この安土宗論。
判者を務めた因果居士の記録に拠れば、予め信長の意を受け、浄土宗側を勝たせるように仕組まれたものであったようです。
※堺の妙国寺は大蘇鉄で有名ですね。蘇鉄のエピソードには前出の日珖上人『長命寺日光』も出てきます。→過去記事
この件はすぐに信長の耳にも達し、
「当家にも法華衆徒が大勢おり、信長が取り計らうから事を荒立てないように」
と通達します。
ところが浄土宗側は素直に仰せに従う姿勢を見せたものの、法華宗側は納得しません。
『左候はゞ、判者を仰せ付けらるべく候間、書付を以て勝負を御目に懸け候へ』
と命じ、日野の『秀長老』(南禅寺景秀鉄叟)と因果居士の2人を判者として添え、浄土宗側からは霊誉玉念の他、『田中の貞安長老』(西光寺聖誉貞安)も参加して5月27日、
『安土町末、浄土宗の寺浄厳院仏殿にて、宗論あり。寺中御警固として、織田七兵衛信澄、菅屋九右衛門、矢部善七郎、堀久太郎、長谷川竹、五人仰せ付けらる。』
となりました。派遣された5名の名前を見ても、結構大ごとになっているのが分かりますね。
浄厳院本堂と、奥に鐘楼。
白梅も綺麗に咲いていました♪
宗論の経過は長くなるので省略しますが結果は浄土宗側の勝ちとされ、法華宗側の僧侶たちはその場で見物人たちに袈裟を剥ぎ取られてしまいます。
『書付』を以て報告を受けた信長は時を移さず、すぐに浄厳院へ出向きます。
浄厳院境内から見た安土城。信長が駆け付けた距離。
安土はマンホールも素敵♪
信長は浄厳院に着くと浄土宗の玉念・貞安には褒美を取らせ、判者を務めた2人を労った上で、初めに問答をけしかけて宗論の原因を作った大脇伝介に対し、
「霊誉玉念の宿を引き受けながら、その応援をするどころか問答をけしかけ、身分不相応にも安土内外に騒動を引き起こしたこと、不届きである」
として首を刎ねました。
※建部紹智は逃げ出しましたが、後日捕まって処刑されています。
更に妙国寺の普伝(『不伝』)を召し出し、着古したまがい物の小袖などを御加護がある(『結縁』=仏の縁を結ぶ)と言って人々に取らせて得意顔になっている、などの、近衛前久から聞いていた普伝の行状を問い質しました。
そして、いずれの宗派にも属していないと言いながら今回、金品目当てに法華宗側に参加したこと、更に、
「宗論の場では発言せず、勝ち目になったらしゃしゃり出ようと待ち構えていたことは誠に卑劣な企み(『胸の弱き仕立』)で許せぬ」
として、普伝も首を刎ねられました。
一々指摘が細かいところは、佐久間信盛父子追放時の例を取っても信長の特徴の一つですね…(^_^;)
残った法華宗の僧たちに対して信長は、
「法華宗徒らは口の上手い連中だから、後になって宗論に“負けた”とは言わないだろう。浄土宗に宗派を変えるか、さもなくば宗論に負けた上は今後、他宗を誹謗しない旨を誓約書にして提出しろ」
と迫り、法華宗側は起請文を提出しました。
※後になって法華宗の僧らがこの時の起請文に『負』の字を用いたことを、
「他にも表現のしようがあったのに、これでは文字に弱い女子供でも末代まで簡単に知ってしまう、失敗した」
と後悔していると漏れ伝わり、人々が大笑いしたという後日譚もあるそうです。
さて、この安土宗論。
判者を務めた因果居士の記録に拠れば、予め信長の意を受け、浄土宗側を勝たせるように仕組まれたものであったようです。
そして、「負け」に追い込まれた法華宗の僧らに対して信長が要求したことは;
「浄土宗に宗旨を変えるか、さもなくば今後は他宗を攻撃しない旨を誓約しろ」
というもの。つまり、今後はこのような宗論を仕掛けるな、と言っているのです。
そもそも安土宗論の発端も、法華宗徒が浄土宗の僧侶に宗論をけしかけ、信長が「事を荒立てるな」と言っているにも関わらず、法華宗側が従わなかったことが原因です。
戦国時代も後期になると、駿河の今川氏や甲斐武田氏なども分国法で禁じているように、大きな争い(天文法華の乱などがその好例)を引き起こしかねない宗論は是とはされていませんでした。
(後に伴天連追放令を発令する豊臣秀吉も、その理由の第一に「信仰の強制(日本古来の神仏への排撃)」を挙げています)
しかし法華宗は、開祖日蓮からして他宗を折伏しながら伝道したように、他宗を誤りと攻撃する宗論を教線拡大に利用してきました。
事を荒立てないよう言っているにも関わらず従おうとしない法華宗に対し、それならばと、この機会に法華宗のこうした攻撃的な性格を改めさせるため、この安土宗論の場を利用した、というのが信長の真意だったのではないでしょうか。
他宗と共存し、政権に対し反抗しない限りに於いては、彼はその信仰の一切を容認しています。
そんな安土宗論の舞台、浄厳院。織田信長が天正7年5月27日のその日、間違いなく存在していた場所。来れて良かったです。
もう少し安土宗論の関連史跡を巡ります。
浄厳院から車で少し移動した先。
広大な田畑の真ん中に、ポツンと取り残されるように木々が生い茂って藪化している区画がありました。
そこにあったのは宗論の原因を作り、身分不相応にも騒動を巻き起こしたとして処刑された大脇伝介・武部紹智両名の供養墓。
実はここ、信長の時代には処刑場だったと伝わる場所で、天正9年には信長が竹生島へ参詣して安土を留守にした際、「鬼の居ぬ間に」と言わんばかりに城下の桑実寺などへ出かけ、無断で城を空けた侍女たちが成敗されるという事件がありましたが、その処刑もこの場で行われたのだとか。
以来、地元では「この地の樹木を伐採すると良からぬことが起きる」として手を付けなくなったため、今でもこうして不自然に一区画だけ樹木が生い茂っているのだそうです。
更に、
現在は近江八幡城下に建つ龍亀山西光寺。
信長公記の中で、浄土宗側の一人『田中の貞安長老』と紹介されている聖誉貞安上人が信長より寺領を賜り、安土田中(正確な場所は不勉強につき不明)の地に開いたお寺です。後に豊臣秀次によって現在の近江八幡に移されました。
ただ、開基が天正8年とあるので安土宗論の一年後ということになります。或いは宗論の褒美として寺領を与えられたものか?そうなると、「信長公記」の安土宗論の時点で『田中の貞安長老』と表記されているのはどういうことになるのだろう?
既に『田中』に住んでいて後にその場所に寺領を賜ったのか、もしくは牛一が「信長公記」をまとめたのがリアルタイムじゃないから、時期を混同したものか…。
こちらの本堂も立派です・・・
境内には信長の供養塔も。
なんと、京都の阿弥陀寺から信長の遺歯を分けられて納められている、と伝わっているそうです。。。あくまでも、清玉上人によって信長の遺体が阿弥陀寺に埋葬されたという、阿弥陀寺の「由緒之記録」が真実だとすれば、ですが。
※「信長公阿弥陀寺由緒之記録」についてはコチラの記事をご参照ください。
信長の時代からは場所が移っているとはいえ、とても所縁の深いお寺さんの一つです。
「信長公記」に数多く出てくるエピソードのうち、ほんの一つを取り上げただけでもこれだけ所縁の場所が存在する地・近江。
やっぱり羨ましいなぁ~☆
「浄土宗に宗旨を変えるか、さもなくば今後は他宗を攻撃しない旨を誓約しろ」
というもの。つまり、今後はこのような宗論を仕掛けるな、と言っているのです。
そもそも安土宗論の発端も、法華宗徒が浄土宗の僧侶に宗論をけしかけ、信長が「事を荒立てるな」と言っているにも関わらず、法華宗側が従わなかったことが原因です。
戦国時代も後期になると、駿河の今川氏や甲斐武田氏なども分国法で禁じているように、大きな争い(天文法華の乱などがその好例)を引き起こしかねない宗論は是とはされていませんでした。
(後に伴天連追放令を発令する豊臣秀吉も、その理由の第一に「信仰の強制(日本古来の神仏への排撃)」を挙げています)
しかし法華宗は、開祖日蓮からして他宗を折伏しながら伝道したように、他宗を誤りと攻撃する宗論を教線拡大に利用してきました。
事を荒立てないよう言っているにも関わらず従おうとしない法華宗に対し、それならばと、この機会に法華宗のこうした攻撃的な性格を改めさせるため、この安土宗論の場を利用した、というのが信長の真意だったのではないでしょうか。
他宗と共存し、政権に対し反抗しない限りに於いては、彼はその信仰の一切を容認しています。
そんな安土宗論の舞台、浄厳院。織田信長が天正7年5月27日のその日、間違いなく存在していた場所。来れて良かったです。
もう少し安土宗論の関連史跡を巡ります。
浄厳院から車で少し移動した先。
広大な田畑の真ん中に、ポツンと取り残されるように木々が生い茂って藪化している区画がありました。
そこにあったのは宗論の原因を作り、身分不相応にも騒動を巻き起こしたとして処刑された大脇伝介・武部紹智両名の供養墓。
実はここ、信長の時代には処刑場だったと伝わる場所で、天正9年には信長が竹生島へ参詣して安土を留守にした際、「鬼の居ぬ間に」と言わんばかりに城下の桑実寺などへ出かけ、無断で城を空けた侍女たちが成敗されるという事件がありましたが、その処刑もこの場で行われたのだとか。
以来、地元では「この地の樹木を伐採すると良からぬことが起きる」として手を付けなくなったため、今でもこうして不自然に一区画だけ樹木が生い茂っているのだそうです。
更に、
現在は近江八幡城下に建つ龍亀山西光寺。
信長公記の中で、浄土宗側の一人『田中の貞安長老』と紹介されている聖誉貞安上人が信長より寺領を賜り、安土田中(正確な場所は不勉強につき不明)の地に開いたお寺です。後に豊臣秀次によって現在の近江八幡に移されました。
ただ、開基が天正8年とあるので安土宗論の一年後ということになります。或いは宗論の褒美として寺領を与えられたものか?そうなると、「信長公記」の安土宗論の時点で『田中の貞安長老』と表記されているのはどういうことになるのだろう?
既に『田中』に住んでいて後にその場所に寺領を賜ったのか、もしくは牛一が「信長公記」をまとめたのがリアルタイムじゃないから、時期を混同したものか…。
こちらの本堂も立派です・・・
境内には信長の供養塔も。
なんと、京都の阿弥陀寺から信長の遺歯を分けられて納められている、と伝わっているそうです。。。あくまでも、清玉上人によって信長の遺体が阿弥陀寺に埋葬されたという、阿弥陀寺の「由緒之記録」が真実だとすれば、ですが。
※「信長公阿弥陀寺由緒之記録」についてはコチラの記事をご参照ください。
信長の時代からは場所が移っているとはいえ、とても所縁の深いお寺さんの一つです。
「信長公記」に数多く出てくるエピソードのうち、ほんの一つを取り上げただけでもこれだけ所縁の場所が存在する地・近江。
やっぱり羨ましいなぁ~☆
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