東海道品川宿 「釜屋」跡
今回はブラッと京急線で青物横丁へ。
駅のすぐ東側を通るこの道、電柱にも書かれてある通り旧東海道です。
この付近一帯にはかつて、東海道五十三次の一つで第一宿の品川宿がありました。
以下、現地説明版より。
『この地はもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちは、ここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大へん繁盛したので、のちには「本陣」とよばれたりしました。
幕末動乱の世情を反映して慶応三年(一八六七)には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。長井(ママ)尚志(若年寄格)をはじめ、奉行、代官、歩兵隊々長他、旗本達が数多く利用しました。
有名な新選組副長土方歳三も、隊志(ママ)を連れて、慶応三年十月二十一日に休息して
います。
また、慶応四年一月(一八六八)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組隊志(ママ)たちは、同月十五日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。
今から百二十余年前(注:平成8年時点)を偲びつつ、ここに記す次第です。』
今となっては跡形もありませんが…間違いなく、土方歳三や新選組隊士たちも滞在した場所。実際に;
「慶応三年卯十月廿一日登(上)新撰組土方歳三御家族 門人共上下三十一人(休)釜屋 半右衛門九貫三百文」
という記録も残っているそうです。
ちょうどこの頃、土方は井上源三郎らと共に隊士募集で江戸に下っていたようなので、「
門人共上下三十一人」とは新規に集められた隊士たちでしょうね。
ちなみに慶応3年の10月といえば、大政奉還が決定された月です。
釜屋跡の脇には「保土ヶ谷の松」
宿場のシンボルでもあった「街道松」再生のため、同じ東海道の宿場だった保土ヶ谷宿から寄贈されたものです。
他にも袋井や三島、浜松などから寄贈された松が植えられています。
釜屋跡の斜め向かいには、空海が開山したと云う品川寺(ほんせんじ)があります。
ここに街道が通っていたことを示すかのように、品川寺境内には庚申塚や道祖神が。
そして、推定樹齢600年という銀杏。
きっと土方さんや新選組隊士の面々も釜屋の窓から見上げていたことでしょうねぇ…♪
青物横丁駅に戻ると、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次 品川」もありました。
当時は品川宿のすぐ裏まで海岸線が迫っていたのですね☆釜屋のすぐ裏は海だったのかぁ…♪
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