箱根山崎の戦い ―伊庭八郎 受難の地―
今回は幕末戊辰戦争の一つ、箱根山崎の戦いが繰り広げられた古戦地を巡ります。
その前に、ちょっと所用があったので小田原で途中下車。
…早雲さんが兜被って陣羽織をお召しになってる!?
箱根山崎の戦い
慶応4年(1868)5月、箱根関所を廻る一連の争いの過程で倒幕→佐幕→倒幕と再三掌を返した小田原藩との最終的な交渉決裂を受け、遊撃隊を率いる林忠崇(元 上総請西藩主。藩主ながらに脱藩した「脱藩藩主」)、人見勝太郎、そして伊庭八郎らは協議の末、小田原からの敵の進軍に備えて湯本の台の茶屋を本陣と定め、人見の第一軍と伊庭の第二軍は更に東、小田原寄りの山崎に布陣することにしました。
※人見はこの後、旧幕府海軍を率いる榎本武揚の元へ援軍要請に向かったようなので、必然的に遊撃隊の指揮は第一軍・二軍とも伊庭が執ることになります。
そこへ5月26日正午頃、小田原藩兵を先陣とした新政府軍が(旧)東海道沿いの風祭まで進軍してきます。
その前に、ちょっと所用があったので小田原で途中下車。
…早雲さんが兜被って陣羽織をお召しになってる!?
箱根山崎の戦い
慶応4年(1868)5月、箱根関所を廻る一連の争いの過程で倒幕→佐幕→倒幕と再三掌を返した小田原藩との最終的な交渉決裂を受け、遊撃隊を率いる林忠崇(元 上総請西藩主。藩主ながらに脱藩した「脱藩藩主」)、人見勝太郎、そして伊庭八郎らは協議の末、小田原からの敵の進軍に備えて湯本の台の茶屋を本陣と定め、人見の第一軍と伊庭の第二軍は更に東、小田原寄りの山崎に布陣することにしました。
※人見はこの後、旧幕府海軍を率いる榎本武揚の元へ援軍要請に向かったようなので、必然的に遊撃隊の指揮は第一軍・二軍とも伊庭が執ることになります。
そこへ5月26日正午頃、小田原藩兵を先陣とした新政府軍が(旧)東海道沿いの風祭まで進軍してきます。
小田原から箱根登山鉄道で2駅の「風祭」駅。そう、新政府軍が着陣した場所です。
今回はここから旧東海道を湯本方面に向かって歩くことにします。
雰囲気のある旧東海道をてくてく・・・
左(南)に目を向けると、豊臣秀吉が後北条家の小田原城包囲の為に築いた石垣山城の山容が迫ってきます♪
とってもいい陽気に恵まれました☆
更にてくてくてく・・・
「入生田」駅付近から東を振り返って。
新政府軍の風祭着陣を知った伊庭八郎は、この入生田辺りまで物見を出したと云います。
入生田地区にはこんなお寺もありました。長興山・紹太寺。
小田原城主だった老中・稲葉正則の開基で、稲葉一族や正則の祖母・春日局の墓所があるそうです。
旧街道にはやっぱり欠かせないですよね♪
本当にいい味出してます☆
景色に見とれてボサーッと歩いていたら…ウオッ!?・・・マジか(^_^;)
箱根登山鉄道と交差する旧東海道。
当然のことながら箱根に向かってダラダラと上り坂が続きます。この地形が古戦場踏査としては重要!
一旦新道(国道1号)に合流し、、、
すぐにまた分かれ、、、
更に西へ進み、遊撃隊が布陣した山崎から登ってきた東の方角を・・・
遊撃隊はこの付近に土嚢などを積んで街道を封鎖し、それを胸壁として新政府軍を待ち受けました。
今回はここから旧東海道を湯本方面に向かって歩くことにします。
雰囲気のある旧東海道をてくてく・・・
左(南)に目を向けると、豊臣秀吉が後北条家の小田原城包囲の為に築いた石垣山城の山容が迫ってきます♪
とってもいい陽気に恵まれました☆
更にてくてくてく・・・
「入生田」駅付近から東を振り返って。
新政府軍の風祭着陣を知った伊庭八郎は、この入生田辺りまで物見を出したと云います。
入生田地区にはこんなお寺もありました。長興山・紹太寺。
小田原城主だった老中・稲葉正則の開基で、稲葉一族や正則の祖母・春日局の墓所があるそうです。
旧街道にはやっぱり欠かせないですよね♪
本当にいい味出してます☆
景色に見とれてボサーッと歩いていたら…ウオッ!?・・・マジか(^_^;)
箱根登山鉄道と交差する旧東海道。
当然のことながら箱根に向かってダラダラと上り坂が続きます。この地形が古戦場踏査としては重要!
一旦新道(国道1号)に合流し、、、
すぐにまた分かれ、、、
更に西へ進み、遊撃隊が布陣した山崎から登ってきた東の方角を・・・
遊撃隊はこの付近に土嚢などを積んで街道を封鎖し、それを胸壁として新政府軍を待ち受けました。
山崎一帯の街道沿いで、この写真のポイントが一番東側との高低差が大きかったので、恐らくはこの辺りではないかと…。
そして、風祭から前進してきた新政府軍とまさにこの地で、激戦が繰り広げられたのです。
それを証明するかのように、近くには「山崎ノ古戦場跡」の石碑がある筈、でしたが、、、何故か見当たらない…(;´・ω・)?
近くで工事が行われていたので嫌な予感はしたのですが、立っていた警備員のオッチャンに聞いてみると案の定、工事期間中は資材置き場に移動していて見れないとのこと…(>_<)
工事が終われば元の位置に戻すそうですが・・・( ´・ω・`)
気を取り直して・・・
先陣の小田原藩兵との戦いは戦意に勝る遊撃隊が、地形の利も活かして優位に進めたものの、後方に控えていた新政府軍が参戦すると徐々に包囲され始め、伊庭八郎らは三枚橋方向を指して撤退していきます。
山崎から歩くこと7~8分ほどで…三枚橋が見えてきました♪
実はこのアングル、撮影年代は不明ながら古写真が残されているので合わせてみました☆
ほら♪
三枚橋まで撤退してきた伊庭八郎、ここで彼は近づいてきた敵兵を味方と誤り、その油断から左手を斬られてしまいます。その傷は手首が辛うじてぶら下がっている程の重傷でした。それでも怯まずに戦う八郎・・・
『・・・八郎望み見て、以て我兵と為す。近ば即敵なり。一人八郎を撃て其左腕を断つ。八郎屈せず、右手を揮い、斬て之を倒し、三枚橋の中央に屹立し、敵を待つ。敵、恐て散ず。』
(「岡崎脱藩士戊辰戦争記略」)
ところで、伊庭八郎が左手を斬られたのは実は三枚橋の上ではなく、三枚橋地区の街道(旧東海道)から二間ほど離れた松林の中だった、という伝承もあるそうです。
…が、伊庭八郎の従者だった荒井鎌吉は後年、以下のように証言しています。
『先生(伊庭八郎)は腰を撃たれ尻餅をつかれましたが其時二、三人を斬り倒されました。手を斬られたのは三枚橋の上でした。』
私も「三枚橋の上」説を採りたいと思います。
この後、彼の左手は2度の「切り落とし」手術を経て、肘から下が失われることになりました。。。
元々、若い時分からその容姿を;
「眉目秀麗、俳優の如き好男子」
と形容されていた男。後に最期の地となる箱館でも活躍し;
「隻腕の美剣士」
と謳われることになります。
※ちなみに江戸では、試衛館時代の後の新選組メンバーとも交友があったそうです。
三枚橋の上
まさにこの場所で、「それ」は起きたのですね・・・
こちらからのアングルも古写真に残されています。
ね♪
橋そのものは後世の架け替えですが、渡った先からはご覧のように旧東海道が続いていますので位置は変わっていないと思います。
という訳で河原に下り、当時の橋の痕跡が何か残っていないか探してみましたが…さすがに無理ですかね(^_^;)
もう少し旧東海道を進みます。その先に・・・
早雲寺。無論、あの北条早雲(伊勢宗瑞)縁のお寺です。
豊臣秀吉による北条征伐の際、前出の石垣山に城を築く前に彼が本陣とした地でもあります。
実はこの早雲寺には、人見勝太郎によって建立された遊撃隊士たちのお墓もあるらしいのですが場所がよく分からず、墓地内をあまりウロウロしたくもなかったので代わり(?)に、、、
北条五代の墓所をお参り。
最後は箱根湯本駅から帰宅しました。
古戦場跡の石碑は残念ながら見れませんでしたが、旧東海道の風情ものんびりと楽しめたし、いい休日になりました♪
気がつけば暦も5月に突入! という訳で今月はいよいよ、伊庭八郎も散った「あの地」へ行きますよ☆
そして、風祭から前進してきた新政府軍とまさにこの地で、激戦が繰り広げられたのです。
それを証明するかのように、近くには「山崎ノ古戦場跡」の石碑がある筈、でしたが、、、何故か見当たらない…(;´・ω・)?
近くで工事が行われていたので嫌な予感はしたのですが、立っていた警備員のオッチャンに聞いてみると案の定、工事期間中は資材置き場に移動していて見れないとのこと…(>_<)
工事が終われば元の位置に戻すそうですが・・・( ´・ω・`)
気を取り直して・・・
先陣の小田原藩兵との戦いは戦意に勝る遊撃隊が、地形の利も活かして優位に進めたものの、後方に控えていた新政府軍が参戦すると徐々に包囲され始め、伊庭八郎らは三枚橋方向を指して撤退していきます。
山崎から歩くこと7~8分ほどで…三枚橋が見えてきました♪
実はこのアングル、撮影年代は不明ながら古写真が残されているので合わせてみました☆
ほら♪
三枚橋まで撤退してきた伊庭八郎、ここで彼は近づいてきた敵兵を味方と誤り、その油断から左手を斬られてしまいます。その傷は手首が辛うじてぶら下がっている程の重傷でした。それでも怯まずに戦う八郎・・・
『・・・八郎望み見て、以て我兵と為す。近ば即敵なり。一人八郎を撃て其左腕を断つ。八郎屈せず、右手を揮い、斬て之を倒し、三枚橋の中央に屹立し、敵を待つ。敵、恐て散ず。』
(「岡崎脱藩士戊辰戦争記略」)
ところで、伊庭八郎が左手を斬られたのは実は三枚橋の上ではなく、三枚橋地区の街道(旧東海道)から二間ほど離れた松林の中だった、という伝承もあるそうです。
…が、伊庭八郎の従者だった荒井鎌吉は後年、以下のように証言しています。
『先生(伊庭八郎)は腰を撃たれ尻餅をつかれましたが其時二、三人を斬り倒されました。手を斬られたのは三枚橋の上でした。』
私も「三枚橋の上」説を採りたいと思います。
この後、彼の左手は2度の「切り落とし」手術を経て、肘から下が失われることになりました。。。
元々、若い時分からその容姿を;
「眉目秀麗、俳優の如き好男子」
と形容されていた男。後に最期の地となる箱館でも活躍し;
「隻腕の美剣士」
と謳われることになります。
※ちなみに江戸では、試衛館時代の後の新選組メンバーとも交友があったそうです。
三枚橋の上
まさにこの場所で、「それ」は起きたのですね・・・
こちらからのアングルも古写真に残されています。
ね♪
橋そのものは後世の架け替えですが、渡った先からはご覧のように旧東海道が続いていますので位置は変わっていないと思います。
という訳で河原に下り、当時の橋の痕跡が何か残っていないか探してみましたが…さすがに無理ですかね(^_^;)
もう少し旧東海道を進みます。その先に・・・
早雲寺。無論、あの北条早雲(伊勢宗瑞)縁のお寺です。
豊臣秀吉による北条征伐の際、前出の石垣山に城を築く前に彼が本陣とした地でもあります。
実はこの早雲寺には、人見勝太郎によって建立された遊撃隊士たちのお墓もあるらしいのですが場所がよく分からず、墓地内をあまりウロウロしたくもなかったので代わり(?)に、、、
北条五代の墓所をお参り。
最後は箱根湯本駅から帰宅しました。
古戦場跡の石碑は残念ながら見れませんでしたが、旧東海道の風情ものんびりと楽しめたし、いい休日になりました♪
気がつけば暦も5月に突入! という訳で今月はいよいよ、伊庭八郎も散った「あの地」へ行きますよ☆
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