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2014年5月 5日 (月)

「水野忠重宛織田信長朱印状」 拝観♪

GWも終盤の5月5日。
「たまには何処かへ連れて行け」という母の要望を受け、「じゃあ何処へ行きたい?」と問い返した答えが・・・何故か「水戸」 (・o・)?

・・・しめた!水戸ならちょうど行きたい所があったんだよね~♪

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という訳でやって参りました、茨城県立歴史館
そう、私が水戸へ来たかった理由は、5月18日まで開催されているテーマ展「戦国から江戸へ ―大名水野家3代―」です☆

結城藩主・水野家は元々、徳川家康の生母・於大の実家。その関係で於大の弟である水野忠重は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちに引き立てられ、彼らからの数多くの発給文書が残されています。
それらの書状が公開されていると聞けば、見に来ない訳にはいきません☆

豊臣秀吉や徳川家康、織田信雄、徳川家光(忠重の子・勝成宛)など、錚々たる面々からの書状がこれでもか!と並べられていましたが・・・

私の一番のお目当ては勿論、こちら☆

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水野忠重宛織田信長朱印状」です♪
(写真は館内配布リーフレットより)

天正九年、武田方の岡部元信が籠る遠州高天神城を包囲する徳川軍。当時、信長からの目付・軍監として徳川軍に従軍し、高天神城攻めに参陣していた水野忠重に宛てて信長は;

『(高天神)城方より降伏開城の申し入れがあったそうだが、確かにその申し入れを受けた方が城の奪取も早いし、包囲を続けるのは苦労も多いだろう。
しかし勝頼は今、高天神に援軍を送れる情勢ではない。ここで勝頼が援軍を出さずに城が玉砕したとあれば、勝頼の威信は失墜するであろう。
私も一両年中に武田攻めを実行するつもりである。従ってここはどちらが得策か、よくよく考えるよう、家康殿にも申し伝えよ。』
※但し「私は現場にいなくて家康殿や兵たちの苦労を計りかねるので、(徳川)家中の宿老どもとよく相談して決めるように」と、あくまでも結論は徳川家に委ねてもいます。

と書き送っているのです。(一月廿五日付)
実際にこの後の同年三月、高天神城は落城して城将の岡部元信らは玉砕しました。信長が朱印状の中で「一両年中に実行する」と書いていた武田攻め~武田家滅亡の一年前のことです。

図録が発行されていなかったのは残念でしたが、他の展示品を見ては信長の朱印状に引き返し…繰り返し繰り返し何度も、力強く捺された「天下布武」印を眺めていました♪

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