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2014年6月

2014年6月21日 (土)

桶狭間合戦 ― 織田&今川の進軍ルート

6月14~15日の2日間、桶狭間合戦の古戦場踏査に出かけました。
合戦のあった永禄3年5月19日は、現在の暦では今年の6月12日。少しでも合戦当日に近い時期を選んで・・・。

私にとっては一昨年11月に続く2度目の桶狭間。初回訪問時以降に出会い、大変な感銘を受けた一冊の本、太田輝夫先生のご著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」(新人物往来社)を元に、今回はまた違った視点で歩いてみたいと思います。
※本記事も基本的に「桶狭間合戦 奇襲の真実」の内容に則ったものになりますが、ブログ管理人の見解により一部違う箇所もございます。予めご承知おきください。


今川軍の想定進軍ルート

まずは駿河を発し、尾張へと侵攻してきた今川軍の想定進軍ルートを歩きます。

地図Ⅰ
Img01

『天文廿一年(永禄三年の誤り)壬子五月十七日、
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、(以下略)
(信長公記 首巻「今川義元討死の事」より。以下同)

永禄3年(1560)5月17日、沓掛城(地図Ⅰ右端)に着陣した今川軍はそこで軍議を開き、18日の夜を待って大高城(地図Ⅰ左端)へ兵糧を入れ、更に満潮(当時は大高城のすぐ西まで海岸線が迫っていました)になって織田軍が後詰めに出て来られないであろう19日の朝に、大高城を包囲する砦(丸根・鷲津)を攻略する旨を決定します。

地図Ⅱ
Img02

という訳で、私も沓掛城からスタートします。

Img03
沓掛城址公園の案内図

Img04
一般的に沓掛城というと、こちらの沓掛城址公園一帯を指します

Img05
綺麗に整備されて遺構もハッキリしていますが、全くの平地にあって肝心の尾張方面への展望が効きません。

そして実は、城址公園から少し西へ行った所にもう一つ、地元で密かに沓掛城跡と伝承され、実際にそれらしき遺構が残されているのを近年、太田先生が発見されています。

Img06
早速そちらへ向かってみます。

Img07
・・・その前に、聖應寺にもお参り。
永禄11年の創建。桶狭間合戦の後、その戦功(恐らくは今川軍の進軍状況、義元本陣の位置を信長に知らせた功)により沓掛に3000貫の所領を与えられた簗田出羽守(広正/別喜右近)のお墓や位牌があります。

Img08
簗田出羽守のお墓。
藪に覆われていて、近づくのも困難でした・・・

Img09
さて、こちらが先程の城址公園から西へ200mほど行った小高い山の麓に残されていた堀跡。

Img10
写真には写っていませんが右に堀がもう1本あり、二重になっていました。
写っている堀が右にカーブしているあの先で、、、

Img11
もう1本のものと合流して更に続いています。

Img12
本丸と推定される部分。堀があった場所との間を道路が分断しています…。
調査の結果、江戸期の「沓掛村古城絵図」に描かれた縄張りと、堀の形状や土橋の位置まで一致するそうです。立地からしても充分に「戦い」を意識した造りの印象。

事情により詳しいアプローチは書けませんが、或いは義元が決戦前に軍議を開いた沓掛城はこちらだったのかもしれません。

Img13
永禄3年5月19日、いよいよ義元本隊も沓掛城を出陣します。

Img14
鎌倉古道が通る二村山に差し掛かりました。

Img15
しばらく登ると少し開けた場所に出ます。
実はこちら、先程訪れた聖應寺の飛地境内なのだそうです。
(地図Ⅱ

Img16
背面に「大同二」(西暦807年)の刻印がある二村山峠地蔵尊
鎌倉街道を行く旅人が盗賊に襲われた際、身代わりとなって肩から上が欠落したという伝説があるそうです。

Img17
山頂付近には、二村山切られ地蔵尊
背面に「古来仏依会大破建立之延宝七己未年」とあることから、先程の「大同二」の地蔵の傷みが著しいために延宝7年(1679)、新たに安置されたお地蔵さんと考えられています。
つまり、身代わり地蔵の身代わり

Img18
二村山山頂からの眺め。写真中央辺りが沓掛城。

Img19
同じく桶狭間方面。

Img20
源頼朝の歌碑
建久元年(1190)、上洛途上に二村山を越えた源頼朝は、ここで歌を一首残しています。

よそに見し をさゝが上の 白露を
たもとにかくる 二村の山

Img21

二村山の峠に今も残る鎌倉古道

Img22
気の遠くなるような長い年月、果たしてどれほど多くの旅人が行き交ったことでしょう・・・

Img23
二村山を西へ下りると、田楽ヶ窪に出ます。
古来名勝として名高く、歌にも詠まれている場所です。
(地図Ⅱ

Img24
とても雰囲気のある小路をなだらかに下り・・・

Img25
少し開けた平地に出ました。(地図Ⅱ
ここから進路は再び緩やかな上り勾配となります。

Img26
地図Ⅱの分岐点。
一瞬どちらへ進むか迷いましたが、右へ行くと織田方の丘陵地帯へ向かってしまうと判断し、左の道を選択。

Img27
お!大きな通りに分断されているけど、いい感じの道が☆

Img28
更に進むと・・・

Img29
小学校(大宮小)の敷地に気になる土盛りが。一瞬、一里塚っぽいなと思いました。

地図Ⅲ
Img30


Img31
前後神明社(地図Ⅲ
ここで現在の東海道(国道1号線)に出ますが、この国道は跨いで、、、

Img32
旧東海道へ(地図Ⅲの区間)

Img33
やっぱりいいわぁ~ここのマンホール♪

しばらく旧街道沿いを進むと、、、

Img34
さあ、いよいよ近づいてきました。

Img35
桶狭間古戦場伝説地(地図Ⅲ

義元の本陣の場所について「信長公記」には『おけはざま山』と記されており、実際にこの古戦場伝説地から南へ行った先に現在「桶狭間山」と呼ばれている山があります。
それ以外にも、旧東海道の南側沿いに聳える高根山漆山を義元本陣と唱える説もあります。いずれにしても、当時の武将が陣を張るなら当然見晴らしがよく、防御に優れた山の上と考えるのがごく常識的であることは確かです。
それが予定された行動であるならば、ですが・・・

ところが、その他諸々の史料には義元本陣について;
「桶狭間山の北の松原」(桶狭間合戦記・尾張志)
「桶間の松陰」(武家事記)
「路次の側の松原」(甲陽軍鑑)
「桶狭之山の北」(成功記)
「桶狭間の山下の芝原」(総見記)

と記されており、今川義元が行軍を止めて陣を布いた場所は「桶狭間山」の北に位置するここ、桶狭間古戦場伝説地だったと示唆しているのです。
この地がかつて松原であったことは、明治後期に撮られた古写真が証明しています。

ここで改めて、「信長公記」から『おけはざま山』が出てくる箇所を引用してみます。

『夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、
御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の息を休めこれあり。
天文廿一壬子五月十九日、午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからずの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の息を休め、大高に居陣なり。
信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が戈先には、天魔鬼神も忍るべからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居ゑられ侯。信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、(以下略)

下線を引いた出だしの『様体御覧じ、』の後から、最後の『信長御覧じて、』間に書かれている部分は、その前後の如何にも太田牛一目線な描写とは違い、急に合戦全体を俯瞰で捉えたかのような表現になっています。
これは、本来この時点では元康であるはずの家康の名前を『家康』と書いていることからも、牛一が後から人伝に聞いた情報などを書き足して挿入したのではないか、と太田輝夫先生が著書の中で唱えていらっしゃいます。
まさに目からウロコ、なるほどなぁ~と感心せずにはいられません。

そこから察するに、義元本陣の場所について細かい地名を知らなかった(覚えていなかった)牛一が、その辺り一帯の場所を指して「おけはざま山」と表記していたとしても不思議はないように思えます。
実際、古戦場伝説地のすぐ横まで桶狭間山に連なる稜線が伸びています。

地図Ⅳ
Img36
ところで、この日の今川軍の行動予定は地図Ⅳにピンクの点線で示したルートに沿って進み、最終的には大高城へ入るはずでした。

Img37
その道中にある瀬名伊予守氏俊陣所跡(地図Ⅳ
現地の説明板には;

永禄三年五月十七日、今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約二百名が先発隊として着陣し、村木(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と、大将今川義元が十九日に昼食する時の本陣の設営をしました。(以下略)

…何と合戦の2日も前に今川の一隊がここまで入り込んで、しかも義元の昼休憩のための陣所の設営までしていたというのです。
そう、写真奥に見える小高い茂み(通称セナ藪)こそ、本来義元の本陣となるはずであった場所なのです(以下、本陣予定地)。

Img38
セナ藪の中は削平されており、それらしき側溝の様な跡も・・・

Img39
すぐ脇には大高道へと繋がる旧道や、、、

Img40
長福寺も。寺伝に;

永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いのとき、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者となって率先酒食を提供し、その労をねぎらった

とあります。実際にはこの手前の古戦場伝説地で今川軍が止まってしまったので、住職たちはそこまで酒食を運んだのかもしれません。

目指す大高城へのルート上で、しかも瀬名氏俊があらゆる方向を監視していたということからも見晴らしのいい高台にあることが分かるし、すぐ横には休憩もできる長福寺。
まさに本陣にうってつけの占地です。

今川義元は海道一の弓取りと謳われた名将です。用意周到、ちゃんと絶好の場所に本陣を準備させていたのです。
それが何故その手前で、しかも不用意とも言えるような場所(古戦場伝説地)に本陣を据え、しかも留まったのか・・・。
それにはちゃんと、理由があったのです!・・・が、それはまたいずれ。

先へ進みます。

Img41
信長が大高城包囲の為に築かせた鷲津砦の遠景。
5月19日の早朝、今川家重臣・朝比奈泰能隊に攻められて陥落しました。

Img42
鷲津砦公園
この奥の樹間に分け入ると、、、

Img43
鷲津砦址の石碑

Img44
遺構は残っていないかな~と諦めていましたが、よく見ると土塁や、、、

Img45
見事な横堀がありました。
これらはしっかり、包囲する大高城がある南西の方向に面しています。

Img46
続いて大高城へ。
大高の中心地(辻)だった場所に建つ辻の秋葉社。江戸期の高札場もこの場所に設けられていたそうです。

Img47
大高城跡の碑

Img48
大高城二の丸。右が本丸。
桶狭間合戦前夜、松平元康(徳川家康)がこの城への兵糧入れを成功させています。

Img49
大高城から鷲津砦方面。

Img50
そして丸根砦方面。鷲津砦とは尾根続きです。
大高城への兵糧入れを成功させた松平隊は、続け様にあの丸根砦へ攻め掛かって落城させています。
その後、元康は大高城へ戻り、総大将義元の到着を待っていました。。。

Img51
本丸に建つ社


織田軍の想定進軍ルート

さて、今度は織田軍側の想定進軍ルートを歩いてみます。

地図Ⅴ
Oda00

ピンクの今川軍に対して、織田軍は緑のラインに沿って進軍したと思われます。

Oda01
スタート地点に定めた善照寺砦へ向かう道すがら、鳴海城跡
(地図Ⅴの左上)

Oda02
鳴海城のすぐ近くには圓龍寺
元は善照寺という名前でした。そう、善照寺砦の名前の由来

Oda03
更に道端で見かけた小さなお社。よ~く見ると、、、

Oda04
織田木瓜♪

地図Ⅵ
Oda05

永禄3年5月19日早朝、清州城を飛び出した信長は熱田神宮、丹下砦などを経由して善照寺砦に入ります。
(地図Ⅵに「砦」と書かれている位置)

Oda06
地図Ⅵの左上、鳴海城の東に位置する堀切跡と思われる道路。地図に「矢切」と書かれている辺りです。
地名からしても如何にも遺構っぽくないですか?

Oda07
善照寺砦西端の櫓台跡。まさに包囲する鳴海城に向けた最前線。
この櫓台の目の前にも、、、

Oda08
堀跡と思われる地形が見受けられました。

Oda09
更に奥(東)の主郭部へ進んだ先の地形。

Oda10
そして善照寺砦主郭はご存じ、こちらの砦公園。

Oda11
善照寺砦から信長が御覧じた、今川勢が展開するおけはざま山方面の眺め。
ここからの光景を見る限りおけはざま山とは、どれか特定の山ではなく、東海道を挟んだ対岸に稜線が連なる桶狭間周辺全体を指しているようにも思えてきます。

Oda12
善照寺砦南面のこの地形、ゾクゾクしますね。

善照寺砦で『様体』『御覧じ』た信長は、更に対今川最前線となる中島砦へと移ります。

Oda13
中島砦
城域内を旧東海道(地図Ⅵに黄色で描かれている道。222号)が貫通しています。

Oda14
中島城址の碑

Oda15
中島砦のすぐ北にある瑞泉寺
「尾張名所図会」にも描かれていますが、現在も姿形が殆ど同じです。
目の前を旧東海道が通っているし、高台の立地…或いは桶狭間合戦当時には、こちらが砦として使われていたとしてもおかしくないな、とも思いました。

Oda16
その旧東海道

『中島より又、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚には、各よくゝ承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍にして大敵を怖るゝことなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いて稠り倒し、追ひ崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし』
(信長公記)

中島砦に入った信長は、出陣を止める家老らに向かって有名な演説をぶち、いよいよ義元との決戦に向けて出撃します。

Oda17
中島砦を出て、まずは扇川沿いを東へ。

Oda18
途中で少し進路を南東(右)へとり、、、

Oda19
更に細い道を進みます。

Oda20
焼田橋南からは上り坂に。
現在は住宅地になっていて地形が分かり辛いですが、既に峠に差し掛かっているようです。
…或いはここが信長公記に『山際』と書かれた場所か?・・・しかし何となくピンと来ない

Oda21
道の両脇を見るとこんな感じ。峠特有の堀底道だった様子が垣間見えます。
ちなみに写真は南の方角を写したもの。この先の地形も上がっており、今川軍からは完全に死角に入って軍勢の移動を隠せるルートです。

Oda22
名古屋第二環状自動車道を越えます。

地図Ⅶ
Oda23_2
環状道を越えるとすぐに、、、

Oda24
これは・・・!?

山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。』
(信長公記)

Oda25
ここが『山際』ではなかろうか…。(地図Ⅶ
地形図で確認しても、それまで上ってきた緩やかな勾配とは違って如何にも山の際。現地を歩いていて直感的に、ここだ!と感じました。

Oda25b
ご覧のように、あちらの山に向かって地形はグッと落ち込んでいます。
『俄に』降り出した雨の中、現在の道とは少しずれますが一旦下まで下って、地図Ⅶに示したように山と山の合間を縫うように南へ進んだのではないかと思います。

Oda26
東丘小の横から、道は再び上りになります。
この合戦の折、信長の馬引きとして参陣していた人物の;

信長の御馬を山へ乗上げ乗下ろし、し給ふなどといふより外別事なし、只よく覚へたる事にては、合戦の日、暑気甚だしき事此年に成りしまで終に覚へず、誠に猛火の側に居るがごとく、又、昼前より日輪の傍に一点の小黒雲が何ぞと怪敷物見へたり、其黒雲忽ち一天に広くはびこり真暗く成り夥しき大風雨なりし

という証言が記録されていますが、この「山へ乗上げ乗下ろし」という状況とピッタリ一致します。
そして昼前から黒雲が広がりだして後、大風雨になったとありますので、この付近を通っているのは正午過ぎ頃か。

Oda27
地図Ⅶ地点から。
左奥、細い柱の先の茂み付近に義元が本陣を置く桶狭間古戦場伝説地があります。
中央手前、木々が茂っている辺りには一昔前まで「太子ヶ根」と呼ばれる小高い山がありました。

Oda28
その太子ヶ根北谷(北の谷)へ一気に下ります。

Oda29
太子ヶ根があった辺り。
信長は自らの手勢をこの北谷に隠し、自身は太子ヶ根に登って突撃前最後の敵情視察をしたかもしれません。
或いは簗田広正から義元本陣位置の確報を得たのもここでのことか

Oda30
この周辺は複雑な地形をしており、義元本陣の近くにも関わらず、兵を隠すには最適だったのでしょう。


さて、ここで今川義元がセナ藪の本陣予定地まで行かず、「桶狭間山の北の松原」(=古戦場伝説地)で留まっていた理由に触れたいと思います。
先に、「信長公記」の善照寺砦での表記に後から書き足して挿入したと思われる箇所がある、ということを書きましたが、その中に;

『信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。』

という一文がありました。
これを以って、善照寺砦に信長が入ったのを見た佐々・千秋抜け駆けで出撃して今川軍に掛かり、全滅する様子を信長が善照寺砦から『御覧じ』ていたかのように解釈されていますが、中島砦から出撃する際の演説で信長は、今川軍の大高城への兵糧入れや鷲津・丸根砦への攻撃のことには触れているのに、佐々・千秋隊との一戦には一切触れていません
これは佐々・千秋隊が善照寺・中島砦周辺で戦ったのではないことを証明しています。

では彼らはどのように義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝ』ったのでしょうか。

「尾張名所図会」「桶狭間古戦場」の説明の中に;

太子が根より二手に分ち、一手は駿兵の先手にあたらせ、自らも南へまはり来りて田楽が窪の本陣を攻、急に撃たまひしが駿兵不意に襲れ(以下略)

とあります。
太子ヶ根から二手に分け、義元本隊先手にあたらせた一手こそ、佐々・千秋隊でしょう。

地図Ⅷ
Oda31

信長本隊に先行して太子ヶ根まで進んだ佐々・千秋隊(水色のライン)は、地図辺りの谷間で待ち構え、やって来た義元本隊の目の前に現れます。

「前方に敵兵現る!」

の報に触れた義元は進軍を停止させて桶狭間山の北の松原(古戦場伝説地)に臨時の本陣を据え、迎撃態勢をとらせます。
そこへ『瞳とかゝり来』たる佐々・千秋の織田軍。しかし衆寡敵せず、今川勢はこれを撃ち破って地図Ⅷの方向へ追い立てて佐々・千秋の両将を始め、多くの首級を挙げます。

佐々らを討ち取った前線から首と共に戦勝報告が届けられ、義元は『心地はよしと、悦んで、』祝宴を上げます。
この時、彼は何と言ったか。

『義元が戈先には、天魔鬼神も忍るべからず。』

これが示すもの。義元は彼の戈先に掛かって来て、討ち取った首を織田信長自身かもしれないと思ったのではないでしょうか。
中島砦などは『無勢の様体、敵(今川)方よりさだかに相見え』る場所でしたから、当然義元も信長が戦場に出てきていることは把握しています。

もしかしたら信長を討ち取ったかもしれない。この分だと尾張を獲るのも容易い・・・
だからこそ佐々・千秋隊との戦闘が終結した後も『緩々として謡をうたはせ、陣を居ゑ』留まっていたのです。

ところがこの時、彼の本陣は意図せず佐々・千秋隊を迎え撃った前軍や、元々東海道を押さえるために高根山などに配置してあった右備えの軍勢(地図Ⅷ◆◆)と引き離されていたのです。。。

そして、これこそが信長の狙いだったのです。
何故そんなことが可能だったのか。それは彼が、今川軍の進軍ルートを事前に把握していたからに外ありません。

大胆にも決戦2日前に義元の本陣設営を始めた瀬名隊の動きは当然、信長の元にも伝えられていたでしょう。
しかも、「信長公記」の義元討ち死に後の記述に、服部左京助が義元の命で大高城近くに多数の武者舟を漕ぎ寄せていたことが書かれています。結局義元は討ち死にし、左京助は帰りがてら熱田に漕ぎ寄せて町口に火を掛けようとしますが、予め待ち受けていた町人らの返り討ちに遭い、スゴスゴと引き上げています。
これなども織田方が大高に舟が集められている=義元は大高城に向かうことを予め把握していた証とも見て取れます。

更にもう1点。決戦前夜(18日)、清州城に再三「鷲津・丸根砦が攻撃されそうだ」と注進が舞い込んでいた段階では信長は決して動こうとせず、彼が清州城を飛び出したのは今川勢による鷲津・丸根砦への攻撃開始を確認して後です。
これでようやく確信したのでしょう。「義元は確実に大高城へ向かう」と。

Oda32
佐々・千秋隊が旧東海道を越え、駆け上がった坂。

Oda33
そして地図Ⅷ今川軍を待ち構えていた場所、釜ヶ谷
現地説明板などでは織田信長自身が待機していた「山際」として紹介されていることが多い場所です。
周辺の地名・字名は武路町、或いは武待。武者が行く路、武者が待つ場所、、、何だか思わせぶりな名前ですよね♪

更に佐々らが追撃されて討ち取られていったと思われる地図Ⅷには、七ツ塚があります。
戦後、信長が地元の民らに命じて戦没者たちを弔らわせたものです。

佐々・千秋らの行動が勝手な抜け駆けではなかった証拠に、佐々の弟(成政)や息子、千秋の息子らは後に信長によって取り立てられています。
自らの作戦のために捨て石となった佐々や千秋のため、信長はしっかり報いているのです。


さて、信長本隊の動きに戻ります。
首尾よく今川勢の進軍を止めることに成功し、簗田出羽守から義元本陣の位置を確認した信長は遂に最後の出撃の断を下します

Oda34
太子ヶ根から一気に駆け下り、、、

Oda35
一目散に駆け抜け、、、

Oda36
左前方に義元本陣を捉えながら、、、
(ガストの看板奥に見えているのが、古戦場伝説地横に建っている高徳院の塔)

Oda37
東海道を越え、、、

Oda38
佐々・千秋らの働きによって引き離された今川本隊の前衛と義元本陣の間へ滑り込むように、本陣横の小高い丘(現高徳院)の西側を駆け上がります。

地図Ⅸ
Oda39

兵の一部を現在は高徳院が建つ丘の上へ駆け上がらせ、信長自身は南から回り込んで義元の本陣へと迫ります。
これは勿論、襲撃後に義元を瀬名氏俊が設営した本陣予定地に逃げ込ませないためです。

Oda40
地図Ⅸから北側を見た様子。
宝永2年(1705)に描かれた「桶狭間古戦場之図」にも、「此道より信長襲入と云」と書かれています。

…今にも馬蹄を轟かせて、あの先から織田信長率いる軍勢が現れそうではありませんか☆

Oda41
『空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物算を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。』
(信長公記)

信長の号令一下、織田軍が攻め掛かるや今川勢は瞬く間に『くはつと崩れ』、あたふたと逃げ出している様子がよく分かります。
この描写からも正面攻撃などではなく、今川勢にとって予想外の奇襲であったことが分かります。

※「正面攻撃説」では、中島砦を出た信長は旧東海道沿いに真っ直ぐ、本陣をおけはざま山に据えて戌亥(西北、つまり街道沿い)の方角に兵を備えて待ち構える今川の大軍へ攻め掛かったとされていますが、大軍で待ち構えているところへ正面から、しかも自軍よりも遥かに小勢の軍に攻め掛かられた途端に崩れてしまうほど、東海三国を治める今川の軍勢は腰抜けだったというのでしょうか。

それ以前に、信長からしてみれば自らの意思で鷲津・丸根砦を見殺しにしておきながら、それによって旧東海道の南側全域が今川軍の勢力下に収められてしまったにも関わらず、今川軍が段々に待ち受けるその東海道沿いという危険極まりないルートをわざわざ選択するなど、まさに愚の骨頂と思えて仕方ありません。

「結果的に今川の前衛が崩れたから正面攻撃で勝てたのではないか」という結果論はあえて取り上げません。
そもそも桶狭間合戦の発端は、寝返りや調略によって今川方となっていた鳴海城・大高城に対し、信長が砦を築いて対抗したことによる国境(勢力圏)紛争です。
ところがいざ合戦となった時、意図的に鷲津・丸根砦を放棄していることからも分かる通り、義元自らの出陣を確認した段階で信長の中でこの合戦の目的(目標)は主力決戦=義元本陣シフトチェンジしているのです。
だからこそ、誰もが国境防衛を考える中で決戦前夜に『軍の行は努々これな』かったのも、味方の砦を見捨ててまでまさかの本陣攻撃を決断をしていた信長にとっては予定の行動で、そんな彼が自らの作戦が作り上げた戦況の中で最も不利なルートを選択する筈がない、と考えるのです。

(それに・・・

山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。(中略)空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。

改めて信長公記から引用しますが、織田軍が山際まで寄せたところで俄かに豪雨が降り出し、その雨が通り過ぎて空が晴れてきた時に信長は攻撃を命じています。
正面攻撃説に拠ると山際とは即ち、いずれの山(の際)であっても今川軍の正面足元ということになります。すると両軍共に、
「敵が目の前にいるけど、今は雨が降っているから休戦、雨が上がったら再開しよう」
といって、雨が上がるのを待っていたとでもいうのでしょうか・・・考えにくいですよね)

Oda42
『旗本は是れなり。是れへ懸かれ』!!

Oda43
高徳院

Oda44
高徳院境内にも今川義元公本陣跡の碑があります。

Oda45
高徳院境内、丘の最高所付近には義元の重臣・松井宗信のお墓もあります。彼もここで戦死しました。
(地図Ⅸ

Oda46
その傍らには七石表二号碑

Oda47

松井宗信のお墓から、義元本陣の方向を見た様子。
高徳院の丘に駆け上がって松井宗信らを討ち取った信長の手勢は、更に本陣目掛けてここを攻め下ります。

その時の様子を今川方の史料である「松平記」で見てみます。

味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の槍にて義元を突申候処、(以下略)

思ひもよらざる奇襲で、しかも山の上より(つまり信長は山の上ではなく南から)とはっきり書かれています。

Oda48
織田勢(服部小平太ら)が駆け下ってきた坂

Oda49
古戦場伝説地に建つ七石表一号碑

Oda50

今川義元の墓と伝えられてきた塚

Oda51
こちらも今川義元の仏式墓碑

『未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合せゝゝ、次第ゝゝに無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。』
(信長公記)

旗本三百騎が義元を囲んで東の方角を指して逃げるものの次々と討たれ、みるみるその数を減らしていきます。

『おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。』
(信長公記)

深田に足を取られ、思うように退却できない様子が見て取れます。
ちなみに「尾張名所図会」「桶狭間古戦場之図」にも旧東海道沿いに田んぼが描かれています。

そして遂に・・・

『服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐り臥せ、頸をとる。』
(信長公記)

義元が最後に討たれた場所ですが、数十年前まで、本陣跡の古戦場伝説地から300mほどへ行った旧東海道沿いに今川義元の墓標らしきものがあったそうです。
或いはそこが、旗本三百騎が五十騎に減り、終には毛利新介に討たれた場所だったのかもしれませんね。。。

更にへ行けば多数の戦死者を葬ったと云われる戦人塚があり、その先は沓掛城へと続きます。恐らく今川勢は元来た沓掛城へ向かって逃げ、そして多くが討たれていったのでしょう。

Oda52
写真は旧道ではなく現在の東海道(国道1号)を東へ行った辺りのものですが、、、なにやら曰くありげな。

Oda53
よろいかけの松の旧地(地図Ⅸ
義元を討ち取り、逃げる今川勢の追撃戦に入ると信長は鎧を脱いでここにあった松に掛け、戦況を見守ったと云います。
この時の馬引きが晩年「この歳になるまで、あの時ほど暑かったことは記憶にない」と述回しているくらいだから…暑かったのでしょうね(^_^;)

Oda54
田楽坪の古戦場公園(地図Ⅸ

Oda55
最後に改めて、豊明市の桶狭間古戦場伝説地
すぐ隣にあったと云う池からは古い武具がたくさん発見され、のみならず、近所にお住まいの方々によると武具やら青磁の椀やら、いろいろなものが近隣の工事や住宅の増改築の度に出てくるそうです。


今も謎が多く、諸説入り乱れる桶狭間合戦
無論、歴史に絶対はありませんが、今回実際に歩き通してみて、一歩その真実に近づけたような気はしています。

これまで素晴らしい研究・調査をされ、我々にも享受してくださる方々に敬意感謝を捧げ、自らも己の探究心の命ずるまま、これからも歴史に触れて行きたいと強く思いました。
特に素晴らしい著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」を著された太田先生や、踏査にご同行頂いたサイガさん、豊明市の桶狭間古戦場ガイドの皆様には感謝申し上げます。

※参考文献;
「桶狭間合戦 奇襲の真実」(大田輝夫氏著/新人物往来社)
「信長公記」(太田牛一)

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2014年6月 8日 (日)

碧血碑、五稜郭 ― 箱館戦争巡り⑦

■6月1日(日) 4日目
早いもので函館の旅も最終日を迎えました。

2014060101
この日はまず、市電で終点の「谷地頭」まで移動。そこから函館山の麓を歩くこと15分ほどで、、、

2014060102
碧血碑
明治8年に建立された箱館戦争における旧幕府脱走軍戦没者のための慰霊碑です。
土方歳三や、千代ヶ岡台場で戦死した中島三郎助父子らをはじめとする約800人の戦死者を弔っています。
碑の文字は大鳥圭介の揮毫とも。

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この前日に訪れた極楽寺の記事でも書きましたが、碧血碑の建立に携わった柳川熊吉は「七重村の閻魔堂」にあった土方の遺体を碧血碑に改装した、という逸話が残されています。
そのことを知った榎本武揚が大変喜んだ、とも・・・。

また、五稜郭から発見された遺体を合装していた願乗寺の墓碑を移転した際(明治16年)、その移転先である「高等の位地」は願乗寺の背後に聳える函館山を指すのではないか、という説を唱える方もいるようです。

ことの真偽はともかく、熊吉がこの函館山に土地を購入して実行寺などに仮埋葬していた脱走軍戦死者たちを改葬したことは事実のようです。

2014060104
そういった(戦死者たちの遺体回収・仮埋葬、碧血碑の建立)柳川熊吉の功績を讃え、碧血碑の脇には彼の米寿(88歳)の記念に建てられた碑石も静かに佇んでいます。
その翌年、熊吉は静かに89歳の生涯を閉じたのでした。

さて、次はいよいよ五稜郭へ移動します☆

2014060105
五稜郭タワーが見えてきました☆

2014060106
あちらの銅像は…榎本さんと大鳥さん、かな?
間違えていたらゴメンなさい…(^_^;)

まずはタワーの展望室へ。

2014060107
ドーンッ!来たよー五稜郭!!
・・・写真に収まり切らない(^_^;)

2014060108
展望室内には様々なジオラマが展示されており、これが結構楽しめます。
この撮影シーン、実際に写真が残されていますよね。

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ほら♪

地図1
2014060110
五稜郭千代ヶ岡台場、そして一本木関門の位置関係。

2014060111
タワーからは土方がその最期の日となる明治2年5月11日、一本木関門へと出撃した旧松川街道もハッキリと確認できます☆
(地図 紫のライン

2014060112a
とある古絵図。ちょうど先程の写真と同じように、函館山を向こうにして五稜郭の側から描かれています。
一本木関門に向かって流れる亀田川も描かれていますが、これもタワーから確認できます。写真右、斜めに細長く伸びる緑地の部分です。

地図1
で確認すると現在は流路が変えられていますが、古絵図によると当時は一本木関門のすぐ近くで七重浜側に流れ込んでいたのですね。
土方歳三が一本木で七重浜方面からの敵と戦った際、或いはこの亀田川を防衛ラインにしたのかもしれないな、なんて考えました。

2014060112b
箱館戦争図
七重浜に流れ込む亀田川を挟んで対峙する両軍、
キノコ雲を上げながら沈みゆく朝陽鑑
大野右仲が向かった異国橋方面
弁天台場、、、

見事に明治2年5月11日の戦闘の様子を描き切っています☆
一発の銃弾に貫かれる一人の男の姿まで・・・

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歳さんの銅像

2014060114
では五稜郭内を散策しましょう♪

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半月堡、全国的にも珍しい“返し”のついた石垣

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栄永の刻印
「永く栄える」の願いを込めたものでしょうか…?

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復元された箱館奉行所。勿論、中も見学しました☆

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訪れた時は藤の花が満開♪周囲に甘い香りが充満していました。

そして、、、

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一本松の土饅頭

一本木関門での戦死後、五稜郭に埋葬された土方歳三。
彼の埋葬場所について、多摩・小野路(東京都町田市)の小島鹿之助が記した「両雄士伝」に;

『従士、屍を担いて五稜郭に還り、壙を穿ちて之を葬る』

とあります。

また、明治32年に行われた伊庭八郎を偲ぶ会において、列席者から;

『八郎君の墓は函館五稜郭土方歳三氏の墓の傍らに在り』

との発言もありました。
この会には八郎の弟・想太郎松平太郎、八郎の最後を看取ったという荒井鎌吉らも列席しており、信憑性は高いと思います。

大正15年には実際に、この土饅頭の発掘調査が行われたそうです。
が、この時は何も出て来ませんでした。これは、明治11年に行われた五稜郭の土塁補修工事の際に大量の人骨が発見され、まとめて願乗寺(本願寺函館別院)に改装されているためだと考えられます。
件の明治32年の発言者は、この事実を知らなかったのでしょう。

また、「土塁補修工事」と言っても遺体を本当の土塁に埋めるとは到底考えられず、人骨が出てきた土塁とは即ち土饅頭のことと考えられます。
この土饅頭、城の構造として見ても何ら戦闘・防衛上の意味を成しておらず、そういったものがこの場所にあるということは、やはり・・・

これまでも極楽寺や碧血碑の記事の中で諸説ご紹介しましたが、土方歳三、そして伊庭八郎が埋葬されたのはこの五稜郭の中であることは間違いないでしょう。
その後、願乗寺に改葬されたのか、今も五稜郭内の別の場所で静かに眠るのか…。その先は今となっては本人たちの魂のみぞ知る、といったところでしょうか。

2014060120
砲座跡
このラインだけで3~4ヶ所も並んでいました。

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明治元年10月26日、旧幕府脱走軍が入城した裏門

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五稜郭を出て、旧松川街道を進みます。
正面に函館山。あの日、土方歳三もこうして函館山を見据えながら千代ヶ岡台場、そして一本木関門へと向かったのですね・・・

地図2
2014060123
現在では失われていますが、千代ヶ岡台場はこの位置にありました。

2014060124
箱館戦争巡りの旅、最後は中島三郎助父子最後之地碑。
新政府軍による降伏勧告を謝絶し、千代ヶ岡台場で父子三人、壮絶な最期を遂げました。
(地図2


さて、3泊4日に及んだ旅もこれで終了です。
まだ函館に残るサイガさん、明日香さんとは五稜郭タワー前でお別れし、私はみかんさんと共に空港に向かって帰路へ。

4日間通して天候にも恵まれ、充実し切った旅でした。
チーム箱館を引率し、たくさんのことを教えていただいたサイガさんには勿論のこと、楽しい時間を共有して頂いたメンバー皆に感謝です!

そう遠くない日に必ずまた来ます、函館☆


※2019年10月に函館(松前・江差・乙部も)を再訪いたしました。
その時の様子を「箱館戦争めぐり⑧~⑯」としてまとめておりますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
コチラから

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一本木関門 ― 箱館戦争巡り⑥

3日目のラスト、いよいよ念願の一本木関門跡地を探索します☆

地図
20140531c01

榎本武揚の箱館政権が財源確保のため、通行料徴収を目的に設置した一本木関門
(地図 茶色のラインが一本木柵)

明治2年5月11日
新政府軍による箱館総攻撃が開始されると、土方歳三は五稜郭を出陣。千代ヶ岡台場で陣容を整えた後、松川街道を一本木関門まで進みます。

20140531c02
一本木関門跡
GSの右を斜めに貫いているのが、土方が進んできた旧松川街道の名残です。
そして写真右、歩行者信号の奥に見える細い路地は、関門の柵沿いに流れていた亀田川の支流跡

…この光景を振り仰いで目にした瞬間、一気にこみ上げてくるものがありました。。。

20140531c03
ところで明治29年頃の地図には、この一本木関門の脇に正方形の船着場のようなものが描かれています。(地図 緑のライン
該当位置に行ってみると確かにそれらしき地表面の高低差が…。写真左手前の線路側は、当時はまだ海だったのです。

20140531c04
亀田川の支流跡

20150620
この亀田川の支流に沿って一本木関門の柵は築かれていました。
カメダ川ノ支流

土方が一本木関門に到着して程なく、戦場一帯に突如として大轟音が響き渡りました。
それまで七重浜沖からの艦砲射撃で旧幕府脱走軍を散々に苦しめていた新政府軍の朝陽艦を、脱走軍の幡竜艦の放った一発の砲弾が運良く弾薬庫に直撃して見事撃沈させたのです!

この瞬間の様子を、箱館居留外国人を避難させるために停泊していた英国軍艦パール号付の軍医補だったメリックは次のように表現しています。

『両軍とも突然の大災害に一瞬息をのんだ。そして、轟音がしずまったのち、戦場一帯にしんしんたる静寂がみなぎった。

大地を揺るがす大轟音、
海面に立ち昇るキノコ雲、
そしてマストだけを海面に残して沈没する朝陽艦、、、
突然の信じ難い光景に、戦闘も忘れて息を呑む両軍兵士。
まるで戦場とは思えぬ静寂が支配する時間、、、

その瞬間の情景が目に浮かぶようではありませんか☆

暫し呆気にとられたかのように静まり返る戦場。
が次の瞬間、それまでの劣勢に沈みがちだった旧幕府脱走軍は、奇跡のような僥倖に一気に沸き返りました。
まさにこの時、土方歳三の口からあの有名なが発せられるのです。
この機、失するべからず!

兵士たちの士気は否が応にも高まったことでしょう。
土方はまず、添役の大野右仲に兵を預け;

吾この柵にありて退く者は斬る

と言って箱館(弁天台場)方面へ出撃させます。
この大野隊は異国橋付近まで敵を押し戻しました。

そして土方自身は関門を守りつつ、反対側の七重浜方面からの敵にも当たり、これを一度は撃退して七重浜一帯を奪還したことを、立川主税や前出のメリックの証言からも窺い知ることができるのです。

二股口での奮戦といい、まさに経験に裏打ちされた天才戦闘指揮官の真骨頂発揮の瞬間だったことでしょう。
一発の銃弾に斃れる最期の時まで。。。

・・・戦死後、土方の遺体は小柴長之助や沢忠助に伴われて五稜郭まで運ばれました。


20140531c05
亀田川の支流跡沿いに、いい雰囲気の塀が建っていました。
土方歳三最期の地、一本木関門。往時の雰囲気を偲ぶことが出来ました♪

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路地を一本移動して、「一本木」の名前の由来になったとも云うヤチダモの木。
(二代目?)

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そして最後に土方歳三最期の地
みんなでお線香をあげてお参りいたしました。

なんだかもう、感無量です。


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3日目の夜、函館での最後の晩餐☆
サーモンにホッキ貝に、ニシンの刺身まで!左上はホヤの刺身です(´艸`*)

捌きたてほやほや♪…(゜o゜)!?

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2014年6月 7日 (土)

鷲ノ木上陸地、峠下 ― 箱館戦争巡り⑤

地図1
20140531b00

二股口古戦場、市渡と観て回った後は国道5号線を北上。
大沼公園や駒ケ岳の裾野を抜けて向かう先は、、、

20140531b01
鷲ノ木の旧幕府脱走軍上陸地です。

彼らがこの地に上陸したのは明治元年10月20日。
現在の暦では12月上旬、上陸した彼らを待っていたのは30㎝を超える積雪と厳しい北の大地の冬でした。

この時、榎本艦隊に同行していたフランス軍事顧問団の一人、ジュール・ブリュネはこの時の上陸の様子を一枚のスケッチに残しています。
それがアングルといい景色といい(季節は違いますが)、上の写真とそっくり同じなのです!
それから察するに、、、

20140531b02
ブリュネがスケッチを描くために立って(座って?)いたのは、この砂利の辺りに間違いありません!
そのスケッチに拠って想像を働かせると、まず艦船を堤防(無論、当時は存在しません)の先端辺りに停泊させ、小舟で写真右端に写っている青い屋根の小屋辺りの浜辺に寄せて上陸しました。

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上陸後、一旦拠点とした霊鷲庵跡へと続く坂。現在は途中で線路に遮断されています。
言うまでもなく、土方歳三や大鳥圭介らが登った坂。

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その坂から振り返って・・・

20140531b05
霊鷲庵跡
現在の霊鷲院は、国道を挟んで南側へ移動しています。

20140531b06
後に五稜郭への入城を果たし、箱館政権を樹立した榎本軍は明治新政府軍の襲来に備え、新政府軍が上陸してくる地点を自らと同じ鷲ノ木になる可能性を鑑み、あの小山の上などにも台場を築いていました。
しかし、実際に新政府軍が上陸したのは全く反対の西、江差より少し北にあたる乙部でした。

20140531b07
右:伝習士官隊・山本泰次郎の墓。
峠下での戦闘で負傷し、11月9日に鷲ノ木で亡くなりました。
左は上陸時の海難事故などによる鷲ノ木戦没者之碑

蝦夷地上陸後、旧幕府脱走軍は二手に分かれて五稜郭を目指します。
七重を抜けてほぼ真っ直ぐに南下していく本道軍を指揮するのは大鳥圭介。そして海岸沿いを東へ進み、川汲から峠伝いに南下していく間道軍を指揮したのが土方歳三でした。

しかし脱走軍は無用な戦いは望んでおらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に宛てて明治政府への;
『徳川の臣僚食禄に離れ方向を失ひ、東西に彷徨する者を集め不毛の蝦夷地を拓き、北門鎖鑰の護りをなし国恩に報ぜん』
(但し、認められない場合は「やむをえず官軍へ抗敵つかまつるべく」とも)
という嘆願書を携えた人見勝太郎ら30名を使者として先行させます。

ところが箱館府配下の新政府軍が大野・七重まで北上して来たため、人見らは峠下に留まって後を追ってきた伝習士官隊・伝習歩兵隊と合流します。
そして10月22日夜、峠下に銃声が轟き、ここに箱館戦争が開戦したのです。
この時の戦いは戦歴・装備に勝る旧幕府脱走軍が新政府軍を圧倒しました。

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その開戦地、峠下にて。左は脱走軍が陣を布いた観音山です。
遥か彼方に函館山がくっきりと見えています♪

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峠下での戦闘で戦死した新政府軍兵士たちの墓碑。観音山の麓にあります。
この時の新政府軍にはなんと、七重に移住していた八王子千人同心の子弟たちも含まれていました。互いの心情たるや、如何ばかりであったか…。

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平山金十郎の墓。
慶応4年7月、函館府(明治政府)統治下の五稜郭襲撃を企て、後に旧幕府脱走軍に参加した人物です。

峠下付近の大野や七重でも箱館府軍と大鳥軍との間で戦闘が行われ、これをも打ち破った大鳥軍は10月26日、五稜郭への入城を果たしました。


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函館市内へ戻る途中、急遽立ち寄らせて貰った極楽寺

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真ん中の灯篭は諸国戦死供養の常夜灯
箱館戦争の戦没者たちを慰霊するものだとも云われています。

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実はこちらも、土方歳三埋葬候補地の一つとして挙げられています。

明治25年、土方家の縁戚・平忠次郎が、多摩出身で北海道に勤務する警察官・橋本福太郎という人物に歳三の遺体の行方についての調査を依頼しました。
この時の調査結果報告の手紙が土方家に現存しています(土方愛氏著書「子孫が語る土方歳三」(新人物往来社)に全文掲載)。
それによると;

碧血碑の碑守から柳川熊吉の存在を知り、尋ねて話を聞くと
「土方の遺体を捜しているうちに“七重村の閻魔堂に埋められて宝物のように大事にされている”という情報を掴み、確認しに行くと紛れも無く土方歳三の遺体があったので、改めて火葬して碧血碑に納めた」
のだとか…。
しかし七重(七飯)に閻魔堂は存在せず、該当するとすれば“七重浜”で閻魔大王を祀っているこの極楽寺になるのではないか、ということなのですが…どうでしょうか。

似たような話で、島田魁が土方の遺体を一旦七重村の閻魔堂の下に隠し、後年改めて改装したというエピソードも耳にしたことがありますが、いずれも戦死から幾年も経て、当時の医学レベルで当然白骨化したであろう遺体の身元を特定出来るとも思えず、信憑性は低いと言わざるを得ないでしょう。

ただ、柳川の証言と島田魁のエピソード、奇妙な一致が気になるところではありますね。。。

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二股口古戦場 ― 箱館戦争巡り④

■5月31日(土) 3日目
旅の3日目は早朝6時、函館朝市の冷やかしからスタートですww

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あ~あのイカ釣り、よくTVでも紹介されていますよね。

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朝市での朝食。やっぱり北海道に来たら食べておかないとね☆
…朝食に2,000円以上は、ちと贅沢過ぎだけど(;・∀・)


地図1
20140531a03
さて、3日目の踏査地はこちら。

午前8時前に全員集合し、まず向かう先は今回の旅のメイン・イベントともいえる二股口古戦場です!

二股口の戦い
明治2年4月9日、乙部に上陸した新政府軍は松前城を奪還してから北上する松前口、木古内を経て福山街道を北上する木古内口、そして箱館への最短ルートを進む二股口三方から進軍し、箱館を目指しました。
これに対し旧幕府脱走軍は、二股口に土方歳三を総督とする衝鋒隊や伝習歩兵隊などからなる300の部隊を派遣します。

土方隊は4月10日に二股口に到着。台場山に本陣を置き、周辺に16ヶ所もの塹壕を築いて新政府軍を待ち構えました。

20140531a04
新政府軍が進軍してきた北西側からの天狗岳(天狗山)の眺め。
国道脇を大野川が流れています。

4月13日午後3時、新政府軍はまずこの天狗岳を攻略して峠の江差山道を更に台場山へ向かって進みます。

絵図
20140531a05

ところで、二股口古戦場といえばこちらの古絵図が有名ですよね。
左下に描かれた天狗岳を攻略した新政府軍は、赤い線で示されている江差山道伝いに進軍します。
先ほどの天狗岳の写真は、この絵図の下端から上に向いて撮った感じになります。

地図2
20140531a06

土方軍が待ち受ける台場山周辺の現在の地図はこちら。

天狗岳から進軍してきた新政府軍は、谷間を流れる下二股川を挟んで台場山の対岸に陣地を構築(絵図/地図2 )し、戦闘が開始されました。
第一次二股口の戦い

20140531a07
まずはその新政府軍の陣地へ行ってみます。

20140531a08
佐藤安之助の墓(地図2
津軽出身の薩摩藩従者。4月24日の戦闘で戦死しました。

20140531a09
新政府軍陣地からの台場山方面
まさにこの距離間で相対したのです。

20140531a10
新政府軍陣地から、軍事境界線たる下二股川渡河地点へと下っていく旧道(江差山道)跡。

新政府軍に数では劣りながらも、塹壕の胸壁で身を守りながら土方軍も小銃を徹底的に撃ち続けました。
翌14日朝、新政府軍が銃弾を撃ち尽くして撤退するまでの約16時間、土方軍が消費した弾丸は35,000発にも及ぶ激しさでした。

そして戦いは再び、4月23日から25日未明にかけて繰り広げられます。
第2次二股口の戦い
土方軍は使い続けて熱くなった銃身を川から汲み上げた水で冷やしながら戦い、新政府軍の指揮官・駒井政五郎を討ち取るほどの奮戦を見せます。
またしても防衛ラインを突破させることなく新政府軍を撃退し、遂には台場山攻略を断念させたのです。

20140531a11
では、いよいよ台場山に登ります!

…と勢い込んで登り始めたのはいいのですが、しばらくするとハッキリ“それ”と分かる熊さんの足跡と糞が…(;´・ω・)
糞の乾燥状態を確認した上で、とにかく鈴を鳴らしながら慎重に進みます。。。

20140531a12
豊玉さん♪(´艸`*)

台場山への登山ルートは、新政府軍との戦闘方向に対して背面側からになります。

20140531a13
そのルートを振り返って。
道の右脇に蛸壺(一人用塹壕)と思しき遺構も。陣地の背後を見張るためのものでしょうか。

20140531a14
絵図 の位置に描かれている長方形の空間。
周囲を盛り土された胸壁で囲まれています。(地図2でも

台場山に築かれた塹壕群の中心で、旧道を扼する位置にあります。

20140531a15
この時のために多摩から運んだお酒をお供えさせていただきました。

20140531a16
同じくの位置から正面、下二股川の渡河地点方向を見た様子。

20140531a17
絵図&地図2の地点の塹壕
絵図に描かれているのと全く同じように、稲妻型の形状をしています。

20140531a18
こんな感じで鉄砲を撃ち下ろしていたんですね。

20140531a19
同じ塹壕を奥に回り込んで反対側から見た様子。

20140531a20
こちらは五稜郭タワーに展示されていたジオラマ。
塹壕の胸壁に土嚢を積んで鉄砲を撃ち下ろし、その背後では桶に汲んだ水で銃身を冷やしている銃兵の姿も見えます。まさにこんな感じで戦っていたのでしょうね。
ちなみに右奥で指揮を執っているのが土方さんで、左奥にはフランスからの軍事顧問団の誰かしらの姿も。

20140531a21
そしての稲妻型塹壕の背後には地表面を大きく掘り下げ、戦闘方向に対して身を隠せるようにした広い空間がありました。
写真では藪が酷くて空間の様子は分からないでしょうが、左側が切岸状に高くなっている様子はお分かりいただけますでしょうか。
これによって敵の銃撃から身を隠せるようになっています。戦うのは前方の稲妻型塹壕になりますので、おそらくここは交代要員の待機場所・後方陣地だったのではないでしょうか。

ここであの、土方が兵士たちに酒を振る舞ったと云う有名なエピソードを思い出しますね。

『総督自カラ樽酒ヲ携諸壁シテ兵ニ贈リ謂、汝等ハ歩卒ニシテ能防リ、官軍ハ士ニシテ且衆、吾常ニ賞嘆ス、且汝等戦幾許リ、日五十回二下ラス、汝等牧野駿刕公治下妙見山ニテ風雨ヲ侵シテ戦フ、昼夜其烈シクシテ久キハ奥羽越ノ三刕ノ戦ヒ此ニ過ル無シ、今日ノ戦ヒ汝等ヨリ見レハ児童ノ戯ナリ、吾重賞ヲ与フ、然レドモ酔ニ乗シテ軍律侵スヲ患、只一椀ヲ与フ而巳、
(「島田魁日記」より)

ごく簡単にまとめれば;
「敵は士官で人数も多いのに、君たちは歩兵でありながら本当によく戦っている。これまで一体何度戦ってきたか。五十回は下らないだろう。奥羽越での辛い戦いに比べれば、今日の戦いは君たちにとっては子供の遊びのようなものだ。だから俺から褒美として酒を振る舞おう。但し、酔いに任せて軍律を犯してはいけないから一杯だけな」
といったところでしょうか。

確かな証拠は何もないけれど、各塹壕を回って酒を振る舞いながらも、この台詞はきっとこの場所でのものだったんじゃないかな♪

写真は上手く撮れませんでしたが、前方の稲妻型塹壕へと通じる細い通路も掘り下げられていました。

20140531a22
続いて反対側、新政府軍に向かって右手の稜線に登っていきます。
絵図をご覧いただいてもお分かりの通り、こちら側の稜線沿いにも多くの塹壕が掘られていました。
…が、藪が酷くて途中で断念。

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断念したポイント付近から、新政府軍陣地( 写真鉄塔のすぐ上辺り)を望む。
あちらの新政府軍陣地から、今立っている台場山方面を見た写真も掲載しましたが、今立っている場所はその写真に写っている鉄塔の足元付近です。

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に引き返す途中、藪に隠れるようにして佇む塹壕を見つけました。(と推定)
枡形らしき虎口も備えた凝った造りの塹壕に見えましたが、如何せんこの藪…写真は全滅でした(;・∀・)

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可能な範囲で下二股川の渡河地点に向かって下ってみます。
みんなが立っている左側には旧道(江差山道)の跡と思われる堀のような窪みもありました。

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旧道の堀底道と思しき遺構。まるで台場山の陣地を守る空堀のようでもあります。
しかし案の定といいますか、この先も藪が酷くて渡河地点までは下りられませんでした。

この日踏査した範囲をサイガさんに作図していただきましたので、掲載いたします。
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これまでもで示してきた各塹壕の他、最初にご紹介した蛸壺(図中央下)や、稲妻型塹壕の背後に広がる交代要員の待機場所と思しき空間、そこから稲妻型塹壕へと通じる掘り下げられた通路などの位置関係がよくお分かりいただけるかと思います。

新政府軍を撃退し続けた土方歳三率いる二股口防衛軍。
しかし、旧幕府脱走軍は松前口・木古内口方面での戦線を維持できなかったため、歳三らもやむなく二股口を放棄して撤退せざるを得なくなったのでした。。。

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二股口古戦場、いずれまた必ず、時期を慎重に選んで再訪します!!
(地図2


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最後に市渡の川濯神社へ。
土方軍が二股口の後方陣地とした場所です。

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2014年6月 6日 (金)

函館の夜景 ― 箱館戦争巡り③

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木古内~富川にかけての史跡巡りを終えた後は函館市内に戻り、車をホテルに置いて市電で移動…
「十字街」駅で下車します。

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おっと、カラーマンホールみっけ☆

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南部藩が築いた陣屋跡の石垣。
でも目的はこれではなく・・・

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こちら。そう、函館山からの夜景です☆
やっぱり函館に来たからには押さえておかないとね!(笑)

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早速山頂から。まだ明るいですが、日が落ちるにつれて大混雑するらしいので早めの場所取りです(;^ω^)
一日遅れで函館入りしたみかんさんとも、ここで合流。チーム函館(箱館)、全員揃いました♪

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弁天台場があった函館ドック方面の眺め。

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ちなみに函館山、山頂の展望台付近は勿論のこと、あそこの平場など数ヶ所にも砲台場が築かれていました。

しかし風が強くて寒いのなんのって…ちょっと過酷な待ち時間となってしまいました…(^_^;)

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そして、ようやく訪れた日没。
奥の方に五稜郭タワーと、そこから左斜め下に走る旧松川街道(土方歳三が一本木関門に向けて進んだ道)の光のラインも写っていますが、分かりますか?

ひとしきり記憶と写真に収めたら、もう一目散に退散!寒かったぁ~(笑)

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帰り道で五稜郭ver.のカラーマンホールもみつけましたよ♪

夜はホテル近くの居酒屋で食事。函館で4人揃っての乾杯はこれが初めてになりました☆
この後、とても嬉しいサプライズが…!?

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なんと、みかんさんが今月誕生日だったサイガさんと私の為、誕生日ケーキを用意してくれていたのです!わざわざ事前に函館のケーキ屋さんに手配までして…( *´艸`)
しかも函館の地で土方歳三ケーキ☆もう感激しちゃったなぁ…ありがとうございました♪

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ホテルへの戻り道にて。函館と言ったら、この人たちも忘れてはいけませんね♪

楽しい時間はあっという間。2日目の夜も早々に更けていきます。。。

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木古内・茂別館・矢不来・富川塁 ― 箱館戦争巡り②

■5月30日(金) 2日目
朝8時、駅前のレンタカー店で車を調達して出発。
海沿いを走る国道228号(松前国道)を南下します。

地図
20140530a01
榎本武揚率いる旧幕府脱走軍(箱館政権)は明治新政府軍の襲来に備え、箱館と松前を結ぶ福山街道(ほぼ現在の国道228号と並行する)沿いにも数多くの陣地・台場を築いていました。
今回はそのうちの、木古内より北側の古戦地を巡っていきます。

◆木古内

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木古内駅に到着!(と言っても車でw)
随分と立派な駅だなぁと思ったら、数年後には新幹線が開通するらしいですね。

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早速、周辺の地形確認中…

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そうそう、この日より2日間お世話になるヴィッツ君♪ナンバーが!(笑)

明治2年4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介は伝習隊・額兵隊を率いて木古内に着陣します。
同14日、第一次木古内の戦い。この時は大鳥軍が新政府軍を撃退しています。
そして20日早朝。木古内から北西方向にあたる木古内口から急襲してきた新政府軍との間で再び戦端が開かれました(第2次木古内の戦い)。

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この時、大鳥圭介が本陣に定めていたのが、あちらの薬師山です。

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この薬師山、芝桜の名所でもあるそうで、少し時期は逸した感はあるものの山頂付近にはまだいくらか咲いていました♪

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薬師山山頂に建つ薬師堂を、海沿いの福山街道とは反対側の尾根筋から。
本陣背面を守る虎口に見えなくもない…かな?(^_^;)

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山頂からの眺め。この眼下に福山街道が通り、知内を経て松前へと繋がっていました。

この4月20日の第2次木古内の戦いは激しいものとなり、新政府軍に押された大鳥軍は札苅泉沢方面まで退却を余儀なくされます。
ところが新政府軍も、松前城が陥落して知内方面から退いてきた旧幕府脱走軍に挟撃されるのを恐れて一旦北西の笹小屋まで退いたため、大鳥軍は木古内を奪還します。
しかし、木古内での戦闘継続は地形的にも不利と判断し、防衛戦線をより北方の要地である矢不来へ移すことに決めたのでした。

ところで同じ4月20日、木古内への援軍として駆けつけていた伊庭八郎率いる遊撃隊は、
『人家が裏山に連なる大原
で奮戦していました。そして八郎はここで致命傷を負ってしまうのです。。。

その場所は何処か…地図を眺めていましたが「大原」という地名は見つかりません。
しかし程なく、札苅の近くに「大平」という地名があることに気づきました。「おおひら」を「おおはら」と聞き間違えたか、書き間違えたのではないか…。
とにもかくにも足を運んでみます。

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その大平地区。
人家が裏山に連なる大原…旧街道も通り、或はと思わせる風情でした。

別の旧幕府脱走軍兵士の証言で、その(八郎が負傷した)場所は「札苅ノ海岸」ともあり(小杉雅之進「麦叢録」)、この大平付近であった可能性はあると思います。

重傷を負った伊庭八郎は泉沢から船で五稜郭へ運ばれ、5月中旬、五稜郭降服の直前に命を落としました。。。

さて、我々も北上します。
・・・とその前に、ちょっと寄り道。

◆咸臨丸終焉の地

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サラキ岬の咸臨丸終焉の地(地図

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咸臨丸といえば何と言っても、1860(安政7)年に勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎ら錚々たるメンバーを乗せ、日米修好通商条約批准書交換を目的とした幕府遣米使節護衛の随伴艦として太平洋を渡る偉業をなし遂げたことで有名ですね。

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しかし幕末、戊辰戦争に敗れて北海道への移住を余儀なくされた仙台藩白石城主・片倉小十郎家臣団一行を乗せた咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、このサラキ岬沖で座礁沈没してしまいます。
明治4年9月20日のことでした。

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そういえば木古内駅近くで見かけたマンホールも咸臨丸でした。

◆茂別館

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続いては茂別館に到着。なかなかの虎口☆

茂別館は嘉吉3年(1443)、津軽十三湊城主の安東太郎盛季が南部氏に敗れて蝦夷島に渡った際に自らの居館として築いたのが始まりだとか。
箱館戦争の時には、やはり福山街道を扼する拠点の一つとして松平幸七郎を頭並とする伝習隊が布陣したこともありました。

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虎口周辺には横堀が廻らされている様子もハッキリ確認できます。

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現在は矢不来天満宮の境内となっていますが、周囲をグルッと囲む土塁も残っていました♪

◆矢不来台場

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続いて矢不来台場へ移動。第一台場への虎口です。

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その虎口手前、入城路の両脇には虎口を守るように塹壕が掘られていました。
写真は虎口から向かって左側の塹壕。

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そして右側の。

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先程の虎口を入り、すぐ右に折れる2つ目の虎口(写真左下)を抜けると、そこには第一台場の広い空間が。
周囲を胸壁や土塁がグルりと囲みます。城でいう主郭、司令部を置くためのスペースかなと思いました。

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土塁の外側には横堀も。

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第一台場から南側の第二台場へは、海沿いを通る福山街道に沿ってまるで通路の様に銃兵の為の塹壕が掘られていました。
この塹壕を辿っていくと…

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第二台場
写真左、海側に向かって土塁の様なものが畝っている様子が分かるかと思います。
これは大砲を据えるためのもので、畝の窪み部分に大砲を据えていました。

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その窪み部分の一つから海側に向かって。
中心部分(写真では左)が少し低くなっています。恐らくここに大砲の砲身を充てたのでしょう。
その先、正面の胸壁の両脇には、、、

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銃兵のための塹壕が☆
もう、これでもか!っていうくらいに戦う意志、意図が明確な遺構です。

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砲座は全部で3基築かれていました。

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その後方には不思議な窪みが。
背後を守るための塹壕でしょうか…?

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更に背後へ進んでいくと、尾根の反対側からの敵に備えるかのように二重の塹壕や、ご覧の様な堀も穿たれていました。
背中を向けている明日香さんの向こう側には、やはり胸壁で囲まれた長方形のスペースが広がっていました。

この矢不来周辺での戦線を突破されてしまったことにより、それまで二股口で新政府軍を撃退し続けていた土方歳三率いる部隊も五稜郭へ至る背後を断たれる危険性が生まれ、撤退を余儀なくされるのでした。

しかし矢不来台場の遺構、とても熱かった!必見です☆

◆富川塁

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最後は富川八幡宮へ。
ここにも箱館戦争時、富川塁と呼ばれる陣地が構築されていました。
あの石段を登って八幡宮の裏手に回り、更に峠に踏み入れると、、、

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ほら、あった♪
もうお分かりでしょ?

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旧福山街道の堀底道と思しき遺構です☆
基本的には海岸沿いを行く福山街道ですが、この辺りでは峠に掛かっていたのです。きっと大鳥圭介もこの道を通ったことでしょう♪

見事な街道遺構を見付けて一人でウキウキだった私ですが、肝心の富川塁が見付からず、近くに大きな道路が築かれていたこともあって「やはりもう壊されちゃったのかねぇ…」などと話していました。
ところが山道の脇をふと見ると、どうにも怪しげな様子が樹木の隙間から垣間見えていた…。思い切って分け入ると・・・

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あった♪
土塁というよりは、地表面を掘り下げて胸壁を築いた感じの遺構です。

図面

Zumen
こちらはサイガさんが作成した富川塁の図面
ほんの15~20分程度、周囲を歩き回っただけでここまで詳細に構造を把握してしまうのだから凄い!

福山街道の峠道を押さえ、南(図面下)から迫る新政府軍に備えた造りになっています。

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結構大掛かりな手が加えられ、複雑な形状をした“そそられる”遺構でしたよ♪

木古内の戦い跡地巡り、そして茂別館~富川塁に至る集中的な陣地・台場遺構。
現地を訪れ、地理・地形・距離感を確認することで初めて戦闘の様子を垣間見ることが出来たような気がします。

この後は市内に戻り、函館定番の観光スポットへ☆

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函館市内散策 ―箱館戦争巡り①

2014年5月29日~6月1日の4日間、北海道は函館市へ行って参りました☆
思えば1年以上も前から温めてきた箱館戦争(明治元~2年)史跡巡りの企画。遂にこの時が来たのです!

5月29日(木) 初日
初日は基本的に単独行動。am10:00羽田発の便で向かい、函館には定刻より5分遅れのam11:25に到着しました。
そのまま目の前に停まっていた空港バスで函館駅へ。

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本当にいい天気に恵まれました☆ むしろ暑いくらい…(;^ω^)

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函館駅前からは市電を利用して移動します。

地図1
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この日の単独市内巡りは、市電終点の「函館どっく前」からスタートします。

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「函館どっく前」駅横の公園に建つ新選組最後の地碑。
そう、ここにはかつて箱館戦争の折りに新選組が籠って戦い、そして降服した弁天(岬)台場がありました。

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弁天台場の古写真

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同じく江戸期に描かれた図面

地図2
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これを現在の地図に合わせると、大体こんな感じになります。

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弁天台場跡の碑(地図2 )から後方に聳える函館山を望む。

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そのまま函館漁港方面へ歩きます。
五稜郭デザインのマンホール☆

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イカのもあった♪

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函館漁港に建つ函館港改良工事記念碑(地図1
実は弁天台場の解体~埋め立て後、その石垣の石材がこちらの石碑の土台や、、、

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防波堤の石材として利用されているのです☆
姿形は失われても、その名残はしっかりと息づいていました。

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称名寺
明治12年の大火で本堂を焼失し、この地に移転してきました。(地図1

土方歳三の故郷、日野にある菩提寺・高幡不動尊金剛寺の過去帳に;
「函館称名寺に供養塔を建てた」
と記録されていたお寺です。

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過去に3回も火事に見舞われ、その時の供養塔は残っていませんが、昭和48年に有志によって土方歳三や新選組隊士のための供養碑が建てられました。

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称名寺には豪商として有名な高田屋嘉兵衛一族のお墓もありました。

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お次は実行寺。先ほどの称名寺のお隣です。

箱館戦争終結後、新政府軍による旧幕府脱走軍戦死者たちの遺体埋葬禁止令が出される中、侠客の柳川熊吉はその惨状を見るに耐えかね、実行寺住職らと共に収容して回って実行寺や称名寺などに仮埋葬しました。
ために熊吉は捕えられてしまいますが釈放され、後に函館山の麓に土地を購入して旧幕府脱走軍の遺体を改葬し、更に榎本大鳥らと協力して箱館戦争に於ける旧幕府脱走軍戦死者たちを慰霊する碧血碑の建立にも携わりました。

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実行寺境内には箱館戦争で亡くなった旧会津藩士らのお墓が静かに佇みます。

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更に進んで高龍寺(地図1
凄い煉瓦壁…(゜o゜)!?

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高龍寺山門。函館市内で一番古いお寺です。

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境内に建つ傷心惨目碑

箱館戦争当時、現在地より少し坂を下った場所にあった高龍寺は旧幕府脱走軍の箱館病院分院として使われていました。
そこへ明治2年5月11日、新政府軍が乱入して傷病兵らを殺傷し、建物も放火するという事態が発生しました。。。

同寺が明治12年に現在の場所に移転されると翌年、犠牲になった会津藩士らを供養するために旧会津藩の有志がこの碑を建てました。

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箱館戦争当時、その高龍寺が建っていた場所。ここで件の事件は起きたのです…。
(地図1

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こういう坂からの景色を眺めていると、函館に来たんだなぁ~と実感する♪

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こちらは称名寺の跡地(地図1
高幡不動尊の過去帳に記録されていた土方歳三の供養塔があった場所。

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3つ目のマンホールみっけ☆

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ぶらぶら歩いていたら、たまたま看板を見つけたので、、、
新島襄海外渡航碑(地図1

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時には“普通の”観光も(笑)
赤レンガ倉庫群

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ちょっと疲れてきたし、お腹も空いたので赤レンガ倉庫群向かいのお店で一休み♪

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高田屋嘉兵衛造船所跡地(箱館高田屋嘉兵衛資料館)

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旧幕府脱走軍幹部による“最後の晩餐”?の地、武蔵野楼跡
(地図1

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市電「十字街」駅前に建つ看板…そう、ここにはかつて異国橋が架かっていました。
(地図1

新政府軍による箱館総攻撃が始まった明治2年5月11日、五稜郭を出て一本木関門まで進出した陸軍奉行並・土方歳三は、部下である添役の大野右仲に命じて更に弁天台場方面へ出撃させます。
一本木関門を出た大野隊は、ここ異国橋付近まで進撃したものの敗走する兵があとを絶たず、やむを得ず一本木関門、更に千代ヶ岡台場へと撤退しました。
撤退しながら大野は、
「奉行(土方)は“吾この柵にありて退く者は斬る”と言っていたのに、何故兵の敗走が止まらなかったのか」
と訝しんでいましたが、千代ヶ岡台場まで退いたところで同役の安富才助らから土方の戦死を知らされたのです。。。

このエピソードなど見方を変えれば、大野が上官である土方をそれだけ信頼し切っていたことを裏付けていますよね。

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「永国橋」と書かれているのが異国橋です。

一方で「土方は一本木関門から箱館(弁天台場)方面へ出撃して戦死した」という認識も根強かったため、彼の戦死候補地の一つとされていたこともあります。

しかし彼は一本木関門で、箱館方面とは反対の七重浜方面からの敵にも対処する必要があったため、前述の通り箱館方面は大野に向かわせ、自らは一本木で指揮を執っていました。
土方が戦死した時、箱館方面の戦線はまだこの異国橋付近で維持されていたので、彼を狙撃したのはきっと七重浜方面からの敵兵でしょう・・・。

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ちょうど「十字街」駅北側の線路辺りに架けられていました。

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今は本願寺函館別院となっている願乗寺跡(地図1

土方歳三は戦死後、五稜郭まで運ばれて埋葬されました。
その五稜郭では明治11年に土塁補修工事が行われ、その際に夥しい数の遺体が発見されたため願乗寺に改葬されます。
更に明治16年には、より「高等の位地」へ場所を移して移転式や供養祭も行われたそうですが、現在では供養碑も失われ、その位置は分からなくなっています。

ただ、移転後の移転式・供養祭も同寺で執り行われているそうなので、おそらくは境内の中の何処かであろうと思われます。

つまりは土方歳三や、五稜郭でその隣に葬られたと云う伊庭八郎が今も眠っているかもしれない場所。


そんなこんなで歩き回っているうちにいい時間になってきたので、そのまま歩いて函館駅方面へ。
一旦ホテルにチェックイン後、駅前で2日目から行動を共にするサイガさん、明日香さんと合流♪

2014052934
名物のイカ刺しに、なんとホッケの刺身まで☆

函館初日の夜は美味しい海の幸と、盛り上がる歴史談義で楽しく暮れていくのでした。。。

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