桶狭間合戦 ― 織田&今川の進軍ルート
合戦のあった永禄3年5月19日は、現在の暦では今年の6月12日。少しでも合戦当日に近い時期を選んで・・・。
私にとっては一昨年11月に続く2度目の桶狭間。初回訪問時以降に出会い、大変な感銘を受けた一冊の本、太田輝夫先生のご著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」(新人物往来社)を元に、今回はまた違った視点で歩いてみたいと思います。
※本記事も基本的に「桶狭間合戦 奇襲の真実」の内容に則ったものになりますが、ブログ管理人の見解により一部違う箇所もございます。予めご承知おきください。
◆今川軍の想定進軍ルート
まずは駿河を発し、尾張へと侵攻してきた今川軍の想定進軍ルートを歩きます。
地図Ⅰ

『天文廿一年(永禄三年の誤り)壬子五月十七日、
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、(以下略)』
(信長公記 首巻「今川義元討死の事」より。以下同)
永禄3年(1560)5月17日、沓掛城(地図Ⅰ右端)に着陣した今川軍はそこで軍議を開き、18日の夜を待って大高城(地図Ⅰ左端)へ兵糧を入れ、更に満潮(当時は大高城のすぐ西まで海岸線が迫っていました)になって織田軍が後詰めに出て来られないであろう19日の朝に、大高城を包囲する砦(丸根・鷲津)を攻略する旨を決定します。
地図Ⅱ

という訳で、私も沓掛城からスタートします。

沓掛城址公園の案内図

一般的に沓掛城というと、こちらの沓掛城址公園一帯を指します。

綺麗に整備されて遺構もハッキリしていますが、全くの平地にあって肝心の尾張方面への展望が効きません。
そして実は、城址公園から少し西へ行った所にもう一つ、地元で密かに沓掛城跡と伝承され、実際にそれらしき遺構が残されているのを近年、太田先生が発見されています。


・・・その前に、聖應寺にもお参り。
永禄11年の創建。桶狭間合戦の後、その戦功(恐らくは今川軍の進軍状況、義元本陣の位置を信長に知らせた功)により沓掛に3000貫の所領を与えられた簗田出羽守(広正/別喜右近)のお墓や位牌があります。

簗田出羽守のお墓。
藪に覆われていて、近づくのも困難でした・・・

さて、こちらが先程の城址公園から西へ200mほど行った小高い山の麓に残されていた堀跡。

写真には写っていませんが右に堀がもう1本あり、二重になっていました。
写っている堀が右にカーブしているあの先で、、、


本丸と推定される部分。堀があった場所との間を道路が分断しています…。
調査の結果、江戸期の「沓掛村古城絵図」に描かれた縄張りと、堀の形状や土橋の位置まで一致するそうです。立地からしても充分に「戦い」を意識した造りの印象。
事情により詳しいアプローチは書けませんが、或いは義元が決戦前に軍議を開いた沓掛城はこちらだったのかもしれません。

永禄3年5月19日、いよいよ義元本隊も沓掛城を出陣します。

鎌倉古道が通る二村山に差し掛かりました。

しばらく登ると少し開けた場所に出ます。
実はこちら、先程訪れた聖應寺の飛地境内なのだそうです。
(地図Ⅱ①)

背面に「大同二」(西暦807年)の刻印がある二村山峠地蔵尊。
鎌倉街道を行く旅人が盗賊に襲われた際、身代わりとなって肩から上が欠落したという伝説があるそうです。

山頂付近には、二村山切られ地蔵尊。
背面に「古来仏依会大破建立之延宝七己未年」とあることから、先程の「大同二」の地蔵の傷みが著しいために延宝7年(1679)、新たに安置されたお地蔵さんと考えられています。
つまり、身代わり地蔵の身代わり。

二村山山頂からの眺め。写真中央辺りが沓掛城。

同じく桶狭間方面。

源頼朝の歌碑
建久元年(1190)、上洛途上に二村山を越えた源頼朝は、ここで歌を一首残しています。
よそに見し をさゝが上の 白露を
たもとにかくる 二村の山

二村山の峠に今も残る鎌倉古道

気の遠くなるような長い年月、果たしてどれほど多くの旅人が行き交ったことでしょう・・・

二村山を西へ下りると、田楽ヶ窪に出ます。
古来名勝として名高く、歌にも詠まれている場所です。
(地図Ⅱ②)

とても雰囲気のある小路をなだらかに下り・・・

少し開けた平地に出ました。(地図Ⅱ③)
ここから進路は再び緩やかな上り勾配となります。

地図Ⅱ④の分岐点。
一瞬どちらへ進むか迷いましたが、右へ行くと織田方の丘陵地帯へ向かってしまうと判断し、左の道を選択。

お!大きな通りに分断されているけど、いい感じの道が☆

更に進むと・・・

小学校(大宮小)の敷地に気になる土盛りが。一瞬、一里塚っぽいなと思いました。
地図Ⅲ


前後神明社(地図Ⅲ⑤)
ここで現在の東海道(国道1号線)に出ますが、この国道は跨いで、、、

旧東海道へ(地図Ⅲ⑥の区間)

やっぱりいいわぁ~ここのマンホール♪
しばらく旧街道沿いを進むと、、、

さあ、いよいよ近づいてきました。

桶狭間古戦場伝説地(地図Ⅲ⑦)
義元の本陣の場所について「信長公記」には『おけはざま山』と記されており、実際にこの古戦場伝説地から南へ行った先に現在「桶狭間山」と呼ばれている山があります。
それ以外にも、旧東海道の南側沿いに聳える高根山や漆山を義元本陣と唱える説もあります。いずれにしても、当時の武将が陣を張るなら当然見晴らしがよく、防御に優れた山の上と考えるのがごく常識的であることは確かです。
それが予定された行動であるならば、ですが・・・
ところが、その他諸々の史料には義元本陣について;
「桶間の松陰」(武家事記)
「路次の側の松原」(甲陽軍鑑)
「桶狭之山の北」(成功記)
「桶狭間の山下の芝原」(総見記)
と記されており、今川義元が行軍を止めて陣を布いた場所は「桶狭間山」の北に位置するここ、桶狭間古戦場伝説地だったと示唆しているのです。
この地がかつて松原であったことは、明治後期に撮られた古写真が証明しています。
ここで改めて、「信長公記」から『おけはざま山』が出てくる箇所を引用してみます。
『夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、
御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の息を休めこれあり。
天文廿一壬子五月十九日、午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからずの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の息を休め、大高に居陣なり。
信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が戈先には、天魔鬼神も忍るべからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居ゑられ侯。信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、(以下略)』
下線を引いた出だしの『様体御覧じ、』の後から、最後の『信長御覧じて、』の間に書かれている部分は、その前後の如何にも太田牛一目線な描写とは違い、急に合戦全体を俯瞰で捉えたかのような表現になっています。
これは、本来この時点では元康であるはずの家康の名前を『家康』と書いていることからも、牛一が後から人伝に聞いた情報などを書き足して挿入したのではないか、と太田輝夫先生が著書の中で唱えていらっしゃいます。
まさに目からウロコ、なるほどなぁ~と感心せずにはいられません。
そこから察するに、義元本陣の場所について細かい地名を知らなかった(覚えていなかった)牛一が、その辺り一帯の場所を指して「おけはざま山」と表記していたとしても不思議はないように思えます。
実際、古戦場伝説地のすぐ横まで桶狭間山に連なる稜線が伸びています。
地図Ⅳ

ところで、この日の今川軍の行動予定は地図Ⅳにピンクの点線で示したルートに沿って進み、最終的には大高城へ入るはずでした。

その道中にある瀬名伊予守氏俊陣所跡(地図Ⅳ⑧)
現地の説明板には;
永禄三年五月十七日、今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約二百名が先発隊として着陣し、村木(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と、大将今川義元が十九日に昼食する時の本陣の設営をしました。(以下略)
…何と合戦の2日も前に今川の一隊がここまで入り込んで、しかも義元の昼休憩のための陣所の設営までしていたというのです。
そう、写真奥に見える小高い茂み(通称セナ藪)こそ、本来義元の本陣となるはずであった場所なのです(以下、本陣予定地)。

セナ藪の中は削平されており、それらしき側溝の様な跡も・・・

すぐ脇には大高道へと繋がる旧道や、、、

長福寺も。寺伝に;
永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いのとき、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者となって率先酒食を提供し、その労をねぎらった
とあります。実際にはこの手前の古戦場伝説地で今川軍が止まってしまったので、住職たちはそこまで酒食を運んだのかもしれません。
目指す大高城へのルート上で、しかも瀬名氏俊があらゆる方向を監視していたということからも見晴らしのいい高台にあることが分かるし、すぐ横には休憩もできる長福寺。
まさに本陣にうってつけの占地です。
今川義元は海道一の弓取りと謳われた名将です。用意周到、ちゃんと絶好の場所に本陣を準備させていたのです。
それが何故その手前で、しかも不用意とも言えるような場所(古戦場伝説地)に本陣を据え、しかも留まったのか・・・。
先へ進みます。

信長が大高城包囲の為に築かせた鷲津砦の遠景。
5月19日の早朝、今川家重臣・朝比奈泰能隊に攻められて陥落しました。

鷲津砦公園
この奥の樹間に分け入ると、、、

鷲津砦址の石碑

遺構は残っていないかな~と諦めていましたが、よく見ると土塁や、、、

見事な横堀がありました。
これらはしっかり、包囲する大高城がある南西の方向に面しています。

続いて大高城へ。
大高の中心地(辻)だった場所に建つ辻の秋葉社。江戸期の高札場もこの場所に設けられていたそうです。

大高城跡の碑

大高城二の丸。右が本丸。
桶狭間合戦前夜、松平元康(徳川家康)がこの城への兵糧入れを成功させています。

大高城から鷲津砦方面。

そして丸根砦方面。鷲津砦とは尾根続きです。
大高城への兵糧入れを成功させた松平隊は、続け様にあの丸根砦へ攻め掛かって落城させています。
その後、元康は大高城へ戻り、総大将義元の到着を待っていました。。。

本丸に建つ社
◆織田軍の想定進軍ルート
さて、今度は織田軍側の想定進軍ルートを歩いてみます。
地図Ⅴ

ピンクの今川軍に対して、織田軍は緑のラインに沿って進軍したと思われます。

スタート地点に定めた善照寺砦へ向かう道すがら、鳴海城跡。
(地図Ⅴの左上)

鳴海城のすぐ近くには圓龍寺。
元は善照寺という名前でした。そう、善照寺砦の名前の由来。

更に道端で見かけた小さなお社。よ~く見ると、、、

織田木瓜♪
地図Ⅵ

永禄3年5月19日早朝、清州城を飛び出した信長は熱田神宮、丹下砦などを経由して善照寺砦に入ります。
(地図Ⅵに「砦」と書かれている位置)

地図Ⅵの左上、鳴海城の東に位置する堀切跡と思われる道路。地図に「矢切」と書かれている辺りです。
地名からしても如何にも遺構っぽくないですか?

善照寺砦西端の櫓台跡。まさに包囲する鳴海城に向けた最前線。
この櫓台の目の前にも、、、

堀跡と思われる地形が見受けられました。

更に奥(東)の主郭部へ進んだ先の地形。

そして善照寺砦主郭はご存じ、こちらの砦公園。

善照寺砦から信長が御覧じた、今川勢が展開するおけはざま山方面の眺め。
ここからの光景を見る限りおけはざま山とは、どれか特定の山ではなく、東海道を挟んだ対岸に稜線が連なる桶狭間周辺全体を指しているようにも思えてきます。

善照寺砦で『様体』を『御覧じ』た信長は、更に対今川最前線となる中島砦へと移ります。

中島砦
城域内を旧東海道(地図Ⅵに黄色で描かれている道。222号)が貫通しています。

中島城址の碑

中島砦のすぐ北にある瑞泉寺
「尾張名所図会」にも描かれていますが、現在も姿形が殆ど同じです。
目の前を旧東海道が通っているし、高台の立地…或いは桶狭間合戦当時には、こちらが砦として使われていたとしてもおかしくないな、とも思いました。

その旧東海道
『中島より又、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚には、各よくゝ承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍にして大敵を怖るゝことなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いて稠り倒し、追ひ崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし』
(信長公記)
中島砦に入った信長は、出陣を止める家老らに向かって有名な演説をぶち、いよいよ義元との決戦に向けて出撃します。

中島砦を出て、まずは扇川沿いを東へ。

途中で少し進路を南東(右)へとり、、、

更に細い道を進みます。

焼田橋南からは上り坂に。
現在は住宅地になっていて地形が分かり辛いですが、既に峠に差し掛かっているようです。
…或いはここが信長公記に『山際』と書かれた場所か?・・・しかし何となくピンと来ない。

道の両脇を見るとこんな感じ。峠特有の堀底道だった様子が垣間見えます。
ちなみに写真は南の方角を写したもの。この先の地形も上がっており、今川軍からは完全に死角に入って軍勢の移動を隠せるルートです。

名古屋第二環状自動車道を越えます。
地図Ⅶ

環状道を越えるとすぐに、、、

これは・・・!?
『山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。』
(信長公記)

ここが『山際』ではなかろうか…。(地図Ⅶ①)
地形図で確認しても、それまで上ってきた緩やかな勾配とは違って如何にも山の際。現地を歩いていて直感的に、ここだ!と感じました。

ご覧のように、あちらの山に向かって地形はグッと落ち込んでいます。
『俄に』降り出した雨の中、現在の道とは少しずれますが一旦下まで下って、地図Ⅶに示したように山と山の合間を縫うように南へ進んだのではないかと思います。

東丘小の横から、道は再び上りになります。
この合戦の折、信長の馬引きとして参陣していた人物の;
信長の御馬を山へ乗上げ乗下ろし、し給ふなどといふより外別事なし、只よく覚へたる事にては、合戦の日、暑気甚だしき事此年に成りしまで終に覚へず、誠に猛火の側に居るがごとく、又、昼前より日輪の傍に一点の小黒雲が何ぞと怪敷物見へたり、其黒雲忽ち一天に広くはびこり真暗く成り夥しき大風雨なりし
という証言が記録されていますが、この「山へ乗上げ乗下ろし」という状況とピッタリ一致します。
そして昼前から黒雲が広がりだして後、大風雨になったとありますので、この付近を通っているのは正午過ぎ頃か。

地図Ⅶ②地点から。
左奥、細い柱の先の茂み付近に義元が本陣を置く桶狭間古戦場伝説地があります。
中央手前、木々が茂っている辺りには一昔前まで「太子ヶ根」と呼ばれる小高い山がありました。

その太子ヶ根の北谷(北の谷)へ一気に下ります。

太子ヶ根があった辺り。
信長は自らの手勢をこの北谷に隠し、自身は太子ヶ根に登って突撃前最後の敵情視察をしたかもしれません。
或いは簗田広正から義元本陣位置の確報を得たのもここでのことか。

この周辺は複雑な地形をしており、義元本陣の近くにも関わらず、兵を隠すには最適だったのでしょう。
さて、ここで今川義元がセナ藪の本陣予定地まで行かず、「桶狭間山の北の松原」(=古戦場伝説地)で留まっていた理由に触れたいと思います。
先に、「信長公記」の善照寺砦での表記に後から書き足して挿入したと思われる箇所がある、ということを書きましたが、その中に;
『信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。』
という一文がありました。
これを以って、善照寺砦に信長が入ったのを見た佐々・千秋が抜け駆けで出撃して今川軍に掛かり、全滅する様子を信長が善照寺砦から『御覧じ』ていたかのように解釈されていますが、中島砦から出撃する際の演説で信長は、今川軍の大高城への兵糧入れや鷲津・丸根砦への攻撃のことには触れているのに、佐々・千秋隊との一戦には一切触れていません。
これは佐々・千秋隊が善照寺・中島砦周辺で戦ったのではないことを証明しています。
では彼らはどのように『義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝ』ったのでしょうか。
「尾張名所図会」の「桶狭間古戦場」の説明の中に;
太子が根より二手に分ち、一手は駿兵の先手にあたらせ、自らも南へまはり来りて田楽が窪の本陣を攻、急に撃たまひしが駿兵不意に襲れ(以下略)
とあります。
太子ヶ根から二手に分け、義元本隊の先手にあたらせた一手こそ、佐々・千秋隊でしょう。
地図Ⅷ

信長本隊に先行して太子ヶ根まで進んだ佐々・千秋隊(水色のライン)は、地図③辺りの谷間で待ち構え、やって来た義元本隊の目の前に現れます。
「前方に敵兵現る!」
の報に触れた義元は進軍を停止させて桶狭間山の北の松原(古戦場伝説地)に臨時の本陣を据え、迎撃態勢をとらせます。
そこへ『瞳とかゝり来』たる佐々・千秋の織田軍。しかし衆寡敵せず、今川勢はこれを撃ち破って地図Ⅷ④の方向へ追い立てて佐々・千秋の両将を始め、多くの首級を挙げます。
佐々らを討ち取った前線から首と共に戦勝報告が届けられ、義元は『心地はよしと、悦んで、』祝宴を上げます。
この時、彼は何と言ったか。
『義元が戈先には、天魔鬼神も忍るべからず。』
これが示すもの。義元は彼の戈先に掛かって来て、討ち取った首を織田信長自身かもしれないと思ったのではないでしょうか。
中島砦などは『無勢の様体、敵(今川)方よりさだかに相見え』る場所でしたから、当然義元も信長が戦場に出てきていることは把握しています。
もしかしたら信長を討ち取ったかもしれない。この分だと尾張を獲るのも容易い・・・
だからこそ佐々・千秋隊との戦闘が終結した後も『緩々として謡をうたはせ、陣を居ゑ』て留まっていたのです。
ところがこの時、彼の本陣は意図せず佐々・千秋隊を迎え撃った前軍や、元々東海道を押さえるために高根山などに配置してあった右備えの軍勢(地図Ⅷ◆◆)と引き離されていたのです。。。
そして、これこそが信長の狙いだったのです。
何故そんなことが可能だったのか。それは彼が、今川軍の進軍ルートを事前に把握していたからに外ありません。
大胆にも決戦2日前に義元の本陣設営を始めた瀬名隊の動きは当然、信長の元にも伝えられていたでしょう。
しかも、「信長公記」の義元討ち死に後の記述に、服部左京助が義元の命で大高城近くに多数の武者舟を漕ぎ寄せていたことが書かれています。結局義元は討ち死にし、左京助は帰りがてら熱田に漕ぎ寄せて町口に火を掛けようとしますが、予め待ち受けていた町人らの返り討ちに遭い、スゴスゴと引き上げています。
これなども織田方が大高に舟が集められている=義元は大高城に向かうことを予め把握していた証とも見て取れます。
更にもう1点。決戦前夜(18日)、清州城に再三「鷲津・丸根砦が攻撃されそうだ」と注進が舞い込んでいた段階では信長は決して動こうとせず、彼が清州城を飛び出したのは今川勢による鷲津・丸根砦への攻撃開始を確認して後です。
これでようやく確信したのでしょう。「義元は確実に大高城へ向かう」と。

佐々・千秋隊が旧東海道を越え、駆け上がった坂。

そして地図Ⅷ③今川軍を待ち構えていた場所、釜ヶ谷。
現地説明板などでは織田信長自身が待機していた「山際」として紹介されていることが多い場所です。
周辺の地名・字名は武路町、或いは武待。武者が行く路、武者が待つ場所、、、何だか思わせぶりな名前ですよね♪
更に佐々らが追撃されて討ち取られていったと思われる地図Ⅷ④には、七ツ塚があります。
戦後、信長が地元の民らに命じて戦没者たちを弔らわせたものです。
佐々・千秋らの行動が勝手な抜け駆けではなかった証拠に、佐々の弟(成政)や息子、千秋の息子らは後に信長によって取り立てられています。
自らの作戦のために捨て石となった佐々や千秋のため、信長はしっかり報いているのです。
さて、信長本隊の動きに戻ります。
首尾よく今川勢の進軍を止めることに成功し、簗田出羽守から義元本陣の位置を確認した信長は遂に最後の出撃の断を下します。


一目散に駆け抜け、、、

左前方に義元本陣を捉えながら、、、
(ガストの看板奥に見えているのが、古戦場伝説地横に建っている高徳院の塔)

東海道を越え、、、

佐々・千秋らの働きによって引き離された今川本隊の前衛と義元本陣の間へ滑り込むように、本陣横の小高い丘(現高徳院)の西側を駆け上がります。
地図Ⅸ

兵の一部を現在は高徳院が建つ丘の上へ駆け上がらせ、信長自身は南から回り込んで義元の本陣へと迫ります。
これは勿論、襲撃後に義元を瀬名氏俊が設営した本陣予定地に逃げ込ませないためです。

地図Ⅸ①から北側を見た様子。
宝永2年(1705)に描かれた「桶狭間古戦場之図」にも、「此道より信長襲入と云」と書かれています。
…今にも馬蹄を轟かせて、あの先から織田信長率いる軍勢が現れそうではありませんか☆

『空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物算を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。』
(信長公記)
信長の号令一下、織田軍が攻め掛かるや今川勢は瞬く間に『くはつと崩れ』、あたふたと逃げ出している様子がよく分かります。
この描写からも正面攻撃などではなく、今川勢にとって予想外の奇襲であったことが分かります。
※「正面攻撃説」では、中島砦を出た信長は旧東海道沿いに真っ直ぐ、本陣をおけはざま山に据えて戌亥(西北、つまり街道沿い)の方角に兵を備えて待ち構える今川の大軍へ攻め掛かったとされていますが、大軍で待ち構えているところへ正面から、しかも自軍よりも遥かに小勢の軍に攻め掛かられた途端に崩れてしまうほど、東海三国を治める今川の軍勢は腰抜けだったというのでしょうか。
それ以前に、信長からしてみれば自らの意思で鷲津・丸根砦を見殺しにしておきながら、それによって旧東海道の南側全域が今川軍の勢力下に収められてしまったにも関わらず、今川軍が段々に待ち受けるその東海道沿いという危険極まりないルートをわざわざ選択するなど、まさに愚の骨頂と思えて仕方ありません。
「結果的に今川の前衛が崩れたから正面攻撃で勝てたのではないか」という結果論はあえて取り上げません。
そもそも桶狭間合戦の発端は、寝返りや調略によって今川方となっていた鳴海城・大高城に対し、信長が砦を築いて対抗したことによる国境(勢力圏)紛争です。
ところがいざ合戦となった時、意図的に鷲津・丸根砦を放棄していることからも分かる通り、義元自らの出陣を確認した段階で信長の中でこの合戦の目的(目標)は主力決戦=義元本陣にシフトチェンジしているのです。
だからこそ、誰もが国境防衛を考える中で決戦前夜に『軍の行は努々これな』かったのも、味方の砦を見捨ててまでまさかの本陣攻撃を決断をしていた信長にとっては予定の行動で、そんな彼が自らの作戦が作り上げた戦況の中で最も不利なルートを選択する筈がない、と考えるのです。
(それに・・・
山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。(中略)空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。
改めて信長公記から引用しますが、織田軍が山際まで寄せたところで俄かに豪雨が降り出し、その雨が通り過ぎて空が晴れてきた時に信長は攻撃を命じています。
正面攻撃説に拠ると山際とは即ち、いずれの山(の際)であっても今川軍の正面足元ということになります。すると両軍共に、
「敵が目の前にいるけど、今は雨が降っているから休戦、雨が上がったら再開しよう」
といって、雨が上がるのを待っていたとでもいうのでしょうか・・・考えにくいですよね)


高徳院

高徳院境内にも今川義元公本陣跡の碑があります。

高徳院境内、丘の最高所付近には義元の重臣・松井宗信のお墓もあります。彼もここで戦死しました。
(地図Ⅸ②)

その傍らには七石表二号碑

松井宗信のお墓から東、義元本陣の方向を見た様子。
高徳院の丘に駆け上がって松井宗信らを討ち取った信長の手勢は、更に本陣目掛けてここを攻め下ります。
その時の様子を今川方の史料である「松平記」で見てみます。
味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の槍にて義元を突申候処、(以下略)
思ひもよらざる奇襲で、しかも山の上よりも(つまり信長は山の上ではなく南から)とはっきり書かれています。

織田勢(服部小平太ら)が駆け下ってきた坂

古戦場伝説地に建つ七石表一号碑

今川義元の墓と伝えられてきた塚

こちらも今川義元の仏式墓碑
『未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合せゝゝ、次第ゝゝに無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。』
(信長公記)
旗本三百騎が義元を囲んで東の方角を指して逃げるものの次々と討たれ、みるみるその数を減らしていきます。
『おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。』
(信長公記)
深田に足を取られ、思うように退却できない様子が見て取れます。
ちなみに「尾張名所図会」の「桶狭間古戦場之図」にも旧東海道沿いに田んぼが描かれています。
そして遂に・・・
『服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐り臥せ、頸をとる。』
(信長公記)
義元が最後に討たれた場所ですが、数十年前まで、本陣跡の古戦場伝説地から300mほど東へ行った旧東海道沿いに今川義元の墓標らしきものがあったそうです。
或いはそこが、旗本三百騎が五十騎に減り、終には毛利新介に討たれた場所だったのかもしれませんね。。。
更に東へ行けば多数の戦死者を葬ったと云われる戦人塚があり、その先は沓掛城へと続きます。恐らく今川勢は元来た沓掛城へ向かって逃げ、そして多くが討たれていったのでしょう。

写真は旧道ではなく現在の東海道(国道1号)を東へ行った辺りのものですが、、、なにやら曰くありげな。

よろいかけの松の旧地(地図Ⅸ③)
義元を討ち取り、逃げる今川勢の追撃戦に入ると信長は鎧を脱いでここにあった松に掛け、戦況を見守ったと云います。
この時の馬引きが晩年「この歳になるまで、あの時ほど暑かったことは記憶にない」と述回しているくらいだから…暑かったのでしょうね(^_^;)

田楽坪の古戦場公園(地図Ⅸ④)

最後に改めて、豊明市の桶狭間古戦場伝説地
すぐ隣にあったと云う池からは古い武具がたくさん発見され、のみならず、近所にお住まいの方々によると武具やら青磁の椀やら、いろいろなものが近隣の工事や住宅の増改築の度に出てくるそうです。
今も謎が多く、諸説入り乱れる桶狭間合戦。
無論、歴史に絶対はありませんが、今回実際に歩き通してみて、一歩その真実に近づけたような気はしています。
これまで素晴らしい研究・調査をされ、我々にも享受してくださる方々に敬意と感謝を捧げ、自らも己の探究心の命ずるまま、これからも歴史に触れて行きたいと強く思いました。
特に素晴らしい著書「桶狭間合戦 奇襲の真実」を著された太田先生や、踏査にご同行頂いたサイガさん、豊明市の桶狭間古戦場ガイドの皆様には感謝申し上げます。
※参考文献;
「桶狭間合戦 奇襲の真実」(大田輝夫氏著/新人物往来社)
「信長公記」(太田牛一)