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2014年6月 7日 (土)

二股口古戦場 ― 箱館戦争巡り④

■5月31日(土) 3日目
旅の3日目は早朝6時、函館朝市の冷やかしからスタートですww

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あ~あのイカ釣り、よくTVでも紹介されていますよね。

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朝市での朝食。やっぱり北海道に来たら食べておかないとね☆
…朝食に2,000円以上は、ちと贅沢過ぎだけど(;・∀・)


地図1
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さて、3日目の踏査地はこちら。

午前8時前に全員集合し、まず向かう先は今回の旅のメイン・イベントともいえる二股口古戦場です!

二股口の戦い
明治2年4月9日、乙部に上陸した新政府軍は松前城を奪還してから北上する松前口、木古内を経て福山街道を北上する木古内口、そして箱館への最短ルートを進む二股口三方から進軍し、箱館を目指しました。
これに対し旧幕府脱走軍は、二股口に土方歳三を総督とする衝鋒隊や伝習歩兵隊などからなる300の部隊を派遣します。

土方隊は4月10日に二股口に到着。台場山に本陣を置き、周辺に16ヶ所もの塹壕を築いて新政府軍を待ち構えました。

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新政府軍が進軍してきた北西側からの天狗岳(天狗山)の眺め。
国道脇を大野川が流れています。

4月13日午後3時、新政府軍はまずこの天狗岳を攻略して峠の江差山道を更に台場山へ向かって進みます。

絵図
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ところで、二股口古戦場といえばこちらの古絵図が有名ですよね。
左下に描かれた天狗岳を攻略した新政府軍は、赤い線で示されている江差山道伝いに進軍します。
先ほどの天狗岳の写真は、この絵図の下端から上に向いて撮った感じになります。

地図2
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土方軍が待ち受ける台場山周辺の現在の地図はこちら。

天狗岳から進軍してきた新政府軍は、谷間を流れる下二股川を挟んで台場山の対岸に陣地を構築(絵図/地図2 )し、戦闘が開始されました。
第一次二股口の戦い

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まずはその新政府軍の陣地へ行ってみます。

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佐藤安之助の墓(地図2
津軽出身の薩摩藩従者。4月24日の戦闘で戦死しました。

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新政府軍陣地からの台場山方面
まさにこの距離間で相対したのです。

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新政府軍陣地から、軍事境界線たる下二股川渡河地点へと下っていく旧道(江差山道)跡。

新政府軍に数では劣りながらも、塹壕の胸壁で身を守りながら土方軍も小銃を徹底的に撃ち続けました。
翌14日朝、新政府軍が銃弾を撃ち尽くして撤退するまでの約16時間、土方軍が消費した弾丸は35,000発にも及ぶ激しさでした。

そして戦いは再び、4月23日から25日未明にかけて繰り広げられます。
第2次二股口の戦い
土方軍は使い続けて熱くなった銃身を川から汲み上げた水で冷やしながら戦い、新政府軍の指揮官・駒井政五郎を討ち取るほどの奮戦を見せます。
またしても防衛ラインを突破させることなく新政府軍を撃退し、遂には台場山攻略を断念させたのです。

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では、いよいよ台場山に登ります!

…と勢い込んで登り始めたのはいいのですが、しばらくするとハッキリ“それ”と分かる熊さんの足跡と糞が…(;´・ω・)
糞の乾燥状態を確認した上で、とにかく鈴を鳴らしながら慎重に進みます。。。

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豊玉さん♪(´艸`*)

台場山への登山ルートは、新政府軍との戦闘方向に対して背面側からになります。

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そのルートを振り返って。
道の右脇に蛸壺(一人用塹壕)と思しき遺構も。陣地の背後を見張るためのものでしょうか。

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絵図 の位置に描かれている長方形の空間。
周囲を盛り土された胸壁で囲まれています。(地図2でも

台場山に築かれた塹壕群の中心で、旧道を扼する位置にあります。

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この時のために多摩から運んだお酒をお供えさせていただきました。

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同じくの位置から正面、下二股川の渡河地点方向を見た様子。

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絵図&地図2の地点の塹壕
絵図に描かれているのと全く同じように、稲妻型の形状をしています。

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こんな感じで鉄砲を撃ち下ろしていたんですね。

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同じ塹壕を奥に回り込んで反対側から見た様子。

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こちらは五稜郭タワーに展示されていたジオラマ。
塹壕の胸壁に土嚢を積んで鉄砲を撃ち下ろし、その背後では桶に汲んだ水で銃身を冷やしている銃兵の姿も見えます。まさにこんな感じで戦っていたのでしょうね。
ちなみに右奥で指揮を執っているのが土方さんで、左奥にはフランスからの軍事顧問団の誰かしらの姿も。

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そしての稲妻型塹壕の背後には地表面を大きく掘り下げ、戦闘方向に対して身を隠せるようにした広い空間がありました。
写真では藪が酷くて空間の様子は分からないでしょうが、左側が切岸状に高くなっている様子はお分かりいただけますでしょうか。
これによって敵の銃撃から身を隠せるようになっています。戦うのは前方の稲妻型塹壕になりますので、おそらくここは交代要員の待機場所・後方陣地だったのではないでしょうか。

ここであの、土方が兵士たちに酒を振る舞ったと云う有名なエピソードを思い出しますね。

『総督自カラ樽酒ヲ携諸壁シテ兵ニ贈リ謂、汝等ハ歩卒ニシテ能防リ、官軍ハ士ニシテ且衆、吾常ニ賞嘆ス、且汝等戦幾許リ、日五十回二下ラス、汝等牧野駿刕公治下妙見山ニテ風雨ヲ侵シテ戦フ、昼夜其烈シクシテ久キハ奥羽越ノ三刕ノ戦ヒ此ニ過ル無シ、今日ノ戦ヒ汝等ヨリ見レハ児童ノ戯ナリ、吾重賞ヲ与フ、然レドモ酔ニ乗シテ軍律侵スヲ患、只一椀ヲ与フ而巳、
(「島田魁日記」より)

ごく簡単にまとめれば;
「敵は士官で人数も多いのに、君たちは歩兵でありながら本当によく戦っている。これまで一体何度戦ってきたか。五十回は下らないだろう。奥羽越での辛い戦いに比べれば、今日の戦いは君たちにとっては子供の遊びのようなものだ。だから俺から褒美として酒を振る舞おう。但し、酔いに任せて軍律を犯してはいけないから一杯だけな」
といったところでしょうか。

確かな証拠は何もないけれど、各塹壕を回って酒を振る舞いながらも、この台詞はきっとこの場所でのものだったんじゃないかな♪

写真は上手く撮れませんでしたが、前方の稲妻型塹壕へと通じる細い通路も掘り下げられていました。

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続いて反対側、新政府軍に向かって右手の稜線に登っていきます。
絵図をご覧いただいてもお分かりの通り、こちら側の稜線沿いにも多くの塹壕が掘られていました。
…が、藪が酷くて途中で断念。

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断念したポイント付近から、新政府軍陣地( 写真鉄塔のすぐ上辺り)を望む。
あちらの新政府軍陣地から、今立っている台場山方面を見た写真も掲載しましたが、今立っている場所はその写真に写っている鉄塔の足元付近です。

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に引き返す途中、藪に隠れるようにして佇む塹壕を見つけました。(と推定)
枡形らしき虎口も備えた凝った造りの塹壕に見えましたが、如何せんこの藪…写真は全滅でした(;・∀・)

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可能な範囲で下二股川の渡河地点に向かって下ってみます。
みんなが立っている左側には旧道(江差山道)の跡と思われる堀のような窪みもありました。

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旧道の堀底道と思しき遺構。まるで台場山の陣地を守る空堀のようでもあります。
しかし案の定といいますか、この先も藪が酷くて渡河地点までは下りられませんでした。

この日踏査した範囲をサイガさんに作図していただきましたので、掲載いたします。
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これまでもで示してきた各塹壕の他、最初にご紹介した蛸壺(図中央下)や、稲妻型塹壕の背後に広がる交代要員の待機場所と思しき空間、そこから稲妻型塹壕へと通じる掘り下げられた通路などの位置関係がよくお分かりいただけるかと思います。

新政府軍を撃退し続けた土方歳三率いる二股口防衛軍。
しかし、旧幕府脱走軍は松前口・木古内口方面での戦線を維持できなかったため、歳三らもやむなく二股口を放棄して撤退せざるを得なくなったのでした。。。

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二股口古戦場、いずれまた必ず、時期を慎重に選んで再訪します!!
(地図2


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最後に市渡の川濯神社へ。
土方軍が二股口の後方陣地とした場所です。

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