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2014年6月 8日 (日)

一本木関門 ― 箱館戦争巡り⑥

3日目のラスト、いよいよ念願の一本木関門跡地を探索します☆

地図
20140531c01

榎本武揚の箱館政権が財源確保のため、通行料徴収を目的に設置した一本木関門
(地図 茶色のラインが一本木柵)

明治2年5月11日
新政府軍による箱館総攻撃が開始されると、土方歳三は五稜郭を出陣。千代ヶ岡台場で陣容を整えた後、松川街道を一本木関門まで進みます。

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一本木関門跡
GSの右を斜めに貫いているのが、土方が進んできた旧松川街道の名残です。
そして写真右、歩行者信号の奥に見える細い路地は、関門の柵沿いに流れていた亀田川の支流跡

…この光景を振り仰いで目にした瞬間、一気にこみ上げてくるものがありました。。。

20140531c03
ところで明治29年頃の地図には、この一本木関門の脇に正方形の船着場のようなものが描かれています。(地図 緑のライン
該当位置に行ってみると確かにそれらしき地表面の高低差が…。写真左手前の線路側は、当時はまだ海だったのです。

20140531c04
亀田川の支流跡

20150620
この亀田川の支流に沿って一本木関門の柵は築かれていました。
カメダ川ノ支流

土方が一本木関門に到着して程なく、戦場一帯に突如として大轟音が響き渡りました。
それまで七重浜沖からの艦砲射撃で旧幕府脱走軍を散々に苦しめていた新政府軍の朝陽艦を、脱走軍の幡竜艦の放った一発の砲弾が運良く弾薬庫に直撃して見事撃沈させたのです!

この瞬間の様子を、箱館居留外国人を避難させるために停泊していた英国軍艦パール号付の軍医補だったメリックは次のように表現しています。

『両軍とも突然の大災害に一瞬息をのんだ。そして、轟音がしずまったのち、戦場一帯にしんしんたる静寂がみなぎった。

大地を揺るがす大轟音、
海面に立ち昇るキノコ雲、
そしてマストだけを海面に残して沈没する朝陽艦、、、
突然の信じ難い光景に、戦闘も忘れて息を呑む両軍兵士。
まるで戦場とは思えぬ静寂が支配する時間、、、

その瞬間の情景が目に浮かぶようではありませんか☆

暫し呆気にとられたかのように静まり返る戦場。
が次の瞬間、それまでの劣勢に沈みがちだった旧幕府脱走軍は、奇跡のような僥倖に一気に沸き返りました。
まさにこの時、土方歳三の口からあの有名なが発せられるのです。
この機、失するべからず!

兵士たちの士気は否が応にも高まったことでしょう。
土方はまず、添役の大野右仲に兵を預け;

吾この柵にありて退く者は斬る

と言って箱館(弁天台場)方面へ出撃させます。
この大野隊は異国橋付近まで敵を押し戻しました。

そして土方自身は関門を守りつつ、反対側の七重浜方面からの敵にも当たり、これを一度は撃退して七重浜一帯を奪還したことを、立川主税や前出のメリックの証言からも窺い知ることができるのです。

二股口での奮戦といい、まさに経験に裏打ちされた天才戦闘指揮官の真骨頂発揮の瞬間だったことでしょう。
一発の銃弾に斃れる最期の時まで。。。

・・・戦死後、土方の遺体は小柴長之助や沢忠助に伴われて五稜郭まで運ばれました。


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亀田川の支流跡沿いに、いい雰囲気の塀が建っていました。
土方歳三最期の地、一本木関門。往時の雰囲気を偲ぶことが出来ました♪

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路地を一本移動して、「一本木」の名前の由来になったとも云うヤチダモの木。
(二代目?)

20140531c07
そして最後に土方歳三最期の地
みんなでお線香をあげてお参りいたしました。

なんだかもう、感無量です。


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3日目の夜、函館での最後の晩餐☆
サーモンにホッキ貝に、ニシンの刺身まで!左上はホヤの刺身です(´艸`*)

捌きたてほやほや♪…(゜o゜)!?

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