碧血碑、五稜郭 ― 箱館戦争巡り⑦
■6月1日(日) 4日目
早いもので函館の旅も最終日を迎えました。
この日はまず、市電で終点の「谷地頭」まで移動。そこから函館山の麓を歩くこと15分ほどで、、、
碧血碑
明治8年に建立された箱館戦争における旧幕府脱走軍戦没者のための慰霊碑です。
土方歳三や、千代ヶ岡台場で戦死した中島三郎助父子らをはじめとする約800人の戦死者を弔っています。
碑の文字は大鳥圭介の揮毫とも。
この前日に訪れた極楽寺の記事でも書きましたが、碧血碑の建立に携わった柳川熊吉は「七重村の閻魔堂」にあった土方の遺体を碧血碑に改装した、という逸話が残されています。
そのことを知った榎本武揚が大変喜んだ、とも・・・。
また、五稜郭から発見された遺体を合装していた願乗寺の墓碑を移転した際(明治16年)、その移転先である「高等の位地」は願乗寺の背後に聳える函館山を指すのではないか、という説を唱える方もいるようです。
ことの真偽はともかく、熊吉がこの函館山に土地を購入して実行寺などに仮埋葬していた脱走軍戦死者たちを改葬したことは事実のようです。
そういった(戦死者たちの遺体回収・仮埋葬、碧血碑の建立)柳川熊吉の功績を讃え、碧血碑の脇には彼の米寿(88歳)の記念に建てられた碑石も静かに佇んでいます。
その翌年、熊吉は静かに89歳の生涯を閉じたのでした。
さて、次はいよいよ五稜郭へ移動します☆
五稜郭タワーが見えてきました☆
あちらの銅像は…榎本さんと大鳥さん、かな?
間違えていたらゴメンなさい…(^_^;)
まずはタワーの展望室へ。
ドーンッ!来たよー五稜郭!!
・・・写真に収まり切らない(^_^;)
展望室内には様々なジオラマが展示されており、これが結構楽しめます。
この撮影シーン、実際に写真が残されていますよね。
ほら♪
地図1
五稜郭と千代ヶ岡台場、そして一本木関門の位置関係。
タワーからは土方がその最期の日となる明治2年5月11日、一本木関門へと出撃した旧松川街道もハッキリと確認できます☆
(地図 紫のライン)
とある古絵図。ちょうど先程の写真と同じように、函館山を向こうにして五稜郭の側から描かれています。
一本木関門に向かって流れる亀田川も描かれていますが、これもタワーから確認できます。写真右、斜めに細長く伸びる緑地の部分です。
地図1で確認すると現在は流路が変えられていますが、古絵図によると当時は一本木関門のすぐ近くで七重浜側に流れ込んでいたのですね。
土方歳三が一本木で七重浜方面からの敵と戦った際、或いはこの亀田川を防衛ラインにしたのかもしれないな、なんて考えました。
箱館戦争図
七重浜に流れ込む亀田川を挟んで対峙する両軍、
キノコ雲を上げながら沈みゆく朝陽鑑、
大野右仲が向かった異国橋方面、
弁天台場、、、
見事に明治2年5月11日の戦闘の様子を描き切っています☆
一発の銃弾に貫かれる一人の男の姿まで・・・
歳さんの銅像
では五稜郭内を散策しましょう♪
半月堡、全国的にも珍しい“返し”のついた石垣
栄永の刻印
「永く栄える」の願いを込めたものでしょうか…?
復元された箱館奉行所。勿論、中も見学しました☆
訪れた時は藤の花が満開♪周囲に甘い香りが充満していました。
そして、、、
一本松の土饅頭
一本木関門での戦死後、五稜郭に埋葬された土方歳三。
彼の埋葬場所について、多摩・小野路(東京都町田市)の小島鹿之助が記した「両雄士伝」に;
『従士、屍を担いて五稜郭に還り、壙を穿ちて之を葬る』
とあります。
また、明治32年に行われた伊庭八郎を偲ぶ会において、列席者から;
『八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らに在り』
との発言もありました。
この会には八郎の弟・想太郎、松平太郎、八郎の最後を看取ったという荒井鎌吉らも列席しており、信憑性は高いと思います。
大正15年には実際に、この土饅頭の発掘調査が行われたそうです。
が、この時は何も出て来ませんでした。これは、明治11年に行われた五稜郭の土塁補修工事の際に大量の人骨が発見され、まとめて願乗寺(本願寺函館別院)に改装されているためだと考えられます。
件の明治32年の発言者は、この事実を知らなかったのでしょう。
また、「土塁補修工事」と言っても遺体を本当の土塁に埋めるとは到底考えられず、人骨が出てきた土塁とは即ち土饅頭のことと考えられます。
この土饅頭、城の構造として見ても何ら戦闘・防衛上の意味を成しておらず、そういったものがこの場所にあるということは、やはり・・・
これまでも極楽寺や碧血碑の記事の中で諸説ご紹介しましたが、土方歳三、そして伊庭八郎が埋葬されたのはこの五稜郭の中であることは間違いないでしょう。
その後、願乗寺に改葬されたのか、今も五稜郭内の別の場所で静かに眠るのか…。その先は今となっては本人たちの魂のみぞ知る、といったところでしょうか。
砲座跡
このラインだけで3~4ヶ所も並んでいました。
明治元年10月26日、旧幕府脱走軍が入城した裏門。
五稜郭を出て、旧松川街道を進みます。
正面に函館山。あの日、土方歳三もこうして函館山を見据えながら千代ヶ岡台場、そして一本木関門へと向かったのですね・・・
地図2
現在では失われていますが、千代ヶ岡台場はこの位置にありました。
箱館戦争巡りの旅、最後は中島三郎助父子最後之地碑。
新政府軍による降伏勧告を謝絶し、千代ヶ岡台場で父子三人、壮絶な最期を遂げました。
(地図2 ★)
さて、3泊4日に及んだ旅もこれで終了です。
まだ函館に残るサイガさん、明日香さんとは五稜郭タワー前でお別れし、私はみかんさんと共に空港に向かって帰路へ。
4日間通して天候にも恵まれ、充実し切った旅でした。
チーム箱館を引率し、たくさんのことを教えていただいたサイガさんには勿論のこと、楽しい時間を共有して頂いたメンバー皆に感謝です!
そう遠くない日に必ずまた来ます、函館☆
※2019年10月に函館(松前・江差・乙部も)を再訪いたしました。
その時の様子を「箱館戦争めぐり⑧~⑯」としてまとめておりますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
→コチラから
早いもので函館の旅も最終日を迎えました。
この日はまず、市電で終点の「谷地頭」まで移動。そこから函館山の麓を歩くこと15分ほどで、、、
碧血碑
明治8年に建立された箱館戦争における旧幕府脱走軍戦没者のための慰霊碑です。
土方歳三や、千代ヶ岡台場で戦死した中島三郎助父子らをはじめとする約800人の戦死者を弔っています。
碑の文字は大鳥圭介の揮毫とも。
この前日に訪れた極楽寺の記事でも書きましたが、碧血碑の建立に携わった柳川熊吉は「七重村の閻魔堂」にあった土方の遺体を碧血碑に改装した、という逸話が残されています。
そのことを知った榎本武揚が大変喜んだ、とも・・・。
また、五稜郭から発見された遺体を合装していた願乗寺の墓碑を移転した際(明治16年)、その移転先である「高等の位地」は願乗寺の背後に聳える函館山を指すのではないか、という説を唱える方もいるようです。
ことの真偽はともかく、熊吉がこの函館山に土地を購入して実行寺などに仮埋葬していた脱走軍戦死者たちを改葬したことは事実のようです。
そういった(戦死者たちの遺体回収・仮埋葬、碧血碑の建立)柳川熊吉の功績を讃え、碧血碑の脇には彼の米寿(88歳)の記念に建てられた碑石も静かに佇んでいます。
その翌年、熊吉は静かに89歳の生涯を閉じたのでした。
さて、次はいよいよ五稜郭へ移動します☆
五稜郭タワーが見えてきました☆
あちらの銅像は…榎本さんと大鳥さん、かな?
間違えていたらゴメンなさい…(^_^;)
まずはタワーの展望室へ。
ドーンッ!来たよー五稜郭!!
・・・写真に収まり切らない(^_^;)
展望室内には様々なジオラマが展示されており、これが結構楽しめます。
この撮影シーン、実際に写真が残されていますよね。
ほら♪
地図1
五稜郭と千代ヶ岡台場、そして一本木関門の位置関係。
タワーからは土方がその最期の日となる明治2年5月11日、一本木関門へと出撃した旧松川街道もハッキリと確認できます☆
(地図 紫のライン)
とある古絵図。ちょうど先程の写真と同じように、函館山を向こうにして五稜郭の側から描かれています。
一本木関門に向かって流れる亀田川も描かれていますが、これもタワーから確認できます。写真右、斜めに細長く伸びる緑地の部分です。
地図1で確認すると現在は流路が変えられていますが、古絵図によると当時は一本木関門のすぐ近くで七重浜側に流れ込んでいたのですね。
土方歳三が一本木で七重浜方面からの敵と戦った際、或いはこの亀田川を防衛ラインにしたのかもしれないな、なんて考えました。
箱館戦争図
七重浜に流れ込む亀田川を挟んで対峙する両軍、
キノコ雲を上げながら沈みゆく朝陽鑑、
大野右仲が向かった異国橋方面、
弁天台場、、、
見事に明治2年5月11日の戦闘の様子を描き切っています☆
一発の銃弾に貫かれる一人の男の姿まで・・・
歳さんの銅像
では五稜郭内を散策しましょう♪
半月堡、全国的にも珍しい“返し”のついた石垣
栄永の刻印
「永く栄える」の願いを込めたものでしょうか…?
復元された箱館奉行所。勿論、中も見学しました☆
訪れた時は藤の花が満開♪周囲に甘い香りが充満していました。
そして、、、
一本松の土饅頭
一本木関門での戦死後、五稜郭に埋葬された土方歳三。
彼の埋葬場所について、多摩・小野路(東京都町田市)の小島鹿之助が記した「両雄士伝」に;
『従士、屍を担いて五稜郭に還り、壙を穿ちて之を葬る』
とあります。
また、明治32年に行われた伊庭八郎を偲ぶ会において、列席者から;
『八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らに在り』
との発言もありました。
この会には八郎の弟・想太郎、松平太郎、八郎の最後を看取ったという荒井鎌吉らも列席しており、信憑性は高いと思います。
大正15年には実際に、この土饅頭の発掘調査が行われたそうです。
が、この時は何も出て来ませんでした。これは、明治11年に行われた五稜郭の土塁補修工事の際に大量の人骨が発見され、まとめて願乗寺(本願寺函館別院)に改装されているためだと考えられます。
件の明治32年の発言者は、この事実を知らなかったのでしょう。
また、「土塁補修工事」と言っても遺体を本当の土塁に埋めるとは到底考えられず、人骨が出てきた土塁とは即ち土饅頭のことと考えられます。
この土饅頭、城の構造として見ても何ら戦闘・防衛上の意味を成しておらず、そういったものがこの場所にあるということは、やはり・・・
これまでも極楽寺や碧血碑の記事の中で諸説ご紹介しましたが、土方歳三、そして伊庭八郎が埋葬されたのはこの五稜郭の中であることは間違いないでしょう。
その後、願乗寺に改葬されたのか、今も五稜郭内の別の場所で静かに眠るのか…。その先は今となっては本人たちの魂のみぞ知る、といったところでしょうか。
砲座跡
このラインだけで3~4ヶ所も並んでいました。
明治元年10月26日、旧幕府脱走軍が入城した裏門。
五稜郭を出て、旧松川街道を進みます。
正面に函館山。あの日、土方歳三もこうして函館山を見据えながら千代ヶ岡台場、そして一本木関門へと向かったのですね・・・
地図2
現在では失われていますが、千代ヶ岡台場はこの位置にありました。
箱館戦争巡りの旅、最後は中島三郎助父子最後之地碑。
新政府軍による降伏勧告を謝絶し、千代ヶ岡台場で父子三人、壮絶な最期を遂げました。
(地図2 ★)
さて、3泊4日に及んだ旅もこれで終了です。
まだ函館に残るサイガさん、明日香さんとは五稜郭タワー前でお別れし、私はみかんさんと共に空港に向かって帰路へ。
4日間通して天候にも恵まれ、充実し切った旅でした。
チーム箱館を引率し、たくさんのことを教えていただいたサイガさんには勿論のこと、楽しい時間を共有して頂いたメンバー皆に感謝です!
そう遠くない日に必ずまた来ます、函館☆
※2019年10月に函館(松前・江差・乙部も)を再訪いたしました。
その時の様子を「箱館戦争めぐり⑧~⑯」としてまとめておりますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
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