鷲ノ木上陸地、峠下 ― 箱館戦争巡り⑤
地図1
二股口古戦場、市渡と観て回った後は国道5号線を北上。
大沼公園や駒ケ岳の裾野を抜けて向かう先は、、、
鷲ノ木の旧幕府脱走軍上陸地です。
彼らがこの地に上陸したのは明治元年10月20日。
現在の暦では12月上旬、上陸した彼らを待っていたのは30㎝を超える積雪と厳しい北の大地の冬でした。
この時、榎本艦隊に同行していたフランス軍事顧問団の一人、ジュール・ブリュネはこの時の上陸の様子を一枚のスケッチに残しています。
それがアングルといい景色といい(季節は違いますが)、上の写真とそっくり同じなのです!
それから察するに、、、
ブリュネがスケッチを描くために立って(座って?)いたのは、この砂利の辺りに間違いありません!
そのスケッチに拠って想像を働かせると、まず艦船を堤防(無論、当時は存在しません)の先端辺りに停泊させ、小舟で写真右端に写っている青い屋根の小屋辺りの浜辺に寄せて上陸しました。
上陸後、一旦拠点とした霊鷲庵跡へと続く坂。現在は途中で線路に遮断されています。
言うまでもなく、土方歳三や大鳥圭介らが登った坂。
その坂から振り返って・・・
霊鷲庵跡
現在の霊鷲院は、国道を挟んで南側へ移動しています。
後に五稜郭への入城を果たし、箱館政権を樹立した榎本軍は明治新政府軍の襲来に備え、新政府軍が上陸してくる地点を自らと同じ鷲ノ木になる可能性を鑑み、あの小山の上などにも台場を築いていました。
しかし、実際に新政府軍が上陸したのは全く反対の西、江差より少し北にあたる乙部でした。
右:伝習士官隊・山本泰次郎の墓。
峠下での戦闘で負傷し、11月9日に鷲ノ木で亡くなりました。
左は上陸時の海難事故などによる鷲ノ木戦没者之碑
蝦夷地上陸後、旧幕府脱走軍は二手に分かれて五稜郭を目指します。
七重を抜けてほぼ真っ直ぐに南下していく本道軍を指揮するのは大鳥圭介。そして海岸沿いを東へ進み、川汲から峠伝いに南下していく間道軍を指揮したのが土方歳三でした。
しかし脱走軍は無用な戦いは望んでおらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に宛てて明治政府への;
『徳川の臣僚食禄に離れ方向を失ひ、東西に彷徨する者を集め不毛の蝦夷地を拓き、北門鎖鑰の護りをなし国恩に報ぜん』
(但し、認められない場合は「やむをえず官軍へ抗敵つかまつるべく」とも)
という嘆願書を携えた人見勝太郎ら30名を使者として先行させます。
ところが箱館府配下の新政府軍が大野・七重まで北上して来たため、人見らは峠下に留まって後を追ってきた伝習士官隊・伝習歩兵隊と合流します。
そして10月22日夜、峠下に銃声が轟き、ここに箱館戦争が開戦したのです。
この時の戦いは戦歴・装備に勝る旧幕府脱走軍が新政府軍を圧倒しました。
その開戦地、峠下にて。左は脱走軍が陣を布いた観音山です。
遥か彼方に函館山がくっきりと見えています♪
峠下での戦闘で戦死した新政府軍兵士たちの墓碑。観音山の麓にあります。
この時の新政府軍にはなんと、七重に移住していた八王子千人同心の子弟たちも含まれていました。互いの心情たるや、如何ばかりであったか…。
平山金十郎の墓。
慶応4年7月、函館府(明治政府)統治下の五稜郭襲撃を企て、後に旧幕府脱走軍に参加した人物です。
峠下付近の大野や七重でも箱館府軍と大鳥軍との間で戦闘が行われ、これをも打ち破った大鳥軍は10月26日、五稜郭への入城を果たしました。
函館市内へ戻る途中、急遽立ち寄らせて貰った極楽寺。
真ん中の灯篭は諸国戦死供養の常夜灯。
箱館戦争の戦没者たちを慰霊するものだとも云われています。
実はこちらも、土方歳三埋葬候補地の一つとして挙げられています。
明治25年、土方家の縁戚・平忠次郎が、多摩出身で北海道に勤務する警察官・橋本福太郎という人物に歳三の遺体の行方についての調査を依頼しました。
この時の調査結果報告の手紙が土方家に現存しています(土方愛氏著書「子孫が語る土方歳三」(新人物往来社)に全文掲載)。
それによると;
碧血碑の碑守から柳川熊吉の存在を知り、尋ねて話を聞くと
「土方の遺体を捜しているうちに“七重村の閻魔堂に埋められて宝物のように大事にされている”という情報を掴み、確認しに行くと紛れも無く土方歳三の遺体があったので、改めて火葬して碧血碑に納めた」
のだとか…。
しかし七重(七飯)に閻魔堂は存在せず、該当するとすれば“七重浜”で閻魔大王を祀っているこの極楽寺になるのではないか、ということなのですが…どうでしょうか。
似たような話で、島田魁が土方の遺体を一旦七重村の閻魔堂の下に隠し、後年改めて改装したというエピソードも耳にしたことがありますが、いずれも戦死から幾年も経て、当時の医学レベルで当然白骨化したであろう遺体の身元を特定出来るとも思えず、信憑性は低いと言わざるを得ないでしょう。
ただ、柳川の証言と島田魁のエピソード、奇妙な一致が気になるところではありますね。。。
二股口古戦場、市渡と観て回った後は国道5号線を北上。
大沼公園や駒ケ岳の裾野を抜けて向かう先は、、、
鷲ノ木の旧幕府脱走軍上陸地です。
彼らがこの地に上陸したのは明治元年10月20日。
現在の暦では12月上旬、上陸した彼らを待っていたのは30㎝を超える積雪と厳しい北の大地の冬でした。
この時、榎本艦隊に同行していたフランス軍事顧問団の一人、ジュール・ブリュネはこの時の上陸の様子を一枚のスケッチに残しています。
それがアングルといい景色といい(季節は違いますが)、上の写真とそっくり同じなのです!
それから察するに、、、
ブリュネがスケッチを描くために立って(座って?)いたのは、この砂利の辺りに間違いありません!
そのスケッチに拠って想像を働かせると、まず艦船を堤防(無論、当時は存在しません)の先端辺りに停泊させ、小舟で写真右端に写っている青い屋根の小屋辺りの浜辺に寄せて上陸しました。
上陸後、一旦拠点とした霊鷲庵跡へと続く坂。現在は途中で線路に遮断されています。
言うまでもなく、土方歳三や大鳥圭介らが登った坂。
その坂から振り返って・・・
霊鷲庵跡
現在の霊鷲院は、国道を挟んで南側へ移動しています。
後に五稜郭への入城を果たし、箱館政権を樹立した榎本軍は明治新政府軍の襲来に備え、新政府軍が上陸してくる地点を自らと同じ鷲ノ木になる可能性を鑑み、あの小山の上などにも台場を築いていました。
しかし、実際に新政府軍が上陸したのは全く反対の西、江差より少し北にあたる乙部でした。
右:伝習士官隊・山本泰次郎の墓。
峠下での戦闘で負傷し、11月9日に鷲ノ木で亡くなりました。
左は上陸時の海難事故などによる鷲ノ木戦没者之碑
蝦夷地上陸後、旧幕府脱走軍は二手に分かれて五稜郭を目指します。
七重を抜けてほぼ真っ直ぐに南下していく本道軍を指揮するのは大鳥圭介。そして海岸沿いを東へ進み、川汲から峠伝いに南下していく間道軍を指揮したのが土方歳三でした。
しかし脱走軍は無用な戦いは望んでおらず、まずは箱館府知事・清水谷公考に宛てて明治政府への;
『徳川の臣僚食禄に離れ方向を失ひ、東西に彷徨する者を集め不毛の蝦夷地を拓き、北門鎖鑰の護りをなし国恩に報ぜん』
(但し、認められない場合は「やむをえず官軍へ抗敵つかまつるべく」とも)
という嘆願書を携えた人見勝太郎ら30名を使者として先行させます。
ところが箱館府配下の新政府軍が大野・七重まで北上して来たため、人見らは峠下に留まって後を追ってきた伝習士官隊・伝習歩兵隊と合流します。
そして10月22日夜、峠下に銃声が轟き、ここに箱館戦争が開戦したのです。
この時の戦いは戦歴・装備に勝る旧幕府脱走軍が新政府軍を圧倒しました。
その開戦地、峠下にて。左は脱走軍が陣を布いた観音山です。
遥か彼方に函館山がくっきりと見えています♪
峠下での戦闘で戦死した新政府軍兵士たちの墓碑。観音山の麓にあります。
この時の新政府軍にはなんと、七重に移住していた八王子千人同心の子弟たちも含まれていました。互いの心情たるや、如何ばかりであったか…。
平山金十郎の墓。
慶応4年7月、函館府(明治政府)統治下の五稜郭襲撃を企て、後に旧幕府脱走軍に参加した人物です。
峠下付近の大野や七重でも箱館府軍と大鳥軍との間で戦闘が行われ、これをも打ち破った大鳥軍は10月26日、五稜郭への入城を果たしました。
函館市内へ戻る途中、急遽立ち寄らせて貰った極楽寺。
真ん中の灯篭は諸国戦死供養の常夜灯。
箱館戦争の戦没者たちを慰霊するものだとも云われています。
実はこちらも、土方歳三埋葬候補地の一つとして挙げられています。
明治25年、土方家の縁戚・平忠次郎が、多摩出身で北海道に勤務する警察官・橋本福太郎という人物に歳三の遺体の行方についての調査を依頼しました。
この時の調査結果報告の手紙が土方家に現存しています(土方愛氏著書「子孫が語る土方歳三」(新人物往来社)に全文掲載)。
それによると;
碧血碑の碑守から柳川熊吉の存在を知り、尋ねて話を聞くと
「土方の遺体を捜しているうちに“七重村の閻魔堂に埋められて宝物のように大事にされている”という情報を掴み、確認しに行くと紛れも無く土方歳三の遺体があったので、改めて火葬して碧血碑に納めた」
のだとか…。
しかし七重(七飯)に閻魔堂は存在せず、該当するとすれば“七重浜”で閻魔大王を祀っているこの極楽寺になるのではないか、ということなのですが…どうでしょうか。
似たような話で、島田魁が土方の遺体を一旦七重村の閻魔堂の下に隠し、後年改めて改装したというエピソードも耳にしたことがありますが、いずれも戦死から幾年も経て、当時の医学レベルで当然白骨化したであろう遺体の身元を特定出来るとも思えず、信憑性は低いと言わざるを得ないでしょう。
ただ、柳川の証言と島田魁のエピソード、奇妙な一致が気になるところではありますね。。。
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