木古内・茂別館・矢不来・富川塁 ― 箱館戦争巡り②
■5月30日(金) 2日目
朝8時、駅前のレンタカー店で車を調達して出発。
海沿いを走る国道228号(松前国道)を南下します。
地図
榎本武揚率いる旧幕府脱走軍(箱館政権)は明治新政府軍の襲来に備え、箱館と松前を結ぶ福山街道(ほぼ現在の国道228号と並行する)沿いにも数多くの陣地・台場を築いていました。
今回はそのうちの、木古内より北側の古戦地を巡っていきます。
◆木古内
木古内駅に到着!(と言っても車でw)
随分と立派な駅だなぁと思ったら、数年後には新幹線が開通するらしいですね。
そうそう、この日より2日間お世話になるヴィッツ君♪ナンバーが!(笑)
明治2年4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介は伝習隊・額兵隊を率いて木古内に着陣します。
同14日、第一次木古内の戦い。この時は大鳥軍が新政府軍を撃退しています。
そして20日早朝。木古内から北西方向にあたる木古内口から急襲してきた新政府軍との間で再び戦端が開かれました(第2次木古内の戦い)。
この時、大鳥圭介が本陣に定めていたのが、あちらの薬師山です。
この薬師山、芝桜の名所でもあるそうで、少し時期は逸した感はあるものの山頂付近にはまだいくらか咲いていました♪
薬師山山頂に建つ薬師堂を、海沿いの福山街道とは反対側の尾根筋から。
本陣背面を守る虎口に見えなくもない…かな?(^_^;)
山頂からの眺め。この眼下に福山街道が通り、知内を経て松前へと繋がっていました。
この4月20日の第2次木古内の戦いは激しいものとなり、新政府軍に押された大鳥軍は札苅・泉沢方面まで退却を余儀なくされます。
ところが新政府軍も、松前城が陥落して知内方面から退いてきた旧幕府脱走軍に挟撃されるのを恐れて一旦北西の笹小屋まで退いたため、大鳥軍は木古内を奪還します。
しかし、木古内での戦闘継続は地形的にも不利と判断し、防衛戦線をより北方の要地である矢不来へ移すことに決めたのでした。
ところで同じ4月20日、木古内への援軍として駆けつけていた伊庭八郎率いる遊撃隊は、
『人家が裏山に連なる大原』
で奮戦していました。そして八郎はここで致命傷を負ってしまうのです。。。
その場所は何処か…地図を眺めていましたが「大原」という地名は見つかりません。
しかし程なく、札苅の近くに「大平」という地名があることに気づきました。「おおひら」を「おおはら」と聞き間違えたか、書き間違えたのではないか…。
とにもかくにも足を運んでみます。
その大平地区。
人家が裏山に連なる大原…旧街道も通り、或はと思わせる風情でした。
別の旧幕府脱走軍兵士の証言で、その(八郎が負傷した)場所は「札苅ノ海岸」ともあり(小杉雅之進「麦叢録」)、この大平付近であった可能性はあると思います。
重傷を負った伊庭八郎は泉沢から船で五稜郭へ運ばれ、5月中旬、五稜郭降服の直前に命を落としました。。。
さて、我々も北上します。
・・・とその前に、ちょっと寄り道。
◆咸臨丸終焉の地
咸臨丸といえば何と言っても、1860(安政7)年に勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎ら錚々たるメンバーを乗せ、日米修好通商条約批准書交換を目的とした幕府遣米使節護衛の随伴艦として太平洋を渡る偉業をなし遂げたことで有名ですね。
しかし幕末、戊辰戦争に敗れて北海道への移住を余儀なくされた仙台藩白石城主・片倉小十郎家臣団一行を乗せた咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、このサラキ岬沖で座礁沈没してしまいます。
明治4年9月20日のことでした。
◆茂別館
茂別館は嘉吉3年(1443)、津軽十三湊城主の安東太郎盛季が南部氏に敗れて蝦夷島に渡った際に自らの居館として築いたのが始まりだとか。
箱館戦争の時には、やはり福山街道を扼する拠点の一つとして松平幸七郎を頭並とする伝習隊が布陣したこともありました。
虎口周辺には横堀が廻らされている様子もハッキリ確認できます。
現在は矢不来天満宮の境内となっていますが、周囲をグルッと囲む土塁も残っていました♪
◆矢不来台場
その虎口手前、入城路の両脇には虎口を守るように塹壕が掘られていました。
写真は虎口から向かって左側の塹壕。
先程の虎口を入り、すぐ右に折れる2つ目の虎口(写真左下)を抜けると、そこには第一台場の広い空間が。
周囲を胸壁や土塁がグルりと囲みます。城でいう主郭、司令部を置くためのスペースかなと思いました。
第一台場から南側の第二台場へは、海沿いを通る福山街道に沿ってまるで通路の様に銃兵の為の塹壕が掘られていました。
この塹壕を辿っていくと…
第二台場
写真左、海側に向かって土塁の様なものが畝っている様子が分かるかと思います。
これは大砲を据えるためのもので、畝の窪み部分に大砲を据えていました。
その窪み部分の一つから海側に向かって。
中心部分(写真では左)が少し低くなっています。恐らくここに大砲の砲身を充てたのでしょう。
その先、正面の胸壁の両脇には、、、
銃兵のための塹壕が☆
もう、これでもか!っていうくらいに戦う意志、意図が明確な遺構です。
その後方には不思議な窪みが。
背後を守るための塹壕でしょうか…?
更に背後へ進んでいくと、尾根の反対側からの敵に備えるかのように二重の塹壕や、ご覧の様な堀も穿たれていました。
背中を向けている明日香さんの向こう側には、やはり胸壁で囲まれた長方形のスペースが広がっていました。
この矢不来周辺での戦線を突破されてしまったことにより、それまで二股口で新政府軍を撃退し続けていた土方歳三率いる部隊も五稜郭へ至る背後を断たれる危険性が生まれ、撤退を余儀なくされるのでした。
しかし矢不来台場の遺構、とても熱かった!必見です☆
◆富川塁
最後は富川八幡宮へ。
ここにも箱館戦争時、富川塁と呼ばれる陣地が構築されていました。
あの石段を登って八幡宮の裏手に回り、更に峠に踏み入れると、、、
旧福山街道の堀底道と思しき遺構です☆
基本的には海岸沿いを行く福山街道ですが、この辺りでは峠に掛かっていたのです。きっと大鳥圭介もこの道を通ったことでしょう♪
見事な街道遺構を見付けて一人でウキウキだった私ですが、肝心の富川塁が見付からず、近くに大きな道路が築かれていたこともあって「やはりもう壊されちゃったのかねぇ…」などと話していました。
ところが山道の脇をふと見ると、どうにも怪しげな様子が樹木の隙間から垣間見えていた…。思い切って分け入ると・・・
あった♪
土塁というよりは、地表面を掘り下げて胸壁を築いた感じの遺構です。
図面
こちらはサイガさんが作成した富川塁の図面。
ほんの15~20分程度、周囲を歩き回っただけでここまで詳細に構造を把握してしまうのだから凄い!
福山街道の峠道を押さえ、南(図面下)から迫る新政府軍に備えた造りになっています。
結構大掛かりな手が加えられ、複雑な形状をした“そそられる”遺構でしたよ♪
木古内の戦い跡地巡り、そして茂別館~富川塁に至る集中的な陣地・台場遺構。
現地を訪れ、地理・地形・距離感を確認することで初めて戦闘の様子を垣間見ることが出来たような気がします。
この後は市内に戻り、函館定番の観光スポットへ☆
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