函館市内散策 ―箱館戦争巡り①
2014年5月29日~6月1日の4日間、北海道は函館市へ行って参りました☆
思えば1年以上も前から温めてきた箱館戦争(明治元~2年)史跡巡りの企画。遂にこの時が来たのです!
■5月29日(木) 初日
初日は基本的に単独行動。am10:00羽田発の便で向かい、函館には定刻より5分遅れのam11:25に到着しました。
そのまま目の前に停まっていた空港バスで函館駅へ。

本当にいい天気に恵まれました☆ むしろ暑いくらい…(;^ω^)

函館駅前からは市電を利用して移動します。
地図1

この日の単独市内巡りは、市電終点の「函館どっく前」からスタートします。

「函館どっく前」駅横の公園に建つ新選組最後の地碑。
そう、ここにはかつて箱館戦争の折りに新選組が籠って戦い、そして降服した弁天(岬)台場がありました。

弁天台場の古写真

同じく江戸期に描かれた図面
地図2

これを現在の地図に合わせると、大体こんな感じになります。

弁天台場跡の碑(地図2 ★)から後方に聳える函館山を望む。

そのまま函館漁港方面へ歩きます。
五稜郭デザインのマンホール☆

イカのもあった♪

函館漁港に建つ函館港改良工事記念碑(地図1 ①)
実は弁天台場の解体~埋め立て後、その石垣の石材がこちらの石碑の土台や、、、

防波堤の石材として利用されているのです☆
姿形は失われても、その名残はしっかりと息づいていました。

称名寺
明治12年の大火で本堂を焼失し、この地に移転してきました。(地図1 ②)
土方歳三の故郷、日野にある菩提寺・高幡不動尊金剛寺の過去帳に;
思えば1年以上も前から温めてきた箱館戦争(明治元~2年)史跡巡りの企画。遂にこの時が来たのです!
■5月29日(木) 初日
初日は基本的に単独行動。am10:00羽田発の便で向かい、函館には定刻より5分遅れのam11:25に到着しました。
そのまま目の前に停まっていた空港バスで函館駅へ。

本当にいい天気に恵まれました☆ むしろ暑いくらい…(;^ω^)

函館駅前からは市電を利用して移動します。
地図1

この日の単独市内巡りは、市電終点の「函館どっく前」からスタートします。

「函館どっく前」駅横の公園に建つ新選組最後の地碑。
そう、ここにはかつて箱館戦争の折りに新選組が籠って戦い、そして降服した弁天(岬)台場がありました。

弁天台場の古写真

同じく江戸期に描かれた図面
地図2

これを現在の地図に合わせると、大体こんな感じになります。

弁天台場跡の碑(地図2 ★)から後方に聳える函館山を望む。

そのまま函館漁港方面へ歩きます。
五稜郭デザインのマンホール☆

イカのもあった♪

函館漁港に建つ函館港改良工事記念碑(地図1 ①)
実は弁天台場の解体~埋め立て後、その石垣の石材がこちらの石碑の土台や、、、

防波堤の石材として利用されているのです☆
姿形は失われても、その名残はしっかりと息づいていました。

称名寺
明治12年の大火で本堂を焼失し、この地に移転してきました。(地図1 ②)
土方歳三の故郷、日野にある菩提寺・高幡不動尊金剛寺の過去帳に;
「函館称名寺に供養塔を建てた」
と記録されていたお寺です。

過去に3回も火事に見舞われ、その時の供養塔は残っていませんが、昭和48年に有志によって土方歳三や新選組隊士のための供養碑が建てられました。

称名寺には豪商として有名な高田屋嘉兵衛一族のお墓もありました。

お次は実行寺。先ほどの称名寺のお隣です。
箱館戦争終結後、新政府軍による旧幕府脱走軍戦死者たちの遺体埋葬禁止令が出される中、侠客の柳川熊吉はその惨状を見るに耐えかね、実行寺住職らと共に収容して回って実行寺や称名寺などに仮埋葬しました。
ために熊吉は捕えられてしまいますが釈放され、後に函館山の麓に土地を購入して旧幕府脱走軍の遺体を改葬し、更に榎本や大鳥らと協力して箱館戦争に於ける旧幕府脱走軍戦死者たちを慰霊する碧血碑の建立にも携わりました。

実行寺境内には箱館戦争で亡くなった旧会津藩士らのお墓が静かに佇みます。

更に進んで高龍寺(地図1 ③)
凄い煉瓦壁…(゜o゜)!?

高龍寺山門。函館市内で一番古いお寺です。

境内に建つ傷心惨目碑
箱館戦争当時、現在地より少し坂を下った場所にあった高龍寺は旧幕府脱走軍の箱館病院分院として使われていました。
そこへ明治2年5月11日、新政府軍が乱入して傷病兵らを殺傷し、建物も放火するという事態が発生しました。。。
同寺が明治12年に現在の場所に移転されると翌年、犠牲になった会津藩士らを供養するために旧会津藩の有志がこの碑を建てました。

箱館戦争当時、その高龍寺が建っていた場所。ここで件の事件は起きたのです…。
(地図1 ④)

こういう坂からの景色を眺めていると、函館に来たんだなぁ~と実感する♪

こちらは称名寺の跡地(地図1 ⑤)
高幡不動尊の過去帳に記録されていた土方歳三の供養塔があった場所。

3つ目のマンホールみっけ☆

ぶらぶら歩いていたら、たまたま看板を見つけたので、、、
新島襄海外渡航碑(地図1 ◆)

時には“普通の”観光も(笑)
赤レンガ倉庫群

ちょっと疲れてきたし、お腹も空いたので赤レンガ倉庫群向かいのお店で一休み♪

高田屋嘉兵衛造船所跡地(箱館高田屋嘉兵衛資料館)

旧幕府脱走軍幹部による“最後の晩餐”?の地、武蔵野楼跡
(地図1 ⑥)

市電「十字街」駅前に建つ看板…そう、ここにはかつて異国橋が架かっていました。
(地図1 ⑦)
新政府軍による箱館総攻撃が始まった明治2年5月11日、五稜郭を出て一本木関門まで進出した陸軍奉行並・土方歳三は、部下である添役の大野右仲に命じて更に弁天台場方面へ出撃させます。
一本木関門を出た大野隊は、ここ異国橋付近まで進撃したものの敗走する兵があとを絶たず、やむを得ず一本木関門、更に千代ヶ岡台場へと撤退しました。
撤退しながら大野は、
「奉行(土方)は“吾この柵にありて退く者は斬る”と言っていたのに、何故兵の敗走が止まらなかったのか」
と訝しんでいましたが、千代ヶ岡台場まで退いたところで同役の安富才助らから土方の戦死を知らされたのです。。。
このエピソードなど見方を変えれば、大野が上官である土方をそれだけ信頼し切っていたことを裏付けていますよね。

「永国橋」と書かれているのが異国橋です。
一方で「土方は一本木関門から箱館(弁天台場)方面へ出撃して戦死した」という認識も根強かったため、彼の戦死候補地の一つとされていたこともあります。
しかし彼は一本木関門で、箱館方面とは反対の七重浜方面からの敵にも対処する必要があったため、前述の通り箱館方面は大野に向かわせ、自らは一本木で指揮を執っていました。
土方が戦死した時、箱館方面の戦線はまだこの異国橋付近で維持されていたので、彼を狙撃したのはきっと七重浜方面からの敵兵でしょう・・・。

ちょうど「十字街」駅北側の線路辺りに架けられていました。

今は本願寺函館別院となっている願乗寺跡(地図1 ⑧)
土方歳三は戦死後、五稜郭まで運ばれて埋葬されました。
その五稜郭では明治11年に土塁補修工事が行われ、その際に夥しい数の遺体が発見されたため願乗寺に改葬されます。
更に明治16年には、より「高等の位地」へ場所を移して移転式や供養祭も行われたそうですが、現在では供養碑も失われ、その位置は分からなくなっています。
ただ、移転後の移転式・供養祭も同寺で執り行われているそうなので、おそらくは境内の中の何処かであろうと思われます。
つまりは土方歳三や、五稜郭でその隣に葬られたと云う伊庭八郎が今も眠っているかもしれない場所。
そんなこんなで歩き回っているうちにいい時間になってきたので、そのまま歩いて函館駅方面へ。
一旦ホテルにチェックイン後、駅前で2日目から行動を共にするサイガさん、明日香さんと合流♪

名物のイカ刺しに、なんとホッケの刺身まで☆
函館初日の夜は美味しい海の幸と、盛り上がる歴史談義で楽しく暮れていくのでした。。。
と記録されていたお寺です。

過去に3回も火事に見舞われ、その時の供養塔は残っていませんが、昭和48年に有志によって土方歳三や新選組隊士のための供養碑が建てられました。

称名寺には豪商として有名な高田屋嘉兵衛一族のお墓もありました。

お次は実行寺。先ほどの称名寺のお隣です。
箱館戦争終結後、新政府軍による旧幕府脱走軍戦死者たちの遺体埋葬禁止令が出される中、侠客の柳川熊吉はその惨状を見るに耐えかね、実行寺住職らと共に収容して回って実行寺や称名寺などに仮埋葬しました。
ために熊吉は捕えられてしまいますが釈放され、後に函館山の麓に土地を購入して旧幕府脱走軍の遺体を改葬し、更に榎本や大鳥らと協力して箱館戦争に於ける旧幕府脱走軍戦死者たちを慰霊する碧血碑の建立にも携わりました。

実行寺境内には箱館戦争で亡くなった旧会津藩士らのお墓が静かに佇みます。

更に進んで高龍寺(地図1 ③)
凄い煉瓦壁…(゜o゜)!?

高龍寺山門。函館市内で一番古いお寺です。

境内に建つ傷心惨目碑
箱館戦争当時、現在地より少し坂を下った場所にあった高龍寺は旧幕府脱走軍の箱館病院分院として使われていました。
そこへ明治2年5月11日、新政府軍が乱入して傷病兵らを殺傷し、建物も放火するという事態が発生しました。。。
同寺が明治12年に現在の場所に移転されると翌年、犠牲になった会津藩士らを供養するために旧会津藩の有志がこの碑を建てました。

箱館戦争当時、その高龍寺が建っていた場所。ここで件の事件は起きたのです…。
(地図1 ④)

こういう坂からの景色を眺めていると、函館に来たんだなぁ~と実感する♪

こちらは称名寺の跡地(地図1 ⑤)
高幡不動尊の過去帳に記録されていた土方歳三の供養塔があった場所。

3つ目のマンホールみっけ☆

ぶらぶら歩いていたら、たまたま看板を見つけたので、、、
新島襄海外渡航碑(地図1 ◆)

時には“普通の”観光も(笑)
赤レンガ倉庫群

ちょっと疲れてきたし、お腹も空いたので赤レンガ倉庫群向かいのお店で一休み♪

高田屋嘉兵衛造船所跡地(箱館高田屋嘉兵衛資料館)

旧幕府脱走軍幹部による“最後の晩餐”?の地、武蔵野楼跡
(地図1 ⑥)

市電「十字街」駅前に建つ看板…そう、ここにはかつて異国橋が架かっていました。
(地図1 ⑦)
新政府軍による箱館総攻撃が始まった明治2年5月11日、五稜郭を出て一本木関門まで進出した陸軍奉行並・土方歳三は、部下である添役の大野右仲に命じて更に弁天台場方面へ出撃させます。
一本木関門を出た大野隊は、ここ異国橋付近まで進撃したものの敗走する兵があとを絶たず、やむを得ず一本木関門、更に千代ヶ岡台場へと撤退しました。
撤退しながら大野は、
「奉行(土方)は“吾この柵にありて退く者は斬る”と言っていたのに、何故兵の敗走が止まらなかったのか」
と訝しんでいましたが、千代ヶ岡台場まで退いたところで同役の安富才助らから土方の戦死を知らされたのです。。。
このエピソードなど見方を変えれば、大野が上官である土方をそれだけ信頼し切っていたことを裏付けていますよね。

「永国橋」と書かれているのが異国橋です。
一方で「土方は一本木関門から箱館(弁天台場)方面へ出撃して戦死した」という認識も根強かったため、彼の戦死候補地の一つとされていたこともあります。
しかし彼は一本木関門で、箱館方面とは反対の七重浜方面からの敵にも対処する必要があったため、前述の通り箱館方面は大野に向かわせ、自らは一本木で指揮を執っていました。
土方が戦死した時、箱館方面の戦線はまだこの異国橋付近で維持されていたので、彼を狙撃したのはきっと七重浜方面からの敵兵でしょう・・・。

ちょうど「十字街」駅北側の線路辺りに架けられていました。

今は本願寺函館別院となっている願乗寺跡(地図1 ⑧)
土方歳三は戦死後、五稜郭まで運ばれて埋葬されました。
その五稜郭では明治11年に土塁補修工事が行われ、その際に夥しい数の遺体が発見されたため願乗寺に改葬されます。
更に明治16年には、より「高等の位地」へ場所を移して移転式や供養祭も行われたそうですが、現在では供養碑も失われ、その位置は分からなくなっています。
ただ、移転後の移転式・供養祭も同寺で執り行われているそうなので、おそらくは境内の中の何処かであろうと思われます。
つまりは土方歳三や、五稜郭でその隣に葬られたと云う伊庭八郎が今も眠っているかもしれない場所。
そんなこんなで歩き回っているうちにいい時間になってきたので、そのまま歩いて函館駅方面へ。
一旦ホテルにチェックイン後、駅前で2日目から行動を共にするサイガさん、明日香さんと合流♪

名物のイカ刺しに、なんとホッケの刺身まで☆
函館初日の夜は美味しい海の幸と、盛り上がる歴史談義で楽しく暮れていくのでした。。。
| 固定リンク
「新選組・戊辰戦争」カテゴリの記事
- 石田散薬 製造体験(2022.04.29)
- 扇町屋から飯能へ ~飯能戦争を辿る~(2022.01.06)
- 振武軍が宿営した箱根ヶ崎(2021.12.19)
- 近藤芳助が所持していた近藤・土方肖像写真(2021.11.23)
- 近藤勇愛用の湯呑を拝観(2020.09.20)
コメント