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2014年7月

2014年7月31日 (木)

清州山王宮 日吉神社 ―「火起請」の舞台―

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清州山王宮 日吉神社
織田信長が清州を居城としていた時期には、城下総鎮守として崇敬を集めていました。
そんなある時のお話・・・

当時、尾張海東郡大屋村の庄屋・甚兵衛と、隣村の一色に住む左介は親しい間柄でした。
ところがある夜、甚兵衛の留守を狙って左介が甚兵衛宅に盗みに入り、目を覚ました甚兵衛の妻に組み付かれて刀の鞘を取り上げられるという事件が起こります。
この一件を清州の公方(斯波氏)へ訴え出ると;

火起請に成り候て、三王社のまへにて奉行衆公事相手双方より検使を出ださる。』
(信長公記首巻 火起請御取り候事)

火起請で判定することとなり、山王宮三王社)の前に奉行衆や双方からの立会人が集められました。

そう、ここ清州山王宮 日吉神社こそ、その火起請の舞台だったのです。
※「火起請」とは、火で熱した鉄を持たせて、それを持てなかった者の訴えを虚偽とする裁判方法のことです。

その結果、左介は火起請の熱した鉄を取り落してしまうのですが、彼は当時、清州城下で権勢に驕る池田恒興の家来だったので、恒興の郎党たちは左介を庇う為に鉄を奪い取り、立ち騒いでいました。
恐らく「鉄の熱し方が不当だ」などと騒ぎ立てていたのでしょう。そこへ・・・

『折節、上総介信長御鷹野御帰りに御立寄りなされ、御覧じ、何事に弓・鑓・道具にて人多く候哉と、仰せられ、双方の様子きかせられ、早、此の有様、一々御覧候て、信長御機色かはり、』

ちょうど鷹狩からの帰りだった信長が通りかかり、騒ぎを見て、
「武具を携えて大勢集まっているとは何事か」
と問い質します。そして双方の言い分を聞き、様子を見ているうちに、その表情がサーッと変わりました・・・

『火起請候趣きこしめされ、何程にかねをあかめて、とらせたるぞ。元の如く、かねを焼き候へ。御覧候はんと、仰せらる。』

火起請の様子を聞き、
「どのくらい鉄(かね)を焼いて持たせたのか。同じようにもう一度焼け。見てやる」
と申し付けます。
そこで、焼き直した鉄を見せると;

『信長御諚には、我々火起請とりすまし候はゞ、左介を御成敗なさるべきの間、其の分、心得候へと御意候て、焼きたる横??を御手の上に請けられ、三足御運び候て、棚に置かれ、是れを見申したるかと、上意候て、左介を誅戮させられ、すさまじき様体なり。』

信長は;
「(同じように焼いた)火起請を我が手に取ることが出来たら(火起請に不正はないのだから)左介を成敗する。そのように心得よ」
と申し付け、焼いた斧を手に受けて三歩進んで取り落すことなく棚に置くや、
「確かに見たな」
と言って左介を成敗したのでした。
まさに信長公記の著者・太田牛一が表現した通り、すさまじき様体ですね…。

牛一は妙に池田恒興一党の驕りを強調している節が見受けられるので、日頃から信長にとっても鼻持ちならない様子だったのかもしれません。これを機に、その鼻っ柱をへし折る意図もあったのかもしれないな、などと感じるエピソードでした。

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境内にある「子産石」
秀吉の母・なか(大政所)も、この石に触れることで子を授かったとか・・・

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日吉神社本殿
火起請が執り行われたのは、或いはこちらの御神前か…?

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「日吉」というだけあって、狛犬ならぬ…狛猿?!(^_^;)


火起請を終え、左介を成敗した信長。
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間違いなく大火傷を負ったであろう手を庇いながら、この道を清州城へと帰っていったのでしょうか…。
そういうことを考えながら現地に立つのも、史跡巡りの醍醐味の一つです♪

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2014年7月30日 (水)

墨俣城と森部合戦

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旅の2日目(7/27)は、墨俣城からスタートです。

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まぁ、一般的に「墨俣城」といえば秀吉による一夜城として有名ですよね…(^_^;)

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この日はラッキーなことに、すのまた天王祭のお陰で入館無料☆

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長良川に合流する現在の犀川は、後世の河川改修工事で大きく流路を変えられており、旧字絵図と合わせるとこのようになります。
城あと」と書かれている部分に砦があったものと考えられますので、、、

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現在は水門が築かれている辺りが本当の砦跡となります。

ところで、永禄9年に秀吉らによって“一夜”にして築城されたと云うエピソードを持つ墨俣城ですが、無論こんなに立派な天守が建っていた筈もなく、砦程度のものだったでしょう。

しかも、それより遡ること5年も前の永禄4年5月に西美濃攻略を目論む織田軍と、それを阻止せんとする斎藤軍との間で勃発した森部の合戦時に、斎藤軍が墨俣より出撃したこと、
そして合戦に勝利した織田軍が墨俣を占拠し、信長が『洲股御要害丈夫に仰せ付け』て在陣したこと、
更に続く十四条・軽海での合戦時にもそのまま墨俣から出陣し、合戦後に再び同地へ帰陣したものの、恐らく墨俣を維持し続けることは困難と判断したのでしょう、墨俣の砦を引き払って清州へ戻ったこと、
などが、信長公記首巻の「もりべ合戦の事」及び「十四条合戦の事」に記されています。
※十四条合戦については、コチラの記事もご参照ください。

つまり、墨俣には永禄9年よりも前に既に砦が存在していたのです。
「武功夜話」など一部の史料で見受けられる秀吉の一夜城エピソードですが、信長公記などの一級史料と呼ばれるものには一切記述がありません

永禄9年に美濃の何れかの地に砦を築き、そこへ秀吉を入れたことはあったようなのですが、「墨俣一夜城伝説」は、この辺りの情報と墨俣にあった砦とが混在して作り上げられたエピソードなのではないかと考えます。

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墨俣から、森部~十四条・軽海合戦当時は斎藤家の居城だった稲葉山城(後の岐阜城)もハッキリと見ることができます。

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墨俣宿脇本陣

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墨俣宿の町並み


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そして、墨俣から4kmほど南下した森部合戦の古戦場にある、前田利家「出世の松

刃傷沙汰を起こして織田家を追放されていた前田利家は、この森部の合戦で「頸取り足立」と恐れられていた斎藤方の将・足立六兵衛を討ち取る活躍を見せ、信長から帰参を許されて300貫の加増を受けました。
その首実検の折に、信長が脱いだ鎧を掛けていたと伝わる松が、昭和30年頃まで残っていたそうです。
(現在の松は平成になってからの植樹)

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薬師堂近くに建つ森部合戦の石碑

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この薬師堂の前で、信長は首実検を行ったと云われています。そう、利家が足立六兵衛の首を信長の実検に供した場所です。
ちなみに六兵衛は、幟にある日比野景直(清実/同じく森部合戦で戦死)の配下でした。

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森部合戦古戦場から見る稲葉山城(岐阜城/写真左奥)。右は長良川の河川敷。
合戦に敗れた斎藤勢は墨俣を越え、あの稲葉山城まで引き上げていったのでした。

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津島天王祭(宵祭)

緒川城、村木砦、荒子、etc...と巡った旅の初日(7/26)。
ラストは津島へ向かいます。そう、日本三大川祭の一つ津島天王祭(宵祭)です!

祭会場の天王川公園へ向かう道すがら、しばし津島の町をぶらぶら…
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桶狭間合戦に於いて今川義元に一番槍をつけた服部小平太の菩提寺、雲居寺
彼はここ津島の出身と云われています。

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船運で栄えた商都・津島の面影を残す町並みを歩く・・・

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加藤清正を祀る清正公社も。

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津島神社の御神木

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当然、津島神社にも参拝いたします。

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境内には今宵の宵祭で漕ぎ渡される巻藁船(右)や、翌朝の朝祭で漕ぎ渡される祭船(左)の模型も飾られていました。

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さ、いよいよ祭会場の天王川公園へ☆
事前に予約して頂いた桟敷席で堪能します♪

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さぁ、無数の提灯を灯した巻藁船が入ってきました。

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続々と・・・
旧津島五ヶ村、堤下・米之座・今市場・筏場・下溝から、それぞれ仕立てられた五艘が天王川(現在は池)を悠然と進んできます。

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水面への写り込みがまた何とも美しい・・・

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かぶりつきなので、こんなに近くを通ってくれます♪

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織田家と同じ木瓜紋がいいね☆

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花火をバックに…♪

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織田家の発展と津島の経済力は切っても切れない関係。
若き日の信長も、天王川に架かる橋の上から祭の様子を眺めていたと云います。

とても荘厳で美しく、感動的な一時でした。
…暑かったけど(笑)

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2014年7月29日 (火)

荒子城址 ―前田利家生誕の地―

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荒子駅前に建つ前田利家(犬千代)とまつの像
後に加賀百万石の祖となる前田利家は尾張国海東郡荒子村の出身で、荒子城主・前田利昌(利春?)の四男として誕生します。

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荒子観音
前田利家の菩提寺でもあります。

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富士権現社
実はここが荒子城跡なのです。つまり、前田利家生誕の地。
いつぞやの大河ドラマ「利家とまつ」では賑わったのかな?

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利家・利長父子が信長の命で北陸へ移封されると、荒子城も廃城となりました。

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村木砦の戦い

織田信長の父・信秀の死後、今川家は沓掛・鳴海・大高の各城を手中に収めて尾張への圧力を強めていきます。
そして織田家と協調関係にあった水野信元(徳川家康の母・於大の兄)の緒川城を攻略するため、その北方、知多半島東岸の入江に突き出した村木岬に砦を築きました。

そうした状況の中、水野信元からの援軍要請を受けた織田信長は天文23年(1554)1月21日、安藤守就率いる美濃からの援軍が到着するや、美濃勢に那古野城の留守を任せて出陣します。
熱田湊から渡海して知多半島西岸に上陸して一泊した後、23日に陸路緒川城へ入城。水野信元の軍勢と合流して翌24日早朝、村木砦攻略に向かったのでした。

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まずは水野家の菩提寺、乾坤院へ。
ちょうど大相撲名古屋場所が行われている時期で、横綱の鶴竜を要する井筒部屋が支度部屋を構えていました。

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乾坤院山門と鐘楼門

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本堂
とても立派で素敵な境内でした。

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水野信元の父・忠政のお墓

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こちらは手前から;
・忠政の子で、兄・信元の死後に家督を継いだ忠守
・忠守の子・忠元
・忠元の子・忠善
の、水野家三代のお墓。
忠政と合わせて四代の墓所が乾坤院境内に静かに佇みます。


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さて、では緒川城址へ向かいます。

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そそり立つように高い土塁が見えてきました。

図1
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緒川城推定復元図

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こちらの石碑、及び説明板は図1で「土塁残存部分」と書かれている土塁の上にあります。

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そのすぐ南側、公園から写真左へ向かって主郭部が築かれていたと推定されています。

『(1月23日、信長は)直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、爰許の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。』
信長公記首巻 村木の取出攻めらるゝの事より抜粋。以下同)

織田信長が水野信元と会談し、泊った場所…この辺りだったかもしれませんね。

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公園には家康の生母・傳通院於大出生地の石碑もあります。

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緒川城址近くの於大公園には、初代緒川城主・水野貞守から→賢正清忠(前出・忠政の父)の三代の墓所も。


『一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆楯籠り村木の城へ取り懸け、攻めさせられ、』

緒川城に泊った翌24日早朝、いよいよ信長は村木砦攻略へと向かいます。

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村木神社
織田信長が村木砦攻めの本陣と定めた場所です。

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村木神社境内

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村木神社から村木砦方面の眺め。
写真中央、遠くに木がこんもりと繁っている辺りが村木砦址になります。

図2
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村木砦の推定位置

図3
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『北は節所手あきなり。東は大手、西は搦手なり。南は大堀霞むばかり、かめ腹にほり上げ、丈夫に構へ候。』

という信長公記の記述とも一致しています。

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村木砦合戦戦没者を祀る八剱神社境内に建つ村木砦址の石碑

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砦址は現在、JRの線路に分断されています。

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南側の大堀跡越しに見る村木砦

『上総介信長、のかた、攻めにくき所を御請取り候て、御人数付けられ、若武者ども、我劣らじと、のぼり、撞き落されては、又あがり、手負死人其の数を知らず。信長堀端に御座候て、鉄炮にて、狭間三ツ御請取りの由仰せられ、鉄炮取りかへゝゝ放させられ、』

信長が堀端に立ち、砦へ攻めかかる配下の援護射撃の為に鉄砲を取り換えながら次々と撃ち放っていた場所は、或いはこの辺りか・・・。

そして東の大手は水野信元が、西の搦手は信長の叔父・織田信光がそれぞれ受け持ったとのことですが…図2を見ても明らかなように、東の大手口は入江に面した海側。
水野勢はどのように攻めかかったのでしょうか…?水軍のことは一切書かれていないし、北から堀伝いに攻め込んだのかなと思っても『北は節所手あき』とあるし・・・ちょっと謎です。
南からの入江沿いに、大手へのルートがあったのかな?

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村木砦の北西端部分。
この細い路地は堀跡と推定されています。

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そして北東端

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村木砦は入江に突き出た岬に築かれていましたので、東側は奥に見える堤(現JR線路)辺りまで一面海に囲まれていました。

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北東端付近には船付場跡か?!と思しき、長方形の平場が田圃に突き出るような形でありましたが、、、まぁ写真では分かりませんよね…(^_^;)

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南に少し離れた位置から村木砦を望む。
当時はほぼこの路地に沿って、入江の海岸線が迫っていたと思われます。こうして見ると、砦が入江に突き出た岬上に築かれていた様子がイメージし易いかな。

激しく攻め立てさせた結果、午前8時頃から午後5時頃までのおよそ9時間の戦闘で村木砦は降伏し、織田方へ明け渡されます。
信長は見事、今川勢を撃退して援軍の責務を果たした訳ですが、その代償は余りにも大きく;

『信長御小姓衆歴ゝ、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。(中略)御本陣へ御座候て、それもゝゝと御諚なされ、感涙を流させられ候なり。』

本陣(前出の村木神社か)へ戻り、子飼いの兵たちの討ち死にを聞き、
「あいつが死んだのか、あいつもか…」
と言って涙を流したと云います・・・。

このエピソードがあるからこそ、尚更この地を訪れてみたかったのです。

村木砦の処置を水野信元に申し付けた信長は、知多半島西岸の寺本城をも落してから那古野へ帰陣しました。
留守を預かっていた安藤守就は信長の礼を受けた後、美濃へ帰国。主君の斎藤道三へ、信長による村木攻めの様子を報告しました。
それを聞いた道三は;

『すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ』

と述べたと云います。

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2014年7月21日 (月)

壺伊勢屋・甲州道中・多賀神社

今回は八王子駅周辺の史跡?を散策。

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八王子宿(横山町)にあった旅籠「壺伊勢屋」跡

壺伊勢屋事件

慶応3年(1867)12月15日、八王子宿の旅籠壺伊勢屋に上田修理(務)をはじめとする薩摩浪士12名が止宿します。
時は折しも徳川幕府から朝廷へ政権が返上され(大政奉還)、王政復古の大号令が宣言された直後の大転換期。武力討幕・徳川慶喜追討を目論む薩摩勢が江戸市中で狼藉を働き、幕府への挑発行為を繰り返していた時期(江戸市中取締・庄内藩による薩摩藩邸焼き討ちは同月25日に起きる)でもあります。
上田らの目的も薩摩藩が策謀した関東同時挙兵計画の一環で、甲州へ向かう途中だったとも云われます。

この計画を察知した代官・江川太郎左衛門は日野の佐藤彦五郎に討手方手配を命じ、命を受けた彦五郎は天然理心流同門の6名を引き連れ、八王子宿へ急行します。
予め上田らの一行に潜ませていた江川家の間者が最も手強い剣豪を壺伊勢屋向かいの妓楼柳瀬屋(後に勝沼で甲陽鎮撫隊を撃破した東山道軍を率いる板垣退助が本陣とした場所でもある)に誘い出した後、彦五郎ら7名は壺伊勢屋を襲撃、上田らの浪士12名(剣豪を除く11名?)と乱戦になりました。

彦五郎方では馬場市次郎が短筒の銃撃を受けて即死、岡引の山崎兼助も重傷を負って3日後に死亡するという犠牲を出しましたが、浪士方2名を討ち取り、逃走者2名も捕縛して浅川の河原で斬首。上田ら数名は逃走に成功しますが、挙兵計画は未然に防がれたのでした。
(柳瀬屋に誘い出された剣豪も討ち取られています)

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現在は呉服屋になっていますが、屋号はそのまま。
壺・伊勢屋♪

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柳瀬屋は壺伊勢屋の向かいだったとのことですが、壺伊勢屋の路地裏にも気になる名前の居酒屋が・・・。
宿場の中心地、きっと妓楼が建ち並び賑わった一角だったのかもしれませんね。

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市内中心部に鎮座する市守神社

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市守神社の東脇には、ご覧の通り、、、

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甲州道中が通っています。

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旧甲州道中と竹の鼻の一里塚跡の碑(写真左)
江戸から12里目にあたります。

この先、甲州道中は大和田の渡しを経て日野宿へと繋がっています。近藤勇(大久保剛)や土方歳三(内藤隼人)らが率いる甲陽鎮撫隊も通った道。
※大和田の渡しについては、コチラの記事をどうぞ。

甲陽鎮撫隊繋がりで最後にもう一枚。
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八王子市元本郷町にある多賀神社
甲州勝沼で一敗地にまみれ、敗走した甲陽鎮撫隊は一旦こちらの多賀神社に集まった後に解散し、各々江戸へ向かって逃れて行ったと云います。

地元でも探せばまだまだ歴史と縁深い地が残っているものですね♪

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2014年7月13日 (日)

甲陽山地蔵院 ―立川主税を訪ねて―

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山梨県笛吹市にある甲陽山地蔵院

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細い路地にひっそりと隠れるように建つ小さなお寺さんですが、それでも訪れたかった理由、それはこちらの第二十三世住職、獨龍巨海さんです。
そう、この方こそ元新選組隊士で箱館戦争まで戦い、かの土方歳三戦死の時にも一本木関門で側近くにいたと云う立川主税なのです。

箱舘戦争後、一時投獄されますが釈放され、日野の佐藤彦五郎を訪れて土方戦死の様子などを伝えた後に山梨で仏門に入り、明治18年から地蔵院の住職を務めました。

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立川主税(獨龍巨海)のお墓
先日函館まで行ってきたことを報告し、いつか土方歳三の奮戦ぶりなどをお聞きしたいなぁ、などと思いながらお参りいたしました。

そんな私の様子を見たお寺の女将さんが話しかけてくれ、巨海は「こかい」と読むこと、一人だけ他の歴代住職と墓石の形式が違うこと、お墓は巨海の奥さんが建てたこと(Wikiでは娘となっていますが)などを教えてくださいました。

また、やはりWikiでは「獨巨海」となっており、その他のサイトでも同様に紹介されていますが(だからこそ私は、立川主税は隻眼だったのか?と思ったくらい)、墓石にはハッキリと「獨」と刻まれていました。

いつか彼の残した「立川主税戦争日記」も、じっくりと目を通したいものです。

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富士見石 ―織田信長腰掛けの石―

富士山本宮浅間大社のすぐお隣、市立中央図書館の前にはこういうものがあります。

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富士見石

天正10年、甲州征伐を終えた織田信長は、東海道経由で富士山を遊覧しながら安土への帰路につきます。
4月10日に甲府を発ち、うば口(右左口)からもとす(本巣)を経由して、峠の谷合ひ(谷間)に徳川家康が用意した御茶屋で休憩しつつ緩々と進み、朝霧高原近くの人穴白糸の滝などを見物、4月12日に至って浅間大社に到着した様子が「信長公記」巻十五、信長公甲州より御帰陣の事に書かれています。

※信長が到着した時、浅間大社は甲州征伐で織田家に味方した北条軍によって焼かれており、堂塔伽藍は悉く失われていましたが、ここでも家康が;

社内に御座所、一夜の御陣宿たりといへども、金銀を鏤め、それゞの御普請美々しく仰せつけられ、
(信長公記)

と贅を尽くした御座所を用意していました。
この富士見石はその際、信長が腰を掛けて富士山を眺めたとの言い伝えがある石で、元々は浅間大社の境内の中にあり、左の道祖神の台石になっていたそうです。
そして、この道祖神の裏に、、、

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その信長公腰掛け石に纏わる由来が刻まれていたのです。

実は私、この後全く別の目的で甲府方面へ向かったのですが、その時に通った国道139号→国道358号というルートは白糸の滝から朝霧高原(人穴)、本栖湖、右左口を悉く経由しました。
無論、当時の峠道(古道)と現代の車道は違いますが、信長もほぼ同じルートを(逆に)辿って富士宮方面へ向かっていたのです。

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人穴近くの道の駅朝霧高原

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右左口(うば口)交差点

予めそうと分かっていたら、白糸の滝や人穴も観ておくんだったなぁ…リベンジしよ。

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富士山本宮浅間大社と特別展

さて、本日(7/13)は愛車を駆ってサクッと静岡県富士宮市へ。
特に渋滞もなく、八王子の自宅から2時間ほどで目的地に到着しました。

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いわずと知れた富士山本宮浅間大社

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浅間大社本殿

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境内には武田信玄お手植えの枝垂れ桜も(二代目)

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富士山の雪解け水が湧き出る湧玉池
富士山信仰の富士道者は、この池で身を清めてから登山する習わしだったそうです。

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その富士山はあいにくの天気で頭がお隠れに・・・( ._.)

参拝を済ませた後は、、、

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こちら☆
そもそも今回は、浅間大社に祈願した「戦国武将」展を拝観したくて訪れたのです。

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浅間大社に祈願した「戦国武将」展の開館時間まで少し余裕があったので、まずは長屋門歴史の館富士山世界遺産特別展を拝観。

・・・ちょっとしたパネルの他、「絹本著色富士曼荼羅図」の複製など、複製画が3点ほど展示されているだけでした…(^_^;)

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そして午前10時の開館時間ちょうどに、目的の浅間大社に祈願した「戦国武将」展示会場へ。当然の一番乗り!(笑)

狭い会場ながら;

武田信玄の自筆願文
→永禄13年付。北条氏康・氏政を滅亡できれば、100年来失われている社領を元に戻すよう寄与する。という内容の物。

武田勝頼寄進の琴(天正五年) & 五枚胴具足
豊臣秀吉の手形
安国寺恵瓊から秀吉に譲られた袈裟切

など、普段目にすることのできない戦国武将縁の社宝は見応え充分でした☆

武田信玄はとても達筆で繊細な筆致。
豊臣秀吉の手形は・・・私と同じくらいの大きさで、150cmそこそこだったと云う人物のものとしては少々大き過ぎやしないか?という印象でした…(^_^;)

7月21日までの展示ですよ、ご興味を持たれた方はお急ぎあれ☆

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