壺伊勢屋・甲州道中・多賀神社
今回は八王子駅周辺の史跡?を散策。
壺伊勢屋事件
慶応3年(1867)12月15日、八王子宿の旅籠壺伊勢屋に上田修理(務)をはじめとする薩摩浪士12名が止宿します。
時は折しも徳川幕府から朝廷へ政権が返上され(大政奉還)、王政復古の大号令が宣言された直後の大転換期。武力討幕・徳川慶喜追討を目論む薩摩勢が江戸市中で狼藉を働き、幕府への挑発行為を繰り返していた時期(江戸市中取締・庄内藩による薩摩藩邸焼き討ちは同月25日に起きる)でもあります。
上田らの目的も薩摩藩が策謀した関東同時挙兵計画の一環で、甲州へ向かう途中だったとも云われます。
この計画を察知した代官・江川太郎左衛門は日野の佐藤彦五郎に討手方手配を命じ、命を受けた彦五郎は天然理心流同門の6名を引き連れ、八王子宿へ急行します。
予め上田らの一行に潜ませていた江川家の間者が最も手強い剣豪を壺伊勢屋向かいの妓楼柳瀬屋(後に勝沼で甲陽鎮撫隊を撃破した東山道軍を率いる板垣退助が本陣とした場所でもある)に誘い出した後、彦五郎ら7名は壺伊勢屋を襲撃、上田らの浪士12名(剣豪を除く11名?)と乱戦になりました。
彦五郎方では馬場市次郎が短筒の銃撃を受けて即死、岡引の山崎兼助も重傷を負って3日後に死亡するという犠牲を出しましたが、浪士方2名を討ち取り、逃走者2名も捕縛して浅川の河原で斬首。上田ら数名は逃走に成功しますが、挙兵計画は未然に防がれたのでした。
(柳瀬屋に誘い出された剣豪も討ち取られています)
柳瀬屋は壺伊勢屋の向かいだったとのことですが、壺伊勢屋の路地裏にも気になる名前の居酒屋が・・・。
宿場の中心地、きっと妓楼が建ち並び賑わった一角だったのかもしれませんね。
旧甲州道中と竹の鼻の一里塚跡の碑(写真左)
江戸から12里目にあたります。
この先、甲州道中は大和田の渡しを経て日野宿へと繋がっています。近藤勇(大久保剛)や土方歳三(内藤隼人)らが率いる甲陽鎮撫隊も通った道。
※大和田の渡しについては、コチラの記事をどうぞ。
甲陽鎮撫隊繋がりで最後にもう一枚。
八王子市元本郷町にある多賀神社
甲州勝沼で一敗地にまみれ、敗走した甲陽鎮撫隊は一旦こちらの多賀神社に集まった後に解散し、各々江戸へ向かって逃れて行ったと云います。
地元でも探せばまだまだ歴史と縁深い地が残っているものですね♪
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