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2014年7月30日 (水)

墨俣城と森部合戦

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旅の2日目(7/27)は、墨俣城からスタートです。

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まぁ、一般的に「墨俣城」といえば秀吉による一夜城として有名ですよね…(^_^;)

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この日はラッキーなことに、すのまた天王祭のお陰で入館無料☆

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長良川に合流する現在の犀川は、後世の河川改修工事で大きく流路を変えられており、旧字絵図と合わせるとこのようになります。
城あと」と書かれている部分に砦があったものと考えられますので、、、

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現在は水門が築かれている辺りが本当の砦跡となります。

ところで、永禄9年に秀吉らによって“一夜”にして築城されたと云うエピソードを持つ墨俣城ですが、無論こんなに立派な天守が建っていた筈もなく、砦程度のものだったでしょう。

しかも、それより遡ること5年も前の永禄4年5月に西美濃攻略を目論む織田軍と、それを阻止せんとする斎藤軍との間で勃発した森部の合戦時に、斎藤軍が墨俣より出撃したこと、
そして合戦に勝利した織田軍が墨俣を占拠し、信長が『洲股御要害丈夫に仰せ付け』て在陣したこと、
更に続く十四条・軽海での合戦時にもそのまま墨俣から出陣し、合戦後に再び同地へ帰陣したものの、恐らく墨俣を維持し続けることは困難と判断したのでしょう、墨俣の砦を引き払って清州へ戻ったこと、
などが、信長公記首巻の「もりべ合戦の事」及び「十四条合戦の事」に記されています。
※十四条合戦については、コチラの記事もご参照ください。

つまり、墨俣には永禄9年よりも前に既に砦が存在していたのです。
「武功夜話」など一部の史料で見受けられる秀吉の一夜城エピソードですが、信長公記などの一級史料と呼ばれるものには一切記述がありません

永禄9年に美濃の何れかの地に砦を築き、そこへ秀吉を入れたことはあったようなのですが、「墨俣一夜城伝説」は、この辺りの情報と墨俣にあった砦とが混在して作り上げられたエピソードなのではないかと考えます。

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墨俣から、森部~十四条・軽海合戦当時は斎藤家の居城だった稲葉山城(後の岐阜城)もハッキリと見ることができます。

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墨俣宿脇本陣

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墨俣宿の町並み


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そして、墨俣から4kmほど南下した森部合戦の古戦場にある、前田利家「出世の松

刃傷沙汰を起こして織田家を追放されていた前田利家は、この森部の合戦で「頸取り足立」と恐れられていた斎藤方の将・足立六兵衛を討ち取る活躍を見せ、信長から帰参を許されて300貫の加増を受けました。
その首実検の折に、信長が脱いだ鎧を掛けていたと伝わる松が、昭和30年頃まで残っていたそうです。
(現在の松は平成になってからの植樹)

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薬師堂近くに建つ森部合戦の石碑

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この薬師堂の前で、信長は首実検を行ったと云われています。そう、利家が足立六兵衛の首を信長の実検に供した場所です。
ちなみに六兵衛は、幟にある日比野景直(清実/同じく森部合戦で戦死)の配下でした。

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森部合戦古戦場から見る稲葉山城(岐阜城/写真左奥)。右は長良川の河川敷。
合戦に敗れた斎藤勢は墨俣を越え、あの稲葉山城まで引き上げていったのでした。

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