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2014年7月29日 (火)

村木砦の戦い

織田信長の父・信秀の死後、今川家は沓掛・鳴海・大高の各城を手中に収めて尾張への圧力を強めていきます。
そして織田家と協調関係にあった水野信元(徳川家康の母・於大の兄)の緒川城を攻略するため、その北方、知多半島東岸の入江に突き出した村木岬に砦を築きました。

そうした状況の中、水野信元からの援軍要請を受けた織田信長は天文23年(1554)1月21日、安藤守就率いる美濃からの援軍が到着するや、美濃勢に那古野城の留守を任せて出陣します。
熱田湊から渡海して知多半島西岸に上陸して一泊した後、23日に陸路緒川城へ入城。水野信元の軍勢と合流して翌24日早朝、村木砦攻略に向かったのでした。

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まずは水野家の菩提寺、乾坤院へ。
ちょうど大相撲名古屋場所が行われている時期で、横綱の鶴竜を要する井筒部屋が支度部屋を構えていました。

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乾坤院山門と鐘楼門

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本堂
とても立派で素敵な境内でした。

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水野信元の父・忠政のお墓

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こちらは手前から;
・忠政の子で、兄・信元の死後に家督を継いだ忠守
・忠守の子・忠元
・忠元の子・忠善
の、水野家三代のお墓。
忠政と合わせて四代の墓所が乾坤院境内に静かに佇みます。


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さて、では緒川城址へ向かいます。

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そそり立つように高い土塁が見えてきました。

図1
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緒川城推定復元図

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こちらの石碑、及び説明板は図1で「土塁残存部分」と書かれている土塁の上にあります。

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そのすぐ南側、公園から写真左へ向かって主郭部が築かれていたと推定されています。

『(1月23日、信長は)直ちに小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、爰許の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。』
信長公記首巻 村木の取出攻めらるゝの事より抜粋。以下同)

織田信長が水野信元と会談し、泊った場所…この辺りだったかもしれませんね。

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公園には家康の生母・傳通院於大出生地の石碑もあります。

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緒川城址近くの於大公園には、初代緒川城主・水野貞守から→賢正清忠(前出・忠政の父)の三代の墓所も。


『一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆楯籠り村木の城へ取り懸け、攻めさせられ、』

緒川城に泊った翌24日早朝、いよいよ信長は村木砦攻略へと向かいます。

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村木神社
織田信長が村木砦攻めの本陣と定めた場所です。

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村木神社境内

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村木神社から村木砦方面の眺め。
写真中央、遠くに木がこんもりと繁っている辺りが村木砦址になります。

図2
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村木砦の推定位置

図3
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『北は節所手あきなり。東は大手、西は搦手なり。南は大堀霞むばかり、かめ腹にほり上げ、丈夫に構へ候。』

という信長公記の記述とも一致しています。

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村木砦合戦戦没者を祀る八剱神社境内に建つ村木砦址の石碑

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砦址は現在、JRの線路に分断されています。

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南側の大堀跡越しに見る村木砦

『上総介信長、のかた、攻めにくき所を御請取り候て、御人数付けられ、若武者ども、我劣らじと、のぼり、撞き落されては、又あがり、手負死人其の数を知らず。信長堀端に御座候て、鉄炮にて、狭間三ツ御請取りの由仰せられ、鉄炮取りかへゝゝ放させられ、』

信長が堀端に立ち、砦へ攻めかかる配下の援護射撃の為に鉄砲を取り換えながら次々と撃ち放っていた場所は、或いはこの辺りか・・・。

そして東の大手は水野信元が、西の搦手は信長の叔父・織田信光がそれぞれ受け持ったとのことですが…図2を見ても明らかなように、東の大手口は入江に面した海側。
水野勢はどのように攻めかかったのでしょうか…?水軍のことは一切書かれていないし、北から堀伝いに攻め込んだのかなと思っても『北は節所手あき』とあるし・・・ちょっと謎です。
南からの入江沿いに、大手へのルートがあったのかな?

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村木砦の北西端部分。
この細い路地は堀跡と推定されています。

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そして北東端

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村木砦は入江に突き出た岬に築かれていましたので、東側は奥に見える堤(現JR線路)辺りまで一面海に囲まれていました。

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北東端付近には船付場跡か?!と思しき、長方形の平場が田圃に突き出るような形でありましたが、、、まぁ写真では分かりませんよね…(^_^;)

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南に少し離れた位置から村木砦を望む。
当時はほぼこの路地に沿って、入江の海岸線が迫っていたと思われます。こうして見ると、砦が入江に突き出た岬上に築かれていた様子がイメージし易いかな。

激しく攻め立てさせた結果、午前8時頃から午後5時頃までのおよそ9時間の戦闘で村木砦は降伏し、織田方へ明け渡されます。
信長は見事、今川勢を撃退して援軍の責務を果たした訳ですが、その代償は余りにも大きく;

『信長御小姓衆歴ゝ、其の員を知らざる手負死人、目も当てられぬ有様なり。(中略)御本陣へ御座候て、それもゝゝと御諚なされ、感涙を流させられ候なり。』

本陣(前出の村木神社か)へ戻り、子飼いの兵たちの討ち死にを聞き、
「あいつが死んだのか、あいつもか…」
と言って涙を流したと云います・・・。

このエピソードがあるからこそ、尚更この地を訪れてみたかったのです。

村木砦の処置を水野信元に申し付けた信長は、知多半島西岸の寺本城をも落してから那古野へ帰陣しました。
留守を預かっていた安藤守就は信長の礼を受けた後、美濃へ帰国。主君の斎藤道三へ、信長による村木攻めの様子を報告しました。
それを聞いた道三は;

『すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ』

と述べたと云います。

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