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2014年8月

2014年8月23日 (土)

舟で巡る江戸城の外濠

本日は「お江戸日本橋舟めぐり 神田川コース」を仲間内10人で借り切り、舟から見る江戸城外濠巡りに出掛けてきました。

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発着場所は勿論、日本橋の袂から。


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以前、外濠歩きをした時に使っていた地図を再び。
日本橋からスタートし、常盤橋御門跡を手始めに日本橋川を北西へ進み、神田川に合流してからは東へ→隅田川で南へ進路を変えて永代橋の手前で再び日本橋川に入る時計回りのコースです。

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早速、常盤橋御門跡から。

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外濠に設けられていた諸門の中では、最も残存状態がいいです…が、

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2011年3月11日の東日本大震災以降、常盤橋は通行止めになったままです。
ようやく本格的な修復工事が始まったようですね。石材の位置を記録するラベルがたくさん貼ってあります。完成までにはあと1年半ほどかかるようです。(2014年8月現在)

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濠端に置かれた常盤橋の石材
石を痛めないように木の杭が挟み込まれています。

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更に進みます。この辺りは首都高の橋脚部分を除いて、石垣がよく残されていますね。

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一ツ橋御門
下から見上げると少し迫力が出る?

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神田橋御門
ちょこんと隅石も残っています。

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この辺りもいい感じ。

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雉子橋御門跡付近
意図的に隅石を残してくれたのかな? 奥に見えるのが、現在の雉子橋です。
そして、よく見ると水面に接したタイルが石垣模様になっていたりします。

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雉子橋付近が、江戸城の内濠と外濠が最も接近するポイント
現在は暗渠になって塞がれていますが、往時はここで内外の堀が繋がっていました。
写真は、その部分に架けられていた橋の欄干。ひっそりと残されています。

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堀留橋(図地点)
その名の通り、江戸城の外濠は本来ここまで。この先は1900年代初頭に開削して、神田川と繋げられました。
従って、奥に見える赤い橋の名前は「新川橋」=新しく開削された川に架けられた橋。

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江戸時代には埋め立てられて陸地だった部分。

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日本橋川が神田川と合流する付近、JRの線路が架けられた橋。
明治期の甲武鉄道時代の煉瓦積みが残ります。

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神田川に入って、小石川橋御門跡。

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JR御茶ノ水駅が見えてきた辺り。
この付近一帯の開削は仙台藩伊達家が受け持ったため、仙台濠と呼ばれていました。

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聖橋を潜ります。酷い写真…(^_^;)

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鋼ラーメン橋脚と呼ばれているそうです。

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万世橋と、万世橋駅(停車場)の名残の煉瓦造り。
この付近に、筋違橋御門がありました。

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神田川を暫く進み、屋台船群の奥に浅草橋。
無論、浅草橋御門があった場所です。

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さて、外濠を抜けて隅田川に出ました。両国橋。
隅田川は江戸時代初期、武蔵と下総の国境になっていて、防衛上の理由から橋は架けられていませんでした。
しかし、明暦の大火で逃げ場を失った多くの江戸市民が犠牲になるという惨事があり、それを受けて初めて敷設されました。
武蔵と下総の両国に架かる橋だから「両国橋

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あちらの水門の先に続くのは小名木川
江戸に入った徳川家康が、行徳の塩を江戸に運び入れるために開削させた、いわゆる運河です。

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重要文化財にも指定されている清洲橋越しに見る東京スカイツリ―。

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永代橋越しに佃島

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江戸湊の玄関口、湊橋を潜り、、、

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江戸橋JC付近で複雑に入り組む首都高の橋脚を過ぎると、ゴールの日本橋に至ります。

所要時間およそ1時間45分のゆったりとした舟旅。
陸地からとはまた違った視点で外濠を眺められて楽しかったです。
幹事のなっちさん、ご一緒頂いた皆様、ありがとうございました。

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2014年8月17日 (日)

木曽義仲生誕の地と父・義賢の大蔵館址、他

本日(8/17)はふら~っと埼玉県比企郡嵐山町までドライブ。

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まずは大蔵地区にある向徳寺へ。
国指定重要文化財にもなっている阿弥陀如来及び両脇侍立像、いわゆる善光寺式阿弥陀三尊像を祀っています。

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向徳寺前を通るこの道は、鎌倉街道上道。

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板碑もありました。
そして横の看板にある通り、この辺りは木曽義仲やその父・義賢ゆかりの地でもあります。
特にここ、大蔵地区には義賢が館を構えていました。

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鎌倉街道を少し南下して脇に逸れた場所には、、、その義賢の墓所があります。
ちなみに「帯刀先生」とは、東宮侍従の長を指す職名とのことです。

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木曽義仲の父・源義賢墓所(供養塔)

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埼玉県内に残る五輪塔の中では最古の形式になるそうです。

ところで、義賢墓所の辺りから鎌倉街道を更に南へ少し進むと、こんな↓看板が出てきます。

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縁切橋
征夷大将軍・坂上田村麻呂が軍勢を率いてこの地に滞在していたところ、その身を案じて京から奥方が訪ねてきたと云います。ところが田村麻呂は、
「お上の命で出陣している我が身に、妻女が訪ねるとは何事だ。会わぬ」
と言って、家臣の執り成しにも耳を貸さなかったとか。
翌朝、奥方が京へ戻ろうとしていたところ、田村麻呂はこの坂の下まで来て、
「大命を受けて出陣しているのに追い来るとは何事だ。今より縁を切る。早々に立ち去れ」
と言い放ちました。
それ以来、この場所に架かっていた橋には「縁切橋」の名がつき、土地の人は縁起を担いで新郎新婦を通さなかったと云います。
ちなみに、周辺一帯には「将軍沢」の地名が残ります。

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今はもう橋はなく、ご覧のものが申し訳程度に建っていましたが…(笑)
・・・それにしても、坂上田村麻呂ですよ?!1200年も前の。その伝承地がこうして残っているなんて…だから歴史は楽しい♪

ちなみに鎌倉街道はこの先(南)、笛吹峠に入ります。笛吹峠にも街道の古道がいい感じで残っているらしいので、チャンスがあれば歩いてみたいと思います。


さて、時代を戻して…(笑)
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源義賢が構えた大蔵館の推定範囲図

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大蔵館東面に残る土塁
この外側には空堀っぽい遺構も藪の中に見えていました。

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義賢は1152~3年頃から大蔵館に在していましたが、1155年、兄・義朝の長男、悪源太義平(頼朝の異母兄)に攻められて討たれました。
(大蔵の戦)

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大蔵館跡に建つ大蔵神社
先程の図面で言うと、南西の隅にあたります。

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大蔵神社境内から東の方向。
正面奥の樹木が茂っている辺りが、館跡地の東端(推定)になります。

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境内に残る南西コーナーの土塁

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大蔵神社自体が周辺より高い場所に建っており、或いは物見台の様な場所だったのかも、と思いました。あくまでも私の推測ですが。


さて、次は大蔵地区から西へ1.5km程移動して、同じ嵐山町の鎌形地区へ。

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鎌形八幡神社

源義賢は自らの館を大蔵に構え、こちらの鎌形には下屋敷を築いて小枝御前を住まわせました。
この小枝御前が生んだのが駒王丸、後の木曽(源)義仲です。つまり、鎌形は木曽義仲生誕の地ということになります。

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鎌形八幡神社の手水は湧き水で、木曽義仲の産湯にも使われたとか…
木曽義仲産湯の清水

鎌形で生まれた駒王丸でしたが、父・義賢が悪源太義平に討たれると、畠山重能・斉藤別当実盛らに保護されて木曽へと逃れました
その後の旭将軍と謳われた義仲の活躍と、最期は周知の通りです…。

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こちらは班渓寺

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山門前に木曽義仲公誕生之地

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班渓寺の梵鐘には、、、

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木曽義仲長男清水冠者義高為阿母威徳院殿班渓妙虎大姉所創建也

と刻まれています。(2行目途中~4行目)
つまり、木曽義仲の長男・義高の菩提を弔う為、その母・妙虎大姉(山吹姫/義仲の妻女)がこの班渓寺を創建した、という意味です。

木曽義仲の子・義高は人質として鎌倉の頼朝の元に送られ、頼朝の娘・大姫と婚約していましたが、義仲が義経らの鎌倉軍に討たれると鎌倉を脱出して鎌倉街道を北へ逃れて来ます。が、入間川で追手に捕捉されて11歳とも12歳とも云う幼い命を落としました。

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木曽義仲顕彰碑

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班渓寺で静かに眠る山吹姫のお墓。

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班渓寺のすぐ近く、木曽殿屋敷と呼ばれる場所。
この辺りに義賢が築いて小枝御前を住まわせたと云う下屋敷があったのでしょうか。
竹藪の隙間から、遺構と思しき土塁や空堀のようなものも垣間見えていましたが、フェンスがあって私有地のようでしたので立入は遠慮しました。

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すぐ裏には川が流れ、ちょっとした河岸段丘上といった立地です。

今も華やかな鎌倉の影で、ひっそりと静かな時間が流れる義賢・義仲・義高三代ゆかりの地。
そのあまりに対照的な佇まいに、少し胸を締め付けられる思いもしました。

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2014年8月16日 (土)

宗関寺 (横地監物屋敷跡)

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八王子城跡の麓に建つ宗関寺
元々は延喜17年(917)の創建。荒廃していたものを、北条氏照が八王子城を築く際に堂宇を再建し、牛頭山宗関寺として再興されました。
その後、天正18年の八王子城落城と共に焼失してしまいますが、2年後には寺号を朝遊山宗関寺として再建されています。

氏照によって再建された時の寺地は現在の所在地より少し城山側、氏照の墓所がある付近に建てられており、この場所には当時、氏照の重臣・横地監物の屋敷がありました。

写真に写る門の脇には土塁の様な土盛りが残っており、横地堤と呼ばれています。

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宗関寺の堤とは車道で分断されていますが、こちらも横地堤の名残です。
その手前(左)は八王子城への登城路の名残。現在の車道は真っ直ぐ堤を貫通していますが、当時は堤にぶつかって左に折れ、堤の下を城山川に沿ってお城の方へ向かっていました。
ある意味、根小屋地区への最初の防衛線の役割も担っていたのですね。

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寺関宗

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氏照の重臣だった中山家範(勘解由)の孫で水戸藩家老・中山信治が、氏照の百回忌法要を挙行した際に寄進した梵鐘。
※中山信治のお墓も祖父・家範と共に、氏照のお墓(八王子)の横に寄り添うように建てられています。

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八王子城跡
涼しい季節になったら、またゆっくり登りに来ます。

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2014年8月14日 (木)

近江屋

台風11号に足止めを食らった結果生じた、全く以って予定外の旅の3日目(笑)
この日は基本的に東京へ戻るだけなのですが、折角京都にいることだし、ちょっとだけ散歩しよう・・・

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ってことで訪れた坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地、近江屋

地図
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場所はこちらになります。

慶応3年11月15日、京都河原町の醤油商・近江屋に滞在する坂本龍馬の元へ、陸援隊のリーダーで同じく土佐脱藩の中岡慎太郎が訪れ、種々談判していました。
そこへ夜になって十津川郷士を名乗る刺客が襲い、龍馬はほぼ即死、中岡慎太郎も2日後には息を引き取りました。

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跡地は現在お寿司屋さんになっており、隣は喫茶店。
折角なので私も珈琲をいただきました。龍馬がいた近江屋(跡)で朝の一服(笑)

異変に気付いた近江屋の家人が土佐藩邸へ知らせに走り、谷干城らが駆け付けますが、現場は既に刺客の去った後でした。

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土佐藩邸跡の碑
近江屋からも近く、距離にして100mもないくらいでしょうか。

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更に、近江屋跡と同じ通り沿いには中岡慎太郎寓居跡の碑も。

この時の十津川郷士を名乗った刺客、つまり暗殺犯は佐々木只三郎率いる京都見廻組というのが、現在では確実視されています。
霊山歴史館には龍馬を斬ったと伝わる、見廻組肝煎・桂早之助の脇差も展示されていました。

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そして、霊山護国神社に祀られた坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓。

本当は他にも三条大橋や池田屋跡、古高俊太郎邸址などへも行ったのですが、それらの写真は既に更新済みの別の記事でUPしましたので、ここでは割愛します。
それにしても鴨川に沿った三条から四条の辺りにかけての一帯は特に、幕末~明治の大きなうねりを生んだ多くの歴史事件の現場になっていたのですね。

さて、では東京へ帰ります。
今回も歴旅の記事にお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。

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霊山歴史館♪…と、台風11号の猛威 (;一一)

旅の2日目。
この日、遂に台風11号が日本列島に上陸。近江八幡でも、朝から物凄い風が吹き荒れていました。
もはや東京へ帰ることにのみ集中すべきか…
しかし、どうしても京都で行っておきたい場所がある…

近畿圏の台風のピークは昼頃になりそうとの予報だったので、兎にも角にも電車が動いているうちに京都まで出ておくことにしました。
どうせ帰りの新幹線も京都からだしね。

ところが、いざ京都に着いてみると意外なほど雨風共に強くない。しめた!これなら行ける☆
…という訳で早速、市バスに乗車→「清水道」下車。

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歩きながら、翠紅館跡の前を過ぎ、、、

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ちなみに翠紅館は幕末、三条実美・桂小五郎(木戸孝允)・坂本龍馬ら志士たちの会合の場所となっていました。
文久3年1月27日にも土佐の武市半平太、長州の久坂玄瑞・井上聞多ら多数が集まり、更に同年6月17日には桂小五郎(長州)、真木和泉(久留米)ら各藩の代表が集まって攘夷・討幕の方策を検討した翠紅館会議でも有名です。

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目的の場所に到着!霊山歴史館

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実は(2014年)9月7日まで、ご覧の企画展「新選組 京を駆ける」が開催されており、どうしても観ておきたかったのです。
※私、正面のガラス扉に写り込んでますね…(;^ω^)

齊藤一」の名が載っていて、新発見史料として最近騒がれている「警視庁第六方面第二署名簿」も観てきましたよ。
名簿に載っている人物が、警視庁時代には既に「藤田五郎」を名乗っていた筈の新選組・斎藤一本人を指しているのかどうかは分かりませんが…(;・∀・)

その他の展示は、島田魁関連の史料が割と多かった印象かな。
土方歳三関連(主に書状)は複製が多く、いつも本物を日野で拝見している身としては新鮮味はなかった…(^_^;)

でも、坂本龍馬を近江屋で斬った刀とも伝えられる見廻組肝煎・桂早之助の脇差も観れたし、楽しかった♪

徐々に強まる雨風の中、取り急ぎ坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓にもお参りしました。

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その墓前から、台風11号が迫る京都の街並・・・

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御陵衛士の屯所だった高台寺月真院・・・日曜なのに人がいない(笑)

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雨に濡れる京の路地・・・

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新選組、池田屋事件への集結地・祇園会所跡

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祇園界隈も、さすがにこの日は閑散として・・・

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濁流と化した鴨川に抗う三条大橋
この時点で天候は最早、完全な暴風雨。さすがにこれ以上は歩き回れないと判断し、新幹線の時間までは少し早いけど京都駅へ戻ることにしました。
すると・・・

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新幹線は軒並み2時間以上の遅れ、在来線に至っては京都駅発着のJRは全て運転見合わせ!!

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券売機も全て停止。

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みどりの窓口に長蛇の列を作る人々・・・
床が濡れているのは雨漏りのせいです。霧吹き状に雨水が飛び散っていました。。。

立ち往生する利用客で駅は混乱し、一体あと何時間待てば自分の予約している新幹線が発車できるのかも検討がつかない・・・。
様々に考えを巡らせた挙句、安い宿も確保できたので延泊して台風(とそれに伴う混乱)をやり過ごすことにしました…(^_^;)

午後3時にチェックインした後は、ひたすらズブ濡れになった靴や服を乾かすことに専念する日曜の夕方、となりました…(苦笑)

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永原御殿 -徳川三代の御茶屋御殿-

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永原御殿跡(野洲市)に到着。
江戸時代初期、家康・秀忠・家光の将軍三代上洛時の休憩・宿泊所として築かれた御茶屋御殿です。
御殿とは言っても、そこは権勢を欲しいままにした徳川三代。本丸・二之丸・三之丸から成り、堅固な堀や土塁を廻らせた豪壮な城郭建築でした。
ところが、家光の上洛を最後に幕末の十四代将軍・家茂の時まで徳川将軍の上洛は途絶え、役目を失った永原御殿は次第に荒れ果て、現在ではご覧のような藪と化してしまいました。

図面
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永原御殿の図面
現在地と書かれたポイントから三之丸二ノ丸の間を抜け、時計回りに二ノ丸本丸の外側から観ていきます。

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図面に緑のラインをひいたポイント。
この舗装路の形がそのまま堀のラインを象っていました。右の田圃は堀跡となります。

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藪(樹木)の切れ目を境に、左が二之丸で右は本丸。
訪問時は伸びた稲でよく見えませんでしたが、本丸側には石垣も一部残っています。

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ほら、稲が刈り取られている状態の写真を見ると一目瞭然☆
(図面1ポイント/写真提供:あっぴん。さん)

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図面2からの方向を見た様子。
右が二之丸で左は本丸、間の切れ目はお堀でした。

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図面3の堀跡
ここも稲刈り後であれば結構、分かり易いんじゃないかな。地表面にはっきりと堀の痕跡が窺えます。

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全く整備の手が入っていない現状で、本丸や二之丸跡には足を踏み入れることも叶いませんが、あの藪の中には結構状態の良い遺構が眠っているんじゃないかな?と期待を抱かせるものがありました。
(三之丸跡には住宅が数軒建っています)

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近くにある銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)には、永原御殿の立派なジオラマが展示されています。
全体像や規模が分かり易いので、御殿跡訪問前に見学しておくことをお勧めします♪

ところで、この永原の地は織田信長にも関わりがあります。
元亀元年四月、朝倉攻めの最中に妹婿で同盟者の浅井長政の裏切りに遭い、即座に京へ撤退した「金ヶ崎の退き口」の直後、信長は京⇔岐阜間の連絡路確保のため、永原に佐久間信盛を配しているのです。

これにて初日の行程は終了。
この後は近江八幡で軽く食事した後、あっぴん。さんと別れてホテルにチェックイン。
あっぴん。さん、今回もお世話になりました。ありがとうございます♪

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2014年8月13日 (水)

金ヶ森御坊と蓮生寺

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滋賀県守山市金森町にある金ヶ森御坊
戦国期には近江南部の一向衆徒の拠点となっており、近くの蓮生寺(三宅城)とも連携して城郭としての機能も有した造りに整えられ、元亀2年には織田軍とも戦っています。

『(元亀二年)九月三日、常楽寺へ御出で、御滞留ありて、一揆楯籠る金ヶ森取り詰め、四方の作毛悉く苅田に仰せつけらる。しゝがき結ひまはし、諸口相支へ、取籠めをかせられ候ところ、御詫言申し、人質進上の間、宥免なされ、』

(信長公記 巻四 志むら攻め干さるゝの事)

元亀2年9月3日、信長の命を受けた佐久間信盛率いる織田軍は金ヶ森の一向衆拠点に迫り、周囲の稲を刈り取って鹿垣を結い回し、一向一揆勢を厳重に包囲します。
これを見た一向衆側は降伏を申し出て人質を差し出し、信長も比叡山焼き討ちの直前だったためにそちらを優先して降伏を受け入れ、戦闘は終結しました。

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現在では特にこれと言って城郭としての遺構は見当たりませんが、お寺の周囲を巡る路地はこの通り石垣が埋もれたようになっており、恐らくこれは堀の名残でしょう。

ところで、信長の武将で飛騨高山城主となる金森長近も出身地である美濃を追われた後にこの地で過ごし、それがために元の大畑姓から金森に名乗りを変えています。


続いて前出の蓮生寺へ。
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金ヶ森御坊の出城のような存在だったとか。

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こちらには結構、遺構も残っています。
ご覧のような土塁や、、、

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内堀を供えたような土塁も。

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無論、この土塁の外側にも堀の痕跡が。

この戦いから半年後の元亀3年正月、一向一揆勢は再び蜂起しますが、織田軍は金森周辺の村々から一揆勢に加担しない旨を誓約させた起請文(元亀の起請文)を集めて金森を封鎖します。
結局、一揆勢は半年ほどで陥落し、同年9月には信長から楽市楽座の制札が出され、金森は織田支配下の宿駅・市場としての性質を持つ集落になったと云います。

静かな集落にひっそりと佇むお寺にもこうして歴史の痕跡が今猶しっかり刻まれている近江…素敵ですね。

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古高俊太郎と池田屋事件の関連地

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滋賀県守山市古高町、福寿院境内に建つ古高俊太郎顕彰碑
父が大津代官の手代を勤めていたこともあり、俊太郎自身は大津で生まれたとも云われていますが、古高家は代々この古高郷を領する郷士でした。
長じて京都へ上り、養子として枡屋を継いで枡屋喜右衛門(七代目)を名乗り、長州系の志士と倒幕派公卿らの橋渡しをするなど、彼らを支援する働きを見せました。

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京都四条小橋真町、古高俊太郎邸址

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ここに枡屋がありました。

元治元年六月五日の朝、突如として新選組に踏み込まれ、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎は連行されます。
俊太郎を屯所である壬生の前川邸で拷問にかけ、その口から倒幕派志士たちの恐ろしい計画のあることを知った新選組は直ちに会津藩にも諮り、当日の夜に祇園会所に集結して市内探索に出動します。
これが有名な「池田屋事件」の端緒となったのでした。。。

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当時の位置関係図
こうして見ると、古高邸と池田屋は目と鼻の先だったのですね。

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古高奪還を狙う倒幕派志士らが集い、新選組の近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助が踏み込んだ三条小橋の池田屋址。

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三条小橋

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三条大橋

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三条大橋の擬宝珠に残る刀疵
一説に、池田屋事件の際につけられたものとも云われているようですが…それはどうでしょうか。
それならむしろ、三条制札事件の時の方が可能性が高いようにも思えます。

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ちなみに制札場は三条大橋西詰、あのスタバ付近に設けられていました。

近江の古高郷、古高俊太郎顕彰碑を訪れた筈なのにすっかり京都・池田屋事件巡りみたいになってしまいました…(^_^;)

次は再び時代を戦国へ移し、近江一向一揆の拠点へ向かいます。

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草津宿本陣

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東海道五十三次の52番目、草津宿本陣へやってきました。

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それにしても、この雨…(;・∀・)
台風11号接近中とはいえ、何もここまで降らなくても・・・。

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しかし、さすがは京の都を前にして東海道中山道二大街道が合流する宿場町、草津。
その本陣の規模も見事なものでした。

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上段の間

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ところで今回、草津宿本陣を訪れた一番の目的はこちらの大福帳(歴代当主が利用者名や下賜金、奉公人への給金の事などを記録したもの)です。
※実物は撮影できないのでパンフより

慶応元年(1865)、江戸での新規隊士募集を終えて京に戻る途中だった新選組の面々が泊った時の記録です。

一 新選組
   土方   歳三様
   斎藤     一様
   伊東甲子太郎様
   藤堂   平助様
右上下三拾弐人弐百五拾文宛

・・・云々(以下、暗記し切れずww)

とあります。

その他、会津藩主・松平容保も京都守護職として上洛する際に休憩で利用していますし、十四代将軍家茂に嫁ぐ皇女和宮、徳川慶喜、天璋院篤姫、シーボルトなど、錚々たる面々が利用しています。
面白いところでは、忠臣蔵で有名な松之廊下事件が起きる2年前、当事者の浅野内匠頭と吉良上野介が僅か9日違いで利用した記録も残っているそうです。

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本陣の裏手に回ると、土塁や堀のようなものがまだ残っていました。
(御除ヶ門周辺)

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そして、ここが東海道と中山道が合流する地点
左のトンネルの先が中山道で、右が東海道。真ん中に追分の道標。

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江戸時代の図会に描かれた追分。
現在はトンネルになっている中山道も、当時は堤を越えて渡っていた様子が分かります。

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追分の道標
左 中仙道みのぢ
右 東海道いせみち

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図会とは微妙に位置が違う気もしますが、高札場も再現されています。

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追分の真ん中には、こんな素敵なマンホールも♪

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こちらも草津のマンホール。道標ですね。

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脇本陣跡に建つお店の名は…☆

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草津宿街道交流館
最後にこちらにも立ち寄りました。

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2014年8月12日 (火)

山中の猿 -織田信長の慈悲-

四国・近畿地方が台風11号の猛威に震えた8月9~10日の週末、予報と睨めっこしながら散々に迷ったものの意を決し、近江~京都への旅へ出かけました。

※本来であれば今回の旅の一番の目的は、安土城跡で9日夜に行われる筈だったライトアップ・イベント「安土城盂蘭盆会」でしたが、台風接近の影響で出発前日の8日には中止が決定していました…。
残念ですが致し方ありません。盂蘭盆会は来年必ずリベンジします!

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8月9日の午前10時30分、この日いろいろと案内していただくあっぴん。さんとの待ち合わせ場所である関ヶ原に到着。
でも、今回は関ケ原合戦陣跡巡りはしません。で、まず向かった先は・・・

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山中宿
関ケ原合戦時における大谷吉継陣跡のすぐ裏手にあります。

以下「信長公記 巻八 山中の猿御憐愍の事」より抜粋
※巻八は天正3年(1575)

美濃国と近江の境に、山中と云ふ処あり。道のほとりに、頑者雨露にうたれ、乞食して居たり。京都御上り下りに御覧じ、余りに不便におぼしめし、総別、乞食は住所不定なるに、此の者は、何もかはらず、爰にある事、如何様の子細あるべきと、或る時、御不審を立てられ、在所の者に御尋ねあり。』

美濃と近江の境に位置するここ、山中(地名)の道端に、障がいを持った乞食がいました。
本国美濃(天正3年当時)と京都を往復する度にこの乞食を見かけて不憫に思い、
「本来、乞食とは住所不定なはずなのに、この者はいつも変わらずこの同じ場所にいるのは何故か?」
と不審に思った織田信長は、土地の人間に問い質します。
問われた土地の者はその由来について、こう答えます;

『昔、当所、山中の宿にて、常盤御前を殺し奉り侯。其の因果に依つて、先祖の者、代々頑者と生まれて、あの如く乞食仕り候。山中の猿とは、此の者の事なり』

「昔、ここ山中宿にて乞食の先祖が常盤御前を殺してしまいました。その因果により、子孫の者は代々障がい者として生まれて、あのように乞食となっているのです。“山中の猿”とはこの者の事です」

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山中宿には常盤御前のお墓が、今もこうして街道脇に静かに佇みます。
常盤御前とは言わずと知れた、源義経(牛若)の生母。
鞍馬を抜け出し、東国へ走った牛若の後を追った常盤御前は山中の地で土賊に襲われ、
「牛若がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈、その折には是非道端から見守ってやりたい」
と言い残し、息を引き取ってしまいました。
哀れに思った山中の住人は遺言通り、道端に塚を築いて手厚く葬ったのだとか・・・。
あくまでも土地の伝承ですが、この時の土賊が「山中の猿」の先祖ということになるのですね。

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こちらは常盤地蔵
同じく常盤御前を供養するために置かれました。


同年(天正3年)6月26日、信長は俄かに上洛します。その途次、件の乞食の事を思い出し、木綿20反を取り出して自ら手に持つと、山中宿にて馬を下り、「申し付けることがある」からと言って、土地の人間を男女の別なく全員呼び出します。
村人たちが「一体何を言い付けられるのだろう」と不安に思いながら出ていくと;

『木締廿端、乞食の猿に下され侯。所の者ども請け取り、此の半分を以て、隣家に小屋をさし、飢死せざる様に情を懸けて置き侯へと、上意侯。其の上、此の隣郷の者ども、麦出来侯はゞ麦を一度、秋後には米を一度、一年に二度づつ、毎年心落に少し宛とらせ侯はゞ、信長御祝着なさるべしと、仰せ出ださる。』

木綿20反を山中の猿に差し下し、土地の者たちへ預けました。そして、
「この木綿の半分を費用に充て、近くに小屋を建てて山中の猿を住まわせ、餓死しないように面倒を見てやれ。
近隣の村の者は麦の収穫があれば麦を一度、秋の収穫後には米を一度、年に二度少しずつ山中の猿に与えてくれれば、信長も嬉しく思う
と伝えたのです。

『忝さの余りに、乞食の猿が事は、云ふに及ばず、山中町中の男女、袖をしぼらぬ者もなし。御伴の上下、皆落涙なり。御伴衆何れもゝゝゝ御扶持を加へられ、有り難き仕合せ、申すぱかりもなき様体なり。』

信長の慈悲深さに感激したお供の連中までもが、山中の猿への施しを拠出したのでした。
これもまた、「人間・信長」の素の姿が垣間見えるエピソードですね。

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山中宿から近江、京へと続く道。
上洛の都度、彼の織田信長が間違いなく通っていた道。
そういえば、この日も「雨露にうたれ」る風情。。。

いつまでもこの情景が失われることの無いよう、祈らずにはいられません。


さて、山中宿の後は次の目的地への移動がてら、野洲市の「鮎屋の郷」で昼食を摂りつつ、こちら、、、

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敷地内にあるびわ湖アートギャラリーで開催されている大甲冑展へ。
織田信長が長篠合戦の際に用いたとも伝わる南蛮兜も展示されていました。
こちらで展示されていたものは、一般的によく知られる「とんがり帽子型」(南蛮笠形兜)ではなく、もっと丈の低い「ハット型」でしたね。

その他では村上武吉の甲冑が印象的でした。

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2014年8月 6日 (水)

夏ボン☆

当初の冷夏予報も何処へやら・・・暑い日が続きますね…(^_^;)
我が家には居間にしかエアコンが無い為、夜も寝苦しい日々が続きます。

その唯一のエアコン、それも実は愛犬・ボンの為だったりしますww

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エアコンが入っていないとご覧の通り…ヘバッてます(笑)
暑さに弱いからねぇ…(^_^;)

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夏の間は大抵、こんな顔してる。
表情がキリッと締まるのは、、、ご飯の時くらい(笑)

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暑さで口を開けた状態の彼のことを、我が家では“夏ボン”と呼んでいます♪
(エアコン入れてる筈なんだけど・・・?)

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昨年来痛めている右後肢の十字靱帯は相変わらず。
手術回避の為、これからも騙し騙し何とかやっていきます。

そんな満11歳の夏。

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2014年8月 2日 (土)

織田信長書状 おね宛

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1泊2日の旅の締め括りは徳川美術館へ。
目当てはこちら、、、

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企画展示「天下統一 ― 信長から家康へ ―」です。
2014年7月26日~9月28日までの開催で、主に信長・秀吉・家康の尾張・三河時代から大坂の陣にかけての貴重な品々が展示されています。

中でも個人的には;

・徳川家康三方ヶ原戦役画像 (所謂「しかみ像」)
・桶狭間之図(桶狹間古戦場図)
・長篠合戦図屏風
・唐物茶壺 銘「松花」(大名物)
・唐草文染付茶碗 銘「荒木」(大名物)
・「安土記」(信長公記の内、巻十五部分のみのもの)
・大坂首帳
(「真田左衛門佐」と討ち取った「西尾仁左衛門」の名が見える)

などが印象に残っていますが、何と言っても一番感動したのは;

織田信長書状 おね宛(羽柴秀吉室杉原氏宛消息)

です!!
今回の企画展示に合わせて急遽特別出品が決まった品で、公開は実に7年ぶり。

信長への御機嫌伺いの挨拶で安土城へ参上した折り、夫・秀吉の女好きを嘆いて愚痴をこぼしたおねに宛てて、謁見後に信長が送った手紙です。内容は;

おほせのことくこんとハこのちへ
はしめてこし けさんニいり
しうちやくに候 ことニミやけ
色ゝゝうつくしさ中ゝゝ
めにもあまり ふてにもつくし
かたく候 しうきハかりニ この
はうよりもやらんと思ひ
候へハ そのはうより見事なる
物もたせ候あひたへちに心さし
なくのまゝ まつゝゝこのたひハ
とゝめまいらせ候 かさねてまいり
のとき それにしたかふへく候
なかんつくそれのミめふり かたち
まて いつそやミまいらせ候折ふしよりハ
十の物廿ほともミあけ候 藤きちらう
れんゝゝふそくのむね申のよし
こん五たうたんくせ事候か いつ
かたをあひたつね候とも それさまほとのハ
又二たひかのはげねすミあひ
もとめかたきあひたこれよりいこハ
みもちをようくわいになし いかにも
かミさまなりにおもゝゝしく
りんきなとにたち入候てハ しかるへ
からす候 たゝしをんなのやくにて候
あひた申ものゝ申さぬなりにもて
なし しかるへく候 なをふんていに
はしハにはいけんこひねかふ
ものなり 又々かしく

藤きちらう
  をんなとも      のふ

この度は安土へ初めて参り、会いに来てくれて嬉しく思う。殊に様々な土産物の美しさは中々目にも余り、筆にも尽くし難いほどである。こちらからも何か遣わそうと思ってはいるのだが、その方よりも見事な物を持たせてやるにも特にこれと言ってなく、まずまずこの度は止めておこうと思う。次に来た時には用意しておこう。
さて、そなたは前に会った時よりも遙かに綺麗になっている。そなたのように美しい女房を持ちながら、藤吉郎はしきりに不足を申しているようだが言語道断である。何を考えているのか。何処を捜してもそなたほどの者を二度と再び、かのはげねずみ(禿鼠)が女房に求めることなど難しいであろう。だからそなたも、これより以降は身持ちを明るくしていかにも正室らしく重々しく構え、嫉妬がましい態度は取らないようにしなさい。
なお、この手紙は藤吉郎にも見せるようにお願いする。 
                                           のふ


といったもの。女性向けに書かれているので、かな文字主体の文面です。
第六天魔王とも恐れられた(自分で名乗ったんだけどw)信長の、知られざる素顔が垣間見えるようで微笑ましくもあります。
しかも実際に書状を拝見すると、書き出しはゆったりと大きな字で行間をしっかり空けて書いているのに、徐々に狭まっていきます。…紙幅が足りなくなってきたんでしょうね(笑)
また、基本的に濁点は使用していないのに、秀吉のことをはげねすミと呼ぶ時にだけ、「げ」に濁点が付いている辺りにも、一人ツボにハマりました(笑)

もう感激しきり。
企画展示に限らず、常設展示の方もさすがのボリュームで見応えありました。

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美術館横には尾張徳川家の蔵書など古典籍を蔵する蓬左文庫
とても貴重な蔵書の数々が、何と閲覧無料!

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最後に徳川園を散策して、今回の旅も終わり。
たったの2日間でも、織田信長公の歴史に多く触れることが出来て充実しました。

毎度のことながら車を出して案内してくれたり、津島天王祭の桟敷席を予約してくれたり、宴会用の食事を用意してくれたり、、、歴友さんたちにはお世話になりっ放しです。
今回も本当にありがとうございました♪

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2014年8月 1日 (金)

蛇がえの事(蛇池)

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名古屋市西区にある蛇池公園

『一、爰に希異の事あり。尾州国中、清洲より五十町東、佐々蔵人佐居城、比良の城の東、北南ヘ長き大堤これある内、西にあまが池とて、おそろしき蛇池と申し伝へたるいけあり。又、堤より外、東は三十町計り、へいゝゝとしたる葭原なり。』
(信長公記首巻 蛇がえの事)

ある時、安食村福徳の郷の又左衛門という男が雨の降る夕暮れ時に堤を通りかかると、太さが一抱えもある黒いものを目にしました。その胴体は堤の上にあり、首は堤から伸びてあまが池に達しようかという長さで、人の足音を聞いて首をもたげました。
その風体たるや;

『つらは、鹿のつらの如くなり。眼は星の如く光りかゞやく。舌を出だしたるは、紅の如くにて、手をひらきたる如くなり。』

といったものだったとか。
噂はすぐに広がり、織田信長の耳にも達します。信長は又左衛門を呼び出し、直にその時の様子をつぶさに聞くと;
蛇がえをする」
と触れ出し、近在の村々から人を集めて池の水を掻き出させました。

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4時間ほど作業を続けさせますが、池の水量は7割くらいまでしか減りません。

そこで信長、
「池に入って蛇がいるか確かめる」
と言い出し、脇差を口にくわえて池に潜ってしまいます。

暫く水中で探していましたが、なかなか蛇らしきものは見当たりません。
今度は鵜左衛門という、水連達者の者にも池に入らせて探させますが、やはり見つかりません。

自らの目で確かめて「やはりそんな化け物のような蛇などいなかったのだ」と納得したのでしょうか、信長はさっさと清州へ引き上げていったのでした。

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蛇池の東にあり、又左衛門が見たという大蛇の胴体が乗っていたという堤も残っていました。


実はこの時期、蛇池近くの比良城主・佐々成政に謀反の風説が流れており、蛇がえの時は病と称して城に籠っていましたが、これは;
「蛇がえにかこつけて信長様は、この比良城が小さいながらもいい城だと聞いたので城見物をすると称して乗り込み、私に詰め腹を切らせる魂胆ではないか」
と勘繰っていたためでした。

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その比良城跡。現在は光通寺というお寺になっています。

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墓地の片隅には、ご覧の石碑も。

成政の不安を聞いた家臣が;
「信長が来たら舟遊びに誘い出し、忍ばせておいた脇差で刺し殺した後、組み付いて川に引きずり込むからご安心ください」
と言上し、いざとなれば信長を暗殺する計画を立てて待ち受けましたが、結果的に蛇がえに拍子抜けした?信長は蛇池(あまが池)から真っ直ぐに帰ったので、事なきを得たのでした。。。

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