金ヶ森御坊と蓮生寺
滋賀県守山市金森町にある金ヶ森御坊
戦国期には近江南部の一向衆徒の拠点となっており、近くの蓮生寺(三宅城)とも連携して城郭としての機能も有した造りに整えられ、元亀2年には織田軍とも戦っています。
『(元亀二年)九月三日、常楽寺へ御出で、御滞留ありて、一揆楯籠る金ヶ森取り詰め、四方の作毛悉く苅田に仰せつけらる。しゝがき結ひまはし、諸口相支へ、取籠めをかせられ候ところ、御詫言申し、人質進上の間、宥免なされ、』
(信長公記 巻四 志むら攻め干さるゝの事)
元亀2年9月3日、信長の命を受けた佐久間信盛率いる織田軍は金ヶ森の一向衆拠点に迫り、周囲の稲を刈り取って鹿垣を結い回し、一向一揆勢を厳重に包囲します。
これを見た一向衆側は降伏を申し出て人質を差し出し、信長も比叡山焼き討ちの直前だったためにそちらを優先して降伏を受け入れ、戦闘は終結しました。
現在では特にこれと言って城郭としての遺構は見当たりませんが、お寺の周囲を巡る路地はこの通り石垣が埋もれたようになっており、恐らくこれは堀の名残でしょう。
ところで、信長の武将で飛騨高山城主となる金森長近も出身地である美濃を追われた後にこの地で過ごし、それがために元の大畑姓から金森に名乗りを変えています。
続いて前出の蓮生寺へ。
金ヶ森御坊の出城のような存在だったとか。
こちらには結構、遺構も残っています。
ご覧のような土塁や、、、
内堀を供えたような土塁も。
無論、この土塁の外側にも堀の痕跡が。
この戦いから半年後の元亀3年正月、一向一揆勢は再び蜂起しますが、織田軍は金森周辺の村々から一揆勢に加担しない旨を誓約させた起請文(元亀の起請文)を集めて金森を封鎖します。
結局、一揆勢は半年ほどで陥落し、同年9月には信長から楽市楽座の制札が出され、金森は織田支配下の宿駅・市場としての性質を持つ集落になったと云います。
静かな集落にひっそりと佇むお寺にもこうして歴史の痕跡が今猶しっかり刻まれている近江…素敵ですね。
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